春告げ鳥と花の唄
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脱走を図って失敗し、その上逃亡元の相手に頭を下げるという屈辱的な長い一日もやっと終わろうとしていた。あれから私は拗ねた子供のように部屋に籠っていた。ところが、その籠城はお夕飯の時間になってイッカクさんが私を呼びに来てくれたことで終焉を迎えた。
「ナマエ―、ご飯できたって」
同性で面倒見の良いイッカクさんに私は懐いていたので、ベストな人選だ。扉の外から聞こえるイッカクさんの声に、私の正直なお腹は空腹を訴えた。こんなときでも人間はお腹が空くのだ。それに、船は団体行動だ。私の我儘で団体行動を乱すのはよろしくない。渋々部屋から顔を覗かせた私は、イッカクさんと一緒に食堂に向かう。食堂には既に皆が集まっていた。
ロー先生を除いた乗組員は二十名いるので、全員同じテーブルにつくのは物理的に不可能だ。食堂には六人用のテーブルが四つあり各々自由に座って食事をするのがこの船のスタイルらしい。
ただ、ロー先生と身体が物凄く大きなジャンバールさんは席が決まっているようだった。私は諸事情でロー先生から一番離れたテーブルに行こうと思ったのだが、イッカクさんに腕を引かれて阻止された。変わりに連れていかれたのが。
「お邪魔します!」
「よーこそー!」
わざとらしいイッカクさんにわざとらしく言葉を返したのはシャチさんである。六人用のテーブルには既に四人座っており、一番奥の壁際からロー先生、シャチさん、ペンギンさんが並んで座り、ロー先生の正面にはベポくんが座っている。そう、私はロー先生と同じテーブルに連れてこられたのである。イッカクさんは当然のようにベポくんの隣に私を座らせ、自分もその隣に座った。
ロー先生は私の斜め前に座っている。できるだけ彼の視界に入りたくなかったし、本日の彼の言動アレコレが頭にきているので、私はイカックさんの方に椅子を寄せて若干の距離を取ろうとした。
「え……なんで」
しかし、自分が避けられていると勘違いをしたベポくんが悲し気な声を出したので、私は慌てて椅子を彼の方に寄せた。プラスマイナスゼロどころか、勢い余ってベポくんの方に寄り過ぎてしまった。やってしまった、と項垂れていると視線を感じる。
「なにか」
「いいや」
ロー先生が私を面白そうに見ていたのだ。自分が嫌がられているのは分かっている筈なのに、ふてぶてしいことこの上無いなこの男。眉根を寄せる私に、正面に座るシャチさんは「ほら、ナマエ。飯だから、な?」と謎の仲裁をしてくれた。意味は分からなかったのだが、それに気を取り直してテーブルの上を見ると、私のお腹が再び空腹を訴えてきた。
青々とした新鮮な野菜がバランスよく盛り付けられたサラダ、色鮮やかなパプリカや海の幸がふんだんに乗っているパエリアにふわふわと湯気が見える温かいスープ。
脱走時に文無しで絶望しかけた身としては、とてもありがたいものだ。皆と一緒に手を合わせてから私もご飯に口をつけた。せっかくなので温かいうちに、とスプーンでスープを一口掬う。しっかりと煮詰められた玉ねぎの甘味が出ていてとても美味しい。
「美味しい!この船のコックさんは凄いのね」
記憶を無くしてから私が食べた料理はどれも美味しかった。当然のようにスープも絶品だったので、感動する私にロー先生は口角を吊り上げた。
「おれの船のコックだ。当然だろ」
「ありがとうございます!!」
その瞬間、耳聡くそれを聞いたらしいコックがガタリと立ち上がって何故かお礼を言い出した。その後コックは直立不動で咽び泣き始めてしまった。周りの面々も優しく背を叩きながら自分のことのように喜んでいる。申し訳ないと思ったが、少し引いてしまった。けれども私は悪くないだろう。
「ねぇ、この船の人達、皆貴方のこと好きすぎない?」
「知らねェ」
温度差が物凄いな。それでもロー先生の瞳に映る光は満更でも無さそうだったので、そっとしておくことにした。当事者同士の問題に外野が口を出すことでは無いのだ。
デザートに出されたパンナコッタを平らげて満足した私は席を立った。居候の身であるので、片づけくらいは手伝うべきだろう。しかし、キッチンに向かうべく歩き出そうとしたところでぐいっと腕を引っ張られたのでつんのめってしまった。その乱暴な腕の持ち主を見ると、にやりと笑うイッカクさんだった。その笑顔はとてもチャーミングだったのだが、そこはかとなく嫌な予感がした。というか、嫌な予感しかしなかった。
「なに?私、片づけを手伝おうと思ってるんだけど」
「今日はナシ」
