箱庭オペレッタ
Name Change
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
ナマエがローの前から姿を消した。
というのも、あれからナマエの顧客を二人ほど奪ったのに、普段ならすぐに怒鳴り込んでくる筈の彼女からは全く音沙汰が無いのだ。三人目を奪っても、ナマエは怒鳴り込んでこない。いくら何でも不思議に思ったローはナマエの店までやってきた。そして店先にかかっている札を見て口角を引きつらせた。
「長期休業?」
ふざけんな、あの女。急ぎの連絡先はこちら、と書いてあったので電話をしてみると、ローの番号は着信拒否されているらしく機械音声が無機質に答えてくれるだけだ。昨今の悪魔は人間の文明に対応できるよう電話も使いこなせるのである。あのナマエですらスマートフォンをそれなりに使いこなせる。そして、この暴挙だ。
店からは人の気配が感じられなかったし電話も繋がらないので、とりあえずローは自身の店に戻ることにした。超絶機嫌が悪い店長に触れるのはやめとこ……と戻って来た彼を目にした三人は、こっそりと店のバックヤードに引っ込んだ。そう、彼らは賢いのだ。
そんな三人に気を使わせているのを察したローは、自分から書斎に引っ込んだ。
いつからナマエは長期休業()を始めたのだろうか。机上に置いてあった銀色に鈍く輝く万年カレンダーを横目で確認したローはふと、思い当たった。ナマエの推しとやらの卒業公演の大千秋楽は明日だ。あれだけ楽しみにしていたのだ。彼女は絶対そこに現れる。そう確信した彼は、彼女が観るであろう舞台のスケジュールを文明の利器で確認した。あの女、絶対にとっ捕まえてやる。
☆
翌晩、ローは大劇場の入り口前でナマエを待ち伏せしていた。
舞台が終われば、余韻に浸りながら夢見心地の人間たちがどっと溢れてくる。その沢山の人間の中から、彼は容易くナマエを見つける自信があった。かくして人がまばらになってきた頃、ターゲットであるナマエがのこのこと出てきたのである。緩く髪を巻いて、濃紺のAラインのワンピースに高いヒールを履いた上品な装いだった。そんなにファッションに気を使っているナマエの姿など、ローは見たことがなかった。当然のように彼の機嫌は更に悪くなった。
御多分にも漏れずうっとりした表情のナマエはローと目が合うと、一瞬にしてその顔を引き締めた。そして、青褪めた彼女の顔は雄弁に語る。『ヤバい』と。
彼女はくるりと回れ右をして走り出そうとしたが、何もないところで躓いて転んでしまった。そんなに高いヒールなど履くからだ。地面にうつ伏せに倒れて動かないナマエの前まで歩き、しゃがみ込んだローは彼女のつむじに視線を合わせた。
「何か言うことは無ェか」
「……わざわざ舞台が終わるまで待ってくれたの?」
少しだけ顔を上げたナマエが上目遣いでそう言うので、ローは舌打ちをした。隠そうとしない露骨な苛立ちをぶつけられたナマエは物凄い勢いで目を泳がせたが、全くもって自業自得である。あからさまに動揺している彼女の様子に少し留飲の下がったローが手を差し伸べると、ナマエはおずおずとその手を取った。ローが重ねられた彼女の小さな手を握ろうとしたその瞬間だった。ぱしん、とナマエは彼の手を振り払ったのである。
「あ」
しまった、と言わんばかりに口をぽかんと開けて大層間抜けな顔をしたナマエは、手を振り払われて更に機嫌が急降下して冷気を纏っているローにたじろいた。ナマエとしては単純に恥ずかしかっただけなのだが、当然ローはそんなこと知る由も無いのだ。折角の善意で差し伸べた手を無下に払った女として認識されたに違いない。
「ちが、これは、」
自分で立てるし!と言わんばかりに勢いよく立ち上がったナマエは苦痛に顔を歪めた。先程転んだ拍子で彼女は両の膝を擦りむいたようだった。破れた黒いストッキングから覗く膝小僧は擦り傷ができており、その傷口は赤く滲んでいた。痛みで今度は蹲ろうとしたところ、ローはナマエの膝裏を掬うようにさっと抱き上げた。ナマエはすっかり忘れているようだが、ここは劇場の入り口前の大階段の下である。二人の男女が醸し出す修羅場の気配にちらほら視線を感じるので、彼は一刻も早くここから撤収したくなったのだ。
「ちょ、下ろして!自分で歩けます!!」
ナマエとしては物凄く意識をしている相手と密着状態なので気が気でない。しかし、残念なことにローはそんなこと一切気付いていない。長年の自分の行動の行いのツケがしっかりと回ってきているのである。それでもナマエは必死だった。下せと言わんばかりに暴れ出したのだ。そんな彼女を彼は低い声で脅した。
「落とすぞ」
「是非そうして!!」
ところが、ナマエの反応はおかしかった。寧ろそうしてくれ、と言い切った彼女にローは内心困惑した。何なんだこの女。しかし、そう言われては絶対に離したくなくなるのがローである。ナマエを押さえつけるように抱きながら、劇場の裏口に周って人目がなくなったところで彼はパッと転移した。行先は勿論、彼の店兼自宅である。
