春告げ鳥と花の唄
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私が逃亡を決意したその二日後、船は物資調達の為にとある島に停泊をした。
殆どのクルーは久しぶりの陸、ということで少しだけ浮足立っているようで、皆して食堂に集まって呑気にガイドブックなんぞを覗き込んでいる。そんなもの、どこからどうやって入手したのか気になるところだがその輪に入っては脱走計画をスタートすることができない。私は湧き出てくる好奇心を首をぶんぶんと横に振って追い払った。
とにかく、謎のガイドブックのおかげで私への注意がとても散漫になっているのだ。逃げるなら今しかないだろう。
食堂にいた彼らの話を少しだけ盗み聞きしたら、どうやらここは秋島らしい。そして、季節は冬だ。つまり外は思ったよりも寒いかもしれない。私はショールを羽織ると部屋を抜け出した。
誰にも見つからないように抜き足で廊下を進み無事にハッチまで辿りついた。ここまでで誰にも見つからなかったので、我ながら首尾は上々だ。ハッチの重い扉を開けると、微かな潮風が私の頬を優しく撫でた。久々の太陽の光に目が眩む。私は掌で光を遮りながらこの船を降りるべく梯子かロープを探した。甲板から船着き場までは思ったよりも高さがある。ただでさえ運動不足の私だ。飛び降りたら怪我をするに決まっている。足なんか捻ってしまったら逃げるのに面倒なことになる。甲板の隅の方にロープが巻き付けてあったので、それを利用することにした。私は悪い笑みを浮かべながらロープを船着き場に垂らし、それを伝って船着き場に降り立った。そして一目散に走り出す。
目的地などはない。とりあえずこの船からできるだけ遠くへ!
運動不足の私は船着き場を出たところで、すぐに息切れを感じた。情けない様に少し凹んだものの、それでも走り続けなければいけない。私は痛む脇腹を抑えながら半泣きで走った。何故、私がこのような目に合わなければならないのか。理不尽すぎる。もう限界、無理、吐きそう、とありとあらゆる負の感情を抱きそれが限界に達したところで、賑わっている市場に辿り着いた。人通りが多いので、行き交う人々に紛れてしまえばすぐには見つからないだろう。私は忙しなく動かしていた足をやっと止めて、建物の壁に寄りかかった。しかし身体へのダメージは深刻だった。立っていられなかったので、ずりずりと壁を背で擦って結局は地にへたり込んでしまった。
息を整えるのにだいぶ時間がかかったが、心拍数も落ち着いてきたところでこれからのことを考えることにした。長い間全力疾走をしたので、喉も渇いている。ふと、私の目に新鮮な果物を使ったジュースを売っている屋台が目に入った。吸い寄せられるようにふらりと屋台に足が向かったところで気が付いてしまったことがある。そう、私は金品の類を一切持っていないのだ。つまり、飲食物も生活必需品も買えないし、この島を出るための移動費もない。一難去ってまた一難とはこのことだ。せっかく海賊から逃げられたのに、これ以上逃げられないなんて。
逃げる為の移動費を稼ぐためには、彼らに見つからないように働くしかない。しかし、身元不明でお金も無くおまけに記憶も無い女を雇ってくれる場所なんてあるのだろうか。とはいえ、ここで管を巻いていても時間は刻一刻と経つだけだ。きっと今頃、彼らも私がいなくなっていることに気付いているだろう。
溜息をひとつ吐き出し、ふらりと私は歩き出した。当ては一切無いが、働き場所と今日の宿を探さなければいけない。
接客の仕事は彼らとかち合う可能性があるから却下だ。あまり人と関わらないような仕事が良いだろう。例えば、ひっそりとバックヤードで力仕事とか工場で単純作業とか。
私はそれらしいところを見つけては片っ端から求人募集の貼り紙が貼ってあるところに顔を出し、雇ってくれないかと頼んだ。
ところが。
求人を募集していても、身元不明の女は雇ってくれない。そもそも、こういった仕事は男手を求めているのだ。私の細腕は使い物にならないのだから、門前払いされることが殆どだった。
