春告げ鳥と花の唄
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ローのオペが終わった翌日のことである。
早朝にローがナマエの容態を確認しに行くと、彼女はすうすうと穏やかな寝息を立てていた。その平和な寝顔に問題が無いと判断したローは、仮眠を取ることにした。何ていったって昨夜はほぼ寝ていないのだ。
ローが仮眠を取っている間、彼女の朝食を運ぶのは事情を知っている三人に任せておいた。彼らは二つ返事で快く引き受けてくれたのだが、その数時間後に顔を真っ青にしてローの部屋に飛び込んできた。眠りから強制的に起こされたローが地を這うような声で理由を尋ねると、ローが海賊だということを伏せていたのを知らなかったために、うっかりここが海賊船で彼らが海賊だということがナマエに知れてしまったらしい。それを知った問題のナマエは、ぴっしりと固まったまま動かなくなったそうだ。とはいえ、機会はあったのに三人にナマエにはその件を伏せていると言わなかったのはローの落ち度でもある。
そもそも一番大事なことは、あの女にそこまで気を使う必要が無いということだ。落ち込む三人に「気にするな」と声をかけ、シャツを羽織ったローは念のためにナマエの様子を見に行くことにした。
そして、処置室に入って来たローと目があった瞬間に開口一番にナマエは言ったのだ。
「貴方、海賊なの?」
この部屋に来る前に顔を真っ青にした三人に泣きつかれたので、ナマエがそうくることは知っていた。だからローは特に動揺しなかった。それに気付かれたところで後ろめたいことも一切無い。ローは平然と答えた。
「今頃気付いたのか」
「この船のクルーのツナギ、看護服にしては変わってるなぁとは思ってたの。でも貴方の服装も大分独創的だからそういう物なのかと思って」
オブラートに包んでローもろともこの船の“衣”に文句を付けられた気がしたが、ローは無駄なことは相手にしない主義なのでそれには反応しないことにした。
「何で言ってくれなかったの?」
「お前、海賊が嫌いなんだろ。面倒だし勘違いしてるならそれで良いと思った」
自分で言ったことも忘れたのか、と言外に含ませたローの言葉にハッと思い当たった彼女は気まずそうに視線を落とした。
「……ごめんなさい」
民間人は海賊に負の感情を抱いてる奴らばかりなので、まさか謝られるとは思わなかった。彼女の言わんとしていることが分からなくてローは眉根を寄せた。
「主語を大きくするのは良くないってばあやが言ってたわ」
彼女の話に度々出てくる“ばあや”って誰だよ、と思わなくもなかったが神妙な顔をしたナマエに、ローは何も言わずに言葉を促した。
「海賊は嫌いだけど、貴方のことは好きだわ」
女が言う“好き”やら“愛してる”の言葉はローにとっては聞きなれたものだった。しかし、それは欲の孕んだ艶っぽいものだ。子供のような彼女の言葉とは、明らかに音色が違う。
こんなに直球に含みの無い好意の言葉を寄せられたことは無かったので、誠に不本意なことに面食らってしまったのは確かである。
「あ、間違えた。貴方“たち”のことよ。ベポ君とかこの船の人達は皆良い人ね」
一瞬黙ったローにナマエは自分の言葉によってもたらされた誤解に気付いたらしく、わざわざ言い直してくれた。自分が言うならともかく、相手からそのように言われるのは彼にとって屈辱的なものがある。何だこの女。
意地で顔には出さなかったものの、プライドの高い彼は内心カチンときていた。自慢ではないが女に困ったことないのだから期待などしていないし、恋愛感情など持たれても困る。しかし、わざわざ言い直されたことに腹が立ったのである。こっちだってお前みたいな頭のふわふわした女、対象外だ。ところが、ローの苛立ちなど我関せず。ナマエは小首を傾げている。
「私の病気って何なのかしら。ロー先生の言うとおりだわ。自分のことだからちゃんと知らなくちゃ」
まさかお前の症状はただの薬物中毒だ、なんて言える筈もない。教えるとしてもタイミングというものがある。そう考えたローはそれらしく長ったるい病名を唱えてやった。ナマエに医学の知識は無いので、彼女は聞き取れた言葉の一部を片言で繰り返し始めた。眉を顰めて懸命に覚えようとしている彼女が少し可哀想になって、オブラートに包んで簡単に症状を説明してやると、彼女は「確かに。私の病状と一緒だわ」と納得していた。
「それから、おれは医者じゃねェ。海賊だ」
ナマエのいう「先生」呼びは彼にとってどこかくすぐったくて、複雑な感情を抱くのでできたら止めて欲しかった。言外にそう呼ぶのは止めろ、と言ってみたのだが。
「でも、私にとって貴方はお医者様だわ」
何かおかしいことでも?と言わんばかりにナマエの双眸には曇りがなかった。その瞳と数秒間見つめ(睨み)合った結果、とうとうローは折れたのだ。
「勝手にしろ」
もう勝手に呼ばせておこう。舌打ち交じりのローに彼女はにっこりと微笑んだ。結構良い根性してるじゃねェか、この女。