イッカクさんは語尾にハートが付きそうな程の上機嫌だ。周りの面々も悪戯が成功したようにニヤニヤしている。
「どういうこと?」
「片づけはおれ等がやっとくよー。ナマエちゃんは楽しんできてー」
何を?お願いだから主語を教えて。
「え、ちょっと待って」
コックさんと数人のクルーに見送られて私はポーラータング号から追い出されたのだ。私の外にもロー先生やベポくんやシャチさんなども一緒になってハッチから外に出ていく。
更に彼らは甲板から地面まで結構な高さがある筈なのに、皆ポンポンと飛び降りていった。私はロープを使ってやっと降りられたのに。とりあえずロープを探そうとしたが、唐突な浮遊感とともに一瞬にして視界が高くなる。困惑する私の眼前にロー先生の整った顔があるので、私の心臓は止まりかけた。要は私はロー先生に抱き上げられたのである。そんな彼は「遅ェ」とぼやく。その失礼な言い様に私は反論しようとしたのだが、それはすぐに情けない悲鳴に変わった。彼は私を抱いたまま船着き場に飛び降りたのである。そして綺麗に着地を決めた。人が二人分落ちたとは思えない程に軽い着地音だった。そっと地面に下ろされた私はそのままへたり込んでしまった。ロー先生の呆れた眼差しが私に注がれるが、私は頑なにそれに気付かないフリをした。
その後、意地で何とか立ち上がった私はこの島の高台を歩いていた。遠くに暗くなって夜に溶けた海が見える。昼間は少し肌寒いくらいだったが、夜風はとても冷たい。
暗闇でも彼らクルーの着ている白いツナギはよく目立ったので、最後尾である私とロー先生は難なく彼らに合流することができた。どこに行くのか、と何度も隣を歩くロー先生に聞いたが彼は答えてくれなかった。
曰く、クルー達が私の為に計画をしたのだから自分がバラすわけにはいかないそうだ。人相は悪い癖に義理堅いし口も固いのか。彼がクルー達に慕われている理由が少し分かった気がする。ほんの少しだけど。そう、ちっちゃなスプーン一匙分くらい。
辿り着いたのは、一軒のバーだった。赤銅色の煉瓦の建物で、入り口には黒猫の形をした洒落た看板がぶら下がっている。
「どうも!予約しといた“ハートの海賊団”です」
明るく先陣を切っていったのはシャチさんである。その言葉に私は思わずツッコミを入れた。
「海賊ってお店予約できるんだ……」
「金積めばな」
夢もへったくれも無いことを言うのはロー先生だ。成程、世の中お金次第ですか。なんて世知辛い世の中だ。無一文の恐怖を味わった私としては複雑なものを感じてしまった。
貸し切りで予約をしたらしく、店の中に先客は誰もいない。薄暗い雰囲気のダイニングバーは、随所随所に置いてある間接照明器具でほどよい光が灯され、モノトーンで統一されたインテリアも相まって落ち着く空間になっていた。奥にはピアノもあるので、演奏もできるのだろう。私はロー先生と一緒に最奥のテーブルに座らされた。上座というやつだ。物珍しさにキョロキョロしていたらあっという間にこの席に追いやられたので、実に見事な彼らの手腕だった。そして各々適当な席に座ると、彼らは皆ジョッキを構える。どうやら今日ここに集まったのは、私の回復祝いだという。回復も何も、転んで頭を打っただけだし何なら記憶も無くしたんですけど。思わずそう零すと「大丈夫、生きてる!」という雑にも程がある暴論がイカックさんから返ってきた。これは何をやっても丸め込まれるに違いない。だって、私は生きているのだ。
「じゃあ、ナマエの回復と帰還を祝ってーかんぱーい!」
「かんぱーい!!」
立ち上がって乾杯の音頭を取るシャチさんを横目に、手酌で酒を呑んでいるのがこの船の船長である。こういうのってキャプテンがやるんじゃないのだろうか。私にじっと見られ、その意図を察したらしいロー先生はジョッキを一杯開けると、静かにそれを机に置いた。
「放っとけ。あいつらは何かにかこつけて飲みたいだけだ」
「そうなの。……まぁ、楽しそうで良いと思うわ、うん」
主役の筈である私も、船長であるロー先生もそっちのけで、皆でワイワイガヤガヤ楽しそうに飲んでいるのでそれはそれで良いのかもしれない。じゃあ私も自由にやろう。
乾杯のときに一口飲んでみたビールは苦くて続きが飲めそうになかったので、私も何か頼もうかな、とメニューを開いてみる。しかし、聞きなれない呪文ばかりでどれを頼めば良いのか分からない。眉間に皺を寄せて悩んでいると、ロー先生がウェイターの男性を呼んだ。彼は何だか強そうなお酒の名前を注文した後、私の方を見た。
「あとはこいつにミモザ」
