箱庭オペレッタ
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「隣町の“事故物件”ってあるじゃない?」
「ああ、すっごい昔に若夫婦が変死体で見つかった洋館だっけ?けっこう大きくてアンティークな感じがお洒落なのに勿体ないよね」
「そうそう、取り壊そうとされる度に怪現象が起こって業者が匙を投げたやつ。それでね、やっと買い手が見つかったんだって」
「へー。で、それが?」
「その買主がすっごいイケメンなんだって。そこで私は思ったの。そんなところに住もうとする美形なんて、もしかしたら人間じゃないのかも。悪魔とか吸血鬼だったりして」
「……馬鹿なこと言ってないでさっさとノート写して。あんた、そんなんだから赤点ばっかり取るのよ」
☆
彼女は生まれつき免疫力が弱く、傷も中々治り辛いという難儀な体質をしていた。
そんな彼女の為に、彼は空気の良い片田舎に洒落た洋館を建ててそこに引っ越してきた。その洋館は、住居を兼ねた診療所として利用された。彼の職業は医者だったのだ。
二人は結婚したばかりであり、愛嬌のある新妻と愛想は悪いが腕の立つ医者の夫婦は自然とその土地に溶け込んでいった。
生活が安定したころに、彼女は夏風邪を引いた。通常の人間の免疫力や回復力があれば3日もすれば良くなるような風邪だったが、彼女にとっては酷い病のようだった。3日間高熱に魘された彼女は、それでも大分回復してきて今はもうベッドの上なら起き上がれるようになっていた。そんな彼女は大きな窓の外をじっと見ていた。彼女の部屋はこの洋館で一番景色の良いところだ。のどかな田園も静かに流れる小川も柔らかな草原も見渡すことができる。彼女は窓から彼に視線を向けるとにんまりと笑った。
「ねぇ、知ってる?」
「何がだ」
「来月隣街にサーカスが来るって聞いたわ。私も見たい、絶対見たい」
「それだけ元気があれば大丈夫だな。風邪なんかさっさと治せ」
「はーい」
彼がそっと頭を撫でれば、彼女は子供のように返事をしてベッドに潜った。それを見届けた彼は口角を緩めると、彼女の部屋を後にした。
そう。普通の人間ならば、すぐに治るような風邪だったのだ。しかし、翌日から彼女の容態は急に悪化した。それからはあっという間だった。
彼女は死ぬ間際に言ったのだ。
「また、貴方に会いたいな」と。
☆
「最上のロマネ・コンティに血なんか混ぜやがって。そうまでしてお前、何を叶えたい」
男を出迎えた悪魔はニヤリと口角を歪めた。サングラスで隠されたその瞳にどのような光が灯っているのかは分からないが、表面上はとても楽しそうだった。それに対してこの店に招かれた男の瞳の色は暗く、顔色が良くなかった。更に、男は女を抱きかかえていた。まるで壊れ物や宝物でも扱うように大切に。しかし、男に抱かれた女の蝋のように青白く固くなった肢体は、彼女の心臓が動いていないのだと一目で分かる。
「まぁ、見れば分かるがな。大方、恋人を……」
そう言って男の顔をじっと見た悪魔は不自然に言葉を止めた。そして小さく呟いたのだ。「今度はお前か」と。悪魔の言っていることが理解できない男は眉を顰めた。
「何の話だ」
「いや、こっちの話だ。それで、お前は何を望む?女を生き返らせるのか?」
「“代償”はなんだ」
「“代償”ねェ。お前はよく分かってるじゃねェか」
悪魔との契約はリスクが付きもの。契約時に支払うものは対価では無い。元から人間と彼らはフェアな関係ではないのだ。そこを勘違いしていてお客様根性の人間が多いのを嘲笑っていた悪魔だったが、この人間はよく弁えているようだった。悪魔は更に機嫌が良くなった。
「お前、金はいくら出せる?」
男が答えた金額は、普通の人間なら中々払うことができない金額だった。しかし。
「到底足りねェな。残りはお前の寿命で補填するか?」
失った命を生き返らせるというのは、この世の理においてトップレベルの禁忌だ。それを可能にするだけの力をこの悪魔は持っていたが、そんなトンデモ能力を使うには男の支払える金額は雀の涙にも等しいものだった。あとは、代金の代わりになりそうなものは男の寿命ぐらいだ。
