箱庭オペレッタ
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ナマエは混乱していた。
ローはローで、彼女の良き友人。そうだった、そうだった筈なのに。
あの後、ナミは興奮してナマエの両肩をがっしりと掴んでがくがくと揺さぶってはロビンに窘められていた。
「あんた、男嫌いなんじゃなかったの!?」
「うん、そうなんだけど……、そうなんだけど」
そう零してナマエはぽんっと消えた。家に逃げ帰ることにしたのだ。ナマエの家は2LDKで、玄関から入ってすぐの部屋が店用のスペースになっている。そこを素通りして自室に駆け込んだナマエは、一目散に布団に潜ると一眠りして全てを忘れようとした。しかし、今は真っ昼間だ。寝る時間では無いので当然のように眠くならない。
よし、眠くならないなら眠くなることをしよう。ナマエは枕元に転がっているポシェットの中から赤い革の手帳を出した。そしてパラパラと捲っていく。顧客名簿には、彼女達がどのような商品を望んだのかもメモを取っている。その傾向で次に仕入れる商品の傾向を決めるつもりだった。所謂マーケティングというやつだ。ところが、ナマエはこの作業がとっても苦手だった。考えるのが苦手な彼女は、これをやっていると自然と眠くなるのである。
うんうんと唸りながら顧客リストを眺めていると、ふと顧客の一人の名前がまた新しく赤字で消されているのに気付いた。
一度悪魔の店に来店することができた人間は、悪魔と契約することによって何度でも店に行き来することができる。その契約者がこのリストに載っている訳だが、不要になれば契約を破棄をされることもある。契約が破棄されると、ナマエの手帳はその顧客の名前が赤字で消される仕組みになっていた。
こんなことをするのは一人しかいない。ナマエは飛び起きると、自分の置かれている状況をすっかり忘れて家を出て行った。これはもう、彼女の中では完全に条件反射になっているのである。
「ちょっとロー!貴方、また私のお客様を……」
例によって例の如くローの店に怒鳴り込むと、丁度彼が商談室から出てきたところだった。その瞳と視線がばっちりとかち合ったナマエは言葉を詰まらせた。それから、とても不自然な流れでくるっと背を向けてローの店を出て行った。来店時間僅か3秒。顔を真っ赤にして彼女は逃げたのだ。ローの困惑した声が後ろで聞こえたが彼女はそれを振り切って逃げた。
家に逃げ帰って来たナマエは再びベッドに飛び込んで布団を被った。
心臓がばくばくと煩いのは、勢いよく動いたからだ。そうじゃないと困る。困るのに。
「私の馬鹿、信じられない……」
ナマエの頭を占めるのはローのことばかりだ。彼女は何度も自問自答した。
どうして私はこの人のことを今まで男だと認識していなかったの?
見上げるほど高い身長も、広い背中も、大きながっしりした掌も、落ち着いた声音も、全て男の人のものだ。今となっては全く理解できなかった。ナマエは熱くなった両頬を押さえながら考えて考えて、そうして思い出したのだ。
自分が彼のことを“性別なんか関係ないただの友人”だと思うようになった、全ての原因の日のことを。
彼女がローのことをただの友達と思い込み、性別を認識していなかったのには訳があった。
幼少期、彼女は自分を苛めてくる男の子達のことは大嫌いだった。しかし、友人であるトラファルガー・ローのことは好きであった。彼は年の近い男の子達と違って落ち着いていてナマエを苛めないし、寧ろぶっきらぼうで素っ気ないが優しくしてくれた。ナマエは当然のようにローのことを好きになった。LIKEでは無くLOVEの方だ。幼少期のナマエはローの隣ではのびのびとすることができたから、彼と一緒にいることが多かった。
それが、他の男子には面白くなかったに違いない。
ローが家の事情で都会にある親戚の家に行き、数日間だけいなくなったときのことだ。その隙を見計らって、彼女のことを苛める主犯格の少年がやってきた。彼はニヤニヤと意地悪く笑っていた。大抵彼がこの表情を浮かべているときは酷いことをしてくるのでナマエは口をぎゅっと結んで精一杯怖い顔を作って彼を睨みつけた。ちなみに彼女のなけなしの威嚇は少年たちを余計に煽るのだが、彼女はそんなことは知る由も無かった。
