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先人は言った。
『木を隠すなら森の中』
物を隠すには同じものの集まりに紛れ込ませる方法が良い、というかくれんぼには持ってこいの有難い教えである。
そこで私は考えた。
『チョコレートを隠すならチョコレートの中』
よって私は、毎年自分の想いを他の女の子の想いに隠して彼に届けるのだ。
◇
今年こそは『チョコレートを隠すならチョコレートの中作戦』を止めよう。この不毛な自己満足に終止符を打つのだ。
これが二月一日を迎えた私の燃え滾るような決意と覚悟である。ところが、パンパンに膨らんだやる気はエックスデーが近付くにつれてどんどん萎んでいく。そして。
「あのさ、これ。彼に渡して欲しいんだけど」
なんて、縋るようなチワワの瞳をした女の子から頼まれごとをされてしまった瞬間にその決意は完全に消えてしまうのだ。さよなら私のバレンタイン。ホームルーム前、休み時間。時間が経つごとにどんどん私が預かる“想い”が増えていく。予め用意しているユニセックスのファッションブランドのショッパーの底に入っていた私の“想い”が埋もれていくのを見ながら、私は後悔の念に苛まれるのだ。今年も我ながら馬鹿なことをしてしまった、と。正直に白状するとこの袋ごと太平洋のど真ん中に沈めてしまいたいが、受け取ってしまったのなら義務を果たさなければいけない。
理性と感情が仁義なき戦いを繰り広げた結果、残念なことに理性が勝ってしまった私は放課後になるとガタリと席を立つ。そして、ショッパーを持って重い足取りで隣のクラスに向かうのだ。
ロングホームルームが終わって暫くしてから尋ねた隣のクラスは、人がまばらで比較的に静かだ。開いたドアから顔を覗かせた部外者に数対の視線が集まるも、私だと気付くと興味無さげに逸らされる。まぁ、私は頻繁にこのクラスに来ているので、このクラスの準レギュラーみたいなものだ。特に珍しくもないのだろう。一部憐れんだ視線が混ざっているような気がするのだが、それには敢えて気付かないフリをしている。
我が物顔で隣のクラスに入った私が教室を見渡すと、窓際の一番後ろの席に尋ね人はいた。奴は机に頬杖をつきながら、人の気も知らないで呑気に外を眺めている。整った横顔に憂いを帯びた(ように見える)琥珀の瞳。何気ない仕草が大層絵になるのだから、このクソ重いショッパーの中身も必然の結果といえよう。そんな彼は私に気付くと、顔は向けずに横着をして視線だけ寄こした。
「お前も毎年大変だな」
「誰の所為だと思ってるの?ローが素直に受け取らないからじゃん」
開口一番のあんまりな言葉に私はがっくりと肩を落としてしまった。貴方が来るものを突っぱねるから、私はわざわざ自前でショッパーまで持ってきてるんですけど。とはいえ、この自分勝手なトラファルガー節には慣れっこなので、私は小さく嘆息してそれを受け流した。
「まぁいいや。これが三組のレナちゃん、二組のシェリーさん、三年五組のアイリ先輩、二年四組の……」
送り主の名前を書いておいたメモを読み上げながら、机の上に一つずつ並べていく。この男はチョコを貰うくせに差出人の名前を一切見ようとしないのだ。なんだ、ただの食いしん坊か。チョコが食べたいんだったら普通に受け取ればいいのに、と思わなくも無いがローは気紛れであるので深い理由は無いに決まっている。
本人が覚える気があるかどうかは別問題だが、チョコを預かった者の責務としてせめて名前だけでも耳に入れてあげようと自分の首をぎゅうぎゅう締める私はなんて大馬鹿なんだろう。内心鬱々としながら全て並べ終わった私は、最後にショッパーの一番底で眠っていたチョコレートを机に乗せた。
「と、匿名希望の子から」
ささ、お納めください。なんてへらりと笑いながら彼に渡して私の任務は終了だ。その情けない笑顔の下で後悔と自己嫌悪に押しつぶされているのだが、この男はそんなこと知りもしないのだろう。悔しいことに。ローは私を一瞥すると、無造作にショッパーにチョコレートを詰め込んでいく。そして、最後に一つだけ残った匿名希望の誰か――私のことである――のチョコレートを入れるのだ。
私のチョコがショッパーに消えていくのを見届けながら、私の脳内には感情の無い機械的な声のアナウンスが響く。
以上を持ちまして今年のバレンタインを終了します。
やっぱり今年も駄目だった!ハイ解散!
