仙牧 新⬆旧⬇
腕の中で捕まえていたと思っていた温もりがするりと抜け出してしまう感覚で、仙道彰の意識は微睡みから引き戻された。
徐々に覚醒していく意識の中、洗面台でバシャバシャと跳ねる水音や、洗濯機が回り始める機械音、ベッドの近くでもぞもぞと服をみにつける衣擦れの音が暫く遠くに聞こえていた。
仙道は目は瞑ったまま、腕の中にいた彼が、今どんな行動をしているのかを想像して、幸せとはこういうことなのだろうなのだろうな、と噛み締める。布団に鼻先を突っ込んで大きく息を吸い込むと、甘く感じる彼の残り香が鼻腔まで届いて、多幸感に包まれた。
くふふと喉の奥から笑いが漏れて慌てて笑いを噛み殺すのに必死になった。
まだ目は開けたくない。だってまだ自分自身が到底信じられていない夢の中にいるような心地なのだから。
もしかしたら本当に夢だったのかもしれない。
そう言われてしまえば、すんなりと信じてしまうだろう。だって、もともと他校の先輩で、年上で、最高にバスケが上手くて、でもバスケから離れると案外天然で少し抜けているところもあって。そんな魅力の詰まった憧れなんて言葉じゃ到底足りないようなあの人と昨日……──。
『……お前無理してんじゃないのか?』
ベッドに横たわり、牧が着ていたシャツのボタンをひとつずつ外していた時、されるがままになっていた男がそんなことを言ったので、仙道はムッと眉を寄せた。
『無理ってなんなんです? 俺が義理であんたを抱くとでも?』
ついキツイ口調になってしまう。
ボタンにかかったままの指が興奮で震えて、ともすれば引きちぎってしまいそうだった。
『お前、男を抱いたことはないんだろう? 女とは全然勝手も違うだろうし、実際に男身体なんて見たら、その、萎えるかも……』
しかしそんな仙道の機微にも気が付かず、はっきりと物を申す男にしては珍しく、歯切れ悪くそんなことを言うものだから、仙道は怒りを引っ込め、思わず目の前の身体を抱き込んだ。
胸に抱き込んだその身体が僅かに震えているのを直に感じて、柄にもなく目の前の男が緊張しているのだと知り、気分は途端に上を向く。
牧なりの気遣いでもあったのだろうが、この人の最後の心の整理のための言葉だったのだと思い知り、仙道は『俺は、あんたを、抱くんです』と実にはっきりと言い放った。すると抱き込んだ男はそれきり沈黙してしまう。
『──くそ、俺の方がウエイトはあったのに』
ややあって返ってきた言葉は、苦し紛れの言い訳のようだった。
『そりゃあ、あんたに食らいつくために死ぬ気で努力しましたから』
『……背ばっかり高いひょろひょろのモヤシみたいだったくせに』
『今はもうがっつり鍛えてますらから。あんた抱えて階段だって上がれます』
ヤケクソのような男の言葉にすげなく返すと、男は暫く仙道の胸に顔を埋めたままあーだとかうーだとか何やら唸っていたが、少しして、ゆるりと背中に両手が廻りゆっくりと抱きしめ返される。
分かりにくい降参の印に、薄く水の膜が張った蜂蜜みたいな瞳がこちらを見上げていることに気がついて『まだ何か言うことってありますか?』と煽ってやれば、『ねぇよバカ』と罵倒されてしまった。
『ちくしょう。こんなイイ男に抱かれんのかよ』
『あんたこそ特上のイイ男でしょうに』
『勿体ねぇな』
『それはあんたが気にすることじゃないですよ』
軽口を返しあうと蜂蜜色の瞳がふわりと緩んで『でも今のお前を形作ってる瞬間を、俺は全部知ってるってのは──気分がいいな』などと返されてしまえば、今度は仙道が目を丸くして赤面して唸ることしか出来なかった。
『──牧さん、今から貴方を抱きますから』
だから覚悟して、と苦し紛れに真面目くさって宣言すれば、瞳をまん丸にしてきょとんとした彼が破顔する。
