春告げ鳥と花の唄
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天候は快晴。
仰ぎ見た空は、雲一つなく抜けるように青い。かといって太陽の光は刺すように鮮烈なものでは無く、ほど良く辺りを照らしている。気候も穏やかだったので、ポーラータング号は久方ぶりに海面に浮上していた。
この素晴らしい洗濯日和にクルー達は洗濯大会を開催し、各々へそくりのように大事に貯めこんだ洗濯物を甲板に持ち込んだ。“洗濯をする”という使命感に燃えたクルー達は、汚れたシーツやらシャツやら下着を洗濯タライにぶち込んでは泡だらけにし、最終的には自分たちも泡だらけになって遊ぶことに決めたようだった。そして当然のように現場監督兼総指揮官のイッカクに怒鳴られていた。
ベポは洗濯大会に参加することなく甲板に大の字になって昼寝をしているが、今回は特別に目を瞑られていた。その巨体にローが寄りかかって座っていたからだ。
ローは泡だらけになったり洗濯物を干したりしているクルー達をぼんやりと見ていた。如何せん暇だった。先日購入した本は全て読んでしまったし、洗濯大会に参加しているクルーのように洗濯物を貯めこんではいないので、やることが無いのだ。
そんなときだ。
「あれ、船だ」
そう言ったのは誰だっただろうか。その声に顔を上げたローが視線を巡らすと、確かに遠くの方にぼんやりと大型船の影が見える。
スコープで覗いてみればどうやらそれは豪華客船のよう“だった”。過去形なのは、土手っ腹には大きな風穴が開いており、ボロボロで薄汚れていて今や豪華客船の絢爛さも見る影が無かったからだ。幸い船底に穴は開いていないのか、どことなく傾いているだけでまだ沈んではいない。しかし、それも時間の問題だろう。
「豪華客船だったのかな」
「何か金目のモンねェかな」
「流石にこうなっちゃ何もねェだろ」
可哀想な“元”豪華客船にクルー達は言いたい放題だ。彼らのあること無いことの想像と感想を聞いていたローは、不意にすくっと立ち上がった。
「見てくる」
何ていったって、暇だし。
能力を使って瞬く間に船の甲板に下りたローはあたりを見回した。当然のように船は静まり返っていて人の気配はしない。船の横っ腹にできた不自然な風穴は恐らく同業者によるものだろう。となると、金目のものは一切残っていないと考えた方が良い。元よりローは金品の類にはあまり興味が無いので、この退屈を少しでも潰すことができればそれはそれで良かった。
甲板から船内に入ると、そこから続いていたのはファーストクラスのラウンジだ。天井で優雅に輝いていた筈の贅沢なシャンデリアは地に落ちて、涙のように硝子を散りばめている。洒落た価値のありそうな調度品は壊れて無造作に転がり、荒事があったのは一目瞭然だった。この船を襲った同業者はだいぶ暴れていったらしい。何もここまですることは無いだろうに。血痕などの生々しい戦いの痕跡は無かったので、それだけが幸いか。子供の癇癪のような有様に、これ以上見る価値は無いと判断したローはラウンジを抜けて行った。
廊下には赤いベルベットの絨毯が敷かれている。その上品なワインレッドは無粋な足跡で汚されて、今にも無念の声が聞こえてきそうだ。とはいえ、ローは幽霊の類を全く信じていないので平気な顔で廊下を歩いた。そして暫く歩いたところで、ふと彼は足を止めた。自分ではない足音が聞こえたからだ。パタパタという、子供や女のような軽い足音だ。しかしこんな幽霊船に人がいるのなら、それは只者では無いだろう。ローは自分のことを棚に上げて謎の足音に警戒し、いつでもサークルを出せるように構えた。その間にも足音はどんどん近づいてきて、角を曲がって来た。その足音の持ち主がとうとう彼とは廊下の対極に現れる。その人物を目に入れるなり、流石のローも目を丸くした。
「お前」
その人物は、あの“常春の国”で出会った女だった。彼女もローのことは覚えているらしく、ぱあっと顔を輝かせて駆け寄って来る。こちとら戦闘態勢を取っているのに、警戒心ゼロの彼女に馬鹿々々しくなったローはそっとサークルを解除した。
「何でこんなところにいる」
「貴方こそ。私は逃げ遅れたのよ」
「お前トロそうだもんな」
「失礼ね!他の人が逃げるのを手伝ってたら逃げ遅れただけよ!」
ローの素直な感想に女は憤慨して言い訳をしたが、ただ墓穴を掘っただけだった。
「“悪いこと”をしたかったんじゃないのか」