何故この私が毎年このような愚行を繰り返すことになったのか。それは、小学校二年生のときまで遡る。随分前だと思われるだろうが、それほど私と彼の付き合いは長いのである。家が徒歩五分圏内で同い年。受験もしなければ当然学区も同じだ。よって、幼稚園から高校の今に至るまでずっとローとは同じところに通って過ごしてきた。世間一般で言うところの幼馴染というやつだが、多分ローは私のことを腐れ縁としか思っていないだろう。
ご近所に住む“ロー君”は口と態度が悪く性格も素直じゃなかったので孤高の存在であったが、私はそういうのは深く考えられないお子様だった。だから、腹が立てば口も手も時には足も勢いよく彼に出した。結果、周りの大人たちから“喧嘩するほど仲が良い”という認識で微笑ましく見守られて私たちは成長し、幼稚園を卒園して小学校に入学した。
小学校に入学した私は偶に出される給食のアイスと休み時間の鬼ごっこ、図工と音楽と体育の授業だけを糧に楽しい学校生活を送っていた。お察しの通り、私は周りの女子ほど早熟では無かった。当然、バレンタインという戦の存在を知らなかった。二月になるとチョコレートをよく見かけるなぁ私も食べたいお母さんに買って貰おう程度の認識だった。蓋を開けてみれば、その時点で既に出遅れていたのである。
小学一年生の二月十四日。クラスの半数近くの女子は浮足立っていた。いつもと違う雰囲気に戸惑っていると、クラスメイトの一人がモジモジしながらローの所へ行くではないか。私はその様を家政婦になった気分でじっと見ていた。差し出されるチョコ、首を横に振るロー、顔を真っ赤にして教室を出て行くクラスメイト。十秒にも満たない短時間に繰り広げられたドラマに私は驚愕した。さらに驚くことに、ローは別のクラスメイトからも声をかけられていた。確かにローは顔の造作もそれなりに整っていたし、頭も良い。何より運動神経が良かった。私は“幼少時代は運動神経が良い男の子がやたらとモテる”という持論を持っている。その持論が正解かどうかはさておき、ローは数人の女の子からチョコレートを渡されようとしていた。
それを見た私は何故だか面白くなかった。最初はローがお菓子を貰っているので狡いのだと思ったのだが、別の男子が貰っていても何とも思わなかった。なんだこれ。なんだこのモヤモヤ。帰宅した私は暇そうに居間のソファに転がっている姉に相談した。
「あんた、その子のこと好きなんじゃない?」
姉の言葉に開いた口が塞がらなかった。好き。それってどういうこと?幼い私は大層混乱したのだが、今思い出すと姉は携帯を片手に私のことを一切見ていなかった。多分真面目に聞いていなかったに違いない。ところが、いたいけな当時の私がそんなことに気付くはずもないのである。おかげで私は考えすぎて熱を出し、三日間寝込んだ。そして、病床から回復した私は思ったのだった。よく分からないから考えるのを止めよう、と。しかし、バレンタインという小さな棘は私の胸に刺さったままだった。
ということもあってその翌年、私はお小遣いをはたいて近所のスーパーでチョコレートを買った。駅ビルやデパートでバレンタインのチョコが沢山売られているのは知っていたが、小二女子には如何せん敷居が高すぎたのである。心持ち的にも予算的にも。
そして迎えたバレンタイン当日。朝からチャンスはあったのに、私はいつまで経っても渡すタイミングが掴めずにいた。このままではあっという間に一日が終わってしまうのではないかと私は焦った。せっかく買ったこのチョコを無駄にしたくない。どうしよう、どうやって渡そう。珍しく小難しい顔をしている私の元にローがツカツカと私の席までやってきたのはそのときだった。椅子に座ったままの私と私を見下ろすローの静かな視線がかち合う。何だ、何か文句あるのかと身構えた私であったが、ローは徐に手を出してきたのだ。
「なに、この手」
「持ってんだろ。よこせ」
カツアゲか。私は困惑した。いや、そもそも何故貰えて当然みたいな顔をしているのだ。こっちの気など全く知らないでいけしゃあしゃあと言うローに腹が立つ。そう簡単に渡せたら何の苦労も無いというのに。
「ローの分なんてあるわけないじゃん!」
これは絶対にローの言い方が悪い。だから暴言を吐いた私は絶対に悪くない。そう吐き捨てて教室を飛び出した可哀想な私は宛も無く廊下を彷徨った。鞄の中に入っている群青色の小さな袋のことを思いながら後悔をしていると、不意に可愛らしい女の子の声に呼び止められた。びっくりして立ち止まってみれば、同じクラスでグループは違うがそれなりによく話す子だった。「これ、ロー君に渡してくれないかな」なんて、はにかみながら言う彼女が渡してきたそれを私は思わず受け取ってしまった。チョコレートという武器を装備した恋する女の子はべらぼうに可愛かったのだ。私にチョコを渡すと彼女は微笑んで去っていく。一人取り残された私は途方に暮れた。
ど、どうしよう。今度は別の意味で動揺しながら階段を上った。すると、また誰かに呼び止められた。隣のクラスの子だった。嫌な予感がした。そして、残念なことにそれは見事に的中したのだった。
一人になった私は、手の中にある二つのチョコレートを凝視しながら考えた。このチョコどうしよう。渡さなきゃ駄目だよな。自分のだって渡せてないのに、人のなんかもっと渡せるか。このまま皆まとめてペイっとどこかに投げ捨ててしまおうか。そこまで考えて、“まとめて”というワードが私の頭に引っかかった。そして私は閃いたのである。私の分も彼女達の分と一緒に渡してしまえば良いのでは。そうすれば、せっかく買った私のチョコだって無駄にならない。碌でも無いこの思い付きが後程自分の首を物凄い勢いで締めてくるとは考えもしない私は、この名案に顔を輝かせながらいそいそと教室に戻った。
