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「絶対に嫌です!!」
午前九時十分、雑居ビルの狭いワンフロアに若い女の声が響き渡った。その若い女とは誰か。後ろめたいことなど何一つ無いので隠さずに言うと、それは私のことである。人間、理不尽なことがあるとついつい声を荒げてしまうものだ。いくら冷静かつ平和主義の私といえども、押し付けられた無理難題に抗議の声を上げずにはいられなかった。
「嫌も何もこれは先輩命令だ」
ぎゅっと唇を噛みしめた私は、目の前の男を恨めし気に睨めつけた。ところが、そんなものは全く効果が無いようだ。男は最もらしく腕を組みながら偉そうに言う。ちなみに彼は私のOJT担当であり、普段は陽気で明るく面倒見も良いし話しやすい自慢の先輩であるのだけれども、“この件”になると彼は人が変わったように頑なになるのだ。しかし、私も引くことはできない。先輩と私の視線が交じり合い、静かな火花を照らした……と言いたいところだが、彼は社会人の癖に常にサングランスをしており、そのサングラスの奥の瞳がどのような感情を映しているのか分からない。
「先輩。私はまだ入社三ヶ月のド新人です」
「そうだな。それで作家の担当編集者とは異例の大抜擢だ。恐れ入った。皆お前に期待してるぞ」
私の両肩に手を置いてしたり顔で頷いて見せる先輩のサングラスに思いっきり指紋を付けてやりたくなった。何て白々しい。滅茶苦茶にも程がある。
それもそのはず、私はしがない新卒だ。今年の春、小さな出版社に入社した。幼い頃から本が大好きで図書館に入り浸り文字通り本の虫として生きてきた私にとって、出版業界で働くことは夢であり天職だと思って“いた”。その夢が崩れ去ったのは先月のことだ。
◇
その日、私は先輩に連れられてとある作家の自宅に向かっていた。
その作家の名前を尋ねてみれば、先輩はニヤリと笑っただけで何も言わない。これはとても嫌な予感がした。警戒の眼差しを先輩に注いだものの、彼は鼻歌を歌いながらどこ吹く風だ。やっぱり嫌な予感しかしなかった。第六感に従って早退を申し出ようとしたそのとき、先輩はピタリと足を止める。辿り着いたのは小綺麗なメゾネットタイプのマンションだ。
コンクリートを打ち放しにした外観はとても洗練された雰囲気で、率直に言って敷居が高い。薄情にも先輩は尻込みをしている私を置いていき、エントランスに向かう。そして、エントランスの自動ドアに取り付けられたインターホンを手慣れた様子で押せば、相手の呼び出しに成功したらしい。先輩は陽気に「先生ちわっす!おれです!」と名乗る。オレオレ詐欺か。社会人としてその挨拶はどうなの。呆れて思いっきり顔を歪めていると、先輩が一瞬だけこちらを向いたので瞬時に表情筋を引き締めた。誤魔化せたかは知らないが、非難やお咎めは無かったのでセーフとしておこう。ほっと胸を撫でおろしたのも束の間。先輩は確かにこう言った。
「そんなこと言っていいんですかぁー。例の子連れてきてあげたのに」
ちょっと待って。先輩のその言い方では、まるで先方が私と会いたがっているとも取れる。私などその辺に転がっている有象無象のような文系の新卒だ。作家先生に知り合いがいるはずがない。困惑していると、先輩はちょいちょいと私を手招きした。それと同時にロックが解除されたのか、エントランスの自動ドアが開く。どうやら相手は先輩の要求に応じたらしい。
「先輩、いい加減に教えてください」
マンションの敷地内の舗装された道を歩きながら私は低い声で唸るように問うた。
「一体どなたの家に向かっているんですか」
「聞いたらお前吃驚するぞ」
「そんなの聞いてみなきゃ分からないじゃないですか!」
つい売り言葉に買い言葉で叫んでしまったが、そんなにビッグネームなのだろうか。しかし、この先輩がそんな大物と繋がっているわけが無い。押し黙っていると先輩は私を見下ろしながら口角を引き攣らせている。
「お前、めっちゃ失礼なこと考えてね?」
「気の所為じゃ無いですか」
「……最近態度デカくね?」
「気の所為じゃ無いですか。それとも何かそうされる心当たりがあるんですか」
「じゃあおれの気の所為だな」
いけしゃあしゃあと言って除ける先輩のポジティブ思考は見習いたいものがある。私もかくありたいものだ。そんなことをつらつらと考えていれば、目的地に辿り着いたようだ。足を止めた先輩は、ガラスプレートの洒落た表札を指差した。そこに書かれていたファミリーネーム。それを目にした瞬間、私は声にならない声を上げた。吃驚しすぎて発声できなかったのだ。わなわな震えながら先輩の顔と表札を何度も見比べる。嘘、嘘でしょ。
「トラファルガーって、まさか……」
「ホラ驚いた」
ひゅ~っと茶化すように口笛を吹いた先輩に、普段の私だったら殺意を抱くところだ。ところが、残念なことに今の私にはそんな余裕は無かった。
「同じファミリーネームの方ですか?ですよね?だって、先輩が知り合いなわけない……」
「心の声が思いっきり漏れてんぞ。お前、ほんとおれのこと何だと思ってんの。ホラ、置いてくぞ」
「ままま、待ってください!私にも心の準備ってものが……」
私は先輩に背を向けてバッグから手鏡を取り出すと、サッと前髪を手櫛で梳いて身だしなみを簡単に整えた。良し、問題無い。
「お前、いつもと随分態度が違うな」
「そりゃあそうですよ!だって、ここ、トラファルガー・ロー先生のご自宅なんでしょ!!」
先輩はすっかり白けた様子なので、手鏡をバッグに突っ込んだ私は語勢を強めて反論した。
何故私がこんなに興奮しているのか。それは、先輩が訪ねた作家先生がただの作家先生ではなく、作家大大大先生だったからだ。
トラファルガー・ロー。
ミステリー小説界の奇才。淡々と語られる抉るような心理描写、リアルな情景描写、巧妙なトリックが売りの超売れっ子のミステリー作家だ。好みが別れる作風であるが、刺さる人にはとことん刺さる。アングラで爆発的な人気を集めていた彼は、多くの賞を総なめにしたものの『興味無い』とばかりにその全てを辞退したことで一時大層騒がれてネットで炎上した。彼のストイックさを褒め称える熱狂的なファンとそれを良く思わないアンチが激突したのである。トラファルガー先生自身はSNSを一切やっていないので、勝手に燃え上がった炎は鎮火されることは無かったが、別の人気作家の盗作疑惑が発覚すると炎上の炎はそちらへと移っていった。人の噂も七十五日。炎上してた期間は一週間にも満たなかったけど。
そんなトラファルガー先生だが、その生態は謎に包まれている。まず、先述の通りに宣伝してバズってナンボのこのご時世にSNSのアカウントを持っていない。それに加えて、発行する本の著者近影写真はいつも真っ白。一回だけ可愛らしい白くまのイラストになったことがあるので、男性のペンネームを使っている女性疑惑が浮かんだが、文体や作風的にその線は無いだろうとファンたちは秒でそれを斬り捨てた。
総なめした賞も辞退したくらいだ。当然、雑誌やネット記事のインタビューのオファーにも応じない。公の場に出たことは一度も無いので、彼の存在は最早都市伝説やツチノコのような扱いになっていた。
何故彼についてこんなに詳しいかと言うと、先程の行動で察して貰えると思うが、私は彼の大ファンなのである。
そんな憧れの人に会うことができるなんて。この出版社に入社して良かった!私の胸は期待で膨らみ、鼓動は歓喜の8ビートを刻んだ。今思うと、我ながら随分呑気でおめでたいことだ。そのときの私の首根っこを掴んで一刻も早くこの場から逃げてしまいたい。そう、浮ついた想いなど業火で燃やし、その灰を海に流してしまえば良かった。だって、先人は言ったではないか。
『知らない方が幸せなこともある』と。
何も知らない愚かな私は、インターホンを鳴らした先輩の後ろでソワソワと落ち着かずに挙動不審になっていた。相手が応答したことに気付いた先輩は「開けてください!」と胸を張った。何故そんなに自信満々なのだ。数拍間を空けて「開いてるから入ってこい」という静かな声が聞こえる。若干呆れが滲んだその声音は男性のものだ。やはり男性だった!一体どんな人なのだろう。ドキドキと胸を高鳴らせた私は、先輩の後に続いてトラファルガー先生の自宅にお邪魔をした。とはいえ、先輩は随分我が物顔でこの家に入っていく。そんなに親しい間柄なのだろうか。いやいや、これはいくら何でも遠慮し無さ過ぎなのでは。うかうかしていると完全に置いていかれそうだ。私は急いで玄関先で靴を揃え、先輩の後に続いて短い廊下を抜けた。
突き当りの扉を開くと、メゾネットの構造上広々としたリビングが広がっている。大きな薄いテレビ、来客を想定しているのかローテーブルを挟むようにして向かい合うように配置されているソファ。贅沢なレイアウトといえば聞こえは良いが、悪く言えば殺風景だ。リビングの奥には上階に上がる為の階段があり、階段の収納スペースにはぎっしりと本が詰まっていた。そんなにギッシリ詰めて上の段はどうやって取ればいいのだろうか。不思議に思ったものの、付近の壁に折り畳み式の梯子が立てかけてあった。成程。勝手に心配して勝手に安心していると、トン、トンと静かで規則正しい足音がする。誰かが階段を降りてくるのだ。その“誰か”とは、当然。
「ちわっす!」
軽く片手を上げて先輩は挨拶したので、私もそれに従って勢いよく頭を下げた。反射で頭を下げたので、彼の姿は一瞬しか見えなかったが私の心臓は勢いよく跳ね上がった。私の目が確かであれば、件のトラファルガー先生は。
「こいつは新入社員の」
「ナマエと申します」
おざなりな先輩の紹介を途切れさせずに残像の見える速さで顔を上げる。それからそのまま硬直してしまった。やはり、私の視界に飛び込んできた情報は確かだった。誰だよ。トラファルガー先生が著者近影を真っ白にして人前に出ないのは、物凄く不細工だからだとか言ってたやつ!!