そして、その後ナマエがローを「ロー先生」と呼ぶ度にクルー達が羨ましそうに見ていることについては深く考えないようにした。
◇
あれからナマエはまたすぐに寝息を立て始めた。相当疲労が溜まっているらしい。若い女が広い海で一人遭難したのだ、無理もない。ローは静かになって余計なことを言わなくなった彼女の容態を簡単に確認すると、処置室を後にした。
ナマエが眠っている間にローは談話室にクルー達を集めた。ある程度は古参の三人がフォローしてくれていると思うが、ローの口から経緯を説明されるのとされないのでは説得力に天と地の差があるし、この船の船長として彼には説明する義務がある。ローは集まったクルー達に改めて事の経緯と拾ってきた女について説明をした。
先日の沈没秒読み船は、同業者の襲撃によって可哀想な姿になったこと。その中でナマエが逃げ遅れて一人で船にいたこと。彼女は持病を持っていること。流石にクルー全員に薬物中毒のことは言えなかった。この船のクルー全員が、遭難者といえ見知らぬ女をこの船に乗せることに賛成はしていないからだ。一部は不満や不安を抱いている者もいるようだった。そんな面倒な女だと分かったら、ローの「何かあったらおれが対処する」で黙った者も気持ちが穏やかではなくなるに違いない。
全員を表面上は納得させると、ローは監視の意味も兼ねて必ずクルーの誰かをナマエの傍に置いた。そうすれば一部の人間も安心するだろう。友好的なペンギンやシャチ、ベポ。面倒見の良いイッカクは同性ということもあってすぐに彼女と打ち解けた。
それから、いつまでも処置室で閉じこもって個別で食事を取らせるのもどうかと思ったので、クルー達と一緒に食堂で食事をさせることにした。
ナマエは何を食べても美味しいとニコニコしていたので、コックの彼女に対する印象は爆上がりしていたようだった。まあ、男として年若い娘にひたすら褒められたら悪い気はしない。
皆と食事を取り始めて二回目、昼食を食べた後のことだった。唐突にナマエは思い出したのだ。
「そういえば私、この船に来てからずっと薬を飲んでないわ。そろそろ薬を飲まなきゃ」
ナマエの薬事情を知っている三人は彼女の発言にぴしりと固まってしまったが、ローは彼女がいつそう言い出しても良いようにしっかりと準備をしておいた。
「こっちを飲め。お前が飲んでた薬よりもこっちの方が効く」
ポケットから錠剤を取り出すと、彼女にそれを渡す。それを受け取ったナマエは、掌に乗せた錠剤をまじまじとそれを見つめた。まるで、与えられた食べ物を警戒する野生動物のような様子の彼女が少しだけ面白かったのはここだけの話である。
ナマエが今まで飲んでいたのは白いカプセルだったが、ローが渡した錠剤は目に痛い黄色のカプセルだ。ちなみに自然界では“黄色”は危険を表す警戒色の一種であるのだが、温室育ちのナマエがそんなことを知ることもなく。
「わざわざ作ってくれたの?ありがとう、ロー先生」
彼女は微笑むと水を口に含んで、そこに錠剤をぽとんと落とした。そして口を閉じる。しかし、すぐに異変が起こった。その顔がみるみると青くなっていったのだ。彼女の異変を感じ取ったベポが固唾を飲んで見守っていると、終いには彼女は両手で口を覆ってしまった。吐き出したいのをぐっと堪えているような彼女の様子にローを除いた三人は震えた。どれだけ不味いのその薬。三人が見守る中、彼女は吐き出したくなる衝動を懸命に堪えて涙目になりながらもそれを嚥下した。ごくりと音を立てて錠剤が喉を通過すると、彼女はコップを引っ掴んで残りの水を一気に飲み干す。それから盛大に咳き込み始めたので、優しいベポはそっとナマエの背中をさすってやった。暫くして呼吸が落ち着くと、ナマエは素知らぬ顔をしているローをじっと見た。
「ロー先生、これ」
「良薬は口に苦い」
机に頬杖を付きながらローがぴしゃりと言うと、彼女は形になりかけた言葉をぐっと飲み込んで押し黙った。その代わりに、ガタリと席を立つと調理室に駆け込んで行く。追加で水を飲みに行ったに違いない。彼女を見送ったペンギンはローにこそこそと耳打ちをした。
「薬って?もう飲む必要はありませんよね」
「ただのビタミン剤だ。急に何も飲まなくていいなんて言われたら不審に思うだろ」
「成程」
納得したものの、数秒開けた後にペンギンは言った。
「それ、クソ不味くする必要ありました?彼女ちょっと泣いてたじゃないですか。可哀想に」
ローは答えない。その様子にペンギンは呆れたように溜息を吐いた。
「あんた、良い年して何やってるんですか。好きな子苛めちゃうのは今どき子供でも許されませんよ」
「……今度そんなこと言いやがったらバラすぞ」
基本的にローはクルーに対して能力をちらつかせる脅しをすることは無いのだが、今回はよっぽどのことだったのだろう。ついノリで言ってしまったそれは、しれっと受け流されると思ったのにそんなことは無かった。
敵海賊団の船長でも見るような目で睨みつけてくるローに、ペンギンとシャチは震えながら脳内の“ローの地雷リスト”に新しく“ナマエ”という項目を作った。しかし、ベポだけは違った。