「ロー、チョコあげる」
後ろ手でチョコを持ってローの机のところまで行けば、彼は「やっぱり持ってきてるんじゃねェか」という失礼な顔をしながら手を出してきた。その手に小さな箱二つと袋を一つ重ねておいてやる。ここで初めてローが動揺したように目を瞬かせた。
「これね、アリサちゃんと隣のクラスのユーナちゃんから。それでこれは、“誰かさん”から」
二つの小さな箱を指さしてから、最後に私のチョコレートを指さす。やはりローは困惑していた。
「誰かって誰だよ」
「内緒にしてって言われた」
「お前のは?」
「ない」
その瞬間、ローの眉間に深い皺が寄った。「チョコ欲しかったんでしょ?」とにこやかに言ってやれば、ローは複雑な顔をしながら三つのチョコレートを受け取ってくれた。私は無事にローにチョコを渡すことができたので達成感でいっぱいだった。これが私の記念すべきバレンタイン第一回の記憶である。しかし、その達成感も束の間。家に帰って背負っていたランドセルを自室に置いた私は思った。
絶対違う。
どう考えてもおかしい。私は何かを間違えたのだ。このバレンタインは絶対に失敗した。とはいえ、失敗したならしょうがない。次だ。私はリベンジを誓った。
翌年も私はきちんとチョコを用意した。しかし、昨年あんなことを言ってしまった手前、中々渡すことができずにいた。それどころか逆にチョコレートが増えている。昨年と同様、ローに渡すように頼まれたのだ。更に恐ろしいことに預かったチョコは昨年の倍になっていた。この状況に頭を抱えていると、ローは今年もカツアゲをしてきた。そんなにチョコが欲しいのか!何が何だかよく分からなくなった私は持っていたチョコレートをまとめて奴に押し付けた。バレンタイン第二回、完。
なんて不毛なバレンタインを繰り返して私は成長していった。外見も中身も成長し、遺憾なことに彼に向けた「好き」という感情は本物だということを知ったりもした。そして、私が成長すれば当然ローも成長するのである。“それなり”に整っていた容姿は“ずば抜けて”整ったご尊顔に進化し、背も竹みたいに伸びてそんじょそこらの芸能人も裸足で逃げ出すほどの美少年になったトラファルガー・ロー少年は大層おモテになった。
そんな彼にチョコを渡そうとする女の子は絶えなかった。しかし、ローは対面の場合は容赦なく突っ返し、机やロッカーや下駄箱に入っていたものは落とし物箱に放逐する。正攻法で渡そうとすると、突っ返されるか落とし物として晒し物になるかの二択だが、ローにチョコレートを届けるのに一つだけ裏技がある。それが私だ。大変不本意なことに、私はバレンタイン運輸トラファルガー便として業界に名を馳せていたのだった。
そして、高校二年になった今。私は物凄く焦っていた。高校に入ると、女子のモーションは桁違いになるのだ。ローは結構な頻度で呼び出しをくらっていた。その度に私は思ったものだ。ちゃんとチョコを渡せないまま、ローは誰かとお付き合いをしてしまうのでは。不毛なバレンタインを幾度も過ごしてきたせいで、バレンタインにチョコを渡すという手段が目的に変わっていたことも若干否めないが、私はとにかく焦っていたのである。
今年こそは、今年こそは。そう思っていたのに、頼まれごとを断れないタイプの私は朝からプレゼント受付ボックスになっていた。完全に今までのツケが回ってきている。今年はトラファルガー便を廃業するつもりだったので、ショッパーも準備していない。なので、友人から貰ったコンビニのビニール袋にチョコを詰めた。そんなこんなでコンビニで大量に買い物をした人、みたいになった私は重たい足取りで彼のクラスに向かった。
「毎年お前も大変だな」
頬杖をつきながら、目線だけを私に寄こすと彼は言う。人の気も知らないで完全に他人事である。もうこの天丼芸は飽きた。
「誰の所為だと思ってるの」
本当にそれ。色々と複雑なものを抱きながら溜息を吐いて、いつも通りビニール袋の中身を一つずつ出していく。ビニール袋の中には私のチョコは入っていない。自分の分と預かりものを一緒にしてしまうから良くないのだ、と考えた賢い私は今回は最初から自分の分は別にしてあるのだ。
「で、最後。これが二組のルカちゃん」
「他は?」
今まで興味無さげに聞いていたローは顔を上げると、私の瞳をじっと見てきた。
「え、もう無いけど」
「いらねェ」
ローがトラファルガー便を断ったのは初めてだった。確かに貰って欲しくはないなぁと自分で渡しておいて複雑な気分を抱いていたが、いざ本人から受け取り拒否をされると面食らってしまう。私は目を瞬かせた。
「何で?」
今までずっと貰ってたじゃん、という意味を込めて零れ落ちた私の問いかけに対するローの答えは簡潔だった。
「お前のが入ってないから」
待て。今、なんて言った?
「……ごめんよく聞こえなかった。もう一回言って」
聞き間違いであることを願ってもう一回要求すると、ローは平坦に言った。
「お前のが入ってないから」
やっぱり。頭をガツンと殴られたような衝撃に、私は思わず一歩後ずさって距離を取った。
「……知ってたの?」
引き攣った顔で尋ねる私に今更何を言ってるんだコイツ、と雄弁に語る呆れたような顔をしたロー。顔面が熱い。羞恥で視界が歪む。私はわなわなと震え「あ」だの「え」だのカオナシのように意味の無い言葉を零し、終にはくるりと踵を返すと、絶叫しながら教室を飛び出した。バレンタインの乙女像は完全に失格であるが、そんなことを気にする余裕が今の私にあるわけが無かった。