脳内で顔も知らないアンチにキレ散らかしながら、必死に平静を取り繕った。この状況で動揺しない女などそうそういないだろう。何故なら、かのトラファルガー・ロー先生のお顔はとんでもなく整っており、尚且つ長身でスタイルも物凄く良かった。天は彼に二物(顔)のみならず三物(スタイル)も与えたのである。俳優やモデル等の容姿を売りにした職業でも充分に生きていける。ところが、問題はそこでは無かった。固まった私の脳裏に雷鳴のような轟音が鳴り響く。私は知っていたのだ。彼の顔を。
「ごほんッ」
わざとらしい先輩の咳払いが私を現実に戻す。このときばかりは先輩に感謝をした。どんな事情があろうとも、人の顔をじろじろ見るのは失礼でしかない。とりあえず、素早くもう一度頭を下げた。ここで名刺でも渡せば様になるが、入社二か月目の私は名刺を持っていない。他にすることが無かったのである。トラファルガー先生は気分を害していないだろうか。恐る恐る顔を上げると、彼の瞳とばっちりとかち合った。見ようによっては蜂蜜のような綺麗な色をしたその瞳は、その色に反して甘いことなどひとつも無く。私を射貫くように見てくる。まるで、私を品定めするように上から下まで見た彼の視線も相当不躾であり、私と良い勝負だった。
そのとき私が彼に感じたのは不快感ではなく、ただただ恐怖だった。私は彼の顔に既視感を抱いたが、それはあくまで私だけ。そして、私の抱いたそれが正しいのなら彼はこの世界に存在しないはずなのだ。
そもそも何故初対面の人間に、このような凶悪な顔で睨まれなければいけないのだ。更に恐ろしいことに、トラファルガー先生は自販機を軽く越える高身長だった。圧が凄い。彼がかけてくる圧力は、まるで私を押しつぶさんとするばかりだ。こっそり思っていた「会ったらサインが欲しい」なんて浮ついた気持ちは一瞬で消え去った。
私は下を向き、半泣きになりながらも必死で彼の視線から逃げた。旋毛が視線で焦げたような気がする。とにかく私の心臓は煩かった。落ち着かないそれは、確実に恋が成せるものではない。いくら彼の見目が良かろうと、秒で恋に落ちる程私はチョロくない。一刻も早くここから逃げたい。怖い怖い怖い。ただひたすらその三文字が私の頭の中で暴れ回っていた。そんな中、肘で軽く突かれたので反射でそちらを向くと、先輩が口をパクパク動かしている。「し・つ・れ・い・だ・ろ」それは分かってるけど、向こうも大概失礼だと思います!!
そこからのことはあまり覚えていない。先輩はトラファルガー先生と何らかの話をしていたようだが、その間もビシビシと彼の視線を感じる。私は頑なに彼と目を合わせるのを拒み、階段の本棚に入っている本の蔵書数をひたすら数えた。一切役に立たない私を余所に、先輩たちの話は進む。そして、永遠とも思われた時が経ち。
「じゃあ、おれたちはこれで失礼します。ホラ、行くぞ」
先輩が席を立ったので、私も勢いよく立ち上がった。良かった、やっと帰れる!!トラファルガー先生に背を向けて、私はほっと胸を撫でおろした。そんな私を横目に先輩は溜息を吐いた。先輩も失礼極まりない。とはいえ、玄関という名前の脱出口に向かうようなので、天の助けとばかりに私もぴったりと先輩に着いていく。幸い、トラファルガー先生は見送りはしない主義のようだった。その代わり、静かな声が先輩を呼び止める。
「シャチ」
名前を呼ばれた先輩は立ち止まって振り返った。いや、立ち止まらないで早く進んで下さい!
「頼んだぞ」
「アイアイ、センセ」
随分砕けた返事をするのだな、と思ったがそんなことは今の私にはどうでも良かった。先輩が何を頼まれたかなんて、それもどうでも良かった。トラファルガー先生宅を出た瞬間、私は崩れ落ちるようにしてしゃがみ込んだ。
「お前、さっきと随分態度違うけどどうしたよ。憧れのトラファルガー先生に会えたんだぞ。もっとおれに感謝してもいいんじゃね?」
そうですね、そうでした。彼は私の憧れ“でした”。トラファルガー先生は、天に二物も三物も与えられた。しかし、流石に四物(人格)は与えられなかったようだ。
「あんな鋭い目でおっかない顔してジロジロ睨まれて、めちゃくちゃ怖かったですよ!迫力が半端無かったです!」
私が泣き言を言えば、どうやらそれについては先輩も思うところがあったらしい。彼は後ろ頭を掻きながら、トラファルガー先生のフォローはしなかった。先輩が常識的な価値観を持っていたことに一安心できたが、問題はそこではない。
「私が何をしたって言うんです……。こんなんだったら知らない方が良かった」
これは本能だった。
彼の顔を見ていると、物凄く落ち着かない。そして、これ以上同じ空気を吸っていると、私の根本がひっくり返るような、漠然とした不安と恐怖が私を襲う。だって、私は彼を知っている。それと同時に、彼とは会ってはいけなかった。
とはいえども、会ってしまったものは仕様が無い。それに、トラファルガー先生は私なんかにはおいそれと手の届かないようなビッグネームだ。公の場にも出ないのだから、もう会うことはないだろう。犬にでも噛まれたと思って、このことは忘れよう。彼がツチノコでは無かったことを知れただけでも良かったじゃないか。これからは遠くの地で遮光の防弾ガラスを何枚も隔てたところから彼を応援しよう。作者と作品は別!私は自身にそう言い聞かせた。ハイ、この件は終わり。そう、思った。そう思ったのだが、残念なことにそれは私の願望でしか無かった。
◇
その十日後。朝礼が終わると、先輩は今日の予定と一緒に私に爆弾を投げつけてきたのである。
「喜べ。お前に担当編集の仕事をやろう」
「へ?」
先輩の言っていることが理解ができなかったので、私はただ目を瞬かせることしかできなかった。担当?入社したばかりで研修中のこの私が?
