箱庭オペレッタ
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トラファルガー・ローという男がいる。
彼はナマエとは同郷の出身で、彼女の良き友人であり、もっと言うなら彼女の親友だった。彼女に懸想しているローからすればたまったものではないが、ナマエは大真面目にそう思っていた。
基本的に悪魔は容姿が整っている者が多いが、その中でもローはずば抜けていた。だから、顧客の人間だろうが同業者の悪魔だろうがとんでもなくモテていたのだ。それはもう、ちょっと引くぐらい。しかし、彼は少なくともナマエと出会ってから100年以上は浮いた話が一切無かった。それなのに今、彼は恋をしている、らしい。らしい、というのはナマエの問いに正確な返事を貰えなかったからだ。しかし、いくら鈍いナマエといえどあの反応は絶対におかしいということくらい分かるのだ。
そうと決まればナマエは真実を突き止めるべく、ローの店にやってきた。
「あ、ナマエちゃん。いらっしゃい」
ローの店には従業員が三人いる。その内の一人であるペンギンが彼女を出迎えてくれた。彼は両手に商品の入った箱を沢山抱えていた。どうやら店内の商品の整理をしているらしい。
「ローは?」
「店長は留守だ。商品を仕入れに行ってる」
「え!?あ、今日13日の金曜日だ……」
店内の大掃除も兼ねているようで、ハタキでパタパタと棚の埃を取っていたシャチの言葉にナマエはハッとした。13日の金曜日に闇市で開かれるオークションは珍しい商品が出品されるので、多くの悪魔が希少価値のある商品を求めて集うのである。オークションで珍しい商品を買う為に殴る用の札束など持っていないナマエには全く関係の無い話なのですっかり忘れていた。
「でも、待ってればもうちょっとで帰ってくると思うよ」
その巨体に見合った大きな椅子を移動させながらベポは言った。待ってても良いと言われたので、ナマエは邪魔にならないように店内の隅に移動する。そして、真面目に店内整備をしている彼らに爆弾を落とした。
「ねえ、ひょっとしてローって好きな人がいるの?」
最終的にはローから答えを得るつもりだが、確信を持って彼に臨みたい。ナマエよりもローの方が遥かに弁が立つので、準備不足で挑めば簡単にはぐらかされてしまうに違いないのだ。
しかし、それを聞かれた三人はたまったものでは無かった。
三人は知っていた。というか、気付かない方がおかしい。吐いて捨てるほど機会はあるのに、そういった話を全て蹴り飛ばしては無視をしてきた、言葉は悪いが淡泊な男がずっと一人の女に固執しているのだ。そんな彼の気持ちに一切気付かずに『私達、良いお友達でいましょうね!』と全身全霊で無意識に彼のモーションを無かったことにしてきた女の台詞がこれである。彼らが今まで生きてきた中の『おまいうグランプリ』の堂々第一位に輝き、独走首位を占めたのがたった今の彼女の台詞だ。
ペンギンは商品を陳列している手をぴたりと止め、ベポは持ち上げていた椅子をガタンと落とし、シャチは動揺してたまたま持っていたティーカップを落として割った。彼女の好きな日本円に直すと、一千万円相当の品物である。そんな彼らの胸の内など知らないナマエは、その怪しい反応に確信した。
ローって好きな人いるんだ!
ということは、彼からリアルな恋バナが聞けるのでは。何事も体験談に勝る情報は無い。ナマエは大きな瞳をキラキラと輝かせた。そうと決まったら早速ローに話を聞かねば。ぐっと両の拳を握って気合を入れるナマエに三人は心底思った。これ面倒臭いことになるやつ。やっぱりさっさと帰って!!