「だったらいい」
男は静かに首を振った。そして、ふと視線を落とす。暗い目をしていた男だったが、彼女に向けるそれは温かく柔らかかった。
「こいつが生き返っても、おれがいないなら意味がねェ」
悪魔には恋愛感情など所詮戯曲のスパイスにしかならないが、その感情が本物ならより強い激情が見られる筈だ。見世物としても悪くない。気分がさらに良くなった悪魔はぺろりと舌なめずりをした。
「……おい、悪魔。生まれ変わりってあるのか」
「面白いことを聞くんだな」
成程、男の魂胆が見えた。今生は無理なら来世ということか。
「一つの魂につき輪廻転生は“三回まで”だ。見たところ、お前らは二回目だな。あと一回ある」
「次の人生も、こいつの隣で生きたい」
「それはいいが、そうなるとお前の残りの寿命程度じゃ到底足りねェな」
「来世に持ち越していい」
暗かった瞳に熱を灯した男は答えた。一切揺らぎもしない、即答だった。だから悪魔はその覚悟を揺さぶってみたくなった。
「来世!」
悪魔は両腕を広げて、戯曲を演じる役者のように大仰に言う。
「フッフッフッ、お前、馬鹿だな?返済の為にお前の記憶は残しておいてやるが、生まれ変わったらその女の記憶は全くねェぞ。その女がお前のことを愛するとは限らない」
「問題無い。何度でも落としてやるよ」
そして、初めて男は笑った。少しだけ口角を吊り上げるそれは、自信に満ちていた。その様を見て悪魔は思った。この男が二度目の恋を成就させれば大団円の恋愛劇、その自信を砕かれば悲劇が観られるのだ。何て面白い見世物だろう。悪魔は手を叩いて笑った。
「お前面白い男だな。サービスしといてやるよ」
一しきり笑うと、悪魔がチェストの中から出したものは糸巻きだった。そこにくるくると巻かれているのはテグスのような透明な糸だ。
「赤い糸って知ってるか」
「知ってる」
運命の赤い糸は有名な話だ。いつか結ばれる男女の小指に見えない赤い糸が結ばれているという。大層ロマンチックな話だ。男は一切興味無いのだが、彼女はそういう話が大好きだった。
「まぁ、これは違うけどな」
「じゃあ何でその話をした」
マイペースな悪魔を睨めつけて、男は露骨に顔を顰めた。この男も結構な怖いもの知らずである。一応この悪魔は、数多く存在する“人ならざるモノ”の中で上から数えた方が早いくらいの上位の存在なのだが。しかし、悪魔は良い気分だったので、男のそんな態度は気にならなかった。
「赤い糸はこの道具の派生形だ。この透明な糸を染めれば赤い糸にも黒い糸にもなる」
悪魔の話を聞いた男はそれがどうした、といった顔をしてきた。その察しの悪さに悪魔はニィっと笑ってみせた。
「どうだ、赤にしてやろうか?」
「本当に腹が立つ悪魔だな。いらねェよ。こいつの傍に居られたら十分だ」
「お前、やっぱり面白くねェけど、面白ェな」
男は甘言には一切乗ってこなかったので、悪魔はしみじみと感想を述べた。普通だったら飛びつくところじゃないか。そうしたら、もっと重い代償を支払わせようと思っていたのに。所詮お前もその程度かと嗤う準備も出来ていたのに。
「どっちだよ。いや、どうでもいい。さっさと使い方を教えろ」
「つれねェなァ」
無駄話は一切聞きたくないという男に悪魔はわざとらしく溜息を吐く。
「自分の小指と相手の小指を結びつけろ」
言われるがままに男は女の青白い小指に糸を巻き付けると、その反対側に自身のそれに結び付ける。
「気を付けろよ、それは付けた瞬間に術者の命を奪うぞ」
「お前、ふ」
男のその言葉は不自然に途切れた。そして、折り重なるように絶命した男と女。完全に事切れているのを確認すると、悪魔は二人をそっと人の世界に戻してやった。
二人そろって死んでいるので、一瞬だけ世間のニュースを騒がすだろう。しかし、そんなものは悪魔の知ったことではないのだ。
さて、この男の“来世”とやらで楽しませて貰おうじゃないか。人知れず笑うと、悪魔は上質な葡萄酒を呷った。
☆
ナマエがローの洋館に住み着いてから暫くが経った。