どうやら私の分も頼んでくれたらしい。意地の悪いロー先生のことだ。鬼のようにアルコールの度数が高かったらどうしよう、と思ってメニューに書いてある度数を確認したらそんなことは無かったのでほっと胸を撫でおろした。私にかけられた冤罪を察したのか、ロー先生に「そんなガキみたいなことしねェよ」と呆れられたので私は素直に謝った。流石に失礼だったと反省したからだ。
暫くして、注文したお酒をトレーに乗せたウェイターさんがやってきた。彼に渡されたのは、華奢なデザインの逆三角形のグラスだった。シュワシュワと泡が沸いているオレンジ色の飲み物だ。グラスには新鮮なオレンジの輪切りが刺さっている。私はそれを両手で受け取ると、恐る恐る口をつけた。口内が甘いオレンジの味と香りで満たされ、アルコールの入った炭酸で後味も爽やかだ。その美味しさについつい笑顔になってしまった。
「美味しい。私、こんなに美味しいもの初めて飲んだわ!」
といっても、私の記憶はここ数日しかないのだけれども。
「それは良かったな」
ロー先生は相変わらずハイスピードでお酒を空けているが、機嫌は良さそうだった。そして彼の気持ちの良い飲みっぷりを、私は純粋に凄いと思った。
「ロー先生はお酒強そうね。っていうか強いのね」
「特に意識したことはねェけど、気が付いたら他の連中は沈んでることが多いな」
「それは間違いなく強いって言うのよ」
私はロー先生とは違ってちびちびとお酒を味わって楽しむことにした。美味しいこのお酒をすぐに飲み切ってしまうのは勿体ないと思ったからだ。
「ナマエ!」
お酒の美味しさに浸っていると、急に名前を呼ばれたので吃驚してしまった。声のした方を向くと、私の横にシャチさんとペンギンさんが立っていた。ペンギンさんは両手に大きなホールケーキを持っている。瑞々しい苺が乗ったクリームたっぷりのショートケーキだ。しかし、切るのに失敗したのか大きさにかなり差があって不平等だ。私がそのケーキをまじまじと見ていると、痺れを切らしたペンギンさんが私の眼前にケーキを押し付けてきた。
「ほら、ナマエのお祝いなんだから好きなの選べよ。今回もシャチに切らせたから差がすげェけどな」
「うるせェ、今回は上手くいくと思ったんだよ」
ペンギンさんの発言やボヤくシャチさんの言っていることはよく分からなかったのだが、好きなものを選んでもいいというお言葉に甘えることにした。お酒もこれだけ美味しいのだ。きっとケーキだって美味しいに違いない。私のお祝いだっていうから、大きなものを食べてみても良いだろう。私はわくわくしながら大きく切り分けられたケーキを指さした。
「じゃあ、この苺が乗ってるのを食べたいわ」
欲張りだのと言われるかと思ったのだが、ロー先生は何も言わない。それどころか、凪いだ瞳で私を見ていた。彼は気付いているのだろうか。その瞳が孕んだ優しさを。見てはいけないものを見てしまったような気がして、私は下を向いてしまった。何だか照れ臭くなってずっと下を向いていると、私の視界に銀のフォークに刺さった苺が映った。そして、それは私のケーキの上にぽとりと落とされた。
「やる」
双子のようにもう一個苺が乗せられたケーキと、ロー先生を交互に私はぱちぱちと瞬きしながら見つめた。
「何だ」
「いえ、何か裏があるんじゃないかと」
自分の苺をくれたロー先生に私は全身全霊で彼を警戒した。何を企んでいるというのだ。じとっと睨むと彼は小さく溜息を吐いた。
「お前が物欲しそうに見てるからだ」
まさか顔に出てたのだろうか。子供みたいな思考が彼に透けていたのだと思うと、今度は先程とは別の意味で恥ずかしくなって私は俯いた。羞恥で赤くなった顔を隠すためだ。揶揄うような目でロー先生が私を見ていることを雰囲気で察したので、私は意地でも顔を上げまいと誓った。
しかし、その決意も空しく数秒後に私は顔を上げることになった。
バーの片隅にあったピアノが音を奏でだしたのだ。店員が奏でるそれは、軽快で弾みたくなるような、踊り出したくなるような楽しいメロディだった。どうやら有名な曲らしく、皆は楽し気に歌い出した。すっかり酔っているのか、呂律の回っていない歌詞を、調子っぱずれなリズムに乗せて皆は歌う。音楽的には不協和音であったが、その調べはとても楽しくてキラキラとしたものだった。
「ほら、ナマエも歌おうぜ」
笑うシャチさんに私も立ち上がった。リズムも簡単で、この歌を知らない私でも歌えそうだ。そして何より私もその輪の中に入ってみたくなった。高揚感を抱いて、いざ歌おうと口を開いたその瞬間だった。
「むぐっ」
「お前は歌うな」
後ろから伸びてきた手が私の口を塞いだ。ロー先生だった。
「……どうして」