しかし、ナマエが来ていたのに帰らせたことをローが知れば、それはそれで彼の機嫌が悪くなるので避けたい。もうマジでさっさとくっついて心の平穏をくれ。三人は切にそれを願った。
店内整理が終わるまでナマエは店の隅っこで大人しくじっとしていたが、整理が終わって一息ついたところで自由に動き出した。
ローの店は住居も兼ねた古い洋館だ。入り口を入ってすぐの小さなホールには商品が並んでいる。いつも転がり込んでは真っ先に商談室に向かうので、並んでいる商品などゆっくり見ることは無かったのだ。とはいえ、ローの店の商品はナマエには手の届かない程に高価で珍しいものばかりなので、参考にすらならない。所詮土台が違うのである。「うわ、これ教本で見たことあるやつ……、え、これもあるの?何この店」等とブツブツと文句を言いながら商品棚を見て回るナマエを三人はハラハラと見守っていた。商品をこれ以上壊されては堪ったものではない。ただでさえ先程ティーカップを割ったシャチは言い訳を考えている最中なのだ。ナマエの分まで考える余裕は無い。
ふと、ナマエはホールの一番奥に隠れるように小さなガラスケースが置かれているのに気付いた。そこには宝石類やあからさまに高価そうなものが数点大事そうに飾られていたが、それよりも彼女の目を惹いたものがあったのだ。
「綺麗……」
それは、掌サイズのガラスドームだった。中には紅く瑞々しい花弁を開いた薔薇の花が入っている。ナマエは吸い寄せられるようにそのガラスドームを手にした。そして光に透かして見る。このガラスドームを見ていると、何故か不思議な気持ちになった。大切なことを忘れているような、少し落ち着かないような。そのような訳の分からない感情に飲み込まれるのが怖くなったナマエは、そっとそれを元にあった場所に戻そうとした。
ところが。彼女の手を滑ったガラスドームは床に叩きつけられ、甲高い音を立てて粉々になった。不思議なことに、中に入っていた花は空気に触れた瞬間、一瞬で枯れて砂になってしまった。木っ端微塵になって中身が消えたそれにナマエは真っ青になった。
「お前、何したんだ!」
「どうしよう、これって商品だよね?」
「商品じゃない、これは店長が大切にしてたやつだ」
硝子の割れる音に慌ててやって来た三人は、床にへたりこんだナマエの前に散らばる破片を見て硬直した。それはローがとても大事にしていた物だと知っているからだ。やっちゃったな、と溜息を吐くペンギンにナマエは両手で口を覆った。
慌てて散らばった硝子を拾い集めようとしたナマエだったが、何も考えずに手を伸ばしたために破片で見事に指先を切ってしまった。「痛い!」と悲鳴を上げたナマエの指先からは先程の薔薇のような紅が滲み出ていた。ローが帰ってきたのはそのときだった。物凄くタイミングが悪い。
帰ってきたら店に想い人が来ていた上に、彼女は床の上にへたりこんでおり三人の従業員の顔色も悪い。何があったのかと訝しみながら近づいてくるローに、ナマエは顔を上げるとばつが悪そうに謝罪した。
「ロー、ごめんなさい。これ割っちゃった。きっと貴重なやつだよね」
彼は目を見開いた。粉々になっていたのは、ローが大切にしていたガラスドームだったのだ。三人が店内整理をするというので、場所を移動していたのだがまさかこんなことになるとは思わなかった。しかし、それよりもショックを受けたことがある。これはかつてナマエがローにくれたものだったのだ。
「お前、これ覚えてないのか」
「何が?」
ぱちくりと目を瞬かせるナマエにローは溜息を吐いた。きっと彼女にとっては取るに足らないことだったのだ。それを突き付けられたローは、諦めの境地に達した。
「いや、いい。怪我は無かったか」