ローに厳しいテコ入れをされ、一般的な恋愛感情を思い出したことにより聊かマシになった彼女の店は少しずつ利益が出てきている。めでたく恋人同士になれた二人の関係も順風満帆だ。
唯一のトラブルは、ローがナマエに与えたのはこの洋館で一番景色が良い部屋だったので彼女は大層その部屋を気に入り、その結果自室から動こうとしなくなったことぐらいである。ナマエは仕事が終わって自由時間になると自室で景色を見たり推しの公演動画を観たり本を読んだり、とっても楽しそうだった。
ところで、貴方の隣の部屋で生活している家主の顔がめちゃくちゃ怖いんですけど?マジで気付いてないのこの女。耐え切れなくなった三人は、ナマエの首根っこを掴んでローの自室に放り込むという色々な意味で命懸けのミッションを無事に成功させた。放り込んでからすぐに逃走した三人は、その後二人がどのような展開を迎えたのかは知らない。しかし、どちらの店も翌日は臨時休業することになったのでそれが答えの全てだと思うことにした。珍しく血色の良いローと死んだ魚の目をしたナマエに思うところが無かったかと言えば嘘になるが、彼らとて自分たちの平穏が第一なのだ。本当にヤバそうだったら流石に止めるけど、あの二人絶対そんなことないもん。彼らの喧嘩は犬も食わないやつだ。あれから結局同じ部屋で寝てるのも知ってるし。幸せそうで何よりである。
夜中にローがふと目を覚ますと、携帯に着信が入っていた。その番号を目に入れた瞬間、彼は物凄く嫌な顔をした。眠気も一気に吹っ飛んだ。きっと今の自分は、ナマエも今まで見たことが無いくらい酷い顔をしているという自信がある。彼は舌打ちすると、すやすやと隣で眠るナマエの髪を梳いてからベッドを抜け出した。そして携帯を引っ掴むと静かに部屋を出て行った。
「何の用だ、金は順調に返してるだろ」
「いいや、特に用はねェ」
1コール待たずとも繋がった先の男の声は相も変わらず掴みどころが無く、それがローを苛つかせた。彼を苛つかせることができる人物選手権が開催されれば、ナマエと良い勝負ができるかもしれない。そんな不愉快な選手権は開催するつもりも、ナマエをこの男に会わせるつもりも毛頭無いので実現することは無いが。
「ああそうかよ、切るぞ」
「“ナマエちゃん”は元気か」
ローが有無を言わさずに電話を切ろうとしたその瞬間だった。どうやらそれがローに電話をかけてきた理由だったらしい。この趣味の悪い悪魔のことだ。きっとどこからかローとナマエがくっついたのを聞きつけたか見ていたに違いない。
「……あいつに余計なことしやがったのはお前だろ」
「言っただろ、サービスしてやるって」
大悪魔の癖に“良いことをしました”と言わんばかりのその声音にローはキレた。彼は冷静で悪魔でも上級の部類だが、歩く悪意の見本市のようなこの大悪魔にはまだ敵わないのである。
「ふざけるな!お前の所為でどれだけ時間がかかったと思ってる。……もういい、次回で負債額は完済だ。そうしたらもう二度とかけてくるなよ」
今度こそ乱暴に通話を切ったローは、ついでに携帯の電源も切った。
自室に戻ったローはサイドテーブルに携帯を放るように置くと、再びベッドに潜り込んだ。
「ロー?」
「悪い、起こしたか」
「んーん、」
うとうとと微睡んでいたナマエはベッドを軋ませたローに起こされて、重い瞼を開けた。普段はローが何かをしようとすると真っ赤になって逃げだそうとするナマエであるが、寝惚けているときだけはやけに素直なのである。今ももぞもぞと布団の中で動いてローの胸に額をこつんとくっつけた。そして、そのままぐりぐりと擦りつける。子供かよ。ローは思わず笑ってしまった。そして両の腕で彼女を抱きしめた。
そうすれば、ナマエは幸せそうにむにゃむにゃと微笑んだ。良い夢を見ているのか、呑気な寝顔だった。ローは彼女のつむじにそっと触れるだけの口付けを落とした。
「おれは会うだけじゃ満足できねェんだ」
ローはそう独り言ちる。これは、ほんの少しだけ感傷的になったある男の独白だ。だから、彼女は知らなくていいのだ。
可愛くて可哀想なナマエ。
この腕の、箱庭の中で、好きなだけ泣いて怒って笑えばいい。