「お前が歌うと目立つからだ」
恨みがましく問うと、ロー先生はそう言ってのけた。その言葉は見えない拳で私のことを殴る。
私ってそんなに歌が下手だったの。ロー先生が聞きたくないって思うほど?これは少し、いや結構ショックだった。そして、更にショックなことに周りのクルー達も“あー”みたいな顔をしていることである。シャチさんなんか自分から誘ってきたくせに「やっぱり今のナシ」と両手でばってんを作って見せたのだから、その様に私は絶句した。仲間外れだ。確かに私はこの船の仲間ではないけれど。線引きをしたのは自分なのだから、文句を言う権利は無いがこうもあっさりと仲間外れにされると寂しいものがある。私が項垂れていると、不意に腕を引かれた。
「呑み過ぎだ。帰るぞ」
「まだ一杯しか飲んでないのに」
「顔色が良くない」
それはたった今仲間外れにされたから!しかし、そんなこと私に言う資格は無いのだ。だから私は渋々頷いて、彼と一緒に店を出て行った。。一応主役がいなくなるというのに皆は普通に飲み続けていたので、ロー先生の言っていたことは本当だったのだな、と途中で帰る罪悪感も無くなった。
「私ってそんなに下手だった?」
呟くように言うと、隣を歩いているロー先生は不思議そうに眉根だけ動かした。
「何が」
「歌よ」
そんなに下手なのかしら。ふと思い浮かんだ歌を小さく口ずさんでみたが、ロー先生からの返答は無い。言葉も出ない程下手くそですか。ええ、そうですか。私がぶすくれていると、ロー先生に両肩をがしりと掴まれた。驚いて顔を上げると、彼の真っ直ぐな瞳の中に私が映っていた。
「お前、その歌を覚えてるのか」
「え?ええ、頭にぱっと思い浮かんだの。でもなんの歌かは覚えていないわ」
その剣幕に困惑していると、ロー先生は「そうか、悪かった」とぱっと私の肩から手を離した。彼に掴まれたところが熱い。服越しだったのに、熱を直に感じたような気がした。ちらりと隣を歩くロー先生を盗み見ると、彼は先程の剣幕を綺麗にしまい込んで何事も無かったような顔をしている。けれども、さっきよりも少しだけ空いた距離がそれは現実なのだと告げていた。
彼の考えていることが全く分からない。小さく溜息を吐くと、私の吐いたそれは白くなって空気に溶けていった。先程よりも格段と気温が下がっている。
大してお酒を飲まなかったので、あっという間に酔いは冷めてしまった。今度は寒さで鼻の頭とかが赤くなっていそうだ。
「それにしても、今日は寒いわね」
両手を口元に当てて吐息で指先を温めていると、ロー先生は不意に立ち止まった。不思議に思って私も立ち止まると、彼は着ていた上着を脱ぎだしていたのだ。これはまさか。思った通り、ロー先生は自分の上着を私の肩にかけてくてたので、少し気恥しくなった私はつい茶化してしまった。
「紳士的じゃない」
「返せ」
厚意を茶化されたロー先生は眉根を寄せて低い声を出してきたので、怖くなった私はすぐに謝罪した。確かに人の厚意を茶化すのは最低だ。彼は私と比べてだいぶ大きいので服のサイズも当然大きい。すっぽり包まれた私はかなり温かくなったが、逆にロー先生は寒かろう。
「ありがとう、お陰様で温かいわ。でも、ロー先生は寒くないの?」
「そんなに軟な身体してねェよ」
そう言うロー先生の鼻の頭は少しだけ赤くなっていた。コートの温もりに、寒さで赤くなる肌に、彼も私と同じ生きている人間なのだ、と不思議と安堵した。
「あ、雪」
ぱらぱらとまるで花弁のような雪が舞う。雪を掬うように掌を広げると、私の掌に落ちた結晶は一瞬で溶けていく。それを見ていると、無くした記憶を何か思い出せそうな気がした。だから私は顔を上げて空を仰いだ。雲は灰色で薄暗くて、こんなに綺麗なものを生み出しているなんて到底思えない。自然というのは本当に不思議だ。
「帰るぞ」
「何で?もっと見ていたいわ。それに何か思い出せそうなの」
立ち止まって空を見ている私の腕をロー先生は引いた。それでも、私は彼を見ずにひたすら空だけ見る。だって、思い出したいのだ。私は何者なのか。私は貴方にとって何だったのか。貴方は私にとって何だったのか。
「おれは見たくない」
ロー先生は再び私の腕を引いた。先程と同じ距離。近づく体温に、私は曇天の空ではなく彼の顔を見た。
「ロー先生は雪が嫌いなの?」
「嫌いじゃねェよ」
だったら、何でそんなに悲しい顔をするの?そう喉に出かかった言葉は、音にすることはできなかった。そう言って空を仰ぐロー先生はまるで絵画のように綺麗だったからだ。
もう私は気付いていた。きっと、私と彼はただの医者と患者の関係じゃなかった。そうじゃなければ、仲間でもなんでもないただの女がこんなに綺麗な人と、こんなに近い距離にいられるわけないのだ。