「そんなわけないだろ、ペンギン。キャプテンは好きな子には優しくするよ。ね、キャプテン」
意味も分からず素でマジレスを返すベポが今回の優勝者である。ローはもう何も言わなかったし、二人も何も言えなかった。
ローたちのテーブルを気まずい雰囲気が包みこみ、暫し四人とも無言だったが(ベポは小首をずっと傾げていた)、ナマエが戻ってきたことでその空気は薄れていった。
渡された薬のあまりの不味さに青褪めて半泣きになっていた顔は大分血色が良くなっている。どうやらキッチンでひたすら水を飲んでいたら、コックが口直しにオレンジを剥いてくれたらしい。こいつ早速コックを落としやがった。ペンギンとシャチは戦慄したが、コックは元から友好的だったのでローはとくに驚きもしなかった。ベポは「狡い、おれもオレンジ食いたかった!」と明後日の文句を言ってナマエを困らせている。じゃあもう一回一緒に貰いに行きましょう、と席を立とうとしたナマエをローは引き留めた。
「お前、あの船に乗ってどこに行くつもりだった」
先程この話をする前に薬云々のアクシデントが起きた為に聞くことができなかったのだ。ローの問いにナマエは少し逡巡した。
「……カトラ」
カトラというのは観光の名所になっている夏島だ。宝石のように輝くエメラルドグリーンの海、桃色の珊瑚礁に生息する色とりどりの可憐な魚たち、砕けた貝殻が集まってできた白い砂浜。額縁に留めておきたくなるような美しい風景はフレジアに引けを取らない程人気のある場所だった。きっと、春しか知らないお嬢様は他の季節も見てみたくなったのだろう。言われてみれば確かに納得の目的地だった。
「ベポ、次の島はどこだ」
「丁度カトラだよ。あと一週間くらいかな」
「そこまで乗せてってやる」
「ありがとう、ロー先生!」
ナマエは胸の前で両手を合わせて顔を輝かせた。文字通り乗りかかった船だ。何をしに行くなんて、聞く必要は無い。ローとナマエは彼女の言葉を借りればただの医者と患者。それ以上でもそれ以下でもないのだから。
「大変なことに気付いたわ!」
緊張感も無くニコニコとしていたナマエが急に血相を変えたので、ころころと変わるその表情に面々は目を瞬いた。
「どうした」
「治療して貰ったんだから、お金を払わなきゃ。ご飯まで食べさせて貰っているし。いくら払えば良いのかしら」
お嬢様のくせに随所随所が現実的な女である。浮世離れした外見とはちぐはぐだ。
「いらねェし、そもそも金なんか持ってんのかよ」
ナマエの持ち物は小さなトランク一つだ。服装は初めて会ったときに比べてだいぶ簡素なものになっているが、彼女が身に付けていた諸々を売ったとしても、あのような客船に乗れるのかといえば微妙なところだ。
「ちゃんと稼いできたわ。船に乗るのに殆ど使っちゃったけど」
稼ぐ。この労働という言葉を知らなさそうな手をした風体の女が?訝し気にローがナマエを見ると、その思考が通じたのか彼女はむっとしたようだった。
「何して稼いだんだ。お前の言ってた悪いことって窃盗か」
「吃驚する程失礼ね。歌ったら、お金が貰えたのよ」
「は?」
そんな上手い話があるわけないだろう。こいつは何を言っているんだ、と言わんばかりのローの視線に気圧された彼女は、小さくなって「本当だもの」と呟いた。
「じゃあ、ちょっと歌ってみてよ!」
無邪気に言うベポにナマエは頷いた。それからすうっと空気を吸うと、歌を紡ぎ出した。
彼女の紡ぐソプラノは一小節、一小節と聞き手の心を奪っていく。閉塞したこの食堂に、まるであの常春の国のように暖かく柔らかな風が吹いているような錯覚を覚えた。彼らは芸術のいろは等は知らないが、その歌で心が洗われるようになったのは事実だった。
一同は水を打ったように静まり返ってナマエの歌に聞き入った。美しい調べは時の流れを感じさせず、あっという間に終わってしまう。その余韻に浸っていたクルーの中で、いち早く我に返ったベポがぽむぽむと拍手をしたので、それに釣られるようにしてまばらに拍手が鳴り、それはやがて拍手の嵐となった。シャチなんかぴいぴいと口笛を吹いた。
確かに文句なく金銭が取れるレベルだった。缶でも置いて路上で歌って、今まで自分が着ていた高価なものや身に付けていたアクセサリーを売却すれば船旅が難なくできるくらいは。
認めざるを得なかった。ローが眉間に皺を寄せていると、ふと視線を感じた。その視線の持ち主は見なくても分かる。ナマエだ。彼女の目は言っていた。「どうだ」と。
「あー、凄い凄い」
その様子が面白くなかったので、敢えて棒読みのそれに彼女は唇を噛みしめた。「ちょっとは自信があったのに……」という不満げな声が彼女から零れたが、あのレベルを「ちょっと」と言うのは中々に謙遜が過ぎる。
「……ロー先生はあんまり歌のことは分からないのね」
「おれが芸術に理解が無いみたいに言うのは止めろ」
それから、その憐れむような顔を止めろ。ベポは「そんなこと無いよ、キャプテンの描く絵はまさに芸術だよ!おれ良く分からないけど」とローの味方をしてくれたが、その優しさは遠回しに彼を傷付けた。ナマエもベポの発言を真に受けるな。「私も見てみたい」じゃねェよ。絶対に見せるか。
