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「名立たる冒険家たちも真っ青になって裸足で逃げ出すような、キャプテンの冒険譚を書くんです」
そう言って白い歯を見せて笑う娘の名前はナマエといった。
北の海の小さな島国で育ったナマエは、小説家志望の娘だった。彼女は「事実は小説より奇なり」を胸に掲げ、小説のネタを求めて何も考えずに海に出たという。その結果、漂流していたところをローたちに拾われた。それがナマエとの出会いだった。彼女は好奇心が旺盛で落ち着きがなく気まぐれで、娘というよりも少年、少年というよりも猫のような人間だった。ちなみに猫といっても、好奇心を持ったばかりに殺されるタイプのそれだ。
そんなこともあって、彼女はクルーの中でも“面倒事を持ち込む率”上位者の地位を欲しいままにしていた。それなりに手を焼いたが、かといって彼女を放り出すという選択肢は不思議とローにもクルー達にも無かった。それは彼女の明朗で人懐こい人柄故か、認めたくは無いがローが身内には加減をする傾向があるからか、当時の彼はよく解らなかった。
小説家志望というだけあって、ナマエは即興で物語を作るのが上手い。よく暇潰しにクルー達に聞かせてやっているようだった。「何か面白い話をして」という面倒な無茶ぶりに答えられるのは、この船ではナマエぐらいのものだった。ローも当然、彼女の作る物語を耳にしたことがある。
ナマエの紡ぐそれは、幸福なこども時代を思い出すような優しいものばかりだった。夢見がちと言ってしまえばそれまでだ。しかし、口には出したことは無かったが、ローはそれを悪くは無いと思っていた。今日もナマエは数人の仲間たちに囲まれて、身振り手振りで作り話をしている。元からノリの良いクルー達は皆楽しそうだ。盛り上がっているナマエたちを横目に、ローはその場を通り過ぎようとした。ふとナマエと目が合えば、彼女はへらりと気の抜ける笑みを浮かべる。“死の外科医”の船の人間が、随分呑気なものだ。
彼女に対して小さな違和感を抱き始めたのは、ゾウで再会してからだった。
クルー達はローと再び会えたことに皆喜び、その多くは感極まって泣いていた。ナマエも当然のように泣いた。別れる前の彼女なら、わんわんと天を仰ぎながら子供のように号泣していたはずだ。
ところが、ナマエの様子は予想とは違っていた。彼女はただ、ポロポロと真珠のように大粒の涙を溢し声もなく泣いていたのである。柄にもなく面食らってしまった。ナマエは涙を拭うことを忘れているようだったので、代わりに自身の指先でそれを拭ってやれば彼女は静かに目を閉じた。温かい涙が指先に沁みる。そして、彼女はゆっくりと目を開けてローの姿を瞳に映すと、破顔した。
「お帰りなさい」
その言の葉は、甘やかで幸せの色をしていた。クルー達にお伽噺を話すときとは全く違う、ローの為だけの声だった。それを耳にした瞬間、彼の中で何かが変わっていくのを感じた。そして、その変化は悪いものでは無いのだということも漠然と気付いていた。
それからは以前よりも彼女と目が合うようになった。少し不思議に思っていたのだが、その疑問はシャチの何気無い一言によって解決した。「キャプテン、最近ナマエばっかり見てますけど、あいつまた何かやらかしました?」目が合うのは当然だった。どうやら、ローが彼女のことを目で追っていたのである。
とはいえ、尋常では無いほどに目が合うので彼は考えた。目で追っているのは、相手も同様なのでは。そう思っている間にもまた目が合った。やはり、ナマエは至極幸せそうに微笑むのだ。非常にむず痒い。とうとう耐えられなくなったローは、ナマエを自室に呼び寄せた。部屋にやってきた彼女は何故呼びつけられたのか分からずに所在なさげにしている。
「あのぅ、私、何かしましたか……」
「本当に分からないのか」
「皆目見当もつきません」
眉を八の字にして困っているナマエを見て、ローの胸の内で何かが疼いた。自然と口角が意地悪く吊り上がる。
「最近よく目が合うが、おれに何か言いたいことがあるんじゃないのか」
ぽかん、とした顔でそれを聞いていたナマエは次第に小刻みに震えだした。完全に挙動不審だ。対してローは涼しい顔をして、彼女の様子をじっくりと観察していた。今やナマエは俯いて顔を両手で覆って「あー」だの「うー」だの赤子のような声を溢していた。
「今なら聞いてやる」
助け船に見せかけた泥舟を出してやれば、ナマエはようやっと顔を見せた。そのかんばせは果実のように熟れていて、瞳は少し潤んでいた。少し苛め過ぎた気がしないでもない。内心そう思ったローは、静かにナマエが落ち着くのを待ってやることにした。
暫くして彼女はポツリと言った。普段はよく回る彼女の唇が紡いだのは「好きです」のたった四文字。よく見れば、ぎゅうっと握られていた彼女の拳は震えている。せっかく人が聞いてやると言っているのに、何を怖がることがあるのか。震える彼女の手を取れば、彼女は甲高い珍妙な悲鳴を上げた。自分で告白しておいて今更どうしたというのだ。その様子がおかしくて、ローの唇は柔く弧を描く。ナマエに感じていたむず痒さも今や心地良くなっていた。ローの中で胸に突っかかっていたものが落ちた。そうか、自分はナマエが好きだったのか。思わず抱き寄せた彼女の身体は温かく、塞いだ唇は甘かった。
それから恋人同士となったローとナマエだったが、十歩程後ろを歩く彼女をローが渋々待ってやるつもり(待つとは限らない)で順風満帆に付き合っていた。筈、だった。
ところが、あるときからナマエの顔が曇り出したのだ。随分思い悩んでいたようだった。そしてある日、彼女は躊躇いがちに口を開いた。
「ローさん、嘘吐きってどう思います?」
二人だけのとき、ナマエはローのことを名前で呼んでいた。いつもは優しい響きのそれも、今はその声音に甘さはない。彼女は真剣な顔をして、その様はまるで審判のときを待つ罪人のようにも見えた。
「吐いた嘘の内容にもよる。で、お前の吐いた嘘はなんだ」
「何で私が嘘吐いてる前提なんですか……」
この流れで何故それを聞かれないと思った。言外にそう含ませてナマエを見下ろせば、彼女はたじろいでから「やっぱり忘れてください!!」と大げさに首を横に振り、両腕を前に突き出しローから距離を取ろうとした。その結果、座っていた椅子から転げ落ちた。物凄く必死すぎて若干引いた。
無理矢理吐かせることもできたが、“その嘘”は彼女の相当深いところに繋がっているようだった。気にならないと言えばそれこそ大嘘になる。でも、今ここで無理に言わせるのは違う。そう判断したローは、この場は彼女を見逃してやることにした。焦らなくても、彼女の“嘘”を暴く機会はいつでもあるのだと。そう自身に言い聞かせたのである。
しかし、ナマエの観察眼もそれなりに鋭かった。ローが“嘘”についての追及を諦めていないことを察した彼女は、器用にローを避け始めた。ナマエは元から人の集まるところにいる人種だ。大抵は誰かと一緒にいることが多く、呼び出し辛い。
そこで一人のところを狙ってやろうと思ったのだが、ローとナマエはこの狭い艦内でいっそ芸術的な程にニアミスを繰り返した。今までのナマエであれば仲間たちと談笑してても、ローと目が合えば嬉しそうに笑った。ところが今はローの方を見ようともしない。苛立ちを感じながら、ローは思った。
そもそも、何故自分が遠慮をしているのだ。どんな嘘かは知らないが、嘘を吐くという後ろめたいことをしているのはナマエなのだ。時間なら充分にやった。もう譲歩する必要はない。そう思い立ったローは、真っ直ぐナマエの元に向かった。ローが接近していることを察した彼女は面白いくらい動揺しているが、そんなものは知ったことか。
「ナマエ」
名を呼んでやれば逃げようが無い。ナマエはローの思惑通りにぎこちなく振り返った。当然、彼女はローの意図を読み取っている。「来い」と言葉にせずとも、背を向けたローの後をとぼとぼと着いてくる。誰が来てもおかしくないところで話せるような話題では無いので、ローはナマエを自室に招き入れた。
「で、何か言うことはあるか」
あるなら聞いてやってもいい。いつぞやと同じようなことを言ったローが腕を組みながら視線で話を促してみたものの、やはりナマエは歯切れが悪くモゴモゴと言葉になっていない何かを噛み締めている。何時までも噛み締めてないで、味がなくなる前に吐き出せ。そう思ったのが通じたのか、ようやっと意を決したナマエは口を開いた。といっても、全くこちらを見ずに視線が忙しなく彷徨っているので減点であるが。
「ちょっと私も気持ちの整理が必要というか……」
「充分時間をやっただろ」
答えにすらなってない。取り付く島もなく切り捨てれば、ナマエはウッと唸った。
「でも、これは私自身の問題で……」
「それでおれを避けてるんだったら、おれもその問題に含まれるだろ」
これだけ人を振り回しておいて随分な言い草である。正論を返すと、ナマエは再び珍妙な唸り声をあげた。それから、ポツリとこう溢したのだ。