玉砕したのが二桁に近付くと、段々と気が滅入っていく。元から分かっていたこととはいえ、自分の存在が否定されているようでずっしりと身体が重くなった。
「うちは君みたいに役に立ちそうにない女を雇うつもりは無いよ」
玉砕数が二桁になったところで私の心はぽっきりと折れた。断るにしてももっと優しい言葉は無いのだろうか。しかし、力仕事に私が役に立たないのは事実だったのでぐうの音もでない。私はこの世知辛い世の中に項垂れながらトボトボと歩いた。そうして、社会の厳しさを噛みしめているところで不意に声がかけられたのだ。
「おい、姉ちゃん。仕事を探しているのか?」
訝し気に顔を上げると、少し離れたところに三人の男が立っている。ひょろ長くて背が高い男、太った男、出っ歯が目立つ中肉中背の男。あからさまに怪しい。警戒して半歩後ろに下がる私に、出っ歯の男が人好きのする笑みを浮かべた。
「こいつが今女手を探してるんだ」
出っ歯の男がひょろ長い男を指さして言うのだ。
「ハウスクリーニングなんだが、雇っていた子が急に辞めちまって」
ひょろ長男は眉尻をぐっと下げた。心底困っています、といった感じだ。元から顔色が悪いのか、可哀想になるくらいその顔は真っ青だ。怪しい三人組であったが、その表情に嘘は無さそうだった。だから私は二つ返事で頷いたのだ。何より力仕事とは違って掃除なら私にもできるだろう。
「是非働かせてください」
力強い返事にひょろ長男は目を輝かせたので、少し良いことをした気分になった私だった。
三人の男たちの後に着いて行くことにした私は、10分程歩いたところで物凄く嫌な予感を感じていた。
彼らの進む道はどんどんと細く、薄暗くなっていくのだ。当然人通りも少なくなっていく。最後に人とすれ違ったのはかなり前だ。市場にはあれだけ人がいたのに、今は不気味な程に静まり返っている。流石の私もこれはマズいのでは、何かおかしいのでは、と思い始めたときだ。私の少し先を歩く男たちが小声でヒソヒソと話しているのが聞こえたのだ。
「間違いねェ、この女だ」
「おれたちもツイてるな」
彼らの口ぶりからすると、男たちは私を知っていた上で声をかけたということだ。何のために?ちっとも分からないが、一つだけ分かるのは、このまま男たちに着いていくのは良くないということだ。そう結論を出した私は、残像が見えるほどに素早く回れ右をして、持てる力の全てを持って走り出した。
「あ、オイ!」
私が逃亡を図ったのに気付いたのだろう。男たちの声が私を追いかけるが、聞こえないフリをしてひたすら走った。しかし、すぐに三人分の慌ただしい足音が私の耳に飛びこんできた。男女差もさながら、鈍った身体の私ではどんどんと足音が近づいてくる。私はただ、闇雲に走った。今日は逃げてばっかりだ。何故私がこんな目に合わなければいけないのだ。私はこの世の理不尽を噛みしめて怒りを活力にして足を動かしたが、正直もう限界が来ていた。でも、そんなことは言っていられない。これは私の本能が告げているのだ。この男たちに捕まったらお終いだと。吐きそうになりながらも私は足を止めなかった。しかし、私の身体よりも先に物理的な限界が私を襲った。
残念なことに、角を曲がったところは行き止まりだったのだ。立ち尽くす私のすぐ後ろで男の声が聞こえる。
「もう逃げられねェぞ」
絶望を感じながらゆっくりと振り返ると、三人の男は揃って下卑た笑みを浮かべていた。私は少しずつ後退して何とか男たちから距離を取ろうとした。男たちは楽しそうに私との距離を詰めてくる。その底の知れない恐ろしい笑みに、私の中の何かがプツンと切れた。襲い来る恐怖は私の身体をつき動かした。私は背の二倍近くある壁をよじ上ろうとしたのである。人間、死ぬ気になれば何でもできる、に違いない。薄汚れた煉瓦の壁に手を着くと、私の爪が引っかかって丁度そこに貼ってあった紙がビリッと破れた。そして、その紙が目に入った瞬間私の時は止まった。
それは顔写真つきの紙。所謂手配書というやつだ。そこに写る一人の女。
「い、一億……」
