箱庭オペレッタ
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これは嘘か本当か、根も葉もないただの噂話。
満月の晩に金の盃を上質な酒で満たし、そこに銀のコインを入れる。それから、沈みゆくコインと盃に映る月を重ね、目を瞑って心の中で願い事を唱えます。
目を開けるとそこには、貴方の願いを叶える為の不思議な店。店に入ると貴方の来訪を知っていたかのように、笑う悪魔がいるのです。
今宵、貴方が辿り着いたのはどこの悪魔の商店か。
貴方の願いはきっと、叶うでしょう。
けれども、悪魔との契約には注意が必要。上手い話には必ず裏がある。魅力的な品物は、使い方を間違えれば手痛い報復をしてくるのです。死ぬなんて生易しいものではなく、もっと酷いことが起きるかも。
商人の話をしっかり聞いて、よく考えて購入しましよう。全てはそう“自己責任”。
けれども、人間たちは愚かなもので悪魔の商品を求めては、次から次へと現れるのです。可哀想な彼らは悪魔の掌の上で戯曲を演じ、今日も歌って踊るのでしょう。喜劇か、悲劇か、それは貴方の行い次第。
どうやら今日もまた一人、ご来店。
その男は、黒い革張りのソファに長い足を組んで座っていた。硝子のローテーブルを挟んで対極に座るのは、男と同年代くらいの外見の女。ルージュを引いた女の唇は弧を描き、彼女を見つめる男の口角も吊り上がる。
「素晴らしい商品だわ。じゃあ、これを頂くわ」
「サインはここに書け」
男は、女が華やかなネイルの指先で万年筆を握ってサインをしているのをじっと見ていた。そして、女が万年筆を置くと彼女の手を自身のそれで包むように撫でる。
「今後もよろしくな。“あいつ”以上に満足させてやるよ」
琥珀の瞳を蠱惑的に細めた男は女に睦言でも囁くように言う。整った容姿の男にそのように言われては、女も初心な少女のように顔を赤くしてただ頷くしかない。
「また来るわ」
名残惜し気に男に目配せをした女は、ハイヒールの足音を響かせて商談室を出て行った。そんな女を見送って静かになった部屋で男は独り言ちる。
「“また”は無ェよ。馬鹿な女」
すっかり冷めきった瞳と声音で男は緩慢に椅子から立ち上がり、商談室を出て行こうとした。そのときだ。カンカラカンっと尋常では無い爆音を奏でる来店ベルと、乱暴に開かれた扉が壁にぶち当たる固い物音と共に一人の女の声が店内に響き渡った。
「ちょっと、ロー!また私のお客様取ったでしょ!あの人、金払いの良い上客だったのに!」
どたどたと慌ただしい足音を立てて物凄い勢いで商談室に飛び込んできた女は、背伸びをすると彼の胸ぐらを掴む勢いで詰め寄った。興奮して熱くなった彼女と違って、対する彼の声音はただ静かだ。
「あの女、もうお前じゃ満足できねェって」
勝ち誇ったように口角を上げてみせたローに、女は悔しそうに唇をぎゅっと噛んだ。
「残念だな。なァ、ナマエ」
わざとらしく同意を求めてみれば、言葉では勝てないと悟ったナマエは物理で報復を試みた。しかし、渾身の一撃だったはずのそれは簡単に男の右手に収まったのだった。
☆
ナマエという女がいる。
彼女はローと同じ集落で生まれ育ち、彼と幼少期からの付き合いのある悪魔だ。ロー達が暮らしていた場所には年の近い子供があまりおらず、唯一の女子が彼女だった。そんな彼女は、蝶よ花よとお姫様のように周りの少年からチヤホヤされて育った、と言いたいところだが現実は彼女に厳しかった。
ナマエは腹の探り合いや騙し合い、水面下の小競り合いが日常茶飯事の悪魔たちの中である意味異端だった。彼女は馬……じゃなかった、大層純粋で騙されやすく、のんびりしたお子様だったので、周りの少年たちの苛めの格好のターゲットだったのだ。
成人した今、思い返してみれば少年たちの行動は、所謂“好きな子を苛めちゃう例のアレ”なのだが、そんなことは苛められる側にとっては全く関係ない。
彼女は少年たちに心無い言葉で揶揄われ、お気に入りの帽子を高いところに隠され、可愛くセットした髪をボサボサにされ、徹底的に苛められた。彼女はいつも言っていた。「男の子は乱暴だし酷いことするからみんな嫌い!」
結果として、可哀想な彼女は男嫌いを拗らせた。
ところが、厄介なことにナマエは異性が嫌いな癖に恋愛話には興味深々であった。女悪魔は噂話と誰かの色恋事が大好きだという定説があるが、彼女も漏れなくそうだったらしい。