覚えてないなら仕様が無い。気持ち的には大変複雑なものがあるが、ナマエの鳥頭なら忘れていてもおかしくはない。となれば、ナマエに怪我が無ければ良しとしよう。ところが、ナマエはそっと右手の中指の腹を見せてきたのだ。結構深く切れているようで、彼女の白い指先と血の赤のコントラストはローの目を奪った。割れたガラスドームも惜しいが、ナマエ本体の方が俄然大事である。ローは彼女の右手を取ると、躊躇なく傷付いた彼女の指先を口に含んだ。
悪魔には人間よりも遥かに優れた自己治癒能力があるが、ナマエは何故か治癒能力が極端に低く人間並みであり、更に難儀なことに魔術の能力も低いので治癒の魔術もド下手なのだ。よって、幼少の時期から怪我の手当てをしてやっていたのはローだった。悪魔は供物として血液も好む。一般的に人間の血が最良であると言われているが、ローは血液の類には一切興味が無かった。一度飲んでみたことがあるが生臭くて吐きそうになったし、実際に後でこっそりと吐いた。しかし、幼少の頃怪我をして痛みで泣き喚くナマエの傷を“舐めとけば治る”という古来からの言葉に従って舌を這わせた結果、ナマエの血液は甘くて美味だったのである。少し自己嫌悪に陥ったが、苛められて生傷の絶えないナマエにローは開き直ることにした。当然、治癒の魔術は患部を舐める必要は無い。しかし、ナマエはローが適当に言った「舐めた方が治りが早い」を真に受けて彼にやりたい放題させているのである。幼少時代から行われていた行為なのでナマエは何とも思わなかったが、完全に二人の世界になっているので締め出された三人は空気と一体化するのに必死になった。そして初めて転職を考えた。
傷が綺麗に消えると、ナマエは伏し目がちに礼を言ってから謝罪の言葉を口にした。それに気にするなというようにローは軽く彼女の頭を撫でる。三人は空気と一体化するついでにバックヤードに退散した。
「で、お前は何でおれの店に来た」
ローとナマエは、二階の居住スペースの居間のテーブルに向かい合って座っていた。ナマエはミルクティーの入ったカップを持ち上げて、口をつけようとしたところで動きを止めた。
「理由がなきゃ来ちゃいけないの?」
「……そんなことはねェが」
普段は苦情を言いに殴りこむことしかしてこないのに、こういうときだけ可愛いことを言うな。ローは苦い珈琲を口にした。
「ねぇ、ローの好きな人ってどんな人?」
成程、こいつはそれを聞きに来たのか。ナマエの魂胆が透けて見えたローは少しがっかりした。恋愛が何たるかを学びたがっている彼女は、一番身近なモデルケースとしてローの話を聞きたがっているし、120%の純粋な善意でローの恋愛ごとを引っ掻き回そうと、もとい協力しようとしてくれているに違いない。何が悲しくて好きな女に子供のような純粋な興味で遠回しの告白を要求されなければいけないのだ。そもそも、分かってたことだがローに想い人がいようと一切動揺せずに逆に協力しようと思っている様子のナマエに腹が立つ。逆の立場だったら、ローは彼女の想い人が分かり次第葬ってやる。だから、このときのローは少しだけ自暴自棄になった。
「馬鹿で鈍感で面倒くさい女」
「それ、大丈夫?騙されてない?」
あんただよ、あんた!二人の会話にこっそりと聞き耳を立てていた三人は心の中で盛大にツッコんだ。ナマエは暫くの間、眉根を寄せて何事か考えこんでいた。多分碌でも無いことである。彼女は「でも、ローが好きになった人だものね。きっと素敵な人なんだわ」と小さく頷いた。頓珍漢な方向に突き進むナマエに三人は頭を抱えた。そんな彼らをよそに、彼女はさも名案を思い付きました!と言わんばかりに両の手をぱちんと合わせた。
「そうだ!ガラスドーム壊しちゃったお詫びに私がローの恋を成就させたげる!大船に乗った気持ちでいたまえ、ふふん」
「穴の開いた泥船の間違いだろ」
顧客満足度マイナスの女が何を言ってやがる。
☆