ナマエを抱えたローは一瞬で自分の店まで戻って来た。わーわー暴れるナマエを抱いて戻って来たローを一目見た三人は勢いよくバックヤードに引っ込む。我関せずを貫くためだ。おれ達何も聞いてないし見てないもん!!バックヤードは可哀想な彼らの駆け込み寺になっていた。
ローはそのまま住居エリアとなっている二階に上がった。そして、脱衣所を兼ねている洗面所で彼女を下ろすと開口一番言った。
「脱げ」
「な、なななんで」
シンプルな二文字にナマエは震え上がって挙動不審になった。完全にバグっている彼女を見下ろしたローは半眼で溜息を吐く。
「お前、何勘違いしてるんだよ。それさっさと脱いで傷口洗ってこい」
「あ、あーーー、それね、そうそう、分かってた」
ズタボロになったストッキングを指さすローを誤魔化すように愛想笑いを浮かべ、ナマエはぽんっと軽く両手を叩いてみせた。ところが、一切誤魔化せていないのが現実である。慌てふためいているナマエの反応にローの嗜虐的な部分の根っこが疼いた。
「それとも、おれがやってやろうか」
「間に合ってます!」
これはやるって言ったら絶対にやる顔だ!ナマエは脱衣所からローを締め出すと、破れたストッキングを脱いだ。上質で高いものを買ったのに、破れるときは一瞬。なんという無情。しょんぼりしながら、ストッキングをダストボックスに突っ込んだナマエは、シャワーで膝のすり傷を洗い流した。水が傷に沁みるので涙目になりながら彼女は思った。こんな掠り傷、普通の悪魔なら一瞬で治るのに、何故自分の治癒力は人間と同等かそれ以下なのだ。解せぬ。
シャワー室を出たナマエは予めローに渡されていたタオルで軽く足を拭く。それから洗面所のドアをほんの少しだけ開けてその隙間をこっそりと伺うと、案の定ローが壁にもたれ掛かって彼女を待っていた。怒ってはいなさそうだ。しかし、捉えようによっては嵐の前の静けさとも言える。ナマエはおっかなびっくりローの元まで向かった。傷が痛むので不格好な歩き方をしていると、再び彼女はひょいっと抱き上げられた。これ、ちょっと過保護すぎやしませんかね。とはいえ、もう抵抗する気力も無かったしここまで来たところで抵抗しても無意味なので彼女は大人しく運ばれることにした。
ローは彼女を抱いたまま器用に自室のドアを開けると、彼女をソファの上に落とす。ダークグレーの大きめのカジュアルソファは彼女の身体を優しく受け止めてくれた。ナマエがぽすんとソファに収まったのを見ると、ローは「ほら、脚見せろ」とナマエの膝裏に手を入れた。ところが、急に素肌を触られたことによって過剰反応を起こしたナマエは脚を振り上げてしまった。結果、彼女の膝がローの顎にクリーンヒットしたのである。
「あ……、あの、ごめんなさい」
流石にまずいとナマエは青褪めながら両手で口を覆ったが、ローは俯いたまま動かない。逆にそれが物凄く怖かった。ナマエは冷や汗をだらだらと流しながら彼の動向を待った。彼女が生きた心地もせずにローを見守っていると、彼は蹴られた顎を押さえながらゆっくりと顔を上げた。その間が永遠のように長く感じたナマエだった。
「お前、さっきから何なんだ」
吐き出された声音に呆れは含まれているものの、怒りは含まれてなさそうだ。ナマエはほっと安堵したが、それも束の間のこと。ローの鋭い眼光が彼女に理由を問いただしている。それをひしひしと感じたナマエは絶体絶命だった。ドアに向かって逃げ出すための退路はローに塞がれている。これは絶対に逃げられないやつ。潔く諦めた彼女は腹をくくった。
「だって、ローって男の人じゃない」
「今更随分なご挨拶だな」
深い深い溜息と共に吐かれたその台詞はご最も。消えてしまいたくなったナマエは俯いた。彼女は膝上に置いた両の拳をぎゅっと握り、ボソボソと小さな声で話を続けた。
「だから、なんか、こう、恥ずかしくて」
「……まさかそれが長期休業の理由じゃねェよな?」
ローの問いにナマエは答えない。彼女は俯いたまま目線を下に落としてずっと黙っている。この沈黙は確実に肯定のそれである。
こいつ、ひょっとしておれのこと意識してるのか?そう考えれば、今までの彼女の奇行も納得がいく。とはいえ、先程の彼女の口から出てきた言葉で今までローが“男だと思われていなかった”ということが確定したので、彼は複雑な気持ちになった。
「だっておかしいでしょ。私とローは“友達”じゃない」
彼の気持ちなど知らないナマエは、尚も自分の恋心を殺して彼と友人でいようとした。だって、ローには好きな人がいるのだ。無くしていた恋愛感情が戻ってきてしまった今、ナマエにはそうすることでしか彼と一緒にいる術が思い浮かばなかったのだ。ナマエはローに“恋人”としては選ばれない。なら、せめて。
「ねぇ、私とローって友達だよね?」
「違う。おれはお前のこと、そう思ったことは一度も無ェ」