悪魔は一般的に、幼少期に魔術を学んである程度の年齢に達すると見習いとして先輩の悪魔の店で働き、やがて独り立ちして自分の店を持つ。
例にもれずに独り立ちして店を構えたナマエは、メインターゲットを若い女性にして客商売を始めた。勿論、女性たちの悩み事(主に恋愛ごと)に首を突っ込む為である。
そして、他人の恋愛ごとにエンタメ感覚で首を突っ込んでは、頓珍漢な商品を売りつけて引っ掻き回す傍迷惑な悪魔の商人が爆誕したのである。恐ろしいことに本人は大真面目に良かれと思っているのだから余計始末に負えない。
とはいえ、彼女が聞く恋愛話はあくまで女の相談のみ。男が嫌いな彼女の顧客は全員女。客といえども男性は一切相手にしないという徹底ぶりだった。
ところで、ローは立派な男性であるが彼女から嫌われてはいない。何故なら、彼は同年代の少年たちの中で唯一ナマエを苛めることをしなかったからだ。ローとしてはそんな馬鹿で無駄なことをやる奴らの気が知れなかったのだ。そして、同じ集落の少年たちも明らかに数枚上手のローとやり合うことはせず、寧ろ彼を恐れて寄ってこなかった。同年代の友人がいないナマエにとって、彼は色々な意味で特別だった。そのため、大層懐かれたのだ。ナマエの幼少時代は、少年たちに苛められるか、ローの隣でのんびりしているかの両極端な二択だった。これは刷り込みにも近い何かがある。そのおかげでナマエの顧客を何人奪えども、ローは彼女に嫌われることは無い。
それに加えてもう一つ。あれは、二人がまだ独り立ちする前のことだ。人間の外見年齢で言うと12歳くらいの話になる。
ある日、例によって例の如く少年たちに憤慨しているナマエにローは尋ねた。「お前、おれのことは嫌いじゃないのか」と。それにナマエは大きな瞳をぱちくりとさせた。
それから彼女は「ローはローじゃない」と、小首を傾げたのだった。つまり、ナマエの中で彼は、性別=トラファルガー・ローという恐ろしい式が成り立っているのである。男とすら思われていない。
そんな面倒な女に男と意識されなくても、ローは人間や悪魔問わず物凄くモテるので問題は無い、と言いたいところだが実際は問題大アリだった。
物凄く屈辱的なことにローはこの面倒臭い女悪魔のことが好きなのである。残念なことにLIKEではなくLOVEの方だ。よって、この不毛な友人関係を100年以上続けている。悪魔の寿命は人間と桁違いに長いから成り立つ微温湯のような時間は、通常だったら人生が終了しているくらい気の遠くなるものなのだ。
その100年の間に店を持った二人は、元からの商才も相まって格差が物凄いことになっていた。ローの店は軌道に乗って一戸建ての店を買い従業員を雇えるほどになったが、駆け引きがド下手なナマエは未だに店も賃貸で場所代を支払うのに四苦八苦しているらしい。
悪魔の構える店は基本的に“人間ではない者たちが住む世界”に存在する。酒を供物に呼ばれた時だけ、人間界と自分たちの世界を繋げるのだ。しかし、昨今は人間界でひっそりと店を構えている悪魔も多い。ローは人のあまりいない静かな片田舎に店と住居を兼ねた洋館を、ナマエは場所代が高いだけの都会の雑居ビルに店を構えている。お互いの店はかなりの距離があるのだが、移動の魔術によってあっという間に着く。よって、顧客から契約を破棄されたことを知ったナマエはマッハでローの店に怒鳴りこんできたのだ。
そして今。ローは件の女悪魔に睨みつけられていた。彼女は小ぶりなポシェットから真っ赤な革の手帳を取り出すと、据わった瞳でローの眼前にそれを突きつけた。沢山の名前が羅列されたそれは、どうやら彼女の顧客リストらしい。しかし、その半分近くが赤い線で名前を消されている。
「これ、この赤で消されてる人。何だか分かる?」
「書き損じか?お前、そそっかしいんだからちゃんと下書きしろよ」
「惚けないでよ!分かってるんでしょ、これぜーんぶローに取られた私のお客様!」
ナマエはローに食って掛かったが、全く悪びれない彼の態度が彼女の怒りに油をどばどばと注いでいった。後は想像に容易い。彼女の短い堪忍袋の尾は完全に千切れ飛んだのである。
「どうして私のお客様ばっかり横取りするの?!ローはお客様いっぱい抱えてるじゃない!大物政治家やらハリウッドスターやら!相当良いお酒じゃないとローの店に繋がらないって聞いた!」