前と違って悪魔の寿命は桁違いに長い。彼女の傷だって癒すことができる。捕まえたからには逃がさない。
今度こそ。
「ずっと一緒だ」
了
「ああ、すっごい昔に若夫婦が変死体で見つかった洋館だっけ?けっこう大きくてアンティークな感じがお洒落なのに勿体ないよね」
「そうそう、取り壊そうとされる度に怪現象が起こって業者が匙を投げたやつ。それでね、やっと買い手が見つかったんだって」
「へー。で、それが?」
「その買主がすっごいイケメンなんだって。そこで私は思ったの。そんなところに住もうとする美形なんて、もしかしたら人間じゃないのかも。悪魔とか吸血鬼だったりして」
「……馬鹿なこと言ってないでさっさとノート写して。あんた、そんなんだから赤点ばっかり取るのよ」
☆
彼女は生まれつき免疫力が弱く、傷も中々治り辛いという難儀な体質をしていた。
そんな彼女の為に、彼は空気の良い片田舎に洒落た洋館を建ててそこに引っ越してきた。その洋館は、住居を兼ねた診療所として利用された。彼の職業は医者だったのだ。
二人は結婚したばかりであり、愛嬌のある新妻と愛想は悪いが腕の立つ医者の夫婦は自然とその土地に溶け込んでいった。
生活が安定したころに、彼女は夏風邪を引いた。通常の人間の免疫力や回復力があれば3日もすれば良くなるような風邪だったが、彼女にとっては酷い病のようだった。3日間高熱に魘された彼女は、それでも大分回復してきて今はもうベッドの上なら起き上がれるようになっていた。そんな彼女は大きな窓の外をじっと見ていた。彼女の部屋はこの洋館で一番景色の良いところだ。のどかな田園も静かに流れる小川も柔らかな草原も見渡すことができる。彼女は窓から彼に視線を向けるとにんまりと笑った。
「ねぇ、知ってる?」
「何がだ」
「来月隣街にサーカスが来るって聞いたわ。私も見たい、絶対見たい」
「それだけ元気があれば大丈夫だな。風邪なんかさっさと治せ」
「はーい」
彼がそっと頭を撫でれば、彼女は子供のように返事をしてベッドに潜った。それを見届けた彼は口角を緩めると、彼女の部屋を後にした。
そう。普通の人間ならば、すぐに治るような風邪だったのだ。しかし、翌日から彼女の容態は急に悪化した。それからはあっという間だった。
彼女は死ぬ間際に言ったのだ。
「また、貴方に会いたいな」と。
☆
「最上のロマネ・コンティに血なんか混ぜやがって。そうまでしてお前、何を叶えたい」
男を出迎えた悪魔はニヤリと口角を歪めた。サングラスで隠されたその瞳にどのような光が灯っているのかは分からないが、表面上はとても楽しそうだった。それに対してこの店に招かれた男の瞳の色は暗く、顔色が良くなかった。更に、男は女を抱きかかえていた。まるで壊れ物や宝物でも扱うように大切に。しかし、男に抱かれた女の蝋のように青白く固くなった肢体は、彼女の心臓が動いていないのだと一目で分かる。
「まぁ、見れば分かるがな。大方、恋人を……」
そう言って男の顔をじっと見た悪魔は不自然に言葉を止めた。そして小さく呟いたのだ。「今度はお前か」と。悪魔の言っていることが理解できない男は眉を顰めた。
「何の話だ」
「いや、こっちの話だ。それで、お前は何を望む?女を生き返らせるのか?」
「“代償”はなんだ」
「“代償”ねェ。お前はよく分かってるじゃねェか」
悪魔との契約はリスクが付きもの。契約時に支払うものは対価では無い。元から人間と彼らはフェアな関係ではないのだ。そこを勘違いしていてお客様根性の人間が多いのを嘲笑っていた悪魔だったが、この人間はよく弁えているようだった。悪魔は更に機嫌が良くなった。
「お前、金はいくら出せる?」
男が答えた金額は、普通の人間なら中々払うことができない金額だった。しかし。
「到底足りねェな。残りはお前の寿命で補填するか?」
失った命を生き返らせるというのは、この世の理においてトップレベルの禁忌だ。それを可能にするだけの力をこの悪魔は持っていたが、そんなトンデモ能力を使うには男の支払える金額は雀の涙にも等しいものだった。あとは、代金の代わりになりそうなものは男の寿命ぐらいだ。
「だったらいい」