消え入るような声で同意を求めるナマエの仄かな期待を裏切るように、ローは静かにそれを否定した。それを聞いたナマエは何も言わない。ただ、俯いたままだ。しかし、よく見ると小さく震えているように見えた。不審に思ったローが彼女の両肩を掴んで顔を上げさせると、ナマエは大きな瞳からぼとぼとと大粒の涙を零していたのである。それには流石のローもぎょっとした。
「じゃあ、私、もう貴方と一緒にいられない」
「何でだ」
「だって、ローには好きな人がいるんでしょう!」
ナマエは一人で盛り上がっているようだが、ローは逆に冷静になっていった。段々とナマエが何を考えているのか分かってきてしまったからだ。
「友達として傍にいさせてくれないなら、」
「いいから、落ち着け。それからよく聞け」
苦々しいローの声にナマエは両手で両耳を塞ぐとぶんぶんと首を横に振ってみせた。前から思っていたが、変なところで強情な女である。
「聞け」
ローはナマエの両手を耳から無理やり引き剥がすと、彼女の目を自身のそれで射抜いた。
「おれはお前のことがずっと好きだ」
「へ?」
言い聞かせるように想いを伝えるローに、ナマエはぱちくりと目を瞬かせた。それから呆然とした様子で口を開く。
「それは友人として?」
「この流れでそれを聞くか」
この鳥頭が。さっき、友達とは思っていないと言ったのに。先程のローの発言を今になって思い出したらしいナマエはハッとして、それからその顔がどんどんと真っ赤に染まっていく。それはもう面白いくらいに。彼女の涙はとうに引っ込んでしまっていた。
「お前は?」
確信を持ってただ一つの答えを待つローに、ナマエはぽつりと答えた。相も変わらず彼女の顔は熟れた林檎のようだった。
「……すき」
「友人としてか?」
「この流れでそれを聞くの?」
お前が言い出したんだろと視線でそう告げると、そうだった、とナマエはへにゃりと笑った。それからそっとローの両頬を包んで顔を近づけると唇に触れるだけのキスをした。
「こういうことがしたい好き」
内緒話をするような甘い声のナマエにローは一瞬真顔になった。へへっと少女のように微笑むこの女を滅茶苦茶にしたくなったのだ。しかし、彼が行動を移す前にナマエが口を開くのが早かった。
「ロー、怒らないで聞いてくれる?」
隠し事をするのはフェアでは無いと思ったナマエは全て洗いざらい彼に告白しようと思ったのだ。
「ローにあげたガラスドームあるでしょ。この前私が割ったやつ」
「お前、思い出したのか?」
静かに尋ねるローに彼女はこくりと頷いた。
「あれね、実は凄い悪魔から貰ったものなの」
おずおずと言葉を紡ぐナマエにローは嫌な予感しかしなかった。そしてそれは絶対に違えることはないという妙な自信が彼にはあった。だから、視線で言葉を促した。
「それを渡した人と自分が望んだ関係になれるって言われたの」
伏し目がちのナマエに、彼女がやたらと“友達”に拘っていた謎が解けたローだったが、彼はそのまま頭を抱えたくなった。深くなる眉間の皺を揉みながら、彼は彼女に確認をした。
「で、お前はおれとダチでいようと思ったわけか」
「ローのこと好きだったけど、アイテムで心を手に入れるのは違うと思ったの。だったらずっと友達でいられたらなって」
ナマエの告白にローは今度こそ頭を抱えた。彼女は悪魔の癖に、そういうところがダメダメなのである。もっと利己的に生きろよと思わなくもないが、ローもアイテムに頼ろうとはしてこなかったので何も言えない。だから彼には彼女を責めることができなかった。しかし、苦々しい声で“全ての元凶”について問うことは忘れなかった。
「ちなみにそいつ、どんな悪魔だった?」
「サングラスしててピンクのモコモコで大きかった」
「……あの野郎」
「知ってるの?」
目を瞬かせるナマエにローは「知らねェ」と憮然と返した。いや、どう考えても知ってるでしょ。とはこの場面で強気に出ることはできなかったので、ナマエは聞かなかったことにした。少しだけ居心地が悪くなったので、もぞもぞと座り直そうとしたナマエが脚を曲げたときだ。
「痛ッ」
そういえばナマエは膝を怪我していたのだった。色々ありすぎたのですっかり忘れていた。
「脚見せろ、治してやるから」
ローは床に膝を付いてナマエの膝裏に手を入れると、彼女の脚をゆっくりと持ち上げた。そして血の乾いた傷口に軽く口付けを落とすと、当のナマエは今更恥ずかしくなったのか両の手で自身の顔を覆った。今までのされたい放題でケロリとしていた彼女と異なった反応が面白くなったローは、試しにナマエの脹脛をゆっくりと撫で上げてみた。小さな悲鳴を上げて驚いた彼女は、慌てて脚をローの手から抜く為に動かそうとした。そうはさせるか。逃がさないとばかりにローは彼女の細い足首を掴んでそれを阻止した。それからぐっと舌先で傷口を押してやった。急に与えられたぴりっとした痛みにナマエは身体をびくりと震わせることしかできなかった。ぺろりと傷口に舌を這わせれば、すぐにそれは閉じていき、元通りの滑らかな肌になった。こんな掠り傷、あっという間に治せるのである。片足が治れば、今度は反対の膝に優しく口付けた。反対側の膝の傷もたちまち消えてしまった。にも関わらず、ローは何度も彼女の脚に口付けた。彼女の脚を持ち上げて、傷口とは全く関係のないところにキスをしては、無骨な指先が脚の輪郭をなぞる。それに耐え切れなくなったナマエはとうとう叫んだ。
