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『あなたの小説を本にしてみませんか?』
まさか、本当にこんなことが起こるとは思わなかった。確かに私の投稿している小説サイトからは多くの連載小説が書籍化している。冒頭の一行を目にした私は、動揺のあまりそっとDMを閉じた。ついでに勢い余ってマイページからもログアウトした。それから現実逃避で風呂に入り、落ち着いたところでもう一度マイページにログインしてDMを開く。
「ほんとだ……」
そのDMは私の幻覚ではなかった。頬を抓ってみれば、ぎりぎりと潰されるような痛みを感じる。現実だ。暫く固まっていた私だったが、ふと思った。そうだ、これは詐欺では。聞いたことの無い出版社だったので、DMに書いてある社名をネットで検索すると、しっかりヒットがあった。驚くことに実在している。私の入社した出版社とどっこいどっこいの大きさだが、ライトノベルや文芸に力を入れているところだ。
ということは、私の書いた小説はプロの編集者に認められたのだ。自分の作品に初めて感想を貰ったときと同じくらいの衝撃と歓喜に私の胸は震えた。その後の内容は私の小説に対する感想だった。有難いことに感想まで!嬉々として読み始めた私だったが、ある一文を読んだ瞬間、胃がキュッとしてしまった。といっても、プロの編集者の目線で酷評されたのではない。問題の一文はこんな感じだ。
『特にあなたの書かれる“キャプテン”が魅力的で、まるで存在するかのような』
その感想に私の顔が歪んでいくのが分かる。それから思わず頭を抱えてしまった。この感想は私の弱いところをぶち抜いた。“まるで存在するような。”そうなのだ。
「存在しちゃってたんだよ……」
私はそう独りごちた。私は今、海賊が冒険するファンタジー小説を連載している。自分で言うのもなんだが、王道な物語だと思う。主人公は読者の目線として、語り部役の船員にした。所謂主人公無双の小説は読むことは読むが、書くのは好きではない。その代わり、読者が読んでいて気持ちよくなる為の人物を作り出した。それが海賊団の船長たる“キャプテン”である。彼は私の考えた「超超カッコイイ男」だ。読者の方からお褒めの言葉を頂くたびに私は鼻高々だった。女性のみならず男性からも好評で、彼の魅力は沢山の人に通用する。そんなキャラクターを生み出した自分の才能が怖いくらいだった。
そう、トラファルガー先生に会うまでは。
彼は私の思い描いていた“キャプテン”の姿そっくり、というか、そのものだった。突然超絶好みの男性が現れたのだ。普通だったら恋が始まってもおかしくはないだろう。しかし、私が感じたのは純粋な驚きだった。それは恐怖にも似ていた。例えば、ドッペルゲンガーを見てしまったような気分だ。次いで思ったのは、後ろめたさだ。彼とキャプテンは別人どころか次元も違うのに、私の中でカッチリと同一人物として結びついたのである。
更に眼光が鋭いのがシンプルに怖い。私の物語の中で敵を睨みつける姿よりも怖い。その視線はどこか責められているようで落ち着かない。そして何より、何かを思い出してしまいそうで怖い。蓋をして、厳重に厳重に鎖を巻いて海に沈めたような、何かが。
先輩の陰謀により、トラファルガー先生と会うたびにその気持ちは大きくなっていく。初めて会った日は、天は彼に四物(人格)は与えなかった――と思ったのだが、そんなことは無かった。素っ気ないが、トラファルガー先生は優しい人だ。物語の中の登場人物だった筈の“キャプテン”の存在が、どんどん現実になっていく。だからトラファルガー先生には会いたくないのだ。私の物語が、現実に浸食されていくから。
おかげで私は今、完全なスランプに陥っている。あれだけ書いていて楽しかった“キャプテン”がすっかり書けなくなってしまったのだ。書けない、というよりも書きたくないに近い。しかし、小説家になるのは私の幼い頃からの夢である。そのチャンスが得られるのなら。数時間悩みに悩んで、私は相手に返事をしたのであった。
余談だが、私のペンネームは梅干しあんパンである。インパクトのある名前にしようと思って、純粋に自分の好きな食べ物をつなげてみたのだが、冷静になって考えると大層間抜けな名前だ。そんな話が来るなら、もっとまともな名前をつければ良かったと心底後悔した。これ、もしデビューしたらそのどさくさに紛れて改名ってできるかな。
◇
翌週の土曜日の十五時。
指定の場所は、それなりに交通の便が良い駅の近くにある個人経営のカフェだった。そのカフェの名前を見たとき、私は目を瞬いた。前から気になっていた店だ。何故その店を知っているかというと、私はこの駅をよく利用しているからだ。このカフェを道なりに二分程進むと、大きな図書館がある。この地域最大の広さと蔵書数を誇るので、住んでいる町が違うにも関わらず私はここの図書館のカードを持っている。図書館への道中で見かけるものの、前衛的なデザイナーハウスのその店は、ちょっとお高い感じだったので諦めていたのだ。
憧れのカフェの白い扉を開けると、古めかしい来店ベルがカランとなった。外装は洗練されているが、内装はアンティークでそのギャップがお洒落な店だと思った。あと、ちらっと見えたメニューの金額はやっぱり高かった。
店員の女性に人と待ち合わせをしている旨を告げると、どうやら相手はもう先に着いているらしい。とはいえ、待ち合わせの時刻五分前なので、私も社会人としてのルールは守っている。後ろめたいことは何ひとつないので、堂々と階段を上る。
そして、二階の奥まった席にいる二人組を目にした瞬間、私の脳内はパニックを起こした。ちょっと待って。見たことある。めちゃくちゃ見たことある顔がいる。それもそのはず、それは先輩とトラファルガー先生だった。
確かに先輩は編集者だが、メールをくれた人とは会社も名前も違う。それにトラファルガー先生に至っては何でこの場所にいるのか分からない。思わず私は持っていた荷物を落とした。ボトッと重たい荷物が落ちる音に二人の視線が集まる。そして先輩は私を指差した。
「やっぱりお前か!お前が梅干しあんパンか!」
人を指差すのはいけません、というマナー違反を指摘している余裕は私には無かった。どうして、二人がここにいるの。何故その名前を知っているの。私の頭の中ではぐるぐるとそれだけが回る。しかも、やっぱりって言った。それって、私だと知っていてこんなことをしたのか。わざわざ他の出版社の名前まで語って。これは、いくら何でもあんまりだ。
「やっぱり、って何ですか。先輩もトラファルガー先生も、私のこと揶揄ってたんですね……そんな人だと思いませんでした!」
そう言い捨てた私は脇目も振らず階段を駆け下りて、そのまま店を出た。
もう帰ろう、と思ったところで鞄をそのまま置いてきたことに気付いた。あの鞄の中には財布も携帯も全て入っている。要は、無一文な私は家に帰ることができない。かといって、あの二人のいるところに戻りたくもない。彼らはいつ頃店を出るだろうか。
これは根比べになる。少しの時間だったら、あの二人は店内にいるだろう。ということは、どこかで時間を潰そう。そこで私は時間を潰すのに打ってつけな場所があることを思い出した。図書館だ。そこなら本が沢山あるので時間を潰せるし、快適な空間だ。
私は図書館に向かうべく、横断歩道の信号が変わるのを待った。目的地である図書館は反対側の通りに面しているのだ。信号が青に変わった瞬間だった。ガランガランッと遠くで不可解な音がした。音のした方を見ると私はフリーズしてしまった。
物凄い形相をしたトラファルガー先生が勢いよく出てきたのである。そして、更に恐ろしいことに目が合ってしまった。その眼力に震えあがった私は一目散に横断歩道を渡った。
図書館に逃げ込んでしまえばワンチャンやり過ごせるのではないか、と考えたからだ。走り出した私は、ついつい怖いもの見たさで走りながら振り返って、それを後悔した。トラファルガー先生は横断歩道を使わずに最短距離で道路を渡って追いかけてくる。
「信号無視!!」そう絶叫しながら、決して後ろを向かずに走り続けることを誓った。ほぼヒールがないパンプスを履いてきて良かった。おかげで何とか図書館まで逃げきれそうだ。
無事に図書館に駆け込んだ私は、一目散に階段を下りた。この図書館は私の庭のようなものなので、隠れられるところの目星はついている。
この図書館の地下室は郷土資料などが沢山詰め込まれており、本棚が迷路のように配置されている。当然、郷土資料など勉学でしか使われない。人気も無いので少しくらいの奇行をしたって問題無い。本棚はスチール製のもので、棚には少しの隙間が空いているから辺りを伺うこともできる。それは相手からも私の姿が見えているのと同義であるが、姿勢を低く保ち相手の膝下より下の目線で除けば見つかることはないだろう。
トラファルガー先生は物凄く長身なので、足下はがら空きに違いない。薄暗い資料室の奥まったところに隠れながら、私は時間が過ぎるのを待った。資料室の隅の方で体育座りをしている女など、まるで妖怪座敷童のようである。私は成人してるから童なんて歳じゃないけど。なんてことを考えだしてしまったが、人間の緊張感は持続しないものだ。正直ちょっと飽きてきた。そう思った瞬間、それを戒めるように足音が聞こえた。誰かが階段を下りてくる。私は本能で察した。
来た。絶対に来た。
静かだが、少しずつ大きくなってくる足音にぞくり、と総毛が立った。本棚の隙間から辺りを伺う。やはり、あの無駄に細長いジーンズはトラファルガー先生のものだ。私はごくりと生唾を飲み込み、姿勢を低く保ったまま場所を移動しようとした。その瞬間、何故かトラファルガー先生とばっちり目が合った。何故、その長身をわざわざ窮屈に丸めて下を見ようと思った。せっかく目線が高いのだから、もっと高いところを見るべきである。そこに何が見えてるというのだ。……私か!
