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『木を隠すには森の中』という諺がある。
イギリスの推理小説に出てくる神父の台詞が語源と言われているこの諺は、文字通りに“物を隠すなら似たような物の中に隠すべき”という教訓を表している。だから何だと言われればそれまでだが、ローには一つだけ解せないことがあった。ローの幼馴染は毎年毎年、沢山のチョコレートに自分の物を匿名で混ぜて送ってくるのだが、これには何の意味があるのだろうか。
◇
今年こそは幼馴染からチョコレートを貰えるのでは。この不毛なバレンタインに終止符が打たれるのではないだろうか。
これが二月一日を迎えたローが抱く淡い期待である。ところが、彼が決して顔には出さないその願望はエックスデー当日に木っ端微塵にされるのだ。放課後、店でも開くのかと言いたくなるくらいに溢れんばかりのチョコレートが入った紙袋を持った本人の登場によって。大量のチョコレートを届けにきた彼女が教室に顔を出せば、無駄に勘が冴えている一部のクラスメイトはローを憐れんだ瞳で見てくるのだが、そんなこと知ったことか。
彼女が運んでくる沢山のチョコレートなどいらない。このチョコレートの山の中のたった一つ、ローは“匿名の女”からのチョコレートが欲しいだけなのだ。
「ささ、お納めください」なんて、へらりと笑うこの女はローが“匿名の女”の正体に気付いていると知ったら、どのような顔をするのだろうか。こちらの気も知らないで良い気なものだ。
されど、ローが自分から“それ”を言うことは決してない。それがいつまでも煮え切らない不可解な態度を取り続けるこの女に対するローの意趣返しだからだ。
大変不本意なことに、ローはこの能天気な女が好きなのである。それを自覚するのにはそれなりの曲がり路と下り坂があった。とはいえ、その話をしていると本題が進まないのでここは割愛する。余談だが、彼女への恋心を認めるまで一年ほど時間を要し、認めてからも三ヶ月くらい凹んだ。何故に自分はこんな面倒くさい女を好きになってしまったのか、それはローが一番知りたいことだ。前世は悪逆の限りでも尽くしていたというのか、甚だ疑問だ。
さて、“匿名の女”の正体がナマエだとローは何故知っているのか。
それについては、実はかなり早い段階から気付いていた。具体的に言うと、小学校二年生のときからだ。
ローの両親の仲は物凄く良好で、結婚してからもそういったイベントごとを毎年欠かさずに行っていた。だからローはバレンタインというイベントの存在を知っていた。ついでに、女が好きな男にチョコレートを渡すというイベント概要は我が国特有のお菓子業界の陰謀で、外国の様式とはかなり違うことも知っていた。彼は賢く早熟だったのだ。
対する彼の幼馴染は「二月になるとチョコが食べたくなる」と当たらずといえども遠からずなことを言っていた。そんな彼女がバレンタインというイベントの存在を認知したのは小学校一年生のときだ。クラスメイトにもロー同様にませた少女がいたようで、バレンタイン当日にチョコレートを渡そうとしてきた女子がいた。ローは別に好きでも嫌いでもない異性から貰ってでも食べたいと思うほどチョコレートが好きではない。だから素直に首を横に振った。
そんな一部始終をナマエは大きな瞳を更に大きくし、犯罪の犯行現場を見ているような顔でじっとローを見ていた。あ、こいつはチョコレートを渡されたおれのことを“狡い”と思ってやがるな、と呆れたローだったが暫くしてそれは違うのではないかという疑惑を抱いた。他の男子が貰っているところとローが貰っているところを見守る表情が差分程度であるが違ったのだ。何故その違いに気付いたのかは、普段から彼女をずっと見ていたということを認めるのと同義なのでローは深く考えないことにしている。そんな小学校一年生のバレンタイン。後日、健康が取り柄の筈の彼女が三日間寝込むという謎があったが、彼女の中でローは“特別”であるということを確かめることができたのだった。
そして問題の小学校二年生の二月十四日が訪れる。
当日、ナマエは登校時からソワソワして落ち着かないようだった。その挙動不審な様子を見てローは確信した。これは黒だ。彼女は絶対にチョコレートを持っている。同世代の少年少女に比べてローは執着心があまり無く淡泊な子供だった。ところが、こと彼女に対してローは、幼い独占欲の塊を持て余して自己中心的な認識を振りかざしていた。だからローはそのチョコレートを自分のものだと決めつけていたのだ。何故ならナマエと一番接点のある男子は自分だからだ。
しかし、現実は上手くいかなかった。いつまで経ってもナマエはチョコレートを渡しに来ない。ローは世話が焼けると思いながらチョコレートを回収しに彼女の元まで行った。その太々しさはナマエからすると傲岸不遜にも程があったのだが、ローはそれには気付けなかった。だからローがナマエに向かって手を出してみれば、彼女は暴言を吐いて教室を飛び出してしまったのだ。世の中には言い方というものがあるのだが、幼い彼にはそれが理解できなかったのである。ローが首を傾げながら自席で悶々としていると、休み時間が終わるころに先程と打って変わって上機嫌なナマエが戻って来た。スキップまでしてたので正直引いた。この短時間に何があったのだろうか。ローは困惑した。
次の休み時間にローの席にやって来た彼女はこう宣った。「ロー、チョコあげる」と。
結果として、ローはチョコを貰うことができた。別に好きでも嫌いでもない少女二人とどこの馬の骨のか分からない少女のチョコレート、全部で三つだ。同じクラスの男子の中で貰った数と渡されそうになった数の総合ランキング一位に輝いたローだったが、彼にとってそんなことは物凄くどうでも良かった。
他人のチョコレートをローに押し付けたナマエは、相も変わらずにニコニコとしている。帰り道に鼻歌交じりで前を歩く幼馴染を疑念の瞳で見つめながらローは考えた。ナマエが誰かにあげるためにチョコレートを持っていたことは確かだ。そして、この態度を見ればそれは成功したに違いない。ならば。こいつ、おれ以外の誰に渡したんだ。
帰宅後、ローは貰って来たチョコレートをテイクフリーと言わんばかりに居間のテーブルに転がして不貞腐れていた。好きでも嫌いでもない人間から貰ったチョコレートなんて食べる気もしない。だったら食べたい人が食べればいいのだ。甘いものが大好きな妹にでもあげよう。きっと喜ぶに違いない。机に突っ伏していると、夕食の準備をするためにローの母親が居間を通りかかった。
「あら、ナマエちゃんからチョコ貰えたの?」
そして、ローが転がしてるチョコレートを目に入れると、開口一番にそう言ったのだ。ローはガバリと顔を上げて母親を凝視した。ローの瞳に映った母親は、微笑ましそうに口を綻ばせている。
「この前スーパーでナマエちゃんを見たんだけど、やけに挙動不審だからどうしたのかと思ってずっと見てたの。そうしたらチョコレートを棚から取ってレジに持っていったのよ。顔真っ赤にしてて可愛かったわ。良かったわね、ナマエちゃんからチョコ貰えて」
「……」
ここでローは一つの仮説を立てた。
ナマエが渡してきた“誰かさん”とはナマエ本人のことでは無かろうか。何故自分の名前を名乗らないのかは分からないが、あのナマエのやることだ。きっと暴言を吐いた後に引っ込みがつかなくなっただけに違いないのだ。ナマエが上機嫌だったのは、どさくさに紛れてローにチョコを渡すことに成功したからでは。匿名のカードを送る英国でも無いのだから、どう考えても成功とは言い難いがあの呑気な少女ならそう捉えてもおかしくない。とはいえ、まだこの仮説は証明されていない。限りなく10割に近い正解のような気もしないでもないが、ローは疑り深い性格をしていたので仮説が確定されるまでは何も言わないことにした。