そこに写っていたのは私だった。しかも、生け捕りのみで一億。一体私はどんな重罪を犯したのだろう。心臓がばくばくと煩いし、割れるように頭が痛い。世界が揺れるようなショックを受けている私に、お構いなしとばかりに男たちが近付いてくる。全てが悪い夢のようで、夢なら今すぐ覚めて欲しかった。私は両手で頭を抱えながらぎゅうっと目を瞑った。
「“ROOM”」
冷ややかな男の声が聞こえたのはその時だった。
次いで、男たちの濁音のような汚くくぐもった声。バラバラと何かが倒れて転がる音。それから辺りは何事も無かったかのように静かになった。その静けさを破るようにして、規則正しい足音が聞こえる。その足音は私に近付いてきているようだった。とりあえず今がどんな状態なのか理解しないといけないだろう。震えながら恐る恐る目を開けると、まず私の視界に飛び込んできたのは上半身と下半身が見事に真っ二つになった男たちだった。
「ひっ」
どういうことだ。あまりの光景に、私の脳内は現実を理解することを拒否した。その恐怖映像に腰が抜けた私は、立っていられなくなってへなへなと地面に座り込んだ。俯いた私の視界の隅に黒い靴が映り込む。私の視線は、恐る恐るその足を這うようにして上へと向かう。そして、ばちりとかち合った相手の琥珀色の瞳は場違いな程に静かだった。
「外に出たいならそう言え」
涼しい顔でそう言ったのは、私が逃げ出した船の船長だった。
今のは貴方が?どうやって?この男たちは死んだの?聞きたいことは沢山あるのに、私の唇からは一切の言葉が出ない。はくはくと口を動かす私の双眸は、男の肩越しに一枚の手配書を捉えた。
「五億??」
結局、私が口に出せた言葉はそれだった。
その手配書に写った人物。そして、その首に懸けられた金額。
悪夢だ。全くもって悪夢だ。
◇
「貴方、医者とか嘘じゃない。本当は海賊なんでしょ。それも賞金首」
場所は変わって、あの路地裏から少し離れた位置にあるカフェのテラス席。私と彼は向かい合って座っていた。
衝撃的な再会のあと、彼はバラバラになった男たちに一切触れようとしないどころか見向きもしなかったので、私もそれについて触れることができず、大人しく彼について行くしかなかった。物のように転がっている身体のパーツを見て、赤の他人で私を襲った男たちに対して可哀想と思うほどの良心は持ち合わせていないが、後味はなんとなく悪い。
歩幅一歩分の距離を開けて私は彼の後に続いた。その気になれば彼は私などさっさと置いていけるだろうに、着かず離れずの絶妙な距離感を保って歩き続けている。背を向けているのに、私の歩くペースなど見なくても分かるということか。
そして、冒頭に戻るわけだ。
賞金稼ぎだと思われる三人の男を一瞬で倒し、五億も懸賞金をかけられている男と向かい合ってお茶などしゃれ込んでいる訳だが、彼を怖いとは思えなかった。
少なくとも彼は私を殺すつもりはないと判断したからだ。殺そうとしたのなら、頭を打った私を助けないだろうし船という密室で殺す機会は沢山あっただろう。生かしておいて私を突き出そうとしている可能性も考えたが、彼はそんなにお金への執着は無さそうだ。そもそも賞金首は懸賞金を受け取れるのだろうか。
「嘘じゃねェよ。“死の外科医”って呼ばれている」
しれっと言ってのけたが、私の知識が正しければ医者というのはそれなりの資格が必要なのでは。“海賊”という基礎知識が頭に芽生えてしまった今、彼はどう見ても資格を持っているようには見えない。資格が無いのに医者として振る舞うのはマズいのではなかろうか。というかちょっと待って。死の外科医ってなんだ。殺したいのか、救いたいのか、どっちなのかハッキリして欲しい。
「……この際貴方が無免許だってことは目を瞑るわ」
「お前、それが助けてやった人間に対する態度か」
私の言い草に呆れたとばかりに顔を顰めた彼は珈琲を一口含む。
「いったい私は何をしでかしたの」
「殺人未遂だ」
アッサリと答えてくれた私の罪状は一度聞いただけでは理解できなかった。だから私は、その言葉を脳内で繰り返して咀嚼した。
さつじん、みすい。
殺人、みすい。
殺人未遂。
つまり、誰かを殺そうとしたけど殺せなかったってこと?