「ねぇ、今までのってこんなにヤらしかった?!」
「いや、いつもはこんなんじゃねェな」
「だったらいつも通りやってください」
平然と答えてみせるローに、確信犯かよ!完全に茹った顔のナマエは涙目になった。目を細めて、慌てふためくナマエをその視界に収めたローの口角が意地悪く吊り上がる。
彼の瞳に映る怯えた自分。彼の瞳の奥にちろりと燃える嗜虐的な灯。これはそうとうヤバいやつでは?彼女は本能的に危険を悟った。ぎゅうっと目を瞑るナマエに覆いかぶさるようにローはソファに乗り上がった。そして、ナマエの髪をゆっくりと梳いてから両手で彼女の頬を優しく包む。意地悪そうな顔や目つきとは逆に、その手つきはいたく優しかった。恐る恐る目を開けると、かち合ったローの瞳は、幼少時代のように温かく穏やかなものだった。おかげで、ナマエの心拍数は跳ね、心臓が口から飛び出そうになった。ばくばくと煩い心臓をかきけすようにナマエは目を強く瞑った。如何せん彼女は恋愛に関して知識はあるが経験はないのである。気配でローが小さく笑ったのが分かった。そして、お互いの距離がゼロになろうとしたその瞬間だった。
ナマエの鞄の中から威圧感が凄く重い低音のアラームが鳴ったのである。邪魔をするなとばかりに顔を顰めて無機物を睨みつけたローと対照的に、ナマエは慌てふためいた。
「大家さんだ!」
「は?」
彼女はそう叫ぶなり、ローを押しのけて立ち上がった。咄嗟のことだったので、ローも簡単に押しのけられてナマエがソファから立ち上がるのを許してしまった。傷も完治したナマエは何不自由なく、鞄をひっつかむとそこから携帯電話を取り出して通話ボタンを押した。
「ちょっと待って大家さん、お家賃は来月払います!」
開幕からド修羅場だ。ローがじっと見ていると、電話の向こうからきんきんと響く中年の女の声が聞こえた。何を言っているかは聞き取れないが、相当怒っていることは確かだった。
「え、先月もそう言った?……言いましたけど、来月はぜった、ああ切らないで!!」
そして、ナマエの懇願など一切汲むことなく無情にも電話は途切れた。彼女の声に答えるのは、大家の声では無くただの機械音。
「どうした」
ナマエはがっくりと膝をついて動かない。聞かなくとも内容は察することができるが、とりあえずローは尋ねてみた。それに答える彼女は、まるでこの世の終わりのような顔をしていた。
「どうしよう。私、住む場所が無くなった……。今までのツケは払わなくていいから、もう明日には出てけって」
何せナマエの店は赤字経営である。それなのに、全方向に舐めた長期休暇。趣味への散財……じゃなかった、投資。彼女の懐事情は火の車どころか大車輪だ。ところが、彼女は変なところが図太くてアグレッシブなので、ボソリと呟いた。
「私自体はネカフェで何とかできるけど、ハルちゃんのグッズとかBlu-rayとかどうしよう。せっかく大きなテレビ買ったのに」
ツッコミたいことは山ほどあったが、一番はこれだ。ネカフェで生活する悪魔がどこにいる。
「頼むからネカフェはやめろ」
「ローの口からネカフェってちょっと面白いね?」
全くどうでも良いところを拾って茶化すナマエの頬をローは軽く抓った。それにナマエは「いひゃい、ごめん」と鳴き声をあげた。一応反省はしているようではあったので、ローは彼女の頬からそっと手を離してやった。絶妙な力加減で抓った為に抓られた箇所はとくに赤くもなっていないが、解放されたナマエは抓られた頬を軽く撫でた。気にはなるのである。
「そんなお前に良い物件がある」
「どこ?」
首を傾げるナマエにローは自室の床を指さした。
「ここだ。一部屋余ってる。店を出すスペースも貸してやる」
「え、ほんと?でも、お高いんでしょ」
どこぞの通販番組のように口元に手を当てて言うナマエにローは肩を落とした。この女は緊張感というものを母の腹に置いてきたに違いない。
「お前の態度次第では払わなくていい」
「あ、そういうの良いです。何か怖いんで普通にお金は払います」
真顔で答えるナマエにローは頬を引きつらせた。こういう時だけ冷静に物事を判断しやがって。家賃と場所代をふっかけてやろうか、この女。ローが睨みつけると、とりあえず笑っとけとでも言わんばかりに彼女はへらりと笑ってみせた。
「そんなんで誤魔化せると思うなよ」
彼女の素敵な笑顔は、氷点下の冷気を纏うローの言葉にピシっと固まった。