「じゃあ何を対価にすればいいのかしら」
「そうだな、身体で払うか」
治療も何もロー自身が勝手にやったことなので、請求する気など更々無いしそんなにケチな男でもないつもりだ。素直にそんなものはいらないともう一度言ってやれば良かったのだが、所々失礼なナマエを少し揶揄ってやろうと思ったローは口角を上げた。そのローの意地の悪い言葉にシャチは飲んでいた水を盛大に吐き出した。
「そんなのでいいの?」
「いいのかよ!!」
今度はペンギンが叫んだ。
「私、実は掃除が得意なの!」
わー、健全。笑顔のナマエにペンギンはほっと胸を撫でおろした。如何せん、それ系のネタをローが言うと洒落にならないのだ。しかもロー本人は分かっていてやっているところがあるので性質が悪い。横目でちらりと仕掛け人の顔を見ると、ローは思いっきり白けた顔をしていた。どうやら、ナマエの回答はお気に召さなかったらしい。対する声もおざなりだ。
「そんな手をしといてか」
遠回しに家事をしたことが無い手だと揶揄すると、ナマエは眉根を寄せた。
「子供の頃はちゃんとしていたわ。見てなさい!ピッカピカにしてやるわ。舐めても綺麗なくらいに」
「いくら綺麗でも舐めねェよ。お前、どうでも良いが病み上がりなんだから無理するなよ。あと、無暗矢鱈に触るな」
ポーラータング号の壁や床には配管やバルブが張り巡らされているので、下手なことをされたら困るのだ。それを察したナマエはびしっとこの食堂の地面を指さした。
「じゃあ、ここをピカピカにするわ!」
確かに食堂なら目立つ配管や精密機器は無いので、ナマエが掃除をしても問題は無いだろう。ローが許可をすると、彼女は気合を入れるように腕まくりをした。何が彼女をそんなに熱くさせたのかは分からないが、とりあえず好きなようにさせよう。ナマエは全員を追い出そうとしたが、念のためにベポだけは食堂に残ってもらった。流石に彼女一人を好きなようにはさせられなかったのだ。
その一時間後、掃除が終わったと呼びにきたナマエに連れられて食堂にやってきた面々は声を失った。
「マジだ。ここってこんなに綺麗だったっけ?」
ぴかぴかと鏡のように磨かれた床、色が変わったように綺麗になった机や椅子。文句の無いビフォーアフターだった。その場にいた筈のベポは「よく分からない。気付いたらこうなってた」と証言していたのでよっぽど手際が良かったのだろう。「今度こそどうだ!」と言わんばかりに得意げなナマエが面白くなかったローが「こんなんじゃ舐められねェな」と零すと、彼女は地団駄を踏んだ。普段はクールが売り(ハートの海賊団キャプテン過激派調べ)なローの意地の悪く大人げない態度にクルーは首を傾げた。なに、この二人。そんな彼らに、ペンギンとシャチは唇に人差し指を当てて口パクで言った。
“これ、キャプテンの地雷”
クルー一同は心底思った。身元不特定の女だから警戒するとか、もうどうでも良かった。さっさとくっつけよ面倒くせぇな!!
ローが珈琲を飲みに食堂に入ると、数人のクルーがカードゲームをしていた。彼らは椅子ではなく、わざわざ床に座って胡坐をかいている。ナマエによってピカピカに磨かれた食堂の床は直接座っても抵抗感は無い。その中にちょこんとナマエが混ざっているのを見たローはマグカップを片手に言った。
「お前、大分俗世に染まったな」
「郷に入ったから、郷に従ったのよ。大丈夫、お金は賭けていないわ。賭けているのは今日のデザートよ」
「ガキかよ」
「あ、キャプテンもやります?まだ配ったばっかりだから配り直せば良いんで」
シャチが誘ってくれたのだが、ローは首を横に振ろうとした。ただ珈琲を飲みに来ただけですぐに自室に戻るつもりだったのだ。しかし、目を輝かせてあからさまに「良い手札を引きました」と言葉なく語っているナマエを見て気が変わった。ローは彼女の隣にどさっと座る。
「ロー先生もやるの?そんなにプリンが食べたいの」
頓珍漢なことを言いながら小首を傾げるナマエだったが、そのすぐ後に様々な受難が彼女を待ち受けているなど知る由も無かった。
「何で私の番ばっかり飛ばすの?」
ローは事あるごとにナマエの順番を飛ばし、または順番を逆回りにして彼女がカードを出す機会を奪った。明らかにわざとである。大人げない。全くもって大人げない。
「何で私ばっかりカードを引かせるの?」
意味が分からない、とばかりに呆然としてカードを四枚引くナマエに全員心の中で十字を切った。ローのことだ。上がろうと思えばすぐに上がれるはずなのに、わざと上がらないで地味な嫌がらせを続けているのが酷い。
ナマエは知らないだろうが、長い付き合いのシャチとペンギンは分かってしまった。これは完全に遊んでいると。これでババ抜きなんかやった日にはずっと揶揄って遊びそうだなこの船長。ナマエを散々甚振って満足したのか、ローがさっと上がる様を一同はしょっぱい顔をして見守った。ナマエが可哀想だと流石に思わずにはいられなかった。
ローとナマエの関係はクルーをやきもきさせ、あっという間に一週間が経った。