「お前の店は缶チューハイでも繋がるもんな」
これはあまり知られていないことだが、金の盃に満たした酒の質によって繋がる商店の悪魔のランクが変わってくるのだ。
質の良い酒を捧げれば上級の悪魔の店に呼ばれやすくなる。現在上級の悪魔の部類に入っているローは供物も客も選びたい放題だが、未だに下級悪魔のナマエは客を選べない。唯でさえ男という選択肢を除外して半数を減らして自分の首を絞めている。そんな彼女はビジネスチャンスを逃すまいと、どんな酒でもぐいぐいと営業に行くことにしているのである。一部の例外を除いて。
「な、何故それを……」
適当にカマをかけただけだったのだが、事実だったらしい。「でもビールは苦いからビールじゃ繋がないもん」と謎にうちひしがれるナマエの手から、ローは真っ赤な革の手帳をひょいっと取り上げた。
「これは個人情報の流出だ。今は厳しいんだから、バレたら罰則くらうぞ」
「分かってるよそんなの。ローにしか見せませんー」
そう言ってナマエは舌を出した。彼女はよく“ローだから”“ローにしか”と宣うが、この特別扱いはちっとも嬉しくない。ナマエの中で彼が一番仲の良い友人扱いをされているのがハッキリと読み取れるからだ。彼女からは他の女のように艶っぽい眼差しを向けられたことが無い。彼女のそれは、いつも少女のように純粋だった。面白くない、と思う気持ちを逸らすためにローは取り上げた彼女のリストの頁をパラパラと捲る。最近追加された顧客を見ていると、一つ気になることがあった。
「最近の顧客、日本人ばっかりじゃねェか。何で日本円ばっかり集めてんだよ」
「だって、日本円じゃないと買えないもの」
怪訝そうに眉を顰めるローに、彼女の瞳は何一つ曇りが無い。
「何を買うんだ」
「タカラヅカのチケットとかBlu-rayとか色々」
「は?タカラ?何だそれ」
「タカラヅカ」
ナマエは頷きながら言った。しかし、残念なことにローには彼女が自信に満ちて発した単語を全く理解できなかった。彼はナマエよりも語彙力が豊富で知識も桁違いの筈だった。それなのに、彼女の言っていることがさっぱり理解できない。
「日本でしか見れないお芝居よ。役者さんは皆女の人なの!背が高くてシュッてしてる女の人が男役をやるの!キラキラしててすっごく格好良いんだー」
両手を胸の前で組んでうっとりとしているナマエの語彙力が無いのはいつものことなのでこの際放っておく。
「あ、そうだ。ロー、名前と住所貸して」
「何に使うか聞いていいか」
「ローの名義で抽選に申し込むわ。推しの卒業公演の大千秋楽、絶対見たい」
ナマエは拳を握って意気込んでいるが、ローとしては何故そこまで頑張る必要があるのか理解ができない。
「チケットなんて魔術でどうともなるだろ」
その瞬間、この部屋の温度が確実に三度くらい下がった。彼女の瞳は今までで見たことが無い程に冷え切っていた。こいつのこんな顔初めて見た。この顔を集落の少年たちに見せてやれば苛めも少しはマシになっただろうに。
「ズルして手に入れたチケットに何の意味があるの?」
ローは心底思った。知らねェよ、そんなもの。転売屋は死ぬより酷い目に合わせる?もっとどうでもいい、そんなもの。完全に向こう岸の人物となったナマエに、ローは頬を引きつらせた。
「そもそも、何でそれにハマったんだ」
「……話すと長くなるんだけど」
「手短に話せ」
にべも無いローの返答に嫌そうな顔をした後に、ナマエは語り出した。彼女とタカラヅカの運命の出会いを。
これは少し前のことだ。
彼女の顧客の一人、恋愛事に悩んでいた女が彼女に勧められた商品を購入して無事に破談になった。そこで彼女の顧客だった女は、ヒステリックに叫んではナマエの胸ぐらを掴んで酷く恐ろしい顔で彼女を糾弾した。曰く「あんたは悪魔だから恋愛感情が理解できないんだわ!あんたみたいな悪魔に頼った私が馬鹿だった!潰れてしまえこんな店!!」それを聞いたナマエは落ち込みに落ち込み、暫く食事も喉を通らず不眠が続いたらしい。顧客はローに取られてばかりだし、肝心の恋愛ごとの顧客の満足度はゼロどころかマイナスだ。一緒の時期に店を持ったのに、ローは今や従業員を三人も雇う余裕のある立派な店を構えた。片やナマエは場所代を払って趣味にお金を使えばすぐに売り上げが無くなってしまう。貯金なんて夢のまた夢だ。