「……私のこと、幻滅するかもしれません」
だから、そんなのは聞いてみなければ分からない。それはナマエが判断することではなく、ローが判断することだ。自分の答えを勝手に決めつけられるのは不愉快だ。
「それはおれが判断することだ。おれに不満があるなら言え」
「不満なんて無いです!ローさんのことは大好きですよ!」
「じゃあ言え」
ずいっと覆いかぶさって物理的にも圧をかけてやると、どうやらナマエはキャパオーバーを起こしたようだった。処理落ちした彼女は、自身を冷却するために再起動して行動を開始した。要は、泣いたのである。ローは思わず脱力してしまった。
「……お前、それは流石に狡くねェか?」
ナマエはごしごしと乱暴に目元を拭いながら、消え入りそうな声で何度も謝罪をしている。あまりにも雑に目を擦っているからローがその両手を捕まえると、彼女は涙で滲んだ瞳でローを見つめた。尚も謝罪を重ねようとするので、ローはそれを止めさせる為に手っ取り早く唇を塞いでやった。ナマエの唇は涙の味でしょっぱいが、自分は大概甘くなったものだ。正直、もっと上手く吐かせられると思っていたのに。
「分かった。もういい。次の島まで待ってやるから」
◇
ポーラータング号が停泊したのは、本の国と呼ばれる小さな島だった。その島の建物は理知的な白と青で統一されており、島の中央には幾つかの棟に別れた大きな図書館がある。元は貴族が住んでいた豪奢な建物を改築して作られたそれは、雰囲気も相まって読書家の人間達の間では“一度は行ってみたい場所”として人気を集めていた。当然、本の虫であるナマエも大喜びである。「すっごい!私、こんなところに住んでみたいです!」陸に降り立った彼女はくるりと一回転して、両手を広げながら精一杯の喜びを表現していた。
今まで浮かない顔をしていたナマエの心からの笑顔は久々に見た。そう思っていると、彼女がこちらに向かって走り寄ってきた。決意が固まったその顔に、彼女の抱えていた何かが整理できそうなのだと彼は察した。
「今日の夜、お時間頂けますか」
「別に今でも良い」
寧ろローとしては今からでも全然構わないのだが、ナマエは小さく首を横に振り申し訳無さそうな顔をした。
「験担ぎというか、ちょっとやりたいことがあるんです」
どうやら彼女にしか見えていない何かがあるらしいので、ローは嘆息した。これだけ待ってやったのだ。今更夜まで待つことなど誤差の範囲だ。
「分かった」
「じゃあ、行ってきますね」
どこに行くんだ、と思わなくも無かったが彼女も子供でもない。それなりに腕も立つので余程の面倒事を起こさなければ問題も無いだろう。それに、彼女の行先は99%の確率で図書館だ。そう考えたローは彼女を送り出してやった。今後、数えきれない程この時のことを思い出すことになるのだが、今の彼はそんなこと知る由も無かったのである。
彼女を見送ったローは自室へと戻ることにした。今は真っ昼間だ。人通りもそれなりにあるだろう。ローも欲しい本が幾ばくかあったが、それを探しに散策するとしたらもう少し経ってからが良い。
自室に戻って、自身の蔵書を確認するために資料の整理をしていると、ローは喉の渇きを覚えた。部屋を出て厨房に飲み物を取りに行ってみれば、そこには偶々先客がいた。シャチはローを見るなり悪い笑みを浮かべる。
「ナマエは朝帰りですか」
「違う」
だいぶふざけた言い草だ。失礼な思い違いにローは眉間に皺を寄せた。
「冗談ですよ、あいつここ最近元気が無かったから心配で。でも、何とかなりそうな感じで良かったです」
上手くいっていないのがバレていた。まぁ、狭い艦内なので当然のことだろうが、シャチに心配されていたのだと思うと少し複雑なものを感じてしまったローだった。しかし、それも今日で絶対終わらせてやる。だからさっさと帰ってこい。
現在の時刻はそろそろ十九時になりそうだった。一般的にはもう夜と呼べる時間帯と言える。ひょっとしてあの女、時間を忘れて本を漁ってるのではなかろうか。連れ戻しに行くか。そう思い厨房を出たそのときだ。
カンカンカン、と尋常では無い程に大きな音が外から聞こえた。艦内にいても頭に響く大音量なので、外ではさぞかし轟音として響いているだろう。危険が迫ってきている可能性もある。何にせよ状況は確認すべきだ。クルー達は皆大慌てて外に飛び出した。ローも彼等に混ざって甲板に出る。そして全員が絶句した。
「……燃えてる」
ようやっとそう呟いたのが誰の声かは分からない。
火事だった。
濃紺の夜空が、夕焼けのように赤く染まっていた。この島の中央にある大きな建物が燃えている。どうしてそんなことになったかは分からないし、いつから燃えているのかも分からない。カンカンと煩いのは周りの人間に逃げるように促す警告音と、消防車が一刻も早く現場に辿り着く為に道を開けるよう促す為。
「あいつ、図書館に行くって言ってた……」
真っ青になってそう零したのはシャチだ。それを聞いた瞬間ローは船を飛び降り、能力で島の中央まで移動した。胸騒ぎがするが、今までこのような状況は多々あった。大抵やっかいごとの発信源にいるのはナマエだ。それに、彼女とて新世界の海を渡る立派な海賊である。普通に考えれば逃げ遅れることなどあり得ない。今回もローの取り越し苦労に違いないのだ。
図書館の周りには多くの消防車が囲むように止まっており、それを少し遠巻きにしたところで野次馬も多かった。ローはザッと辺りを見回した。彼女らしき人物はいない。その中で少女の声を拾ったのは偶然だった。
「お姉ちゃんが、まだこの中に!」
十歳くらいの少女がべしょべしょに顔を歪めて、消防士の男性の足にしがみついて引っ張ろうとしていた。ローの身体は火事特有の熱気を感じている筈なのに、一気に冷えていく。すぐさまローは少女に声をかけた。
「どんなやつだ、その“お姉ちゃん”は」
「白い服着てて、私を逃がしてくれたの」
「どこから逃げてきた」
「あっちの地下だよ、早く助けてあげて!」
少女が指差したのは、赤い炎に包まれた建物だ。思わず舌打ちしてしまったローは、一瞬で建物の地下まで移動した。そこは酷い有様だった。充満する黒い煙を鬼哭で払うと、若干視界がマシになる。足の踏み場も無い程に散らばっていたであろう価値のある古書の殆どは黒い灰になり、崩れて重なるように倒れている本棚。豪奢だった照明器具は落っこちており、それがさらに火種になったのだろう。確認できる範囲にナマエはいない。
「ナマエ!」
彼女の名前を呼んでみたが、返事は無い。ローとて人間なので、この場に長時間いることはできない。地下から移動したのかもしれない。そう判断して階段を駆け上がろうとしたとき、視界の片隅に移った倒れた本棚。白い“何か”が見える。どくん、とローの心臓が不安で一度だけ大きく跳ねた。
その白い“何か”は、よくよく見れば華奢な女性の手だった。倒れた本棚に女が下敷きになっている。本棚を退ける手間も惜しいので、鞘から抜いた鬼哭でそれを一瞬でバラす。細切れになった本棚から女が全貌を現したのと、ローが彼女の元に辿り着いたのは同時だった。嘘だと言って欲しかったが、それは現実で。そこにいたのは、ナマエだったのである。
瞬時にローは切り替えた。今の自分は医者だ。ローの手は、大好きだった人の命を取りこぼしたそれだ。沢山奪ってきた手だ。それでも、誰かを救うことができた手だ。今度だって絶対に救えるに違いないのだ。
しかし、それは患者が生きているということが前提だ。残酷なことに、この場合はその前提条件を満たしていなかった。ナマエは既に息をしていなかったのである。彼女の足は炎ではない赤で染まり、どうやら脚が封じられたことで逃げられなくなったらしい。そして、直接的な死因は一酸化炭素中毒だった。彼女の覇気では内臓まで強化ができるわけがない。身体は強化できても、この場合は全く意味をなさない。人生に幕を引いたのは彼女自身だ。これは、誰の所為でもない。一際大きな音がした。これ以上この場にいる必要は無い。重たくなったナマエを抱き上げ、ローはこの場を後にした。
島の外れの静かな入江でナマエをそっと横たえた。遠くは騒がしい筈だったが、ローの耳にその音は入ってこなかった。聞きたいのは彼女の声だ。それが聞こえないのなら、こんな騒音も波の音も必要無い。
「ナマエ」
ローは恋人の名前を呼んだ。返事が無いことは知っていた。それでも呼ばずにはいられなかった。そっと彼女の唇をなぞると、硬くかさついていた。彼女の唇の柔さを知っているローは、嫌でも現実をつきつけられる。
彼女の唇はもう夢物語を紡ぐことは無い。ローに愛を語ることもない。そして、彼女が抱えていた“嘘”を知る術は、もう永遠に来ないのだ。ローは彼女の上体を起こして力強く抱きしめる。大切な、大好きだった人たちとの死別を繰り返してきたローは、静かなところでゆっくりと死を悼み別れを告げることができなかった。生きている限り、死は絶対に訪れる。自分も、仲間もいずれ死ぬだろう。そんなことは知っている。それでも、まだ先であって欲しかった。