「待て!!」
待てと言われて待つ者がいるか!!逃げるべく私は立ち上がった。地の利は私にある筈なのに、最短通路でこっちに向かってくるとはどういうことだ。予想外の出来事に戸惑い、私の行動は出遅れた。もうトラファルガー先生はすぐ近くまで来ている。逃げろ、逃げろ!やっと脳内の命令が身体に行き渡り、私の足が動き出した瞬間だった。
その時、ぐらりと世界が揺れた。地震である。地震自体は珍しくはない。ところが、今回の地震は一気に来るタイプだった。その結果、ふらついた私は本棚に思いっきり突っ込んだ。本棚であるスチールラックはしっかり固定されているから倒れることは無いが、詰め込まれた本はただでさえ地震で落ちそうになっているのに、そこに余計な負荷をかけるとどうなるか。当たり前のように、上から本が降って来たのである。完全に二次災害だ。私は慌てて頭を庇ったが、それより先に私の頭に辞書サイズの本が落ちてきたのだ。視界に映るのは、散らばる本の山。そして、ジリジリジリというけたたましい警告音を聴きながら私の意識は落ちて行った。
◇
散らばった本、頭が割れるほどの騒音。前にもこんなことがあった気がする。それはいつだっけ。
目が覚めると真っ暗な場所だった。それと同時に私は悟った。これは“夢”だ。ふと、寒気を感じた。この暗闇は寒くて、嫌な感じがする。夢だと分かったのなら、さっさと目を覚まそう。そう思ったものの、どうすれば目が覚めるか分からない。
せめてこの暗闇が晴れるような灯りがあればいいのに。そう思った瞬間、それに呼応するように遠くで炎がボッと燃えた。大きな炎だ。まるで、幼少時代の林間学校で行ったキャンプファイヤーのように力強いそれに、私は吸い寄せられるように近付いた。だって、ここはとても寒いし、暗闇は怖い。
心細くなった私を慰めて元気づけるように、炎はパチパチと燃え上がっている。炎に手を翳して暖を取る。温かい。赤やオレンジ色にゆらゆらと揺れるそれ。じっと見つめていると、炎の中に何かが見えた。私は目を瞬いた。マッチ売りの少女ではあるまいし、この炎はどう考えてもマッチなどという可愛らしいものではない。しかし、どうしてかその何かが気になってしまった。じっと目を凝らすと、炎の中に沢山の本が転がっている。
ずきん、と頭が割れるように痛んだ。この光景は見たことがある。意識を失う前とはまた違う。パチパチという炎が小さく爆ぜる音に混ざって、カンカンと不安になるような大きな音が聞こえてくる。それは私の頭を割ろうとでもしているのか、どんどん煩くなっていく。耳を塞いでも、その音は私の頭に直接の響くので無駄だった。とうとう立ってらなくなり、私はその場にへたり込む。
丁度低くなった目線の、揺れる炎の向こうには白い手が見える。その瞬間、頭の中の騒音は不自然な程に止んだ。その代わり私の耳は蚊の無くような声を聴きとった。掠れた声、しかし、間違えることはない。それは、私の声だった。その声は誰かの名前を呼んだ。
そうだ、私は、誰かに何かを伝えたかった。誰か、って誰だっけ。
「ナマエ!」
遠くで私を呼ぶ声がする。この声だ、私が伝えたかった人は、この人だ。そうだ、私が最期に読んだ名前。
「ロー、さん……」
ハートの海賊団船長、死の外科医、億越えの賞金首。そして、私の大好きだった人。それに気付いた瞬間、炎は更に燃え上がった。パチパチと消えていく火の粉一つ一つが私の過去の断片だった。熱くない火の粉を浴びながら私の記憶はどんどん繋がっていく。
大好きなキャプテンの魅力を全世界に伝える。
私は小説家になりたかったが、小説家になって一番やりたいことはそれだった。その為に暇な時間があれば自室で物語を書いていた。登場人物は私を含めたこの船の仲間たち。何て言ったってこの物語はノンフィクションなのだ。
ある程度きりのよいところまで書き溜めた私は、第三者に見て貰おうと思い、仲の良いシャチに読んでもらった。シャチは活字があまり好きでは無いが「キャプテンの物語です。貴方も出ます」と言えば、勢いよく食いついた。その結果、読み終えたシャチは絶賛してくれた。彼は「最高だ。最高だが、おれをもっと格好良く書いてくれ」と言っていたが、褒め言葉だけ受け取り最後の台詞は無視をした。何せこの物語はノンフィクションなので。
シャチに読ませた物語は瞬く間にクルー達に広がり、私が新作を書き上げる度に皆喜んで読んでくれた。私の目はとにかくキャプテンの一挙一動を追っていた。当然だ。彼は物語の主人公となりえる人物なのだ。だから、いつもキラキラと輝いている。そう思いながら、私はキャプテンをずっと見てきたが、それはちょっと違った意味を持っていたのだと気付いたのは、ゾウで彼に再会したときだった。キャプテンの無事を知り、私たちは歓声を上げて大喜びをした。大冒険を終えたキャプテンの雄姿を目に焼き付けて、いつでも物語の中で再現できるようにせねば。そんな浮ついた考えは、彼の姿を見た瞬間にどうでも良くなってしまった。ただ、ただ、彼がここにいてくれるだけで、こんなに嬉しい。帰ってきてくれただけで「お帰りなさい」と言えるだけでこんなに幸せだったのか。
ああ、そうか。
彼にかかっていたキラキラとしたフィルターは、物語の主人公としてではなく、好きな人としてのフィルターだった。私は無性に恥ずかしくなってしまった。とはいえ、色々な経験をした方がより上手く説得力のある文章が書けるに違いない。恋もそのうちの一つだ。きっと人生経験が豊かになる。それに、私はキャプテンのことが恋愛的な意味でも好きだったが、基本的にキャプテンは皆のものだ。ふと目が合うだけで幸せだし。まぁ、当時の私は所謂“恋をする自分”に酔っていたのである。ただ、何となく目が合う回数が増えた気もしないでもないが、気紛れなキャプテンのことだ。私の気の所為に決まっている。そう自分を納得させていたのが、それをぶち壊したのはシャチだった。
「お前、最近何かやったんじゃねェか。やけにキャプテンがお前のこと見てるけど」と、私が気にしていることを現実として突き付けてくるのだ。おい、空気を読め。そう思っていた矢先にキャプテンに呼び出しを食らったので、私は天を仰いだ。何かよく分からないけど、私は詰んでしまったに違いない。
私は逃げようとしたが、キャプテンはそんなに甘くなかった。知ってた。私の胸の内はアッサリ暴露させられた。
ところが、予想外なことが起きた。どうやらキャプテンは私とお付き合いをしてくれるようだった。何の冗談かと思ったものの、キャプテンはこういう嘘を吐くような人間ではない。多分、私のことはそれなりに好いてくれているのだ。愛の言葉を貰ったわけではないが、キスは貰ったし。
そんなこんなでキャプテンに一番近いポジションを頂いた当時の私は、キャプテンの色々な面を見れるのなら、よりリアルな彼を書けるのではないか、と思っていた。恋する乙女フィルターが落ち着くまでキャプテンの冒険譚は筆を置いていたが、私は連載を再開させるつもりでいた。何せそれは私のライフワークと言っても過言では無いので。キャプテンをもっと知ることによって、彼の良いところを沢山読者に知らせることができる!私も皆も幸せになれる!そう考えていた私は、何て浅はかで恥知らずな女だったのだろう。
これは、私だけのものにしたいな。
最初にそう思ったのは、初めて彼の名前を呼んだときだ。キャプテンではなく、ロー……と流石に呼び捨てにはできなかったので、ローさんと呼んでみた。おっかなびっくりの震え声に答えてくれた彼の声は穏やかで、いつもは眉間に寄っている皺もうっすらと薄くなっていた。この人のこんな顔は初めて見た。そして、私は思ってしまったのだ。この声は、この表情は、皆知らない。それに優越感を感じた。仄暗い喜びも感じた。
そして、それが全ての始まりだった。