翌年、トラファルガー少年はバレンタインシーズンが到来すると近所のスーパーに視察に行き、そこで売られているチョコの種類を全て確認して記憶した。
その結果、ナマエがくれた“誰かさん”のチョコレートは近所のスーパーで売られていたものだった。ちなみにそのチョコレートはPB品であるのでこの系列のスーパーでしか販売されていないものだ。ローの仮説はここに証明された。昨年同様に渡しやすいように督促しに行ったのに、押し付けられたのが解せないけれども。何故頑なに隠したいのか彼女の心境が良く分からないが、あまりにも必死だったので結局ローはそれについて触れることができなかった。
四年生になったローは今年こそは彼女の言う“誰かさん”について指摘してやろうと思っていた。しかし、彼のその気持ちは朝礼前のナマエの様子を見て萎んで消えた。
ナマエが“義理チョコ”という悪しき文化を覚えたのである。クラスメイト(男)に悪戯っぽく笑いながら、お徳用のチョコレートを配るナマエをローはガツンと鈍器で頭を殴られたように最低な気分でじっと見ていた。そして思った。
こいつ、おれには匿名で渡すくせに他の奴らには堂々と顔も名前も隠さずに渡すのか。しかも笑顔のオプションまでつけて。こんな屈辱があってたまるか。
だからローは固く誓ったのだ。ナマエが自分から“誰かさん”の正体を明かすまで、絶対に自分からは言ってやらないと。
そして、彼と彼女の不毛なバレンタインの攻防の火蓋が切って落とされた。第三者から言わせればお互いの一人相撲っぷりが凄いのだが、それを指摘して彼らを冷静にさせる者は残念なことに現れることが無かった。
おかげで、毎年ナマエはローに沢山のチョコレートを運んでくるようになってしまった。さらに許し難いことに彼女はチョコレートの入った袋を“トラファルガー便”と呼んでいるのだが、それは一体どういうことだ。勝手に人の名前を面白可笑しく運送便の名前に使うな。
そもそも、毎年バレンタインに匿名で回りくどく面倒くさい方法でローにチョコレートを渡してくるのだから、ナマエはローのことが好きに違いないのだ。
それなのに、他の女からのチョコレートを平然と渡してくるのにも業腹だった。ローは彼女が義理チョコを配り歩く姿がとてつもなく面白くないのだが、彼女は違うのだろうか。毎回毎回ヘラヘラ笑ってチョコを渡してきやがって。そんなナマエの対応は、ローの意地を轟々と燃え上がらせる燃料になっていた。
ローは高校に入学すると、圧倒的に女子から告白をされる回数が増えた。ところが、ナマエは焦る素振りを全く見せない。それどころか、地味にナマエはモテた。義理チョコを貰えて脈があるのではないかと勘違いしている輩もいた。そうなってしまえば、焦ったのはローの方である。
だからローは決意したのだ。高校二年生になった今年、このあたりでこの不毛なバレンタインを終わらせてやると。といっても、ご存知の通り彼は物凄くプライドが高かったので、自分から言うつもりは無かった。あくまで相手から言わせてやろうと思っていた。
なんてこともあり、紆余曲折を経て念願叶ってローは告白付きでナマエからチョコレートを貰ったのである。面倒なことなどせず、普通に渡してくれれば他の少女のように突っ返すこともせずに貰ってやったのに。何年待ったと思ってるのだ。散々待たされたのだから、少しくらい焦らしても良いだろうとローは考えた。
ところが、ローにとってはバレンタインは目的のための手段であり、ナマエにとってはバレンタインが手段のための目的になっていた。その違いにローは気付くことができなかった。『鉄は熱いうちに打て』という諺がある。このとき囲い込んでしまえばよかったのに、宙ぶらりんな一か月間。ローはナマエに余計なことを考えるための冷却期間を与えてしまった。そして、それは完全に悪手だったとローは思い知ることになる。
◇
バレンタインの翌日、彼女は至って普通だった。その様子を一目見て、ローは表情には出さなかったものの内心困惑していた。昨日の一件があり、自分と彼女の関係は変わった筈だ。ナマエはローに告白し、ただの幼馴染ではなくなった。それなのに。朝にバス停で出会ったときも、いつもと変わらず能天気で平和な笑顔だった。何も悩み事など無いのだ、というくらい彼女は清々しい様子だった。そんな彼女を見て、ローの頭の中を嫌な予感が駆け巡った。ひょっとして、ナマエの中では“ローにチョコレートを渡す”という目的が達成されたことにより、彼女の中のバレンタインは完結してしまったのではないか。返事も貰っていないのに?そんな馬鹿な話があって堪るか。
だからローは、鈍いこの女でも分かるように少しだけ物理的な距離を詰めた。それには流石の彼女も“今までとは違うなにか”に気付いたようで効果はあった。
どのようなリアクションが彼女から返って来たのかというと、ローは彼女に避けられるようになったのである。意味が分からない。告白もされた。チョコも貰った。告白は“された”よりも“させた”に近いが、とにかく言質は取ったのだ。それなのに、どうしてこうなった。この女大概にしろよ。ローは心底そう思ったが、休み時間に移動教室に向かう彼女が友人達と無邪気に笑いながら話しているのを見て、その笑顔を悪くないなと思ってしまうのが末期だと気付いてしまって地味に凹んだ。クラスメイトの一人は「トラ男、元気が無ェな。肉を食え」と根拠と効果が結びつかないアドバイスをしてくれたが、それは余計な世話というものだ。
更に月日が進み、ホワイトデー前日になった。この頃になると、生活圏はほぼ100%被っている筈なのに彼女の姿を全く見なくなった。登下校のバスで会うことも無かったし、移動教室のときも擦れ違わなくなった。彼女は人間からツチノコになったのだろうか。最後にナマエの姿を見たのは昨日。校庭で体育の授業があり、ジャージ姿のナマエがちょこまかと動き回っているのをローは教室の窓から眺めていた。バレンタインにチョコレートを貰えても、尚もナマエに振り回されていることに心底納得がいかないローに気付くことなく、彼女は授業で大活躍をして大層輝いていた。彼女のパロメーターは体育に全振りされているのだ。
そして、とうとう3月14日がやって来た。この日の為にローはきちんと“お返し”を用意していた。ホワイトデーについて文明の利器で色々と調べ、相手によって返すものが違うというお菓子業界の陰謀と面倒臭さに辟易しながらも喜ぶナマエのことを考えて何とか耐えた。それでも、検索履歴を即座に消すことだけは忘れなかった。羞恥心との戦いだったが、ローは彼女が好きそうな洋菓子店で可愛いらしいキャンディを購入することに成功した。余談だが、仏頂面で眉間に物凄い皺を寄せたイケメン高校生がキャンディを買いに来た話で洋菓子店のバイトたちは今までに無い程に盛り上がった。それはローが知り得ない、いや知らない方が良い話だ。
というわけでローの準備は万端だった。ところが、肝心のナマエに会うことができなかったのである。
日中は彼女を見つけることができなかったので、ローは初めてロングホームルームをサボってナマエのクラスの前で待ち伏せをしていた。彼は秩序とは無縁の顔立ちと雰囲気を纏っているが、意外とそういった決まり事は守るタイプだったのだ。下校するためには下駄箱に行く必要があるので、必然的に教室を出なければいけない。だからローはロングホームルームが終わってナマエが教室から出てくるのを待った。ナマエはきっとロングホームルームが終わった瞬間にローから逃げようと教室を飛び出してくるに違いないのだ。そう思ったのに、いつまで経っても彼女は現れない。三分程待っても音沙汰が無いので、流石に不審に思ったローは彼女の教室の引き戸を勢いよく開けた。鋭い双眸で教室内を見回していると、不思議なことにナマエの姿は無かった。
「ナマエなら体育館履きでそこの窓から出てったわよ」