「お前、トラファルガーのことが好きなんだろ」少年が放った言葉はいつものように彼女を傷付ける言葉ではなかった。しかし、酷い言葉を言われるよりもそれは彼女に効果があった。目に見えて動揺するナマエに少年は嗜虐的な視線を向けた。そして、恐ろしいことを言ったのだ。
「お前みたいなちんちくりん、トラファルガーが相手にするわけないだろ」
「違う、そんなことないもん」
「違わねェよ。お前みたいなトロいやつ、トラファルガーだって迷惑してる筈だ」
「嘘。ローはそう思ったなら私と一緒にいてくれない」
いつも何か言えば半泣きになって逃げていく癖に、このときばかりは目を逸らさずに言い返してくるナマエに少年は腹が立った。何せ、彼は気付いていないだけでナマエのことが好きなのである。
「そう言ってられるのも今の内だぞ。都会に行ったんだ、きっとお前とは違って可愛い子がいっぱいいるに決まってる。そしたらお前なんかポイだ!」
そう言われてナマエは言葉に詰まった。彼女は自分が鈍くさくて、田舎っぽさが前面に出ていることを自覚していた。都会の洗練された女の子に比べたら、自分はこの少年の言う通り「ちんちくりん」も良いところだ。空想上の少女がローと一緒にいる様を想像して、とても悲しくなった。彼女は想像力が豊かだったので、その様がハッキリと目に浮かんでしまったのだ。
結局、ナマエはぼたぼたと大粒の涙を零しながら走って逃げることしかできなかった。
だって、都会には可愛い子沢山いるのは間違いないし、ローはとても素敵な男の子なのできっと皆彼のことを好きになるに違いない。その中から自分が選ばれる自信など到底ナマエには無かったのだ。
逃げてきたナマエは、河原で体育座りをしながら打ちひしがれていた。河原の石をぽちゃん、ぽちゃんと川に投げ込むという全く生産的ではないことをしていると、不意に彼女の隣に誰かがどさっと座った。気配が全く無かったのでびっくりして視線を向けると、大きな男がナマエの顔を覗き込んでいた。
浮かべているのは笑顔だが、サングラスをの奥の瞳は全く読み取れないから心の底から笑っているのかは分からない。桃色のフワフワした羽のような上着は彼の姿をより大きく見せていた。呑気なナマエでも分かる。この男は自分より遥か彼方、いや自分と比べるのなんておこがましい程に上級の悪魔であると。ナマエは本能で感じた恐怖で動けなくなった。
「フフフフ、まァそんなに警戒しなくても何もしねェよ」
男は歯を見せて笑った。彼は何故だかいたく上機嫌だった。男が纏う楽しそうな雰囲気に、とりあえず酷いことはされなさそうだと判断したナマエは肩の力を抜くことにした。
「嬢ちゃん、何か悩んでるだろう」
確信を持って言う男の言葉に、ナマエの口は自然と開いた。上級の悪魔に従おうとする下級の悪魔の本能なのかは分からないが“喋らない”という選択肢が彼女には無かった。それに、この男の前では隠し事などできそうに無い。
「あのね、好きな人がいるんだけど」
「ほう、恋愛絡みか」
意外にも男は真面目に聞いてくれるようだった。
「凄く素敵な人だから、きっと皆ローのこと好きになっちゃう。多分私はローにとって手のかかる友達としか思われてないからきっとその子達と同じ場所には立てないし、選ばれる自信もない」
途中から固有名詞が出ているのだが、男はそれについては触れずに静かに聞いてくれた。子供が何を色気づいたことを言ってるんだ、と呆れることもなかった。思ったよりも優しい悪魔なのかもしれない。ナマエは俯いていたので男がどのような顔をして聞いているのか分からなかった。だから、そっと顔を上げて彼の様子を盗み見てみた。彼女の目に映った男は、何やらごそごそと自身の桃色のコートを漁っていた。何が出てくるというのだ。ナマエは少しだけ身構えた。
「そんな嬢ちゃんに良いものがある」
首を傾げるナマエに、男はそう言って自身の桃色のコートから掌大のガラスドームを取り出した。そして彼女の小さな手を取ると、そっとそれを握らせる。
「これはなあに?」
「“エラトの薔薇”だ。このガラスドームを渡せば、渡した相手と嬢ちゃんは、嬢ちゃんが“望んだ関係”になれる」
じっと掌のそれを見つめると、小さなガラスドームの中には深紅の薔薇が華やかな花弁を開いている。その鮮烈な紅がナマエの瞳を惹きつけた。流石のナマエにも、一目でこの品物が上級の物だということが分かった。纏う空気が全く違うのだ。