ローさんはこの船のクルー達と皆平等(一部怪しいところがあったが)に接しているが、私と二人だけのときは違っていた。思ったよりも全然淡泊では無かった。彼の人生が刻まれた均整のとれた身体の全てを、穏やかな眼差しを、熱い掌を、起き抜けの少し掠れた声を、知っているのは私だけ。
こうなってしまっては、もう駄目だった。
誰にも渡したくなかった。全部、全部、私のものにしたかった。キャプテンも、ローさんも。現実の彼も、物語の中の彼も。
私はなんて欲張りなんだろう。なんて醜いんだろう。キャプテンの魅力を伝えたかった。伝えようとした。しかし、できなくなってしまった。彼は素敵な人だ。物語で語らなくても、それは充分伝わるに違いない。これ以上、伝わってしまったら皆ローさんのことが好きになってしまう。そんなのは困るし、絶対に嫌だ。
もし私がそんなことを考えているのだと知られたら、面倒な女だと思われるだろう。これはローさんには知られてはいけない。彼の前では、真っ直ぐに夢を追いかける女でなければいけない。こんな不純な女は彼の隣に相応しくない。
だから、書こうとした。皆私が書く物語を楽しみにしているのを知っていた。シャチにそう直接言われたときにそれを突き付けられた気がした。でも書けなかった。皆の為のキャプテンが、私には書けなくなってしまった。潮時だと思った。もう筆を折ろう。最低の妄執に私が苛まれている間、ローさんにも迷惑をかけているのは痛い程に知っていた。うっかり泣いてしまったし、完全にメンヘラ化している。それに、よくよく考えたら私はローさんに大切にして貰っているとはいえ、恋人としての触れ合いはあれども「好き」やそれに相当する言葉は貰ったことが無い。やはり、深いところでは私の一方通行に他ならないのだ。
だから、私は決意した。私の印象が最悪になる前に船を降りよう。ここに住みたい、とでも言っておけば彼も罪悪感が無くなるに違いない。筆は折っても本のことは大好きなのだから、ここが私にとっての天国だ。ところが、ガッチガチに固めた筈の私の決心もローさんの顔を見たら吹っ飛んでしまった。
私はどう仕様も無くこの人を愛しているのだ。
結局、私は狡い女だ。終わらせたくない。少しでも長くローさんの恋人でいたかった。しおしおと私の決意が萎んでいくのを感じた。これ駄目なやつだ。なので私は自身を元気づけテンションを爆上げするために私は島の中央にあった図書館に向かった。幼い頃に読み感銘を受けた本の初版があると聞いて、居ても立ってもいられなくなってしまったのだ。それを読んだら初心に戻れるかも。もしかしたら、また物語が書けるようになるかも。そうしたら、船を降りないで済む。
図書館で目当ての本を見つけて時間を忘れて没頭してしまった私が、本の世界から現実に戻されたのは大きな爆音が轟いてからだった。次いで大きく図書館が揺れた。私は地下にいたので、頭上で何かガラスのようなものが砕け散るような音がした。焦げ臭い匂いがする。ひょっとして、先程の音はエントランスのシャンデリアが落ちたときのものだろうか。そこから火が点いたに違いない。大変拙いことに、ここに大量にあるのは本だ。紙はよく燃える。一気に炎は燃え広がった。本は惜しいが、命の方が大事だ。私は急いで図書館の出口に向かった、のだが。
近くで女の子の泣き声がする。きっと逃げ遅れたのだ。見捨てることはできなかった。周れ右をして、声のする方に走る。走っている間にだんだん気分が悪くなっていく。煙を吸っているからだ。これは早く出ないと本当に死んでしまう。そんなのは絶対にご免だ。
煙をかき分けて、やっと女の子の姿を見つけることができた。何とか間に合った、と胸を撫でおろしたときだった。本棚がぐらついているのに気付いてしまった。きっと先程の揺れの所為だ。その本棚は女の子に圧し掛かろうとしている。考えるより先に体が勝手に動いた。女の子を突き飛ばしたが、代わりに脚が挟まれてしまった。いよいよ大変なことになった。せめて女の子には逃げて貰おう。「助けを呼んできて」とお願いすると使命を与えられた彼女は一目散に走って行った。もしかしたら、私もワンチャン助かるかもしれない。そう考えたところで、頭が重たくなってきた。息もできない。煙を吸い過ぎたのだ。こんなところで死にたくない。でも、それはきっと無理だ。せめて、最期にあの人に。
うっすらと目を開けると、未だにジリジリと警報が鳴っている。視界に飛び込んできたのは、あのときどうしても会いたかった人だ。そして、私は彼に伝えなければいけないことがある。大好きな彼にもう嘘は吐きたくなかった。私の唇は勝手に言葉を紡いでいく。
「私は小説家失格です」
ローさんは不思議そうな顔をしていた。それから私の様子が何時もと違うことに気付いたのだろう、彼はその目を見開いてる。久々にちゃんと見たその瞳は、やっぱり綺麗だった。
「お前、思い出し、……」
その唇に指を当てる。私の決意が消えてしまう前に、言わなければいけない。前のようにいつ言えなくなってしまうか分からないのだ。
「ローさんのこと、大好きだから……。独り占めしたくなっちゃったんです」
ローさんは私の言いたいことが理解できないのか、珍しく困惑した顔をしている。少し幼くなったそのかんばせに愛しさが積もる。
「皆続きが読みたいって言ってくれました。嬉しかったです。でも、キャプテンの冒険譚は書けなくなっちゃいました」
とはいえ、聡い彼はだんだん私の言いたいことを理解してくれたようだ。感情で綻んだ表情は、少しずついつものそれに戻っていく。
「だから、私の夢は、嘘になってしまいました」
自嘲するように弱々しく微笑み、私は目を閉じて審判のときを待った。
◇
ナマエの吐いた“嘘”を理解するまで、いくら聡明なローでも少しの時間を有した。
そして理解した瞬間、彼は「そんなことかよ」という言葉を必死に飲み込んだ。どんな深刻な悩みかと思ったら、ローにとっては全然大したことでは無かった。幻滅なんてするわけが無い。ローが好きなのはただのナマエで、物語を書く彼女ではない。
拍子抜けしてしまったが、ナマエにとっては「そんなこと」では処理できずにずっと抱えてきたことだったのだ。
どう反応したものか、と悩んでしまって無言になってしまった彼を誰が責められよう。ところが、反応が全く無いことにナマエは心配になったようだった。彼女はゆっくりと目を開けると、恐る恐るローの顔を覗き込んだ。彼の様子を伺い探るその視線に、どうやら嘘は許されないようだった。
「おれは小説家志望の女で、おれの話を書くからお前と付き合ってたわけじゃない」
淡々とぶちまけられるローの本音をナマエは瞬きもせずに静かに聞いていた。
「お前が小説家になりたいんだったら応援はしてやるが、止めたいんだったら止めればいい」
ぽとり、とナマエの頬を一筋の雫が伝う。それから彼女はゆっくり頷く。
「他にやりたいことを探せばいい。見つかっても、見つからなくても傍にいてやる」
ナマエは涙を溢しながら、何度も何度も頷いた。一向に涙を拭おうとしないので、顎を押さえて上を向かせて代わりに涙を拭ってやった。毎回思うが、この女は一人で涙も拭えないのだろうか。本当に世話が焼ける。でも、その役目を誰にも譲る気はローには無い。ナマエの涙も笑顔も全部全部ローのものだ。結局お互い様だ。目を細めてされるがままになっている彼女に、人生二周分の愛しさが積もる。
自然とローはナマエに口付けた。涙でしょっぱい筈の彼女の唇は柔らかくて甘いのだから、きっとローもどこかおかしくなってしまっているに違いないのだ。息を吸う為にほんの少しだけ開いた彼女の唇を舌で割って、もっと深いところまで。それでも、足りない。彼女の吐息も熱も全部奪ってやるつもりで舌を絡めても、まだ、足りない。
