春告げ鳥と花の唄
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「じゃあね、ロー先生。皆。本当にありがとう」
カトラの船着き場に立ったナマエは綺麗に微笑んだ。かしこまったように長いスカートを摘まんで優雅に頭を下げるその仕草は、まさに貴族のお嬢様だ。やはり、彼女は自分たちとは住む世界が違うのだ。一週間彼女と過ごした結果、気の良い彼らは彼女に完全に情が移っていたので、しんみりとしてしまった。クルー達は船べりに身を乗り出して彼女の姿が見えなくなるまで手を振っていたが、ローはそれには見向きもしない。それどころか、さっさと自室へと戻ろうとするのだ。
「キャプテン、いいの?」
引き留めたベポにローは眉根を寄せる。
「何がだ」
「ナマエ、行っちゃうよ」
「元からそういう話だったろ」
にべもないローの返事に何か言いたげなクルー達の視線を無視してローは甲板から姿を消した。
◇
その日の深夜、ローはベッドの上でごろりと寝返りを打った。眠れないのだ。
ナマエが下船してからというもの、クルー達の視線がうざったいのである。食事時も「あー、ナマエ今頃何をしてるんでしょうね」「さびしー」等とローをちらちらと見ながらこれ見よがしに彼女の話題を口にする。そのくせにローが一睨みすると顔を真っ青にして黙るので、彼らは皆して断崖絶壁に向かってチキンレースでもしているのだろうか。甚だ疑問だ。最初はナマエのこと良く思ってなかったやつもいたよな。この一週間でその変わりようはなんだ。
その原因の一端に自分がいるとは思っていないローは、物凄く面白くなかったので今日は早めにベッドに潜った。ちなみに彼の早めとは、それでも日付が変わった頃である。
船の構造上、小さな丸窓からは月の光が入ってきて仄かに部屋を照らしている。完全な暗闇では無いので、明るくて寝れない。それが原因に違いない。あの女が原因では無い。断じて違う。ローはベッドから抜け出すと、遮光する為に窓辺に寄った。覗いた丸窓の外には夜の静かな海が広がっている。白い砂浜は月の光を浴びて青白く浮かび上がっていた。それから、その幻想的な砂浜にふらりと人影が見える。
目を凝らしてその影の持ち主が誰なのか気付いたローは、素早くシャツを着ると能力で外に飛んだ。
外に出たローの耳を潮騒の音がくすぐった。白い砂浜は月明かりに照らされてぼんやりと光っているので、思ったよりも明るい。夏島の気候はからりとしていて、かすかに吹いている夜風がとても心地よい。人影が見えた方に歩いていくと、近づくにつれて波と風の音に混ざって微かな歌声が聞こえてきた。
大勢に聞かせるような洗練された旋律ではなく、大切な誰かにこっそりと聞かせる子守唄のような素朴な旋律だった。その声の持ち主が誰か、ローは知っていた。暗くなったエメラルドブルーに素足を浸した女がいる。ふわりと海風に彼女の柔らかく長い髪が踊った。
「何の歌だ」
「知らないわ。小さいときに母が歌ってくれたの」
ナマエだった。突然現れたローに驚くことなく、彼女は小さく微笑んでみせた。
そのふっきれたような、諦めたような笑顔を見て、彼女の中で何かが片付いたのだとローは悟った。彼女は波打ち際からこちらにゆっくりと歩いてきて、ローの隣に並ぶ。
「私は勝手に“花の唄”って呼んでるわ」
「そのまんまじゃねェか」
確かにローが聞き取れた歌詞には花の名前が沢山でてきていた。ローの感想にナマエは「言われてみれば確かにそうだわ」と大真面目に頷いた。
「何か良いタイトル案は無いかしら」
「おれに聞くな」
それから二人はただ静かに夜の海を見ていた。お互いに黙っているので、波と風の音しか存在しない世界に二人だけ取り残されたようだった。
「これからどこに行くんだ」
「そうね」
ナマエは星空を仰いだ。その白い喉元がぼんやりと月明かりに照らされて、大理石のように輝いている。艶めかしさと、彼女のもつ清廉とした雰囲気のアンバランスさが何故かローの目を惹いた。彼女のことを純粋に綺麗だと思ったのだ。ローの視線に気付いていないのか、気付かないふりをしているのかナマエはずっと宝石箱のような星空を見ている。その星空ごとそのまま彼女をどこかにしまってしまえたら良いのに。なんて、柄にもないことを考えてしまった。それも全部この女の所為だ。
ふと、ナマエはローに視線だけを向けた。微かに開いたその唇は、きっと“帰ろうかしら”と言おうとしたに違いない。だけれども、ローはそれを言わせなかった。
「お前の病気は治っていない」
ナマエは目を瞬いて、今度は視線だけではなくその顔もローに向けた。彼女はローの真意を測りかねているようだった。
「まだ万全じゃねェ。治るまで、おれが診てやる」