初めて別れを告げることができたのは、愛した女だった。ローはナマエの頬を撫でる。硬く強張ったそれ。唇を合わせても、お伽話のように彼女が目覚めることなどありえない。
「結局、お前の吐いた嘘って何だったんだ」
答えの代わりにただ、静かに優しい風が頬を撫でる。二人だけの最期の時間で、ローはナマエが安らかに眠るように祈りはしたが、別れの言葉は言わなかった。
◇
トラファルガー少年には、物心がついたときから妙な違和感があった。それはふとしたときに押し寄せる波の騒めきのようなものだった。何か大切なものを忘れているような、欠落感。裕福で家族仲も良く、満ち足りた生活であるのに何ともおかしな話だった。
それを思い出したのは、小学校六年生の国語の授業だった。ある日、先生は言った。「今日は、皆でお話を考えてみましょう」と。先生は登場人物と台詞を指定して、各々自由に物語を書かせようとした。その課題を貰ったローは思ったのだ。
『あいつが喜びそうだ』
あいつって、誰だ。
その瞬間、ローは突然襲ってきた記憶や感情の波に飲み込まれて意識を失った。そして、次に目が覚めたときには全てのことを思い出していた。幼い彼は、あの海での記憶を整理するのに少しの時間が必要だった。そして、整理すればする程に引っかかることは彼女のことだ。果たして、彼女の吐いた嘘とは何だったのか。物語を作るクラスメイトに交じって、ローは全く別のことを考えていた。彼女はどのような視点から物事を見て、どのような気持ちで物語を紡いできたのだろう。物語を作り出せば、彼女のことが何か分かるのだろうか。自然とローの小さな手は鉛筆を握っていた。
ローにとって物語を書くことはナマエという女の探求だった。幸いネタにするものは沢山あった。とはいえ、ローには彼女のような夢のある話は書けるわけがないし、書こうとも思わなかった。どちらかというと医学や歴史の知識の方が役に立つ。自然と彼の書くジャンルは決まっていった。
物語を書き続けて月日は流れ、彼が高校生になった頃に運命の再会をした。シャチに出会ったのである。
彼は、ローの通う高校に練習試合で訪ねてきた他校の運動部の一人だった。帰宅時に通り過ぎたグラウンドの奥で駆け回る彼を目に入れた瞬間、ローは立ち止まった。他人の空似かと思ったが、そんなことは無かったようだ。シャチはローの姿を目にした瞬間崩れ落ちて号泣した。確実に黒だった。その彼の頭の上でボールが勢いよくバウンドして、まるでコントのようなオチがついたのは余談である。
ローはシャチの部活が終わった後に彼と合流して話をした。
シャチも前世の記憶を持っているようだった。シャチとしてはその記憶は、よくできた夢のような扱いだったが、ローの姿を見てそれが現実だったことを確信したと言う。お互いの近況を話すと、シャチも普通の一般家庭に生まれて不自由なく暮らしているそうだ。昔のようなヤンチャはしていないらしい。そもそも相棒がいないし。
「ペンギンもベポも、どこ行ったんでしょうね」
「ペンギンはともかく、ベポはな……」
「会いてぇよ~~」
シャチは机に突っ伏してわんわん喚いた。どうやらローに出会えた喜びでだいぶ開放的になっているらしい。
ベポに会えるものなら会いたいが、今生の世界では白熊は二足歩行で喋らない。ローが白熊の航海士について想いを馳せていると、シャチはむくりと顔をあげた。
「それからあいつ」
“あいつ”。シャチが言うのは、たった一人だ。
「どうしてますかね」
それからポツポツとお互いの近況を話し、ローが小説を書いていることを知ったシャチは椅子から転がり落ちたのちに「読みたい!!」と騒ぎ出したので、いくつか書いたものを読ませた。読んでる間は静だったのだが、読み終えるとシャチはまた騒ぎ始めた。ここがファミレスで良かった。
「めちゃくちゃ面白いじゃないですか!」
「そうか?」
自分で書いておきながら言うのもなんだが、あまり判断ができない。
「おれ、思うんですよ。もし、あいつがこの世界にいるんだったら、また本の虫になってるって」
彼女が自分と同じようにこの世界に生まれているのだとしたら。確かにシャチの言うように趣味趣向は変わっていない。ローはパンを絶対食べないし、梅干しも嫌いだ。記念硬貨を集めるのも好きだ。つまり、彼女も本が好きなことには違いないのだ。
「キャプテンが小説書いてるって言ったら言い値で買いそうだな」
「人の書いた話で商売をするな」
「いや、でもコレ金取れますよ!流石キャプテン!」
「もうキャプテンじゃねェ」
「おれの心にあるキャプテンの座は永久欠番ですけど」
意味が分からないので放っておいた。とはいえ、この世界では海賊をやっていないのでシャチはローのことを名前で呼ぶことにしたらしい。出会ったときはそう呼んでくれていたので、彼の口から自身の名前が呼ばれるのは少しくすぐったい気がしないでもない。
「試しにどっかのコンクールにも出してみればいいんじゃないですか」
何言ってるんだ、という疑問を含ませた視線をシャチに向ければ、彼は何てことない体で言った。
「あいつの目に入るかもしれませんよ。」
もし、この広い世界で有名になれば彼女の耳に入るだろうか。
「また会えるなら会いたいでしょう、ナマエに」
「あいつ以外にも会いたいやつはいる」
「そんなこと言っちゃって。ああ、麦わらですか?仲良かったですもんね」
「……おれが能力を使えないことに感謝しろよ」
「スイマセン」
シャチは両手を軽く上げて降参のポーズを取った。
◇
数回目のコンクールで入賞を果たしたローは、少しずつ作品を表に出していった。
運にも恵まれ、デビューから数年で名前の知れた作家になった。当初の担当に「顔を出せばもっと売れる」と言われたので、それを聞いたローは公の場に顔を出すことだけは絶対にしないと誓った。炎上騒動を起こしたり、著者近影をシャチの意見で白熊にしてみたが一向に反応は無かった。この件に関しては、シャチの意見を聞かなければ良かったと後悔した。
かつてあの広い海で出会った人間の全てが都合よく転生しているはずなど無いし、ピンポイントでシャチに出会えただけでも奇跡みたいなものだろう。そう言い聞かせようとした矢先だった。久々に引き受けた仕事の締め切り前でローがパソコンの前で顰めっ面をしていると、インターホンが鳴り響いた。騒がしく連打されるそれの犯人はシャチだ。
「静かに入ってこい」
インターホンの連打に呆れながらローが扉を開けると、シャチは無言でずいっとスマートフォンを押し付けてきた。一体それが何だというのだ。スマートフォンを受取って画面をのぞき込む。大手の小説投稿サイトだ。そこはとある作家のマイページのようだった。その作家名は。
「梅干しあんパン……随分舐めた名前だな」
「名前はとりあえず置いておいて下さい」
ローの地雷を嘲笑うように踏み抜いていく『梅干しあんパン』なる人物。眉根を寄せていると、幾ばくか息が整い落ち着いたシャチはそう嘆息した。それから玄関先で話すことでは無いというので、場所を居間に移す。お互い向かい合って座って、シャチは口火を切った。
「これ、一年くらい前から投稿されて今も連載が続いている話なんですけど」
「とにかく読んでみてください」と据わった目(サングラスをしているので実際は知らない)で押し付けられたので、ローは黙ってその小説を読み始めた。それは王道のファンタジーだった。語り部となる主人公は海賊で、真っ白なツナギを着て黄色の潜水艇に乗って広い海を冒険している。目を見開くローにシャチは大仰に頷いてみせた。それに促されるようにしてローは全文を速読した。
「どう思います?」
「どうも何も」
「潜水艇……それも黄色の。白熊の航海士……ベポぉ、マジでどこにいるんだよぉ」
シャチはメソメソ泣いていたが、涙が枯れてくると鼻をすすりながら言った。
「名前とかは違うんですけど、完全に一致ですよね。これ、もし前世を知ってる人が読んだらパクリ判定で謝罪回収案件になりますよ。この前みたいな」
ローは苦い顔をした。ローの炎上騒動が思ったより早く終わった原因となった作家のことを思い出してしまったではないか。
「それから、文体があいつにソックリなんですよね」
「お前、あいつの書いた話を読んだことあるのか?」
ナマエが語る物語は知っていた。しかし、書き綴った物語は読んだことが無かった。彼女の机にはノートが沢山詰まれていたが、特に話題になったことは無かったのである。
「そりゃ、ありますよ。皆で回し読んでました」
「おれは知らねェぞ」
「ローさんに見つかったら回収されそうだったんで、皆隠してコソコソ読んでました。激アツでしたよ。でも今思えば、エロ本回し読む中学生みたいですね」
人が出てくる物語をエロ本扱いするな。というか、これだけは言わせてくれ。
「お前らから見たおれってこんなだったのか」