「冗談じゃないわ!それで一億も懸賞金をかけられてたまったものですか!殺されなかったんだから良かったじゃない!」
「そういう問題か。お前が殺そうとした奴が賞金を懸けた奴にとってよっぽど大事な人間だったんじゃねェか」
頭を抱えて唸る私の言葉に、彼は物凄く適当な相槌を打った。どうでも良いと言わんばかりの男の顔を私はじっと見つめる。
「貴方は私が誰を殺そうとしたのか知ってるの?」
「さァな」
少し口角を上げて返事をしたこの男を見て、私は確信した。この人は知っている。私が誰を殺そうとしたのかを。そしてもう一つ確信した。彼は絶対にそれを私に教えるつもりがないことを。
「……もしかして、私も海賊だったりした?」
「お前をクルーとして船に乗せるぐらいだったら、その辺の犬猫でも乗せた方がまだマシだ」
せめて少しくらい糸口を貰えやしないかと尋ねてみたのだが、鼻で笑われてしまった。ただの人間をお犬様とお猫様と一緒にするのは間違えている。どう考えても人間の女よりも犬猫の方が老若男女に幅広く需要があるのは明白だ。彼を睨めつけてみたものの、全く効果はないようだ。不毛な睨み合い(ただし一方的な)を切り上げた私はふんっとそっぽを向いて、ガタリっと席を立った。そして彼に背を向ける。
「おい、どこへ行く」
「どこでも良いでしょう!海賊の世話になんかならないわ!あと私の飲み物代は今度返す!現金書留で!」
どこまでも平然とした声が私を追いかけるので、振り返った私は噛みつくように捨て台詞を吐いてやった。
しかし、興奮して叫ぶように言葉を紡ぐ私とは対照的に、彼の表情にもその声音にも一切焦りの色は無い。
「勝手にすればいいが」
「?」
「お前みたいな奴は速攻で捕まって監獄行きだな。たった一人を殺し損ねて一億か。相当恨みを買っているようだから覚悟した方が良いんじゃねェか」
まるで世間話をする体で彼はそう宣ったが、悔しいことにそれは事実だった。現に私は先程賞金稼ぎに捕まりそうになったのだ。彼の言わんとしていることを理解して、私の中の理性がぐるぐると働きだした。
ここは、意地を張って自立するよりは少なくとも五億の首と一緒にいた方が生存確率は高いだろう。幸い、この男が何を考えているかは分からないが私に危害を与えるつもりは無さそうだ。私の治療をしてくれた訳だし。彼の船のクルーは私のことを知っているようでとても親切にしてくれる。余所余所しくない自然な距離感は、心地よい。記憶を失う前の私があの船で暮らしていたのは嘘では無さそうだし。
「……す」
「何か言ったか」
聞こえねェな、という副音声が含まれた言葉に腹が立ったので、彼のところまでズカズカと戻ると机をドンと叩いてやった。ガシャンと食器が高い音を立てたがそんなの知ったことか。
「……お世話になります!」
苦虫をすり潰したような私の低い声音に、彼は満足そうに口角を吊り上げた。
「貴方、絶対に良い死に方できないわよ」
「それは海賊に言う言葉じゃねェな」
私の負け惜しみを不敵に笑い飛ばしたこの男に怖いものはないのだろうか。私は悔しさに唇を噛みしめた。そして、その悔しさを飲み込んで再び彼の前に座り直すことにした。
「で、ロー“先生”」
「おれのことを医者だって認めねェんじゃなかったか」
「でも、私は貴方のクルーにも海賊にも友人にもなった覚えはないもの。かといって呼称がないと不便でしょう。貴方と私の関係はお医者様と患者よ。背に腹は変えられないし、病気を治して貰ったことには感謝しているわ。あとさっき助けて貰ったことも、一応礼を言っておくわ。ありがとうございます」
色々許せないことはあるが、先程彼に助けて貰ったことは事実なので私は頭を深く下げた。まぁ私が病気であったという証拠は一切無いのだが。
とはいえ、私とロー先生の関係は医者と患者。それ以上でもそれ以下でもないのだ。顔を上げた私がいっと歯を見せてやるとロー先生は目を瞬かせていた。手酷い皮肉が返ってくると思ったのに、眉間の皺がなりを顰めたその表情はどこか幼く感じたので、私は拍子抜けしてしまった。