◇
教室を飛び出た私は、廊下を爆走して階段をひたすら駆け上がった。よく“馬鹿と煙は高いところが好き”といわれるがそれは少し違うと思う。馬鹿は何も考えないから何も考えずに高いところに上ってしまうだけなのだ。別に好きでも何でもない。よって、気付いたときには私は屋上にいた。さらに言ってしまえば、給水塔の上にいた。いくら何でも上りすぎだと良好な視界に映る青空を見上げながら私はそう思った。
空は真っ青だが、私の顔は真っ赤に違いない。その証拠に両手で頬を包むと、真冬の気温で冷えた指先がどんどん温まっていく。恥ずかしい。ずっと気付いていないと思っていた。これは私の自己満足で馬鹿な独り相撲だと思っていた。
それなのに。
「お前のが入ってないから」と言ってローはチョコを受け取ってくれなかった。彼は私が毎年預かりもののチョコレートの山に自分のチョコをこっそり異物混入していたことを知っていたのである。だったら早く言ってくれ!いっそ一思いに殺してくれ!!羞恥で奇声を上げた私だったが、ふと気付いてしまった。
これまでは私のチョコが入っていたからあのチョコ袋を貰っていてくれたっていうことだろうか。つまりそれはどういうことだ。ちょっと待って。そんなもの、都合よく勘違いしてしまうではないか。私は鞄をゴソゴソと漁って底に入っていたチョコレートを取り出した。
「これ、貰ってくれるのかな」
そう呟いたそのとき、屋上の重たい扉が開く音がした。私は瞬時に口を閉じて息を殺し、手に持っていたそれを再び鞄の中に突っ込んだ。絶対にローだ。ここには誰もいませんので、お引き取りください。なんて心の底から念じてみたのだが、相手は迷わず給水塔のところまでやって来る。
「そこにいるんだろ。降りてこい」
そして呆れた声で言うのだ。確信を持って紡がれた言葉に抗うべく、私は無言を貫き空気に擬態してひたすらいないフリをした。しかし、相手は一向に動かない。結局のところ根負けしたのは私の方だった。
「何で私がここにいるって分かったの」
給水塔からひょっこりと顔を出すと、ローは溜息を吐いた。やれやれと言いたげなその視線が何とも小憎たらしい。
「お前、何かやらかすと毎回高いところに上るだろ。煙か」
馬鹿と言わなかったところがせめてもの彼の良心なのか悩むところであるが、一体誰の所為だと思っているのだ。
「さっさと降りてこい」
「嫌です」
年甲斐も無く小さく舌を出してやると、ローの眉間に更に皺が寄った。いつもはどう足掻いても物理では勝てないが、今は物凄く距離がある。いくら長いローのリーチでも届かない。だからどんな暴言を吐いても怖くないのだ。私は少しだけ気を大きくした。
「私が毎年自分の混ぜてるの面白がって見てたんでしょ、悪趣味」
「別に面白がってはいねェよ」
下界を見下ろしながら、開き直って厭味ったらしく言う私にローはどこまでも平然としている。
「ただ」
「ただ?」
「面倒くせェことしてるとは思った」
このやろう。ローなんかチョコの食べ過ぎで虫歯になってしまえばいいのだ。私は怒りに震えた。そんな私に構うことなく、私を苛立たせることに特化しているローは更に油をぶちまける。
「普通に渡せば貰ってやるのに」
「上から目線が酷い!それにそんな言い方すると、自分に都合の良いように受け取っちゃうからね!」
「勝手にしろ」
二月の冷たい風が私の熱くなった頭を冷やして、静かで素っ気ないローの言葉が落ち込んだ私を救いあげる。そもそも落ち込んでるのはローの所為なんですけどね。勝手にしていいなら勝手にしちゃうぞ。恨めし気にローを見下ろせば、かち合った彼の琥珀には“仕方が無いやつ”とでも言いたげな不器用な優しさが灯っている。
「いい加減に下りてこい」
温度のある言葉に根負けをしたのは今回も私だった。だって、恋愛とは惚れた方の負けなのだ。渋々とスクールバッグをリュックサックのように背負い、しっかり両手を空けてから私は給水塔の梯子を降り始めた。そして、大層間抜けな絵面で梯子を半分ほど降りたところで事件は起こった。
ひゅうっと強い風が吹いたのだ。その風は私の髪を攫った。それは全く問題が無い。その風は私のスカートを盛大に捲り上げた。これは大問題だった。ローの位置からは確実に私の下着が見える。私は衝動でスカートを押さえたものの、肝心の梯子から手を離してしまった。その結果、身体がぐらりと宙に投げ出される。スローモーションで見える世界の遠くで、焦ったようなローの声が聞こえる。そして。
「ふんぎゃっ」
来るべき衝撃に備えて目を瞑って歯を食いしばったが、思ったより痛くなかった。それもそのはず、私は自分の下にしっかりとローを敷いていたのである。状況を理解した私が青褪めながら謝罪すれば「いいから退け」と冷静な声が返って来る。私がそそくさとローの上から退くと、むくりと起き上がった彼は頭を乱暴に掻いてわざとらしく大きな溜息を吐いた。
「どこかの誰かの所為で疲れた。腹減った。お前、何か持ってないか」
カツアゲの次は当たり屋か。私は無言で鞄を肩から降ろして、その中からチョコの入った袋を取り出した。そしてそれをそっとローに差し出したのだが、彼は目を細めただけで受取ろうとしない。
「何か足りないんじゃねェか」
ローの言わんとしていることを察した私は顔を引き攣らせた。私が睨んでもどこ吹く風でローは微動だにしない。もうどうにでもなれ!こうなったら自棄だ。
「……好き」
憮然としながら言葉を添えると、ローは私が差し出したチョコをやっと受け取ってくれた。ところが、苦節十年近くかけて晴れて形になった私の長年の想いに対してのリアクションが一切無い。