真顔のシャチはゆっくりと、深々と頷いた。尚且つ「まぁやっぱり実物が至高ですけどね」と拗らせたオタクのようなことを言うので、ローは頭を抱えたくなった。
「でも、パッタリと書かなくなったんだよなぁ。いつからだっけな」
シャチは顎に拳を当てて虚空を見つめた。それにひっかりを感じたローは、視線をシャチに動かした。彼はハッと閃いたようで、両手をぽむっと叩く。
「ああ、そうそう。確かあいつがローさんと付き合い始めて少ししてからですね」
ざわり、とローの胸が騒ぐ。そんなローの胸中など知る由も無いシャチはいけしゃあしゃあと言う。
「ローさん、ひょっとしてあいつが幻滅するようなことでもしたんじゃないですか」
冗談交じりのそれに、ローは思わず眉を顰めた。心当たりは無い、はずなのだ。寧ろ逆だ。彼女はローに幻滅されると言って、それを恐れていた。やはり、彼女のことは未だに全く分からない。
「おれ、一つだけ後悔があるんです」
「何がだ」
「“続きが早く読みたい”って言ったんです。そうしたら、あいつ凄く困った顔してた」
「それの何が悪い」
ローはどうとも思わないが、世間一般で言えばシャチの言葉は“楽しみにしてる”という風にしか取れないだろう。作家にとって嬉しい言葉には違いないのだ。
「いや、それはそうなんですけど。この仕事についてから色んな作家を見てきたんで。それがプレッシャーになるタイプの人もいますし、それを言われるタイミングもありますからね」
「そういうもんか」
「もしかしたら、あのときスランプだったのかもしれませんね」
「書きたくないなら書かなきゃいいじゃねェか」
書きたいときにしか書かない売れっ子作家の言うことに説得力は全くない。
「仕事を選べるのは一部の人間の特権です」
「おれは嫌だと思ったら断る」
この話は堂々巡りだと見切りをつけたシャチは話題を変えた。シャチの癖に生意気である。
「それから作家名の件ですけど、梅干しは知らねェけどあいつ、あんパンが好きでしたからね」
「それも知らねェ」
知っていたと思っていたのに、知らないことばかりだ。別にあんパンくらい隠さずに食えばいいじゃねェか。ローは何があってもパンを口に入れるつもりは無いが、自分に被害がなければ何を食べようが自由だ。ちょっとイラっときたローだった。
◇
そして、季節は巡って春の音が聞こえだした頃。
『いました!!』
「は?」
鼓膜を突き破ってくるようなシャチの声にローは思わず顔を顰めた。スマートフォンを耳から遠ざけ「何が」と静かに問う。その声音はシャチを鎮静化させることに成功したようで、少しだけ落ち着いたシャチは言った。
『ナマエです』
その瞬間、周りから音が消えた。まるで、あのときのようだった。ローから返事が無いことに電話の向こうでシャチが困惑したようにローの名を呼ぶ。我に返ったローは何とか相槌を打った。どうやら、シャチが面倒を見ることになった新入社員がナマエだったそうだ。予め渡された履歴書を見てシャチは椅子から転がり落ちたという。こいつは何回椅子から転がり落ちるんだ。一瞬だけそう思ったが、今はそんなことを言っている場合ではない。ローはシャチから送られてきた履歴書の控えのPDFを開く。随分久しぶりに見た彼女の顔は緊張で強ばっているが、間違いなくナマエだ。少し丸くて小さな字。それも彼女の筆跡だった。経歴を流し見して、志望動機にも目を通す。ここにシャチがいなくて良かった、なんてことを思ってしまうぐらいには自分の表情がおかしくなっていることには気付いていた。しかし、こればっかりはどう仕様も無い。
「相変わらず本が好きなんだな」
変わっていなかったことに安堵した。それと同時に、それなのに今まで反応が無かったことに対してほぼ答えが出たようなものだった。多分、彼女には。
『残念ですけど、記憶は無いみたいです』
ナマエに会ったら連絡をすると言っていたシャチの言葉通り、四月初旬に連絡がきた。その声は落ち込んでいた。元より記憶が無いのだろうと予測していたローは別にショックを受けなかった。なので冷静に相槌を打った。
「だろうな」
『いや、おれも記憶は無いんだろうなって思ってましたけど、三ミリくらいは期待してました……』
電話口でシャチは大きく溜息を吐いて、それっきり静かになってしまった。ラジオだったら放送事故である。どうしたものかと考えていると、シャチはしんみりモードから回復したらしい。別に誰も聞いていないだろうに、内緒話のような小声がローの耳に届いた。
『あと、何気なく確認してみたんですけど、小説は書いてないみたいです』
「じゃあ、アレは」
『分かりません。でも、嘘吐いてるようにも見えなかったんですよね』
ローが言う“アレ”こと梅干しアンパンは、昨日冒険譚の最新話を更新していた。そいつの話を読むのは精神的な苦痛を伴うのだが、今のところそれしか頼りになるものが無いのでローは毎日欠かさずにそれをチェックしていた。コメント欄にも目を通しており、返事の文章はどう考えても女性だ。尚、コメントの内容は精神の衛生上即消去することにしている。この物語の“キャプテン”と自分が別だと理解していても、複雑なものがあるのだ。
『ローさん、今暇ですか』
確かにローは今生も自由に生きているが、そんなニートみたいな言い方をされる筋合いはない。
「どういう意味だ」
『各週で連載しません?おれんとこで。あいつ、単純だからローさんを見たら思い出すかもしれません』
そんな上手い話は無いだろうと思ったものの、ナマエの姿を見たいというのは本音だったのでローは二つ返事でそれを承諾した。しかし、ローの中で一つの疑問がぷかりと浮いた。彼女に何らかの反応が無かったら、ローとナマエの人生は交じり合うことは無いに違いない。ローはナマエに思うことが沢山あっても、肝心のナマエに思うところが無ければそれは不毛な一方通行だ。そのとき、自分はどのような行動に出るのだろうか。素直に手離してやれるのか、それとも。
というローの懸念事項は、どうやら杞憂だったようだ。初めてナマエに会った瞬間にローは確信した。
これは黒だ。
ローの顔を見たナマエは、ほんの一瞬だけ表情を変えた。その刹那に覗いた顔は、『嘘吐きってどう思います?』と尋ねてきたときと同じで断罪を待つ罪人のようなそれだった。こいつは絶対に何かしらを隠している。ローはひたすらナマエを探るべく圧をかけてみたのだが、彼女は懸命にそこから逃げようと足掻いていた。本気で怯えているようで、シャチが何度も無言で窘めてきたのだが、その一切を無視した。だって、隠し事をしているナマエが悪いのだ。ローは充分待ってやった。その結果、何も話すことはできずに次回に持ち越しになった。シャチからは『冗談抜きで怖がってましたし、ローさんとこに派遣するのめっちゃ嫌がられました』という連絡が来たので、地味にショックを受けた。次会ったときはちょっとだけ優しくしてやろうと思った。とはいえ、前世でのナマエのローに対する好感度は最初からMAXだったので、このような状態のナマエにどのような態度を取っていいか分からなかった。少しシミュレーションしてみたのだが、人には向き不向きがあるので即行止めた。とりあえず、趣味趣向が変わっていないのなら昔好きだったものを与えておけばいいだろう。
そして、出だしから大失敗をしでかしたローとナマエの束の間の逢瀬は始まったのである。ローと会うたびにナマエは落ち着かない様子だったが、それはローを怖がっているわけではなく、何か別のものを恐れている。やはり、彼女には前世の記憶があって、前世でやり残したローの冒険譚を書いているのではないか。その疑惑は拭えなかった。しかし、ごく自然にカマをかけてみてもそれらしい反応は無い。八方塞がりだ。そして、そうこうしている内にとうとう唯一の手掛かりである“梅干しあんパン”の更新が途絶えた。
◇
『梅干しあんパン、完全に更新停滞してますね』
「そうだな」
『ローさん、いい加減に白黒つけましょう』
決意に満ちたシャチにローは眉根を寄せた。嫌な予感しかしない。
『そろそろ梅干しあんパンの正体を知りたくないですか』
知りたいに決まっている。しかし、“梅干しあんパン”疑惑のかかっている人物は一向に尻尾を掴ませない。
「どうやって」
『コンタクトを取りました』
「何て言ったんだ」
嫌な予感は確信に変わった。気は進まないが、ローは低い声で話を促した。
『出版社に務めている者です。貴方の小説を本にしませんか?って』
「お前、それ詐欺じゃねェか」
『詐欺じゃないですよ、正体を確かめた上で知り合いの編集に紹介します。っていうか、そいつの名前を借りて連絡取りましたし。うちはファンタジー系には力を入れてませんから、そいつんとこの方が良いでしょう。普通にめっちゃ面白いんであの話』
こいつ、いつの間にそんな力業に出た。あと、めっちゃ面白いと思っているのはお前らだけだ。
『来週の土曜日、会うことになってます。ローさんも来ますよね』