きっと、彼女の言葉は一理ある。自分は恋愛というものが理解できていないのだ。猛省した彼女は、前を向くことにした。いつまでもくよくよしても何も始まらない。
そこで、アグレッシブな彼女は古今東西の様々な恋愛ものを読んだり見たりしてみることにした。本に漫画、ドラマや映画、そして舞台。
ローはその話を聞きながら、今までの自分の行動を悔いた。ちょっと目を離していた隙に何をしてるんだこの女。もっと監督すべきだった。
そんなローを他所に、彼女の語りは尚も続く。そこで出会ったのがタカラヅカ。登場人物は全て女性が演じる独特の華やかな世界。女性が追及する理想の男性像は見事に彼女の胸を撃ち抜いたのである。そして彼女は所謂“推し”の出ている舞台のBlu-rayを購入し片っ端から見て、ファンレターまで書いたという。どこの世界に人間にファンレターをしたためる悪魔の商人がいるというのだ。
そこからは、彼女の“推し”が如何に素晴らしいかのトークが早口で続いたのだが、ローの心中は穏やかでは無かった。彼はナマエには若干優しいので最初は相槌を打ってやったが、最終的には聞き流すことにした。
何故、好きな女の口から彼女が好きな女の話を聞かなければいけないのか。面白くない。物凄く面白くない。段々と相槌が適当になっていく彼を誰が責められよう。しかし、それがお気に召さなかった彼女は理不尽にも暴言を吐いた。
「何よ、馬鹿にした顔して!じゃあ、ローは恋愛したことあるわけ?」
彼女の言い草に、とうとうローはキレたのだ。彼は地を這うような重低音で「あ?」と一文字だけ返事をした。近年稀に見るローの不機嫌な声にナマエは震えあがったが、どうやら余計なことに気が付いたようだった。ナマエ的には鼻で笑われて適当に流されると思ったのだ。それなのに。この反応はもしや。
「ちょっと待って、ロー。好きな人がいるの?」
目を輝かせ、興奮のあまり背伸びをして胸ぐらを掴んでくるナマエの手を無理やり引き剥がすと、ローはそのまま彼女の手を引いて店の入り口まで行く。そして、ドアを勢いよく開けると遠心力に従って彼女を放り出した。転がっている彼女を横目に、無言で店のドアノブに「Closed」の看板をさっとかけたローは、バタンと扉を閉める。当然鍵もしっかりかけた。扉の外ではドンドンと叩く音ときゃんきゃん喚く女の声が聞こえるが、煩いので魔術で音を遮断した。ローが溜息を吐いていると、静かになった店内の奥からひょっこりとサングラスの男とペンギンの乗った帽子を被った男が顔を覗かせた。この店の従業員のシャチとペンギンである。
「騒がしかったけど、ナマエちゃん来てたんですか?」
この店でそれなりに長く働いている彼らは、ローの幼馴染の悪魔の襲来をよく目撃している。彼ら二名もれっきとした男であるが、信頼している友人のローが選んだ人物ということでナマエとも友好的な関係を保っていた。
憮然としてドアの前に立つローにシャチは小首を傾げたが、ペンギンは溜息を吐いた。
「教えてあげればいいじゃないですか。店長が取ったあのお客、彼女から買い取った商品を買い取った金額の三倍で転売してたって」
「あいつ、この仕事向いてねェんだよ。あいつの客はそんな奴等ばっかりだ」
ナマエは、馬……じゃなかった、大層素直でお人好しなので人間を掌の上で踊らせるどころか、逆に踊っていることが多々あるのだ。ローはそのような客を見つけ次第、誘惑しては自身の店に連れ込み扱い方が非常に難しい商品を売りつけている。当然、間違えれば破滅へ一直線、死ぬよりも酷い目に遭うものばかりを。ローはナマエの数倍以上の顧客を抱えておりとても忙しい筈なのに、合間を縫ってよくやっているよなぁと感心すらしてしまう二人だった。
「まず値段設定がおかしいですよね。利益が殆ど無いし、気分で更に値引しちゃうんでしょ」
呆れるペンギンに全面同意だ。いつまでも儲からない彼女の店を見れば分かるように、彼女には商才が無いに等しかった。珍しい品物も大してお金を盛らないのだ。基本的に利率は皆同じ。人間から見れば非常に良心的な値段設定だが、同業者から見れば狂気の沙汰だ。
「さっさと永久就職させちゃえばいいでしょうに。それが駄目でも従業員一人くらい雇えるでしょ」
頭の後ろで両腕を組んでシャチは言う。
こいつら勝手なことを言いやがる。それができたら苦労しねェよ。ローは苦い顔をした。
