仙牧 新⬆旧⬇



「ふぅ……」
 吐き出す息がやけに熱い。
 最悪だ。最悪のタイミングだ。
 牧紳一はちくしょうと悪態を吐き出すと、腰にゆりく回った両腕を外し、ふらつく身体でベッドから降りた。


 身体の熱っぽさ。
 節々に感じるだるさ。
 止まらない寒気、回る視界。
 そうして──いくら時間が経っても改善しない響くような頭の痛さ。


(昨日まで、こんなことになる兆候なんかなかったっていうのに)
 普段開けてもテーピングやら湿布やらしか使わない薬箱から、総合風邪薬と刻印された風邪薬を取り出して、個包装されたカプセルを水で流し込む。そうして牧はリビングのソファに座り、上を向いてじっと身体のだるさに耐えるように目を瞑った。
 重い身体を引きずってなんとか身支度は整えたが、だんだんと体調の悪さは増していくのが手に取るようにわかってしまう。普段風邪一つ引かないと自負している分、体調の悪さは顕著であり、二日酔いなどとは別物だった。
 熱など計って可視化されてしまえば、さらに憂鬱になるだろう。計らなければ熱などない。牧はそう言い聞かせ、痩せ我慢に徹していた。
「しかし、……参ったな」
 壁際のシンプルなカレンダーを見上げれば、今日の日付に、大きな赤い丸が入っている。
 自分の誕生日でも、パートナーの誕生日でもないただの平日。
 そんな日に二人併せてわざわざ休暇まで取ったのは、偏に、この日に生涯を共にすると誓った日だからであった。
(レストランの予約は十七時だと言ってたか)
──今日は奮発してレストランを予約してみたんです。紳一さんの好きなシーフードのコースがあるところ。
──へぇ、そりゃあ期待できるな。
──まっかせてくださいよ。その前に時間あれば、紳一さんが見たいって行ってた映画も行きましょうよ。最近できたパンケーキのお店も行ってみたいし。
──はしゃいでるな。
──そりゃああんたと過ごせる数少ない休暇だもん。
──だもんって言うな。三十過ぎた男が。
──ふふ。ね、紳一さん? 明日の朝絶対絶対起こしてくださいね。俺あんたの隣だと気持ちよすぎてずっと寝れちゃうから。
──ばか。
 昨日寝る前に、後ろから抱きしめられながら、嬉しそうにデートのコースを語っていたパートナーの言葉を思い出す。嬉々として語られる今日の予定に牧も心から楽しみにしていたのだ。
 それなのに。
 牧はため息を吐き出して、カレンダーと、その隣の掛け時計の時間とを見比べてからのろのろと薬箱をもとあった場所に戻した。そろそろパートナーを起こしてやらねばならぬ時間だ。

『記念日にはデートをしよう』

 それを決めたのは、もう何年も前に籍をいれた時の話だ。
 お互い忙しい身であっても、必ずこの日は二人で過ごそうと、約束したのは自分である。以来もう十年以上も毎年交互に記念日には何かしらを企画して、思い思いに楽しむのが恒例だった。
 去年は牧が企画したので(ちなみにテーマパークに付属したホテルのスイートルームを予約して久しぶりに童心に返って思い切り楽しんだ)今年は、パートナーが「絶対紳一さんに喜んでもらえる場所にしますから」と早くから準備してくれていたのも知っている。
 知っているからこそ、自分の体調不良などで、相手が考えに考え抜いてくれた予定を反故になどしたくなかった。
(暫くすれば薬も効いてくるだろう。マスクをして、映画中は申し訳ないが寝ていれば……)
 ふぅ、と大きく息を吐き、どうやって体調不良をごまかすかばかりが頭をかすめる。
 だから、その時に「紳一さん」と声をかけられ、牧は大袈裟に飛び上がりそうになった。
「っ彰、」
 見れば、牧のパートナーであり、唯一でもある仙道彰が眠そうに目を擦りながら、牧に近づいてくるところだった。
「は、早いじゃねぇか。今起こそうと思ったところだぞ」
「ん〜、紳一さんが寝室出てった寒さで目が覚めたんです」
「俺は湯たんぽか。まぁちょうどいい、朝メシは──」
 そう言ってキッチンの方を向いた瞬間に、牧との間合いを一気に詰めた仙道に抱きつかれ、牧はたたらを踏んでよろけてしまう。
 いつものような踏ん張りなど到底効かず、床に倒れると身構えた瞬間、強く身体を引かれ、衝突は免れる。

「──っ、こら、いきなり!」
「何時からです?」
──紳一さんが体調悪いのは?

 耳に聞き取りやすいバリトンを吹き込まれ、牧は言葉を失った。さらには澄んだ紺碧に見つめられ、らしくもなく狼狽すらしてしまう。
「朝、紳一さんが寝苦しそうにしてるなっていうのは気がついてたんです。いつもより呼吸も荒いし、悪態つきながら寝室から出て行くし。紳一さんらしくないなって」
 もし昨日から体調が悪かったんなら、俺あんたに無理させてたんじゃないかなって思って、と続ける男に、牧は慌てて「ちがう。今朝、起きた時からだ」と返すのが精一杯だった。
「熱あるでしょ? 身体もだるそうだし」
 仙道はそう言うと、片手を牧の額にかざす。ひんやりとした体温で熱い額を触られると、心底気持ちが良くて、思わずほぅと、うっとりとした呼吸が漏れ出てしまうのがひどく恥ずかしかった。
「ね、紳一さん?」
「──せっかくお前が色々準備してくれたのに、せっかく久しぶりに二人でゆっくり過ごせる日なのに、熱が出ちまうなんて、こんな、」
 さいあくだ、と小さな声で言い訳がましく続けた牧に、仙道は「なんだ? そんなこと?」と明るく笑って牧を抱きしめる力を強めた。
「デートは何時でもできますよ。ちゃんと元気になったあんたと、ね」
──むしろこんなことって今の今まで無かったから、風邪っぴきの紳一さんを看病できるんだって、俺今ちょっとテンション上がってます。
と、にこりと笑って男は続けた。

「だからもう紳一さんは観念して、今日は大人しく俺に看病されてください」

 甘く甘く蕩けるような甘さで持って囁かれてしまっては、もう駄目だった。
 どうにでもなれ、と全身の力が抜けていき、張っていた虚勢がガラガラと音を立てて崩れていってしまうのを感じていた。
「お粥がいい? それとも素うどんにしましょうか?」
 ゆっくりと牧を伴って寝室に戻る道すがら、そう尋ねてくる男に観念しながら、牧はそっと口を開いたのだった。
10/16ページ