“良いこと”をして自分が痛い目にあってどうするんだよ。ローは心底呆れた。他人を逃がして自分が逃げ損ねたら世話が無い。ローのツッコミにハッとした彼女は、気まずそうに彼から目を逸らした。
「……うっかりしてたのよ」
消え入りそうな彼女の様子が可哀想になったので、ローはこの話題を追求するのを止めてやった。その変わりにこの船が幽霊船のようになった理由を確認することにした。
「海賊よ。元からこの航路には“出る”って噂だったけど、本当に出るとは思わなかったわ」
憮然とした彼女の答えはローの予想通りだ。だろうな。予め答えを知っていたクイズを出された気分になったローだった。
「せっかくの船旅だったのに。海賊なんて大嫌いだわ!」
目の前にいる男も同業者なのだが、そんなこと知る由も無い女は天井に向かって吠えた。彼女はローが手に持っている鬼哭が目に入っていないのだろうか。生温かいローの視線を浴びながら一しきり騒いだ女は、肩で息をして数回深呼吸をするとやっと冷静になったようだった。
「で、貴方は何でこんなところにいるの?貴方みたいな目立つ人、この船に乗っていなかったわ」
「偶然この船を見つけたから乗り込んだだけだ」
「貴方、船乗りな、」
不自然に途切れた言葉を不審に思ったローが声をかけようとしたその瞬間。がくん、と糸が切れた人形のように女は膝をついたのだ。どさっと彼女が持っていた小さな革のトランクが廊下に転がる。それも気にすることなく、女は震える両手でぎゅうっと自身を抱きしめ、背を丸めて小さくなった。彼女は言葉の代わりにひたすら荒い息を吐く。このままでは過呼吸になりそうだ。打って変わった女の様子に、感情よりも条件反射でローは膝をついた。
「おい」
覗き込んだ女の顔は青を通り越して土気色だった。紫色になった唇が、先程の騒がしさが嘘のように弱々しく言葉を紡ぐ。
「薬……私の、鞄、の中」
そして彼女は譫言のように「寒い」としか言わなくなった。
女の言う通り、転がっていた小さなトランクを開けると底の方に小さな硝子の小瓶が入っていた。“スノウドロップ”というラベルの貼ってある小瓶の中にはカプセル状の錠剤が数粒入っている。瓶の底が見えるので、残りはそんなに多くない。聞いたこと無い薬だったが、常備薬だということは効能はあるのだろう。ローは小瓶の中の薬を一粒摘まむと、女の紫色になった唇に錠剤を突っ込んだ。それを嚥下した彼女の震えは暫くしてぴたりと収まったが、彼女自身もそのまま動かなくなった。地に伏せてぴくりとも動かない女を見下ろしてから、顔を緩慢に上げたローは少し虚空を見つめた後、大きな溜息を吐いた。
いくら暇だからってこんな沈没秒読み船に来るんじゃなかった。
◇
金目の物でもなく、人間の女を抱いて戻って来たローに洗濯物を干していたクルー達は目を丸くした。彼らは洗濯物を放り投げると、ローを囲むようにわらわらと集まって来る。
「キャプテン、その人は?」
「逃げ遅れた要領が悪い女だ」
あまりにもあんまりな紹介にクルー達は困惑したが、そんな彼らを気にすることなくローはそのまま船内に入っていった。
ローは処置室のベッドに女を横たえると、ざっと彼女を視診した。脈も正常だし熱も無いようだ。薬を飲んだ今は顔色もそこまで悪くはない。少なくとも彼女は、少し前まで彼女は健康そのものだった筈だ。前触れもなくあんな風になるのだろうか。とはいえ、彼女を起こせばどのような病気なのか分かるだろう。この能天気な女だって、流石に自分の病気くらい把握しているに違いない。多分。きっと。そうであってほしい。
ところが、面倒なことにこの女はそう簡単にいかなかったのだ。
あれから数時間経って目覚めた彼女は、気だるげに起き上がるとぼんやりとした眼で辺りを見回している。何か変な行動をされると厄介なので、監視がてら処置室の隅で本を読んでいたローは顔を上げた。
「起きたか」
「ここ……貴方、お医者様なの?」
「そんなところだ」
先程この女が“海賊なんか大嫌い!”と騒いでいたのは記憶に新しい。どうせすぐにバレるだろうが、とりあえずこの場は穏便に済ませたい。これ以上余計な労力を使いたくないのだ。
「助けてくれたのね。ありがとうございます」
女は状況を理解すると、ローに対して深く頭を下げた。甘やかされて育った我儘娘だと思っていたが、一応最低限の常識と礼儀作法は叩きこまれているようだった。
「いいから顔を上げろ。お前、どこが悪いんだ」
「分からないわ。お医者様はこの薬を飲めば良くなるって」
しかし、ローが彼女を見直すことができたのはほんの束の間だった。やっぱりこいつ、ただの甘ったれじゃねェか!