ところが残念なことに、ローは足りなくてもナマエは充分足りたらしい。ぐったりしてきたので、解放してやった。すると彼女は、ぜぃぜぃとフルマラソンを終えたような荒い息を整え出した。その様子はあまりにも必死だ。ローも鬼では無いので彼女の息が整うのを待ってやる。少しずつ吐く息が穏やかになっていくナマエの頬に貼り付いた髪をそっと掃えば、彼女は微笑んだ。本当に久々に見た彼女の笑顔は、言葉に出さずとも言っていた。幸せなのだと。そういえば、ローは彼女のその表情は悪くは無い――いや、好きだった。そんな彼女だったからこそ。
「おれはお前だから好きになったんだ」
「ちょっと待ってください!」
その瞬間、彼女はカッと目を見開き叫んだ。先程から鳴り続けている警報と良い勝負の大声だった。ちなみに、この警報はどうやら誤報のようで、今は警備会社の到着を待っている状態だそうだ。話が逸れたが、あまりにも必死な様子の彼女に、ローは眉を顰めた。
「なんだよ」
「好きって初めて言われました」
思わず無言になってしまった。確かに、よくよく考えたらナマエのことは愛していたが口に出したことは無かった、気がする。
「ちょっと不安だったんです。ローさんは意味も無くお付き合いをするような人ではないので、私に好意を持ってくれていたのは確かだと思っていましたが、私が押して付き合って貰った感がありますし」
確かに言葉にしてこなかったローにも非があるかもしれない。とはいえ、充分にできる限りの優しさと与えられる限りの愛情は注いできた、つもりだった。お互いの愛情の大きさを比べるなんて薄ら寒いカップルのように愚かなことはしないが、些か納得ができないものがある。「自分だけだと思うなよ」思わずそう呟いてしまったが、幸いなことにナマエの耳には届かなかったようだ。
「何か言いました?」
絶対に知られたくないので、ローは話題を変えた。
「それより、散々人のことを避けてくれたな。良い度胸してんじゃねェか」
「記憶が無かったんですからノーカンでしょう!初対面であんなおっかない顔をすれば誰しも怖がりますよ」
「あんな顔?それはお前だろ。お前こそ思わせぶりな面しやがって。絶対覚えてるって思ったんだ」
「思わせぶり……いえ、純粋にローさんを見てると落ち着かなくて……。私の書いた話の登場人物そのものがいたら吃驚するでしょう?」
この女、随分なことを言ってくれる。頬を引き攣らせたローだったが、ふと気付いてしまった。
「今、お前の連載してる話の更新が止まってる理由は、まさか前と同じ理由じゃねェよな」
何となく思ったことを口にしてみただけだったのだが、どうやら図星だったらしい。彼女は顔を真っ赤にしてわなわなと震え出した。こういうところは全く変わっていない。
「ええ、同じですよ!悪いですか!!」
警備会社が到着したのか警報は止んだので、今度はナマエの声だけがローの耳に響いた。普通に煩い。ローは指先で自身の耳を塞ぐ。
「別に悪かねェよ。お前はプロでも何でも無いんだから書きたくなくなったら止めればいい」
「でも、全世界云十億人のキャプテンのファンが」
「おれは今真面目な話をしている」
彼女の世迷い事をバッサリと斬り捨ててやると、ナマエは俯いて小さく謝罪した。どうやら反省はしているようだ。しおらしいその様子を見て、ローの中で何かが疼いた。この感覚は懐かしい。自然と彼の口角も意地悪く吊り上がる。
「で、全世界云十億人の不特定多数の馬の骨に、本来お前だけが知ることができるはずのおれの話をするわけか」
「それは絶対に嫌です!!」
ナマエは涙声で噛みつくように反論してきた。口をへの字に結び、情けなく鼻をすする新社会人の姿にローは嘆息した。反省はしないが、苛め過ぎたようだ。謝る代わりにわしゃわしゃと彼女の髪をかき混ぜるように撫でてやれば、最後に彼女はすんッと鼻を鳴らす。
「じゃあ答えは出てるじゃねェか」
やはりローは彼女には大概甘い。存外優しい声色になってしまったではないか。ナマエはただそれに頷いた。本当にどう仕様も無い女である。ローとて自身の全てを全世界に発信されるのなどは死んでもご免だ。生き恥も良いところである。この女がそんな恐ろしいことを考えていたなんて知らなかった。止めさせられて本当に良かった。そもそも、ナマエが“自分だけのもの”だと思っていたものは、ローがナマエ“だけ”にやったものだ。それを勝手にシェアされて堪るか。癪なのでナマエには絶対に教えてやらないけれども。
◇
あれから私とローさんは、落っことしてきた私の荷物を取りに先程のカフェに戻った。二階席には先輩――もといシャチが待ち構えており、彼は私を目にした瞬間に勢いよく頭を下げてくれた。
「悪かった。騙すつもりは無かったんだ。お前が自分の書いた話を本にしたいなら、知り合いの編集者を紹介してやるつもりだった」
両手を合わせるシャチには反省の色しか見えなかったので、私は思わせぶりに溜息を吐いた。そして思った。彼にも前世の記憶があったのなら、道理で私とローさんをくっつけたがるわけだ。つまり私がローさんともう一度出会えたのは彼のおかげでもある。感謝もしてやらないこともない。
「シャチのおかげでローさんに会えたからそれはもういい。私も早とちりしたことは確かだし。それから、」
私は大きく首を横に振った。シャチはキョトンとしている。
「本の件はいいや。あの話は未完!」
「何で?!」
「おれ楽しみにしてたのに!」とシャチは悲鳴を上げたが、こればかりは仕様が無いのだ。ローさんの顔を見れば、彼の唇はほんの少しだけ弧を描いている。見ようによっては意地が悪そうだ。彼は私が更新できなくなった理由を知っているのだから当然だ。私もスッキリしたし、ローさんも笑っている。だからこの答えは正解に違いない。そのことに気付くまで随分遠回りをしてしまった。本当に大切だったのは、忘れてはいけなかったのは、ローさんがいるだけで幸せだったのだということだ。蹲って頭を抱えているシャチを見下ろしながら、そっとローさんに手を伸ばすと彼はしっかりと私の手を握ってくれた。そして、私は手を伸ばした先に彼がいることの幸せを噛みしめたのだった。
天竺葵(ゼラニウム)花言葉/偽り・予期せぬ出会い・あなたがいて幸せ
まさか、本当にこんなことが起こるとは思わなかった。確かに私の投稿している小説サイトからは多くの連載小説が書籍化している。冒頭の一行を目にした私は、動揺のあまりそっとDMを閉じた。ついでに勢い余ってマイページからもログアウトした。それから現実逃避で風呂に入り、落ち着いたところでもう一度マイページにログインしてDMを開く。
「ほんとだ……」
そのDMは私の幻覚ではなかった。頬を抓ってみれば、ぎりぎりと潰されるような痛みを感じる。現実だ。暫く固まっていた私だったが、ふと思った。そうだ、これは詐欺では。聞いたことの無い出版社だったので、DMに書いてある社名をネットで検索すると、しっかりヒットがあった。驚くことに実在している。私の入社した出版社とどっこいどっこいの大きさだが、ライトノベルや文芸に力を入れているところだ。
ということは、私の書いた小説はプロの編集者に認められたのだ。自分の作品に初めて感想を貰ったときと同じくらいの衝撃と歓喜に私の胸は震えた。その後の内容は私の小説に対する感想だった。有難いことに感想まで!嬉々として読み始めた私だったが、ある一文を読んだ瞬間、胃がキュッとしてしまった。といっても、プロの編集者の目線で酷評されたのではない。問題の一文はこんな感じだ。
『特にあなたの書かれる“キャプテン”が魅力的で、まるで存在するかのような』
その感想に私の顔が歪んでいくのが分かる。それから思わず頭を抱えてしまった。この感想は私の弱いところをぶち抜いた。“まるで存在するような。”そうなのだ。
「存在しちゃってたんだよ……」