不意にかけられた声の方へ視線をやれば、オレンジ色の髪の快活そうな少女が笑っていた。彼女は机に頬杖をついて、悪戯な猫のように形の良い唇を吊り上げている。普通の男だったら見惚れてしまうような可愛い笑顔だが、ローはそれに篭絡されるような短絡さは持ち合わせていない。それに、そんなことはどうでも良いと思ってしまうほど事は重大だった。
彼女の言葉を聞いたローは頬を引き攣らせた。ローが通う学校の構造上、一年生は一階、二年生は二階、三年生は三階、と学年ごとに教室がある階が違う。しかし、一つだけ例外がある。二年生の教室でナマエのクラスだけ一階に教室があるのだ。だからといって、遅刻しそうになった男子生徒でもあるまいし、誰がナマエが窓から出て行くことを予測できただろうか。
「本当にさっき出てったから走ればすぐに追いつくと思うわ」
ローは彼女が指さした窓に向かって教室を走り抜け、そこから校庭に飛び降りた。向こうが体育館履きならこっちは上履きである。
「あと、ごめん!じゃあ、これでチャラってことで!」
ひらひらと手を振ってローを見送りながら彼女は言うが、何が“ごめん”なのか。そこは物凄く引っかかったし問い詰めたいところだが、今はそれどころでないので不問にすることにした。どうせ碌でもないことに決まっているのだ。
校門を出たローが通学路を見渡すと、遥か遠くに豆粒ほどの大きさになったナマエの姿が見える。それを目にした瞬間、逃がすものかとローは条件反射で走り出した。ところが、何か虫でも知らせたのかナマエは後ろを振り返ったのだ。距離がかなりあったので目鼻立ちの区別は付かなかったが、お互いの視線が合ったような気がした。その証拠に、自分に向かってくるローの姿に気付いたナマエは、くるりと踵を返して脱兎の如く逃げて行った。
ここに、地獄のホワイトデー延長戦の鬼ごっこが開幕したのである。
ナマエが向かった方向は、彼女の家へと帰るための通学路ではなく駅への道だった。ナマエの自宅から学校までは歩いて登下校するには少し遠く、彼女もローもバスで登下校しているのでそれなりに距離がある。その長距離では、いくら運動神経が良いナマエでも耐久と速度でローに勝てる確率はゼロだ。確実に追いつかれる。だから彼女は人混みに紛れる作戦に出たのだろう。ナマエは駅の近くにある複合アミューズメント施設に飛び込んでいった。ボーリングやゲームセンター、カラオケなどが入っているこの施設は学生の溜まり場になっているので、放課後には同じ制服を着た男女が沢山いるのだ。こんなところでも、“木を隠すなら森の中”か。彼女はここで隠れてやり過ごすつもりに違いない。そうはさせるか。
ナマエが逃げ込んでから数十秒後にその施設に足を踏み入れたローは、ざっと入り口付近に貼ってある施設案内を流し見した。ナマエは何かやらかすと高いところに上る習性がある。普通に考えて最上階のどこかに潜んでいる可能性が高い。ところが、その習性をあのバレンタインのときに指摘してやったので、ローがそれに気付いているということを彼女は知っている。ということは、裏をかこうとして逆に下に降りるのではないか。そう検討をつけたローは騒がしいゲームセンターの中を通り抜けて下の階へと続く階段を駆け下りた。地下一階はアーケードゲームやプリクラの機械が都会のビルのように隙間なく並び、騒がしさは変わらない。更に下に降りれるようだったので、ローはそこを素通りして二段飛ばしで階段を降りた。何故自分はホワイトデーにこのようなことをしているのか。そんなもの、深く考えるな。考えたら負けだ。
最下階は駐車場になっていた。ローが駆け下りた階段はエレベーター乗り場に繋がっており、そこを通過した彼は駐車場へと続く自動ドアを抜けるとやっと足を止めた。それからローは辺りを見回した。
20台ほど車を停められる駐車場には、パッと見てナマエの姿は無い。平日だが週末の夕方ということもあって、車はぽつぽつと停まっている。ホラー映画のように時間をかけて一つ一つ車の影を覗き込んでも構わないが、それは時間の無駄だ。ローは手っ取り早く彼女の存在を確かめるために、コートのポケットの中からスマートフォンを取り出して、スリープモードを解除した。そして、迷わずに短縮ダイヤルからナマエの電話番号を押した。その瞬間。駐車場の最奥の角に止まっていた車の影からアラームのような音と「うぇっ!?」という少女の間の抜けた声がしたのだ。すぐにアラームは消え、何事もなかったかのように辺りは静まり返ったが今更取り繕ったところで遅い。ナマエの携帯は電話だけ着信音が鳴るように設定されているのをローは知っていた。知っていたからこそのローの作戦勝ちである。
「出てこい」
アラーム音と声が聞こえた黒いセダンに向かってローがそう言えば、ナマエは観念したようだった。渋々と車の影から顔だけ覗かせたナマエと、ローの視線は久々にしっかりと交わった。
「……何で上に行かないの」
恨めしそうに彼女は半眼で尋ねてきたが、ローもまさかここまで上手くいくとは思っていなかったので彼としても複雑な気分だった。
「この前と逆の行動を取ると思ったからだ」
「マジかぁ」
手品の種明かしでもするようにローが答えてやれば、ナマエはガックリと肩を落とした。ここ最近の彼女の行動を振り返れば、肩を落としたいのはこちらの方だ。散々人を振り回してくれたナマエに文句を言うべく、彼女が隠れている車に向かってローは一歩足を踏み出した。すると、何故かナマエは再び車の影にサッと隠れたのである。いや、もう遅いだろ。無駄な抵抗にも程がある。呆れながらも車に向かう足を早めると、ナマエは壁と車の隙間を器用に通り抜けて反対側に回る。何だこいつ、小学生か。
「お前、この前から何で逃げるんだ」
ナマエの行動がおかしいのは今に始まったことではないが、流石にこれは度を越している。頭を抱えたい気分になったローに、先程とは反対側から顔を覗かせたナマエは気まずそうに視線を逸らしながらボソボソと独り言のように小さな声で言った。
「だって恥ずかしいじゃん」
今更か。ローは無の極地に陥った。
「そもそも私、チョコレートを渡すことが最終目的みたいになってたからその先のことを考えてなかった」
今ここにバレンタイン翌日にローがふと考えたことが正解だったと証明されたわけだが、ローは彼女が抱く恋愛感情の幼さを甘く見ていたことに反省した。これはお互い真面目に話し合うべきなのでは。近付こうとする度に逃げられるのでは堪ったものではない。話し合う為にローがナマエの隠れている側に周ろうとすると、またもや彼女は反対側に逃げようとした。ところが、ローにとって好都合なことに彼女は回避に失敗した。スクールバッグが車と壁の隙間に引っかかったのである。動けなくなった彼女は両手でローが近付いてくるのを制しながら言った。というより、叫んだ。
「ストップストップ!あと1キロ痩せるから待ってて!」
地下駐車場に響き渡った、今の状況とは全く関係ない言葉にローは盛大に困惑した。“バレンタイン”と“ホワイトデー”と“1キロ痩せる”のに何の因果関係があるというのだ。
「お前、何言ってるんだ」
賢く知恵の回るローも流石にこの超展開のトンデモ理論を理解することができなかった。なので、彼は眉間に皺を寄せて訝し気に言った。完全に素の疑問だった。
「バレンタインってチョコが沢山売ってるじゃない」
「そうだな」
「自分用にもチョコ買うじゃない。友達からも貰うじゃない」
「だから?」
「太った」
ローは彼女の話に口を挟むのを止めた。真剣に相槌を打ったところで理解できないものは理解できない。なら黙って聞いている方が精神的な消耗は少ないに違いない。要領を得ない彼女の話をパズルのピースを嵌め込むようにして、彼は状況の整理をすることにした。