「自分の身体のことぐらい知っておけ」
「ごめんなさい、確かにそうよね……」
厳しいローの声音に女はしゅんと項垂れた。気の強く我儘な面もあるが、意外なことにこういう時の反応が子供のように素直なので調子が狂う。
「もういい、知らねェもんは仕様がない……お前、名前は?」
眉間の皺を揉み解しながらそう問うと、女からの返事は無い。流石に自分の名前くらい言えるだろう。いい加減にしろよ、とローが女を睨むと彼女はおずおずと口を開いた。まるで、言っても良いのかと逡巡しているようだが、そんなに変な名前なのだろうか。
「名前は」
「私の名前はナマエ。ナマエよ」
「ナマエか」
促すと、女はそう名乗った。彼女の名乗ったそれは全然変なものではなく、声に出してみれば寧ろ彼女にしっくりときていた。
「貴方は?」
「トラファルガー・ローだ」
当然の流れで聞かれたので、ローも名乗り返した。自分の首にはそれなりの懸賞金が懸けられているようなので、それで海賊だとバレる可能性があったが、名前まで偽ってやるつもりはないしそこまでこの女に配慮してやる義理も必要も無い。とはいえ、多分名乗っても正体が知られる可能性は五分五分くらいだ。出会ってからの時間は短いが、ナマエが相当世間に疎いことは明確だったからだ。かくして。
「えっと、トラファルガー先生」
「先生?」
「貴方、お医者様なんでしょう。お医者様のことをばあやがそう呼んでたわ」
やはり彼女は彼のことを全く知らなかった。おかげで面倒なことにならなかったので、ローは初めてナマエの箱入りっぷりに感謝……するわけがない。
それにしても“トラファルガー先生”なんて、まるで父のようではないか。良き医者であった父と、今の自分は全くの別物だ。“あんなこと”が無ければきっとローもそう呼ばれていただろうし、そうなるつもりだった。しかし、そんな“たられば”の世界に意味は無い。だってそれは、今までの自分や恩義のある人々を否定することと同義だ。
「……ローでいい」
「じゃあ、ロー先生」
そう言って微笑むナマエに、ローの腹の奥がなんだか変な感じになった。
畜生、あんな船に暇潰しに行くんじゃなかった。ローは本日何度も思ったことを、今この場で一番深く、深く悔やんだ。
彼女本人が自分のことなのに病気のことを一切知らなかったので、服用していた薬からある程度病名を絞り出すしかない。
ローはナマエの荷物から失敬した“スノウドロップ”を一粒砕くと、粉々になったカプセルから中身がパラパラと出てきた。真っ白な粉末に混ざって、銀色に輝く小さな粒が混じっている。白い粉末は薬だろうが、銀色の粒の薬などは全く見ない。つまり、あまり流通していないものだ。この粒から割り出した方が早く済むかもしれない。
見たことの無い粒をピンセットで摘まみ、プレパーレートに載せて顕微鏡で覗き込む。どうやらこの粒は、鉱石を砕いて極小さな粒上にしたもののようだ。鉱石が使われている薬、と考えたところでローはちらりと本棚を見た。先日丁度良いものを買ったではないか。そして彼は本棚からフレジアで買った図鑑を引っ張り出した。“薬にも毒にもなる鉱物図鑑”だ。
銀色の鉱物が載っている頁をざっと捲り、片っ端らから鉱石の性質と銀の粒を比べて当てはめていく。しかし、どこにも該当する鉱石は載っていない。そう、“薬”の頁に載っている鉱石には。嫌な予感がする。ローはゆっくりと図鑑の頁を捲った。
次に見るのは“毒”の頁だ。彼はこの銀色が“それ”でないことを願いながら、再び図鑑と銀の粒を比べる作業に戻った。
「……嘘だろ」
“銀の粒”と“白い粉末”の正体を突き止めたローは椅子の背もたれに背を預けて天を仰いだ。丁度そのとき、小さなノックが三回船長室の扉の外から聞こえる。
「入れ」
扉を開けて顔を覗かせたのは、ペンギンとシャチ、それからベポの三人だった。
「ご飯届けてきたよ。コックに消化の良いもの作って貰ったから全部食べてくれた」
「彼女、何か病気なんですか?」
ローが薬を調べている間に彼女の世話はベポに頼んだのだが、シャチとペンギンもローが連れてきた謎の女のことが気になるらしい。まぁ、船長が見ず知らずの女を船に連れ込んだら気になるのは当然のことだろう。