理由が欲しいならいくらでもくれてやる。彼女の瞳の奥は語っていた。帰りたくないのだと、できることならこのまま海にでも溶けてしまいたいと。この女の思い通りになんか誰がしてやるものか。
「お医者様がそう言うなら間違いないわ。ありがとう、ロー先生」
月明かりのように柔く微笑んで、ナマエはローの手を取った。夜風に晒されていた彼女の手は、それでも温かかった。
ローはその手を引いて、逃がさないとばかりに後ろから抱きしめた。そしてそのまま能力を使って一瞬で自室に戻った。突然変わった景色にナマエはただ目を白黒させている。
「ロー先生、能力者だったの?」
「知らなかったのか」
「知らなかったわ」
そっと彼女を抱く腕を解くと、ナマエはローから自然な仕草で一歩だけ距離を取った。
「医者で、海賊で、船長で、能力者なのね。ちょっと属性盛り過ぎじゃない?」
「属性ってなんだ」
謎の文句を付けられたが意味が分からないし、ナマエの方も面倒な属性とやらがてんこ盛りである。試しに数個挙げてみると、彼女は「それ全部悪口じゃない!」と気分を害したようだった。子供のようにいっと歯を見せて威嚇してきたので、ローは鼻で笑ってやった。これ以上は不毛だと判断したのか、ナマエはそっぽを向いてローから更に距離を取った。のだが、暗かったので何かに躓いたようで後ろにひっくり返ってしまった。小さく悲鳴を上げるナマエに呆れながら無事を尋ねると、むっすりとした声で返事が返って来た。大丈夫らしい。彼女が同じ過ちを繰り返さないように、ローは机の上に置いてあったランプに火をつけてやった。煌々と部屋全体の灯りをつける必要も無いだろう。ぼんやりとした灯りに照らされる部屋に、先程の痛みを忘れたのかナマエは物珍しそうに辺りを見回している。
「私、ロー先生の部屋に入るのは初めてだわ」
ローとて、クルーでもない女を部屋に入れたのは初めてだ。何が楽しいのか分からないが、立ち上がった彼女は上機嫌で部屋を見て回った。余計なものに触るなよ、と言おうとした丁度そのときだった。
「あ、薬」
机の上にはナマエの為に調合した薬の小瓶が置きっぱなしだった。それを目敏く見つけたナマエは小瓶を持ち上げる。早速余計なものに触ったナマエにローは嘆息した。
「この薬、本当によく効くのね。とても不味いけど」
相当思うところがあるのかどんどん言葉尻が鋭くなっていくので、ローは返事をしないことにした。味については色々と頭に来るこの女への意趣返しだったのだが、今なら可哀想だと思わなくもない。ほんの小匙一杯分であるが。ローから何の反応も貰えないと察した彼女は、小瓶を机に戻してから言葉を続けた。
「前の薬を飲んでるときは、よく怖いものを見たわ。ロー先生は凄いのね。この薬を飲んでからちっとも見なくなったわ。……とても不味いけど」
彼女のこの薬に対する感情は相当深いものがあるらしい。諦めずにこの薬の不味さについて更に文句を言われているが、ローとしてはそれよりも気になることがあった。薬物中毒者が見る“怖いもの”と聞いて嫌な予感しかしない。きっと幻覚だ。しかし、それを悟られるわけにはいかないのでローは静かに尋ねた。
「どんなものを見たんだ」
「辺り一面が真っ白なの。とても寒くて、凍えそうになる」
一番最初にナマエがその症状の片鱗をローに見せたとき、彼女はひたすら「寒い」と譫言のように言っていた。白くて寒いものといえば雪だ。彼女が見る幻覚とは雪なのだろう。
「雪が怖いのか」
「そうね。私はフレジアの人間だから」
彼女は遠くを見ていた。きっと、丸窓の外のその遥か向こうにある春の国を。
「だって」
そして、小さな声で独白する。あっという間に空気に溶けて消えてしまいそうな声だったが、それはローの耳にしっかりと届いた。
「雪が降ったら、全てが終わるもの」
それっきり、彼女は口を閉じた。それから暫くは無音がこの部屋を包んだ。彼女も思うことがあるのだろう、と放っておいたローだったが暫くして自分の判断ミスに気が付いた。
ナマエは静かに震えていたのだ。その様子は明らかに尋常では無い。そして、足から力が抜けて立っていられなくなったのか、糸が切れたようがくりと膝をついた。そのまま彼女は細い両腕でぎゅうっと自身を包んで丸くなる。歯をかたかたと鳴らして「寒い」とひたすら繰り返した。
ローの能力で蓄積していた睡眠薬も麻薬も取り除いたが、根付いた中毒症状はすぐに治るわけではない。寧ろ今まで出てこなかったのが奇跡に近い。何が彼女の引き金となったのかは分からないが、過度なストレスがかかったのだろう。ローは膝をつくと、ナマエの両肩を軽く揺さぶって顔を上げさせた。青白いその顔に光の消えた双眸。