あれからナマエは結構な頻度でローの店にやって来て、彼の恋愛話を根掘り葉掘り聞こうとしては煙に巻かれていた。彼女的には女友達と同じノリで恋バナをしているつもりなのだから恐ろしい。しかし、その日のナマエは様子が違った。彼女はローの店に殴りこんでくるときと同等の勢いでやってきたのだが、いつもの鬼のような形相とは異なって薔薇色に紅潮したその表情は溶けそうなほどに幸せそうだった。彼女はローを見つけると彼の両の手をがっしりと取った。
「ローありがとう!!ローの名前で大千秋楽当たったわ!凄いの、それも最前列!!」
「そりゃあ良かったな」
そして喜びのあまり繋いだ手をぶんぶんと上下に振った。ナマエの声音との温度差が物凄いローの相槌をこっそり聞いていた三人は思った。結局名義貸してあげたんかい。一しきりぶんぶんと手を振った後、満足したナマエはぱっと彼の手を離した。のだが、目を瞬かせた彼女はもう一度そっとローの右手を掴むと、両の手で彼の掌をにぎにぎと握った。更に許し難いことに「ローって手が大きいのね」等と宣っている。そりゃあ男ですからね。ローが物凄く可哀想になってきた。もうこの女をどこかにつまみ出せ。
「そういえばロー、進展あった?」
「さァな」
最近は答えるのが面倒になったのか、ローは大抵一言でナマエの話をぶった切っている。この話題については元から一問一答、もしくは無視のスタイルだったが、このところそれに拍車がかかってきているのだ。それに対してナマエは理不尽にも「もっと詳しく!」等と無意識でローに鞭を打っているのだが、今日の彼女はどこか様子が違った。ナマエは「そう」と小さく零すと店を出て行ったのである。そのあっさりとした引き際にローは眉根を寄せた。ローとしては物凄く複雑なものを感じていたが、ナマエが自分のことを考えてくれるのは悪くは無いし、ムキになってつっかかってくる彼女が面白かった。しかし、この張り合いの無さ。
まさかこいつ、人の恋愛事に勝手に首を突っ込んできた癖に飽きたのか?
☆
ローの店を出たナマエが向かったのは、女性の悪魔が集まる男子禁制のサロンだった。ナマエは男性が嫌いなので人恋しくなったときはよくここに来ているのだ。彼女はカクテルを注文すると、サロンの隅の席を陣取ってテーブルに突っ伏した。
ナマエはここ最近、何だか面白くないのである。あれだけ嬉しかったご用意されたチケットも、なんだか急に味気の無いものになってしまった。
それもこれも、友人の煮え切らない恋の話の所為だ。
「あら、ナマエじゃない」
若い女性の声にナマエは緩慢に顔を上げた。目の前には、オレンジの髪の快活そうな女と黒髪のミステリアスな女が立っていた。二人ともとてつもない美女である。様々な要因から日常生活では人見知りの気があるナマエが気兼ねなく話すことができる数少ない悪魔のナミとロビンだ。ナミはナマエの顔を覗き込んで怪訝な顔をしている。それを見たナマエは少し逡巡したのちにおずおずと口を開いた。誰かにこのモヤモヤを聞いて欲しかったのだ。
「あのね、私の友達に好きな人ができたの」
第一声から面白い話が聞けそうだと察したナミはナマエの正面の席にさっと座った。その隣にロビンも座る。聞く準備万端である。
「最初は、好きな人ができたから協力しようと思ったの」
ナミもロビンも余計なことは言わないので、「それはやめた方が良い」とは思っても言葉にしなかった。彼女たちもナマエの店の顧客満足度を知っているのだ。しかし、続きが気になるのでここは黙ってそのまま話を促すことにした。
「でも、全然詳しく教えてくれないし。最近は何か面白くないなぁって」
ナマエは憮然とした様子でカクテルにささったストローを行儀悪く噛んだ。それにナミはうんうんと頷いた。
「あー、友達取られた気分になるやつね。えっと、誰だっけその子?」
「ロー」