「分かったわ。帰りましょう」
ロー先生は、私の記憶が戻らない方が良いと思っているのだろうか。
「ナマエ―、ご飯できたって」
同性で面倒見の良いイッカクさんに私は懐いていたので、ベストな人選だ。扉の外から聞こえるイッカクさんの声に、私の正直なお腹は空腹を訴えた。こんなときでも人間はお腹が空くのだ。それに、船は団体行動だ。私の我儘で団体行動を乱すのはよろしくない。渋々部屋から顔を覗かせた私は、イッカクさんと一緒に食堂に向かう。食堂には既に皆が集まっていた。
ロー先生を除いた乗組員は二十名いるので、全員同じテーブルにつくのは物理的に不可能だ。食堂には六人用のテーブルが四つあり各々自由に座って食事をするのがこの船のスタイルらしい。
ただ、ロー先生と身体が物凄く大きなジャンバールさんは席が決まっているようだった。私は諸事情でロー先生から一番離れたテーブルに行こうと思ったのだが、イッカクさんに腕を引かれて阻止された。変わりに連れていかれたのが。
「お邪魔します!」
「よーこそー!」
わざとらしいイッカクさんにわざとらしく言葉を返したのはシャチさんである。六人用のテーブルには既に四人座っており、一番奥の壁際からロー先生、シャチさん、ペンギンさんが並んで座り、ロー先生の正面にはベポくんが座っている。そう、私はロー先生と同じテーブルに連れてこられたのである。イッカクさんは当然のようにベポくんの隣に私を座らせ、自分もその隣に座った。
ロー先生は私の斜め前に座っている。できるだけ彼の視界に入りたくなかったし、本日の彼の言動アレコレが頭にきているので、私はイカックさんの方に椅子を寄せて若干の距離を取ろうとした。
「え……なんで」
しかし、自分が避けられていると勘違いをしたベポくんが悲し気な声を出したので、私は慌てて椅子を彼の方に寄せた。プラスマイナスゼロどころか、勢い余ってベポくんの方に寄り過ぎてしまった。やってしまった、と項垂れていると視線を感じる。
「なにか」
「いいや」
ロー先生が私を面白そうに見ていたのだ。自分が嫌がられているのは分かっている筈なのに、ふてぶてしいことこの上無いなこの男。眉根を寄せる私に、正面に座るシャチさんは「ほら、ナマエ。飯だから、な?」と謎の仲裁をしてくれた。意味は分からなかったのだが、それに気を取り直してテーブルの上を見ると、私のお腹が再び空腹を訴えてきた。
青々とした新鮮な野菜がバランスよく盛り付けられたサラダ、色鮮やかなパプリカや海の幸がふんだんに乗っているパエリアにふわふわと湯気が見える温かいスープ。
脱走時に文無しで絶望しかけた身としては、とてもありがたいものだ。皆と一緒に手を合わせてから私もご飯に口をつけた。せっかくなので温かいうちに、とスプーンでスープを一口掬う。しっかりと煮詰められた玉ねぎの甘味が出ていてとても美味しい。
「美味しい!この船のコックさんは凄いのね」
記憶を無くしてから私が食べた料理はどれも美味しかった。当然のようにスープも絶品だったので、感動する私にロー先生は口角を吊り上げた。
「おれの船のコックだ。当然だろ」
「ありがとうございます!!」
その瞬間、耳聡くそれを聞いたらしいコックがガタリと立ち上がって何故かお礼を言い出した。その後コックは直立不動で咽び泣き始めてしまった。周りの面々も優しく背を叩きながら自分のことのように喜んでいる。申し訳ないと思ったが、少し引いてしまった。けれども私は悪くないだろう。
「ねぇ、この船の人達、皆貴方のこと好きすぎない?」
「知らねェ」
温度差が物凄いな。それでもロー先生の瞳に映る光は満更でも無さそうだったので、そっとしておくことにした。当事者同士の問題に外野が口を出すことでは無いのだ。
デザートに出されたパンナコッタを平らげて満足した私は席を立った。居候の身であるので、片づけくらいは手伝うべきだろう。しかし、キッチンに向かうべく歩き出そうとしたところでぐいっと腕を引っ張られたのでつんのめってしまった。その乱暴な腕の持ち主を見ると、にやりと笑うイッカクさんだった。その笑顔はとてもチャーミングだったのだが、そこはかとなく嫌な予感がした。というか、嫌な予感しかしなかった。
「なに?私、片づけを手伝おうと思ってるんだけど」
「今日はナシ」
イッカクさんは語尾にハートが付きそうな程の上機嫌だ。周りの面々も悪戯が成功したようにニヤニヤしている。
「どういうこと?」
「片づけはおれ等がやっとくよー。ナマエちゃんは楽しんできてー」