「……担当ってどなたのですか?」
私の質問に深い溜息を吐き、大げさに溜めを作る先輩。その姿は私の脳内に大音量で警鐘を鳴らした。これは絶対にマズいことになるやつ。私は先輩から一歩距離を取った。
「トラファルガー・ロー大大大先生だ」
「嫌です!!」
私は更に一歩後退する。
「何言ってるんだ、お前大ファンだろ。もっと喜べよ」
「違います。大ファン“だった”んです!」
とんだ誤解に条件反射で噛みつけば、先輩は顔を顰めてみせた。
「何で過去形なんだよ。っていうか戻ってこいよ。話がしづらい」
「先輩も見たでしょう!私のことおっかない目でずっと睨んでたのを!あんな怖い顔したら百年の恋も覚めますよ」
「え、お前トラファルガー先生のこと好きだったの?」
そういうところだけマジレスを返さないで欲しい。どうやら残念なことに、私と先輩の見えている景色は異なっているようだ。分からず屋の先輩に私は憤慨した。
「違います、今のは例えですよ!」
「あ、そう……」
「何でちょっと残念そうなんですか!」
「……まあいいだろ」
「全然良く無いです!」
先輩の言動の意味が全く分からない上に、言語も通じないのでは完全にお手上げだ。とりあえず、なあなあに流されることは絶対に避けたい。せめてもの抵抗として、私は視線の刃を研ぎ、鋭利にしたそれで刺す勢いで先輩を睨む。剣呑で緊迫した雰囲気が私たちを包んだ。しかし、その空気を追い払うべく、先輩はわざとらしく咳払いをしてみせた。いや、そんなので誤魔化されてたまるか。ところが、先輩は私の声なき反抗をまるっと無視して強制的に話題を変えたのである。
「まあ聞け。おれたちの担当している雑誌でトラファルガー先生が短期の連載を書いてくれるそうだ」
「え、それは凄いですね!」
自分が置かれている状況もすっかり忘れて私は純粋に喜んでしまった。もしトラファルガー先生の小説が載るなら、売上は確実に伸びるだろう。自分が関わっているものが沢山売れるのは嬉しい。
「ただし、それには一つだけ条件がある」
「アッ、それは聞きたくないです」
私は耳を塞ごうとした。しかし、コンマ一秒遅かったようだ。
「お前が先生の家まで原稿を取りに行くことだ」
「は?」
あまりにも予想外過ぎる条件に、私は口をぽかんと開けて何とも間の抜けた声を上げてしまった。
「メールじゃ駄目なんですか?添付ファイルで送って貰えばいいじゃないですか」
一昔前だったら原稿用紙の束を取りに直接先生宅に伺っただろう。しかし、情報伝達手段が恐ろしい程発達してZ世代が次から次へと社会進出をしている今、何故そんなにアナログなのだろう。
「えっと、トラファルガー先生はこのご時世に原稿用紙に原稿を書かれているのですか」
「いや、普通にテキストファイルだけど?」
「じゃあやっぱりメールでいいじゃないですか!!」
私の主張は真っ当な正論であり、先輩やトラファルガー先生の方が狂っているのだ。SNSでアンケートを取ったら絶対に私の方に偏るに違いない。一億円賭けてもいい。そんなお金持ってないけど。
「というわけで、原稿のデータが入ったUSBメモリを受取ってこい」
つまり、担当編集者なんて体のいい肩書に過ぎない。私の仕事は先生の自宅に行き、原稿の入ったUSBメモリーを預かってくる。それだけ。要はただの“お使い”だ。五歳児には難しいかもしれないが、私は成人済で最終学歴が大卒である。そんなもの、どう考えてもおかしい。絶対におかしい。
「しょうがないだろ、それが“先生”の出してきた条件だ。先生はお前を指名してきたんだ。わ~すご~い」
「棒読み!絶対そう思ってない!」
私は尚も反抗した。ここまで嫌がっているのだから、誰か一人くらいは助けてくれないかと思ったが、周りの人たちは皆売り上げに目が眩んでいるようだった。彼らの瞳孔には通貨記号が輝いている。大人って汚い。絶対に許さない。大変遺憾なことに、私の味方はこの場には誰一人としていなかったのである。
というわけで、私は凝りもせずに今日も“担当編集者のお仕事”を全力で拒否しているのだ。
「つべこべ言わずにサッサと原稿を貰ってこい!」
「パワハラです!労働組合にチクってやる!」
「そんなもの、うちの会社には無い」
ちくしょう!!先輩は私の言い分を鼻で笑い飛ばしたが、ちっとも誇れることではない。こんな出版社に入社するんじゃなかった!悔しさで歯ぎしりをしながら荷物を引っ掴み、私は雑居ビルを飛び出した。
◇
約束の時間は13時だ。
私はいつもトラファルガー先生のマンションの近隣のファーストフード店で昼食を取って時間調整をすることにしている。更にエントランスで直立不動の姿勢を取りながら腕時計と睨めっこをする。そして、時刻が12時56分になった瞬間に呼び出しボタンを押す。そうすれば、12時59分にはトラファルガー先生宅のインターホンを押せるのだ。ちなみにこれは、少しでも会いたくないという地味な意思表示である。
現在の時刻は12時59分。今日も私はインターホンを押し、震えながら声を絞り出す。ああ、帰りたい。
「せ、せんせ……原稿を取りに伺いましたぁ……」
『入れ』
愛想の無い男の声。人を指名した癖にその声音に歓迎の色はない。では、何故私を呼びつけるのだ。そもそも、出版社はそういう趣向の店では無い。
初めてピンでお使い――もとい担当編集のお仕事に来た際にあまりの素っ気なさに、この人はひょっとして私のことを苛める為に呼んだのでは?と震えながら十三階段を上る死刑囚の気持ちで廊下を歩いたのは記憶に新しい。
ところが、私の予想に反してそんなことは無かった。トラファルガー先生は階段から顔を覗かせ、毎回こう言うのだ。
「あと少しで終わるから、そこにあるやつ食っていいぞ」
ローテーブルに置いてある紙袋を目に入れた瞬間、私は小さく歓声をあげた。それは超美味しいあんパンの店のそれだったのだ。何を隠そう、私はあんパンが大好物なのである。トラファルガー先生はこんな感じで毎回美味しいものを用意してくれる。とんでもなく好待遇。ただただ、調子が狂う。それに、食べ物につられるなんて本当に初めてのお使いに挑戦する五歳児みたいだ。自覚はあったが、好きなものは好きなのだ。ソファに腰かけた私は、先生が用意してくれたあんパンを手に取った。間食に持ってこいな小さめのサイズのあんパンで、ふっくらとしたパン生地を齧ると、甘塩っぱい風味がふんわりと口内に広がっていく。餡に桜の塩漬けが練り込んであるのだ。これは美味しい。モソモソと無心になって一気に平らげてしまった。喉が渇いたので、鞄からペットボトルを取り出してお茶を数口飲んだ。緑茶にして良かった、と私は脳内で過去の自分の英断を褒め称えてしまった。
あんパンも食べ終え、いよいよ手持ち無沙汰になってしまった。他人の家をウロウロするのはマナー違反なので、私はソファに背を預けて天を仰いだ。当然、天井には何も無い。ただ無機質なコンクリートだ。私は何でこんなところにいるのだろうか。何の気紛れでトラファルガー先生は私を呼び寄せるのか。考えても分からない。
ところで、私は“人間は、お腹が満たされてやることが無いと省エネモードに切り替わる”という持論を持っている。要は何だか眠くなってきたのである。加えて、実はこのところあまり睡眠が取れていない。かくんッと船を漕いだことに気付き、私は目を見開いた。ここで寝るのはいくら何でもヤバい。ここをどこだと思っているんだ。社会人としては当然のこと、人間としてもヤバい。勢いよく首を左右に振って眠気を飛ばそうとしたものの、そんなものは無駄だった。数回船を漕いだ後に、私は完全に沈黙した。
目が覚めて一番最初に視界に飛び込んできたのは、誰かの脚だった。細身のジーンズを履いた誰かの脚。多分、男性。ん?男性?絶望を感じながら、私は錆びついた動きで顔を上に上げていく。そして、目の前に座っている人物の姿を確認した瞬間、飛び上がった。
「ヒィエッ!!」
私の奇声に反応して、目の前の人物――トラファルガー先生は手元の本から私へと視線を移す。そう、私の対面のソファに長い脚を組んで座っていたのはトラファルガー先生だったのである。というか、それしか答えは無い。完全にテンパっている私の耳に、トラファルガー先生の溜息と何かがずり落ちる様な衣擦れの音がする。不思議に思った私がその音を視線で追えば、私の足元に見覚えの無いパーカーが落ちている。あれ、これってまさか。状況を瞬時に察した私は真っ青になりながらパーカーを拾い上げ、埃を叩いて綺麗に畳み、深々としたお辞儀と共にトラファルガー先生に差し出した。しかし、先生はそれを受取ろうとしない。ということは。
「クリーニングした方が良いですか?!」
半泣きになりながら顔を上げると、何とも言えないような顔をしたトラファルガー先生と目が合った。その眼光は、初めて出会ったときのように鋭くは無い。
「別にそんなことしなくていい。ひざ掛けが無かったから代わりに使っただけだ」
「ひざ掛け……つまりブランケット……」