そして、ポーラータング号は別れの場所、カトラに辿り着いたのだ。
早朝にローがナマエの容態を確認しに行くと、彼女はすうすうと穏やかな寝息を立てていた。その平和な寝顔に問題が無いと判断したローは、仮眠を取ることにした。何ていったって昨夜はほぼ寝ていないのだ。
ローが仮眠を取っている間、彼女の朝食を運ぶのは事情を知っている三人に任せておいた。彼らは二つ返事で快く引き受けてくれたのだが、その数時間後に顔を真っ青にしてローの部屋に飛び込んできた。眠りから強制的に起こされたローが地を這うような声で理由を尋ねると、ローが海賊だということを伏せていたのを知らなかったために、うっかりここが海賊船で彼らが海賊だということがナマエに知れてしまったらしい。それを知った問題のナマエは、ぴっしりと固まったまま動かなくなったそうだ。とはいえ、機会はあったのに三人にナマエにはその件を伏せていると言わなかったのはローの落ち度でもある。
そもそも一番大事なことは、あの女にそこまで気を使う必要が無いということだ。落ち込む三人に「気にするな」と声をかけ、シャツを羽織ったローは念のためにナマエの様子を見に行くことにした。
そして、処置室に入って来たローと目があった瞬間に開口一番にナマエは言ったのだ。
「貴方、海賊なの?」
この部屋に来る前に顔を真っ青にした三人に泣きつかれたので、ナマエがそうくることは知っていた。だからローは特に動揺しなかった。それに気付かれたところで後ろめたいことも一切無い。ローは平然と答えた。
「今頃気付いたのか」
「この船のクルーのツナギ、看護服にしては変わってるなぁとは思ってたの。でも貴方の服装も大分独創的だからそういう物なのかと思って」
オブラートに包んでローもろともこの船の“衣”に文句を付けられた気がしたが、ローは無駄なことは相手にしない主義なのでそれには反応しないことにした。
「何で言ってくれなかったの?」
「お前、海賊が嫌いなんだろ。面倒だし勘違いしてるならそれで良いと思った」
自分で言ったことも忘れたのか、と言外に含ませたローの言葉にハッと思い当たった彼女は気まずそうに視線を落とした。
「……ごめんなさい」
民間人は海賊に負の感情を抱いてる奴らばかりなので、まさか謝られるとは思わなかった。彼女の言わんとしていることが分からなくてローは眉根を寄せた。
「主語を大きくするのは良くないってばあやが言ってたわ」
彼女の話に度々出てくる“ばあや”って誰だよ、と思わなくもなかったが神妙な顔をしたナマエに、ローは何も言わずに言葉を促した。
「海賊は嫌いだけど、貴方のことは好きだわ」
女が言う“好き”やら“愛してる”の言葉はローにとっては聞きなれたものだった。しかし、それは欲の孕んだ艶っぽいものだ。子供のような彼女の言葉とは、明らかに音色が違う。
こんなに直球に含みの無い好意の言葉を寄せられたことは無かったので、誠に不本意なことに面食らってしまったのは確かである。
「あ、間違えた。貴方“たち”のことよ。ベポ君とかこの船の人達は皆良い人ね」
一瞬黙ったローにナマエは自分の言葉によってもたらされた誤解に気付いたらしく、わざわざ言い直してくれた。自分が言うならともかく、相手からそのように言われるのは彼にとって屈辱的なものがある。何だこの女。
意地で顔には出さなかったものの、プライドの高い彼は内心カチンときていた。自慢ではないが女に困ったことないのだから期待などしていないし、恋愛感情など持たれても困る。しかし、わざわざ言い直されたことに腹が立ったのである。こっちだってお前みたいな頭のふわふわした女、対象外だ。ところが、ローの苛立ちなど我関せず。ナマエは小首を傾げている。
「私の病気って何なのかしら。ロー先生の言うとおりだわ。自分のことだからちゃんと知らなくちゃ」
まさかお前の症状はただの薬物中毒だ、なんて言える筈もない。教えるとしてもタイミングというものがある。そう考えたローはそれらしく長ったるい病名を唱えてやった。ナマエに医学の知識は無いので、彼女は聞き取れた言葉の一部を片言で繰り返し始めた。眉を顰めて懸命に覚えようとしている彼女が少し可哀想になって、オブラートに包んで簡単に症状を説明してやると、彼女は「確かに。私の病状と一緒だわ」と納得していた。
「それから、おれは医者じゃねェ。海賊だ」
ナマエのいう「先生」呼びは彼にとってどこかくすぐったくて、複雑な感情を抱くのでできたら止めて欲しかった。言外にそう呼ぶのは止めろ、と言ってみたのだが。
「でも、私にとって貴方はお医者様だわ」
何かおかしいことでも?と言わんばかりにナマエの双眸には曇りがなかった。その瞳と数秒間見つめ(睨み)合った結果、とうとうローは折れたのだ。
「勝手にしろ」
もう勝手に呼ばせておこう。舌打ち交じりのローに彼女はにっこりと微笑んだ。結構良い根性してるじゃねェか、この女。
そして、その後ナマエがローを「ロー先生」と呼ぶ度にクルー達が羨ましそうに見ていることについては深く考えないようにした。
◇