何を?お願いだから主語を教えて。
「え、ちょっと待って」
コックさんと数人のクルーに見送られて私はポーラータング号から追い出されたのだ。私の外にもロー先生やベポくんやシャチさんなども一緒になってハッチから外に出ていく。
更に彼らは甲板から地面まで結構な高さがある筈なのに、皆ポンポンと飛び降りていった。私はロープを使ってやっと降りられたのに。とりあえずロープを探そうとしたが、唐突な浮遊感とともに一瞬にして視界が高くなる。困惑する私の眼前にロー先生の整った顔があるので、私の心臓は止まりかけた。要は私はロー先生に抱き上げられたのである。そんな彼は「遅ェ」とぼやく。その失礼な言い様に私は反論しようとしたのだが、それはすぐに情けない悲鳴に変わった。彼は私を抱いたまま船着き場に飛び降りたのである。そして綺麗に着地を決めた。人が二人分落ちたとは思えない程に軽い着地音だった。そっと地面に下ろされた私はそのままへたり込んでしまった。ロー先生の呆れた眼差しが私に注がれるが、私は頑なにそれに気付かないフリをした。
その後、意地で何とか立ち上がった私はこの島の高台を歩いていた。遠くに暗くなって夜に溶けた海が見える。昼間は少し肌寒いくらいだったが、夜風はとても冷たい。
暗闇でも彼らクルーの着ている白いツナギはよく目立ったので、最後尾である私とロー先生は難なく彼らに合流することができた。どこに行くのか、と何度も隣を歩くロー先生に聞いたが彼は答えてくれなかった。
曰く、クルー達が私の為に計画をしたのだから自分がバラすわけにはいかないそうだ。人相は悪い癖に義理堅いし口も固いのか。彼がクルー達に慕われている理由が少し分かった気がする。ほんの少しだけど。そう、ちっちゃなスプーン一匙分くらい。
辿り着いたのは、一軒のバーだった。赤銅色の煉瓦の建物で、入り口には黒猫の形をした洒落た看板がぶら下がっている。
「どうも!予約しといた“ハートの海賊団”です」
明るく先陣を切っていったのはシャチさんである。その言葉に私は思わずツッコミを入れた。
「海賊ってお店予約できるんだ……」
「金積めばな」
夢もへったくれも無いことを言うのはロー先生だ。成程、世の中お金次第ですか。なんて世知辛い世の中だ。無一文の恐怖を味わった私としては複雑なものを感じてしまった。
貸し切りで予約をしたらしく、店の中に先客は誰もいない。薄暗い雰囲気のダイニングバーは、随所随所に置いてある間接照明器具でほどよい光が灯され、モノトーンで統一されたインテリアも相まって落ち着く空間になっていた。奥にはピアノもあるので、演奏もできるのだろう。私はロー先生と一緒に最奥のテーブルに座らされた。上座というやつだ。物珍しさにキョロキョロしていたらあっという間にこの席に追いやられたので、実に見事な彼らの手腕だった。そして各々適当な席に座ると、彼らは皆ジョッキを構える。どうやら今日ここに集まったのは、私の回復祝いだという。回復も何も、転んで頭を打っただけだし何なら記憶も無くしたんですけど。思わずそう零すと「大丈夫、生きてる!」という雑にも程がある暴論がイカックさんから返ってきた。これは何をやっても丸め込まれるに違いない。だって、私は生きているのだ。
「じゃあ、ナマエの回復と帰還を祝ってーかんぱーい!」
「かんぱーい!!」
立ち上がって乾杯の音頭を取るシャチさんを横目に、手酌で酒を呑んでいるのがこの船の船長である。こういうのってキャプテンがやるんじゃないのだろうか。私にじっと見られ、その意図を察したらしいロー先生はジョッキを一杯開けると、静かにそれを机に置いた。
「放っとけ。あいつらは何かにかこつけて飲みたいだけだ」
「そうなの。……まぁ、楽しそうで良いと思うわ、うん」
主役の筈である私も、船長であるロー先生もそっちのけで、皆でワイワイガヤガヤ楽しそうに飲んでいるのでそれはそれで良いのかもしれない。じゃあ私も自由にやろう。
乾杯のときに一口飲んでみたビールは苦くて続きが飲めそうになかったので、私も何か頼もうかな、とメニューを開いてみる。しかし、聞きなれない呪文ばかりでどれを頼めば良いのか分からない。眉間に皺を寄せて悩んでいると、ロー先生がウェイターの男性を呼んだ。彼は何だか強そうなお酒の名前を注文した後、私の方を見た。
「あとはこいつにミモザ」
どうやら私の分も頼んでくれたらしい。意地の悪いロー先生のことだ。鬼のようにアルコールの度数が高かったらどうしよう、と思ってメニューに書いてある度数を確認したらそんなことは無かったのでほっと胸を撫でおろした。私にかけられた冤罪を察したのか、ロー先生に「そんなガキみたいなことしねェよ」と呆れられたので私は素直に謝った。流石に失礼だったと反省したからだ。