「ロー“ちゃん”ね」
ナマエの男嫌いは有名だ。彼女の顧客は全員女という徹底ぶり。だから当然、ナミは彼女の友人が同性だと思ったのだ。しかし。
「違うよ、ローは男だから“ちゃん”はつかな……」
ナマエはぴっしりと固まった。そして、今まで忘れていたことをぽつりと零したのである。
「あ、そうか。ローって男の人だった」
彼はナマエとは同郷の出身で、彼女の良き友人であり、もっと言うなら彼女の親友だった。彼女に懸想しているローからすればたまったものではないが、ナマエは大真面目にそう思っていた。
基本的に悪魔は容姿が整っている者が多いが、その中でもローはずば抜けていた。だから、顧客の人間だろうが同業者の悪魔だろうがとんでもなくモテていたのだ。それはもう、ちょっと引くぐらい。しかし、彼は少なくともナマエと出会ってから100年以上は浮いた話が一切無かった。それなのに今、彼は恋をしている、らしい。らしい、というのはナマエの問いに正確な返事を貰えなかったからだ。しかし、いくら鈍いナマエといえどあの反応は絶対におかしいということくらい分かるのだ。
そうと決まればナマエは真実を突き止めるべく、ローの店にやってきた。
「あ、ナマエちゃん。いらっしゃい」
ローの店には従業員が三人いる。その内の一人であるペンギンが彼女を出迎えてくれた。彼は両手に商品の入った箱を沢山抱えていた。どうやら店内の商品の整理をしているらしい。
「ローは?」
「店長は留守だ。商品を仕入れに行ってる」
「え!?あ、今日13日の金曜日だ……」
店内の大掃除も兼ねているようで、ハタキでパタパタと棚の埃を取っていたシャチの言葉にナマエはハッとした。13日の金曜日に闇市で開かれるオークションは珍しい商品が出品されるので、多くの悪魔が希少価値のある商品を求めて集うのである。オークションで珍しい商品を買う為に殴る用の札束など持っていないナマエには全く関係の無い話なのですっかり忘れていた。
「でも、待ってればもうちょっとで帰ってくると思うよ」
その巨体に見合った大きな椅子を移動させながらベポは言った。待ってても良いと言われたので、ナマエは邪魔にならないように店内の隅に移動する。そして、真面目に店内整備をしている彼らに爆弾を落とした。
「ねえ、ひょっとしてローって好きな人がいるの?」
最終的にはローから答えを得るつもりだが、確信を持って彼に臨みたい。ナマエよりもローの方が遥かに弁が立つので、準備不足で挑めば簡単にはぐらかされてしまうに違いないのだ。
しかし、それを聞かれた三人はたまったものでは無かった。
三人は知っていた。というか、気付かない方がおかしい。吐いて捨てるほど機会はあるのに、そういった話を全て蹴り飛ばしては無視をしてきた、言葉は悪いが淡泊な男がずっと一人の女に固執しているのだ。そんな彼の気持ちに一切気付かずに『私達、良いお友達でいましょうね!』と全身全霊で無意識に彼のモーションを無かったことにしてきた女の台詞がこれである。彼らが今まで生きてきた中の『おまいうグランプリ』の堂々第一位に輝き、独走首位を占めたのがたった今の彼女の台詞だ。
ペンギンは商品を陳列している手をぴたりと止め、ベポは持ち上げていた椅子をガタンと落とし、シャチは動揺してたまたま持っていたティーカップを落として割った。彼女の好きな日本円に直すと、一千万円相当の品物である。そんな彼らの胸の内など知らないナマエは、その怪しい反応に確信した。
ローって好きな人いるんだ!
ということは、彼からリアルな恋バナが聞けるのでは。何事も体験談に勝る情報は無い。ナマエは大きな瞳をキラキラと輝かせた。そうと決まったら早速ローに話を聞かねば。ぐっと両の拳を握って気合を入れるナマエに三人は心底思った。これ面倒臭いことになるやつ。やっぱりさっさと帰って!!