あれからナマエはまたすぐに寝息を立て始めた。相当疲労が溜まっているらしい。若い女が広い海で一人遭難したのだ、無理もない。ローは静かになって余計なことを言わなくなった彼女の容態を簡単に確認すると、処置室を後にした。
ナマエが眠っている間にローは談話室にクルー達を集めた。ある程度は古参の三人がフォローしてくれていると思うが、ローの口から経緯を説明されるのとされないのでは説得力に天と地の差があるし、この船の船長として彼には説明する義務がある。ローは集まったクルー達に改めて事の経緯と拾ってきた女について説明をした。
先日の沈没秒読み船は、同業者の襲撃によって可哀想な姿になったこと。その中でナマエが逃げ遅れて一人で船にいたこと。彼女は持病を持っていること。流石にクルー全員に薬物中毒のことは言えなかった。この船のクルー全員が、遭難者といえ見知らぬ女をこの船に乗せることに賛成はしていないからだ。一部は不満や不安を抱いている者もいるようだった。そんな面倒な女だと分かったら、ローの「何かあったらおれが対処する」で黙った者も気持ちが穏やかではなくなるに違いない。
全員を表面上は納得させると、ローは監視の意味も兼ねて必ずクルーの誰かをナマエの傍に置いた。そうすれば一部の人間も安心するだろう。友好的なペンギンやシャチ、ベポ。面倒見の良いイッカクは同性ということもあってすぐに彼女と打ち解けた。
それから、いつまでも処置室で閉じこもって個別で食事を取らせるのもどうかと思ったので、クルー達と一緒に食堂で食事をさせることにした。
ナマエは何を食べても美味しいとニコニコしていたので、コックの彼女に対する印象は爆上がりしていたようだった。まあ、男として年若い娘にひたすら褒められたら悪い気はしない。
皆と食事を取り始めて二回目、昼食を食べた後のことだった。唐突にナマエは思い出したのだ。
「そういえば私、この船に来てからずっと薬を飲んでないわ。そろそろ薬を飲まなきゃ」
ナマエの薬事情を知っている三人は彼女の発言にぴしりと固まってしまったが、ローは彼女がいつそう言い出しても良いようにしっかりと準備をしておいた。
「こっちを飲め。お前が飲んでた薬よりもこっちの方が効く」
ポケットから錠剤を取り出すと、彼女にそれを渡す。それを受け取ったナマエは、掌に乗せた錠剤をまじまじとそれを見つめた。まるで、与えられた食べ物を警戒する野生動物のような様子の彼女が少しだけ面白かったのはここだけの話である。
ナマエが今まで飲んでいたのは白いカプセルだったが、ローが渡した錠剤は目に痛い黄色のカプセルだ。ちなみに自然界では“黄色”は危険を表す警戒色の一種であるのだが、温室育ちのナマエがそんなことを知ることもなく。
「わざわざ作ってくれたの?ありがとう、ロー先生」
彼女は微笑むと水を口に含んで、そこに錠剤をぽとんと落とした。そして口を閉じる。しかし、すぐに異変が起こった。その顔がみるみると青くなっていったのだ。彼女の異変を感じ取ったベポが固唾を飲んで見守っていると、終いには彼女は両手で口を覆ってしまった。吐き出したいのをぐっと堪えているような彼女の様子にローを除いた三人は震えた。どれだけ不味いのその薬。三人が見守る中、彼女は吐き出したくなる衝動を懸命に堪えて涙目になりながらもそれを嚥下した。ごくりと音を立てて錠剤が喉を通過すると、彼女はコップを引っ掴んで残りの水を一気に飲み干す。それから盛大に咳き込み始めたので、優しいベポはそっとナマエの背中をさすってやった。暫くして呼吸が落ち着くと、ナマエは素知らぬ顔をしているローをじっと見た。
「ロー先生、これ」
「良薬は口に苦い」
机に頬杖を付きながらローがぴしゃりと言うと、彼女は形になりかけた言葉をぐっと飲み込んで押し黙った。その代わりに、ガタリと席を立つと調理室に駆け込んで行く。追加で水を飲みに行ったに違いない。彼女を見送ったペンギンはローにこそこそと耳打ちをした。
「薬って?もう飲む必要はありませんよね」
「ただのビタミン剤だ。急に何も飲まなくていいなんて言われたら不審に思うだろ」
「成程」
納得したものの、数秒開けた後にペンギンは言った。
「それ、クソ不味くする必要ありました?彼女ちょっと泣いてたじゃないですか。可哀想に」
ローは答えない。その様子にペンギンは呆れたように溜息を吐いた。
「あんた、良い年して何やってるんですか。好きな子苛めちゃうのは今どき子供でも許されませんよ」
「……今度そんなこと言いやがったらバラすぞ」
基本的にローはクルーに対して能力をちらつかせる脅しをすることは無いのだが、今回はよっぽどのことだったのだろう。ついノリで言ってしまったそれは、しれっと受け流されると思ったのにそんなことは無かった。
敵海賊団の船長でも見るような目で睨みつけてくるローに、ペンギンとシャチは震えながら脳内の“ローの地雷リスト”に新しく“ナマエ”という項目を作った。しかし、ベポだけは違った。
「そんなわけないだろ、ペンギン。キャプテンは好きな子には優しくするよ。ね、キャプテン」