しかし、一瞬だけ光が灯ったのをローは見逃さなかった。その消え入りそうな光は、助けを求めていた。だったらそう言えば良いのに、ナマエは「寒い」としか言わない。そう言える相手がいなかったのか、それが言えない難儀な女なのか、たった一週間程度しか彼女を知らないローには分からない。ただ一つ分かるのは、この女に求められたいということだった。
ローは小さくなっている彼女をかき抱いて、震える彼女の背をあやすように優しく叩く。ナマエの手がローのシャツの胸元をぎゅっと掴んだ。まるで、迷子の子供が親を見つけたような必死さで。
やがて震えが収まると、ナマエはほうっと吐息を吐き出した。
「温かいわ」
ローのシャツを握った手を解いて、彼の背に腕を回したナマエは微笑んだ。その両腕はぎこちなく、まるで抱きしめ返して良いのかと迷っているようだった。
「ロー先生はやっぱり凄いのね。薬、飲まなくても治まったわ」
医者としてだったら薬を飲ませるなり、もっと冷静な対処を取った筈だ。ローは今、ただの男としてナマエを抱きしめたのだ。とんでもなく鈍い女だ。この至近距離でもナマエはじっと目を逸らさずにローのことを見ている。完全に意識されていない。キスの一つや二つしてやればこの女も分かるのだろうか。ローがぐっと顔を近づけると、その唇に触れたのは柔い感触ではなく、固いものだった。ナマエがローの唇と自分の唇の間に手を入れたのだ。結果としてローは彼女の掌に口付けることになった。苛立ちを隠さないローの瞳の迫力に少し押されて、彼女は片手で彼の胸板を押した。
「“それ”は結婚するまで駄目だってばあやが言っていたわ」
また“ばあや”か。こいつの常識の8割は謎の老婆の教えで形成されているのでは。
この箱入りが。だったらずっと箱に収まっておけばいいものを。ローは心底馬鹿らしくなってナマエから離れた。
◇
「ナマエお帰りー!!」
クルー一同の熱烈な歓迎ぶりにナマエは眉根を下げながら首を傾げた。ここまで歓迎して貰えるのは嬉しいのだが、何故こんなに歓迎されるのか分からないという困惑が彼女の表情に滲み出ている。それにはローも全面同意だ。
今朝、しれっと自室代わりの処置室から出てきたナマエを目撃したクルーが大声で「ナマエがいる!!」と叫んだ為に全員がわらわらと集まってきたのである。あっという間に全員集合したクルーにローが「暫くこいつも乗せる」と言うと彼らは大喜びだった。とうとうその日の晩、勝手に宴会まで企画をし出したのだからその団結力をもっと別の所で発揮できないのかとローは思った。
「じゃあ、ナマエの帰還を祝って、乾杯!」
「かんぱーい!」
行儀悪く椅子の上に立ち上がって乾杯の音頭を取るのはシャチだ。クルー達も立ち上がって一斉にジョッキを掲げ、甲高い硝子が合わさる音があちこちで響く。
急遽始まったこの宴会であるが、六割くらいはナマエの為、残り四割くらいは理由をつけてただ酒を呑みたいだけである。
某同盟一味よりは控えめでTPOも弁えているが、彼らとてお祭り騒ぎが大好きなのだ。そのうち、どこぞの児童小説のように何でもない日だからといって祝いそうだ。宴会特有の熱気と浮かれた雰囲気に、お嬢様はすっかり委縮して食堂の隅の方で縮こまっていたのでローは彼女の前に座った。
「あまり気にするな。あいつらはただ酒を飲みたいだけだ」
「そうなの。楽しくて素敵ね」
謎の盛り上がりっぷりの理由が分かったナマエは、安心したように一息ついた。
素敵かどうかは置いておいて、楽しそうなクルー達を見るのは嫌いではない。ローは肯定の相槌を打った。壁に背を預けて辺りを見回すと、皆大口を開けて笑っている。楽しそうで何よりだ。
「ナマエは何飲む?!」
一杯目は林檎ジュースを選んだナマエを目敏く見ていたイッカクが、酒の入ったグラスを乗せたトレーを持って二人のいるテーブルまで押しかけてきた。黄金色、透明、真っ白、オレンジ。沢山の色味にナマエはどれを飲むのか迷っているようだった。このままだとずっと選んでいるのではないかと察したローは、さっとオレンジ色のグラスを取った。飲みやすくそこまで度が強くないミモザだ。
彼女は渡されたグラスを両手で持ってじっとミモザを見た。そして、くんくんと犬のように匂いを嗅ぐ。別に毒など入ってやしない。呆れるローの視線に見守られて未知との遭遇のような顔をしている彼女は、意を決したようにオレンジの香りのするお酒に口をつけた。こくり、と一口飲んだ彼女は無言で数秒間を開ける。その不自然な間にローが訝し気に目を細めていると、ナマエは今度は喉を鳴らしてミモザを一気に飲み干した。素晴らしい飲みっぷりだった。一丁前にぷはっと息を吐いた彼女は顔を輝かせた。
「美味しい。私、こんなに美味しいもの初めて飲んだわ」