しかし、ナマエが来ていたのに帰らせたことをローが知れば、それはそれで彼の機嫌が悪くなるので避けたい。もうマジでさっさとくっついて心の平穏をくれ。三人は切にそれを願った。
店内整理が終わるまでナマエは店の隅っこで大人しくじっとしていたが、整理が終わって一息ついたところで自由に動き出した。
ローの店は住居も兼ねた古い洋館だ。入り口を入ってすぐの小さなホールには商品が並んでいる。いつも転がり込んでは真っ先に商談室に向かうので、並んでいる商品などゆっくり見ることは無かったのだ。とはいえ、ローの店の商品はナマエには手の届かない程に高価で珍しいものばかりなので、参考にすらならない。所詮土台が違うのである。「うわ、これ教本で見たことあるやつ……、え、これもあるの?何この店」等とブツブツと文句を言いながら商品棚を見て回るナマエを三人はハラハラと見守っていた。商品をこれ以上壊されては堪ったものではない。ただでさえ先程ティーカップを割ったシャチは言い訳を考えている最中なのだ。ナマエの分まで考える余裕は無い。
ふと、ナマエはホールの一番奥に隠れるように小さなガラスケースが置かれているのに気付いた。そこには宝石類やあからさまに高価そうなものが数点大事そうに飾られていたが、それよりも彼女の目を惹いたものがあったのだ。
「綺麗……」
それは、掌サイズのガラスドームだった。中には紅く瑞々しい花弁を開いた薔薇の花が入っている。ナマエは吸い寄せられるようにそのガラスドームを手にした。そして光に透かして見る。このガラスドームを見ていると、何故か不思議な気持ちになった。大切なことを忘れているような、少し落ち着かないような。そのような訳の分からない感情に飲み込まれるのが怖くなったナマエは、そっとそれを元にあった場所に戻そうとした。
ところが。彼女の手を滑ったガラスドームは床に叩きつけられ、甲高い音を立てて粉々になった。不思議なことに、中に入っていた花は空気に触れた瞬間、一瞬で枯れて砂になってしまった。木っ端微塵になって中身が消えたそれにナマエは真っ青になった。
「お前、何したんだ!」
「どうしよう、これって商品だよね?」
「商品じゃない、これは店長が大切にしてたやつだ」
硝子の割れる音に慌ててやって来た三人は、床にへたりこんだナマエの前に散らばる破片を見て硬直した。それはローがとても大事にしていた物だと知っているからだ。やっちゃったな、と溜息を吐くペンギンにナマエは両手で口を覆った。
慌てて散らばった硝子を拾い集めようとしたナマエだったが、何も考えずに手を伸ばしたために破片で見事に指先を切ってしまった。「痛い!」と悲鳴を上げたナマエの指先からは先程の薔薇のような紅が滲み出ていた。ローが帰ってきたのはそのときだった。物凄くタイミングが悪い。
帰ってきたら店に想い人が来ていた上に、彼女は床の上にへたりこんでおり三人の従業員の顔色も悪い。何があったのかと訝しみながら近づいてくるローに、ナマエは顔を上げるとばつが悪そうに謝罪した。
「ロー、ごめんなさい。これ割っちゃった。きっと貴重なやつだよね」
彼は目を見開いた。粉々になっていたのは、ローが大切にしていたガラスドームだったのだ。三人が店内整理をするというので、場所を移動していたのだがまさかこんなことになるとは思わなかった。しかし、それよりもショックを受けたことがある。これはかつてナマエがローにくれたものだったのだ。
「お前、これ覚えてないのか」
「何が?」
ぱちくりと目を瞬かせるナマエにローは溜息を吐いた。きっと彼女にとっては取るに足らないことだったのだ。それを突き付けられたローは、諦めの境地に達した。
「いや、いい。怪我は無かったか」