意味も分からず素でマジレスを返すベポが今回の優勝者である。ローはもう何も言わなかったし、二人も何も言えなかった。
ローたちのテーブルを気まずい雰囲気が包みこみ、暫し四人とも無言だったが(ベポは小首をずっと傾げていた)、ナマエが戻ってきたことでその空気は薄れていった。
渡された薬のあまりの不味さに青褪めて半泣きになっていた顔は大分血色が良くなっている。どうやらキッチンでひたすら水を飲んでいたら、コックが口直しにオレンジを剥いてくれたらしい。こいつ早速コックを落としやがった。ペンギンとシャチは戦慄したが、コックは元から友好的だったのでローはとくに驚きもしなかった。ベポは「狡い、おれもオレンジ食いたかった!」と明後日の文句を言ってナマエを困らせている。じゃあもう一回一緒に貰いに行きましょう、と席を立とうとしたナマエをローは引き留めた。
「お前、あの船に乗ってどこに行くつもりだった」
先程この話をする前に薬云々のアクシデントが起きた為に聞くことができなかったのだ。ローの問いにナマエは少し逡巡した。
「……カトラ」
カトラというのは観光の名所になっている夏島だ。宝石のように輝くエメラルドグリーンの海、桃色の珊瑚礁に生息する色とりどりの可憐な魚たち、砕けた貝殻が集まってできた白い砂浜。額縁に留めておきたくなるような美しい風景はフレジアに引けを取らない程人気のある場所だった。きっと、春しか知らないお嬢様は他の季節も見てみたくなったのだろう。言われてみれば確かに納得の目的地だった。
「ベポ、次の島はどこだ」
「丁度カトラだよ。あと一週間くらいかな」
「そこまで乗せてってやる」
「ありがとう、ロー先生!」
ナマエは胸の前で両手を合わせて顔を輝かせた。文字通り乗りかかった船だ。何をしに行くなんて、聞く必要は無い。ローとナマエは彼女の言葉を借りればただの医者と患者。それ以上でもそれ以下でもないのだから。
「大変なことに気付いたわ!」
緊張感も無くニコニコとしていたナマエが急に血相を変えたので、ころころと変わるその表情に面々は目を瞬いた。
「どうした」
「治療して貰ったんだから、お金を払わなきゃ。ご飯まで食べさせて貰っているし。いくら払えば良いのかしら」
お嬢様のくせに随所随所が現実的な女である。浮世離れした外見とはちぐはぐだ。
「いらねェし、そもそも金なんか持ってんのかよ」
ナマエの持ち物は小さなトランク一つだ。服装は初めて会ったときに比べてだいぶ簡素なものになっているが、彼女が身に付けていた諸々を売ったとしても、あのような客船に乗れるのかといえば微妙なところだ。
「ちゃんと稼いできたわ。船に乗るのに殆ど使っちゃったけど」
稼ぐ。この労働という言葉を知らなさそうな手をした風体の女が?訝し気にローがナマエを見ると、その思考が通じたのか彼女はむっとしたようだった。
「何して稼いだんだ。お前の言ってた悪いことって窃盗か」
「吃驚する程失礼ね。歌ったら、お金が貰えたのよ」
「は?」
そんな上手い話があるわけないだろう。こいつは何を言っているんだ、と言わんばかりのローの視線に気圧された彼女は、小さくなって「本当だもの」と呟いた。
「じゃあ、ちょっと歌ってみてよ!」
無邪気に言うベポにナマエは頷いた。それからすうっと空気を吸うと、歌を紡ぎ出した。
彼女の紡ぐソプラノは一小節、一小節と聞き手の心を奪っていく。閉塞したこの食堂に、まるであの常春の国のように暖かく柔らかな風が吹いているような錯覚を覚えた。彼らは芸術のいろは等は知らないが、その歌で心が洗われるようになったのは事実だった。
一同は水を打ったように静まり返ってナマエの歌に聞き入った。美しい調べは時の流れを感じさせず、あっという間に終わってしまう。その余韻に浸っていたクルーの中で、いち早く我に返ったベポがぽむぽむと拍手をしたので、それに釣られるようにしてまばらに拍手が鳴り、それはやがて拍手の嵐となった。シャチなんかぴいぴいと口笛を吹いた。
確かに文句なく金銭が取れるレベルだった。缶でも置いて路上で歌って、今まで自分が着ていた高価なものや身に付けていたアクセサリーを売却すれば船旅が難なくできるくらいは。
認めざるを得なかった。ローが眉間に皺を寄せていると、ふと視線を感じた。その視線の持ち主は見なくても分かる。ナマエだ。彼女の目は言っていた。「どうだ」と。
「あー、凄い凄い」
その様子が面白くなかったので、敢えて棒読みのそれに彼女は唇を噛みしめた。「ちょっとは自信があったのに……」という不満げな声が彼女から零れたが、あのレベルを「ちょっと」と言うのは中々に謙遜が過ぎる。
「……ロー先生はあんまり歌のことは分からないのね」
「おれが芸術に理解が無いみたいに言うのは止めろ」
それから、その憐れむような顔を止めろ。ベポは「そんなこと無いよ、キャプテンの描く絵はまさに芸術だよ!おれ良く分からないけど」とローの味方をしてくれたが、その優しさは遠回しに彼を傷付けた。ナマエもベポの発言を真に受けるな。「私も見てみたい」じゃねェよ。絶対に見せるか。
「じゃあ何を対価にすればいいのかしら」