「病気じゃねェ」
ローの返事に気の良い三人はほっと胸を撫でおろした。ところが、それも束の間。
「もっと酷ェ」
三人はローの続けた言葉にピシリと固まった。ローはこういうところで冗談を言うような人間ではないので、彼がそう言うのなら余程酷いことだろうと予想がついたからだ。
ローは彼らを手招きした。不穏な雰囲気にぎこちない動きでこちらにやってきた三人に、机上の“スノウドロップ”の中身を見せる。
「なんかキラキラして綺麗だね」
「珍しい薬ですね」
銀色の粒を見て小首を傾げる三人にローは首をゆっくりと振った。
「薬じゃない。これは“毒”だ」
「そうなんですか……ええ、毒ぅむぐっ?!」
条件反射でうんうん、と頷いたシャチは数拍空けて意味を理解すると叫ぼうとした。しかし、煩かったのでその口はペンギンに乱暴に塞がれる。口どころか首も締まっているので、シャチはペンギンの腕をベシベシ叩いて降参の意を唱えたが、彼も気が動転していてそれどころではない。先程の行動は長年培ってきた経験がオートモードで無意識の内に出ただけなのだ。
「毒って言っても殺傷力のあるやつじゃねェ。こいつの効能は睡眠導入剤と同じだ。あと、離してやれ」
「あ、すまん」
「ペンギン、お前、……マジで覚えてろよ」
咳き込みながら涙目で恨み言を言うシャチは、可哀想なことに三人に無視された。シャチを見ることなく、顔を真っ青にしたベポは大きな口を両手で覆う。
「そんなの、体内で摂取したら眠くなっちゃうよ」
「普通に考えて鉱石は人間の胃液では溶けない」
少なくとも人間の胃液では溶けるものではない。ローが購入した図鑑は粉末にしたり特殊な液体で溶かしたりすれば薬効がある鉱石を集めたものだ。つまり、ただ砕いて極細かい粒上にしただけでは鉱石は彼女の胃袋で溜まっていくばかりだ。
「人間睡眠薬でも作るつもりなんですか」
呆然と呟くペンギンにローも頷いた。彼も概ねペンギンと同意見だ。彼女は人間以外の“何か”を眠らせるための薬の入れ物にされているのだ。
「それから」
まだ何かあるんですか、もう聞きたくないと三人は思ったのだがローがここまで話してくれているのだから逃げる訳にはいかない。三人はこれからに備えてせめてもの心構えをしたのだが、残念なことにそれも無駄だった。
「定期的に服用させたかったんだろうな。ご丁寧にこの白い粉は大麻の一種だ」
言葉が出てこない。三人はただ茫然として立ち尽くした。
そんなものは、悪意でしかない。だけれども、残念なことにこの世の中にはそのような悪意がありふれていることを彼らは知っている。とはいえ、それを許容できるかというとそれとこれとは全くの別問題なのだ。
ナマエも自分の病状を知らないし教えてもらえない筈だ。だって、彼女の症状は病気でもなくただの薬物中毒なのだから。
幸せな鳥籠から逃げてきた甘ったれた女だと思っていたし、言動もただの世間知らずなお嬢様だった。しかし、彼女もなにか感じ取ったものがあったのかもしれない。
「……ナマエは今どうしてる」
「疲れてるのか、ご飯食べたら寝ちゃったよ」
ベポの返事を聞くなり、ローは立ち上がった。その手には鬼哭をしっかりと持っている。
「キャプテン、どこに?」
「オペだ」
全てを察した三人は唇をぎゅっと結んでローを見送った。そして、まだよくは知らない他人であるのだが、彼女の無事を祈った。
仰ぎ見た空は、雲一つなく抜けるように青い。かといって太陽の光は刺すように鮮烈なものでは無く、ほど良く辺りを照らしている。気候も穏やかだったので、ポーラータング号は久方ぶりに海面に浮上していた。
この素晴らしい洗濯日和にクルー達は洗濯大会を開催し、各々へそくりのように大事に貯めこんだ洗濯物を甲板に持ち込んだ。“洗濯をする”という使命感に燃えたクルー達は、汚れたシーツやらシャツやら下着を洗濯タライにぶち込んでは泡だらけにし、最終的には自分たちも泡だらけになって遊ぶことに決めたようだった。そして当然のように現場監督兼総指揮官のイッカクに怒鳴られていた。