バレンタイン翌日から急に距離が近くなったローに対してナマエは意識し出して逃げるようになったという。これはほぼローの予想通りで、寧ろ意識してくれなかったらそれはそれで複雑なものを感じる。そして一人で抱え込めなくなったナマエは友人に相談した。そう、あのオレンジ色の髪をした快活そうな彼女である。彼女は言った。「距離が近い?まぁ、トラ男くん手が早そうよね。決まったらガッといきそう」とんだ風評被害だ。その話を聞きながら彼は理解した。彼女が言っていた謝罪とはこのことに対してなのだろう。そして、単純なナマエはそれを真に受けてしまった。ナマエは不安になったのだ。いざ、ローと“ガッ”となったとき、この慎ましやかな胸ではガッカリさせてしまうのでは。そう友人に話したところ、彼女は少し思案してから言ったという。「どっちかというと、胸より脚じゃない?」あの軽い謝罪では到底許すことのできないくらいの暴言である。やはりその発言も真に受けたナマエは考えた。慎ましやかな胸は一朝一夕ではどうにもならないが、体重を落として身体全体を細く見せることくらいはできるのでは。ローは好意を持っている女の体型は全く気にならないのだが、女心は理解できないしできる気がしない。以前体重を気にする妹に疑問を投げかけたら、今までで一番酷い反応を返されたことは彼の胸に刺さった棘になっていた。だから女の体形の話は男が口を挟むべきではない。ローはナマエの体型の話には一切触れない方向に決めた。
「じゃあ最近行き帰りに会わなくなったのは」
「バスに乗るのは止めて歩いて登下校してる。聞いて、ちょっと痩せたの!」
罪の無いセダンに鞄を引っかけながらも満足げに頷くナマエにローは眩暈を覚えた。
「一度お前の体型の話から離れろ。それで、お前はこのおれがそんなにがっついてるように見えるか」
「……」
返事は無かった。大変失礼なことにナマエは物凄く真剣に悩んでいた。その様子にローは複雑なものを感じたが、そこを追及しては話が進まない。
「質問を変える。おれがお前が本当に嫌がってることをしたことあるか」
「……サンタの正体バラした」
「何年前の話だ」
小学校高学年にもなれば流石に真実を知っていると思ってたので、あれは不幸な事故だ。サンタの正体を知って呆然自失になっていたナマエの姿を目にしたクラスメイト達は、皆視線でローのことを責めてきたのはかなり時が経った今でもよく思い出せる。しかし、ローの名誉の為に言うとアレはそのときに偶々居合わせて真実を言ってしまったのがローだっただけで、他の人だって誰しも戦犯に成り得たのだ。というか、未だに根に持ってるのかよコイツ。ローが小さく嘆息していると、ナマエはローの溜息よりも少しだけ大きいくらいの声量でポツポツと言った。
「うそだよ、今まで無いよ。ローのそういうところ、嫌いじゃないよ」
そこは好きって言えよ、と思わなくも無かったローだったが、おおよそ欲しい答えは貰えたので良しとするべきか。相手はナマエだ。これがきっと最上に違いない。ローは車に引っかかっているスクールバッグの位置をずらしてナマエが動けるようにしてやった。彼女は小声で礼を言うと、車と壁の狭い隙間から這い出てくる。ローが手を差し伸べてやれば、彼女が手を握って来たので引っ張り上げて立たせてやった。先月と全く同じ展開である。どうしてこうなった。ローは握っていたナマエの手を離すと、自身の鞄を探って濃紺色の紙袋を取り出した。ローの掌から少しはみ出るくらいの大きさのものだ。
「手を出せ」
ナマエは恐る恐るといった体でローに両の掌を差し出してきたので、ローはそこに紙袋をおいてやった。ローの掌では片手で持てるくらいだが、ナマエの小さな手では両手で持つくらいが丁度良かった。それを受け取ったナマエは少し不満げだった。多分ローに自分だけ言わされたこと――告白をさせられたという事実が納得できないのだろう。
「返事は?」
どうやらその読みは正解だったようで、ナマエは低い声で“言葉”のお返しを促してきた。
「……おれもお前のことが好きだ」
「何で今溜息吐いたの?」
それは自分の胸に聞いて欲しい。この状況を思えば、溜息の一つや二つ吐きたくなるというものだ。何故にバレンタインのお返しをする場所がアミューズメント施設の薄暗い駐車場なんだよ。足元はもっと酷い。ナマエは体育館履きだし、ローなんか上履きである。
「お前がおれから逃げるからだろ。それも窓から、体育館履きで」
そう言い返してやれば、その正論にはナマエはぐうの音も出ないようだった。彼女は口をぎゅっと結んで押し黙った。
「それから、お前が不安になってることだが、無理にはしない。待っててやるから」
これはローの本心であり、なけなしの理性と善意であった。そうであったのに。
「そうだよね……。だってロー、何年も待ってくれたもんね?」
ナマエは安心したように笑った。が、ローはちっとも笑えなかった。ちょっと待て。こいつ、これだけ待ってきた自分に更に何年も待てというのか。ローの頬は自然と引き攣っていった。ローだって高校生だ。ナマエとするそういうことに興味がないわけではないし、“ガッ”といけるものなら“ガッ”といきたいのである。やはり人の気も知らないで、能天気に笑うこの女に腹が立った。彼女のその一言で、長く耐え忍んだローの冬は終わりを迎えた。
だからローは背を少し丸めてナマエに顔を近付けると、彼女の顎を軽く持ち上げた。そして、不思議そうな顔をしているナマエの唇を自身のそれで塞いでやった。たった数秒のことだった。
ローが彼女から唇を離した瞬間、ぼとり、とナマエは手に持っていたローのお返しを落とした。コンクリートの床をコロコロと転がっていくそれを横目に、彼はぼんやりと“お返し”をアルミケースのものにして良かった、と思った。対するナマエは、呆然としたのちに瞬間湯沸かし器も裸足で逃げ出すほど一気に顔を赤く染めて、終いにはわなわなと震えだした。ローが“匿名の女”の正体を指摘したときよりも動揺していた。
「すげェ顔してるぞ」
ローがしれっとそう言ってのければ、やっと人間の言葉を喋れるようになったナマエは叫んだ。
「嘘吐き!一分と待たなかったじゃん!!」
駐車場で彼女の声が響き渡ったが、ローはその一切を無視した。ローは心の底から“おれは悪くない”と思っていたのだ。だから彼はナマエを置き去りにして駐車場を出て行こうとした。先月と同様に、やりたい放題やったローは勝手に帰ってしまうのだとナマエは思ったのだが、それに反してローはエレベーター乗り場に続く自動ドアの前で立ち止まった。そして、未だに怒り心頭と言った様子で子供みたいに地団駄を踏んでいるナマエを振り返る。
「帰るぞ。それともずっとそこにいるのか?」
「……かえる」
ナマエは不貞腐れた声音でそう答えると、転がっていた紙袋を拾って素早く鞄に詰め込みながら小走りでローのところまでやって来た。行きとは違ってエレベーターを使うことにしたので、ローは上向きの三角ボタンを押した。
二人並んでエレベーターを待つ間、お互い無言だった。所在なさげにぷらぷらと揺れているナマエの手を取って握ってみれば、彼女はびくっと過剰反応したのちにローの顔を凝視してきた。元から大きな彼女の瞳は零れ落ちそうな程に見開かれている。それを横目で見ながらローは口を開いた。
「“嫌”か?」
ナマエは小さく首を振ってローの指先に自身のそれを絡ませてきたので、彼の口角はほんの少しだけ吊り上がった。もう一度だけナマエの小さな手を握ると、彼女もぎゅっと握り返してきた。俯いた彼女の艶やかな髪から覗く耳は真っ赤に色づいている。そんな彼女を見れば、もう少しくらいなら待ってやってもいいか、なんてローは思うのだった。
さて。今後、ローは幾度となくナマエから“一分も待てなかった件”について事あるごとにチクチクと言われることになる。それに対してローは、舌を入れなかっただけ感謝して欲しいし、自分には一切非が無いと思っているのだが、これは果たして彼だけが悪いのだろうか。