「……自分のことを医者だって名乗ったのは貴方の方じゃない」
「そうだな」
彼は頷いた。その琥珀色の瞳は私のことを見ているようで、どこか遠くを見ていた。どこか遠く、なんて決まっている。きっと記憶を無くす前の私のことに違いない。どうして、寂しそうなの。そして、どうして貴方が寂しそうだと私の胸が痛むの。不意に痛んだ胸を、彼に悟られないように抑えた。それから、そんなことは無かったことにして会話を続ける。
「何で自分のことを医者って言ったの」
「お前が海賊を嫌ってたのは知ってたからだ。現にさっきだって海賊“なんか”って言ったろ」
そういうのは本能で覚えているのかしらと内心首を捻ったが、常識的に考えて欲しい。目の前の誰かみたいに大太刀を担いでいたり、剣やピストルを持って廊下を走り回ってたら怖いし嫌にならないのだろうか。しかも、全員揃って「僕たち私たちは医療集団です!」なんて大嘘をついてきたら警戒するのは当然なのでは。とはいえ、自分では気づかなかったことを相手から改めて指摘されると、逆にそれを強く意識してしまうものである。
なんだか海賊という言葉を聞いたらお腹の底がムカムカしてきた。
「何でか分からないけど嫌いよ。きっと私が乗ってた船は海賊に沈められたんだわ」
ロー先生は否定しなかったので、それは間違いではないんだなと私は確信した。
「沈めたのがおれ達だとは思わないのか」
「今の私は貴方との付き合いは物凄く短いけど、それくらい分かるわ。貴方はそんな無駄なことしない」
狙うのはデカい首ですよね、と掃除ロッカーに潜んでいたときに聞いたシャチさんの台詞を思い出しながら私は頷いた。海賊なんて、片っ端らから船を襲っているイメージだったけど、所詮それは個人の偏見だ。主語を大きくするのはよろしくない。彼らは海賊だが、私には良くしてくれた、多分。だからきっと、記憶を無くす前の私は。
「きっと、海賊は嫌いだったけど貴方のことは好きだったのよ」
人がしんみりとしているのに、彼からは言葉が返ってこない。何故だ。不思議に思った私は自分の言葉を反芻してみた。そして、自身の過ちに気付いて愕然とした。
「今のは言葉の綾よ!貴方“たち”のことは!」
「お前、何慌ててるんだよ」
狼狽する私にロー先生は揶揄うように喉を鳴らして笑った。やってしまった。私の顔は羞恥で一気に赤くなった。
意識してしまった私の方が馬鹿みたいじゃない!やっぱりこの男、腹が立つ。何よりも腹が立つのが、それでもこの感情に不快感や嫌悪が無いことだ。
◇
「貴方たち、どうして看護師のフリして私を騙してたの」
ロー先生と私が船に戻ってくるなり、わらわらと集まってきたクルー達をそう問い詰めると、彼らは物凄く気まずそうに視線を逸らした。
「いや、ベポからキャプテンが自分のこと“医者”だって名乗ったって聞いたからおれたちも合わせた方が良いかなって」
「あと、おれ達もキャプテンのこと“ロー先生”って呼んでみたかった」
絶対に後者の方がウェイトを占めてるでしょう。じとっと彼らを睨みつけると、彼らは皆示し合わせたように揃って明後日の方向を向いた。その様子が少し面白くて憎めなかったので、私はこの件をこれ以上追及するのを止めた。なので、この件は首謀者であるロー先生のみを責めることにする。私がロー先生に向き直ると、今度は何故かクルー達が慌てて弁明をし出した。
「ほら、目が覚めたら記憶も無くて海賊船に乗ってるなんて知ったら吃驚しちゃうだろ。キャプテンだってナマエのことを思って!」
「そうそう、キャプテンは実は優しいんだよ!」
この随所随所で開催されるこの“キャプテンは凄いんだぞヨイショ大会”は何なのだ。とりあえず、これだけの人数に慕われるようなある程度の人望とカリスマ性はあるのだろう。少しは見直してやっても良いかもしれない。そう思ったのに。