「ナマエはいける口ね。もう一杯行っとく?」
「ええ、もっと飲んでみたいわ」
イカックが酒を取りにいなくなると、ナマエはクスクスと小さく笑った。
「実は、お酒を呑むの初めてなの。何だか悪いことをしている気分」
「お前、悪いことしたくて家を出たんだろ」
「そういえばそうね?」
「何で疑問形なんだよ」
小首を傾げるナマエにローは嘆息した。この女、本当に何をしに出てきたんだ。
しかし、悪いこととやらは建前で、何か他に目的があって、結局それが駄目だったことをローは知っている。だけれども、それを問うことはしない。人にはそう簡単に踏み込んではいけないもの、踏み込ませたくないものがあることを彼は身を持って知っているからだ。未だにそれをふと思い出すことがあるローは、まだ完全にそれを消化できていない。だから、彼はむやみやたらと詮索はしない。
その代わり、今の彼女を見守ろうと思っていた。そんな彼女は、二杯目のお酒を楽しみにしているようだが、今度はゆっくりと飲ませることに決めた。度数が少ないミモザとはいえ、最初からそんなハイペースでは早々に潰れそうだ。偏見だがこの女は酒に酔ったら面倒くさくなるような気がする。
「へーい!二杯目お待ち―!あとこれ」
イッカクに変わって二杯目を持って来たのはシャチだった。彼はグラスを机の上に乗せると、親指で後ろを指した。彼の後ろには、にこにこしたベポとペンギンが立っている。
「祝うっていったらホールケーキだろ!コックが作ってくれたんだぜ」
ベポが持つ大皿には円形のショートケーキがどんっと鎮座していた。ふわふわと真っ白なクリームがたっぷりと塗られ、赤く輝く立派な苺が乗っている。とても可愛らしいケーキ“だった”のだろう。過去形なのは、歪に入った切れ目の所為で事故現場のようになっているからだ。取り分けるためにナイフを入れたのだろうが、時と場合によっては戦争が起きそうな程に大きさに違いがあった。
「シャチが切ったからめっちゃ不平等だけど」
「コックも人選間違えたんだね」
「うるせェな!」
さらりと酷いことを言ってのけるベポにシャチは憤慨した。それから、わざとらしく咳ばらいをすると何事も無かったのかのようにベポからケーキの乗った大皿を奪い取り、それをずいっとナマエの前に差し出した。
「ほら、好きなの選べよ。ナマエのお祝いだからな」
「おれ苺のところが食べたい」
「お前は後!ナマエが先!」
ぴしゃりと言うシャチとぶーぶーと不満げなベポのやり取りをじっと見たナマエは少しだけ逡巡したあと、一番小さい一切れを選んだ。せっかくのショートケーキなのに苺が乗っていないし、いっそ芸術的な鋭角で切り分けられたケーキだ。
「この小さいのがいいわ」
「そんなんで良いのか?」
苺が乗っているところを全員が食べられるわけでは無いが、便宜上主役のナマエは当然苺を食べる権利がある。ハートの海賊団は船長のローを除いたメンバーの殆どが前のめりに自分の権利を主張してくるタイプなので、この反応は新鮮だ。シャチはその慎ましさに面食らった。
「ええ、実は楽しくて胸がいっぱいでお腹がそんなに空いてないの」
「マジか。ナマエ、そんなんじゃこの船で生き残れないぜ」
微笑むナマエに対するシャチの声のトーンは低く、本気が伺えたので彼女はごくりと唾を飲んで頷いた。
「おれの船でそんな意地汚い真似は止めろ」
「冗談ですって。……でも、キャプテン。これわりとマジですよ」
こそっと耳打ちしてくるシャチにローは眉を顰めた。だったら尚更止めろ。
「じゃあキャプテンはこれ!苺が乗ってて綺麗に切れたやつ。自信作です」
シャチは嬉々としてローにショートケーキを渡してきた。コックが言うならともかく、切っただけのケーキは自信作と言えるのだろうか。しかし、そこをつつくと面倒な反応が返ってきそうだったのでローは何も言わずにそれを受け取った。シャチはローにケーキを渡すと満足したようで、ベポとペンギンを引きつれて他のクルーにケーキを配りに行った。そして、歪で小さなケーキが目の前に置かれたナマエと、綺麗に切り分けられて苺が乗ったケーキが目の前に置かれたローが取り残された。
「やる」
ローはフォークで苺を刺すと、ナマエのケーキの上にぽとりとそれを落とした。急に豪華になったケーキに、ナマエは目をぱちくりとさせて、苺とローを交互に見つめる。
「欲しいなら正直に言え」
「ありがとう……優しいのね」
優しくなんかない。ただ、ナマエの何かを我慢した笑顔が嫌いなだけだ。
「私、ショートケーキが好きなの」
「そうか、良かったな」
幸せそうに苺を頬張る笑顔は嫌いでは無かったので、ローは頬杖をついてナマエがケーキを食べるのを眺めていた。