ベポは洗濯大会に参加することなく甲板に大の字になって昼寝をしているが、今回は特別に目を瞑られていた。その巨体にローが寄りかかって座っていたからだ。
ローは泡だらけになったり洗濯物を干したりしているクルー達をぼんやりと見ていた。如何せん暇だった。先日購入した本は全て読んでしまったし、洗濯大会に参加しているクルーのように洗濯物を貯めこんではいないので、やることが無いのだ。
そんなときだ。
「あれ、船だ」
そう言ったのは誰だっただろうか。その声に顔を上げたローが視線を巡らすと、確かに遠くの方にぼんやりと大型船の影が見える。
スコープで覗いてみればどうやらそれは豪華客船のよう“だった”。過去形なのは、土手っ腹には大きな風穴が開いており、ボロボロで薄汚れていて今や豪華客船の絢爛さも見る影が無かったからだ。幸い船底に穴は開いていないのか、どことなく傾いているだけでまだ沈んではいない。しかし、それも時間の問題だろう。
「豪華客船だったのかな」
「何か金目のモンねェかな」
「流石にこうなっちゃ何もねェだろ」
可哀想な“元”豪華客船にクルー達は言いたい放題だ。彼らのあること無いことの想像と感想を聞いていたローは、不意にすくっと立ち上がった。
「見てくる」
何ていったって、暇だし。
能力を使って瞬く間に船の甲板に下りたローはあたりを見回した。当然のように船は静まり返っていて人の気配はしない。船の横っ腹にできた不自然な風穴は恐らく同業者によるものだろう。となると、金目のものは一切残っていないと考えた方が良い。元よりローは金品の類にはあまり興味が無いので、この退屈を少しでも潰すことができればそれはそれで良かった。
甲板から船内に入ると、そこから続いていたのはファーストクラスのラウンジだ。天井で優雅に輝いていた筈の贅沢なシャンデリアは地に落ちて、涙のように硝子を散りばめている。洒落た価値のありそうな調度品は壊れて無造作に転がり、荒事があったのは一目瞭然だった。この船を襲った同業者はだいぶ暴れていったらしい。何もここまですることは無いだろうに。血痕などの生々しい戦いの痕跡は無かったので、それだけが幸いか。子供の癇癪のような有様に、これ以上見る価値は無いと判断したローはラウンジを抜けて行った。
廊下には赤いベルベットの絨毯が敷かれている。その上品なワインレッドは無粋な足跡で汚されて、今にも無念の声が聞こえてきそうだ。とはいえ、ローは幽霊の類を全く信じていないので平気な顔で廊下を歩いた。そして暫く歩いたところで、ふと彼は足を止めた。自分ではない足音が聞こえたからだ。パタパタという、子供や女のような軽い足音だ。しかしこんな幽霊船に人がいるのなら、それは只者では無いだろう。ローは自分のことを棚に上げて謎の足音に警戒し、いつでもサークルを出せるように構えた。その間にも足音はどんどん近づいてきて、角を曲がって来た。その足音の持ち主がとうとう彼とは廊下の対極に現れる。その人物を目に入れるなり、流石のローも目を丸くした。
「お前」
その人物は、あの“常春の国”で出会った女だった。彼女もローのことは覚えているらしく、ぱあっと顔を輝かせて駆け寄って来る。こちとら戦闘態勢を取っているのに、警戒心ゼロの彼女に馬鹿々々しくなったローはそっとサークルを解除した。
「何でこんなところにいる」
「貴方こそ。私は逃げ遅れたのよ」
「お前トロそうだもんな」
「失礼ね!他の人が逃げるのを手伝ってたら逃げ遅れただけよ!」
ローの素直な感想に女は憤慨して言い訳をしたが、ただ墓穴を掘っただけだった。
「“悪いこと”をしたかったんじゃないのか」
“良いこと”をして自分が痛い目にあってどうするんだよ。ローは心底呆れた。他人を逃がして自分が逃げ損ねたら世話が無い。ローのツッコミにハッとした彼女は、気まずそうに彼から目を逸らした。
「……うっかりしてたのよ」
消え入りそうな彼女の様子が可哀想になったので、ローはこの話題を追求するのを止めてやった。その変わりにこの船が幽霊船のようになった理由を確認することにした。
「海賊よ。元からこの航路には“出る”って噂だったけど、本当に出るとは思わなかったわ」