イギリスの推理小説に出てくる神父の台詞が語源と言われているこの諺は、文字通りに“物を隠すなら似たような物の中に隠すべき”という教訓を表している。だから何だと言われればそれまでだが、ローには一つだけ解せないことがあった。ローの幼馴染は毎年毎年、沢山のチョコレートに自分の物を匿名で混ぜて送ってくるのだが、これには何の意味があるのだろうか。
◇
今年こそは幼馴染からチョコレートを貰えるのでは。この不毛なバレンタインに終止符が打たれるのではないだろうか。
これが二月一日を迎えたローが抱く淡い期待である。ところが、彼が決して顔には出さないその願望はエックスデー当日に木っ端微塵にされるのだ。放課後、店でも開くのかと言いたくなるくらいに溢れんばかりのチョコレートが入った紙袋を持った本人の登場によって。大量のチョコレートを届けにきた彼女が教室に顔を出せば、無駄に勘が冴えている一部のクラスメイトはローを憐れんだ瞳で見てくるのだが、そんなこと知ったことか。
彼女が運んでくる沢山のチョコレートなどいらない。このチョコレートの山の中のたった一つ、ローは“匿名の女”からのチョコレートが欲しいだけなのだ。
「ささ、お納めください」なんて、へらりと笑うこの女はローが“匿名の女”の正体に気付いていると知ったら、どのような顔をするのだろうか。こちらの気も知らないで良い気なものだ。
されど、ローが自分から“それ”を言うことは決してない。それがいつまでも煮え切らない不可解な態度を取り続けるこの女に対するローの意趣返しだからだ。
大変不本意なことに、ローはこの能天気な女が好きなのである。それを自覚するのにはそれなりの曲がり路と下り坂があった。とはいえ、その話をしていると本題が進まないのでここは割愛する。余談だが、彼女への恋心を認めるまで一年ほど時間を要し、認めてからも三ヶ月くらい凹んだ。何故に自分はこんな面倒くさい女を好きになってしまったのか、それはローが一番知りたいことだ。前世は悪逆の限りでも尽くしていたというのか、甚だ疑問だ。
さて、“匿名の女”の正体がナマエだとローは何故知っているのか。
それについては、実はかなり早い段階から気付いていた。具体的に言うと、小学校二年生のときからだ。
ローの両親の仲は物凄く良好で、結婚してからもそういったイベントごとを毎年欠かさずに行っていた。だからローはバレンタインというイベントの存在を知っていた。ついでに、女が好きな男にチョコレートを渡すというイベント概要は我が国特有のお菓子業界の陰謀で、外国の様式とはかなり違うことも知っていた。彼は賢く早熟だったのだ。
対する彼の幼馴染は「二月になるとチョコが食べたくなる」と当たらずといえども遠からずなことを言っていた。そんな彼女がバレンタインというイベントの存在を認知したのは小学校一年生のときだ。クラスメイトにもロー同様にませた少女がいたようで、バレンタイン当日にチョコレートを渡そうとしてきた女子がいた。ローは別に好きでも嫌いでもない異性から貰ってでも食べたいと思うほどチョコレートが好きではない。だから素直に首を横に振った。
そんな一部始終をナマエは大きな瞳を更に大きくし、犯罪の犯行現場を見ているような顔でじっとローを見ていた。あ、こいつはチョコレートを渡されたおれのことを“狡い”と思ってやがるな、と呆れたローだったが暫くしてそれは違うのではないかという疑惑を抱いた。他の男子が貰っているところとローが貰っているところを見守る表情が差分程度であるが違ったのだ。何故その違いに気付いたのかは、普段から彼女をずっと見ていたということを認めるのと同義なのでローは深く考えないことにしている。そんな小学校一年生のバレンタイン。後日、健康が取り柄の筈の彼女が三日間寝込むという謎があったが、彼女の中でローは“特別”であるということを確かめることができたのだった。
そして問題の小学校二年生の二月十四日が訪れる。
当日、ナマエは登校時からソワソワして落ち着かないようだった。その挙動不審な様子を見てローは確信した。これは黒だ。彼女は絶対にチョコレートを持っている。同世代の少年少女に比べてローは執着心があまり無く淡泊な子供だった。ところが、こと彼女に対してローは、幼い独占欲の塊を持て余して自己中心的な認識を振りかざしていた。だからローはそのチョコレートを自分のものだと決めつけていたのだ。何故ならナマエと一番接点のある男子は自分だからだ。
しかし、現実は上手くいかなかった。いつまで経ってもナマエはチョコレートを渡しに来ない。ローは世話が焼けると思いながらチョコレートを回収しに彼女の元まで行った。その太々しさはナマエからすると傲岸不遜にも程があったのだが、ローはそれには気付けなかった。だからローがナマエに向かって手を出してみれば、彼女は暴言を吐いて教室を飛び出してしまったのだ。世の中には言い方というものがあるのだが、幼い彼にはそれが理解できなかったのである。ローが首を傾げながら自席で悶々としていると、休み時間が終わるころに先程と打って変わって上機嫌なナマエが戻って来た。スキップまでしてたので正直引いた。この短時間に何があったのだろうか。ローは困惑した。
次の休み時間にローの席にやって来た彼女はこう宣った。「ロー、チョコあげる」と。
結果として、ローはチョコを貰うことができた。別に好きでも嫌いでもない少女二人とどこの馬の骨のか分からない少女のチョコレート、全部で三つだ。同じクラスの男子の中で貰った数と渡されそうになった数の総合ランキング一位に輝いたローだったが、彼にとってそんなことは物凄くどうでも良かった。
他人のチョコレートをローに押し付けたナマエは、相も変わらずにニコニコとしている。帰り道に鼻歌交じりで前を歩く幼馴染を疑念の瞳で見つめながらローは考えた。ナマエが誰かにあげるためにチョコレートを持っていたことは確かだ。そして、この態度を見ればそれは成功したに違いない。ならば。こいつ、おれ以外の誰に渡したんだ。
帰宅後、ローは貰って来たチョコレートをテイクフリーと言わんばかりに居間のテーブルに転がして不貞腐れていた。好きでも嫌いでもない人間から貰ったチョコレートなんて食べる気もしない。だったら食べたい人が食べればいいのだ。甘いものが大好きな妹にでもあげよう。きっと喜ぶに違いない。机に突っ伏していると、夕食の準備をするためにローの母親が居間を通りかかった。
「あら、ナマエちゃんからチョコ貰えたの?」
そして、ローが転がしてるチョコレートを目に入れると、開口一番にそう言ったのだ。ローはガバリと顔を上げて母親を凝視した。ローの瞳に映った母親は、微笑ましそうに口を綻ばせている。
「この前スーパーでナマエちゃんを見たんだけど、やけに挙動不審だからどうしたのかと思ってずっと見てたの。そうしたらチョコレートを棚から取ってレジに持っていったのよ。顔真っ赤にしてて可愛かったわ。良かったわね、ナマエちゃんからチョコ貰えて」
「……」
ここでローは一つの仮説を立てた。
ナマエが渡してきた“誰かさん”とはナマエ本人のことでは無かろうか。何故自分の名前を名乗らないのかは分からないが、あのナマエのやることだ。きっと暴言を吐いた後に引っ込みがつかなくなっただけに違いないのだ。ナマエが上機嫌だったのは、どさくさに紛れてローにチョコを渡すことに成功したからでは。匿名のカードを送る英国でも無いのだから、どう考えても成功とは言い難いがあの呑気な少女ならそう捉えてもおかしくない。とはいえ、まだこの仮説は証明されていない。限りなく10割に近い正解のような気もしないでもないが、ローは疑り深い性格をしていたので仮説が確定されるまでは何も言わないことにした。
翌年、トラファルガー少年はバレンタインシーズンが到来すると近所のスーパーに視察に行き、そこで売られているチョコの種類を全て確認して記憶した。