「いつ気付くかと思ってたのに、お前は中々気付かなかったな。面白かった」
「ホラ!やっぱり最低じゃない!」
脳内で勢いよく前言を撤回した私を誰が責められよう。私は悔しさのあまりスカートの裾をぎゅっと握って歯を食いしばったが、ロー先生はどこ吹く風だった。クルー達は「キャプテン何てこと言うの!!」と可哀想なくらい狼狽していたが、如何せん本人の言動の当たりが強すぎるのだ。私が一体何を、……スっ転んで記憶を無くして大層なご迷惑をかけていますね。私は現実から裸足で逃げ出した。ついでにこの場からも逃げ出すことにした。
「どこに行くんだ」
「部屋に戻るわ!」
これ以上馬鹿にされて堪るものですか。くるりと彼らに背中を向けると、私は足音を荒くして部屋に戻った。
殆どのクルーは久しぶりの陸、ということで少しだけ浮足立っているようで、皆して食堂に集まって呑気にガイドブックなんぞを覗き込んでいる。そんなもの、どこからどうやって入手したのか気になるところだがその輪に入っては脱走計画をスタートすることができない。私は湧き出てくる好奇心を首をぶんぶんと横に振って追い払った。
とにかく、謎のガイドブックのおかげで私への注意がとても散漫になっているのだ。逃げるなら今しかないだろう。
食堂にいた彼らの話を少しだけ盗み聞きしたら、どうやらここは秋島らしい。そして、季節は冬だ。つまり外は思ったよりも寒いかもしれない。私はショールを羽織ると部屋を抜け出した。
誰にも見つからないように抜き足で廊下を進み無事にハッチまで辿りついた。ここまでで誰にも見つからなかったので、我ながら首尾は上々だ。ハッチの重い扉を開けると、微かな潮風が私の頬を優しく撫でた。久々の太陽の光に目が眩む。私は掌で光を遮りながらこの船を降りるべく梯子かロープを探した。甲板から船着き場までは思ったよりも高さがある。ただでさえ運動不足の私だ。飛び降りたら怪我をするに決まっている。足なんか捻ってしまったら逃げるのに面倒なことになる。甲板の隅の方にロープが巻き付けてあったので、それを利用することにした。私は悪い笑みを浮かべながらロープを船着き場に垂らし、それを伝って船着き場に降り立った。そして一目散に走り出す。
目的地などはない。とりあえずこの船からできるだけ遠くへ!
運動不足の私は船着き場を出たところで、すぐに息切れを感じた。情けない様に少し凹んだものの、それでも走り続けなければいけない。私は痛む脇腹を抑えながら半泣きで走った。何故、私がこのような目に合わなければならないのか。理不尽すぎる。もう限界、無理、吐きそう、とありとあらゆる負の感情を抱きそれが限界に達したところで、賑わっている市場に辿り着いた。人通りが多いので、行き交う人々に紛れてしまえばすぐには見つからないだろう。私は忙しなく動かしていた足をやっと止めて、建物の壁に寄りかかった。しかし身体へのダメージは深刻だった。立っていられなかったので、ずりずりと壁を背で擦って結局は地にへたり込んでしまった。
息を整えるのにだいぶ時間がかかったが、心拍数も落ち着いてきたところでこれからのことを考えることにした。長い間全力疾走をしたので、喉も渇いている。ふと、私の目に新鮮な果物を使ったジュースを売っている屋台が目に入った。吸い寄せられるようにふらりと屋台に足が向かったところで気が付いてしまったことがある。そう、私は金品の類を一切持っていないのだ。つまり、飲食物も生活必需品も買えないし、この島を出るための移動費もない。一難去ってまた一難とはこのことだ。せっかく海賊から逃げられたのに、これ以上逃げられないなんて。
逃げる為の移動費を稼ぐためには、彼らに見つからないように働くしかない。しかし、身元不明でお金も無くおまけに記憶も無い女を雇ってくれる場所なんてあるのだろうか。とはいえ、ここで管を巻いていても時間は刻一刻と経つだけだ。きっと今頃、彼らも私がいなくなっていることに気付いているだろう。