居眠りしている私にひざ掛けをかけようとしたが、かけるものが無かったので代わりにパーカーを掛けてくれた。あの、トラファルガー先生が。私の脳内は彼の行動を理解するのを拒み、代わりに幼児のように彼の言ったことを鸚鵡返しした。トラファルガー先生は「そんな洒落たもんはこの家には無ェ」と憮然としている。
「じゃない、そんなことをせずとも起こしてくだされば良かったのに!」
「人ん家で寝こけてた奴の言う台詞か」
「それはご最もですが……」
彼の正論にどんどん私の声は尻すぼみになっていく。終いには、もにゃもにゃと意味を成さない人外の言葉になってしまった。トラファルガー先生は、私の言い訳などどうでも良い、と言わんばかりに溜息を吐いた。
「お前、ちゃんと寝れてるのか」
「え」
「睡眠が足りてない面してるぞ」
そう仰る貴方の顔色もわりかし不健康な気もしなくも無いのだが、彼の言うことは正しかった。私は最近あまり寝ていない。そのおかげか、少し隈もできていた。しかし、それは上手く化粧で誤魔化せていたはずで。先輩だって会社の皆だって、誰一人気付かなかったのに。どうして、彼はそれに気付いたのだろう。トラファルガー先生の顔に答えが書いてあるわけが無いのだが、思わず彼の端整な顔を凝視してしまった。答えは書いていない。書いてないが、その瞳は私をしっかりと捉え、探るように見ている。出会ったときのような不躾な視線とは違って、今は純粋に心配されているのだと気付かされる。
トラファルガー先生は、見れば見る程、“彼”に似ている。そして、それを意識する度に心がざわざわする。落ち着かない。怖い。それはまるで、開けてはいけないパンドラの箱の蓋がゆっくりと動いていくような、何か取返しがつかないことになるような、漠然とした不安が私を苛もうとする。
トラファルガー先生は悪い人ではない。初対面のときほど怖くはない。もうそれは知っている。それでも、受け入れられないものは受け入れられないのだ。居た堪れなくなった私は、雰囲気を変えるべく立ち上がって頭を下げた。
「職務中に居眠りして申し訳ございませんでした」
「これに懲りたら今日はさっさと寝るんだな」
「仰る通りです。で、先生。非常に申し上げ辛いのですが……」
弱々しい声音の私が言わんとしたことを察したのか、トラファルガー先生はジーンズのポケットからUSBメモリを取り出した。それを私は両手で恭しく受け取る。私の手の中にある、銀色で飾り気がないこのUSBメモリの価値や如何ほどの物だろう。自然と恐縮してしまう。
「それでは、今回もしかと受取りました。あと、あんパンご馳走様でした」
「美味かったか」
「はい、私、実はあんパンが大好物なんです」
素直にそう言うと、トラファルガー先生は黙ってしまった。何故だ。気まずくなったので、目を泳がせながらも何とかトラファルガー先生の様子を伺ってみる。
「えっと、トラファルガー先生はあんパンお好きですか?」
「嫌いだ。だからお前にやった」
「そうですか。じゃあ、私はそのおかげで美味しいあんパンが食べれたんですね」
「……」
彼は何も言葉を返してこない。この話は深堀してはいけない案件なのだろうか。困惑していると、鞄にしまっていたスマートフォンが鳴り出した。きっと先輩だ。ただでさえ私は居眠りをしていたのだ。これ以上油を売っている場合では無いことを思い出した。絶対に叱責だ!震える手でスマートフォンを取れば、着信はやっぱり先輩からだった。身から出た錆であるし、応対するなら絶対に早い方が良い。非常に気は進まないが、仕様が無く通話ボタンをタップした。その瞬間。
『お前、今どこにいるんだよ!!』
鼓膜を突き破りかねない大音量に思わずスマートフォンを遠ざけると、パッとそれが取り上げられる。手から急に無くなったスマートフォンに目を瞬かせてしまった。何故か私の代わりにトラファルガー先生がそれを持っている。
「おれだ」
この人もオレオレ詐欺か。と、一瞬だけ思ってしまった。しかし、先輩は“おれ”が誰なのか瞬時に察したらしい。その証拠に殺傷力の高い大声は止んだ。
「悪い。今帰らせる」
トラファルガー先生は先輩と何やらやり取りをしていたが、この一言で私を庇ってくれたのだと察してしまった。それから二言くらい話をして、彼は通話を切った。静かになったスマートフォンを渡してくるので、申し訳無さに俯きながらそれを受取る。
「何から何まで申し訳ないです……」
「今日は帰ったら直ぐに寝ろよ」
「分かってますよ」
「小説を書くのもいいが、自分の体力ぐらい見極めろ。ガキじゃ無いんだから」
しれっと続けられるトラファルガー先生の忠告に、私は首を傾げてみせた。
「いや、小説なんて書いてませんけど……」
そして静かに首を横に振れば、トラファルガー先生は「そうか」とだけ言った。
◇
研修中の身である私は残業とは無縁の生活を送っている。なので、未来の自身の姿である先輩に挨拶をすると定時退社をキメた。先輩はカップラーメンを片手に給湯室に向かって行ったので、彼の夜はまだまだ長そうだった。
新社会人になったのを機に、一人暮らしを始めた私としては定時に帰れるというのは、生活に余裕ができるのでありがたい。帰宅して不慣れな家事をした後も趣味の時間が取れる。やるべきことを全て終えた私は、ベッドに寝っ転がってスマートフォンを手に取った。そして、アプリをひとつ起動させる。それは、小説の執筆用のアプリだ。今は便利な世の中だ。スマートフォン一つあれば小説が書けるのだから。
トラファルガー先生にはああ言ったが、実は私も小説を書いている。
出版社に就職したものの、幼いころからの私の夢は小説家だった。物語の中では、我々読者は何にでもなれる。冒険をして胸を高鳴らせたり、恋をして身を切られるような想いをしたり、背筋も凍るような怖い体験をしたり。沢山の物語の世界を渡っていくうちに、いつしか私の心に芽生えたものは、私自身も自分だけの世界を作り上げてみたい、というものだった。それから私は本を読むのと同じくらい、物語を書くことを喜びとして生きている。
しかし、その趣味は人には言わないようにしている。何故内緒にしているかというと、学生時代に憧れていたクラスメイトに馬鹿にされたからである。百年の恋も一気に覚めたが、私は誓ったのだ。小説家として芽が出るまでは私が小説を書いているということを周りに内緒にしていようと。そういえば、以前先輩にも同じような質問をされたことがある。私はそんなに小説を書いてそうな顔をしているだろうか。トラファルガー先生なんて、完全に断定形で話してきたのであわやそのまま流されるところだった。
というわけで、誰にも知られないように私は小説を書き続けている。小説家になるには、コンクールのようなものに応募するのが一番近道だとインターネッツで知らべたことがあるが、まずは練習あるのみだ。コツコツと何作も書いているうちに、誰かに読んで欲しくなった。そこで、大手の小説投稿サイトに投稿したのが数年前のことだ。ありがたいことにそれなりの評価を貰っており、続きを楽しみにしてくれている人もいる。
私の書いている小説が私だけの楽しみで無くなったことは純粋に嬉しい。嬉しい、のだが。執筆画面はいつまで経っても真っ白。ポチポチ入力しては削除してを繰り返し、結果的に何も残らない。今書いている話は、今まで書いてきた中で一番楽しくて自信作だったのにピタリと書けなくなってしまったのだ。
このままではエタってしまう。ちなみにエタるというのは創作している作品が永遠(エターナル)の未完で終わるという意味で、完結しない作品を皮肉ったスラングである。
話は逸れたが、とにかく私はスランプに陥っていた。もうお察しかと思われるが、私の寝不足の原因は完全にコレだ。ここ最近、真っ白な画面と戦い続け全敗をしているのである。そして、書けなくなったのはトラファルガー先生に会ってからだ。だから理由は分かっている。しかし、それを認める訳にはいかなかった。
今晩も真っ白な画面に私は溜息を吐いた。そうだ、士気を上げる為に今まで貰った嬉しいコメントでも読み直そう。執筆アプリを閉じて、今度は投稿サイトのマイページを開く。すると、通知が入っていた。
「何だろ」
確認すると、DMへのメッセージ受信通知だった。有難いことに感想だろうか。そう思ってメールボックスを開く。届いたメールの冒頭一行を読み、その内容を理解した瞬間、私は驚きで目を見開いたのだった。
午前九時十分、雑居ビルの狭いワンフロアに若い女の声が響き渡った。その若い女とは誰か。後ろめたいことなど何一つ無いので隠さずに言うと、それは私のことである。人間、理不尽なことがあるとついつい声を荒げてしまうものだ。いくら冷静かつ平和主義の私といえども、押し付けられた無理難題に抗議の声を上げずにはいられなかった。
「嫌も何もこれは先輩命令だ」
ぎゅっと唇を噛みしめた私は、目の前の男を恨めし気に睨めつけた。ところが、そんなものは全く効果が無いようだ。男は最もらしく腕を組みながら偉そうに言う。ちなみに彼は私のOJT担当であり、普段は陽気で明るく面倒見も良いし話しやすい自慢の先輩であるのだけれども、“この件”になると彼は人が変わったように頑なになるのだ。しかし、私も引くことはできない。先輩と私の視線が交じり合い、静かな火花を照らした……と言いたいところだが、彼は社会人の癖に常にサングランスをしており、そのサングラスの奥の瞳がどのような感情を映しているのか分からない。