暫くして、注文したお酒をトレーに乗せたウェイターさんがやってきた。彼に渡されたのは、華奢なデザインの逆三角形のグラスだった。シュワシュワと泡が沸いているオレンジ色の飲み物だ。グラスには新鮮なオレンジの輪切りが刺さっている。私はそれを両手で受け取ると、恐る恐る口をつけた。口内が甘いオレンジの味と香りで満たされ、アルコールの入った炭酸で後味も爽やかだ。その美味しさについつい笑顔になってしまった。
「美味しい。私、こんなに美味しいもの初めて飲んだわ!」
といっても、私の記憶はここ数日しかないのだけれども。
「それは良かったな」
ロー先生は相変わらずハイスピードでお酒を空けているが、機嫌は良さそうだった。そして彼の気持ちの良い飲みっぷりを、私は純粋に凄いと思った。
「ロー先生はお酒強そうね。っていうか強いのね」
「特に意識したことはねェけど、気が付いたら他の連中は沈んでることが多いな」
「それは間違いなく強いって言うのよ」
私はロー先生とは違ってちびちびとお酒を味わって楽しむことにした。美味しいこのお酒をすぐに飲み切ってしまうのは勿体ないと思ったからだ。
「ナマエ!」
お酒の美味しさに浸っていると、急に名前を呼ばれたので吃驚してしまった。声のした方を向くと、私の横にシャチさんとペンギンさんが立っていた。ペンギンさんは両手に大きなホールケーキを持っている。瑞々しい苺が乗ったクリームたっぷりのショートケーキだ。しかし、切るのに失敗したのか大きさにかなり差があって不平等だ。私がそのケーキをまじまじと見ていると、痺れを切らしたペンギンさんが私の眼前にケーキを押し付けてきた。
「ほら、ナマエのお祝いなんだから好きなの選べよ。今回もシャチに切らせたから差がすげェけどな」
「うるせェ、今回は上手くいくと思ったんだよ」
ペンギンさんの発言やボヤくシャチさんの言っていることはよく分からなかったのだが、好きなものを選んでもいいというお言葉に甘えることにした。お酒もこれだけ美味しいのだ。きっとケーキだって美味しいに違いない。私のお祝いだっていうから、大きなものを食べてみても良いだろう。私はわくわくしながら大きく切り分けられたケーキを指さした。
「じゃあ、この苺が乗ってるのを食べたいわ」
欲張りだのと言われるかと思ったのだが、ロー先生は何も言わない。それどころか、凪いだ瞳で私を見ていた。彼は気付いているのだろうか。その瞳が孕んだ優しさを。見てはいけないものを見てしまったような気がして、私は下を向いてしまった。何だか照れ臭くなってずっと下を向いていると、私の視界に銀のフォークに刺さった苺が映った。そして、それは私のケーキの上にぽとりと落とされた。
「やる」
双子のようにもう一個苺が乗せられたケーキと、ロー先生を交互に私はぱちぱちと瞬きしながら見つめた。
「何だ」
「いえ、何か裏があるんじゃないかと」
自分の苺をくれたロー先生に私は全身全霊で彼を警戒した。何を企んでいるというのだ。じとっと睨むと彼は小さく溜息を吐いた。
「お前が物欲しそうに見てるからだ」
まさか顔に出てたのだろうか。子供みたいな思考が彼に透けていたのだと思うと、今度は先程とは別の意味で恥ずかしくなって私は俯いた。羞恥で赤くなった顔を隠すためだ。揶揄うような目でロー先生が私を見ていることを雰囲気で察したので、私は意地でも顔を上げまいと誓った。
しかし、その決意も空しく数秒後に私は顔を上げることになった。
バーの片隅にあったピアノが音を奏でだしたのだ。店員が奏でるそれは、軽快で弾みたくなるような、踊り出したくなるような楽しいメロディだった。どうやら有名な曲らしく、皆は楽し気に歌い出した。すっかり酔っているのか、呂律の回っていない歌詞を、調子っぱずれなリズムに乗せて皆は歌う。音楽的には不協和音であったが、その調べはとても楽しくてキラキラとしたものだった。
「ほら、ナマエも歌おうぜ」
笑うシャチさんに私も立ち上がった。リズムも簡単で、この歌を知らない私でも歌えそうだ。そして何より私もその輪の中に入ってみたくなった。高揚感を抱いて、いざ歌おうと口を開いたその瞬間だった。
「むぐっ」
「お前は歌うな」
後ろから伸びてきた手が私の口を塞いだ。ロー先生だった。
「……どうして」
「お前が歌うと目立つからだ」
恨みがましく問うと、ロー先生はそう言ってのけた。その言葉は見えない拳で私のことを殴る。