男は静かに首を振った。そして、ふと視線を落とす。暗い目をしていた男だったが、彼女に向けるそれは温かく柔らかかった。
「こいつが生き返っても、おれがいないなら意味がねェ」
悪魔には恋愛感情など所詮戯曲のスパイスにしかならないが、その感情が本物ならより強い激情が見られる筈だ。見世物としても悪くない。気分がさらに良くなった悪魔はぺろりと舌なめずりをした。
「……おい、悪魔。生まれ変わりってあるのか」
「面白いことを聞くんだな」
成程、男の魂胆が見えた。今生は無理なら来世ということか。
「一つの魂につき輪廻転生は“三回まで”だ。見たところ、お前らは二回目だな。あと一回ある」
「次の人生も、こいつの隣で生きたい」
「それはいいが、そうなるとお前の残りの寿命程度じゃ到底足りねェな」
「来世に持ち越していい」
暗かった瞳に熱を灯した男は答えた。一切揺らぎもしない、即答だった。だから悪魔はその覚悟を揺さぶってみたくなった。
「来世!」
悪魔は両腕を広げて、戯曲を演じる役者のように大仰に言う。
「フッフッフッ、お前、馬鹿だな?返済の為にお前の記憶は残しておいてやるが、生まれ変わったらその女の記憶は全くねェぞ。その女がお前のことを愛するとは限らない」
「問題無い。何度でも落としてやるよ」
そして、初めて男は笑った。少しだけ口角を吊り上げるそれは、自信に満ちていた。その様を見て悪魔は思った。この男が二度目の恋を成就させれば大団円の恋愛劇、その自信を砕かれば悲劇が観られるのだ。何て面白い見世物だろう。悪魔は手を叩いて笑った。
「お前面白い男だな。サービスしといてやるよ」
一しきり笑うと、悪魔がチェストの中から出したものは糸巻きだった。そこにくるくると巻かれているのはテグスのような透明な糸だ。
「赤い糸って知ってるか」
「知ってる」
運命の赤い糸は有名な話だ。いつか結ばれる男女の小指に見えない赤い糸が結ばれているという。大層ロマンチックな話だ。男は一切興味無いのだが、彼女はそういう話が大好きだった。
「まぁ、これは違うけどな」
「じゃあ何でその話をした」
マイペースな悪魔を睨めつけて、男は露骨に顔を顰めた。この男も結構な怖いもの知らずである。一応この悪魔は、数多く存在する“人ならざるモノ”の中で上から数えた方が早いくらいの上位の存在なのだが。しかし、悪魔は良い気分だったので、男のそんな態度は気にならなかった。
「赤い糸はこの道具の派生形だ。この透明な糸を染めれば赤い糸にも黒い糸にもなる」
悪魔の話を聞いた男はそれがどうした、といった顔をしてきた。その察しの悪さに悪魔はニィっと笑ってみせた。
「どうだ、赤にしてやろうか?」
「本当に腹が立つ悪魔だな。いらねェよ。こいつの傍に居られたら十分だ」
「お前、やっぱり面白くねェけど、面白ェな」
男は甘言には一切乗ってこなかったので、悪魔はしみじみと感想を述べた。普通だったら飛びつくところじゃないか。そうしたら、もっと重い代償を支払わせようと思っていたのに。所詮お前もその程度かと嗤う準備も出来ていたのに。
「どっちだよ。いや、どうでもいい。さっさと使い方を教えろ」
「つれねェなァ」
無駄話は一切聞きたくないという男に悪魔はわざとらしく溜息を吐く。
「自分の小指と相手の小指を結びつけろ」
言われるがままに男は女の青白い小指に糸を巻き付けると、その反対側に自身のそれに結び付ける。
「気を付けろよ、それは付けた瞬間に術者の命を奪うぞ」
「お前、ふ」
男のその言葉は不自然に途切れた。そして、折り重なるように絶命した男と女。完全に事切れているのを確認すると、悪魔は二人をそっと人の世界に戻してやった。
二人そろって死んでいるので、一瞬だけ世間のニュースを騒がすだろう。しかし、そんなものは悪魔の知ったことではないのだ。
さて、この男の“来世”とやらで楽しませて貰おうじゃないか。人知れず笑うと、悪魔は上質な葡萄酒を呷った。
☆
ナマエがローの洋館に住み着いてから暫くが経った。
ローに厳しいテコ入れをされ、一般的な恋愛感情を思い出したことにより聊かマシになった彼女の店は少しずつ利益が出てきている。めでたく恋人同士になれた二人の関係も順風満帆だ。