私はそう独りごちた。私は今、海賊が冒険するファンタジー小説を連載している。自分で言うのもなんだが、王道な物語だと思う。主人公は読者の目線として、語り部役の船員にした。所謂主人公無双の小説は読むことは読むが、書くのは好きではない。その代わり、読者が読んでいて気持ちよくなる為の人物を作り出した。それが海賊団の船長たる“キャプテン”である。彼は私の考えた「超超カッコイイ男」だ。読者の方からお褒めの言葉を頂くたびに私は鼻高々だった。女性のみならず男性からも好評で、彼の魅力は沢山の人に通用する。そんなキャラクターを生み出した自分の才能が怖いくらいだった。
そう、トラファルガー先生に会うまでは。
彼は私の思い描いていた“キャプテン”の姿そっくり、というか、そのものだった。突然超絶好みの男性が現れたのだ。普通だったら恋が始まってもおかしくはないだろう。しかし、私が感じたのは純粋な驚きだった。それは恐怖にも似ていた。例えば、ドッペルゲンガーを見てしまったような気分だ。次いで思ったのは、後ろめたさだ。彼とキャプテンは別人どころか次元も違うのに、私の中でカッチリと同一人物として結びついたのである。
更に眼光が鋭いのがシンプルに怖い。私の物語の中で敵を睨みつける姿よりも怖い。その視線はどこか責められているようで落ち着かない。そして何より、何かを思い出してしまいそうで怖い。蓋をして、厳重に厳重に鎖を巻いて海に沈めたような、何かが。
先輩の陰謀により、トラファルガー先生と会うたびにその気持ちは大きくなっていく。初めて会った日は、天は彼に四物(人格)は与えなかった――と思ったのだが、そんなことは無かった。素っ気ないが、トラファルガー先生は優しい人だ。物語の中の登場人物だった筈の“キャプテン”の存在が、どんどん現実になっていく。だからトラファルガー先生には会いたくないのだ。私の物語が、現実に浸食されていくから。
おかげで私は今、完全なスランプに陥っている。あれだけ書いていて楽しかった“キャプテン”がすっかり書けなくなってしまったのだ。書けない、というよりも書きたくないに近い。しかし、小説家になるのは私の幼い頃からの夢である。そのチャンスが得られるのなら。数時間悩みに悩んで、私は相手に返事をしたのであった。
余談だが、私のペンネームは梅干しあんパンである。インパクトのある名前にしようと思って、純粋に自分の好きな食べ物をつなげてみたのだが、冷静になって考えると大層間抜けな名前だ。そんな話が来るなら、もっとまともな名前をつければ良かったと心底後悔した。これ、もしデビューしたらそのどさくさに紛れて改名ってできるかな。
◇
翌週の土曜日の十五時。
指定の場所は、それなりに交通の便が良い駅の近くにある個人経営のカフェだった。そのカフェの名前を見たとき、私は目を瞬いた。前から気になっていた店だ。何故その店を知っているかというと、私はこの駅をよく利用しているからだ。このカフェを道なりに二分程進むと、大きな図書館がある。この地域最大の広さと蔵書数を誇るので、住んでいる町が違うにも関わらず私はここの図書館のカードを持っている。図書館への道中で見かけるものの、前衛的なデザイナーハウスのその店は、ちょっとお高い感じだったので諦めていたのだ。
憧れのカフェの白い扉を開けると、古めかしい来店ベルがカランとなった。外装は洗練されているが、内装はアンティークでそのギャップがお洒落な店だと思った。あと、ちらっと見えたメニューの金額はやっぱり高かった。
店員の女性に人と待ち合わせをしている旨を告げると、どうやら相手はもう先に着いているらしい。とはいえ、待ち合わせの時刻五分前なので、私も社会人としてのルールは守っている。後ろめたいことは何ひとつないので、堂々と階段を上る。
そして、二階の奥まった席にいる二人組を目にした瞬間、私の脳内はパニックを起こした。ちょっと待って。見たことある。めちゃくちゃ見たことある顔がいる。それもそのはず、それは先輩とトラファルガー先生だった。
確かに先輩は編集者だが、メールをくれた人とは会社も名前も違う。それにトラファルガー先生に至っては何でこの場所にいるのか分からない。思わず私は持っていた荷物を落とした。ボトッと重たい荷物が落ちる音に二人の視線が集まる。そして先輩は私を指差した。
「やっぱりお前か!お前が梅干しあんパンか!」
人を指差すのはいけません、というマナー違反を指摘している余裕は私には無かった。どうして、二人がここにいるの。何故その名前を知っているの。私の頭の中ではぐるぐるとそれだけが回る。しかも、やっぱりって言った。それって、私だと知っていてこんなことをしたのか。わざわざ他の出版社の名前まで語って。これは、いくら何でもあんまりだ。
「やっぱり、って何ですか。先輩もトラファルガー先生も、私のこと揶揄ってたんですね……そんな人だと思いませんでした!」
そう言い捨てた私は脇目も振らず階段を駆け下りて、そのまま店を出た。
もう帰ろう、と思ったところで鞄をそのまま置いてきたことに気付いた。あの鞄の中には財布も携帯も全て入っている。要は、無一文な私は家に帰ることができない。かといって、あの二人のいるところに戻りたくもない。彼らはいつ頃店を出るだろうか。
これは根比べになる。少しの時間だったら、あの二人は店内にいるだろう。ということは、どこかで時間を潰そう。そこで私は時間を潰すのに打ってつけな場所があることを思い出した。図書館だ。そこなら本が沢山あるので時間を潰せるし、快適な空間だ。
私は図書館に向かうべく、横断歩道の信号が変わるのを待った。目的地である図書館は反対側の通りに面しているのだ。信号が青に変わった瞬間だった。ガランガランッと遠くで不可解な音がした。音のした方を見ると私はフリーズしてしまった。
物凄い形相をしたトラファルガー先生が勢いよく出てきたのである。そして、更に恐ろしいことに目が合ってしまった。その眼力に震えあがった私は一目散に横断歩道を渡った。
図書館に逃げ込んでしまえばワンチャンやり過ごせるのではないか、と考えたからだ。走り出した私は、ついつい怖いもの見たさで走りながら振り返って、それを後悔した。トラファルガー先生は横断歩道を使わずに最短距離で道路を渡って追いかけてくる。
「信号無視!!」そう絶叫しながら、決して後ろを向かずに走り続けることを誓った。ほぼヒールがないパンプスを履いてきて良かった。おかげで何とか図書館まで逃げきれそうだ。
無事に図書館に駆け込んだ私は、一目散に階段を下りた。この図書館は私の庭のようなものなので、隠れられるところの目星はついている。
この図書館の地下室は郷土資料などが沢山詰め込まれており、本棚が迷路のように配置されている。当然、郷土資料など勉学でしか使われない。人気も無いので少しくらいの奇行をしたって問題無い。本棚はスチール製のもので、棚には少しの隙間が空いているから辺りを伺うこともできる。それは相手からも私の姿が見えているのと同義であるが、姿勢を低く保ち相手の膝下より下の目線で除けば見つかることはないだろう。
トラファルガー先生は物凄く長身なので、足下はがら空きに違いない。薄暗い資料室の奥まったところに隠れながら、私は時間が過ぎるのを待った。資料室の隅の方で体育座りをしている女など、まるで妖怪座敷童のようである。私は成人してるから童なんて歳じゃないけど。なんてことを考えだしてしまったが、人間の緊張感は持続しないものだ。正直ちょっと飽きてきた。そう思った瞬間、それを戒めるように足音が聞こえた。誰かが階段を下りてくる。私は本能で察した。
来た。絶対に来た。
静かだが、少しずつ大きくなってくる足音にぞくり、と総毛が立った。本棚の隙間から辺りを伺う。やはり、あの無駄に細長いジーンズはトラファルガー先生のものだ。私はごくりと生唾を飲み込み、姿勢を低く保ったまま場所を移動しようとした。その瞬間、何故かトラファルガー先生とばっちり目が合った。何故、その長身をわざわざ窮屈に丸めて下を見ようと思った。せっかく目線が高いのだから、もっと高いところを見るべきである。そこに何が見えてるというのだ。……私か!