その結果、ナマエがくれた“誰かさん”のチョコレートは近所のスーパーで売られていたものだった。ちなみにそのチョコレートはPB品であるのでこの系列のスーパーでしか販売されていないものだ。ローの仮説はここに証明された。昨年同様に渡しやすいように督促しに行ったのに、押し付けられたのが解せないけれども。何故頑なに隠したいのか彼女の心境が良く分からないが、あまりにも必死だったので結局ローはそれについて触れることができなかった。
四年生になったローは今年こそは彼女の言う“誰かさん”について指摘してやろうと思っていた。しかし、彼のその気持ちは朝礼前のナマエの様子を見て萎んで消えた。
ナマエが“義理チョコ”という悪しき文化を覚えたのである。クラスメイト(男)に悪戯っぽく笑いながら、お徳用のチョコレートを配るナマエをローはガツンと鈍器で頭を殴られたように最低な気分でじっと見ていた。そして思った。
こいつ、おれには匿名で渡すくせに他の奴らには堂々と顔も名前も隠さずに渡すのか。しかも笑顔のオプションまでつけて。こんな屈辱があってたまるか。
だからローは固く誓ったのだ。ナマエが自分から“誰かさん”の正体を明かすまで、絶対に自分からは言ってやらないと。
そして、彼と彼女の不毛なバレンタインの攻防の火蓋が切って落とされた。第三者から言わせればお互いの一人相撲っぷりが凄いのだが、それを指摘して彼らを冷静にさせる者は残念なことに現れることが無かった。
おかげで、毎年ナマエはローに沢山のチョコレートを運んでくるようになってしまった。さらに許し難いことに彼女はチョコレートの入った袋を“トラファルガー便”と呼んでいるのだが、それは一体どういうことだ。勝手に人の名前を面白可笑しく運送便の名前に使うな。
そもそも、毎年バレンタインに匿名で回りくどく面倒くさい方法でローにチョコレートを渡してくるのだから、ナマエはローのことが好きに違いないのだ。
それなのに、他の女からのチョコレートを平然と渡してくるのにも業腹だった。ローは彼女が義理チョコを配り歩く姿がとてつもなく面白くないのだが、彼女は違うのだろうか。毎回毎回ヘラヘラ笑ってチョコを渡してきやがって。そんなナマエの対応は、ローの意地を轟々と燃え上がらせる燃料になっていた。
ローは高校に入学すると、圧倒的に女子から告白をされる回数が増えた。ところが、ナマエは焦る素振りを全く見せない。それどころか、地味にナマエはモテた。義理チョコを貰えて脈があるのではないかと勘違いしている輩もいた。そうなってしまえば、焦ったのはローの方である。
だからローは決意したのだ。高校二年生になった今年、このあたりでこの不毛なバレンタインを終わらせてやると。といっても、ご存知の通り彼は物凄くプライドが高かったので、自分から言うつもりは無かった。あくまで相手から言わせてやろうと思っていた。
なんてこともあり、紆余曲折を経て念願叶ってローは告白付きでナマエからチョコレートを貰ったのである。面倒なことなどせず、普通に渡してくれれば他の少女のように突っ返すこともせずに貰ってやったのに。何年待ったと思ってるのだ。散々待たされたのだから、少しくらい焦らしても良いだろうとローは考えた。
ところが、ローにとってはバレンタインは目的のための手段であり、ナマエにとってはバレンタインが手段のための目的になっていた。その違いにローは気付くことができなかった。『鉄は熱いうちに打て』という諺がある。このとき囲い込んでしまえばよかったのに、宙ぶらりんな一か月間。ローはナマエに余計なことを考えるための冷却期間を与えてしまった。そして、それは完全に悪手だったとローは思い知ることになる。
◇
バレンタインの翌日、彼女は至って普通だった。その様子を一目見て、ローは表情には出さなかったものの内心困惑していた。昨日の一件があり、自分と彼女の関係は変わった筈だ。ナマエはローに告白し、ただの幼馴染ではなくなった。それなのに。朝にバス停で出会ったときも、いつもと変わらず能天気で平和な笑顔だった。何も悩み事など無いのだ、というくらい彼女は清々しい様子だった。そんな彼女を見て、ローの頭の中を嫌な予感が駆け巡った。ひょっとして、ナマエの中では“ローにチョコレートを渡す”という目的が達成されたことにより、彼女の中のバレンタインは完結してしまったのではないか。返事も貰っていないのに?そんな馬鹿な話があって堪るか。
だからローは、鈍いこの女でも分かるように少しだけ物理的な距離を詰めた。それには流石の彼女も“今までとは違うなにか”に気付いたようで効果はあった。
どのようなリアクションが彼女から返って来たのかというと、ローは彼女に避けられるようになったのである。意味が分からない。告白もされた。チョコも貰った。告白は“された”よりも“させた”に近いが、とにかく言質は取ったのだ。それなのに、どうしてこうなった。この女大概にしろよ。ローは心底そう思ったが、休み時間に移動教室に向かう彼女が友人達と無邪気に笑いながら話しているのを見て、その笑顔を悪くないなと思ってしまうのが末期だと気付いてしまって地味に凹んだ。クラスメイトの一人は「トラ男、元気が無ェな。肉を食え」と根拠と効果が結びつかないアドバイスをしてくれたが、それは余計な世話というものだ。
更に月日が進み、ホワイトデー前日になった。この頃になると、生活圏はほぼ100%被っている筈なのに彼女の姿を全く見なくなった。登下校のバスで会うことも無かったし、移動教室のときも擦れ違わなくなった。彼女は人間からツチノコになったのだろうか。最後にナマエの姿を見たのは昨日。校庭で体育の授業があり、ジャージ姿のナマエがちょこまかと動き回っているのをローは教室の窓から眺めていた。バレンタインにチョコレートを貰えても、尚もナマエに振り回されていることに心底納得がいかないローに気付くことなく、彼女は授業で大活躍をして大層輝いていた。彼女のパロメーターは体育に全振りされているのだ。
そして、とうとう3月14日がやって来た。この日の為にローはきちんと“お返し”を用意していた。ホワイトデーについて文明の利器で色々と調べ、相手によって返すものが違うというお菓子業界の陰謀と面倒臭さに辟易しながらも喜ぶナマエのことを考えて何とか耐えた。それでも、検索履歴を即座に消すことだけは忘れなかった。羞恥心との戦いだったが、ローは彼女が好きそうな洋菓子店で可愛いらしいキャンディを購入することに成功した。余談だが、仏頂面で眉間に物凄い皺を寄せたイケメン高校生がキャンディを買いに来た話で洋菓子店のバイトたちは今までに無い程に盛り上がった。それはローが知り得ない、いや知らない方が良い話だ。
というわけでローの準備は万端だった。ところが、肝心のナマエに会うことができなかったのである。
日中は彼女を見つけることができなかったので、ローは初めてロングホームルームをサボってナマエのクラスの前で待ち伏せをしていた。彼は秩序とは無縁の顔立ちと雰囲気を纏っているが、意外とそういった決まり事は守るタイプだったのだ。下校するためには下駄箱に行く必要があるので、必然的に教室を出なければいけない。だからローはロングホームルームが終わってナマエが教室から出てくるのを待った。ナマエはきっとロングホームルームが終わった瞬間にローから逃げようと教室を飛び出してくるに違いないのだ。そう思ったのに、いつまで経っても彼女は現れない。三分程待っても音沙汰が無いので、流石に不審に思ったローは彼女の教室の引き戸を勢いよく開けた。鋭い双眸で教室内を見回していると、不思議なことにナマエの姿は無かった。
「ナマエなら体育館履きでそこの窓から出てったわよ」