かくして紆余曲折を経た後に、彼女はローの洋館に転がり込んできた。それによってローの悲願は達成されたのである。
というのも、あれからナマエの顧客を二人ほど奪ったのに、普段ならすぐに怒鳴り込んでくる筈の彼女からは全く音沙汰が無いのだ。三人目を奪っても、ナマエは怒鳴り込んでこない。いくら何でも不思議に思ったローはナマエの店までやってきた。そして店先にかかっている札を見て口角を引きつらせた。
「長期休業?」
ふざけんな、あの女。急ぎの連絡先はこちら、と書いてあったので電話をしてみると、ローの番号は着信拒否されているらしく機械音声が無機質に答えてくれるだけだ。昨今の悪魔は人間の文明に対応できるよう電話も使いこなせるのである。あのナマエですらスマートフォンをそれなりに使いこなせる。そして、この暴挙だ。
店からは人の気配が感じられなかったし電話も繋がらないので、とりあえずローは自身の店に戻ることにした。超絶機嫌が悪い店長に触れるのはやめとこ……と戻って来た彼を目にした三人は、こっそりと店のバックヤードに引っ込んだ。そう、彼らは賢いのだ。
そんな三人に気を使わせているのを察したローは、自分から書斎に引っ込んだ。
いつからナマエは長期休業()を始めたのだろうか。机上に置いてあった銀色に鈍く輝く万年カレンダーを横目で確認したローはふと、思い当たった。ナマエの推しとやらの卒業公演の大千秋楽は明日だ。あれだけ楽しみにしていたのだ。彼女は絶対そこに現れる。そう確信した彼は、彼女が観るであろう舞台のスケジュールを文明の利器で確認した。あの女、絶対にとっ捕まえてやる。
☆
翌晩、ローは大劇場の入り口前でナマエを待ち伏せしていた。
舞台が終われば、余韻に浸りながら夢見心地の人間たちがどっと溢れてくる。その沢山の人間の中から、彼は容易くナマエを見つける自信があった。かくして人がまばらになってきた頃、ターゲットであるナマエがのこのこと出てきたのである。緩く髪を巻いて、濃紺のAラインのワンピースに高いヒールを履いた上品な装いだった。そんなにファッションに気を使っているナマエの姿など、ローは見たことがなかった。当然のように彼の機嫌は更に悪くなった。
御多分にも漏れずうっとりした表情のナマエはローと目が合うと、一瞬にしてその顔を引き締めた。そして、青褪めた彼女の顔は雄弁に語る。『ヤバい』と。
彼女はくるりと回れ右をして走り出そうとしたが、何もないところで躓いて転んでしまった。そんなに高いヒールなど履くからだ。地面にうつ伏せに倒れて動かないナマエの前まで歩き、しゃがみ込んだローは彼女のつむじに視線を合わせた。
「何か言うことは無ェか」
「……わざわざ舞台が終わるまで待ってくれたの?」
少しだけ顔を上げたナマエが上目遣いでそう言うので、ローは舌打ちをした。隠そうとしない露骨な苛立ちをぶつけられたナマエは物凄い勢いで目を泳がせたが、全くもって自業自得である。あからさまに動揺している彼女の様子に少し留飲の下がったローが手を差し伸べると、ナマエはおずおずとその手を取った。ローが重ねられた彼女の小さな手を握ろうとしたその瞬間だった。ぱしん、とナマエは彼の手を振り払ったのである。
「あ」
しまった、と言わんばかりに口をぽかんと開けて大層間抜けな顔をしたナマエは、手を振り払われて更に機嫌が急降下して冷気を纏っているローにたじろいた。ナマエとしては単純に恥ずかしかっただけなのだが、当然ローはそんなこと知る由も無いのだ。折角の善意で差し伸べた手を無下に払った女として認識されたに違いない。
「ちが、これは、」
自分で立てるし!と言わんばかりに勢いよく立ち上がったナマエは苦痛に顔を歪めた。先程転んだ拍子で彼女は両の膝を擦りむいたようだった。破れた黒いストッキングから覗く膝小僧は擦り傷ができており、その傷口は赤く滲んでいた。痛みで今度は蹲ろうとしたところ、ローはナマエの膝裏を掬うようにさっと抱き上げた。ナマエはすっかり忘れているようだが、ここは劇場の入り口前の大階段の下である。二人の男女が醸し出す修羅場の気配にちらほら視線を感じるので、彼は一刻も早くここから撤収したくなったのだ。
「ちょ、下ろして!自分で歩けます!!」
ナマエとしては物凄く意識をしている相手と密着状態なので気が気でない。しかし、残念なことにローはそんなこと一切気付いていない。長年の自分の行動の行いのツケがしっかりと回ってきているのである。それでもナマエは必死だった。下せと言わんばかりに暴れ出したのだ。そんな彼女を彼は低い声で脅した。
「落とすぞ」
「是非そうして!!」
ところが、ナマエの反応はおかしかった。寧ろそうしてくれ、と言い切った彼女にローは内心困惑した。何なんだこの女。しかし、そう言われては絶対に離したくなくなるのがローである。ナマエを押さえつけるように抱きながら、劇場の裏口に周って人目がなくなったところで彼はパッと転移した。行先は勿論、彼の店兼自宅である。