「先輩。私はまだ入社三ヶ月のド新人です」
「そうだな。それで作家の担当編集者とは異例の大抜擢だ。恐れ入った。皆お前に期待してるぞ」
私の両肩に手を置いてしたり顔で頷いて見せる先輩のサングラスに思いっきり指紋を付けてやりたくなった。何て白々しい。滅茶苦茶にも程がある。
それもそのはず、私はしがない新卒だ。今年の春、小さな出版社に入社した。幼い頃から本が大好きで図書館に入り浸り文字通り本の虫として生きてきた私にとって、出版業界で働くことは夢であり天職だと思って“いた”。その夢が崩れ去ったのは先月のことだ。
◇
その日、私は先輩に連れられてとある作家の自宅に向かっていた。
その作家の名前を尋ねてみれば、先輩はニヤリと笑っただけで何も言わない。これはとても嫌な予感がした。警戒の眼差しを先輩に注いだものの、彼は鼻歌を歌いながらどこ吹く風だ。やっぱり嫌な予感しかしなかった。第六感に従って早退を申し出ようとしたそのとき、先輩はピタリと足を止める。辿り着いたのは小綺麗なメゾネットタイプのマンションだ。
コンクリートを打ち放しにした外観はとても洗練された雰囲気で、率直に言って敷居が高い。薄情にも先輩は尻込みをしている私を置いていき、エントランスに向かう。そして、エントランスの自動ドアに取り付けられたインターホンを手慣れた様子で押せば、相手の呼び出しに成功したらしい。先輩は陽気に「先生ちわっす!おれです!」と名乗る。オレオレ詐欺か。社会人としてその挨拶はどうなの。呆れて思いっきり顔を歪めていると、先輩が一瞬だけこちらを向いたので瞬時に表情筋を引き締めた。誤魔化せたかは知らないが、非難やお咎めは無かったのでセーフとしておこう。ほっと胸を撫でおろしたのも束の間。先輩は確かにこう言った。
「そんなこと言っていいんですかぁー。例の子連れてきてあげたのに」
ちょっと待って。先輩のその言い方では、まるで先方が私と会いたがっているとも取れる。私などその辺に転がっている有象無象のような文系の新卒だ。作家先生に知り合いがいるはずがない。困惑していると、先輩はちょいちょいと私を手招きした。それと同時にロックが解除されたのか、エントランスの自動ドアが開く。どうやら相手は先輩の要求に応じたらしい。
「先輩、いい加減に教えてください」
マンションの敷地内の舗装された道を歩きながら私は低い声で唸るように問うた。
「一体どなたの家に向かっているんですか」
「聞いたらお前吃驚するぞ」
「そんなの聞いてみなきゃ分からないじゃないですか!」
つい売り言葉に買い言葉で叫んでしまったが、そんなにビッグネームなのだろうか。しかし、この先輩がそんな大物と繋がっているわけが無い。押し黙っていると先輩は私を見下ろしながら口角を引き攣らせている。
「お前、めっちゃ失礼なこと考えてね?」
「気の所為じゃ無いですか」
「……最近態度デカくね?」
「気の所為じゃ無いですか。それとも何かそうされる心当たりがあるんですか」
「じゃあおれの気の所為だな」
いけしゃあしゃあと言って除ける先輩のポジティブ思考は見習いたいものがある。私もかくありたいものだ。そんなことをつらつらと考えていれば、目的地に辿り着いたようだ。足を止めた先輩は、ガラスプレートの洒落た表札を指差した。そこに書かれていたファミリーネーム。それを目にした瞬間、私は声にならない声を上げた。吃驚しすぎて発声できなかったのだ。わなわな震えながら先輩の顔と表札を何度も見比べる。嘘、嘘でしょ。
「トラファルガーって、まさか……」
「ホラ驚いた」
ひゅ~っと茶化すように口笛を吹いた先輩に、普段の私だったら殺意を抱くところだ。ところが、残念なことに今の私にはそんな余裕は無かった。
「同じファミリーネームの方ですか?ですよね?だって、先輩が知り合いなわけない……」
「心の声が思いっきり漏れてんぞ。お前、ほんとおれのこと何だと思ってんの。ホラ、置いてくぞ」
「ままま、待ってください!私にも心の準備ってものが……」
私は先輩に背を向けてバッグから手鏡を取り出すと、サッと前髪を手櫛で梳いて身だしなみを簡単に整えた。良し、問題無い。
「お前、いつもと随分態度が違うな」
「そりゃあそうですよ!だって、ここ、トラファルガー・ロー先生のご自宅なんでしょ!!」
先輩はすっかり白けた様子なので、手鏡をバッグに突っ込んだ私は語勢を強めて反論した。
何故私がこんなに興奮しているのか。それは、先輩が訪ねた作家先生がただの作家先生ではなく、作家大大大先生だったからだ。
トラファルガー・ロー。
ミステリー小説界の奇才。淡々と語られる抉るような心理描写、リアルな情景描写、巧妙なトリックが売りの超売れっ子のミステリー作家だ。好みが別れる作風であるが、刺さる人にはとことん刺さる。アングラで爆発的な人気を集めていた彼は、多くの賞を総なめにしたものの『興味無い』とばかりにその全てを辞退したことで一時大層騒がれてネットで炎上した。彼のストイックさを褒め称える熱狂的なファンとそれを良く思わないアンチが激突したのである。トラファルガー先生自身はSNSを一切やっていないので、勝手に燃え上がった炎は鎮火されることは無かったが、別の人気作家の盗作疑惑が発覚すると炎上の炎はそちらへと移っていった。人の噂も七十五日。炎上してた期間は一週間にも満たなかったけど。
そんなトラファルガー先生だが、その生態は謎に包まれている。まず、先述の通りに宣伝してバズってナンボのこのご時世にSNSのアカウントを持っていない。それに加えて、発行する本の著者近影写真はいつも真っ白。一回だけ可愛らしい白くまのイラストになったことがあるので、男性のペンネームを使っている女性疑惑が浮かんだが、文体や作風的にその線は無いだろうとファンたちは秒でそれを斬り捨てた。
総なめした賞も辞退したくらいだ。当然、雑誌やネット記事のインタビューのオファーにも応じない。公の場に出たことは一度も無いので、彼の存在は最早都市伝説やツチノコのような扱いになっていた。
何故彼についてこんなに詳しいかと言うと、先程の行動で察して貰えると思うが、私は彼の大ファンなのである。
そんな憧れの人に会うことができるなんて。この出版社に入社して良かった!私の胸は期待で膨らみ、鼓動は歓喜の8ビートを刻んだ。今思うと、我ながら随分呑気でおめでたいことだ。そのときの私の首根っこを掴んで一刻も早くこの場から逃げてしまいたい。そう、浮ついた想いなど業火で燃やし、その灰を海に流してしまえば良かった。だって、先人は言ったではないか。
『知らない方が幸せなこともある』と。
何も知らない愚かな私は、インターホンを鳴らした先輩の後ろでソワソワと落ち着かずに挙動不審になっていた。相手が応答したことに気付いた先輩は「開けてください!」と胸を張った。何故そんなに自信満々なのだ。数拍間を空けて「開いてるから入ってこい」という静かな声が聞こえる。若干呆れが滲んだその声音は男性のものだ。やはり男性だった!一体どんな人なのだろう。ドキドキと胸を高鳴らせた私は、先輩の後に続いてトラファルガー先生の自宅にお邪魔をした。とはいえ、先輩は随分我が物顔でこの家に入っていく。そんなに親しい間柄なのだろうか。いやいや、これはいくら何でも遠慮し無さ過ぎなのでは。うかうかしていると完全に置いていかれそうだ。私は急いで玄関先で靴を揃え、先輩の後に続いて短い廊下を抜けた。
突き当りの扉を開くと、メゾネットの構造上広々としたリビングが広がっている。大きな薄いテレビ、来客を想定しているのかローテーブルを挟むようにして向かい合うように配置されているソファ。贅沢なレイアウトといえば聞こえは良いが、悪く言えば殺風景だ。リビングの奥には上階に上がる為の階段があり、階段の収納スペースにはぎっしりと本が詰まっていた。そんなにギッシリ詰めて上の段はどうやって取ればいいのだろうか。不思議に思ったものの、付近の壁に折り畳み式の梯子が立てかけてあった。成程。勝手に心配して勝手に安心していると、トン、トンと静かで規則正しい足音がする。誰かが階段を降りてくるのだ。その“誰か”とは、当然。
「ちわっす!」
軽く片手を上げて先輩は挨拶したので、私もそれに従って勢いよく頭を下げた。反射で頭を下げたので、彼の姿は一瞬しか見えなかったが私の心臓は勢いよく跳ね上がった。私の目が確かであれば、件のトラファルガー先生は。
「こいつは新入社員の」
「ナマエと申します」
おざなりな先輩の紹介を途切れさせずに残像の見える速さで顔を上げる。それからそのまま硬直してしまった。やはり、私の視界に飛び込んできた情報は確かだった。誰だよ。トラファルガー先生が著者近影を真っ白にして人前に出ないのは、物凄く不細工だからだとか言ってたやつ!!