「そうだな、身体で払うか」
治療も何もロー自身が勝手にやったことなので、請求する気など更々無いしそんなにケチな男でもないつもりだ。素直にそんなものはいらないともう一度言ってやれば良かったのだが、所々失礼なナマエを少し揶揄ってやろうと思ったローは口角を上げた。そのローの意地の悪い言葉にシャチは飲んでいた水を盛大に吐き出した。
「そんなのでいいの?」
「いいのかよ!!」
今度はペンギンが叫んだ。
「私、実は掃除が得意なの!」
わー、健全。笑顔のナマエにペンギンはほっと胸を撫でおろした。如何せん、それ系のネタをローが言うと洒落にならないのだ。しかもロー本人は分かっていてやっているところがあるので性質が悪い。横目でちらりと仕掛け人の顔を見ると、ローは思いっきり白けた顔をしていた。どうやら、ナマエの回答はお気に召さなかったらしい。対する声もおざなりだ。
「そんな手をしといてか」
遠回しに家事をしたことが無い手だと揶揄すると、ナマエは眉根を寄せた。
「子供の頃はちゃんとしていたわ。見てなさい!ピッカピカにしてやるわ。舐めても綺麗なくらいに」
「いくら綺麗でも舐めねェよ。お前、どうでも良いが病み上がりなんだから無理するなよ。あと、無暗矢鱈に触るな」
ポーラータング号の壁や床には配管やバルブが張り巡らされているので、下手なことをされたら困るのだ。それを察したナマエはびしっとこの食堂の地面を指さした。
「じゃあ、ここをピカピカにするわ!」
確かに食堂なら目立つ配管や精密機器は無いので、ナマエが掃除をしても問題は無いだろう。ローが許可をすると、彼女は気合を入れるように腕まくりをした。何が彼女をそんなに熱くさせたのかは分からないが、とりあえず好きなようにさせよう。ナマエは全員を追い出そうとしたが、念のためにベポだけは食堂に残ってもらった。流石に彼女一人を好きなようにはさせられなかったのだ。
その一時間後、掃除が終わったと呼びにきたナマエに連れられて食堂にやってきた面々は声を失った。
「マジだ。ここってこんなに綺麗だったっけ?」
ぴかぴかと鏡のように磨かれた床、色が変わったように綺麗になった机や椅子。文句の無いビフォーアフターだった。その場にいた筈のベポは「よく分からない。気付いたらこうなってた」と証言していたのでよっぽど手際が良かったのだろう。「今度こそどうだ!」と言わんばかりに得意げなナマエが面白くなかったローが「こんなんじゃ舐められねェな」と零すと、彼女は地団駄を踏んだ。普段はクールが売り(ハートの海賊団キャプテン過激派調べ)なローの意地の悪く大人げない態度にクルーは首を傾げた。なに、この二人。そんな彼らに、ペンギンとシャチは唇に人差し指を当てて口パクで言った。
“これ、キャプテンの地雷”
クルー一同は心底思った。身元不特定の女だから警戒するとか、もうどうでも良かった。さっさとくっつけよ面倒くせぇな!!
ローが珈琲を飲みに食堂に入ると、数人のクルーがカードゲームをしていた。彼らは椅子ではなく、わざわざ床に座って胡坐をかいている。ナマエによってピカピカに磨かれた食堂の床は直接座っても抵抗感は無い。その中にちょこんとナマエが混ざっているのを見たローはマグカップを片手に言った。
「お前、大分俗世に染まったな」
「郷に入ったから、郷に従ったのよ。大丈夫、お金は賭けていないわ。賭けているのは今日のデザートよ」
「ガキかよ」
「あ、キャプテンもやります?まだ配ったばっかりだから配り直せば良いんで」
シャチが誘ってくれたのだが、ローは首を横に振ろうとした。ただ珈琲を飲みに来ただけですぐに自室に戻るつもりだったのだ。しかし、目を輝かせてあからさまに「良い手札を引きました」と言葉なく語っているナマエを見て気が変わった。ローは彼女の隣にどさっと座る。
「ロー先生もやるの?そんなにプリンが食べたいの」
頓珍漢なことを言いながら小首を傾げるナマエだったが、そのすぐ後に様々な受難が彼女を待ち受けているなど知る由も無かった。
「何で私の番ばっかり飛ばすの?」
ローは事あるごとにナマエの順番を飛ばし、または順番を逆回りにして彼女がカードを出す機会を奪った。明らかにわざとである。大人げない。全くもって大人げない。
「何で私ばっかりカードを引かせるの?」
意味が分からない、とばかりに呆然としてカードを四枚引くナマエに全員心の中で十字を切った。ローのことだ。上がろうと思えばすぐに上がれるはずなのに、わざと上がらないで地味な嫌がらせを続けているのが酷い。
ナマエは知らないだろうが、長い付き合いのシャチとペンギンは分かってしまった。これは完全に遊んでいると。これでババ抜きなんかやった日にはずっと揶揄って遊びそうだなこの船長。ナマエを散々甚振って満足したのか、ローがさっと上がる様を一同はしょっぱい顔をして見守った。ナマエが可哀想だと流石に思わずにはいられなかった。
ローとナマエの関係はクルーをやきもきさせ、あっという間に一週間が経った。
そして、ポーラータング号は別れの場所、カトラに辿り着いたのだ。