「渡したらそのことはすっかり忘れちまうけどな。それから、その花が枯れたら効果は無くなる。くれぐれも割らないようにな」
ご丁寧に使い方や注意点まで教えてくれる男にナマエは純粋に疑問を覚えた。
「何でここまでしてくれるの?」
「偶々目に付いたからただの気紛れだ」
悪魔にとって何よりも説得力のある理由が“気紛れ”である。だったら本当に気紛れなのだろう。ナマエはぎゅっとガラスドームを握りしめ、頭を下げてお礼を述べた。悪魔は満足そうに口角を歪めている。まるで、“良いことをしました”とでも言わんばかりに。
「……あの、お代は?」
「いらねェ。なんて言ったってサービスだからな」
フッフッフと不敵に笑って男は消えた。最後に男が言っていたことはよく分からなかったのだが、それを尋ねる前に彼は姿を消してしまった。そして、河原には薔薇の花が入ったガラスドームを手に握ったナマエだけが取り残された。
☆
その翌日、ローは帰って来た。ローを出迎えたナマエのポケットには件の悪魔から貰ったガラスドームが入っている。彼女はそれをどうすべきか一晩悩んだが、答えは全く出なかった。だから、とりあえず持っておくことにしたのだ。
「ホラ、土産だ」
「ありがとう」
ぽいっと放るように投げられたのは、ビー玉のように綺麗な飴玉だった。わぁ、と目を輝かせてたナマエがふとローの方を見ると、彼のその瞳に灯った色はとても温かなものだった。ナマエはふとしたときに垣間見れるローのその目が好きだった。だから、彼女はその優しい瞳が見られなくなってしまうのは耐えられなかったのだ。
「……都会って、可愛い子いっぱいいる?」
「は?お前何言ってんだよ」
唐突に言い出したナマエの言葉に、意味が分からないとばかりにローは怪訝な顔をした。彼女を見つめる彼の視線も何かを疑うようにじっとりとしているので、ナマエは焦った。一丁前に嫉妬をしているのだとバレたら面倒くさい女だと思われてしまうに違いない。何かローの気を逸らすものは無いか、とナマエは考えてそれができるものに一つだけ思い当たった。そして彼女は、ポケットから例の悪魔に貰ったガラスドームを取り出したのだ。
「あのね、いつもありがとう。代わりにこれあげる」
ローは花なんか貰っても全然嬉しくはないのだが、ナマエから貰えたということが満更でも無かった。だから彼はそれを受け取って素直に礼を言った。しかし、ナマエはその後おかしなことを言ったのだ。
「私達、友達だよね」
このとき、ナマエは彼と恋人になることを望めばよかったのに、彼女にはそれができなかった。彼の心を魔術で手に入れるのはとても悲しく虚しいことだ思ったからだ。だから、彼女は願ったのだ。恋人になれなくても、友人として彼の隣にいられればいい。それならば、この恋心はいらない。
ところが、あの上級悪魔がナマエに渡した品物の威力は物凄かった。ナマエは、ロー以外の人物を好きになるつもりはなかったし、なりたくなかった。その強い想いが絡み合って、彼女は“恋愛感情”そのものを失ったのである。
☆
全てを思い出したナマエは、居た堪れなさを振り切るようにベッドの上でコロコロと転がった。そして、そのままベッドから転がり落ちた。「痛い!」思わず悲鳴を上げたが、もっと痛いのは過去の自分だ。
悪魔から貰った品物を使っていたなんてローにバレたら恥ずかしさで消えてしまいたくなる。フローリングの床を更に転がりながら、ナマエはもう半泣きだった。
「……どうしよう」
自分にかけていた魔術は解けた。しっぺ返しのように帰ってきたのは、ナマエが今まで封じ込めていた恋心と無くした筈の恋愛感情。
“恋愛対象”としてローのことを意識してしまった今、彼女は彼にどんな顔をして会えば良いのか分からなかった。寧ろ、会話できるかすらも定かではない。
先程みたいに挙動不審になって逃げかえるのがオチだ。それが続けばきっとローだって不審に思う。そして、ナマエに理由を問いただすに違いない。そうなってしまえば、口で彼に勝てたことがないナマエはあれよあれよという間に全てを白状させられるに決まっている。
だから、彼女はとりあえず逃げることにした。少し旅に出て自分を見直そう。名実ともに現実逃避である。そうと決まれば行動あるのみ。ナマエはさっと身支度をすると、彼女の店のドアに「長期休業中」の札をかけ、外に飛び出したのだった。