脳内で顔も知らないアンチにキレ散らかしながら、必死に平静を取り繕った。この状況で動揺しない女などそうそういないだろう。何故なら、かのトラファルガー・ロー先生のお顔はとんでもなく整っており、尚且つ長身でスタイルも物凄く良かった。天は彼に二物(顔)のみならず三物(スタイル)も与えたのである。俳優やモデル等の容姿を売りにした職業でも充分に生きていける。ところが、問題はそこでは無かった。固まった私の脳裏に雷鳴のような轟音が鳴り響く。私は知っていたのだ。彼の顔を。
「ごほんッ」
わざとらしい先輩の咳払いが私を現実に戻す。このときばかりは先輩に感謝をした。どんな事情があろうとも、人の顔をじろじろ見るのは失礼でしかない。とりあえず、素早くもう一度頭を下げた。ここで名刺でも渡せば様になるが、入社二か月目の私は名刺を持っていない。他にすることが無かったのである。トラファルガー先生は気分を害していないだろうか。恐る恐る顔を上げると、彼の瞳とばっちりとかち合った。見ようによっては蜂蜜のような綺麗な色をしたその瞳は、その色に反して甘いことなどひとつも無く。私を射貫くように見てくる。まるで、私を品定めするように上から下まで見た彼の視線も相当不躾であり、私と良い勝負だった。
そのとき私が彼に感じたのは不快感ではなく、ただただ恐怖だった。私は彼の顔に既視感を抱いたが、それはあくまで私だけ。そして、私の抱いたそれが正しいのなら彼はこの世界に存在しないはずなのだ。
そもそも何故初対面の人間に、このような凶悪な顔で睨まれなければいけないのだ。更に恐ろしいことに、トラファルガー先生は自販機を軽く越える高身長だった。圧が凄い。彼がかけてくる圧力は、まるで私を押しつぶさんとするばかりだ。こっそり思っていた「会ったらサインが欲しい」なんて浮ついた気持ちは一瞬で消え去った。
私は下を向き、半泣きになりながらも必死で彼の視線から逃げた。旋毛が視線で焦げたような気がする。とにかく私の心臓は煩かった。落ち着かないそれは、確実に恋が成せるものではない。いくら彼の見目が良かろうと、秒で恋に落ちる程私はチョロくない。一刻も早くここから逃げたい。怖い怖い怖い。ただひたすらその三文字が私の頭の中で暴れ回っていた。そんな中、肘で軽く突かれたので反射でそちらを向くと、先輩が口をパクパク動かしている。「し・つ・れ・い・だ・ろ」それは分かってるけど、向こうも大概失礼だと思います!!
そこからのことはあまり覚えていない。先輩はトラファルガー先生と何らかの話をしていたようだが、その間もビシビシと彼の視線を感じる。私は頑なに彼と目を合わせるのを拒み、階段の本棚に入っている本の蔵書数をひたすら数えた。一切役に立たない私を余所に、先輩たちの話は進む。そして、永遠とも思われた時が経ち。
「じゃあ、おれたちはこれで失礼します。ホラ、行くぞ」
先輩が席を立ったので、私も勢いよく立ち上がった。良かった、やっと帰れる!!トラファルガー先生に背を向けて、私はほっと胸を撫でおろした。そんな私を横目に先輩は溜息を吐いた。先輩も失礼極まりない。とはいえ、玄関という名前の脱出口に向かうようなので、天の助けとばかりに私もぴったりと先輩に着いていく。幸い、トラファルガー先生は見送りはしない主義のようだった。その代わり、静かな声が先輩を呼び止める。
「シャチ」
名前を呼ばれた先輩は立ち止まって振り返った。いや、立ち止まらないで早く進んで下さい!
「頼んだぞ」
「アイアイ、センセ」
随分砕けた返事をするのだな、と思ったがそんなことは今の私にはどうでも良かった。先輩が何を頼まれたかなんて、それもどうでも良かった。トラファルガー先生宅を出た瞬間、私は崩れ落ちるようにしてしゃがみ込んだ。
「お前、さっきと随分態度違うけどどうしたよ。憧れのトラファルガー先生に会えたんだぞ。もっとおれに感謝してもいいんじゃね?」
そうですね、そうでした。彼は私の憧れ“でした”。トラファルガー先生は、天に二物も三物も与えられた。しかし、流石に四物(人格)は与えられなかったようだ。
「あんな鋭い目でおっかない顔してジロジロ睨まれて、めちゃくちゃ怖かったですよ!迫力が半端無かったです!」
私が泣き言を言えば、どうやらそれについては先輩も思うところがあったらしい。彼は後ろ頭を掻きながら、トラファルガー先生のフォローはしなかった。先輩が常識的な価値観を持っていたことに一安心できたが、問題はそこではない。
「私が何をしたって言うんです……。こんなんだったら知らない方が良かった」
これは本能だった。
彼の顔を見ていると、物凄く落ち着かない。そして、これ以上同じ空気を吸っていると、私の根本がひっくり返るような、漠然とした不安と恐怖が私を襲う。だって、私は彼を知っている。それと同時に、彼とは会ってはいけなかった。
とはいえども、会ってしまったものは仕様が無い。それに、トラファルガー先生は私なんかにはおいそれと手の届かないようなビッグネームだ。公の場にも出ないのだから、もう会うことはないだろう。犬にでも噛まれたと思って、このことは忘れよう。彼がツチノコでは無かったことを知れただけでも良かったじゃないか。これからは遠くの地で遮光の防弾ガラスを何枚も隔てたところから彼を応援しよう。作者と作品は別!私は自身にそう言い聞かせた。ハイ、この件は終わり。そう、思った。そう思ったのだが、残念なことにそれは私の願望でしか無かった。
◇
その十日後。朝礼が終わると、先輩は今日の予定と一緒に私に爆弾を投げつけてきたのである。
「喜べ。お前に担当編集の仕事をやろう」
「へ?」
先輩の言っていることが理解ができなかったので、私はただ目を瞬かせることしかできなかった。担当?入社したばかりで研修中のこの私が?