「待て!!」
待てと言われて待つ者がいるか!!逃げるべく私は立ち上がった。地の利は私にある筈なのに、最短通路でこっちに向かってくるとはどういうことだ。予想外の出来事に戸惑い、私の行動は出遅れた。もうトラファルガー先生はすぐ近くまで来ている。逃げろ、逃げろ!やっと脳内の命令が身体に行き渡り、私の足が動き出した瞬間だった。
その時、ぐらりと世界が揺れた。地震である。地震自体は珍しくはない。ところが、今回の地震は一気に来るタイプだった。その結果、ふらついた私は本棚に思いっきり突っ込んだ。本棚であるスチールラックはしっかり固定されているから倒れることは無いが、詰め込まれた本はただでさえ地震で落ちそうになっているのに、そこに余計な負荷をかけるとどうなるか。当たり前のように、上から本が降って来たのである。完全に二次災害だ。私は慌てて頭を庇ったが、それより先に私の頭に辞書サイズの本が落ちてきたのだ。視界に映るのは、散らばる本の山。そして、ジリジリジリというけたたましい警告音を聴きながら私の意識は落ちて行った。
◇
散らばった本、頭が割れるほどの騒音。前にもこんなことがあった気がする。それはいつだっけ。
目が覚めると真っ暗な場所だった。それと同時に私は悟った。これは“夢”だ。ふと、寒気を感じた。この暗闇は寒くて、嫌な感じがする。夢だと分かったのなら、さっさと目を覚まそう。そう思ったものの、どうすれば目が覚めるか分からない。
せめてこの暗闇が晴れるような灯りがあればいいのに。そう思った瞬間、それに呼応するように遠くで炎がボッと燃えた。大きな炎だ。まるで、幼少時代の林間学校で行ったキャンプファイヤーのように力強いそれに、私は吸い寄せられるように近付いた。だって、ここはとても寒いし、暗闇は怖い。
心細くなった私を慰めて元気づけるように、炎はパチパチと燃え上がっている。炎に手を翳して暖を取る。温かい。赤やオレンジ色にゆらゆらと揺れるそれ。じっと見つめていると、炎の中に何かが見えた。私は目を瞬いた。マッチ売りの少女ではあるまいし、この炎はどう考えてもマッチなどという可愛らしいものではない。しかし、どうしてかその何かが気になってしまった。じっと目を凝らすと、炎の中に沢山の本が転がっている。
ずきん、と頭が割れるように痛んだ。この光景は見たことがある。意識を失う前とはまた違う。パチパチという炎が小さく爆ぜる音に混ざって、カンカンと不安になるような大きな音が聞こえてくる。それは私の頭を割ろうとでもしているのか、どんどん煩くなっていく。耳を塞いでも、その音は私の頭に直接の響くので無駄だった。とうとう立ってらなくなり、私はその場にへたり込む。
丁度低くなった目線の、揺れる炎の向こうには白い手が見える。その瞬間、頭の中の騒音は不自然な程に止んだ。その代わり私の耳は蚊の無くような声を聴きとった。掠れた声、しかし、間違えることはない。それは、私の声だった。その声は誰かの名前を呼んだ。
そうだ、私は、誰かに何かを伝えたかった。誰か、って誰だっけ。
「ナマエ!」
遠くで私を呼ぶ声がする。この声だ、私が伝えたかった人は、この人だ。そうだ、私が最期に読んだ名前。
「ロー、さん……」
ハートの海賊団船長、死の外科医、億越えの賞金首。そして、私の大好きだった人。それに気付いた瞬間、炎は更に燃え上がった。パチパチと消えていく火の粉一つ一つが私の過去の断片だった。熱くない火の粉を浴びながら私の記憶はどんどん繋がっていく。
大好きなキャプテンの魅力を全世界に伝える。
私は小説家になりたかったが、小説家になって一番やりたいことはそれだった。その為に暇な時間があれば自室で物語を書いていた。登場人物は私を含めたこの船の仲間たち。何て言ったってこの物語はノンフィクションなのだ。
ある程度きりのよいところまで書き溜めた私は、第三者に見て貰おうと思い、仲の良いシャチに読んでもらった。シャチは活字があまり好きでは無いが「キャプテンの物語です。貴方も出ます」と言えば、勢いよく食いついた。その結果、読み終えたシャチは絶賛してくれた。彼は「最高だ。最高だが、おれをもっと格好良く書いてくれ」と言っていたが、褒め言葉だけ受け取り最後の台詞は無視をした。何せこの物語はノンフィクションなので。
シャチに読ませた物語は瞬く間にクルー達に広がり、私が新作を書き上げる度に皆喜んで読んでくれた。私の目はとにかくキャプテンの一挙一動を追っていた。当然だ。彼は物語の主人公となりえる人物なのだ。だから、いつもキラキラと輝いている。そう思いながら、私はキャプテンをずっと見てきたが、それはちょっと違った意味を持っていたのだと気付いたのは、ゾウで彼に再会したときだった。キャプテンの無事を知り、私たちは歓声を上げて大喜びをした。大冒険を終えたキャプテンの雄姿を目に焼き付けて、いつでも物語の中で再現できるようにせねば。そんな浮ついた考えは、彼の姿を見た瞬間にどうでも良くなってしまった。ただ、ただ、彼がここにいてくれるだけで、こんなに嬉しい。帰ってきてくれただけで「お帰りなさい」と言えるだけでこんなに幸せだったのか。
ああ、そうか。
彼にかかっていたキラキラとしたフィルターは、物語の主人公としてではなく、好きな人としてのフィルターだった。私は無性に恥ずかしくなってしまった。とはいえ、色々な経験をした方がより上手く説得力のある文章が書けるに違いない。恋もそのうちの一つだ。きっと人生経験が豊かになる。それに、私はキャプテンのことが恋愛的な意味でも好きだったが、基本的にキャプテンは皆のものだ。ふと目が合うだけで幸せだし。まぁ、当時の私は所謂“恋をする自分”に酔っていたのである。ただ、何となく目が合う回数が増えた気もしないでもないが、気紛れなキャプテンのことだ。私の気の所為に決まっている。そう自分を納得させていたのが、それをぶち壊したのはシャチだった。
「お前、最近何かやったんじゃねェか。やけにキャプテンがお前のこと見てるけど」と、私が気にしていることを現実として突き付けてくるのだ。おい、空気を読め。そう思っていた矢先にキャプテンに呼び出しを食らったので、私は天を仰いだ。何かよく分からないけど、私は詰んでしまったに違いない。
私は逃げようとしたが、キャプテンはそんなに甘くなかった。知ってた。私の胸の内はアッサリ暴露させられた。
ところが、予想外なことが起きた。どうやらキャプテンは私とお付き合いをしてくれるようだった。何の冗談かと思ったものの、キャプテンはこういう嘘を吐くような人間ではない。多分、私のことはそれなりに好いてくれているのだ。愛の言葉を貰ったわけではないが、キスは貰ったし。
そんなこんなでキャプテンに一番近いポジションを頂いた当時の私は、キャプテンの色々な面を見れるのなら、よりリアルな彼を書けるのではないか、と思っていた。恋する乙女フィルターが落ち着くまでキャプテンの冒険譚は筆を置いていたが、私は連載を再開させるつもりでいた。何せそれは私のライフワークと言っても過言では無いので。キャプテンをもっと知ることによって、彼の良いところを沢山読者に知らせることができる!私も皆も幸せになれる!そう考えていた私は、何て浅はかで恥知らずな女だったのだろう。