不意にかけられた声の方へ視線をやれば、オレンジ色の髪の快活そうな少女が笑っていた。彼女は机に頬杖をついて、悪戯な猫のように形の良い唇を吊り上げている。普通の男だったら見惚れてしまうような可愛い笑顔だが、ローはそれに篭絡されるような短絡さは持ち合わせていない。それに、そんなことはどうでも良いと思ってしまうほど事は重大だった。
彼女の言葉を聞いたローは頬を引き攣らせた。ローが通う学校の構造上、一年生は一階、二年生は二階、三年生は三階、と学年ごとに教室がある階が違う。しかし、一つだけ例外がある。二年生の教室でナマエのクラスだけ一階に教室があるのだ。だからといって、遅刻しそうになった男子生徒でもあるまいし、誰がナマエが窓から出て行くことを予測できただろうか。
「本当にさっき出てったから走ればすぐに追いつくと思うわ」
ローは彼女が指さした窓に向かって教室を走り抜け、そこから校庭に飛び降りた。向こうが体育館履きならこっちは上履きである。
「あと、ごめん!じゃあ、これでチャラってことで!」
ひらひらと手を振ってローを見送りながら彼女は言うが、何が“ごめん”なのか。そこは物凄く引っかかったし問い詰めたいところだが、今はそれどころでないので不問にすることにした。どうせ碌でもないことに決まっているのだ。
校門を出たローが通学路を見渡すと、遥か遠くに豆粒ほどの大きさになったナマエの姿が見える。それを目にした瞬間、逃がすものかとローは条件反射で走り出した。ところが、何か虫でも知らせたのかナマエは後ろを振り返ったのだ。距離がかなりあったので目鼻立ちの区別は付かなかったが、お互いの視線が合ったような気がした。その証拠に、自分に向かってくるローの姿に気付いたナマエは、くるりと踵を返して脱兎の如く逃げて行った。
ここに、地獄のホワイトデー延長戦の鬼ごっこが開幕したのである。
ナマエが向かった方向は、彼女の家へと帰るための通学路ではなく駅への道だった。ナマエの自宅から学校までは歩いて登下校するには少し遠く、彼女もローもバスで登下校しているのでそれなりに距離がある。その長距離では、いくら運動神経が良いナマエでも耐久と速度でローに勝てる確率はゼロだ。確実に追いつかれる。だから彼女は人混みに紛れる作戦に出たのだろう。ナマエは駅の近くにある複合アミューズメント施設に飛び込んでいった。ボーリングやゲームセンター、カラオケなどが入っているこの施設は学生の溜まり場になっているので、放課後には同じ制服を着た男女が沢山いるのだ。こんなところでも、“木を隠すなら森の中”か。彼女はここで隠れてやり過ごすつもりに違いない。そうはさせるか。
ナマエが逃げ込んでから数十秒後にその施設に足を踏み入れたローは、ざっと入り口付近に貼ってある施設案内を流し見した。ナマエは何かやらかすと高いところに上る習性がある。普通に考えて最上階のどこかに潜んでいる可能性が高い。ところが、その習性をあのバレンタインのときに指摘してやったので、ローがそれに気付いているということを彼女は知っている。ということは、裏をかこうとして逆に下に降りるのではないか。そう検討をつけたローは騒がしいゲームセンターの中を通り抜けて下の階へと続く階段を駆け下りた。地下一階はアーケードゲームやプリクラの機械が都会のビルのように隙間なく並び、騒がしさは変わらない。更に下に降りれるようだったので、ローはそこを素通りして二段飛ばしで階段を降りた。何故自分はホワイトデーにこのようなことをしているのか。そんなもの、深く考えるな。考えたら負けだ。
最下階は駐車場になっていた。ローが駆け下りた階段はエレベーター乗り場に繋がっており、そこを通過した彼は駐車場へと続く自動ドアを抜けるとやっと足を止めた。それからローは辺りを見回した。
20台ほど車を停められる駐車場には、パッと見てナマエの姿は無い。平日だが週末の夕方ということもあって、車はぽつぽつと停まっている。ホラー映画のように時間をかけて一つ一つ車の影を覗き込んでも構わないが、それは時間の無駄だ。ローは手っ取り早く彼女の存在を確かめるために、コートのポケットの中からスマートフォンを取り出して、スリープモードを解除した。そして、迷わずに短縮ダイヤルからナマエの電話番号を押した。その瞬間。駐車場の最奥の角に止まっていた車の影からアラームのような音と「うぇっ!?」という少女の間の抜けた声がしたのだ。すぐにアラームは消え、何事もなかったかのように辺りは静まり返ったが今更取り繕ったところで遅い。ナマエの携帯は電話だけ着信音が鳴るように設定されているのをローは知っていた。知っていたからこそのローの作戦勝ちである。
「出てこい」
アラーム音と声が聞こえた黒いセダンに向かってローがそう言えば、ナマエは観念したようだった。渋々と車の影から顔だけ覗かせたナマエと、ローの視線は久々にしっかりと交わった。
「……何で上に行かないの」
恨めしそうに彼女は半眼で尋ねてきたが、ローもまさかここまで上手くいくとは思っていなかったので彼としても複雑な気分だった。
「この前と逆の行動を取ると思ったからだ」
「マジかぁ」
手品の種明かしでもするようにローが答えてやれば、ナマエはガックリと肩を落とした。ここ最近の彼女の行動を振り返れば、肩を落としたいのはこちらの方だ。散々人を振り回してくれたナマエに文句を言うべく、彼女が隠れている車に向かってローは一歩足を踏み出した。すると、何故かナマエは再び車の影にサッと隠れたのである。いや、もう遅いだろ。無駄な抵抗にも程がある。呆れながらも車に向かう足を早めると、ナマエは壁と車の隙間を器用に通り抜けて反対側に回る。何だこいつ、小学生か。
「お前、この前から何で逃げるんだ」
ナマエの行動がおかしいのは今に始まったことではないが、流石にこれは度を越している。頭を抱えたい気分になったローに、先程とは反対側から顔を覗かせたナマエは気まずそうに視線を逸らしながらボソボソと独り言のように小さな声で言った。
「だって恥ずかしいじゃん」
今更か。ローは無の極地に陥った。
「そもそも私、チョコレートを渡すことが最終目的みたいになってたからその先のことを考えてなかった」
今ここにバレンタイン翌日にローがふと考えたことが正解だったと証明されたわけだが、ローは彼女が抱く恋愛感情の幼さを甘く見ていたことに反省した。これはお互い真面目に話し合うべきなのでは。近付こうとする度に逃げられるのでは堪ったものではない。話し合う為にローがナマエの隠れている側に周ろうとすると、またもや彼女は反対側に逃げようとした。ところが、ローにとって好都合なことに彼女は回避に失敗した。スクールバッグが車と壁の隙間に引っかかったのである。動けなくなった彼女は両手でローが近付いてくるのを制しながら言った。というより、叫んだ。
「ストップストップ!あと1キロ痩せるから待ってて!」
地下駐車場に響き渡った、今の状況とは全く関係ない言葉にローは盛大に困惑した。“バレンタイン”と“ホワイトデー”と“1キロ痩せる”のに何の因果関係があるというのだ。
「お前、何言ってるんだ」
賢く知恵の回るローも流石にこの超展開のトンデモ理論を理解することができなかった。なので、彼は眉間に皺を寄せて訝し気に言った。完全に素の疑問だった。
「バレンタインってチョコが沢山売ってるじゃない」
「そうだな」
「自分用にもチョコ買うじゃない。友達からも貰うじゃない」
「だから?」
「太った」
ローは彼女の話に口を挟むのを止めた。真剣に相槌を打ったところで理解できないものは理解できない。なら黙って聞いている方が精神的な消耗は少ないに違いない。要領を得ない彼女の話をパズルのピースを嵌め込むようにして、彼は状況の整理をすることにした。