満月の晩に金の盃を上質な酒で満たし、そこに銀のコインを入れる。それから、沈みゆくコインと盃に映る月を重ね、目を瞑って心の中で願い事を唱えます。
目を開けるとそこには、貴方の願いを叶える為の不思議な店。店に入ると貴方の来訪を知っていたかのように、笑う悪魔がいるのです。
今宵、貴方が辿り着いたのはどこの悪魔の商店か。
貴方の願いはきっと、叶うでしょう。
けれども、悪魔との契約には注意が必要。上手い話には必ず裏がある。魅力的な品物は、使い方を間違えれば手痛い報復をしてくるのです。死ぬなんて生易しいものではなく、もっと酷いことが起きるかも。
商人の話をしっかり聞いて、よく考えて購入しましよう。全てはそう“自己責任”。
けれども、人間たちは愚かなもので悪魔の商品を求めては、次から次へと現れるのです。可哀想な彼らは悪魔の掌の上で戯曲を演じ、今日も歌って踊るのでしょう。喜劇か、悲劇か、それは貴方の行い次第。
どうやら今日もまた一人、ご来店。
その男は、黒い革張りのソファに長い足を組んで座っていた。硝子のローテーブルを挟んで対極に座るのは、男と同年代くらいの外見の女。ルージュを引いた女の唇は弧を描き、彼女を見つめる男の口角も吊り上がる。
「素晴らしい商品だわ。じゃあ、これを頂くわ」
「サインはここに書け」
男は、女が華やかなネイルの指先で万年筆を握ってサインをしているのをじっと見ていた。そして、女が万年筆を置くと彼女の手を自身のそれで包むように撫でる。
「今後もよろしくな。“あいつ”以上に満足させてやるよ」
琥珀の瞳を蠱惑的に細めた男は女に睦言でも囁くように言う。整った容姿の男にそのように言われては、女も初心な少女のように顔を赤くしてただ頷くしかない。
「また来るわ」
名残惜し気に男に目配せをした女は、ハイヒールの足音を響かせて商談室を出て行った。そんな女を見送って静かになった部屋で男は独り言ちる。
「“また”は無ェよ。馬鹿な女」
すっかり冷めきった瞳と声音で男は緩慢に椅子から立ち上がり、商談室を出て行こうとした。そのときだ。カンカラカンっと尋常では無い爆音を奏でる来店ベルと、乱暴に開かれた扉が壁にぶち当たる固い物音と共に一人の女の声が店内に響き渡った。
「ちょっと、ロー!また私のお客様取ったでしょ!あの人、金払いの良い上客だったのに!」
どたどたと慌ただしい足音を立てて物凄い勢いで商談室に飛び込んできた女は、背伸びをすると彼の胸ぐらを掴む勢いで詰め寄った。興奮して熱くなった彼女と違って、対する彼の声音はただ静かだ。
「あの女、もうお前じゃ満足できねェって」
勝ち誇ったように口角を上げてみせたローに、女は悔しそうに唇をぎゅっと噛んだ。
「残念だな。なァ、ナマエ」
わざとらしく同意を求めてみれば、言葉では勝てないと悟ったナマエは物理で報復を試みた。しかし、渾身の一撃だったはずのそれは簡単に男の右手に収まったのだった。
☆
ナマエという女がいる。
彼女はローと同じ集落で生まれ育ち、彼と幼少期からの付き合いのある悪魔だ。ロー達が暮らしていた場所には年の近い子供があまりおらず、唯一の女子が彼女だった。そんな彼女は、蝶よ花よとお姫様のように周りの少年からチヤホヤされて育った、と言いたいところだが現実は彼女に厳しかった。
ナマエは腹の探り合いや騙し合い、水面下の小競り合いが日常茶飯事の悪魔たちの中である意味異端だった。彼女は馬……じゃなかった、大層純粋で騙されやすく、のんびりしたお子様だったので、周りの少年たちの苛めの格好のターゲットだったのだ。
成人した今、思い返してみれば少年たちの行動は、所謂“好きな子を苛めちゃう例のアレ”なのだが、そんなことは苛められる側にとっては全く関係ない。
彼女は少年たちに心無い言葉で揶揄われ、お気に入りの帽子を高いところに隠され、可愛くセットした髪をボサボサにされ、徹底的に苛められた。彼女はいつも言っていた。「男の子は乱暴だし酷いことするからみんな嫌い!」
結果として、可哀想な彼女は男嫌いを拗らせた。
ところが、厄介なことにナマエは異性が嫌いな癖に恋愛話には興味深々であった。女悪魔は噂話と誰かの色恋事が大好きだという定説があるが、彼女も漏れなくそうだったらしい。
悪魔は一般的に、幼少期に魔術を学んである程度の年齢に達すると見習いとして先輩の悪魔の店で働き、やがて独り立ちして自分の店を持つ。