溜息をひとつ吐き出し、ふらりと私は歩き出した。当ては一切無いが、働き場所と今日の宿を探さなければいけない。
接客の仕事は彼らとかち合う可能性があるから却下だ。あまり人と関わらないような仕事が良いだろう。例えば、ひっそりとバックヤードで力仕事とか工場で単純作業とか。
私はそれらしいところを見つけては片っ端から求人募集の貼り紙が貼ってあるところに顔を出し、雇ってくれないかと頼んだ。
ところが。
求人を募集していても、身元不明の女は雇ってくれない。そもそも、こういった仕事は男手を求めているのだ。私の細腕は使い物にならないのだから、門前払いされることが殆どだった。
玉砕したのが二桁に近付くと、段々と気が滅入っていく。元から分かっていたこととはいえ、自分の存在が否定されているようでずっしりと身体が重くなった。
「うちは君みたいに役に立ちそうにない女を雇うつもりは無いよ」
玉砕数が二桁になったところで私の心はぽっきりと折れた。断るにしてももっと優しい言葉は無いのだろうか。しかし、力仕事に私が役に立たないのは事実だったのでぐうの音もでない。私はこの世知辛い世の中に項垂れながらトボトボと歩いた。そうして、社会の厳しさを噛みしめているところで不意に声がかけられたのだ。
「おい、姉ちゃん。仕事を探しているのか?」
訝し気に顔を上げると、少し離れたところに三人の男が立っている。ひょろ長くて背が高い男、太った男、出っ歯が目立つ中肉中背の男。あからさまに怪しい。警戒して半歩後ろに下がる私に、出っ歯の男が人好きのする笑みを浮かべた。
「こいつが今女手を探してるんだ」
出っ歯の男がひょろ長い男を指さして言うのだ。
「ハウスクリーニングなんだが、雇っていた子が急に辞めちまって」
ひょろ長男は眉尻をぐっと下げた。心底困っています、といった感じだ。元から顔色が悪いのか、可哀想になるくらいその顔は真っ青だ。怪しい三人組であったが、その表情に嘘は無さそうだった。だから私は二つ返事で頷いたのだ。何より力仕事とは違って掃除なら私にもできるだろう。
「是非働かせてください」
力強い返事にひょろ長男は目を輝かせたので、少し良いことをした気分になった私だった。
三人の男たちの後に着いて行くことにした私は、10分程歩いたところで物凄く嫌な予感を感じていた。
彼らの進む道はどんどんと細く、薄暗くなっていくのだ。当然人通りも少なくなっていく。最後に人とすれ違ったのはかなり前だ。市場にはあれだけ人がいたのに、今は不気味な程に静まり返っている。流石の私もこれはマズいのでは、何かおかしいのでは、と思い始めたときだ。私の少し先を歩く男たちが小声でヒソヒソと話しているのが聞こえたのだ。
「間違いねェ、この女だ」
「おれたちもツイてるな」
彼らの口ぶりからすると、男たちは私を知っていた上で声をかけたということだ。何のために?ちっとも分からないが、一つだけ分かるのは、このまま男たちに着いていくのは良くないということだ。そう結論を出した私は、残像が見えるほどに素早く回れ右をして、持てる力の全てを持って走り出した。
「あ、オイ!」
私が逃亡を図ったのに気付いたのだろう。男たちの声が私を追いかけるが、聞こえないフリをしてひたすら走った。しかし、すぐに三人分の慌ただしい足音が私の耳に飛びこんできた。男女差もさながら、鈍った身体の私ではどんどんと足音が近づいてくる。私はただ、闇雲に走った。今日は逃げてばっかりだ。何故私がこんな目に合わなければいけないのだ。私はこの世の理不尽を噛みしめて怒りを活力にして足を動かしたが、正直もう限界が来ていた。でも、そんなことは言っていられない。これは私の本能が告げているのだ。この男たちに捕まったらお終いだと。吐きそうになりながらも私は足を止めなかった。しかし、私の身体よりも先に物理的な限界が私を襲った。