唯一のトラブルは、ローがナマエに与えたのはこの洋館で一番景色が良い部屋だったので彼女は大層その部屋を気に入り、その結果自室から動こうとしなくなったことぐらいである。ナマエは仕事が終わって自由時間になると自室で景色を見たり推しの公演動画を観たり本を読んだり、とっても楽しそうだった。
ところで、貴方の隣の部屋で生活している家主の顔がめちゃくちゃ怖いんですけど?マジで気付いてないのこの女。耐え切れなくなった三人は、ナマエの首根っこを掴んでローの自室に放り込むという色々な意味で命懸けのミッションを無事に成功させた。放り込んでからすぐに逃走した三人は、その後二人がどのような展開を迎えたのかは知らない。しかし、どちらの店も翌日は臨時休業することになったのでそれが答えの全てだと思うことにした。珍しく血色の良いローと死んだ魚の目をしたナマエに思うところが無かったかと言えば嘘になるが、彼らとて自分たちの平穏が第一なのだ。本当にヤバそうだったら流石に止めるけど、あの二人絶対そんなことないもん。彼らの喧嘩は犬も食わないやつだ。あれから結局同じ部屋で寝てるのも知ってるし。幸せそうで何よりである。
夜中にローがふと目を覚ますと、携帯に着信が入っていた。その番号を目に入れた瞬間、彼は物凄く嫌な顔をした。眠気も一気に吹っ飛んだ。きっと今の自分は、ナマエも今まで見たことが無いくらい酷い顔をしているという自信がある。彼は舌打ちすると、すやすやと隣で眠るナマエの髪を梳いてからベッドを抜け出した。そして携帯を引っ掴むと静かに部屋を出て行った。
「何の用だ、金は順調に返してるだろ」
「いいや、特に用はねェ」
1コール待たずとも繋がった先の男の声は相も変わらず掴みどころが無く、それがローを苛つかせた。彼を苛つかせることができる人物選手権が開催されれば、ナマエと良い勝負ができるかもしれない。そんな不愉快な選手権は開催するつもりも、ナマエをこの男に会わせるつもりも毛頭無いので実現することは無いが。
「ああそうかよ、切るぞ」
「“ナマエちゃん”は元気か」
ローが有無を言わさずに電話を切ろうとしたその瞬間だった。どうやらそれがローに電話をかけてきた理由だったらしい。この趣味の悪い悪魔のことだ。きっとどこからかローとナマエがくっついたのを聞きつけたか見ていたに違いない。
「……あいつに余計なことしやがったのはお前だろ」
「言っただろ、サービスしてやるって」
大悪魔の癖に“良いことをしました”と言わんばかりのその声音にローはキレた。彼は冷静で悪魔でも上級の部類だが、歩く悪意の見本市のようなこの大悪魔にはまだ敵わないのである。
「ふざけるな!お前の所為でどれだけ時間がかかったと思ってる。……もういい、次回で負債額は完済だ。そうしたらもう二度とかけてくるなよ」
今度こそ乱暴に通話を切ったローは、ついでに携帯の電源も切った。
自室に戻ったローはサイドテーブルに携帯を放るように置くと、再びベッドに潜り込んだ。
「ロー?」
「悪い、起こしたか」
「んーん、」
うとうとと微睡んでいたナマエはベッドを軋ませたローに起こされて、重い瞼を開けた。普段はローが何かをしようとすると真っ赤になって逃げだそうとするナマエであるが、寝惚けているときだけはやけに素直なのである。今ももぞもぞと布団の中で動いてローの胸に額をこつんとくっつけた。そして、そのままぐりぐりと擦りつける。子供かよ。ローは思わず笑ってしまった。そして両の腕で彼女を抱きしめた。
そうすれば、ナマエは幸せそうにむにゃむにゃと微笑んだ。良い夢を見ているのか、呑気な寝顔だった。ローは彼女のつむじにそっと触れるだけの口付けを落とした。
「おれは会うだけじゃ満足できねェんだ」
ローはそう独り言ちる。これは、ほんの少しだけ感傷的になったある男の独白だ。だから、彼女は知らなくていいのだ。
可愛くて可哀想なナマエ。
この腕の、箱庭の中で、好きなだけ泣いて怒って笑えばいい。
前と違って悪魔の寿命は桁違いに長い。彼女の傷だって癒すことができる。捕まえたからには逃がさない。
今度こそ。
「ずっと一緒だ」
了