バレンタイン翌日から急に距離が近くなったローに対してナマエは意識し出して逃げるようになったという。これはほぼローの予想通りで、寧ろ意識してくれなかったらそれはそれで複雑なものを感じる。そして一人で抱え込めなくなったナマエは友人に相談した。そう、あのオレンジ色の髪をした快活そうな彼女である。彼女は言った。「距離が近い?まぁ、トラ男くん手が早そうよね。決まったらガッといきそう」とんだ風評被害だ。その話を聞きながら彼は理解した。彼女が言っていた謝罪とはこのことに対してなのだろう。そして、単純なナマエはそれを真に受けてしまった。ナマエは不安になったのだ。いざ、ローと“ガッ”となったとき、この慎ましやかな胸ではガッカリさせてしまうのでは。そう友人に話したところ、彼女は少し思案してから言ったという。「どっちかというと、胸より脚じゃない?」あの軽い謝罪では到底許すことのできないくらいの暴言である。やはりその発言も真に受けたナマエは考えた。慎ましやかな胸は一朝一夕ではどうにもならないが、体重を落として身体全体を細く見せることくらいはできるのでは。ローは好意を持っている女の体型は全く気にならないのだが、女心は理解できないしできる気がしない。以前体重を気にする妹に疑問を投げかけたら、今までで一番酷い反応を返されたことは彼の胸に刺さった棘になっていた。だから女の体形の話は男が口を挟むべきではない。ローはナマエの体型の話には一切触れない方向に決めた。
「じゃあ最近行き帰りに会わなくなったのは」
「バスに乗るのは止めて歩いて登下校してる。聞いて、ちょっと痩せたの!」
罪の無いセダンに鞄を引っかけながらも満足げに頷くナマエにローは眩暈を覚えた。
「一度お前の体型の話から離れろ。それで、お前はこのおれがそんなにがっついてるように見えるか」
「……」
返事は無かった。大変失礼なことにナマエは物凄く真剣に悩んでいた。その様子にローは複雑なものを感じたが、そこを追及しては話が進まない。
「質問を変える。おれがお前が本当に嫌がってることをしたことあるか」
「……サンタの正体バラした」
「何年前の話だ」
小学校高学年にもなれば流石に真実を知っていると思ってたので、あれは不幸な事故だ。サンタの正体を知って呆然自失になっていたナマエの姿を目にしたクラスメイト達は、皆視線でローのことを責めてきたのはかなり時が経った今でもよく思い出せる。しかし、ローの名誉の為に言うとアレはそのときに偶々居合わせて真実を言ってしまったのがローだっただけで、他の人だって誰しも戦犯に成り得たのだ。というか、未だに根に持ってるのかよコイツ。ローが小さく嘆息していると、ナマエはローの溜息よりも少しだけ大きいくらいの声量でポツポツと言った。
「うそだよ、今まで無いよ。ローのそういうところ、嫌いじゃないよ」
そこは好きって言えよ、と思わなくも無かったローだったが、おおよそ欲しい答えは貰えたので良しとするべきか。相手はナマエだ。これがきっと最上に違いない。ローは車に引っかかっているスクールバッグの位置をずらしてナマエが動けるようにしてやった。彼女は小声で礼を言うと、車と壁の狭い隙間から這い出てくる。ローが手を差し伸べてやれば、彼女が手を握って来たので引っ張り上げて立たせてやった。先月と全く同じ展開である。どうしてこうなった。ローは握っていたナマエの手を離すと、自身の鞄を探って濃紺色の紙袋を取り出した。ローの掌から少しはみ出るくらいの大きさのものだ。
「手を出せ」
ナマエは恐る恐るといった体でローに両の掌を差し出してきたので、ローはそこに紙袋をおいてやった。ローの掌では片手で持てるくらいだが、ナマエの小さな手では両手で持つくらいが丁度良かった。それを受け取ったナマエは少し不満げだった。多分ローに自分だけ言わされたこと――告白をさせられたという事実が納得できないのだろう。
「返事は?」
どうやらその読みは正解だったようで、ナマエは低い声で“言葉”のお返しを促してきた。
「……おれもお前のことが好きだ」
「何で今溜息吐いたの?」
それは自分の胸に聞いて欲しい。この状況を思えば、溜息の一つや二つ吐きたくなるというものだ。何故にバレンタインのお返しをする場所がアミューズメント施設の薄暗い駐車場なんだよ。足元はもっと酷い。ナマエは体育館履きだし、ローなんか上履きである。
「お前がおれから逃げるからだろ。それも窓から、体育館履きで」
そう言い返してやれば、その正論にはナマエはぐうの音も出ないようだった。彼女は口をぎゅっと結んで押し黙った。
「それから、お前が不安になってることだが、無理にはしない。待っててやるから」
これはローの本心であり、なけなしの理性と善意であった。そうであったのに。
「そうだよね……。だってロー、何年も待ってくれたもんね?」
ナマエは安心したように笑った。が、ローはちっとも笑えなかった。ちょっと待て。こいつ、これだけ待ってきた自分に更に何年も待てというのか。ローの頬は自然と引き攣っていった。ローだって高校生だ。ナマエとするそういうことに興味がないわけではないし、“ガッ”といけるものなら“ガッ”といきたいのである。やはり人の気も知らないで、能天気に笑うこの女に腹が立った。彼女のその一言で、長く耐え忍んだローの冬は終わりを迎えた。
だからローは背を少し丸めてナマエに顔を近付けると、彼女の顎を軽く持ち上げた。そして、不思議そうな顔をしているナマエの唇を自身のそれで塞いでやった。たった数秒のことだった。
ローが彼女から唇を離した瞬間、ぼとり、とナマエは手に持っていたローのお返しを落とした。コンクリートの床をコロコロと転がっていくそれを横目に、彼はぼんやりと“お返し”をアルミケースのものにして良かった、と思った。対するナマエは、呆然としたのちに瞬間湯沸かし器も裸足で逃げ出すほど一気に顔を赤く染めて、終いにはわなわなと震えだした。ローが“匿名の女”の正体を指摘したときよりも動揺していた。
「すげェ顔してるぞ」
ローがしれっとそう言ってのければ、やっと人間の言葉を喋れるようになったナマエは叫んだ。
「嘘吐き!一分と待たなかったじゃん!!」
駐車場で彼女の声が響き渡ったが、ローはその一切を無視した。ローは心の底から“おれは悪くない”と思っていたのだ。だから彼はナマエを置き去りにして駐車場を出て行こうとした。先月と同様に、やりたい放題やったローは勝手に帰ってしまうのだとナマエは思ったのだが、それに反してローはエレベーター乗り場に続く自動ドアの前で立ち止まった。そして、未だに怒り心頭と言った様子で子供みたいに地団駄を踏んでいるナマエを振り返る。
「帰るぞ。それともずっとそこにいるのか?」
「……かえる」
ナマエは不貞腐れた声音でそう答えると、転がっていた紙袋を拾って素早く鞄に詰め込みながら小走りでローのところまでやって来た。行きとは違ってエレベーターを使うことにしたので、ローは上向きの三角ボタンを押した。
二人並んでエレベーターを待つ間、お互い無言だった。所在なさげにぷらぷらと揺れているナマエの手を取って握ってみれば、彼女はびくっと過剰反応したのちにローの顔を凝視してきた。元から大きな彼女の瞳は零れ落ちそうな程に見開かれている。それを横目で見ながらローは口を開いた。
「“嫌”か?」
ナマエは小さく首を振ってローの指先に自身のそれを絡ませてきたので、彼の口角はほんの少しだけ吊り上がった。もう一度だけナマエの小さな手を握ると、彼女もぎゅっと握り返してきた。俯いた彼女の艶やかな髪から覗く耳は真っ赤に色づいている。そんな彼女を見れば、もう少しくらいなら待ってやってもいいか、なんてローは思うのだった。
さて。今後、ローは幾度となくナマエから“一分も待てなかった件”について事あるごとにチクチクと言われることになる。それに対してローは、舌を入れなかっただけ感謝して欲しいし、自分には一切非が無いと思っているのだが、これは果たして彼だけが悪いのだろうか。
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