これは、私だけのものにしたいな。
最初にそう思ったのは、初めて彼の名前を呼んだときだ。キャプテンではなく、ロー……と流石に呼び捨てにはできなかったので、ローさんと呼んでみた。おっかなびっくりの震え声に答えてくれた彼の声は穏やかで、いつもは眉間に寄っている皺もうっすらと薄くなっていた。この人のこんな顔は初めて見た。そして、私は思ってしまったのだ。この声は、この表情は、皆知らない。それに優越感を感じた。仄暗い喜びも感じた。
そして、それが全ての始まりだった。
ローさんはこの船のクルー達と皆平等(一部怪しいところがあったが)に接しているが、私と二人だけのときは違っていた。思ったよりも全然淡泊では無かった。彼の人生が刻まれた均整のとれた身体の全てを、穏やかな眼差しを、熱い掌を、起き抜けの少し掠れた声を、知っているのは私だけ。
こうなってしまっては、もう駄目だった。
誰にも渡したくなかった。全部、全部、私のものにしたかった。キャプテンも、ローさんも。現実の彼も、物語の中の彼も。
私はなんて欲張りなんだろう。なんて醜いんだろう。キャプテンの魅力を伝えたかった。伝えようとした。しかし、できなくなってしまった。彼は素敵な人だ。物語で語らなくても、それは充分伝わるに違いない。これ以上、伝わってしまったら皆ローさんのことが好きになってしまう。そんなのは困るし、絶対に嫌だ。
もし私がそんなことを考えているのだと知られたら、面倒な女だと思われるだろう。これはローさんには知られてはいけない。彼の前では、真っ直ぐに夢を追いかける女でなければいけない。こんな不純な女は彼の隣に相応しくない。
だから、書こうとした。皆私が書く物語を楽しみにしているのを知っていた。シャチにそう直接言われたときにそれを突き付けられた気がした。でも書けなかった。皆の為のキャプテンが、私には書けなくなってしまった。潮時だと思った。もう筆を折ろう。最低の妄執に私が苛まれている間、ローさんにも迷惑をかけているのは痛い程に知っていた。うっかり泣いてしまったし、完全にメンヘラ化している。それに、よくよく考えたら私はローさんに大切にして貰っているとはいえ、恋人としての触れ合いはあれども「好き」やそれに相当する言葉は貰ったことが無い。やはり、深いところでは私の一方通行に他ならないのだ。
だから、私は決意した。私の印象が最悪になる前に船を降りよう。ここに住みたい、とでも言っておけば彼も罪悪感が無くなるに違いない。筆は折っても本のことは大好きなのだから、ここが私にとっての天国だ。ところが、ガッチガチに固めた筈の私の決心もローさんの顔を見たら吹っ飛んでしまった。
私はどう仕様も無くこの人を愛しているのだ。
結局、私は狡い女だ。終わらせたくない。少しでも長くローさんの恋人でいたかった。しおしおと私の決意が萎んでいくのを感じた。これ駄目なやつだ。なので私は自身を元気づけテンションを爆上げするために私は島の中央にあった図書館に向かった。幼い頃に読み感銘を受けた本の初版があると聞いて、居ても立ってもいられなくなってしまったのだ。それを読んだら初心に戻れるかも。もしかしたら、また物語が書けるようになるかも。そうしたら、船を降りないで済む。
図書館で目当ての本を見つけて時間を忘れて没頭してしまった私が、本の世界から現実に戻されたのは大きな爆音が轟いてからだった。次いで大きく図書館が揺れた。私は地下にいたので、頭上で何かガラスのようなものが砕け散るような音がした。焦げ臭い匂いがする。ひょっとして、先程の音はエントランスのシャンデリアが落ちたときのものだろうか。そこから火が点いたに違いない。大変拙いことに、ここに大量にあるのは本だ。紙はよく燃える。一気に炎は燃え広がった。本は惜しいが、命の方が大事だ。私は急いで図書館の出口に向かった、のだが。
近くで女の子の泣き声がする。きっと逃げ遅れたのだ。見捨てることはできなかった。周れ右をして、声のする方に走る。走っている間にだんだん気分が悪くなっていく。煙を吸っているからだ。これは早く出ないと本当に死んでしまう。そんなのは絶対にご免だ。
煙をかき分けて、やっと女の子の姿を見つけることができた。何とか間に合った、と胸を撫でおろしたときだった。本棚がぐらついているのに気付いてしまった。きっと先程の揺れの所為だ。その本棚は女の子に圧し掛かろうとしている。考えるより先に体が勝手に動いた。女の子を突き飛ばしたが、代わりに脚が挟まれてしまった。いよいよ大変なことになった。せめて女の子には逃げて貰おう。「助けを呼んできて」とお願いすると使命を与えられた彼女は一目散に走って行った。もしかしたら、私もワンチャン助かるかもしれない。そう考えたところで、頭が重たくなってきた。息もできない。煙を吸い過ぎたのだ。こんなところで死にたくない。でも、それはきっと無理だ。せめて、最期にあの人に。
うっすらと目を開けると、未だにジリジリと警報が鳴っている。視界に飛び込んできたのは、あのときどうしても会いたかった人だ。そして、私は彼に伝えなければいけないことがある。大好きな彼にもう嘘は吐きたくなかった。私の唇は勝手に言葉を紡いでいく。
「私は小説家失格です」
ローさんは不思議そうな顔をしていた。それから私の様子が何時もと違うことに気付いたのだろう、彼はその目を見開いてる。久々にちゃんと見たその瞳は、やっぱり綺麗だった。
「お前、思い出し、……」
その唇に指を当てる。私の決意が消えてしまう前に、言わなければいけない。前のようにいつ言えなくなってしまうか分からないのだ。
「ローさんのこと、大好きだから……。独り占めしたくなっちゃったんです」
ローさんは私の言いたいことが理解できないのか、珍しく困惑した顔をしている。少し幼くなったそのかんばせに愛しさが積もる。
「皆続きが読みたいって言ってくれました。嬉しかったです。でも、キャプテンの冒険譚は書けなくなっちゃいました」
とはいえ、聡い彼はだんだん私の言いたいことを理解してくれたようだ。感情で綻んだ表情は、少しずついつものそれに戻っていく。
「だから、私の夢は、嘘になってしまいました」
自嘲するように弱々しく微笑み、私は目を閉じて審判のときを待った。
◇
ナマエの吐いた“嘘”を理解するまで、いくら聡明なローでも少しの時間を有した。
そして理解した瞬間、彼は「そんなことかよ」という言葉を必死に飲み込んだ。どんな深刻な悩みかと思ったら、ローにとっては全然大したことでは無かった。幻滅なんてするわけが無い。ローが好きなのはただのナマエで、物語を書く彼女ではない。
拍子抜けしてしまったが、ナマエにとっては「そんなこと」では処理できずにずっと抱えてきたことだったのだ。
どう反応したものか、と悩んでしまって無言になってしまった彼を誰が責められよう。ところが、反応が全く無いことにナマエは心配になったようだった。彼女はゆっくりと目を開けると、恐る恐るローの顔を覗き込んだ。彼の様子を伺い探るその視線に、どうやら嘘は許されないようだった。
「おれは小説家志望の女で、おれの話を書くからお前と付き合ってたわけじゃない」
淡々とぶちまけられるローの本音をナマエは瞬きもせずに静かに聞いていた。