憮然とした彼女の答えはローの予想通りだ。だろうな。予め答えを知っていたクイズを出された気分になったローだった。
「せっかくの船旅だったのに。海賊なんて大嫌いだわ!」
目の前にいる男も同業者なのだが、そんなこと知る由も無い女は天井に向かって吠えた。彼女はローが手に持っている鬼哭が目に入っていないのだろうか。生温かいローの視線を浴びながら一しきり騒いだ女は、肩で息をして数回深呼吸をするとやっと冷静になったようだった。
「で、貴方は何でこんなところにいるの?貴方みたいな目立つ人、この船に乗っていなかったわ」
「偶然この船を見つけたから乗り込んだだけだ」
「貴方、船乗りな、」
不自然に途切れた言葉を不審に思ったローが声をかけようとしたその瞬間。がくん、と糸が切れた人形のように女は膝をついたのだ。どさっと彼女が持っていた小さな革のトランクが廊下に転がる。それも気にすることなく、女は震える両手でぎゅうっと自身を抱きしめ、背を丸めて小さくなった。彼女は言葉の代わりにひたすら荒い息を吐く。このままでは過呼吸になりそうだ。打って変わった女の様子に、感情よりも条件反射でローは膝をついた。
「おい」
覗き込んだ女の顔は青を通り越して土気色だった。紫色になった唇が、先程の騒がしさが嘘のように弱々しく言葉を紡ぐ。
「薬……私の、鞄、の中」
そして彼女は譫言のように「寒い」としか言わなくなった。
女の言う通り、転がっていた小さなトランクを開けると底の方に小さな硝子の小瓶が入っていた。“スノウドロップ”というラベルの貼ってある小瓶の中にはカプセル状の錠剤が数粒入っている。瓶の底が見えるので、残りはそんなに多くない。聞いたこと無い薬だったが、常備薬だということは効能はあるのだろう。ローは小瓶の中の薬を一粒摘まむと、女の紫色になった唇に錠剤を突っ込んだ。それを嚥下した彼女の震えは暫くしてぴたりと収まったが、彼女自身もそのまま動かなくなった。地に伏せてぴくりとも動かない女を見下ろしてから、顔を緩慢に上げたローは少し虚空を見つめた後、大きな溜息を吐いた。
いくら暇だからってこんな沈没秒読み船に来るんじゃなかった。
◇
金目の物でもなく、人間の女を抱いて戻って来たローに洗濯物を干していたクルー達は目を丸くした。彼らは洗濯物を放り投げると、ローを囲むようにわらわらと集まって来る。
「キャプテン、その人は?」
「逃げ遅れた要領が悪い女だ」
あまりにもあんまりな紹介にクルー達は困惑したが、そんな彼らを気にすることなくローはそのまま船内に入っていった。
ローは処置室のベッドに女を横たえると、ざっと彼女を視診した。脈も正常だし熱も無いようだ。薬を飲んだ今は顔色もそこまで悪くはない。少なくとも彼女は、少し前まで彼女は健康そのものだった筈だ。前触れもなくあんな風になるのだろうか。とはいえ、彼女を起こせばどのような病気なのか分かるだろう。この能天気な女だって、流石に自分の病気くらい把握しているに違いない。多分。きっと。そうであってほしい。
ところが、面倒なことにこの女はそう簡単にいかなかったのだ。
あれから数時間経って目覚めた彼女は、気だるげに起き上がるとぼんやりとした眼で辺りを見回している。何か変な行動をされると厄介なので、監視がてら処置室の隅で本を読んでいたローは顔を上げた。
「起きたか」
「ここ……貴方、お医者様なの?」
「そんなところだ」
先程この女が“海賊なんか大嫌い!”と騒いでいたのは記憶に新しい。どうせすぐにバレるだろうが、とりあえずこの場は穏便に済ませたい。これ以上余計な労力を使いたくないのだ。
「助けてくれたのね。ありがとうございます」
女は状況を理解すると、ローに対して深く頭を下げた。甘やかされて育った我儘娘だと思っていたが、一応最低限の常識と礼儀作法は叩きこまれているようだった。
「いいから顔を上げろ。お前、どこが悪いんだ」
「分からないわ。お医者様はこの薬を飲めば良くなるって」
しかし、ローが彼女を見直すことができたのはほんの束の間だった。やっぱりこいつ、ただの甘ったれじゃねェか!