「待って、何か言うこと無いの?」
拍子抜けして眉を顰める私に、返事をする代わりにローは立ち上がった。それから私に手を差し伸べてきたので、私がおずおずと手を重ねれば、引っ張り上げて立たせてくれた。お互い立ったところで返事が貰えるものと思い、ローをじっと見上げると彼は口を開いたのだった。
「おれは何年も待ったんだから、お前も一か月くらい待て」
意地悪く口角を吊り上げながら、何年も待ったのだとローは言う。しかし、普通に考えて私の気持ちを知ったうえで何年も待ったのなら、自分から言ってくれれば私はこんな茶番を毎年毎年繰り返す必要なく、三段飛ばしでハッピーエンドになったのではなかろうか。貰う物を貰い、言いたいことを言うだけ言って一人で満足して遠ざかっていく広い背中を私は呆然としながら見送った。というか。
「私、言い損じゃん!」
許すまじ、トラファルガー・ロー。しかしもっと許し難いことに、それでも私はそんな彼が好きなのである。地団駄を踏みながら私は夕日に向かって吠えた。そんな私の脳内に、いつものアナウンスが響く。
以上を持ちまして今年のバレンタインを終了します。
ところで、今年のバレンタインは一応成功したということにして良いのだろうか。
『木を隠すなら森の中』
物を隠すには同じものの集まりに紛れ込ませる方法が良い、というかくれんぼには持ってこいの有難い教えである。
そこで私は考えた。
『チョコレートを隠すならチョコレートの中』
よって私は、毎年自分の想いを他の女の子の想いに隠して彼に届けるのだ。
◇
今年こそは『チョコレートを隠すならチョコレートの中作戦』を止めよう。この不毛な自己満足に終止符を打つのだ。
これが二月一日を迎えた私の燃え滾るような決意と覚悟である。ところが、パンパンに膨らんだやる気はエックスデーが近付くにつれてどんどん萎んでいく。そして。
「あのさ、これ。彼に渡して欲しいんだけど」
なんて、縋るようなチワワの瞳をした女の子から頼まれごとをされてしまった瞬間にその決意は完全に消えてしまうのだ。さよなら私のバレンタイン。ホームルーム前、休み時間。時間が経つごとにどんどん私が預かる“想い”が増えていく。予め用意しているユニセックスのファッションブランドのショッパーの底に入っていた私の“想い”が埋もれていくのを見ながら、私は後悔の念に苛まれるのだ。今年も我ながら馬鹿なことをしてしまった、と。正直に白状するとこの袋ごと太平洋のど真ん中に沈めてしまいたいが、受け取ってしまったのなら義務を果たさなければいけない。
理性と感情が仁義なき戦いを繰り広げた結果、残念なことに理性が勝ってしまった私は放課後になるとガタリと席を立つ。そして、ショッパーを持って重い足取りで隣のクラスに向かうのだ。
ロングホームルームが終わって暫くしてから尋ねた隣のクラスは、人がまばらで比較的に静かだ。開いたドアから顔を覗かせた部外者に数対の視線が集まるも、私だと気付くと興味無さげに逸らされる。まぁ、私は頻繁にこのクラスに来ているので、このクラスの準レギュラーみたいなものだ。特に珍しくもないのだろう。一部憐れんだ視線が混ざっているような気がするのだが、それには敢えて気付かないフリをしている。
我が物顔で隣のクラスに入った私が教室を見渡すと、窓際の一番後ろの席に尋ね人はいた。奴は机に頬杖をつきながら、人の気も知らないで呑気に外を眺めている。整った横顔に憂いを帯びた(ように見える)琥珀の瞳。何気ない仕草が大層絵になるのだから、このクソ重いショッパーの中身も必然の結果といえよう。そんな彼は私に気付くと、顔は向けずに横着をして視線だけ寄こした。
「お前も毎年大変だな」
「誰の所為だと思ってるの?ローが素直に受け取らないからじゃん」
開口一番のあんまりな言葉に私はがっくりと肩を落としてしまった。貴方が来るものを突っぱねるから、私はわざわざ自前でショッパーまで持ってきてるんですけど。とはいえ、この自分勝手なトラファルガー節には慣れっこなので、私は小さく嘆息してそれを受け流した。
「まぁいいや。これが三組のレナちゃん、二組のシェリーさん、三年五組のアイリ先輩、二年四組の……」
送り主の名前を書いておいたメモを読み上げながら、机の上に一つずつ並べていく。この男はチョコを貰うくせに差出人の名前を一切見ようとしないのだ。なんだ、ただの食いしん坊か。チョコが食べたいんだったら普通に受け取ればいいのに、と思わなくも無いがローは気紛れであるので深い理由は無いに決まっている。
本人が覚える気があるかどうかは別問題だが、チョコを預かった者の責務としてせめて名前だけでも耳に入れてあげようと自分の首をぎゅうぎゅう締める私はなんて大馬鹿なんだろう。内心鬱々としながら全て並べ終わった私は、最後にショッパーの一番底で眠っていたチョコレートを机に乗せた。
「と、匿名希望の子から」
ささ、お納めください。なんてへらりと笑いながら彼に渡して私の任務は終了だ。その情けない笑顔の下で後悔と自己嫌悪に押しつぶされているのだが、この男はそんなこと知りもしないのだろう。悔しいことに。ローは私を一瞥すると、無造作にショッパーにチョコレートを詰め込んでいく。そして、最後に一つだけ残った匿名希望の誰か――私のことである――のチョコレートを入れるのだ。
私のチョコがショッパーに消えていくのを見届けながら、私の脳内には感情の無い機械的な声のアナウンスが響く。
以上を持ちまして今年のバレンタインを終了します。
やっぱり今年も駄目だった!ハイ解散!
