仙牧 新⬆旧⬇

 仙道彰は、大きく息を吐き出しながら湯から上がり、温まった身体にシャワーを浴びた。
 温められたシャワー室内の湯気で曇った鏡に湯をかければ、昨日、いや今日の朝まで貪り合った影響で、劣情の痕がまだ色濃く付いた身体が露になった。
 ──あの人、昔からノッてくると、人の事噛み始めるからな。
 もう昔ほど若くはない。だというのに目の前の愛する人を、学生の時のようにがっついて結局朝まで離すことは叶わなかった。
 結局自分はいつまで経っても彼を前にすると自制心など吹っ飛んでしまうのだ。あの薄いアンバーの瞳に不敵に微笑みかけられれば容易く『やってやる』と心に炎を灯されてしまう。最早あの人と出会った時からの条件反射だった。
 しかしその反動は、もう若いとは決して言えない身体には堪えたらしく、身体は二人揃って満身創痍だった。大の大人二人してだらだらと朝を迎え、ベッドとソファを行き来しながら昼を過ごし、手を伸ばせばすぐに触れ合える位置で戯れに唇を這わせて抱きしめうながらぼんやりと夕日を眺めて日を終えるのは、なんというか贅沢ではあったが。
 昔から跡の付きやすい体質で、まるで自分が今まさに彼に抱かれた後のようではないか。
 ──まぁあながち間違いではないか。
 そんなことをつらつら思い、くつくつと笑いながら、仙道はバスルームの扉を開けたのだった。
 
 
 