ふとナマエがぽつり、と何かを呟いた。けれどもその言葉は、周りの賑やかな喧騒に吸い込まれてローの耳には届かなかった。
カトラの船着き場に立ったナマエは綺麗に微笑んだ。かしこまったように長いスカートを摘まんで優雅に頭を下げるその仕草は、まさに貴族のお嬢様だ。やはり、彼女は自分たちとは住む世界が違うのだ。一週間彼女と過ごした結果、気の良い彼らは彼女に完全に情が移っていたので、しんみりとしてしまった。クルー達は船べりに身を乗り出して彼女の姿が見えなくなるまで手を振っていたが、ローはそれには見向きもしない。それどころか、さっさと自室へと戻ろうとするのだ。
「キャプテン、いいの?」
引き留めたベポにローは眉根を寄せる。
「何がだ」
「ナマエ、行っちゃうよ」
「元からそういう話だったろ」
にべもないローの返事に何か言いたげなクルー達の視線を無視してローは甲板から姿を消した。
◇
その日の深夜、ローはベッドの上でごろりと寝返りを打った。眠れないのだ。
ナマエが下船してからというもの、クルー達の視線がうざったいのである。食事時も「あー、ナマエ今頃何をしてるんでしょうね」「さびしー」等とローをちらちらと見ながらこれ見よがしに彼女の話題を口にする。そのくせにローが一睨みすると顔を真っ青にして黙るので、彼らは皆して断崖絶壁に向かってチキンレースでもしているのだろうか。甚だ疑問だ。最初はナマエのこと良く思ってなかったやつもいたよな。この一週間でその変わりようはなんだ。
その原因の一端に自分がいるとは思っていないローは、物凄く面白くなかったので今日は早めにベッドに潜った。ちなみに彼の早めとは、それでも日付が変わった頃である。
船の構造上、小さな丸窓からは月の光が入ってきて仄かに部屋を照らしている。完全な暗闇では無いので、明るくて寝れない。それが原因に違いない。あの女が原因では無い。断じて違う。ローはベッドから抜け出すと、遮光する為に窓辺に寄った。覗いた丸窓の外には夜の静かな海が広がっている。白い砂浜は月の光を浴びて青白く浮かび上がっていた。それから、その幻想的な砂浜にふらりと人影が見える。
目を凝らしてその影の持ち主が誰なのか気付いたローは、素早くシャツを着ると能力で外に飛んだ。
外に出たローの耳を潮騒の音がくすぐった。白い砂浜は月明かりに照らされてぼんやりと光っているので、思ったよりも明るい。夏島の気候はからりとしていて、かすかに吹いている夜風がとても心地よい。人影が見えた方に歩いていくと、近づくにつれて波と風の音に混ざって微かな歌声が聞こえてきた。
大勢に聞かせるような洗練された旋律ではなく、大切な誰かにこっそりと聞かせる子守唄のような素朴な旋律だった。その声の持ち主が誰か、ローは知っていた。暗くなったエメラルドブルーに素足を浸した女がいる。ふわりと海風に彼女の柔らかく長い髪が踊った。
「何の歌だ」
「知らないわ。小さいときに母が歌ってくれたの」
ナマエだった。突然現れたローに驚くことなく、彼女は小さく微笑んでみせた。
そのふっきれたような、諦めたような笑顔を見て、彼女の中で何かが片付いたのだとローは悟った。彼女は波打ち際からこちらにゆっくりと歩いてきて、ローの隣に並ぶ。
「私は勝手に“花の唄”って呼んでるわ」
「そのまんまじゃねェか」
確かにローが聞き取れた歌詞には花の名前が沢山でてきていた。ローの感想にナマエは「言われてみれば確かにそうだわ」と大真面目に頷いた。
「何か良いタイトル案は無いかしら」
「おれに聞くな」
それから二人はただ静かに夜の海を見ていた。お互いに黙っているので、波と風の音しか存在しない世界に二人だけ取り残されたようだった。
「これからどこに行くんだ」
「そうね」
ナマエは星空を仰いだ。その白い喉元がぼんやりと月明かりに照らされて、大理石のように輝いている。艶めかしさと、彼女のもつ清廉とした雰囲気のアンバランスさが何故かローの目を惹いた。彼女のことを純粋に綺麗だと思ったのだ。ローの視線に気付いていないのか、気付かないふりをしているのかナマエはずっと宝石箱のような星空を見ている。その星空ごとそのまま彼女をどこかにしまってしまえたら良いのに。なんて、柄にもないことを考えてしまった。それも全部この女の所為だ。
ふと、ナマエはローに視線だけを向けた。微かに開いたその唇は、きっと“帰ろうかしら”と言おうとしたに違いない。だけれども、ローはそれを言わせなかった。
「お前の病気は治っていない」
ナマエは目を瞬いて、今度は視線だけではなくその顔もローに向けた。彼女はローの真意を測りかねているようだった。
「まだ万全じゃねェ。治るまで、おれが診てやる」