ローはローで、彼女の良き友人。そうだった、そうだった筈なのに。
あの後、ナミは興奮してナマエの両肩をがっしりと掴んでがくがくと揺さぶってはロビンに窘められていた。
「あんた、男嫌いなんじゃなかったの!?」
「うん、そうなんだけど……、そうなんだけど」
そう零してナマエはぽんっと消えた。家に逃げ帰ることにしたのだ。ナマエの家は2LDKで、玄関から入ってすぐの部屋が店用のスペースになっている。そこを素通りして自室に駆け込んだナマエは、一目散に布団に潜ると一眠りして全てを忘れようとした。しかし、今は真っ昼間だ。寝る時間では無いので当然のように眠くならない。
よし、眠くならないなら眠くなることをしよう。ナマエは枕元に転がっているポシェットの中から赤い革の手帳を出した。そしてパラパラと捲っていく。顧客名簿には、彼女達がどのような商品を望んだのかもメモを取っている。その傾向で次に仕入れる商品の傾向を決めるつもりだった。所謂マーケティングというやつだ。ところが、ナマエはこの作業がとっても苦手だった。考えるのが苦手な彼女は、これをやっていると自然と眠くなるのである。
うんうんと唸りながら顧客リストを眺めていると、ふと顧客の一人の名前がまた新しく赤字で消されているのに気付いた。
一度悪魔の店に来店することができた人間は、悪魔と契約することによって何度でも店に行き来することができる。その契約者がこのリストに載っている訳だが、不要になれば契約を破棄をされることもある。契約が破棄されると、ナマエの手帳はその顧客の名前が赤字で消される仕組みになっていた。
こんなことをするのは一人しかいない。ナマエは飛び起きると、自分の置かれている状況をすっかり忘れて家を出て行った。これはもう、彼女の中では完全に条件反射になっているのである。
「ちょっとロー!貴方、また私のお客様を……」
例によって例の如くローの店に怒鳴り込むと、丁度彼が商談室から出てきたところだった。その瞳と視線がばっちりとかち合ったナマエは言葉を詰まらせた。それから、とても不自然な流れでくるっと背を向けてローの店を出て行った。来店時間僅か3秒。顔を真っ赤にして彼女は逃げたのだ。ローの困惑した声が後ろで聞こえたが彼女はそれを振り切って逃げた。
家に逃げ帰って来たナマエは再びベッドに飛び込んで布団を被った。
心臓がばくばくと煩いのは、勢いよく動いたからだ。そうじゃないと困る。困るのに。
「私の馬鹿、信じられない……」
ナマエの頭を占めるのはローのことばかりだ。彼女は何度も自問自答した。
どうして私はこの人のことを今まで男だと認識していなかったの?
見上げるほど高い身長も、広い背中も、大きながっしりした掌も、落ち着いた声音も、全て男の人のものだ。今となっては全く理解できなかった。ナマエは熱くなった両頬を押さえながら考えて考えて、そうして思い出したのだ。
自分が彼のことを“性別なんか関係ないただの友人”だと思うようになった、全ての原因の日のことを。
彼女がローのことをただの友達と思い込み、性別を認識していなかったのには訳があった。
幼少期、彼女は自分を苛めてくる男の子達のことは大嫌いだった。しかし、友人であるトラファルガー・ローのことは好きであった。彼は年の近い男の子達と違って落ち着いていてナマエを苛めないし、寧ろぶっきらぼうで素っ気ないが優しくしてくれた。ナマエは当然のようにローのことを好きになった。LIKEでは無くLOVEの方だ。幼少期のナマエはローの隣ではのびのびとすることができたから、彼と一緒にいることが多かった。
それが、他の男子には面白くなかったに違いない。
ローが家の事情で都会にある親戚の家に行き、数日間だけいなくなったときのことだ。その隙を見計らって、彼女のことを苛める主犯格の少年がやってきた。彼はニヤニヤと意地悪く笑っていた。大抵彼がこの表情を浮かべているときは酷いことをしてくるのでナマエは口をぎゅっと結んで精一杯怖い顔を作って彼を睨みつけた。ちなみに彼女のなけなしの威嚇は少年たちを余計に煽るのだが、彼女はそんなことは知る由も無かった。