ナマエを抱えたローは一瞬で自分の店まで戻って来た。わーわー暴れるナマエを抱いて戻って来たローを一目見た三人は勢いよくバックヤードに引っ込む。我関せずを貫くためだ。おれ達何も聞いてないし見てないもん!!バックヤードは可哀想な彼らの駆け込み寺になっていた。
ローはそのまま住居エリアとなっている二階に上がった。そして、脱衣所を兼ねている洗面所で彼女を下ろすと開口一番言った。
「脱げ」
「な、なななんで」
シンプルな二文字にナマエは震え上がって挙動不審になった。完全にバグっている彼女を見下ろしたローは半眼で溜息を吐く。
「お前、何勘違いしてるんだよ。それさっさと脱いで傷口洗ってこい」
「あ、あーーー、それね、そうそう、分かってた」
ズタボロになったストッキングを指さすローを誤魔化すように愛想笑いを浮かべ、ナマエはぽんっと軽く両手を叩いてみせた。ところが、一切誤魔化せていないのが現実である。慌てふためいているナマエの反応にローの嗜虐的な部分の根っこが疼いた。
「それとも、おれがやってやろうか」
「間に合ってます!」
これはやるって言ったら絶対にやる顔だ!ナマエは脱衣所からローを締め出すと、破れたストッキングを脱いだ。上質で高いものを買ったのに、破れるときは一瞬。なんという無情。しょんぼりしながら、ストッキングをダストボックスに突っ込んだナマエは、シャワーで膝のすり傷を洗い流した。水が傷に沁みるので涙目になりながら彼女は思った。こんな掠り傷、普通の悪魔なら一瞬で治るのに、何故自分の治癒力は人間と同等かそれ以下なのだ。解せぬ。
シャワー室を出たナマエは予めローに渡されていたタオルで軽く足を拭く。それから洗面所のドアをほんの少しだけ開けてその隙間をこっそりと伺うと、案の定ローが壁にもたれ掛かって彼女を待っていた。怒ってはいなさそうだ。しかし、捉えようによっては嵐の前の静けさとも言える。ナマエはおっかなびっくりローの元まで向かった。傷が痛むので不格好な歩き方をしていると、再び彼女はひょいっと抱き上げられた。これ、ちょっと過保護すぎやしませんかね。とはいえ、もう抵抗する気力も無かったしここまで来たところで抵抗しても無意味なので彼女は大人しく運ばれることにした。
ローは彼女を抱いたまま器用に自室のドアを開けると、彼女をソファの上に落とす。ダークグレーの大きめのカジュアルソファは彼女の身体を優しく受け止めてくれた。ナマエがぽすんとソファに収まったのを見ると、ローは「ほら、脚見せろ」とナマエの膝裏に手を入れた。ところが、急に素肌を触られたことによって過剰反応を起こしたナマエは脚を振り上げてしまった。結果、彼女の膝がローの顎にクリーンヒットしたのである。
「あ……、あの、ごめんなさい」
流石にまずいとナマエは青褪めながら両手で口を覆ったが、ローは俯いたまま動かない。逆にそれが物凄く怖かった。ナマエは冷や汗をだらだらと流しながら彼の動向を待った。彼女が生きた心地もせずにローを見守っていると、彼は蹴られた顎を押さえながらゆっくりと顔を上げた。その間が永遠のように長く感じたナマエだった。
「お前、さっきから何なんだ」
吐き出された声音に呆れは含まれているものの、怒りは含まれてなさそうだ。ナマエはほっと安堵したが、それも束の間のこと。ローの鋭い眼光が彼女に理由を問いただしている。それをひしひしと感じたナマエは絶体絶命だった。ドアに向かって逃げ出すための退路はローに塞がれている。これは絶対に逃げられないやつ。潔く諦めた彼女は腹をくくった。
「だって、ローって男の人じゃない」
「今更随分なご挨拶だな」
深い深い溜息と共に吐かれたその台詞はご最も。消えてしまいたくなったナマエは俯いた。彼女は膝上に置いた両の拳をぎゅっと握り、ボソボソと小さな声で話を続けた。
「だから、なんか、こう、恥ずかしくて」
「……まさかそれが長期休業の理由じゃねェよな?」
ローの問いにナマエは答えない。彼女は俯いたまま目線を下に落としてずっと黙っている。この沈黙は確実に肯定のそれである。
こいつ、ひょっとしておれのこと意識してるのか?そう考えれば、今までの彼女の奇行も納得がいく。とはいえ、先程の彼女の口から出てきた言葉で今までローが“男だと思われていなかった”ということが確定したので、彼は複雑な気持ちになった。
「だっておかしいでしょ。私とローは“友達”じゃない」
彼の気持ちなど知らないナマエは、尚も自分の恋心を殺して彼と友人でいようとした。だって、ローには好きな人がいるのだ。無くしていた恋愛感情が戻ってきてしまった今、ナマエにはそうすることでしか彼と一緒にいる術が思い浮かばなかったのだ。ナマエはローに“恋人”としては選ばれない。なら、せめて。
「ねぇ、私とローって友達だよね?」
「違う。おれはお前のこと、そう思ったことは一度も無ェ」