例にもれずに独り立ちして店を構えたナマエは、メインターゲットを若い女性にして客商売を始めた。勿論、女性たちの悩み事(主に恋愛ごと)に首を突っ込む為である。
そして、他人の恋愛ごとにエンタメ感覚で首を突っ込んでは、頓珍漢な商品を売りつけて引っ掻き回す傍迷惑な悪魔の商人が爆誕したのである。恐ろしいことに本人は大真面目に良かれと思っているのだから余計始末に負えない。
とはいえ、彼女が聞く恋愛話はあくまで女の相談のみ。男が嫌いな彼女の顧客は全員女。客といえども男性は一切相手にしないという徹底ぶりだった。
ところで、ローは立派な男性であるが彼女から嫌われてはいない。何故なら、彼は同年代の少年たちの中で唯一ナマエを苛めることをしなかったからだ。ローとしてはそんな馬鹿で無駄なことをやる奴らの気が知れなかったのだ。そして、同じ集落の少年たちも明らかに数枚上手のローとやり合うことはせず、寧ろ彼を恐れて寄ってこなかった。同年代の友人がいないナマエにとって、彼は色々な意味で特別だった。そのため、大層懐かれたのだ。ナマエの幼少時代は、少年たちに苛められるか、ローの隣でのんびりしているかの両極端な二択だった。これは刷り込みにも近い何かがある。そのおかげでナマエの顧客を何人奪えども、ローは彼女に嫌われることは無い。
それに加えてもう一つ。あれは、二人がまだ独り立ちする前のことだ。人間の外見年齢で言うと12歳くらいの話になる。
ある日、例によって例の如く少年たちに憤慨しているナマエにローは尋ねた。「お前、おれのことは嫌いじゃないのか」と。それにナマエは大きな瞳をぱちくりとさせた。
それから彼女は「ローはローじゃない」と、小首を傾げたのだった。つまり、ナマエの中で彼は、性別=トラファルガー・ローという恐ろしい式が成り立っているのである。男とすら思われていない。
そんな面倒な女に男と意識されなくても、ローは人間や悪魔問わず物凄くモテるので問題は無い、と言いたいところだが実際は問題大アリだった。
物凄く屈辱的なことにローはこの面倒臭い女悪魔のことが好きなのである。残念なことにLIKEではなくLOVEの方だ。よって、この不毛な友人関係を100年以上続けている。悪魔の寿命は人間と桁違いに長いから成り立つ微温湯のような時間は、通常だったら人生が終了しているくらい気の遠くなるものなのだ。
その100年の間に店を持った二人は、元からの商才も相まって格差が物凄いことになっていた。ローの店は軌道に乗って一戸建ての店を買い従業員を雇えるほどになったが、駆け引きがド下手なナマエは未だに店も賃貸で場所代を支払うのに四苦八苦しているらしい。
悪魔の構える店は基本的に“人間ではない者たちが住む世界”に存在する。酒を供物に呼ばれた時だけ、人間界と自分たちの世界を繋げるのだ。しかし、昨今は人間界でひっそりと店を構えている悪魔も多い。ローは人のあまりいない静かな片田舎に店と住居を兼ねた洋館を、ナマエは場所代が高いだけの都会の雑居ビルに店を構えている。お互いの店はかなりの距離があるのだが、移動の魔術によってあっという間に着く。よって、顧客から契約を破棄されたことを知ったナマエはマッハでローの店に怒鳴りこんできたのだ。
そして今。ローは件の女悪魔に睨みつけられていた。彼女は小ぶりなポシェットから真っ赤な革の手帳を取り出すと、据わった瞳でローの眼前にそれを突きつけた。沢山の名前が羅列されたそれは、どうやら彼女の顧客リストらしい。しかし、その半分近くが赤い線で名前を消されている。
「これ、この赤で消されてる人。何だか分かる?」
「書き損じか?お前、そそっかしいんだからちゃんと下書きしろよ」
「惚けないでよ!分かってるんでしょ、これぜーんぶローに取られた私のお客様!」
ナマエはローに食って掛かったが、全く悪びれない彼の態度が彼女の怒りに油をどばどばと注いでいった。後は想像に容易い。彼女の短い堪忍袋の尾は完全に千切れ飛んだのである。
「どうして私のお客様ばっかり横取りするの?!ローはお客様いっぱい抱えてるじゃない!大物政治家やらハリウッドスターやら!相当良いお酒じゃないとローの店に繋がらないって聞いた!」
「お前の店は缶チューハイでも繋がるもんな」