受話器の向こうのシャチはにやりと笑っているに違いない。疑問形ではなく確信を持って言われたのでローは口角をひきつらせた。とはいえ、残念なことにローには選択肢は一つしかないのだった。
そう言って白い歯を見せて笑う娘の名前はナマエといった。
北の海の小さな島国で育ったナマエは、小説家志望の娘だった。彼女は「事実は小説より奇なり」を胸に掲げ、小説のネタを求めて何も考えずに海に出たという。その結果、漂流していたところをローたちに拾われた。それがナマエとの出会いだった。彼女は好奇心が旺盛で落ち着きがなく気まぐれで、娘というよりも少年、少年というよりも猫のような人間だった。ちなみに猫といっても、好奇心を持ったばかりに殺されるタイプのそれだ。
そんなこともあって、彼女はクルーの中でも“面倒事を持ち込む率”上位者の地位を欲しいままにしていた。それなりに手を焼いたが、かといって彼女を放り出すという選択肢は不思議とローにもクルー達にも無かった。それは彼女の明朗で人懐こい人柄故か、認めたくは無いがローが身内には加減をする傾向があるからか、当時の彼はよく解らなかった。
小説家志望というだけあって、ナマエは即興で物語を作るのが上手い。よく暇潰しにクルー達に聞かせてやっているようだった。「何か面白い話をして」という面倒な無茶ぶりに答えられるのは、この船ではナマエぐらいのものだった。ローも当然、彼女の作る物語を耳にしたことがある。
ナマエの紡ぐそれは、幸福なこども時代を思い出すような優しいものばかりだった。夢見がちと言ってしまえばそれまでだ。しかし、口には出したことは無かったが、ローはそれを悪くは無いと思っていた。今日もナマエは数人の仲間たちに囲まれて、身振り手振りで作り話をしている。元からノリの良いクルー達は皆楽しそうだ。盛り上がっているナマエたちを横目に、ローはその場を通り過ぎようとした。ふとナマエと目が合えば、彼女はへらりと気の抜ける笑みを浮かべる。“死の外科医”の船の人間が、随分呑気なものだ。
彼女に対して小さな違和感を抱き始めたのは、ゾウで再会してからだった。
クルー達はローと再び会えたことに皆喜び、その多くは感極まって泣いていた。ナマエも当然のように泣いた。別れる前の彼女なら、わんわんと天を仰ぎながら子供のように号泣していたはずだ。
ところが、ナマエの様子は予想とは違っていた。彼女はただ、ポロポロと真珠のように大粒の涙を溢し声もなく泣いていたのである。柄にもなく面食らってしまった。ナマエは涙を拭うことを忘れているようだったので、代わりに自身の指先でそれを拭ってやれば彼女は静かに目を閉じた。温かい涙が指先に沁みる。そして、彼女はゆっくりと目を開けてローの姿を瞳に映すと、破顔した。
「お帰りなさい」
その言の葉は、甘やかで幸せの色をしていた。クルー達にお伽噺を話すときとは全く違う、ローの為だけの声だった。それを耳にした瞬間、彼の中で何かが変わっていくのを感じた。そして、その変化は悪いものでは無いのだということも漠然と気付いていた。
それからは以前よりも彼女と目が合うようになった。少し不思議に思っていたのだが、その疑問はシャチの何気無い一言によって解決した。「キャプテン、最近ナマエばっかり見てますけど、あいつまた何かやらかしました?」目が合うのは当然だった。どうやら、ローが彼女のことを目で追っていたのである。
とはいえ、尋常では無いほどに目が合うので彼は考えた。目で追っているのは、相手も同様なのでは。そう思っている間にもまた目が合った。やはり、ナマエは至極幸せそうに微笑むのだ。非常にむず痒い。とうとう耐えられなくなったローは、ナマエを自室に呼び寄せた。部屋にやってきた彼女は何故呼びつけられたのか分からずに所在なさげにしている。
「あのぅ、私、何かしましたか……」
「本当に分からないのか」
「皆目見当もつきません」
眉を八の字にして困っているナマエを見て、ローの胸の内で何かが疼いた。自然と口角が意地悪く吊り上がる。
「最近よく目が合うが、おれに何か言いたいことがあるんじゃないのか」
ぽかん、とした顔でそれを聞いていたナマエは次第に小刻みに震えだした。完全に挙動不審だ。対してローは涼しい顔をして、彼女の様子をじっくりと観察していた。今やナマエは俯いて顔を両手で覆って「あー」だの「うー」だの赤子のような声を溢していた。
「今なら聞いてやる」
助け船に見せかけた泥舟を出してやれば、ナマエはようやっと顔を見せた。そのかんばせは果実のように熟れていて、瞳は少し潤んでいた。少し苛め過ぎた気がしないでもない。内心そう思ったローは、静かにナマエが落ち着くのを待ってやることにした。
暫くして彼女はポツリと言った。普段はよく回る彼女の唇が紡いだのは「好きです」のたった四文字。よく見れば、ぎゅうっと握られていた彼女の拳は震えている。せっかく人が聞いてやると言っているのに、何を怖がることがあるのか。震える彼女の手を取れば、彼女は甲高い珍妙な悲鳴を上げた。自分で告白しておいて今更どうしたというのだ。その様子がおかしくて、ローの唇は柔く弧を描く。ナマエに感じていたむず痒さも今や心地良くなっていた。ローの中で胸に突っかかっていたものが落ちた。そうか、自分はナマエが好きだったのか。思わず抱き寄せた彼女の身体は温かく、塞いだ唇は甘かった。
それから恋人同士となったローとナマエだったが、十歩程後ろを歩く彼女をローが渋々待ってやるつもり(待つとは限らない)で順風満帆に付き合っていた。筈、だった。
ところが、あるときからナマエの顔が曇り出したのだ。随分思い悩んでいたようだった。そしてある日、彼女は躊躇いがちに口を開いた。
「ローさん、嘘吐きってどう思います?」
二人だけのとき、ナマエはローのことを名前で呼んでいた。いつもは優しい響きのそれも、今はその声音に甘さはない。彼女は真剣な顔をして、その様はまるで審判のときを待つ罪人のようにも見えた。
「吐いた嘘の内容にもよる。で、お前の吐いた嘘はなんだ」
「何で私が嘘吐いてる前提なんですか……」
この流れで何故それを聞かれないと思った。言外にそう含ませてナマエを見下ろせば、彼女はたじろいでから「やっぱり忘れてください!!」と大げさに首を横に振り、両腕を前に突き出しローから距離を取ろうとした。その結果、座っていた椅子から転げ落ちた。物凄く必死すぎて若干引いた。
無理矢理吐かせることもできたが、“その嘘”は彼女の相当深いところに繋がっているようだった。気にならないと言えばそれこそ大嘘になる。でも、今ここで無理に言わせるのは違う。そう判断したローは、この場は彼女を見逃してやることにした。焦らなくても、彼女の“嘘”を暴く機会はいつでもあるのだと。そう自身に言い聞かせたのである。
しかし、ナマエの観察眼もそれなりに鋭かった。ローが“嘘”についての追及を諦めていないことを察した彼女は、器用にローを避け始めた。ナマエは元から人の集まるところにいる人種だ。大抵は誰かと一緒にいることが多く、呼び出し辛い。
そこで一人のところを狙ってやろうと思ったのだが、ローとナマエはこの狭い艦内でいっそ芸術的な程にニアミスを繰り返した。今までのナマエであれば仲間たちと談笑してても、ローと目が合えば嬉しそうに笑った。ところが今はローの方を見ようともしない。苛立ちを感じながら、ローは思った。
そもそも、何故自分が遠慮をしているのだ。どんな嘘かは知らないが、嘘を吐くという後ろめたいことをしているのはナマエなのだ。時間なら充分にやった。もう譲歩する必要はない。そう思い立ったローは、真っ直ぐナマエの元に向かった。ローが接近していることを察した彼女は面白いくらい動揺しているが、そんなものは知ったことか。
「ナマエ」
名を呼んでやれば逃げようが無い。ナマエはローの思惑通りにぎこちなく振り返った。当然、彼女はローの意図を読み取っている。「来い」と言葉にせずとも、背を向けたローの後をとぼとぼと着いてくる。誰が来てもおかしくないところで話せるような話題では無いので、ローはナマエを自室に招き入れた。
「で、何か言うことはあるか」
あるなら聞いてやってもいい。いつぞやと同じようなことを言ったローが腕を組みながら視線で話を促してみたものの、やはりナマエは歯切れが悪くモゴモゴと言葉になっていない何かを噛み締めている。何時までも噛み締めてないで、味がなくなる前に吐き出せ。そう思ったのが通じたのか、ようやっと意を決したナマエは口を開いた。といっても、全くこちらを見ずに視線が忙しなく彷徨っているので減点であるが。
「ちょっと私も気持ちの整理が必要というか……」
「充分時間をやっただろ」
答えにすらなってない。取り付く島もなく切り捨てれば、ナマエはウッと唸った。
「でも、これは私自身の問題で……」
「それでおれを避けてるんだったら、おれもその問題に含まれるだろ」
これだけ人を振り回しておいて随分な言い草である。正論を返すと、ナマエは再び珍妙な唸り声をあげた。それから、ポツリとこう溢したのだ。
「……私のこと、幻滅するかもしれません」