理由が欲しいならいくらでもくれてやる。彼女の瞳の奥は語っていた。帰りたくないのだと、できることならこのまま海にでも溶けてしまいたいと。この女の思い通りになんか誰がしてやるものか。
「お医者様がそう言うなら間違いないわ。ありがとう、ロー先生」
月明かりのように柔く微笑んで、ナマエはローの手を取った。夜風に晒されていた彼女の手は、それでも温かかった。
ローはその手を引いて、逃がさないとばかりに後ろから抱きしめた。そしてそのまま能力を使って一瞬で自室に戻った。突然変わった景色にナマエはただ目を白黒させている。
「ロー先生、能力者だったの?」
「知らなかったのか」
「知らなかったわ」
そっと彼女を抱く腕を解くと、ナマエはローから自然な仕草で一歩だけ距離を取った。
「医者で、海賊で、船長で、能力者なのね。ちょっと属性盛り過ぎじゃない?」
「属性ってなんだ」
謎の文句を付けられたが意味が分からないし、ナマエの方も面倒な属性とやらがてんこ盛りである。試しに数個挙げてみると、彼女は「それ全部悪口じゃない!」と気分を害したようだった。子供のようにいっと歯を見せて威嚇してきたので、ローは鼻で笑ってやった。これ以上は不毛だと判断したのか、ナマエはそっぽを向いてローから更に距離を取った。のだが、暗かったので何かに躓いたようで後ろにひっくり返ってしまった。小さく悲鳴を上げるナマエに呆れながら無事を尋ねると、むっすりとした声で返事が返って来た。大丈夫らしい。彼女が同じ過ちを繰り返さないように、ローは机の上に置いてあったランプに火をつけてやった。煌々と部屋全体の灯りをつける必要も無いだろう。ぼんやりとした灯りに照らされる部屋に、先程の痛みを忘れたのかナマエは物珍しそうに辺りを見回している。
「私、ロー先生の部屋に入るのは初めてだわ」
ローとて、クルーでもない女を部屋に入れたのは初めてだ。何が楽しいのか分からないが、立ち上がった彼女は上機嫌で部屋を見て回った。余計なものに触るなよ、と言おうとした丁度そのときだった。
「あ、薬」
机の上にはナマエの為に調合した薬の小瓶が置きっぱなしだった。それを目敏く見つけたナマエは小瓶を持ち上げる。早速余計なものに触ったナマエにローは嘆息した。
「この薬、本当によく効くのね。とても不味いけど」
相当思うところがあるのかどんどん言葉尻が鋭くなっていくので、ローは返事をしないことにした。味については色々と頭に来るこの女への意趣返しだったのだが、今なら可哀想だと思わなくもない。ほんの小匙一杯分であるが。ローから何の反応も貰えないと察した彼女は、小瓶を机に戻してから言葉を続けた。
「前の薬を飲んでるときは、よく怖いものを見たわ。ロー先生は凄いのね。この薬を飲んでからちっとも見なくなったわ。……とても不味いけど」
彼女のこの薬に対する感情は相当深いものがあるらしい。諦めずにこの薬の不味さについて更に文句を言われているが、ローとしてはそれよりも気になることがあった。薬物中毒者が見る“怖いもの”と聞いて嫌な予感しかしない。きっと幻覚だ。しかし、それを悟られるわけにはいかないのでローは静かに尋ねた。
「どんなものを見たんだ」
「辺り一面が真っ白なの。とても寒くて、凍えそうになる」
一番最初にナマエがその症状の片鱗をローに見せたとき、彼女はひたすら「寒い」と譫言のように言っていた。白くて寒いものといえば雪だ。彼女が見る幻覚とは雪なのだろう。
「雪が怖いのか」
「そうね。私はフレジアの人間だから」
彼女は遠くを見ていた。きっと、丸窓の外のその遥か向こうにある春の国を。
「だって」
そして、小さな声で独白する。あっという間に空気に溶けて消えてしまいそうな声だったが、それはローの耳にしっかりと届いた。
「雪が降ったら、全てが終わるもの」
それっきり、彼女は口を閉じた。それから暫くは無音がこの部屋を包んだ。彼女も思うことがあるのだろう、と放っておいたローだったが暫くして自分の判断ミスに気が付いた。
ナマエは静かに震えていたのだ。その様子は明らかに尋常では無い。そして、足から力が抜けて立っていられなくなったのか、糸が切れたようがくりと膝をついた。そのまま彼女は細い両腕でぎゅうっと自身を包んで丸くなる。歯をかたかたと鳴らして「寒い」とひたすら繰り返した。
ローの能力で蓄積していた睡眠薬も麻薬も取り除いたが、根付いた中毒症状はすぐに治るわけではない。寧ろ今まで出てこなかったのが奇跡に近い。何が彼女の引き金となったのかは分からないが、過度なストレスがかかったのだろう。ローは膝をつくと、ナマエの両肩を軽く揺さぶって顔を上げさせた。青白いその顔に光の消えた双眸。