何故この私が毎年このような愚行を繰り返すことになったのか。それは、小学校二年生のときまで遡る。随分前だと思われるだろうが、それほど私と彼の付き合いは長いのである。家が徒歩五分圏内で同い年。受験もしなければ当然学区も同じだ。よって、幼稚園から高校の今に至るまでずっとローとは同じところに通って過ごしてきた。世間一般で言うところの幼馴染というやつだが、多分ローは私のことを腐れ縁としか思っていないだろう。
ご近所に住む“ロー君”は口と態度が悪く性格も素直じゃなかったので孤高の存在であったが、私はそういうのは深く考えられないお子様だった。だから、腹が立てば口も手も時には足も勢いよく彼に出した。結果、周りの大人たちから“喧嘩するほど仲が良い”という認識で微笑ましく見守られて私たちは成長し、幼稚園を卒園して小学校に入学した。
小学校に入学した私は偶に出される給食のアイスと休み時間の鬼ごっこ、図工と音楽と体育の授業だけを糧に楽しい学校生活を送っていた。お察しの通り、私は周りの女子ほど早熟では無かった。当然、バレンタインという戦の存在を知らなかった。二月になるとチョコレートをよく見かけるなぁ私も食べたいお母さんに買って貰おう程度の認識だった。蓋を開けてみれば、その時点で既に出遅れていたのである。
小学一年生の二月十四日。クラスの半数近くの女子は浮足立っていた。いつもと違う雰囲気に戸惑っていると、クラスメイトの一人がモジモジしながらローの所へ行くではないか。私はその様を家政婦になった気分でじっと見ていた。差し出されるチョコ、首を横に振るロー、顔を真っ赤にして教室を出て行くクラスメイト。十秒にも満たない短時間に繰り広げられたドラマに私は驚愕した。さらに驚くことに、ローは別のクラスメイトからも声をかけられていた。確かにローは顔の造作もそれなりに整っていたし、頭も良い。何より運動神経が良かった。私は“幼少時代は運動神経が良い男の子がやたらとモテる”という持論を持っている。その持論が正解かどうかはさておき、ローは数人の女の子からチョコレートを渡されようとしていた。
それを見た私は何故だか面白くなかった。最初はローがお菓子を貰っているので狡いのだと思ったのだが、別の男子が貰っていても何とも思わなかった。なんだこれ。なんだこのモヤモヤ。帰宅した私は暇そうに居間のソファに転がっている姉に相談した。
「あんた、その子のこと好きなんじゃない?」
姉の言葉に開いた口が塞がらなかった。好き。それってどういうこと?幼い私は大層混乱したのだが、今思い出すと姉は携帯を片手に私のことを一切見ていなかった。多分真面目に聞いていなかったに違いない。ところが、いたいけな当時の私がそんなことに気付くはずもないのである。おかげで私は考えすぎて熱を出し、三日間寝込んだ。そして、病床から回復した私は思ったのだった。よく分からないから考えるのを止めよう、と。しかし、バレンタインという小さな棘は私の胸に刺さったままだった。
ということもあってその翌年、私はお小遣いをはたいて近所のスーパーでチョコレートを買った。駅ビルやデパートでバレンタインのチョコが沢山売られているのは知っていたが、小二女子には如何せん敷居が高すぎたのである。心持ち的にも予算的にも。
そして迎えたバレンタイン当日。朝からチャンスはあったのに、私はいつまで経っても渡すタイミングが掴めずにいた。このままではあっという間に一日が終わってしまうのではないかと私は焦った。せっかく買ったこのチョコを無駄にしたくない。どうしよう、どうやって渡そう。珍しく小難しい顔をしている私の元にローがツカツカと私の席までやってきたのはそのときだった。椅子に座ったままの私と私を見下ろすローの静かな視線がかち合う。何だ、何か文句あるのかと身構えた私であったが、ローは徐に手を出してきたのだ。
「なに、この手」
「持ってんだろ。よこせ」
カツアゲか。私は困惑した。いや、そもそも何故貰えて当然みたいな顔をしているのだ。こっちの気など全く知らないでいけしゃあしゃあと言うローに腹が立つ。そう簡単に渡せたら何の苦労も無いというのに。
「ローの分なんてあるわけないじゃん!」
これは絶対にローの言い方が悪い。だから暴言を吐いた私は絶対に悪くない。そう吐き捨てて教室を飛び出した可哀想な私は宛も無く廊下を彷徨った。鞄の中に入っている群青色の小さな袋のことを思いながら後悔をしていると、不意に可愛らしい女の子の声に呼び止められた。びっくりして立ち止まってみれば、同じクラスでグループは違うがそれなりによく話す子だった。「これ、ロー君に渡してくれないかな」なんて、はにかみながら言う彼女が渡してきたそれを私は思わず受け取ってしまった。チョコレートという武器を装備した恋する女の子はべらぼうに可愛かったのだ。私にチョコを渡すと彼女は微笑んで去っていく。一人取り残された私は途方に暮れた。
ど、どうしよう。今度は別の意味で動揺しながら階段を上った。すると、また誰かに呼び止められた。隣のクラスの子だった。嫌な予感がした。そして、残念なことにそれは見事に的中したのだった。
一人になった私は、手の中にある二つのチョコレートを凝視しながら考えた。このチョコどうしよう。渡さなきゃ駄目だよな。自分のだって渡せてないのに、人のなんかもっと渡せるか。このまま皆まとめてペイっとどこかに投げ捨ててしまおうか。そこまで考えて、“まとめて”というワードが私の頭に引っかかった。そして私は閃いたのである。私の分も彼女達の分と一緒に渡してしまえば良いのでは。そうすれば、せっかく買った私のチョコだって無駄にならない。碌でも無いこの思い付きが後程自分の首を物凄い勢いで締めてくるとは考えもしない私は、この名案に顔を輝かせながらいそいそと教室に戻った。
「ロー、チョコあげる」
後ろ手でチョコを持ってローの机のところまで行けば、彼は「やっぱり持ってきてるんじゃねェか」という失礼な顔をしながら手を出してきた。その手に小さな箱二つと袋を一つ重ねておいてやる。ここで初めてローが動揺したように目を瞬かせた。