「……担当ってどなたのですか?」
私の質問に深い溜息を吐き、大げさに溜めを作る先輩。その姿は私の脳内に大音量で警鐘を鳴らした。これは絶対にマズいことになるやつ。私は先輩から一歩距離を取った。
「トラファルガー・ロー大大大先生だ」
「嫌です!!」
私は更に一歩後退する。
「何言ってるんだ、お前大ファンだろ。もっと喜べよ」
「違います。大ファン“だった”んです!」
とんだ誤解に条件反射で噛みつけば、先輩は顔を顰めてみせた。
「何で過去形なんだよ。っていうか戻ってこいよ。話がしづらい」
「先輩も見たでしょう!私のことおっかない目でずっと睨んでたのを!あんな怖い顔したら百年の恋も覚めますよ」
「え、お前トラファルガー先生のこと好きだったの?」
そういうところだけマジレスを返さないで欲しい。どうやら残念なことに、私と先輩の見えている景色は異なっているようだ。分からず屋の先輩に私は憤慨した。
「違います、今のは例えですよ!」
「あ、そう……」
「何でちょっと残念そうなんですか!」
「……まあいいだろ」
「全然良く無いです!」
先輩の言動の意味が全く分からない上に、言語も通じないのでは完全にお手上げだ。とりあえず、なあなあに流されることは絶対に避けたい。せめてもの抵抗として、私は視線の刃を研ぎ、鋭利にしたそれで刺す勢いで先輩を睨む。剣呑で緊迫した雰囲気が私たちを包んだ。しかし、その空気を追い払うべく、先輩はわざとらしく咳払いをしてみせた。いや、そんなので誤魔化されてたまるか。ところが、先輩は私の声なき反抗をまるっと無視して強制的に話題を変えたのである。
「まあ聞け。おれたちの担当している雑誌でトラファルガー先生が短期の連載を書いてくれるそうだ」
「え、それは凄いですね!」
自分が置かれている状況もすっかり忘れて私は純粋に喜んでしまった。もしトラファルガー先生の小説が載るなら、売上は確実に伸びるだろう。自分が関わっているものが沢山売れるのは嬉しい。
「ただし、それには一つだけ条件がある」
「アッ、それは聞きたくないです」
私は耳を塞ごうとした。しかし、コンマ一秒遅かったようだ。
「お前が先生の家まで原稿を取りに行くことだ」
「は?」
あまりにも予想外過ぎる条件に、私は口をぽかんと開けて何とも間の抜けた声を上げてしまった。
「メールじゃ駄目なんですか?添付ファイルで送って貰えばいいじゃないですか」
一昔前だったら原稿用紙の束を取りに直接先生宅に伺っただろう。しかし、情報伝達手段が恐ろしい程発達してZ世代が次から次へと社会進出をしている今、何故そんなにアナログなのだろう。
「えっと、トラファルガー先生はこのご時世に原稿用紙に原稿を書かれているのですか」
「いや、普通にテキストファイルだけど?」
「じゃあやっぱりメールでいいじゃないですか!!」
私の主張は真っ当な正論であり、先輩やトラファルガー先生の方が狂っているのだ。SNSでアンケートを取ったら絶対に私の方に偏るに違いない。一億円賭けてもいい。そんなお金持ってないけど。
「というわけで、原稿のデータが入ったUSBメモリを受取ってこい」
つまり、担当編集者なんて体のいい肩書に過ぎない。私の仕事は先生の自宅に行き、原稿の入ったUSBメモリーを預かってくる。それだけ。要はただの“お使い”だ。五歳児には難しいかもしれないが、私は成人済で最終学歴が大卒である。そんなもの、どう考えてもおかしい。絶対におかしい。
「しょうがないだろ、それが“先生”の出してきた条件だ。先生はお前を指名してきたんだ。わ~すご~い」
「棒読み!絶対そう思ってない!」
私は尚も反抗した。ここまで嫌がっているのだから、誰か一人くらいは助けてくれないかと思ったが、周りの人たちは皆売り上げに目が眩んでいるようだった。彼らの瞳孔には通貨記号が輝いている。大人って汚い。絶対に許さない。大変遺憾なことに、私の味方はこの場には誰一人としていなかったのである。
というわけで、私は凝りもせずに今日も“担当編集者のお仕事”を全力で拒否しているのだ。
「つべこべ言わずにサッサと原稿を貰ってこい!」
「パワハラです!労働組合にチクってやる!」
「そんなもの、うちの会社には無い」
ちくしょう!!先輩は私の言い分を鼻で笑い飛ばしたが、ちっとも誇れることではない。こんな出版社に入社するんじゃなかった!悔しさで歯ぎしりをしながら荷物を引っ掴み、私は雑居ビルを飛び出した。
◇
約束の時間は13時だ。
私はいつもトラファルガー先生のマンションの近隣のファーストフード店で昼食を取って時間調整をすることにしている。更にエントランスで直立不動の姿勢を取りながら腕時計と睨めっこをする。そして、時刻が12時56分になった瞬間に呼び出しボタンを押す。そうすれば、12時59分にはトラファルガー先生宅のインターホンを押せるのだ。ちなみにこれは、少しでも会いたくないという地味な意思表示である。
現在の時刻は12時59分。今日も私はインターホンを押し、震えながら声を絞り出す。ああ、帰りたい。
「せ、せんせ……原稿を取りに伺いましたぁ……」
『入れ』
愛想の無い男の声。人を指名した癖にその声音に歓迎の色はない。では、何故私を呼びつけるのだ。そもそも、出版社はそういう趣向の店では無い。
初めてピンでお使い――もとい担当編集のお仕事に来た際にあまりの素っ気なさに、この人はひょっとして私のことを苛める為に呼んだのでは?と震えながら十三階段を上る死刑囚の気持ちで廊下を歩いたのは記憶に新しい。
ところが、私の予想に反してそんなことは無かった。トラファルガー先生は階段から顔を覗かせ、毎回こう言うのだ。
「あと少しで終わるから、そこにあるやつ食っていいぞ」
ローテーブルに置いてある紙袋を目に入れた瞬間、私は小さく歓声をあげた。それは超美味しいあんパンの店のそれだったのだ。何を隠そう、私はあんパンが大好物なのである。トラファルガー先生はこんな感じで毎回美味しいものを用意してくれる。とんでもなく好待遇。ただただ、調子が狂う。それに、食べ物につられるなんて本当に初めてのお使いに挑戦する五歳児みたいだ。自覚はあったが、好きなものは好きなのだ。ソファに腰かけた私は、先生が用意してくれたあんパンを手に取った。間食に持ってこいな小さめのサイズのあんパンで、ふっくらとしたパン生地を齧ると、甘塩っぱい風味がふんわりと口内に広がっていく。餡に桜の塩漬けが練り込んであるのだ。これは美味しい。モソモソと無心になって一気に平らげてしまった。喉が渇いたので、鞄からペットボトルを取り出してお茶を数口飲んだ。緑茶にして良かった、と私は脳内で過去の自分の英断を褒め称えてしまった。
あんパンも食べ終え、いよいよ手持ち無沙汰になってしまった。他人の家をウロウロするのはマナー違反なので、私はソファに背を預けて天を仰いだ。当然、天井には何も無い。ただ無機質なコンクリートだ。私は何でこんなところにいるのだろうか。何の気紛れでトラファルガー先生は私を呼び寄せるのか。考えても分からない。
ところで、私は“人間は、お腹が満たされてやることが無いと省エネモードに切り替わる”という持論を持っている。要は何だか眠くなってきたのである。加えて、実はこのところあまり睡眠が取れていない。かくんッと船を漕いだことに気付き、私は目を見開いた。ここで寝るのはいくら何でもヤバい。ここをどこだと思っているんだ。社会人としては当然のこと、人間としてもヤバい。勢いよく首を左右に振って眠気を飛ばそうとしたものの、そんなものは無駄だった。数回船を漕いだ後に、私は完全に沈黙した。
目が覚めて一番最初に視界に飛び込んできたのは、誰かの脚だった。細身のジーンズを履いた誰かの脚。多分、男性。ん?男性?絶望を感じながら、私は錆びついた動きで顔を上に上げていく。そして、目の前に座っている人物の姿を確認した瞬間、飛び上がった。
「ヒィエッ!!」
私の奇声に反応して、目の前の人物――トラファルガー先生は手元の本から私へと視線を移す。そう、私の対面のソファに長い脚を組んで座っていたのはトラファルガー先生だったのである。というか、それしか答えは無い。完全にテンパっている私の耳に、トラファルガー先生の溜息と何かがずり落ちる様な衣擦れの音がする。不思議に思った私がその音を視線で追えば、私の足元に見覚えの無いパーカーが落ちている。あれ、これってまさか。状況を瞬時に察した私は真っ青になりながらパーカーを拾い上げ、埃を叩いて綺麗に畳み、深々としたお辞儀と共にトラファルガー先生に差し出した。しかし、先生はそれを受取ろうとしない。ということは。
「クリーニングした方が良いですか?!」
半泣きになりながら顔を上げると、何とも言えないような顔をしたトラファルガー先生と目が合った。その眼光は、初めて出会ったときのように鋭くは無い。