消え入るような声で同意を求めるナマエの仄かな期待を裏切るように、ローは静かにそれを否定した。それを聞いたナマエは何も言わない。ただ、俯いたままだ。しかし、よく見ると小さく震えているように見えた。不審に思ったローが彼女の両肩を掴んで顔を上げさせると、ナマエは大きな瞳からぼとぼとと大粒の涙を零していたのである。それには流石のローもぎょっとした。
「じゃあ、私、もう貴方と一緒にいられない」
「何でだ」
「だって、ローには好きな人がいるんでしょう!」
ナマエは一人で盛り上がっているようだが、ローは逆に冷静になっていった。段々とナマエが何を考えているのか分かってきてしまったからだ。
「友達として傍にいさせてくれないなら、」
「いいから、落ち着け。それからよく聞け」
苦々しいローの声にナマエは両手で両耳を塞ぐとぶんぶんと首を横に振ってみせた。前から思っていたが、変なところで強情な女である。
「聞け」
ローはナマエの両手を耳から無理やり引き剥がすと、彼女の目を自身のそれで射抜いた。
「おれはお前のことがずっと好きだ」
「へ?」
言い聞かせるように想いを伝えるローに、ナマエはぱちくりと目を瞬かせた。それから呆然とした様子で口を開く。
「それは友人として?」
「この流れでそれを聞くか」
この鳥頭が。さっき、友達とは思っていないと言ったのに。先程のローの発言を今になって思い出したらしいナマエはハッとして、それからその顔がどんどんと真っ赤に染まっていく。それはもう面白いくらいに。彼女の涙はとうに引っ込んでしまっていた。
「お前は?」
確信を持ってただ一つの答えを待つローに、ナマエはぽつりと答えた。相も変わらず彼女の顔は熟れた林檎のようだった。
「……すき」
「友人としてか?」
「この流れでそれを聞くの?」
お前が言い出したんだろと視線でそう告げると、そうだった、とナマエはへにゃりと笑った。それからそっとローの両頬を包んで顔を近づけると唇に触れるだけのキスをした。
「こういうことがしたい好き」
内緒話をするような甘い声のナマエにローは一瞬真顔になった。へへっと少女のように微笑むこの女を滅茶苦茶にしたくなったのだ。しかし、彼が行動を移す前にナマエが口を開くのが早かった。
「ロー、怒らないで聞いてくれる?」
隠し事をするのはフェアでは無いと思ったナマエは全て洗いざらい彼に告白しようと思ったのだ。
「ローにあげたガラスドームあるでしょ。この前私が割ったやつ」
「お前、思い出したのか?」
静かに尋ねるローに彼女はこくりと頷いた。
「あれね、実は凄い悪魔から貰ったものなの」
おずおずと言葉を紡ぐナマエにローは嫌な予感しかしなかった。そしてそれは絶対に違えることはないという妙な自信が彼にはあった。だから、視線で言葉を促した。
「それを渡した人と自分が望んだ関係になれるって言われたの」
伏し目がちのナマエに、彼女がやたらと“友達”に拘っていた謎が解けたローだったが、彼はそのまま頭を抱えたくなった。深くなる眉間の皺を揉みながら、彼は彼女に確認をした。
「で、お前はおれとダチでいようと思ったわけか」
「ローのこと好きだったけど、アイテムで心を手に入れるのは違うと思ったの。だったらずっと友達でいられたらなって」
ナマエの告白にローは今度こそ頭を抱えた。彼女は悪魔の癖に、そういうところがダメダメなのである。もっと利己的に生きろよと思わなくもないが、ローもアイテムに頼ろうとはしてこなかったので何も言えない。だから彼には彼女を責めることができなかった。しかし、苦々しい声で“全ての元凶”について問うことは忘れなかった。
「ちなみにそいつ、どんな悪魔だった?」
「サングラスしててピンクのモコモコで大きかった」
「……あの野郎」
「知ってるの?」
目を瞬かせるナマエにローは「知らねェ」と憮然と返した。いや、どう考えても知ってるでしょ。とはこの場面で強気に出ることはできなかったので、ナマエは聞かなかったことにした。少しだけ居心地が悪くなったので、もぞもぞと座り直そうとしたナマエが脚を曲げたときだ。
「痛ッ」
そういえばナマエは膝を怪我していたのだった。色々ありすぎたのですっかり忘れていた。
「脚見せろ、治してやるから」
ローは床に膝を付いてナマエの膝裏に手を入れると、彼女の脚をゆっくりと持ち上げた。そして血の乾いた傷口に軽く口付けを落とすと、当のナマエは今更恥ずかしくなったのか両の手で自身の顔を覆った。今までのされたい放題でケロリとしていた彼女と異なった反応が面白くなったローは、試しにナマエの脹脛をゆっくりと撫で上げてみた。小さな悲鳴を上げて驚いた彼女は、慌てて脚をローの手から抜く為に動かそうとした。そうはさせるか。逃がさないとばかりにローは彼女の細い足首を掴んでそれを阻止した。それからぐっと舌先で傷口を押してやった。急に与えられたぴりっとした痛みにナマエは身体をびくりと震わせることしかできなかった。ぺろりと傷口に舌を這わせれば、すぐにそれは閉じていき、元通りの滑らかな肌になった。こんな掠り傷、あっという間に治せるのである。片足が治れば、今度は反対の膝に優しく口付けた。反対側の膝の傷もたちまち消えてしまった。にも関わらず、ローは何度も彼女の脚に口付けた。彼女の脚を持ち上げて、傷口とは全く関係のないところにキスをしては、無骨な指先が脚の輪郭をなぞる。それに耐え切れなくなったナマエはとうとう叫んだ。