これはあまり知られていないことだが、金の盃に満たした酒の質によって繋がる商店の悪魔のランクが変わってくるのだ。
質の良い酒を捧げれば上級の悪魔の店に呼ばれやすくなる。現在上級の悪魔の部類に入っているローは供物も客も選びたい放題だが、未だに下級悪魔のナマエは客を選べない。唯でさえ男という選択肢を除外して半数を減らして自分の首を絞めている。そんな彼女はビジネスチャンスを逃すまいと、どんな酒でもぐいぐいと営業に行くことにしているのである。一部の例外を除いて。
「な、何故それを……」
適当にカマをかけただけだったのだが、事実だったらしい。「でもビールは苦いからビールじゃ繋がないもん」と謎にうちひしがれるナマエの手から、ローは真っ赤な革の手帳をひょいっと取り上げた。
「これは個人情報の流出だ。今は厳しいんだから、バレたら罰則くらうぞ」
「分かってるよそんなの。ローにしか見せませんー」
そう言ってナマエは舌を出した。彼女はよく“ローだから”“ローにしか”と宣うが、この特別扱いはちっとも嬉しくない。ナマエの中で彼が一番仲の良い友人扱いをされているのがハッキリと読み取れるからだ。彼女からは他の女のように艶っぽい眼差しを向けられたことが無い。彼女のそれは、いつも少女のように純粋だった。面白くない、と思う気持ちを逸らすためにローは取り上げた彼女のリストの頁をパラパラと捲る。最近追加された顧客を見ていると、一つ気になることがあった。
「最近の顧客、日本人ばっかりじゃねェか。何で日本円ばっかり集めてんだよ」
「だって、日本円じゃないと買えないもの」
怪訝そうに眉を顰めるローに、彼女の瞳は何一つ曇りが無い。
「何を買うんだ」
「タカラヅカのチケットとかBlu-rayとか色々」
「は?タカラ?何だそれ」
「タカラヅカ」
ナマエは頷きながら言った。しかし、残念なことにローには彼女が自信に満ちて発した単語を全く理解できなかった。彼はナマエよりも語彙力が豊富で知識も桁違いの筈だった。それなのに、彼女の言っていることがさっぱり理解できない。
「日本でしか見れないお芝居よ。役者さんは皆女の人なの!背が高くてシュッてしてる女の人が男役をやるの!キラキラしててすっごく格好良いんだー」
両手を胸の前で組んでうっとりとしているナマエの語彙力が無いのはいつものことなのでこの際放っておく。
「あ、そうだ。ロー、名前と住所貸して」
「何に使うか聞いていいか」
「ローの名義で抽選に申し込むわ。推しの卒業公演の大千秋楽、絶対見たい」
ナマエは拳を握って意気込んでいるが、ローとしては何故そこまで頑張る必要があるのか理解ができない。
「チケットなんて魔術でどうともなるだろ」
その瞬間、この部屋の温度が確実に三度くらい下がった。彼女の瞳は今までで見たことが無い程に冷え切っていた。こいつのこんな顔初めて見た。この顔を集落の少年たちに見せてやれば苛めも少しはマシになっただろうに。
「ズルして手に入れたチケットに何の意味があるの?」
ローは心底思った。知らねェよ、そんなもの。転売屋は死ぬより酷い目に合わせる?もっとどうでもいい、そんなもの。完全に向こう岸の人物となったナマエに、ローは頬を引きつらせた。
「そもそも、何でそれにハマったんだ」
「……話すと長くなるんだけど」
「手短に話せ」
にべも無いローの返答に嫌そうな顔をした後に、ナマエは語り出した。彼女とタカラヅカの運命の出会いを。
これは少し前のことだ。
彼女の顧客の一人、恋愛事に悩んでいた女が彼女に勧められた商品を購入して無事に破談になった。そこで彼女の顧客だった女は、ヒステリックに叫んではナマエの胸ぐらを掴んで酷く恐ろしい顔で彼女を糾弾した。曰く「あんたは悪魔だから恋愛感情が理解できないんだわ!あんたみたいな悪魔に頼った私が馬鹿だった!潰れてしまえこんな店!!」それを聞いたナマエは落ち込みに落ち込み、暫く食事も喉を通らず不眠が続いたらしい。顧客はローに取られてばかりだし、肝心の恋愛ごとの顧客の満足度はゼロどころかマイナスだ。一緒の時期に店を持ったのに、ローは今や従業員を三人も雇う余裕のある立派な店を構えた。片やナマエは場所代を払って趣味にお金を使えばすぐに売り上げが無くなってしまう。貯金なんて夢のまた夢だ。
きっと、彼女の言葉は一理ある。自分は恋愛というものが理解できていないのだ。猛省した彼女は、前を向くことにした。いつまでもくよくよしても何も始まらない。