そうしてちょいちょいと手招きされて牧に顔を近づけると、不意打ちのように『お前の好きなようにしろよ』と吹き込まれたのだった。
そう。例え「あれは夢だ」と言われてもそうなのかもしれないと思うほど、あの時の彼は凄かった。仙道はそんなことを思い返しながら、もうおそらく一生頭に灼き付いてしまって離れないであろう記憶を辿る。もちろんそのあとの行為も込みで、だ。
ずっと見てきたあの人の、あんな可愛らしくエロくてそうしてどこか優越感に浸ったような満足気な顔を見たのは初めてで、何もしておらずとも自分がニヤケてしまうのが分かった。
ペタペタと仙道がまだいるベッドの傍を、牧が歩き回って掃き出し窓を開ける開閉音が静かに響いた。
その瞬間、冬の朝の冷えた空気が入り込んで仙道は「寒い、酷い」呻きながら、手足を亀のごとく布団に引っ込ませて防御する。
すると、その様子を見ていたのか「何が酷いだ。いい加減起きろ」と声をかけられ、ベッドのスプリングがぐっと揺れた。
牧が仙道のすぐ側に座ったのがわかったが、まだ昨日の余韻を手放しがたくて目は開けない。
「仙道? 具合でも悪いのか?」
決まり悪くて返事をせずに寝たフリをしていると、ふにゃりと垂れたままの前髪を払われる。昨日はそこそこ抱き潰したと思っていた相手に気遣われ、どうしようかと迷っていると、さらにぎぃとスプリングが沈む音がした。
「おい」
牧が身を寄せ、気配が近づく。耳を軽く引かれた。吐息がかかる。
「なぁ起きろ、──彰」
まるで昨夜のデジャヴだった。
ギャ、と実に色気のない声を上げて、びっくりして目を開けると、仙道の目の前で牧は清々しい会心の笑みを浮かべていた。
「まきさん、まって、あ、あの……今…」
「おはよう、仙道 。お前今日試合だろうが。さっさと支度しろ」
そう言って言い訳さえもさせてくれずに颯爽とキッチンに向かってしまった男に、やっぱりこの人には敵わないと思いながら、仙道は心の底からのため息を吐き出したのだった。
徐々に覚醒していく意識の中、洗面台でバシャバシャと跳ねる水音や、洗濯機が回り始める機械音、ベッドの近くでもぞもぞと服をみにつける衣擦れの音が暫く遠くに聞こえていた。
仙道は目は瞑ったまま、腕の中にいた彼が、今どんな行動をしているのかを想像して、幸せとはこういうことなのだろうなのだろうな、と噛み締める。布団に鼻先を突っ込んで大きく息を吸い込むと、甘く感じる彼の残り香が鼻腔まで届いて、多幸感に包まれた。
くふふと喉の奥から笑いが漏れて慌てて笑いを噛み殺すのに必死になった。
まだ目は開けたくない。だってまだ自分自身が到底信じられていない夢の中にいるような心地なのだから。
もしかしたら本当に夢だったのかもしれない。
そう言われてしまえば、すんなりと信じてしまうだろう。だって、もともと他校の先輩で、年上で、最高にバスケが上手くて、でもバスケから離れると案外天然で少し抜けているところもあって。そんな魅力の詰まった憧れなんて言葉じゃ到底足りないようなあの人と昨日……──。
『……お前無理してんじゃないのか?』
ベッドに横たわり、牧が着ていたシャツのボタンをひとつずつ外していた時、されるがままになっていた男がそんなことを言ったので、仙道はムッと眉を寄せた。
『無理ってなんなんです? 俺が義理であんたを抱くとでも?』
ついキツイ口調になってしまう。
ボタンにかかったままの指が興奮で震えて、ともすれば引きちぎってしまいそうだった。
『お前、男を抱いたことはないんだろう? 女とは全然勝手も違うだろうし、実際に男身体なんて見たら、その、萎えるかも……』
しかしそんな仙道の機微にも気が付かず、はっきりと物を申す男にしては珍しく、歯切れ悪くそんなことを言うものだから、仙道は怒りを引っ込め、思わず目の前の身体を抱き込んだ。