だから、そんなのは聞いてみなければ分からない。それはナマエが判断することではなく、ローが判断することだ。自分の答えを勝手に決めつけられるのは不愉快だ。
「それはおれが判断することだ。おれに不満があるなら言え」
「不満なんて無いです!ローさんのことは大好きですよ!」
「じゃあ言え」
ずいっと覆いかぶさって物理的にも圧をかけてやると、どうやらナマエはキャパオーバーを起こしたようだった。処理落ちした彼女は、自身を冷却するために再起動して行動を開始した。要は、泣いたのである。ローは思わず脱力してしまった。
「……お前、それは流石に狡くねェか?」
ナマエはごしごしと乱暴に目元を拭いながら、消え入りそうな声で何度も謝罪をしている。あまりにも雑に目を擦っているからローがその両手を捕まえると、彼女は涙で滲んだ瞳でローを見つめた。尚も謝罪を重ねようとするので、ローはそれを止めさせる為に手っ取り早く唇を塞いでやった。ナマエの唇は涙の味でしょっぱいが、自分は大概甘くなったものだ。正直、もっと上手く吐かせられると思っていたのに。
「分かった。もういい。次の島まで待ってやるから」
◇
ポーラータング号が停泊したのは、本の国と呼ばれる小さな島だった。その島の建物は理知的な白と青で統一されており、島の中央には幾つかの棟に別れた大きな図書館がある。元は貴族が住んでいた豪奢な建物を改築して作られたそれは、雰囲気も相まって読書家の人間達の間では“一度は行ってみたい場所”として人気を集めていた。当然、本の虫であるナマエも大喜びである。「すっごい!私、こんなところに住んでみたいです!」陸に降り立った彼女はくるりと一回転して、両手を広げながら精一杯の喜びを表現していた。
今まで浮かない顔をしていたナマエの心からの笑顔は久々に見た。そう思っていると、彼女がこちらに向かって走り寄ってきた。決意が固まったその顔に、彼女の抱えていた何かが整理できそうなのだと彼は察した。
「今日の夜、お時間頂けますか」
「別に今でも良い」
寧ろローとしては今からでも全然構わないのだが、ナマエは小さく首を横に振り申し訳無さそうな顔をした。
「験担ぎというか、ちょっとやりたいことがあるんです」
どうやら彼女にしか見えていない何かがあるらしいので、ローは嘆息した。これだけ待ってやったのだ。今更夜まで待つことなど誤差の範囲だ。
「分かった」
「じゃあ、行ってきますね」
どこに行くんだ、と思わなくも無かったが彼女も子供でもない。それなりに腕も立つので余程の面倒事を起こさなければ問題も無いだろう。それに、彼女の行先は99%の確率で図書館だ。そう考えたローは彼女を送り出してやった。今後、数えきれない程この時のことを思い出すことになるのだが、今の彼はそんなこと知る由も無かったのである。
彼女を見送ったローは自室へと戻ることにした。今は真っ昼間だ。人通りもそれなりにあるだろう。ローも欲しい本が幾ばくかあったが、それを探しに散策するとしたらもう少し経ってからが良い。
自室に戻って、自身の蔵書を確認するために資料の整理をしていると、ローは喉の渇きを覚えた。部屋を出て厨房に飲み物を取りに行ってみれば、そこには偶々先客がいた。シャチはローを見るなり悪い笑みを浮かべる。
「ナマエは朝帰りですか」
「違う」
だいぶふざけた言い草だ。失礼な思い違いにローは眉間に皺を寄せた。
「冗談ですよ、あいつここ最近元気が無かったから心配で。でも、何とかなりそうな感じで良かったです」
上手くいっていないのがバレていた。まぁ、狭い艦内なので当然のことだろうが、シャチに心配されていたのだと思うと少し複雑なものを感じてしまったローだった。しかし、それも今日で絶対終わらせてやる。だからさっさと帰ってこい。
現在の時刻はそろそろ十九時になりそうだった。一般的にはもう夜と呼べる時間帯と言える。ひょっとしてあの女、時間を忘れて本を漁ってるのではなかろうか。連れ戻しに行くか。そう思い厨房を出たそのときだ。
カンカンカン、と尋常では無い程に大きな音が外から聞こえた。艦内にいても頭に響く大音量なので、外ではさぞかし轟音として響いているだろう。危険が迫ってきている可能性もある。何にせよ状況は確認すべきだ。クルー達は皆大慌てて外に飛び出した。ローも彼等に混ざって甲板に出る。そして全員が絶句した。
「……燃えてる」
ようやっとそう呟いたのが誰の声かは分からない。
火事だった。
濃紺の夜空が、夕焼けのように赤く染まっていた。この島の中央にある大きな建物が燃えている。どうしてそんなことになったかは分からないし、いつから燃えているのかも分からない。カンカンと煩いのは周りの人間に逃げるように促す警告音と、消防車が一刻も早く現場に辿り着く為に道を開けるよう促す為。
「あいつ、図書館に行くって言ってた……」
真っ青になってそう零したのはシャチだ。それを聞いた瞬間ローは船を飛び降り、能力で島の中央まで移動した。胸騒ぎがするが、今までこのような状況は多々あった。大抵やっかいごとの発信源にいるのはナマエだ。それに、彼女とて新世界の海を渡る立派な海賊である。普通に考えれば逃げ遅れることなどあり得ない。今回もローの取り越し苦労に違いないのだ。
図書館の周りには多くの消防車が囲むように止まっており、それを少し遠巻きにしたところで野次馬も多かった。ローはザッと辺りを見回した。彼女らしき人物はいない。その中で少女の声を拾ったのは偶然だった。
「お姉ちゃんが、まだこの中に!」
十歳くらいの少女がべしょべしょに顔を歪めて、消防士の男性の足にしがみついて引っ張ろうとしていた。ローの身体は火事特有の熱気を感じている筈なのに、一気に冷えていく。すぐさまローは少女に声をかけた。
「どんなやつだ、その“お姉ちゃん”は」
「白い服着てて、私を逃がしてくれたの」
「どこから逃げてきた」
「あっちの地下だよ、早く助けてあげて!」
少女が指差したのは、赤い炎に包まれた建物だ。思わず舌打ちしてしまったローは、一瞬で建物の地下まで移動した。そこは酷い有様だった。充満する黒い煙を鬼哭で払うと、若干視界がマシになる。足の踏み場も無い程に散らばっていたであろう価値のある古書の殆どは黒い灰になり、崩れて重なるように倒れている本棚。豪奢だった照明器具は落っこちており、それがさらに火種になったのだろう。確認できる範囲にナマエはいない。
「ナマエ!」
彼女の名前を呼んでみたが、返事は無い。ローとて人間なので、この場に長時間いることはできない。地下から移動したのかもしれない。そう判断して階段を駆け上がろうとしたとき、視界の片隅に移った倒れた本棚。白い“何か”が見える。どくん、とローの心臓が不安で一度だけ大きく跳ねた。
その白い“何か”は、よくよく見れば華奢な女性の手だった。倒れた本棚に女が下敷きになっている。本棚を退ける手間も惜しいので、鞘から抜いた鬼哭でそれを一瞬でバラす。細切れになった本棚から女が全貌を現したのと、ローが彼女の元に辿り着いたのは同時だった。嘘だと言って欲しかったが、それは現実で。そこにいたのは、ナマエだったのである。
瞬時にローは切り替えた。今の自分は医者だ。ローの手は、大好きだった人の命を取りこぼしたそれだ。沢山奪ってきた手だ。それでも、誰かを救うことができた手だ。今度だって絶対に救えるに違いないのだ。
しかし、それは患者が生きているということが前提だ。残酷なことに、この場合はその前提条件を満たしていなかった。ナマエは既に息をしていなかったのである。彼女の足は炎ではない赤で染まり、どうやら脚が封じられたことで逃げられなくなったらしい。そして、直接的な死因は一酸化炭素中毒だった。彼女の覇気では内臓まで強化ができるわけがない。身体は強化できても、この場合は全く意味をなさない。人生に幕を引いたのは彼女自身だ。これは、誰の所為でもない。一際大きな音がした。これ以上この場にいる必要は無い。重たくなったナマエを抱き上げ、ローはこの場を後にした。
島の外れの静かな入江でナマエをそっと横たえた。遠くは騒がしい筈だったが、ローの耳にその音は入ってこなかった。聞きたいのは彼女の声だ。それが聞こえないのなら、こんな騒音も波の音も必要無い。
「ナマエ」
ローは恋人の名前を呼んだ。返事が無いことは知っていた。それでも呼ばずにはいられなかった。そっと彼女の唇をなぞると、硬くかさついていた。彼女の唇の柔さを知っているローは、嫌でも現実をつきつけられる。
彼女の唇はもう夢物語を紡ぐことは無い。ローに愛を語ることもない。そして、彼女が抱えていた“嘘”を知る術は、もう永遠に来ないのだ。ローは彼女の上体を起こして力強く抱きしめる。大切な、大好きだった人たちとの死別を繰り返してきたローは、静かなところでゆっくりと死を悼み別れを告げることができなかった。生きている限り、死は絶対に訪れる。自分も、仲間もいずれ死ぬだろう。そんなことは知っている。それでも、まだ先であって欲しかった。