そこで、アグレッシブな彼女は古今東西の様々な恋愛ものを読んだり見たりしてみることにした。本に漫画、ドラマや映画、そして舞台。
ローはその話を聞きながら、今までの自分の行動を悔いた。ちょっと目を離していた隙に何をしてるんだこの女。もっと監督すべきだった。
そんなローを他所に、彼女の語りは尚も続く。そこで出会ったのがタカラヅカ。登場人物は全て女性が演じる独特の華やかな世界。女性が追及する理想の男性像は見事に彼女の胸を撃ち抜いたのである。そして彼女は所謂“推し”の出ている舞台のBlu-rayを購入し片っ端から見て、ファンレターまで書いたという。どこの世界に人間にファンレターをしたためる悪魔の商人がいるというのだ。
そこからは、彼女の“推し”が如何に素晴らしいかのトークが早口で続いたのだが、ローの心中は穏やかでは無かった。彼はナマエには若干優しいので最初は相槌を打ってやったが、最終的には聞き流すことにした。
何故、好きな女の口から彼女が好きな女の話を聞かなければいけないのか。面白くない。物凄く面白くない。段々と相槌が適当になっていく彼を誰が責められよう。しかし、それがお気に召さなかった彼女は理不尽にも暴言を吐いた。
「何よ、馬鹿にした顔して!じゃあ、ローは恋愛したことあるわけ?」
彼女の言い草に、とうとうローはキレたのだ。彼は地を這うような重低音で「あ?」と一文字だけ返事をした。近年稀に見るローの不機嫌な声にナマエは震えあがったが、どうやら余計なことに気が付いたようだった。ナマエ的には鼻で笑われて適当に流されると思ったのだ。それなのに。この反応はもしや。
「ちょっと待って、ロー。好きな人がいるの?」
目を輝かせ、興奮のあまり背伸びをして胸ぐらを掴んでくるナマエの手を無理やり引き剥がすと、ローはそのまま彼女の手を引いて店の入り口まで行く。そして、ドアを勢いよく開けると遠心力に従って彼女を放り出した。転がっている彼女を横目に、無言で店のドアノブに「Closed」の看板をさっとかけたローは、バタンと扉を閉める。当然鍵もしっかりかけた。扉の外ではドンドンと叩く音ときゃんきゃん喚く女の声が聞こえるが、煩いので魔術で音を遮断した。ローが溜息を吐いていると、静かになった店内の奥からひょっこりとサングラスの男とペンギンの乗った帽子を被った男が顔を覗かせた。この店の従業員のシャチとペンギンである。
「騒がしかったけど、ナマエちゃん来てたんですか?」
この店でそれなりに長く働いている彼らは、ローの幼馴染の悪魔の襲来をよく目撃している。彼ら二名もれっきとした男であるが、信頼している友人のローが選んだ人物ということでナマエとも友好的な関係を保っていた。
憮然としてドアの前に立つローにシャチは小首を傾げたが、ペンギンは溜息を吐いた。
「教えてあげればいいじゃないですか。店長が取ったあのお客、彼女から買い取った商品を買い取った金額の三倍で転売してたって」
「あいつ、この仕事向いてねェんだよ。あいつの客はそんな奴等ばっかりだ」
ナマエは、馬……じゃなかった、大層素直でお人好しなので人間を掌の上で踊らせるどころか、逆に踊っていることが多々あるのだ。ローはそのような客を見つけ次第、誘惑しては自身の店に連れ込み扱い方が非常に難しい商品を売りつけている。当然、間違えれば破滅へ一直線、死ぬよりも酷い目に遭うものばかりを。ローはナマエの数倍以上の顧客を抱えておりとても忙しい筈なのに、合間を縫ってよくやっているよなぁと感心すらしてしまう二人だった。
「まず値段設定がおかしいですよね。利益が殆ど無いし、気分で更に値引しちゃうんでしょ」
呆れるペンギンに全面同意だ。いつまでも儲からない彼女の店を見れば分かるように、彼女には商才が無いに等しかった。珍しい品物も大してお金を盛らないのだ。基本的に利率は皆同じ。人間から見れば非常に良心的な値段設定だが、同業者から見れば狂気の沙汰だ。
「さっさと永久就職させちゃえばいいでしょうに。それが駄目でも従業員一人くらい雇えるでしょ」
頭の後ろで両腕を組んでシャチは言う。
こいつら勝手なことを言いやがる。それができたら苦労しねェよ。ローは苦い顔をした。
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