覚えてないなら仕様が無い。気持ち的には大変複雑なものがあるが、ナマエの鳥頭なら忘れていてもおかしくはない。となれば、ナマエに怪我が無ければ良しとしよう。ところが、ナマエはそっと右手の中指の腹を見せてきたのだ。結構深く切れているようで、彼女の白い指先と血の赤のコントラストはローの目を奪った。割れたガラスドームも惜しいが、ナマエ本体の方が俄然大事である。ローは彼女の右手を取ると、躊躇なく傷付いた彼女の指先を口に含んだ。
悪魔には人間よりも遥かに優れた自己治癒能力があるが、ナマエは何故か治癒能力が極端に低く人間並みであり、更に難儀なことに魔術の能力も低いので治癒の魔術もド下手なのだ。よって、幼少の時期から怪我の手当てをしてやっていたのはローだった。悪魔は供物として血液も好む。一般的に人間の血が最良であると言われているが、ローは血液の類には一切興味が無かった。一度飲んでみたことがあるが生臭くて吐きそうになったし、実際に後でこっそりと吐いた。しかし、幼少の頃怪我をして痛みで泣き喚くナマエの傷を“舐めとけば治る”という古来からの言葉に従って舌を這わせた結果、ナマエの血液は甘くて美味だったのである。少し自己嫌悪に陥ったが、苛められて生傷の絶えないナマエにローは開き直ることにした。当然、治癒の魔術は患部を舐める必要は無い。しかし、ナマエはローが適当に言った「舐めた方が治りが早い」を真に受けて彼にやりたい放題させているのである。幼少時代から行われていた行為なのでナマエは何とも思わなかったが、完全に二人の世界になっているので締め出された三人は空気と一体化するのに必死になった。そして初めて転職を考えた。
傷が綺麗に消えると、ナマエは伏し目がちに礼を言ってから謝罪の言葉を口にした。それに気にするなというようにローは軽く彼女の頭を撫でる。三人は空気と一体化するついでにバックヤードに退散した。
「で、お前は何でおれの店に来た」
ローとナマエは、二階の居住スペースの居間のテーブルに向かい合って座っていた。ナマエはミルクティーの入ったカップを持ち上げて、口をつけようとしたところで動きを止めた。
「理由がなきゃ来ちゃいけないの?」
「……そんなことはねェが」
普段は苦情を言いに殴りこむことしかしてこないのに、こういうときだけ可愛いことを言うな。ローは苦い珈琲を口にした。
「ねぇ、ローの好きな人ってどんな人?」
成程、こいつはそれを聞きに来たのか。ナマエの魂胆が透けて見えたローは少しがっかりした。恋愛が何たるかを学びたがっている彼女は、一番身近なモデルケースとしてローの話を聞きたがっているし、120%の純粋な善意でローの恋愛ごとを引っ掻き回そうと、もとい協力しようとしてくれているに違いない。何が悲しくて好きな女に子供のような純粋な興味で遠回しの告白を要求されなければいけないのだ。そもそも、分かってたことだがローに想い人がいようと一切動揺せずに逆に協力しようと思っている様子のナマエに腹が立つ。逆の立場だったら、ローは彼女の想い人が分かり次第葬ってやる。だから、このときのローは少しだけ自暴自棄になった。
「馬鹿で鈍感で面倒くさい女」
「それ、大丈夫?騙されてない?」
あんただよ、あんた!二人の会話にこっそりと聞き耳を立てていた三人は心の中で盛大にツッコんだ。ナマエは暫くの間、眉根を寄せて何事か考えこんでいた。多分碌でも無いことである。彼女は「でも、ローが好きになった人だものね。きっと素敵な人なんだわ」と小さく頷いた。頓珍漢な方向に突き進むナマエに三人は頭を抱えた。そんな彼らをよそに、彼女はさも名案を思い付きました!と言わんばかりに両の手をぱちんと合わせた。
「そうだ!ガラスドーム壊しちゃったお詫びに私がローの恋を成就させたげる!大船に乗った気持ちでいたまえ、ふふん」
「穴の開いた泥船の間違いだろ」
顧客満足度マイナスの女が何を言ってやがる。
☆
あれからナマエは結構な頻度でローの店にやって来て、彼の恋愛話を根掘り葉掘り聞こうとしては煙に巻かれていた。彼女的には女友達と同じノリで恋バナをしているつもりなのだから恐ろしい。しかし、その日のナマエは様子が違った。彼女はローの店に殴りこんでくるときと同等の勢いでやってきたのだが、いつもの鬼のような形相とは異なって薔薇色に紅潮したその表情は溶けそうなほどに幸せそうだった。彼女はローを見つけると彼の両の手をがっしりと取った。