初めて別れを告げることができたのは、愛した女だった。ローはナマエの頬を撫でる。硬く強張ったそれ。唇を合わせても、お伽話のように彼女が目覚めることなどありえない。
「結局、お前の吐いた嘘って何だったんだ」
答えの代わりにただ、静かに優しい風が頬を撫でる。二人だけの最期の時間で、ローはナマエが安らかに眠るように祈りはしたが、別れの言葉は言わなかった。
◇
トラファルガー少年には、物心がついたときから妙な違和感があった。それはふとしたときに押し寄せる波の騒めきのようなものだった。何か大切なものを忘れているような、欠落感。裕福で家族仲も良く、満ち足りた生活であるのに何ともおかしな話だった。
それを思い出したのは、小学校六年生の国語の授業だった。ある日、先生は言った。「今日は、皆でお話を考えてみましょう」と。先生は登場人物と台詞を指定して、各々自由に物語を書かせようとした。その課題を貰ったローは思ったのだ。
『あいつが喜びそうだ』
あいつって、誰だ。
その瞬間、ローは突然襲ってきた記憶や感情の波に飲み込まれて意識を失った。そして、次に目が覚めたときには全てのことを思い出していた。幼い彼は、あの海での記憶を整理するのに少しの時間が必要だった。そして、整理すればする程に引っかかることは彼女のことだ。果たして、彼女の吐いた嘘とは何だったのか。物語を作るクラスメイトに交じって、ローは全く別のことを考えていた。彼女はどのような視点から物事を見て、どのような気持ちで物語を紡いできたのだろう。物語を作り出せば、彼女のことが何か分かるのだろうか。自然とローの小さな手は鉛筆を握っていた。
ローにとって物語を書くことはナマエという女の探求だった。幸いネタにするものは沢山あった。とはいえ、ローには彼女のような夢のある話は書けるわけがないし、書こうとも思わなかった。どちらかというと医学や歴史の知識の方が役に立つ。自然と彼の書くジャンルは決まっていった。
物語を書き続けて月日は流れ、彼が高校生になった頃に運命の再会をした。シャチに出会ったのである。
彼は、ローの通う高校に練習試合で訪ねてきた他校の運動部の一人だった。帰宅時に通り過ぎたグラウンドの奥で駆け回る彼を目に入れた瞬間、ローは立ち止まった。他人の空似かと思ったが、そんなことは無かったようだ。シャチはローの姿を目にした瞬間崩れ落ちて号泣した。確実に黒だった。その彼の頭の上でボールが勢いよくバウンドして、まるでコントのようなオチがついたのは余談である。
ローはシャチの部活が終わった後に彼と合流して話をした。
シャチも前世の記憶を持っているようだった。シャチとしてはその記憶は、よくできた夢のような扱いだったが、ローの姿を見てそれが現実だったことを確信したと言う。お互いの近況を話すと、シャチも普通の一般家庭に生まれて不自由なく暮らしているそうだ。昔のようなヤンチャはしていないらしい。そもそも相棒がいないし。
「ペンギンもベポも、どこ行ったんでしょうね」
「ペンギンはともかく、ベポはな……」
「会いてぇよ~~」
シャチは机に突っ伏してわんわん喚いた。どうやらローに出会えた喜びでだいぶ開放的になっているらしい。
ベポに会えるものなら会いたいが、今生の世界では白熊は二足歩行で喋らない。ローが白熊の航海士について想いを馳せていると、シャチはむくりと顔をあげた。
「それからあいつ」
“あいつ”。シャチが言うのは、たった一人だ。
「どうしてますかね」
それからポツポツとお互いの近況を話し、ローが小説を書いていることを知ったシャチは椅子から転がり落ちたのちに「読みたい!!」と騒ぎ出したので、いくつか書いたものを読ませた。読んでる間は静だったのだが、読み終えるとシャチはまた騒ぎ始めた。ここがファミレスで良かった。
「めちゃくちゃ面白いじゃないですか!」
「そうか?」
自分で書いておきながら言うのもなんだが、あまり判断ができない。
「おれ、思うんですよ。もし、あいつがこの世界にいるんだったら、また本の虫になってるって」
彼女が自分と同じようにこの世界に生まれているのだとしたら。確かにシャチの言うように趣味趣向は変わっていない。ローはパンを絶対食べないし、梅干しも嫌いだ。記念硬貨を集めるのも好きだ。つまり、彼女も本が好きなことには違いないのだ。
「キャプテンが小説書いてるって言ったら言い値で買いそうだな」
「人の書いた話で商売をするな」
「いや、でもコレ金取れますよ!流石キャプテン!」
「もうキャプテンじゃねェ」
「おれの心にあるキャプテンの座は永久欠番ですけど」
意味が分からないので放っておいた。とはいえ、この世界では海賊をやっていないのでシャチはローのことを名前で呼ぶことにしたらしい。出会ったときはそう呼んでくれていたので、彼の口から自身の名前が呼ばれるのは少しくすぐったい気がしないでもない。
「試しにどっかのコンクールにも出してみればいいんじゃないですか」
何言ってるんだ、という疑問を含ませた視線をシャチに向ければ、彼は何てことない体で言った。
「あいつの目に入るかもしれませんよ。」
もし、この広い世界で有名になれば彼女の耳に入るだろうか。
「また会えるなら会いたいでしょう、ナマエに」
「あいつ以外にも会いたいやつはいる」
「そんなこと言っちゃって。ああ、麦わらですか?仲良かったですもんね」
「……おれが能力を使えないことに感謝しろよ」
「スイマセン」
シャチは両手を軽く上げて降参のポーズを取った。
◇
数回目のコンクールで入賞を果たしたローは、少しずつ作品を表に出していった。
運にも恵まれ、デビューから数年で名前の知れた作家になった。当初の担当に「顔を出せばもっと売れる」と言われたので、それを聞いたローは公の場に顔を出すことだけは絶対にしないと誓った。炎上騒動を起こしたり、著者近影をシャチの意見で白熊にしてみたが一向に反応は無かった。この件に関しては、シャチの意見を聞かなければ良かったと後悔した。
かつてあの広い海で出会った人間の全てが都合よく転生しているはずなど無いし、ピンポイントでシャチに出会えただけでも奇跡みたいなものだろう。そう言い聞かせようとした矢先だった。久々に引き受けた仕事の締め切り前でローがパソコンの前で顰めっ面をしていると、インターホンが鳴り響いた。騒がしく連打されるそれの犯人はシャチだ。
「静かに入ってこい」
インターホンの連打に呆れながらローが扉を開けると、シャチは無言でずいっとスマートフォンを押し付けてきた。一体それが何だというのだ。スマートフォンを受取って画面をのぞき込む。大手の小説投稿サイトだ。そこはとある作家のマイページのようだった。その作家名は。
「梅干しあんパン……随分舐めた名前だな」
「名前はとりあえず置いておいて下さい」
ローの地雷を嘲笑うように踏み抜いていく『梅干しあんパン』なる人物。眉根を寄せていると、幾ばくか息が整い落ち着いたシャチはそう嘆息した。それから玄関先で話すことでは無いというので、場所を居間に移す。お互い向かい合って座って、シャチは口火を切った。
「これ、一年くらい前から投稿されて今も連載が続いている話なんですけど」
「とにかく読んでみてください」と据わった目(サングラスをしているので実際は知らない)で押し付けられたので、ローは黙ってその小説を読み始めた。それは王道のファンタジーだった。語り部となる主人公は海賊で、真っ白なツナギを着て黄色の潜水艇に乗って広い海を冒険している。目を見開くローにシャチは大仰に頷いてみせた。それに促されるようにしてローは全文を速読した。
「どう思います?」
「どうも何も」
「潜水艇……それも黄色の。白熊の航海士……ベポぉ、マジでどこにいるんだよぉ」
シャチはメソメソ泣いていたが、涙が枯れてくると鼻をすすりながら言った。
「名前とかは違うんですけど、完全に一致ですよね。これ、もし前世を知ってる人が読んだらパクリ判定で謝罪回収案件になりますよ。この前みたいな」
ローは苦い顔をした。ローの炎上騒動が思ったより早く終わった原因となった作家のことを思い出してしまったではないか。
「それから、文体があいつにソックリなんですよね」
「お前、あいつの書いた話を読んだことあるのか?」
ナマエが語る物語は知っていた。しかし、書き綴った物語は読んだことが無かった。彼女の机にはノートが沢山詰まれていたが、特に話題になったことは無かったのである。
「そりゃ、ありますよ。皆で回し読んでました」
「おれは知らねェぞ」
「ローさんに見つかったら回収されそうだったんで、皆隠してコソコソ読んでました。激アツでしたよ。でも今思えば、エロ本回し読む中学生みたいですね」
人が出てくる物語をエロ本扱いするな。というか、これだけは言わせてくれ。
「お前らから見たおれってこんなだったのか」
真顔のシャチはゆっくりと、深々と頷いた。尚且つ「まぁやっぱり実物が至高ですけどね」と拗らせたオタクのようなことを言うので、ローは頭を抱えたくなった。