胸に抱き込んだその身体が僅かに震えているのを直に感じて、柄にもなく目の前の男が緊張しているのだと知り、気分は途端に上を向く。
牧なりの気遣いでもあったのだろうが、この人の最後の心の整理のための言葉だったのだと思い知り、仙道は『俺は、あんたを、抱くんです』と実にはっきりと言い放った。すると抱き込んだ男はそれきり沈黙してしまう。
『──くそ、俺の方がウエイトはあったのに』
ややあって返ってきた言葉は、苦し紛れの言い訳のようだった。
『そりゃあ、あんたに食らいつくために死ぬ気で努力しましたから』
『……背ばっかり高いひょろひょろのモヤシみたいだったくせに』
『今はもうがっつり鍛えてますらから。あんた抱えて階段だって上がれます』
ヤケクソのような男の言葉にすげなく返すと、男は暫く仙道の胸に顔を埋めたままあーだとかうーだとか何やら唸っていたが、少しして、ゆるりと背中に両手が廻りゆっくりと抱きしめ返される。
分かりにくい降参の印に、薄く水の膜が張った蜂蜜みたいな瞳がこちらを見上げていることに気がついて『まだ何か言うことってありますか?』と煽ってやれば、『ねぇよバカ』と罵倒されてしまった。
『ちくしょう。こんなイイ男に抱かれんのかよ』
『あんたこそ特上のイイ男でしょうに』
『勿体ねぇな』
『それはあんたが気にすることじゃないですよ』
軽口を返しあうと蜂蜜色の瞳がふわりと緩んで『でも今のお前を形作ってる瞬間を、俺は全部知ってるってのは──気分がいいな』などと返されてしまえば、今度は仙道が目を丸くして赤面して唸ることしか出来なかった。
『──牧さん、今から貴方を抱きますから』
だから覚悟して、と苦し紛れに真面目くさって宣言すれば、瞳をまん丸にしてきょとんとした彼が破顔する。
そうしてちょいちょいと手招きされて牧に顔を近づけると、不意打ちのように『お前の好きなようにしろよ』と吹き込まれたのだった。
そう。例え「あれは夢だ」と言われてもそうなのかもしれないと思うほど、あの時の彼は凄かった。仙道はそんなことを思い返しながら、もうおそらく一生頭に灼き付いてしまって離れないであろう記憶を辿る。もちろんそのあとの行為も込みで、だ。
ずっと見てきたあの人の、あんな可愛らしくエロくてそうしてどこか優越感に浸ったような満足気な顔を見たのは初めてで、何もしておらずとも自分がニヤケてしまうのが分かった。
ペタペタと仙道がまだいるベッドの傍を、牧が歩き回って掃き出し窓を開ける開閉音が静かに響いた。
その瞬間、冬の朝の冷えた空気が入り込んで仙道は「寒い、酷い」呻きながら、手足を亀のごとく布団に引っ込ませて防御する。
すると、その様子を見ていたのか「何が酷いだ。いい加減起きろ」と声をかけられ、ベッドのスプリングがぐっと揺れた。
牧が仙道のすぐ側に座ったのがわかったが、まだ昨日の余韻を手放しがたくて目は開けない。
「仙道? 具合でも悪いのか?」
決まり悪くて返事をせずに寝たフリをしていると、ふにゃりと垂れたままの前髪を払われる。昨日はそこそこ抱き潰したと思っていた相手に気遣われ、どうしようかと迷っていると、さらにぎぃとスプリングが沈む音がした。
「おい」
牧が身を寄せ、気配が近づく。耳を軽く引かれた。吐息がかかる。
「なぁ起きろ、──彰」
まるで昨夜のデジャヴだった。
ギャ、と実に色気のない声を上げて、びっくりして目を開けると、仙道の目の前で牧は清々しい会心の笑みを浮かべていた。
「まきさん、まって、あ、あの……今…」
「おはよう、
そう言って言い訳さえもさせてくれずに颯爽とキッチンに向かってしまった男に、やっぱりこの人には敵わないと思いながら、仙道は心の底からのため息を吐き出したのだった。
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