「お前が小説家になりたいんだったら応援はしてやるが、止めたいんだったら止めればいい」
ぽとり、とナマエの頬を一筋の雫が伝う。それから彼女はゆっくり頷く。
「他にやりたいことを探せばいい。見つかっても、見つからなくても傍にいてやる」
ナマエは涙を溢しながら、何度も何度も頷いた。一向に涙を拭おうとしないので、顎を押さえて上を向かせて代わりに涙を拭ってやった。毎回思うが、この女は一人で涙も拭えないのだろうか。本当に世話が焼ける。でも、その役目を誰にも譲る気はローには無い。ナマエの涙も笑顔も全部全部ローのものだ。結局お互い様だ。目を細めてされるがままになっている彼女に、人生二周分の愛しさが積もる。
自然とローはナマエに口付けた。涙でしょっぱい筈の彼女の唇は柔らかくて甘いのだから、きっとローもどこかおかしくなってしまっているに違いないのだ。息を吸う為にほんの少しだけ開いた彼女の唇を舌で割って、もっと深いところまで。それでも、足りない。彼女の吐息も熱も全部奪ってやるつもりで舌を絡めても、まだ、足りない。
ところが残念なことに、ローは足りなくてもナマエは充分足りたらしい。ぐったりしてきたので、解放してやった。すると彼女は、ぜぃぜぃとフルマラソンを終えたような荒い息を整え出した。その様子はあまりにも必死だ。ローも鬼では無いので彼女の息が整うのを待ってやる。少しずつ吐く息が穏やかになっていくナマエの頬に貼り付いた髪をそっと掃えば、彼女は微笑んだ。本当に久々に見た彼女の笑顔は、言葉に出さずとも言っていた。幸せなのだと。そういえば、ローは彼女のその表情は悪くは無い――いや、好きだった。そんな彼女だったからこそ。
「おれはお前だから好きになったんだ」
「ちょっと待ってください!」
その瞬間、彼女はカッと目を見開き叫んだ。先程から鳴り続けている警報と良い勝負の大声だった。ちなみに、この警報はどうやら誤報のようで、今は警備会社の到着を待っている状態だそうだ。話が逸れたが、あまりにも必死な様子の彼女に、ローは眉を顰めた。
「なんだよ」
「好きって初めて言われました」
思わず無言になってしまった。確かに、よくよく考えたらナマエのことは愛していたが口に出したことは無かった、気がする。
「ちょっと不安だったんです。ローさんは意味も無くお付き合いをするような人ではないので、私に好意を持ってくれていたのは確かだと思っていましたが、私が押して付き合って貰った感がありますし」
確かに言葉にしてこなかったローにも非があるかもしれない。とはいえ、充分にできる限りの優しさと与えられる限りの愛情は注いできた、つもりだった。お互いの愛情の大きさを比べるなんて薄ら寒いカップルのように愚かなことはしないが、些か納得ができないものがある。「自分だけだと思うなよ」思わずそう呟いてしまったが、幸いなことにナマエの耳には届かなかったようだ。
「何か言いました?」
絶対に知られたくないので、ローは話題を変えた。
「それより、散々人のことを避けてくれたな。良い度胸してんじゃねェか」
「記憶が無かったんですからノーカンでしょう!初対面であんなおっかない顔をすれば誰しも怖がりますよ」
「あんな顔?それはお前だろ。お前こそ思わせぶりな面しやがって。絶対覚えてるって思ったんだ」
「思わせぶり……いえ、純粋にローさんを見てると落ち着かなくて……。私の書いた話の登場人物そのものがいたら吃驚するでしょう?」
この女、随分なことを言ってくれる。頬を引き攣らせたローだったが、ふと気付いてしまった。
「今、お前の連載してる話の更新が止まってる理由は、まさか前と同じ理由じゃねェよな」
何となく思ったことを口にしてみただけだったのだが、どうやら図星だったらしい。彼女は顔を真っ赤にしてわなわなと震え出した。こういうところは全く変わっていない。
「ええ、同じですよ!悪いですか!!」
警備会社が到着したのか警報は止んだので、今度はナマエの声だけがローの耳に響いた。普通に煩い。ローは指先で自身の耳を塞ぐ。
「別に悪かねェよ。お前はプロでも何でも無いんだから書きたくなくなったら止めればいい」
「でも、全世界云十億人のキャプテンのファンが」
「おれは今真面目な話をしている」
彼女の世迷い事をバッサリと斬り捨ててやると、ナマエは俯いて小さく謝罪した。どうやら反省はしているようだ。しおらしいその様子を見て、ローの中で何かが疼いた。この感覚は懐かしい。自然と彼の口角も意地悪く吊り上がる。
「で、全世界云十億人の不特定多数の馬の骨に、本来お前だけが知ることができるはずのおれの話をするわけか」
「それは絶対に嫌です!!」
ナマエは涙声で噛みつくように反論してきた。口をへの字に結び、情けなく鼻をすする新社会人の姿にローは嘆息した。反省はしないが、苛め過ぎたようだ。謝る代わりにわしゃわしゃと彼女の髪をかき混ぜるように撫でてやれば、最後に彼女はすんッと鼻を鳴らす。
「じゃあ答えは出てるじゃねェか」
やはりローは彼女には大概甘い。存外優しい声色になってしまったではないか。ナマエはただそれに頷いた。本当にどう仕様も無い女である。ローとて自身の全てを全世界に発信されるのなどは死んでもご免だ。生き恥も良いところである。この女がそんな恐ろしいことを考えていたなんて知らなかった。止めさせられて本当に良かった。そもそも、ナマエが“自分だけのもの”だと思っていたものは、ローがナマエ“だけ”にやったものだ。それを勝手にシェアされて堪るか。癪なのでナマエには絶対に教えてやらないけれども。
◇
あれから私とローさんは、落っことしてきた私の荷物を取りに先程のカフェに戻った。二階席には先輩――もといシャチが待ち構えており、彼は私を目にした瞬間に勢いよく頭を下げてくれた。
「悪かった。騙すつもりは無かったんだ。お前が自分の書いた話を本にしたいなら、知り合いの編集者を紹介してやるつもりだった」
両手を合わせるシャチには反省の色しか見えなかったので、私は思わせぶりに溜息を吐いた。そして思った。彼にも前世の記憶があったのなら、道理で私とローさんをくっつけたがるわけだ。つまり私がローさんともう一度出会えたのは彼のおかげでもある。感謝もしてやらないこともない。
「シャチのおかげでローさんに会えたからそれはもういい。私も早とちりしたことは確かだし。それから、」
私は大きく首を横に振った。シャチはキョトンとしている。
「本の件はいいや。あの話は未完!」
「何で?!」
「おれ楽しみにしてたのに!」とシャチは悲鳴を上げたが、こればかりは仕様が無いのだ。ローさんの顔を見れば、彼の唇はほんの少しだけ弧を描いている。見ようによっては意地が悪そうだ。彼は私が更新できなくなった理由を知っているのだから当然だ。私もスッキリしたし、ローさんも笑っている。だからこの答えは正解に違いない。そのことに気付くまで随分遠回りをしてしまった。本当に大切だったのは、忘れてはいけなかったのは、ローさんがいるだけで幸せだったのだということだ。蹲って頭を抱えているシャチを見下ろしながら、そっとローさんに手を伸ばすと彼はしっかりと私の手を握ってくれた。そして、私は手を伸ばした先に彼がいることの幸せを噛みしめたのだった。
天竺葵(ゼラニウム)花言葉/偽り・予期せぬ出会い・あなたがいて幸せ