私ってそんなに歌が下手だったの。ロー先生が聞きたくないって思うほど?これは少し、いや結構ショックだった。そして、更にショックなことに周りのクルー達も“あー”みたいな顔をしていることである。シャチさんなんか自分から誘ってきたくせに「やっぱり今のナシ」と両手でばってんを作って見せたのだから、その様に私は絶句した。仲間外れだ。確かに私はこの船の仲間ではないけれど。線引きをしたのは自分なのだから、文句を言う権利は無いがこうもあっさりと仲間外れにされると寂しいものがある。私が項垂れていると、不意に腕を引かれた。
「呑み過ぎだ。帰るぞ」
「まだ一杯しか飲んでないのに」
「顔色が良くない」
それはたった今仲間外れにされたから!しかし、そんなこと私に言う資格は無いのだ。だから私は渋々頷いて、彼と一緒に店を出て行った。。一応主役がいなくなるというのに皆は普通に飲み続けていたので、ロー先生の言っていたことは本当だったのだな、と途中で帰る罪悪感も無くなった。
「私ってそんなに下手だった?」
呟くように言うと、隣を歩いているロー先生は不思議そうに眉根だけ動かした。
「何が」
「歌よ」
そんなに下手なのかしら。ふと思い浮かんだ歌を小さく口ずさんでみたが、ロー先生からの返答は無い。言葉も出ない程下手くそですか。ええ、そうですか。私がぶすくれていると、ロー先生に両肩をがしりと掴まれた。驚いて顔を上げると、彼の真っ直ぐな瞳の中に私が映っていた。
「お前、その歌を覚えてるのか」
「え?ええ、頭にぱっと思い浮かんだの。でもなんの歌かは覚えていないわ」
その剣幕に困惑していると、ロー先生は「そうか、悪かった」とぱっと私の肩から手を離した。彼に掴まれたところが熱い。服越しだったのに、熱を直に感じたような気がした。ちらりと隣を歩くロー先生を盗み見ると、彼は先程の剣幕を綺麗にしまい込んで何事も無かったような顔をしている。けれども、さっきよりも少しだけ空いた距離がそれは現実なのだと告げていた。
彼の考えていることが全く分からない。小さく溜息を吐くと、私の吐いたそれは白くなって空気に溶けていった。先程よりも格段と気温が下がっている。
大してお酒を飲まなかったので、あっという間に酔いは冷めてしまった。今度は寒さで鼻の頭とかが赤くなっていそうだ。
「それにしても、今日は寒いわね」
両手を口元に当てて吐息で指先を温めていると、ロー先生は不意に立ち止まった。不思議に思って私も立ち止まると、彼は着ていた上着を脱ぎだしていたのだ。これはまさか。思った通り、ロー先生は自分の上着を私の肩にかけてくてたので、少し気恥しくなった私はつい茶化してしまった。
「紳士的じゃない」
「返せ」
厚意を茶化されたロー先生は眉根を寄せて低い声を出してきたので、怖くなった私はすぐに謝罪した。確かに人の厚意を茶化すのは最低だ。彼は私と比べてだいぶ大きいので服のサイズも当然大きい。すっぽり包まれた私はかなり温かくなったが、逆にロー先生は寒かろう。
「ありがとう、お陰様で温かいわ。でも、ロー先生は寒くないの?」
「そんなに軟な身体してねェよ」
そう言うロー先生の鼻の頭は少しだけ赤くなっていた。コートの温もりに、寒さで赤くなる肌に、彼も私と同じ生きている人間なのだ、と不思議と安堵した。
「あ、雪」
ぱらぱらとまるで花弁のような雪が舞う。雪を掬うように掌を広げると、私の掌に落ちた結晶は一瞬で溶けていく。それを見ていると、無くした記憶を何か思い出せそうな気がした。だから私は顔を上げて空を仰いだ。雲は灰色で薄暗くて、こんなに綺麗なものを生み出しているなんて到底思えない。自然というのは本当に不思議だ。
「帰るぞ」
「何で?もっと見ていたいわ。それに何か思い出せそうなの」
立ち止まって空を見ている私の腕をロー先生は引いた。それでも、私は彼を見ずにひたすら空だけ見る。だって、思い出したいのだ。私は何者なのか。私は貴方にとって何だったのか。貴方は私にとって何だったのか。
「おれは見たくない」
ロー先生は再び私の腕を引いた。先程と同じ距離。近づく体温に、私は曇天の空ではなく彼の顔を見た。
「ロー先生は雪が嫌いなの?」
「嫌いじゃねェよ」
だったら、何でそんなに悲しい顔をするの?そう喉に出かかった言葉は、音にすることはできなかった。そう言って空を仰ぐロー先生はまるで絵画のように綺麗だったからだ。
もう私は気付いていた。きっと、私と彼はただの医者と患者の関係じゃなかった。そうじゃなければ、仲間でもなんでもないただの女がこんなに綺麗な人と、こんなに近い距離にいられるわけないのだ。
「分かったわ。帰りましょう」
ロー先生は、私の記憶が戻らない方が良いと思っているのだろうか。