「ねぇ、今までのってこんなにヤらしかった?!」
「いや、いつもはこんなんじゃねェな」
「だったらいつも通りやってください」
平然と答えてみせるローに、確信犯かよ!完全に茹った顔のナマエは涙目になった。目を細めて、慌てふためくナマエをその視界に収めたローの口角が意地悪く吊り上がる。
彼の瞳に映る怯えた自分。彼の瞳の奥にちろりと燃える嗜虐的な灯。これはそうとうヤバいやつでは?彼女は本能的に危険を悟った。ぎゅうっと目を瞑るナマエに覆いかぶさるようにローはソファに乗り上がった。そして、ナマエの髪をゆっくりと梳いてから両手で彼女の頬を優しく包む。意地悪そうな顔や目つきとは逆に、その手つきはいたく優しかった。恐る恐る目を開けると、かち合ったローの瞳は、幼少時代のように温かく穏やかなものだった。おかげで、ナマエの心拍数は跳ね、心臓が口から飛び出そうになった。ばくばくと煩い心臓をかきけすようにナマエは目を強く瞑った。如何せん彼女は恋愛に関して知識はあるが経験はないのである。気配でローが小さく笑ったのが分かった。そして、お互いの距離がゼロになろうとしたその瞬間だった。
ナマエの鞄の中から威圧感が凄く重い低音のアラームが鳴ったのである。邪魔をするなとばかりに顔を顰めて無機物を睨みつけたローと対照的に、ナマエは慌てふためいた。
「大家さんだ!」
「は?」
彼女はそう叫ぶなり、ローを押しのけて立ち上がった。咄嗟のことだったので、ローも簡単に押しのけられてナマエがソファから立ち上がるのを許してしまった。傷も完治したナマエは何不自由なく、鞄をひっつかむとそこから携帯電話を取り出して通話ボタンを押した。
「ちょっと待って大家さん、お家賃は来月払います!」
開幕からド修羅場だ。ローがじっと見ていると、電話の向こうからきんきんと響く中年の女の声が聞こえた。何を言っているかは聞き取れないが、相当怒っていることは確かだった。
「え、先月もそう言った?……言いましたけど、来月はぜった、ああ切らないで!!」
そして、ナマエの懇願など一切汲むことなく無情にも電話は途切れた。彼女の声に答えるのは、大家の声では無くただの機械音。
「どうした」
ナマエはがっくりと膝をついて動かない。聞かなくとも内容は察することができるが、とりあえずローは尋ねてみた。それに答える彼女は、まるでこの世の終わりのような顔をしていた。
「どうしよう。私、住む場所が無くなった……。今までのツケは払わなくていいから、もう明日には出てけって」
何せナマエの店は赤字経営である。それなのに、全方向に舐めた長期休暇。趣味への散財……じゃなかった、投資。彼女の懐事情は火の車どころか大車輪だ。ところが、彼女は変なところが図太くてアグレッシブなので、ボソリと呟いた。
「私自体はネカフェで何とかできるけど、ハルちゃんのグッズとかBlu-rayとかどうしよう。せっかく大きなテレビ買ったのに」
ツッコミたいことは山ほどあったが、一番はこれだ。ネカフェで生活する悪魔がどこにいる。
「頼むからネカフェはやめろ」
「ローの口からネカフェってちょっと面白いね?」
全くどうでも良いところを拾って茶化すナマエの頬をローは軽く抓った。それにナマエは「いひゃい、ごめん」と鳴き声をあげた。一応反省はしているようではあったので、ローは彼女の頬からそっと手を離してやった。絶妙な力加減で抓った為に抓られた箇所はとくに赤くもなっていないが、解放されたナマエは抓られた頬を軽く撫でた。気にはなるのである。
「そんなお前に良い物件がある」
「どこ?」
首を傾げるナマエにローは自室の床を指さした。
「ここだ。一部屋余ってる。店を出すスペースも貸してやる」
「え、ほんと?でも、お高いんでしょ」
どこぞの通販番組のように口元に手を当てて言うナマエにローは肩を落とした。この女は緊張感というものを母の腹に置いてきたに違いない。
「お前の態度次第では払わなくていい」
「あ、そういうの良いです。何か怖いんで普通にお金は払います」
真顔で答えるナマエにローは頬を引きつらせた。こういう時だけ冷静に物事を判断しやがって。家賃と場所代をふっかけてやろうか、この女。ローが睨みつけると、とりあえず笑っとけとでも言わんばかりに彼女はへらりと笑ってみせた。
「そんなんで誤魔化せると思うなよ」
彼女の素敵な笑顔は、氷点下の冷気を纏うローの言葉にピシっと固まった。
かくして紆余曲折を経た後に、彼女はローの洋館に転がり込んできた。それによってローの悲願は達成されたのである。