「自分の身体のことぐらい知っておけ」
「ごめんなさい、確かにそうよね……」
厳しいローの声音に女はしゅんと項垂れた。気の強く我儘な面もあるが、意外なことにこういう時の反応が子供のように素直なので調子が狂う。
「もういい、知らねェもんは仕様がない……お前、名前は?」
眉間の皺を揉み解しながらそう問うと、女からの返事は無い。流石に自分の名前くらい言えるだろう。いい加減にしろよ、とローが女を睨むと彼女はおずおずと口を開いた。まるで、言っても良いのかと逡巡しているようだが、そんなに変な名前なのだろうか。
「名前は」
「私の名前はナマエ。ナマエよ」
「ナマエか」
促すと、女はそう名乗った。彼女の名乗ったそれは全然変なものではなく、声に出してみれば寧ろ彼女にしっくりときていた。
「貴方は?」
「トラファルガー・ローだ」
当然の流れで聞かれたので、ローも名乗り返した。自分の首にはそれなりの懸賞金が懸けられているようなので、それで海賊だとバレる可能性があったが、名前まで偽ってやるつもりはないしそこまでこの女に配慮してやる義理も必要も無い。とはいえ、多分名乗っても正体が知られる可能性は五分五分くらいだ。出会ってからの時間は短いが、ナマエが相当世間に疎いことは明確だったからだ。かくして。
「えっと、トラファルガー先生」
「先生?」
「貴方、お医者様なんでしょう。お医者様のことをばあやがそう呼んでたわ」
やはり彼女は彼のことを全く知らなかった。おかげで面倒なことにならなかったので、ローは初めてナマエの箱入りっぷりに感謝……するわけがない。
それにしても“トラファルガー先生”なんて、まるで父のようではないか。良き医者であった父と、今の自分は全くの別物だ。“あんなこと”が無ければきっとローもそう呼ばれていただろうし、そうなるつもりだった。しかし、そんな“たられば”の世界に意味は無い。だってそれは、今までの自分や恩義のある人々を否定することと同義だ。
「……ローでいい」
「じゃあ、ロー先生」
そう言って微笑むナマエに、ローの腹の奥がなんだか変な感じになった。
畜生、あんな船に暇潰しに行くんじゃなかった。ローは本日何度も思ったことを、今この場で一番深く、深く悔やんだ。
彼女本人が自分のことなのに病気のことを一切知らなかったので、服用していた薬からある程度病名を絞り出すしかない。
ローはナマエの荷物から失敬した“スノウドロップ”を一粒砕くと、粉々になったカプセルから中身がパラパラと出てきた。真っ白な粉末に混ざって、銀色に輝く小さな粒が混じっている。白い粉末は薬だろうが、銀色の粒の薬などは全く見ない。つまり、あまり流通していないものだ。この粒から割り出した方が早く済むかもしれない。
見たことの無い粒をピンセットで摘まみ、プレパーレートに載せて顕微鏡で覗き込む。どうやらこの粒は、鉱石を砕いて極小さな粒上にしたもののようだ。鉱石が使われている薬、と考えたところでローはちらりと本棚を見た。先日丁度良いものを買ったではないか。そして彼は本棚からフレジアで買った図鑑を引っ張り出した。“薬にも毒にもなる鉱物図鑑”だ。
銀色の鉱物が載っている頁をざっと捲り、片っ端らから鉱石の性質と銀の粒を比べて当てはめていく。しかし、どこにも該当する鉱石は載っていない。そう、“薬”の頁に載っている鉱石には。嫌な予感がする。ローはゆっくりと図鑑の頁を捲った。
次に見るのは“毒”の頁だ。彼はこの銀色が“それ”でないことを願いながら、再び図鑑と銀の粒を比べる作業に戻った。
「……嘘だろ」
“銀の粒”と“白い粉末”の正体を突き止めたローは椅子の背もたれに背を預けて天を仰いだ。丁度そのとき、小さなノックが三回船長室の扉の外から聞こえる。
「入れ」