「これね、アリサちゃんと隣のクラスのユーナちゃんから。それでこれは、“誰かさん”から」
二つの小さな箱を指さしてから、最後に私のチョコレートを指さす。やはりローは困惑していた。
「誰かって誰だよ」
「内緒にしてって言われた」
「お前のは?」
「ない」
その瞬間、ローの眉間に深い皺が寄った。「チョコ欲しかったんでしょ?」とにこやかに言ってやれば、ローは複雑な顔をしながら三つのチョコレートを受け取ってくれた。私は無事にローにチョコを渡すことができたので達成感でいっぱいだった。これが私の記念すべきバレンタイン第一回の記憶である。しかし、その達成感も束の間。家に帰って背負っていたランドセルを自室に置いた私は思った。
絶対違う。
どう考えてもおかしい。私は何かを間違えたのだ。このバレンタインは絶対に失敗した。とはいえ、失敗したならしょうがない。次だ。私はリベンジを誓った。
翌年も私はきちんとチョコを用意した。しかし、昨年あんなことを言ってしまった手前、中々渡すことができずにいた。それどころか逆にチョコレートが増えている。昨年と同様、ローに渡すように頼まれたのだ。更に恐ろしいことに預かったチョコは昨年の倍になっていた。この状況に頭を抱えていると、ローは今年もカツアゲをしてきた。そんなにチョコが欲しいのか!何が何だかよく分からなくなった私は持っていたチョコレートをまとめて奴に押し付けた。バレンタイン第二回、完。
なんて不毛なバレンタインを繰り返して私は成長していった。外見も中身も成長し、遺憾なことに彼に向けた「好き」という感情は本物だということを知ったりもした。そして、私が成長すれば当然ローも成長するのである。“それなり”に整っていた容姿は“ずば抜けて”整ったご尊顔に進化し、背も竹みたいに伸びてそんじょそこらの芸能人も裸足で逃げ出すほどの美少年になったトラファルガー・ロー少年は大層おモテになった。
そんな彼にチョコを渡そうとする女の子は絶えなかった。しかし、ローは対面の場合は容赦なく突っ返し、机やロッカーや下駄箱に入っていたものは落とし物箱に放逐する。正攻法で渡そうとすると、突っ返されるか落とし物として晒し物になるかの二択だが、ローにチョコレートを届けるのに一つだけ裏技がある。それが私だ。大変不本意なことに、私はバレンタイン運輸トラファルガー便として業界に名を馳せていたのだった。
そして、高校二年になった今。私は物凄く焦っていた。高校に入ると、女子のモーションは桁違いになるのだ。ローは結構な頻度で呼び出しをくらっていた。その度に私は思ったものだ。ちゃんとチョコを渡せないまま、ローは誰かとお付き合いをしてしまうのでは。不毛なバレンタインを幾度も過ごしてきたせいで、バレンタインにチョコを渡すという手段が目的に変わっていたことも若干否めないが、私はとにかく焦っていたのである。
今年こそは、今年こそは。そう思っていたのに、頼まれごとを断れないタイプの私は朝からプレゼント受付ボックスになっていた。完全に今までのツケが回ってきている。今年はトラファルガー便を廃業するつもりだったので、ショッパーも準備していない。なので、友人から貰ったコンビニのビニール袋にチョコを詰めた。そんなこんなでコンビニで大量に買い物をした人、みたいになった私は重たい足取りで彼のクラスに向かった。
「毎年お前も大変だな」
頬杖をつきながら、目線だけを私に寄こすと彼は言う。人の気も知らないで完全に他人事である。もうこの天丼芸は飽きた。
「誰の所為だと思ってるの」
本当にそれ。色々と複雑なものを抱きながら溜息を吐いて、いつも通りビニール袋の中身を一つずつ出していく。ビニール袋の中には私のチョコは入っていない。自分の分と預かりものを一緒にしてしまうから良くないのだ、と考えた賢い私は今回は最初から自分の分は別にしてあるのだ。
「で、最後。これが二組のルカちゃん」
「他は?」
今まで興味無さげに聞いていたローは顔を上げると、私の瞳をじっと見てきた。
「え、もう無いけど」
「いらねェ」
ローがトラファルガー便を断ったのは初めてだった。確かに貰って欲しくはないなぁと自分で渡しておいて複雑な気分を抱いていたが、いざ本人から受け取り拒否をされると面食らってしまう。私は目を瞬かせた。
「何で?」
今までずっと貰ってたじゃん、という意味を込めて零れ落ちた私の問いかけに対するローの答えは簡潔だった。
「お前のが入ってないから」
待て。今、なんて言った?
「……ごめんよく聞こえなかった。もう一回言って」
聞き間違いであることを願ってもう一回要求すると、ローは平坦に言った。
「お前のが入ってないから」
やっぱり。頭をガツンと殴られたような衝撃に、私は思わず一歩後ずさって距離を取った。
「……知ってたの?」
引き攣った顔で尋ねる私に今更何を言ってるんだコイツ、と雄弁に語る呆れたような顔をしたロー。顔面が熱い。羞恥で視界が歪む。私はわなわなと震え「あ」だの「え」だのカオナシのように意味の無い言葉を零し、終にはくるりと踵を返すと、絶叫しながら教室を飛び出した。バレンタインの乙女像は完全に失格であるが、そんなことを気にする余裕が今の私にあるわけが無かった。
◇
教室を飛び出た私は、廊下を爆走して階段をひたすら駆け上がった。よく“馬鹿と煙は高いところが好き”といわれるがそれは少し違うと思う。馬鹿は何も考えないから何も考えずに高いところに上ってしまうだけなのだ。別に好きでも何でもない。よって、気付いたときには私は屋上にいた。さらに言ってしまえば、給水塔の上にいた。いくら何でも上りすぎだと良好な視界に映る青空を見上げながら私はそう思った。
空は真っ青だが、私の顔は真っ赤に違いない。その証拠に両手で頬を包むと、真冬の気温で冷えた指先がどんどん温まっていく。恥ずかしい。ずっと気付いていないと思っていた。これは私の自己満足で馬鹿な独り相撲だと思っていた。
それなのに。