「お前、トラファルガーのことが好きなんだろ」少年が放った言葉はいつものように彼女を傷付ける言葉ではなかった。しかし、酷い言葉を言われるよりもそれは彼女に効果があった。目に見えて動揺するナマエに少年は嗜虐的な視線を向けた。そして、恐ろしいことを言ったのだ。
「お前みたいなちんちくりん、トラファルガーが相手にするわけないだろ」
「違う、そんなことないもん」
「違わねェよ。お前みたいなトロいやつ、トラファルガーだって迷惑してる筈だ」
「嘘。ローはそう思ったなら私と一緒にいてくれない」
いつも何か言えば半泣きになって逃げていく癖に、このときばかりは目を逸らさずに言い返してくるナマエに少年は腹が立った。何せ、彼は気付いていないだけでナマエのことが好きなのである。
「そう言ってられるのも今の内だぞ。都会に行ったんだ、きっとお前とは違って可愛い子がいっぱいいるに決まってる。そしたらお前なんかポイだ!」
そう言われてナマエは言葉に詰まった。彼女は自分が鈍くさくて、田舎っぽさが前面に出ていることを自覚していた。都会の洗練された女の子に比べたら、自分はこの少年の言う通り「ちんちくりん」も良いところだ。空想上の少女がローと一緒にいる様を想像して、とても悲しくなった。彼女は想像力が豊かだったので、その様がハッキリと目に浮かんでしまったのだ。
結局、ナマエはぼたぼたと大粒の涙を零しながら走って逃げることしかできなかった。
だって、都会には可愛い子沢山いるのは間違いないし、ローはとても素敵な男の子なのできっと皆彼のことを好きになるに違いない。その中から自分が選ばれる自信など到底ナマエには無かったのだ。
逃げてきたナマエは、河原で体育座りをしながら打ちひしがれていた。河原の石をぽちゃん、ぽちゃんと川に投げ込むという全く生産的ではないことをしていると、不意に彼女の隣に誰かがどさっと座った。気配が全く無かったのでびっくりして視線を向けると、大きな男がナマエの顔を覗き込んでいた。
浮かべているのは笑顔だが、サングラスをの奥の瞳は全く読み取れないから心の底から笑っているのかは分からない。桃色のフワフワした羽のような上着は彼の姿をより大きく見せていた。呑気なナマエでも分かる。この男は自分より遥か彼方、いや自分と比べるのなんておこがましい程に上級の悪魔であると。ナマエは本能で感じた恐怖で動けなくなった。
「フフフフ、まァそんなに警戒しなくても何もしねェよ」
男は歯を見せて笑った。彼は何故だかいたく上機嫌だった。男が纏う楽しそうな雰囲気に、とりあえず酷いことはされなさそうだと判断したナマエは肩の力を抜くことにした。
「嬢ちゃん、何か悩んでるだろう」
確信を持って言う男の言葉に、ナマエの口は自然と開いた。上級の悪魔に従おうとする下級の悪魔の本能なのかは分からないが“喋らない”という選択肢が彼女には無かった。それに、この男の前では隠し事などできそうに無い。
「あのね、好きな人がいるんだけど」
「ほう、恋愛絡みか」
意外にも男は真面目に聞いてくれるようだった。
「凄く素敵な人だから、きっと皆ローのこと好きになっちゃう。多分私はローにとって手のかかる友達としか思われてないからきっとその子達と同じ場所には立てないし、選ばれる自信もない」
途中から固有名詞が出ているのだが、男はそれについては触れずに静かに聞いてくれた。子供が何を色気づいたことを言ってるんだ、と呆れることもなかった。思ったよりも優しい悪魔なのかもしれない。ナマエは俯いていたので男がどのような顔をして聞いているのか分からなかった。だから、そっと顔を上げて彼の様子を盗み見てみた。彼女の目に映った男は、何やらごそごそと自身の桃色のコートを漁っていた。何が出てくるというのだ。ナマエは少しだけ身構えた。
「そんな嬢ちゃんに良いものがある」
首を傾げるナマエに、男はそう言って自身の桃色のコートから掌大のガラスドームを取り出した。そして彼女の小さな手を取ると、そっとそれを握らせる。
「これはなあに?」
「“エラトの薔薇”だ。このガラスドームを渡せば、渡した相手と嬢ちゃんは、嬢ちゃんが“望んだ関係”になれる」
じっと掌のそれを見つめると、小さなガラスドームの中には深紅の薔薇が華やかな花弁を開いている。その鮮烈な紅がナマエの瞳を惹きつけた。流石のナマエにも、一目でこの品物が上級の物だということが分かった。纏う空気が全く違うのだ。