「別にそんなことしなくていい。ひざ掛けが無かったから代わりに使っただけだ」
「ひざ掛け……つまりブランケット……」
居眠りしている私にひざ掛けをかけようとしたが、かけるものが無かったので代わりにパーカーを掛けてくれた。あの、トラファルガー先生が。私の脳内は彼の行動を理解するのを拒み、代わりに幼児のように彼の言ったことを鸚鵡返しした。トラファルガー先生は「そんな洒落たもんはこの家には無ェ」と憮然としている。
「じゃない、そんなことをせずとも起こしてくだされば良かったのに!」
「人ん家で寝こけてた奴の言う台詞か」
「それはご最もですが……」
彼の正論にどんどん私の声は尻すぼみになっていく。終いには、もにゃもにゃと意味を成さない人外の言葉になってしまった。トラファルガー先生は、私の言い訳などどうでも良い、と言わんばかりに溜息を吐いた。
「お前、ちゃんと寝れてるのか」
「え」
「睡眠が足りてない面してるぞ」
そう仰る貴方の顔色もわりかし不健康な気もしなくも無いのだが、彼の言うことは正しかった。私は最近あまり寝ていない。そのおかげか、少し隈もできていた。しかし、それは上手く化粧で誤魔化せていたはずで。先輩だって会社の皆だって、誰一人気付かなかったのに。どうして、彼はそれに気付いたのだろう。トラファルガー先生の顔に答えが書いてあるわけが無いのだが、思わず彼の端整な顔を凝視してしまった。答えは書いていない。書いてないが、その瞳は私をしっかりと捉え、探るように見ている。出会ったときのような不躾な視線とは違って、今は純粋に心配されているのだと気付かされる。
トラファルガー先生は、見れば見る程、“彼”に似ている。そして、それを意識する度に心がざわざわする。落ち着かない。怖い。それはまるで、開けてはいけないパンドラの箱の蓋がゆっくりと動いていくような、何か取返しがつかないことになるような、漠然とした不安が私を苛もうとする。
トラファルガー先生は悪い人ではない。初対面のときほど怖くはない。もうそれは知っている。それでも、受け入れられないものは受け入れられないのだ。居た堪れなくなった私は、雰囲気を変えるべく立ち上がって頭を下げた。
「職務中に居眠りして申し訳ございませんでした」
「これに懲りたら今日はさっさと寝るんだな」
「仰る通りです。で、先生。非常に申し上げ辛いのですが……」
弱々しい声音の私が言わんとしたことを察したのか、トラファルガー先生はジーンズのポケットからUSBメモリを取り出した。それを私は両手で恭しく受け取る。私の手の中にある、銀色で飾り気がないこのUSBメモリの価値や如何ほどの物だろう。自然と恐縮してしまう。
「それでは、今回もしかと受取りました。あと、あんパンご馳走様でした」
「美味かったか」
「はい、私、実はあんパンが大好物なんです」
素直にそう言うと、トラファルガー先生は黙ってしまった。何故だ。気まずくなったので、目を泳がせながらも何とかトラファルガー先生の様子を伺ってみる。
「えっと、トラファルガー先生はあんパンお好きですか?」
「嫌いだ。だからお前にやった」
「そうですか。じゃあ、私はそのおかげで美味しいあんパンが食べれたんですね」
「……」
彼は何も言葉を返してこない。この話は深堀してはいけない案件なのだろうか。困惑していると、鞄にしまっていたスマートフォンが鳴り出した。きっと先輩だ。ただでさえ私は居眠りをしていたのだ。これ以上油を売っている場合では無いことを思い出した。絶対に叱責だ!震える手でスマートフォンを取れば、着信はやっぱり先輩からだった。身から出た錆であるし、応対するなら絶対に早い方が良い。非常に気は進まないが、仕様が無く通話ボタンをタップした。その瞬間。
『お前、今どこにいるんだよ!!』
鼓膜を突き破りかねない大音量に思わずスマートフォンを遠ざけると、パッとそれが取り上げられる。手から急に無くなったスマートフォンに目を瞬かせてしまった。何故か私の代わりにトラファルガー先生がそれを持っている。
「おれだ」
この人もオレオレ詐欺か。と、一瞬だけ思ってしまった。しかし、先輩は“おれ”が誰なのか瞬時に察したらしい。その証拠に殺傷力の高い大声は止んだ。
「悪い。今帰らせる」
トラファルガー先生は先輩と何やらやり取りをしていたが、この一言で私を庇ってくれたのだと察してしまった。それから二言くらい話をして、彼は通話を切った。静かになったスマートフォンを渡してくるので、申し訳無さに俯きながらそれを受取る。
「何から何まで申し訳ないです……」
「今日は帰ったら直ぐに寝ろよ」
「分かってますよ」
「小説を書くのもいいが、自分の体力ぐらい見極めろ。ガキじゃ無いんだから」
しれっと続けられるトラファルガー先生の忠告に、私は首を傾げてみせた。
「いや、小説なんて書いてませんけど……」
そして静かに首を横に振れば、トラファルガー先生は「そうか」とだけ言った。
◇
研修中の身である私は残業とは無縁の生活を送っている。なので、未来の自身の姿である先輩に挨拶をすると定時退社をキメた。先輩はカップラーメンを片手に給湯室に向かって行ったので、彼の夜はまだまだ長そうだった。
新社会人になったのを機に、一人暮らしを始めた私としては定時に帰れるというのは、生活に余裕ができるのでありがたい。帰宅して不慣れな家事をした後も趣味の時間が取れる。やるべきことを全て終えた私は、ベッドに寝っ転がってスマートフォンを手に取った。そして、アプリをひとつ起動させる。それは、小説の執筆用のアプリだ。今は便利な世の中だ。スマートフォン一つあれば小説が書けるのだから。
トラファルガー先生にはああ言ったが、実は私も小説を書いている。
出版社に就職したものの、幼いころからの私の夢は小説家だった。物語の中では、我々読者は何にでもなれる。冒険をして胸を高鳴らせたり、恋をして身を切られるような想いをしたり、背筋も凍るような怖い体験をしたり。沢山の物語の世界を渡っていくうちに、いつしか私の心に芽生えたものは、私自身も自分だけの世界を作り上げてみたい、というものだった。それから私は本を読むのと同じくらい、物語を書くことを喜びとして生きている。
しかし、その趣味は人には言わないようにしている。何故内緒にしているかというと、学生時代に憧れていたクラスメイトに馬鹿にされたからである。百年の恋も一気に覚めたが、私は誓ったのだ。小説家として芽が出るまでは私が小説を書いているということを周りに内緒にしていようと。そういえば、以前先輩にも同じような質問をされたことがある。私はそんなに小説を書いてそうな顔をしているだろうか。トラファルガー先生なんて、完全に断定形で話してきたのであわやそのまま流されるところだった。
というわけで、誰にも知られないように私は小説を書き続けている。小説家になるには、コンクールのようなものに応募するのが一番近道だとインターネッツで知らべたことがあるが、まずは練習あるのみだ。コツコツと何作も書いているうちに、誰かに読んで欲しくなった。そこで、大手の小説投稿サイトに投稿したのが数年前のことだ。ありがたいことにそれなりの評価を貰っており、続きを楽しみにしてくれている人もいる。
私の書いている小説が私だけの楽しみで無くなったことは純粋に嬉しい。嬉しい、のだが。執筆画面はいつまで経っても真っ白。ポチポチ入力しては削除してを繰り返し、結果的に何も残らない。今書いている話は、今まで書いてきた中で一番楽しくて自信作だったのにピタリと書けなくなってしまったのだ。
このままではエタってしまう。ちなみにエタるというのは創作している作品が永遠(エターナル)の未完で終わるという意味で、完結しない作品を皮肉ったスラングである。
話は逸れたが、とにかく私はスランプに陥っていた。もうお察しかと思われるが、私の寝不足の原因は完全にコレだ。ここ最近、真っ白な画面と戦い続け全敗をしているのである。そして、書けなくなったのはトラファルガー先生に会ってからだ。だから理由は分かっている。しかし、それを認める訳にはいかなかった。
今晩も真っ白な画面に私は溜息を吐いた。そうだ、士気を上げる為に今まで貰った嬉しいコメントでも読み直そう。執筆アプリを閉じて、今度は投稿サイトのマイページを開く。すると、通知が入っていた。
「何だろ」
確認すると、DMへのメッセージ受信通知だった。有難いことに感想だろうか。そう思ってメールボックスを開く。届いたメールの冒頭一行を読み、その内容を理解した瞬間、私は驚きで目を見開いたのだった。
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