「ローありがとう!!ローの名前で大千秋楽当たったわ!凄いの、それも最前列!!」
「そりゃあ良かったな」
そして喜びのあまり繋いだ手をぶんぶんと上下に振った。ナマエの声音との温度差が物凄いローの相槌をこっそり聞いていた三人は思った。結局名義貸してあげたんかい。一しきりぶんぶんと手を振った後、満足したナマエはぱっと彼の手を離した。のだが、目を瞬かせた彼女はもう一度そっとローの右手を掴むと、両の手で彼の掌をにぎにぎと握った。更に許し難いことに「ローって手が大きいのね」等と宣っている。そりゃあ男ですからね。ローが物凄く可哀想になってきた。もうこの女をどこかにつまみ出せ。
「そういえばロー、進展あった?」
「さァな」
最近は答えるのが面倒になったのか、ローは大抵一言でナマエの話をぶった切っている。この話題については元から一問一答、もしくは無視のスタイルだったが、このところそれに拍車がかかってきているのだ。それに対してナマエは理不尽にも「もっと詳しく!」等と無意識でローに鞭を打っているのだが、今日の彼女はどこか様子が違った。ナマエは「そう」と小さく零すと店を出て行ったのである。そのあっさりとした引き際にローは眉根を寄せた。ローとしては物凄く複雑なものを感じていたが、ナマエが自分のことを考えてくれるのは悪くは無いし、ムキになってつっかかってくる彼女が面白かった。しかし、この張り合いの無さ。
まさかこいつ、人の恋愛事に勝手に首を突っ込んできた癖に飽きたのか?
☆
ローの店を出たナマエが向かったのは、女性の悪魔が集まる男子禁制のサロンだった。ナマエは男性が嫌いなので人恋しくなったときはよくここに来ているのだ。彼女はカクテルを注文すると、サロンの隅の席を陣取ってテーブルに突っ伏した。
ナマエはここ最近、何だか面白くないのである。あれだけ嬉しかったご用意されたチケットも、なんだか急に味気の無いものになってしまった。
それもこれも、友人の煮え切らない恋の話の所為だ。
「あら、ナマエじゃない」
若い女性の声にナマエは緩慢に顔を上げた。目の前には、オレンジの髪の快活そうな女と黒髪のミステリアスな女が立っていた。二人ともとてつもない美女である。様々な要因から日常生活では人見知りの気があるナマエが気兼ねなく話すことができる数少ない悪魔のナミとロビンだ。ナミはナマエの顔を覗き込んで怪訝な顔をしている。それを見たナマエは少し逡巡したのちにおずおずと口を開いた。誰かにこのモヤモヤを聞いて欲しかったのだ。
「あのね、私の友達に好きな人ができたの」
第一声から面白い話が聞けそうだと察したナミはナマエの正面の席にさっと座った。その隣にロビンも座る。聞く準備万端である。
「最初は、好きな人ができたから協力しようと思ったの」
ナミもロビンも余計なことは言わないので、「それはやめた方が良い」とは思っても言葉にしなかった。彼女たちもナマエの店の顧客満足度を知っているのだ。しかし、続きが気になるのでここは黙ってそのまま話を促すことにした。
「でも、全然詳しく教えてくれないし。最近は何か面白くないなぁって」
ナマエは憮然とした様子でカクテルにささったストローを行儀悪く噛んだ。それにナミはうんうんと頷いた。
「あー、友達取られた気分になるやつね。えっと、誰だっけその子?」
「ロー」
「ロー“ちゃん”ね」
ナマエの男嫌いは有名だ。彼女の顧客は全員女という徹底ぶり。だから当然、ナミは彼女の友人が同性だと思ったのだ。しかし。
「違うよ、ローは男だから“ちゃん”はつかな……」
ナマエはぴっしりと固まった。そして、今まで忘れていたことをぽつりと零したのである。
「あ、そうか。ローって男の人だった」