「渡したらそのことはすっかり忘れちまうけどな。それから、その花が枯れたら効果は無くなる。くれぐれも割らないようにな」
ご丁寧に使い方や注意点まで教えてくれる男にナマエは純粋に疑問を覚えた。
「何でここまでしてくれるの?」
「偶々目に付いたからただの気紛れだ」
悪魔にとって何よりも説得力のある理由が“気紛れ”である。だったら本当に気紛れなのだろう。ナマエはぎゅっとガラスドームを握りしめ、頭を下げてお礼を述べた。悪魔は満足そうに口角を歪めている。まるで、“良いことをしました”とでも言わんばかりに。
「……あの、お代は?」
「いらねェ。なんて言ったってサービスだからな」
フッフッフと不敵に笑って男は消えた。最後に男が言っていたことはよく分からなかったのだが、それを尋ねる前に彼は姿を消してしまった。そして、河原には薔薇の花が入ったガラスドームを手に握ったナマエだけが取り残された。
☆
その翌日、ローは帰って来た。ローを出迎えたナマエのポケットには件の悪魔から貰ったガラスドームが入っている。彼女はそれをどうすべきか一晩悩んだが、答えは全く出なかった。だから、とりあえず持っておくことにしたのだ。
「ホラ、土産だ」
「ありがとう」
ぽいっと放るように投げられたのは、ビー玉のように綺麗な飴玉だった。わぁ、と目を輝かせてたナマエがふとローの方を見ると、彼のその瞳に灯った色はとても温かなものだった。ナマエはふとしたときに垣間見れるローのその目が好きだった。だから、彼女はその優しい瞳が見られなくなってしまうのは耐えられなかったのだ。
「……都会って、可愛い子いっぱいいる?」
「は?お前何言ってんだよ」
唐突に言い出したナマエの言葉に、意味が分からないとばかりにローは怪訝な顔をした。彼女を見つめる彼の視線も何かを疑うようにじっとりとしているので、ナマエは焦った。一丁前に嫉妬をしているのだとバレたら面倒くさい女だと思われてしまうに違いない。何かローの気を逸らすものは無いか、とナマエは考えてそれができるものに一つだけ思い当たった。そして彼女は、ポケットから例の悪魔に貰ったガラスドームを取り出したのだ。
「あのね、いつもありがとう。代わりにこれあげる」
ローは花なんか貰っても全然嬉しくはないのだが、ナマエから貰えたということが満更でも無かった。だから彼はそれを受け取って素直に礼を言った。しかし、ナマエはその後おかしなことを言ったのだ。
「私達、友達だよね」
このとき、ナマエは彼と恋人になることを望めばよかったのに、彼女にはそれができなかった。彼の心を魔術で手に入れるのはとても悲しく虚しいことだ思ったからだ。だから、彼女は願ったのだ。恋人になれなくても、友人として彼の隣にいられればいい。それならば、この恋心はいらない。
ところが、あの上級悪魔がナマエに渡した品物の威力は物凄かった。ナマエは、ロー以外の人物を好きになるつもりはなかったし、なりたくなかった。その強い想いが絡み合って、彼女は“恋愛感情”そのものを失ったのである。
☆
全てを思い出したナマエは、居た堪れなさを振り切るようにベッドの上でコロコロと転がった。そして、そのままベッドから転がり落ちた。「痛い!」思わず悲鳴を上げたが、もっと痛いのは過去の自分だ。
悪魔から貰った品物を使っていたなんてローにバレたら恥ずかしさで消えてしまいたくなる。フローリングの床を更に転がりながら、ナマエはもう半泣きだった。
「……どうしよう」
自分にかけていた魔術は解けた。しっぺ返しのように帰ってきたのは、ナマエが今まで封じ込めていた恋心と無くした筈の恋愛感情。
“恋愛対象”としてローのことを意識してしまった今、彼女は彼にどんな顔をして会えば良いのか分からなかった。寧ろ、会話できるかすらも定かではない。
先程みたいに挙動不審になって逃げかえるのがオチだ。それが続けばきっとローだって不審に思う。そして、ナマエに理由を問いただすに違いない。そうなってしまえば、口で彼に勝てたことがないナマエはあれよあれよという間に全てを白状させられるに決まっている。
だから、彼女はとりあえず逃げることにした。少し旅に出て自分を見直そう。名実ともに現実逃避である。そうと決まれば行動あるのみ。ナマエはさっと身支度をすると、彼女の店のドアに「長期休業中」の札をかけ、外に飛び出したのだった。