「でも、パッタリと書かなくなったんだよなぁ。いつからだっけな」
シャチは顎に拳を当てて虚空を見つめた。それにひっかりを感じたローは、視線をシャチに動かした。彼はハッと閃いたようで、両手をぽむっと叩く。
「ああ、そうそう。確かあいつがローさんと付き合い始めて少ししてからですね」
ざわり、とローの胸が騒ぐ。そんなローの胸中など知る由も無いシャチはいけしゃあしゃあと言う。
「ローさん、ひょっとしてあいつが幻滅するようなことでもしたんじゃないですか」
冗談交じりのそれに、ローは思わず眉を顰めた。心当たりは無い、はずなのだ。寧ろ逆だ。彼女はローに幻滅されると言って、それを恐れていた。やはり、彼女のことは未だに全く分からない。
「おれ、一つだけ後悔があるんです」
「何がだ」
「“続きが早く読みたい”って言ったんです。そうしたら、あいつ凄く困った顔してた」
「それの何が悪い」
ローはどうとも思わないが、世間一般で言えばシャチの言葉は“楽しみにしてる”という風にしか取れないだろう。作家にとって嬉しい言葉には違いないのだ。
「いや、それはそうなんですけど。この仕事についてから色んな作家を見てきたんで。それがプレッシャーになるタイプの人もいますし、それを言われるタイミングもありますからね」
「そういうもんか」
「もしかしたら、あのときスランプだったのかもしれませんね」
「書きたくないなら書かなきゃいいじゃねェか」
書きたいときにしか書かない売れっ子作家の言うことに説得力は全くない。
「仕事を選べるのは一部の人間の特権です」
「おれは嫌だと思ったら断る」
この話は堂々巡りだと見切りをつけたシャチは話題を変えた。シャチの癖に生意気である。
「それから作家名の件ですけど、梅干しは知らねェけどあいつ、あんパンが好きでしたからね」
「それも知らねェ」
知っていたと思っていたのに、知らないことばかりだ。別にあんパンくらい隠さずに食えばいいじゃねェか。ローは何があってもパンを口に入れるつもりは無いが、自分に被害がなければ何を食べようが自由だ。ちょっとイラっときたローだった。
◇
そして、季節は巡って春の音が聞こえだした頃。
『いました!!』
「は?」
鼓膜を突き破ってくるようなシャチの声にローは思わず顔を顰めた。スマートフォンを耳から遠ざけ「何が」と静かに問う。その声音はシャチを鎮静化させることに成功したようで、少しだけ落ち着いたシャチは言った。
『ナマエです』
その瞬間、周りから音が消えた。まるで、あのときのようだった。ローから返事が無いことに電話の向こうでシャチが困惑したようにローの名を呼ぶ。我に返ったローは何とか相槌を打った。どうやら、シャチが面倒を見ることになった新入社員がナマエだったそうだ。予め渡された履歴書を見てシャチは椅子から転がり落ちたという。こいつは何回椅子から転がり落ちるんだ。一瞬だけそう思ったが、今はそんなことを言っている場合ではない。ローはシャチから送られてきた履歴書の控えのPDFを開く。随分久しぶりに見た彼女の顔は緊張で強ばっているが、間違いなくナマエだ。少し丸くて小さな字。それも彼女の筆跡だった。経歴を流し見して、志望動機にも目を通す。ここにシャチがいなくて良かった、なんてことを思ってしまうぐらいには自分の表情がおかしくなっていることには気付いていた。しかし、こればっかりはどう仕様も無い。
「相変わらず本が好きなんだな」
変わっていなかったことに安堵した。それと同時に、それなのに今まで反応が無かったことに対してほぼ答えが出たようなものだった。多分、彼女には。
『残念ですけど、記憶は無いみたいです』
ナマエに会ったら連絡をすると言っていたシャチの言葉通り、四月初旬に連絡がきた。その声は落ち込んでいた。元より記憶が無いのだろうと予測していたローは別にショックを受けなかった。なので冷静に相槌を打った。
「だろうな」
『いや、おれも記憶は無いんだろうなって思ってましたけど、三ミリくらいは期待してました……』
電話口でシャチは大きく溜息を吐いて、それっきり静かになってしまった。ラジオだったら放送事故である。どうしたものかと考えていると、シャチはしんみりモードから回復したらしい。別に誰も聞いていないだろうに、内緒話のような小声がローの耳に届いた。
『あと、何気なく確認してみたんですけど、小説は書いてないみたいです』
「じゃあ、アレは」
『分かりません。でも、嘘吐いてるようにも見えなかったんですよね』
ローが言う“アレ”こと梅干しアンパンは、昨日冒険譚の最新話を更新していた。そいつの話を読むのは精神的な苦痛を伴うのだが、今のところそれしか頼りになるものが無いのでローは毎日欠かさずにそれをチェックしていた。コメント欄にも目を通しており、返事の文章はどう考えても女性だ。尚、コメントの内容は精神の衛生上即消去することにしている。この物語の“キャプテン”と自分が別だと理解していても、複雑なものがあるのだ。
『ローさん、今暇ですか』
確かにローは今生も自由に生きているが、そんなニートみたいな言い方をされる筋合いはない。
「どういう意味だ」
『各週で連載しません?おれんとこで。あいつ、単純だからローさんを見たら思い出すかもしれません』
そんな上手い話は無いだろうと思ったものの、ナマエの姿を見たいというのは本音だったのでローは二つ返事でそれを承諾した。しかし、ローの中で一つの疑問がぷかりと浮いた。彼女に何らかの反応が無かったら、ローとナマエの人生は交じり合うことは無いに違いない。ローはナマエに思うことが沢山あっても、肝心のナマエに思うところが無ければそれは不毛な一方通行だ。そのとき、自分はどのような行動に出るのだろうか。素直に手離してやれるのか、それとも。
というローの懸念事項は、どうやら杞憂だったようだ。初めてナマエに会った瞬間にローは確信した。
これは黒だ。
ローの顔を見たナマエは、ほんの一瞬だけ表情を変えた。その刹那に覗いた顔は、『嘘吐きってどう思います?』と尋ねてきたときと同じで断罪を待つ罪人のようなそれだった。こいつは絶対に何かしらを隠している。ローはひたすらナマエを探るべく圧をかけてみたのだが、彼女は懸命にそこから逃げようと足掻いていた。本気で怯えているようで、シャチが何度も無言で窘めてきたのだが、その一切を無視した。だって、隠し事をしているナマエが悪いのだ。ローは充分待ってやった。その結果、何も話すことはできずに次回に持ち越しになった。シャチからは『冗談抜きで怖がってましたし、ローさんとこに派遣するのめっちゃ嫌がられました』という連絡が来たので、地味にショックを受けた。次会ったときはちょっとだけ優しくしてやろうと思った。とはいえ、前世でのナマエのローに対する好感度は最初からMAXだったので、このような状態のナマエにどのような態度を取っていいか分からなかった。少しシミュレーションしてみたのだが、人には向き不向きがあるので即行止めた。とりあえず、趣味趣向が変わっていないのなら昔好きだったものを与えておけばいいだろう。
そして、出だしから大失敗をしでかしたローとナマエの束の間の逢瀬は始まったのである。ローと会うたびにナマエは落ち着かない様子だったが、それはローを怖がっているわけではなく、何か別のものを恐れている。やはり、彼女には前世の記憶があって、前世でやり残したローの冒険譚を書いているのではないか。その疑惑は拭えなかった。しかし、ごく自然にカマをかけてみてもそれらしい反応は無い。八方塞がりだ。そして、そうこうしている内にとうとう唯一の手掛かりである“梅干しあんパン”の更新が途絶えた。
◇
『梅干しあんパン、完全に更新停滞してますね』
「そうだな」
『ローさん、いい加減に白黒つけましょう』
決意に満ちたシャチにローは眉根を寄せた。嫌な予感しかしない。
『そろそろ梅干しあんパンの正体を知りたくないですか』
知りたいに決まっている。しかし、“梅干しあんパン”疑惑のかかっている人物は一向に尻尾を掴ませない。
「どうやって」
『コンタクトを取りました』
「何て言ったんだ」
嫌な予感は確信に変わった。気は進まないが、ローは低い声で話を促した。
『出版社に務めている者です。貴方の小説を本にしませんか?って』
「お前、それ詐欺じゃねェか」
『詐欺じゃないですよ、正体を確かめた上で知り合いの編集に紹介します。っていうか、そいつの名前を借りて連絡取りましたし。うちはファンタジー系には力を入れてませんから、そいつんとこの方が良いでしょう。普通にめっちゃ面白いんであの話』
こいつ、いつの間にそんな力業に出た。あと、めっちゃ面白いと思っているのはお前らだけだ。
『来週の土曜日、会うことになってます。ローさんも来ますよね』
受話器の向こうのシャチはにやりと笑っているに違いない。疑問形ではなく確信を持って言われたのでローは口角をひきつらせた。とはいえ、残念なことにローには選択肢は一つしかないのだった。