「お前のが入ってないから」と言ってローはチョコを受け取ってくれなかった。彼は私が毎年預かりもののチョコレートの山に自分のチョコをこっそり異物混入していたことを知っていたのである。だったら早く言ってくれ!いっそ一思いに殺してくれ!!羞恥で奇声を上げた私だったが、ふと気付いてしまった。
これまでは私のチョコが入っていたからあのチョコ袋を貰っていてくれたっていうことだろうか。つまりそれはどういうことだ。ちょっと待って。そんなもの、都合よく勘違いしてしまうではないか。私は鞄をゴソゴソと漁って底に入っていたチョコレートを取り出した。
「これ、貰ってくれるのかな」
そう呟いたそのとき、屋上の重たい扉が開く音がした。私は瞬時に口を閉じて息を殺し、手に持っていたそれを再び鞄の中に突っ込んだ。絶対にローだ。ここには誰もいませんので、お引き取りください。なんて心の底から念じてみたのだが、相手は迷わず給水塔のところまでやって来る。
「そこにいるんだろ。降りてこい」
そして呆れた声で言うのだ。確信を持って紡がれた言葉に抗うべく、私は無言を貫き空気に擬態してひたすらいないフリをした。しかし、相手は一向に動かない。結局のところ根負けしたのは私の方だった。
「何で私がここにいるって分かったの」
給水塔からひょっこりと顔を出すと、ローは溜息を吐いた。やれやれと言いたげなその視線が何とも小憎たらしい。
「お前、何かやらかすと毎回高いところに上るだろ。煙か」
馬鹿と言わなかったところがせめてもの彼の良心なのか悩むところであるが、一体誰の所為だと思っているのだ。
「さっさと降りてこい」
「嫌です」
年甲斐も無く小さく舌を出してやると、ローの眉間に更に皺が寄った。いつもはどう足掻いても物理では勝てないが、今は物凄く距離がある。いくら長いローのリーチでも届かない。だからどんな暴言を吐いても怖くないのだ。私は少しだけ気を大きくした。
「私が毎年自分の混ぜてるの面白がって見てたんでしょ、悪趣味」
「別に面白がってはいねェよ」
下界を見下ろしながら、開き直って厭味ったらしく言う私にローはどこまでも平然としている。
「ただ」
「ただ?」
「面倒くせェことしてるとは思った」
このやろう。ローなんかチョコの食べ過ぎで虫歯になってしまえばいいのだ。私は怒りに震えた。そんな私に構うことなく、私を苛立たせることに特化しているローは更に油をぶちまける。
「普通に渡せば貰ってやるのに」
「上から目線が酷い!それにそんな言い方すると、自分に都合の良いように受け取っちゃうからね!」
「勝手にしろ」
二月の冷たい風が私の熱くなった頭を冷やして、静かで素っ気ないローの言葉が落ち込んだ私を救いあげる。そもそも落ち込んでるのはローの所為なんですけどね。勝手にしていいなら勝手にしちゃうぞ。恨めし気にローを見下ろせば、かち合った彼の琥珀には“仕方が無いやつ”とでも言いたげな不器用な優しさが灯っている。
「いい加減に下りてこい」
温度のある言葉に根負けをしたのは今回も私だった。だって、恋愛とは惚れた方の負けなのだ。渋々とスクールバッグをリュックサックのように背負い、しっかり両手を空けてから私は給水塔の梯子を降り始めた。そして、大層間抜けな絵面で梯子を半分ほど降りたところで事件は起こった。
ひゅうっと強い風が吹いたのだ。その風は私の髪を攫った。それは全く問題が無い。その風は私のスカートを盛大に捲り上げた。これは大問題だった。ローの位置からは確実に私の下着が見える。私は衝動でスカートを押さえたものの、肝心の梯子から手を離してしまった。その結果、身体がぐらりと宙に投げ出される。スローモーションで見える世界の遠くで、焦ったようなローの声が聞こえる。そして。
「ふんぎゃっ」
来るべき衝撃に備えて目を瞑って歯を食いしばったが、思ったより痛くなかった。それもそのはず、私は自分の下にしっかりとローを敷いていたのである。状況を理解した私が青褪めながら謝罪すれば「いいから退け」と冷静な声が返って来る。私がそそくさとローの上から退くと、むくりと起き上がった彼は頭を乱暴に掻いてわざとらしく大きな溜息を吐いた。
「どこかの誰かの所為で疲れた。腹減った。お前、何か持ってないか」
カツアゲの次は当たり屋か。私は無言で鞄を肩から降ろして、その中からチョコの入った袋を取り出した。そしてそれをそっとローに差し出したのだが、彼は目を細めただけで受取ろうとしない。
「何か足りないんじゃねェか」
ローの言わんとしていることを察した私は顔を引き攣らせた。私が睨んでもどこ吹く風でローは微動だにしない。もうどうにでもなれ!こうなったら自棄だ。
「……好き」
憮然としながら言葉を添えると、ローは私が差し出したチョコをやっと受け取ってくれた。ところが、苦節十年近くかけて晴れて形になった私の長年の想いに対してのリアクションが一切無い。
「待って、何か言うこと無いの?」
拍子抜けして眉を顰める私に、返事をする代わりにローは立ち上がった。それから私に手を差し伸べてきたので、私がおずおずと手を重ねれば、引っ張り上げて立たせてくれた。お互い立ったところで返事が貰えるものと思い、ローをじっと見上げると彼は口を開いたのだった。
「おれは何年も待ったんだから、お前も一か月くらい待て」
意地悪く口角を吊り上げながら、何年も待ったのだとローは言う。しかし、普通に考えて私の気持ちを知ったうえで何年も待ったのなら、自分から言ってくれれば私はこんな茶番を毎年毎年繰り返す必要なく、三段飛ばしでハッピーエンドになったのではなかろうか。貰う物を貰い、言いたいことを言うだけ言って一人で満足して遠ざかっていく広い背中を私は呆然としながら見送った。というか。
「私、言い損じゃん!」
許すまじ、トラファルガー・ロー。しかしもっと許し難いことに、それでも私はそんな彼が好きなのである。地団駄を踏みながら私は夕日に向かって吠えた。そんな私の脳内に、いつものアナウンスが響く。
以上を持ちまして今年のバレンタインを終了します。
ところで、今年のバレンタインは一応成功したということにして良いのだろうか。