しかし、一瞬だけ光が灯ったのをローは見逃さなかった。その消え入りそうな光は、助けを求めていた。だったらそう言えば良いのに、ナマエは「寒い」としか言わない。そう言える相手がいなかったのか、それが言えない難儀な女なのか、たった一週間程度しか彼女を知らないローには分からない。ただ一つ分かるのは、この女に求められたいということだった。
ローは小さくなっている彼女をかき抱いて、震える彼女の背をあやすように優しく叩く。ナマエの手がローのシャツの胸元をぎゅっと掴んだ。まるで、迷子の子供が親を見つけたような必死さで。
やがて震えが収まると、ナマエはほうっと吐息を吐き出した。
「温かいわ」
ローのシャツを握った手を解いて、彼の背に腕を回したナマエは微笑んだ。その両腕はぎこちなく、まるで抱きしめ返して良いのかと迷っているようだった。
「ロー先生はやっぱり凄いのね。薬、飲まなくても治まったわ」
医者としてだったら薬を飲ませるなり、もっと冷静な対処を取った筈だ。ローは今、ただの男としてナマエを抱きしめたのだ。とんでもなく鈍い女だ。この至近距離でもナマエはじっと目を逸らさずにローのことを見ている。完全に意識されていない。キスの一つや二つしてやればこの女も分かるのだろうか。ローがぐっと顔を近づけると、その唇に触れたのは柔い感触ではなく、固いものだった。ナマエがローの唇と自分の唇の間に手を入れたのだ。結果としてローは彼女の掌に口付けることになった。苛立ちを隠さないローの瞳の迫力に少し押されて、彼女は片手で彼の胸板を押した。
「“それ”は結婚するまで駄目だってばあやが言っていたわ」
また“ばあや”か。こいつの常識の8割は謎の老婆の教えで形成されているのでは。
この箱入りが。だったらずっと箱に収まっておけばいいものを。ローは心底馬鹿らしくなってナマエから離れた。
◇
「ナマエお帰りー!!」
クルー一同の熱烈な歓迎ぶりにナマエは眉根を下げながら首を傾げた。ここまで歓迎して貰えるのは嬉しいのだが、何故こんなに歓迎されるのか分からないという困惑が彼女の表情に滲み出ている。それにはローも全面同意だ。
今朝、しれっと自室代わりの処置室から出てきたナマエを目撃したクルーが大声で「ナマエがいる!!」と叫んだ為に全員がわらわらと集まってきたのである。あっという間に全員集合したクルーにローが「暫くこいつも乗せる」と言うと彼らは大喜びだった。とうとうその日の晩、勝手に宴会まで企画をし出したのだからその団結力をもっと別の所で発揮できないのかとローは思った。
「じゃあ、ナマエの帰還を祝って、乾杯!」
「かんぱーい!」
行儀悪く椅子の上に立ち上がって乾杯の音頭を取るのはシャチだ。クルー達も立ち上がって一斉にジョッキを掲げ、甲高い硝子が合わさる音があちこちで響く。
急遽始まったこの宴会であるが、六割くらいはナマエの為、残り四割くらいは理由をつけてただ酒を呑みたいだけである。
某同盟一味よりは控えめでTPOも弁えているが、彼らとてお祭り騒ぎが大好きなのだ。そのうち、どこぞの児童小説のように何でもない日だからといって祝いそうだ。宴会特有の熱気と浮かれた雰囲気に、お嬢様はすっかり委縮して食堂の隅の方で縮こまっていたのでローは彼女の前に座った。
「あまり気にするな。あいつらはただ酒を飲みたいだけだ」
「そうなの。楽しくて素敵ね」
謎の盛り上がりっぷりの理由が分かったナマエは、安心したように一息ついた。
素敵かどうかは置いておいて、楽しそうなクルー達を見るのは嫌いではない。ローは肯定の相槌を打った。壁に背を預けて辺りを見回すと、皆大口を開けて笑っている。楽しそうで何よりだ。
「ナマエは何飲む?!」
一杯目は林檎ジュースを選んだナマエを目敏く見ていたイッカクが、酒の入ったグラスを乗せたトレーを持って二人のいるテーブルまで押しかけてきた。黄金色、透明、真っ白、オレンジ。沢山の色味にナマエはどれを飲むのか迷っているようだった。このままだとずっと選んでいるのではないかと察したローは、さっとオレンジ色のグラスを取った。飲みやすくそこまで度が強くないミモザだ。
彼女は渡されたグラスを両手で持ってじっとミモザを見た。そして、くんくんと犬のように匂いを嗅ぐ。別に毒など入ってやしない。呆れるローの視線に見守られて未知との遭遇のような顔をしている彼女は、意を決したようにオレンジの香りのするお酒に口をつけた。こくり、と一口飲んだ彼女は無言で数秒間を開ける。その不自然な間にローが訝し気に目を細めていると、ナマエは今度は喉を鳴らしてミモザを一気に飲み干した。素晴らしい飲みっぷりだった。一丁前にぷはっと息を吐いた彼女は顔を輝かせた。
「美味しい。私、こんなに美味しいもの初めて飲んだわ」
「ナマエはいける口ね。もう一杯行っとく?」
「ええ、もっと飲んでみたいわ」