 あんなに苦しんでいた夏の暑さは嘘のように過ぎ去って、夜は上着がないと厳しい寒さがすぐにやってきた。
 もう最近は夏と冬しかない、などと思いながら、仙道がリビングの扉を開けると、充分に温められた部屋の真ん中にどんと置かれたソファの上に、先に風呂から上がった愛おしい人の後頭部が見えた。
「今日は何を放送するんでしたっけ?」
「戦闘機映画の続編」
 ソファに向かう前に、キッチンの冷蔵庫を開けてよく冷えたビールを取りだし、プルタブを引き上げながらそう聞くと、すぐに応えが返ってくる。「マッハ10だ」と心なしかわくわくとした響きをその答えから聞き取って、そういえば先週末、彼は自室に引きこもり、何やらプラモデルを制作していたなと思い出す。
 アウトドアな趣味もインドアな趣味も持ち合わせる目の前の連れ合いの趣味の一つに、本格的な映画鑑賞があるのを知ったのは付き合い始めてわりとすぐのことだった。
 当時映画館のチケット売り場で、二人分の高校生料金のチケットを買う時に、必ず年齢確認をされる連れ合いの姿を見るのが、好きだったのをよく覚えている。
 「笑うなよ」「いや笑わない方が無理でしょうよ」「次は制服を着てくるか……」「あんたのところブレザーだから余計疑われますって」なんていつも同じことを言い合いながら、二人で全席自由席の劇場に入って最後列に並んで座ったものだった。
暗くなった座席で、物語に集中している光が屈折した美しい顏を時折チラ見して、心臓が飛び出でるような思いをしながら、ゾンビが飛び出た瞬間にさも合わせたように隣に座る彼の手を握ったものだ。
 そうだ。この人との触れ合いは、生涯の軸となったバスケットを除いては、映画館が最初だったとも記憶の片隅でよく覚えていた。
「トム・クルーズのですよね? あんたブルーレイ持ってるじゃないですか」
「ばか。こういうを地上波でのんびり見るのも映画鑑賞の醍醐味なんだぞ」
 冷蔵庫の奥に入っていた六ピースのチーズを引っつかんでソファに向かう。三十年云年ぶりに続編が放映されたその作品は、連れ合いの中では近年稀に見るヒット作だったらしく、公開中珍しく仙道を伴って色んな映画館に連れ回された。やれ4DXだの、IMAXだの、爆音だのと、基本的に一度映画を見れば満足する仙道とは違い「色んな劇場があるんだから、楽しまないと損だろう」と子供のように瞳を輝かせて言っては、週末になる度に映画館に車を走らせていたのは、確か今から二年ほど前だったか。
 ソファの正面に回り込むと、最近彼がお気に入りだと言っていたワインと既に口の開いたポップコーンとポテトチップスがローテーブルの上に並べられている。
 ソファに腰掛け、チーズをつまみの仲間入りさせたあと、温かい身体を自然と自分の方に引き寄せながら、こういう時に昔の彼だったならば、きちんと大皿にポップコーンやポテチを並べていたものだと、仙道はしみじみ思う。彼の自宅を訪れる度、本格的なティーセットとケーキが必ず出現していたことも思い出した。
 もう長いこと一緒にいるためか、仙道の若干(周囲などには今も『かなり』とよく言われるが)物ぐさなところが彼に移ったのかもしれない。ほら、長く一緒にいると癖や仕草が移ったりするとか言うじゃないか。
 ふとそんなことを思いながら、もう二十年以上も共にいるのかという歓喜がじわじわと心を満たしていくのを心地よく感じた。
 先に風呂に入って清潔な泡の匂いを振りまく日に焼けた肌を背後から抱きしめ鼻先を埋めて、くふくふと笑う。
「機嫌がいいな」
「そりゃあもう……あんたが俺に染まってるんだって自覚して」
「──お前が、俺に……だろ?」
 悔し紛れにそう言った人は、照れ隠しかふいと顔を背けてしまう。しかし赤く染った耳は隠しようがなく、愛おしさを助長させるだけだった。
「牧さん」
「──っ、なんだ? 苗字で呼んだりして」
 くったりと身体を預けて、仙道を背もたれがわりにしていた歳上の男は、仙道が名前を呼んだ瞬間に、びくりと体を震わせて、じとりと見上げてきた。
 ──ほら、こういうところが幾つになってもたまらなく可愛いんだよ。
 この国の成人男性の平均身長など軽く超えてしまうであろう牧の、こんな上目遣いを拝めるヤツはそうそうおるまい。
 もうあと数年すれば、五十の大台に乗るとは思えない、ハリのある肌に舌を這わせると、腕の中の想い人は、ビクビクと身体を震わせるのだから堪らなかった。
「っ、どう、かしたか?」
「いやなんか、今日高校生の頃の紳一さんをよく思い出しちゃうんですけど……俺は、いくつになってもあんたに骨抜きにされちゃうなって思って」
 襟ぐりの大きなTシャツから除く劣情の痕が見えるさまに、完全に煽られているのも自覚していた。涼しい顔をしていても牧も、布一枚下には、まだ昨日の熱が隠れしているのだと思うと、喉が鳴る。こんなだらりとだらけた土曜日の夜に、どうして彼を離せようか。
「なぁ、──仙道? 発芽って歌集知ってるか?」
 意趣返しのように久方ぶりに仙道の苗字を呼んだ牧の唐突な言葉に、仙道は「知ってるわけないでしょう」と憮然と返した。
「したあとの朝日はだるい自転車に撤去予告の赤紙は揺れ」
「──っはは、その歌、高校生の時のまんま紳一さんじゃないですか。あんたのサーフボードキャリーついた自転車目立つから、俺ん家の前に停めてるとしょっちゅう赤紙貼られてたでしょ?」
「狙い撃ちみたいにな。お前のボロいアパートの気のいいおばあちゃん大家さんに『朝帰りかい?』って毎回声かけられていたんだぞ」
「うっわ、それは恥ずかしい~」
 大家さん俺にはそんなこと言わなかったのに、と仙道が返すと、既に特徴的なイントロそっちのけでこちらを見つめていたが牧と、バチリと視線があった。
「もう一つ気に入ってる歌がある」
「へぇどんな?」
 そう問うと、牧はにこりと綺麗な笑みをうかべ、仙道の顔を引き寄せて、耳元でゆるりと一つ言葉を囁く。
 それを聞いた仙道は、心做しか体温の挙がった身体をきつくきつく抱きしめる。
 
 
「体などくれてやるから、君の持つ愛と名のつく全てをよこせ」
 
 
「はぁ……ほんっと紳一さん、映画観れなくなっちゃうけど?」
「かまうかよ。早くよこせ彰」
 せっかく準備して楽しみにしていた夜を、しかしそれを上回る熱で上書きしてしまったってかまわない。出会った頃の倍以上の愛で愛してくれる愛おしい人に、深い口付けを送りながら、変わらず美しい男を押し倒したのだった。
 
 



土曜日のよる
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