扉を開けて顔を覗かせたのは、ペンギンとシャチ、それからベポの三人だった。
「ご飯届けてきたよ。コックに消化の良いもの作って貰ったから全部食べてくれた」
「彼女、何か病気なんですか?」
ローが薬を調べている間に彼女の世話はベポに頼んだのだが、シャチとペンギンもローが連れてきた謎の女のことが気になるらしい。まぁ、船長が見ず知らずの女を船に連れ込んだら気になるのは当然のことだろう。
「病気じゃねェ」
ローの返事に気の良い三人はほっと胸を撫でおろした。ところが、それも束の間。
「もっと酷ェ」
三人はローの続けた言葉にピシリと固まった。ローはこういうところで冗談を言うような人間ではないので、彼がそう言うのなら余程酷いことだろうと予想がついたからだ。
ローは彼らを手招きした。不穏な雰囲気にぎこちない動きでこちらにやってきた三人に、机上の“スノウドロップ”の中身を見せる。
「なんかキラキラして綺麗だね」
「珍しい薬ですね」
銀色の粒を見て小首を傾げる三人にローは首をゆっくりと振った。
「薬じゃない。これは“毒”だ」
「そうなんですか……ええ、毒ぅむぐっ?!」
条件反射でうんうん、と頷いたシャチは数拍空けて意味を理解すると叫ぼうとした。しかし、煩かったのでその口はペンギンに乱暴に塞がれる。口どころか首も締まっているので、シャチはペンギンの腕をベシベシ叩いて降参の意を唱えたが、彼も気が動転していてそれどころではない。先程の行動は長年培ってきた経験がオートモードで無意識の内に出ただけなのだ。
「毒って言っても殺傷力のあるやつじゃねェ。こいつの効能は睡眠導入剤と同じだ。あと、離してやれ」
「あ、すまん」
「ペンギン、お前、……マジで覚えてろよ」
咳き込みながら涙目で恨み言を言うシャチは、可哀想なことに三人に無視された。シャチを見ることなく、顔を真っ青にしたベポは大きな口を両手で覆う。
「そんなの、体内で摂取したら眠くなっちゃうよ」
「普通に考えて鉱石は人間の胃液では溶けない」
少なくとも人間の胃液では溶けるものではない。ローが購入した図鑑は粉末にしたり特殊な液体で溶かしたりすれば薬効がある鉱石を集めたものだ。つまり、ただ砕いて極細かい粒上にしただけでは鉱石は彼女の胃袋で溜まっていくばかりだ。
「人間睡眠薬でも作るつもりなんですか」
呆然と呟くペンギンにローも頷いた。彼も概ねペンギンと同意見だ。彼女は人間以外の“何か”を眠らせるための薬の入れ物にされているのだ。
「それから」
まだ何かあるんですか、もう聞きたくないと三人は思ったのだがローがここまで話してくれているのだから逃げる訳にはいかない。三人はこれからに備えてせめてもの心構えをしたのだが、残念なことにそれも無駄だった。
「定期的に服用させたかったんだろうな。ご丁寧にこの白い粉は大麻の一種だ」
言葉が出てこない。三人はただ茫然として立ち尽くした。
そんなものは、悪意でしかない。だけれども、残念なことにこの世の中にはそのような悪意がありふれていることを彼らは知っている。とはいえ、それを許容できるかというとそれとこれとは全くの別問題なのだ。
ナマエも自分の病状を知らないし教えてもらえない筈だ。だって、彼女の症状は病気でもなくただの薬物中毒なのだから。
幸せな鳥籠から逃げてきた甘ったれた女だと思っていたし、言動もただの世間知らずなお嬢様だった。しかし、彼女もなにか感じ取ったものがあったのかもしれない。
「……ナマエは今どうしてる」
「疲れてるのか、ご飯食べたら寝ちゃったよ」
ベポの返事を聞くなり、ローは立ち上がった。その手には鬼哭をしっかりと持っている。
「キャプテン、どこに?」
「オペだ」
全てを察した三人は唇をぎゅっと結んでローを見送った。そして、まだよくは知らない他人であるのだが、彼女の無事を祈った。