イカックが酒を取りにいなくなると、ナマエはクスクスと小さく笑った。
「実は、お酒を呑むの初めてなの。何だか悪いことをしている気分」
「お前、悪いことしたくて家を出たんだろ」
「そういえばそうね?」
「何で疑問形なんだよ」
小首を傾げるナマエにローは嘆息した。この女、本当に何をしに出てきたんだ。
しかし、悪いこととやらは建前で、何か他に目的があって、結局それが駄目だったことをローは知っている。だけれども、それを問うことはしない。人にはそう簡単に踏み込んではいけないもの、踏み込ませたくないものがあることを彼は身を持って知っているからだ。未だにそれをふと思い出すことがあるローは、まだ完全にそれを消化できていない。だから、彼はむやみやたらと詮索はしない。
その代わり、今の彼女を見守ろうと思っていた。そんな彼女は、二杯目のお酒を楽しみにしているようだが、今度はゆっくりと飲ませることに決めた。度数が少ないミモザとはいえ、最初からそんなハイペースでは早々に潰れそうだ。偏見だがこの女は酒に酔ったら面倒くさくなるような気がする。
「へーい!二杯目お待ち―!あとこれ」
イッカクに変わって二杯目を持って来たのはシャチだった。彼はグラスを机の上に乗せると、親指で後ろを指した。彼の後ろには、にこにこしたベポとペンギンが立っている。
「祝うっていったらホールケーキだろ!コックが作ってくれたんだぜ」
ベポが持つ大皿には円形のショートケーキがどんっと鎮座していた。ふわふわと真っ白なクリームがたっぷりと塗られ、赤く輝く立派な苺が乗っている。とても可愛らしいケーキ“だった”のだろう。過去形なのは、歪に入った切れ目の所為で事故現場のようになっているからだ。取り分けるためにナイフを入れたのだろうが、時と場合によっては戦争が起きそうな程に大きさに違いがあった。
「シャチが切ったからめっちゃ不平等だけど」
「コックも人選間違えたんだね」
「うるせェな!」
さらりと酷いことを言ってのけるベポにシャチは憤慨した。それから、わざとらしく咳ばらいをすると何事も無かったのかのようにベポからケーキの乗った大皿を奪い取り、それをずいっとナマエの前に差し出した。
「ほら、好きなの選べよ。ナマエのお祝いだからな」
「おれ苺のところが食べたい」
「お前は後!ナマエが先!」
ぴしゃりと言うシャチとぶーぶーと不満げなベポのやり取りをじっと見たナマエは少しだけ逡巡したあと、一番小さい一切れを選んだ。せっかくのショートケーキなのに苺が乗っていないし、いっそ芸術的な鋭角で切り分けられたケーキだ。
「この小さいのがいいわ」
「そんなんで良いのか?」
苺が乗っているところを全員が食べられるわけでは無いが、便宜上主役のナマエは当然苺を食べる権利がある。ハートの海賊団は船長のローを除いたメンバーの殆どが前のめりに自分の権利を主張してくるタイプなので、この反応は新鮮だ。シャチはその慎ましさに面食らった。
「ええ、実は楽しくて胸がいっぱいでお腹がそんなに空いてないの」
「マジか。ナマエ、そんなんじゃこの船で生き残れないぜ」
微笑むナマエに対するシャチの声のトーンは低く、本気が伺えたので彼女はごくりと唾を飲んで頷いた。
「おれの船でそんな意地汚い真似は止めろ」
「冗談ですって。……でも、キャプテン。これわりとマジですよ」
こそっと耳打ちしてくるシャチにローは眉を顰めた。だったら尚更止めろ。
「じゃあキャプテンはこれ!苺が乗ってて綺麗に切れたやつ。自信作です」
シャチは嬉々としてローにショートケーキを渡してきた。コックが言うならともかく、切っただけのケーキは自信作と言えるのだろうか。しかし、そこをつつくと面倒な反応が返ってきそうだったのでローは何も言わずにそれを受け取った。シャチはローにケーキを渡すと満足したようで、ベポとペンギンを引きつれて他のクルーにケーキを配りに行った。そして、歪で小さなケーキが目の前に置かれたナマエと、綺麗に切り分けられて苺が乗ったケーキが目の前に置かれたローが取り残された。
「やる」
ローはフォークで苺を刺すと、ナマエのケーキの上にぽとりとそれを落とした。急に豪華になったケーキに、ナマエは目をぱちくりとさせて、苺とローを交互に見つめる。
「欲しいなら正直に言え」
「ありがとう……優しいのね」
優しくなんかない。ただ、ナマエの何かを我慢した笑顔が嫌いなだけだ。
「私、ショートケーキが好きなの」
「そうか、良かったな」
幸せそうに苺を頬張る笑顔は嫌いでは無かったので、ローは頬杖をついてナマエがケーキを食べるのを眺めていた。
ふとナマエがぽつり、と何かを呟いた。けれどもその言葉は、周りの賑やかな喧騒に吸い込まれてローの耳には届かなかった。