残念なことに、角を曲がったところは行き止まりだったのだ。立ち尽くす私のすぐ後ろで男の声が聞こえる。
「もう逃げられねェぞ」
絶望を感じながらゆっくりと振り返ると、三人の男は揃って下卑た笑みを浮かべていた。私は少しずつ後退して何とか男たちから距離を取ろうとした。男たちは楽しそうに私との距離を詰めてくる。その底の知れない恐ろしい笑みに、私の中の何かがプツンと切れた。襲い来る恐怖は私の身体をつき動かした。私は背の二倍近くある壁をよじ上ろうとしたのである。人間、死ぬ気になれば何でもできる、に違いない。薄汚れた煉瓦の壁に手を着くと、私の爪が引っかかって丁度そこに貼ってあった紙がビリッと破れた。そして、その紙が目に入った瞬間私の時は止まった。
それは顔写真つきの紙。所謂手配書というやつだ。そこに写る一人の女。
「い、一億……」
そこに写っていたのは私だった。しかも、生け捕りのみで一億。一体私はどんな重罪を犯したのだろう。心臓がばくばくと煩いし、割れるように頭が痛い。世界が揺れるようなショックを受けている私に、お構いなしとばかりに男たちが近付いてくる。全てが悪い夢のようで、夢なら今すぐ覚めて欲しかった。私は両手で頭を抱えながらぎゅうっと目を瞑った。
「“ROOM”」
冷ややかな男の声が聞こえたのはその時だった。
次いで、男たちの濁音のような汚くくぐもった声。バラバラと何かが倒れて転がる音。それから辺りは何事も無かったかのように静かになった。その静けさを破るようにして、規則正しい足音が聞こえる。その足音は私に近付いてきているようだった。とりあえず今がどんな状態なのか理解しないといけないだろう。震えながら恐る恐る目を開けると、まず私の視界に飛び込んできたのは上半身と下半身が見事に真っ二つになった男たちだった。
「ひっ」
どういうことだ。あまりの光景に、私の脳内は現実を理解することを拒否した。その恐怖映像に腰が抜けた私は、立っていられなくなってへなへなと地面に座り込んだ。俯いた私の視界の隅に黒い靴が映り込む。私の視線は、恐る恐るその足を這うようにして上へと向かう。そして、ばちりとかち合った相手の琥珀色の瞳は場違いな程に静かだった。
「外に出たいならそう言え」
涼しい顔でそう言ったのは、私が逃げ出した船の船長だった。
今のは貴方が?どうやって?この男たちは死んだの?聞きたいことは沢山あるのに、私の唇からは一切の言葉が出ない。はくはくと口を動かす私の双眸は、男の肩越しに一枚の手配書を捉えた。
「五億??」
結局、私が口に出せた言葉はそれだった。
その手配書に写った人物。そして、その首に懸けられた金額。
悪夢だ。全くもって悪夢だ。
◇
「貴方、医者とか嘘じゃない。本当は海賊なんでしょ。それも賞金首」
場所は変わって、あの路地裏から少し離れた位置にあるカフェのテラス席。私と彼は向かい合って座っていた。
衝撃的な再会のあと、彼はバラバラになった男たちに一切触れようとしないどころか見向きもしなかったので、私もそれについて触れることができず、大人しく彼について行くしかなかった。物のように転がっている身体のパーツを見て、赤の他人で私を襲った男たちに対して可哀想と思うほどの良心は持ち合わせていないが、後味はなんとなく悪い。
歩幅一歩分の距離を開けて私は彼の後に続いた。その気になれば彼は私などさっさと置いていけるだろうに、着かず離れずの絶妙な距離感を保って歩き続けている。背を向けているのに、私の歩くペースなど見なくても分かるということか。
そして、冒頭に戻るわけだ。
賞金稼ぎだと思われる三人の男を一瞬で倒し、五億も懸賞金をかけられている男と向かい合ってお茶などしゃれ込んでいる訳だが、彼を怖いとは思えなかった。
少なくとも彼は私を殺すつもりはないと判断したからだ。殺そうとしたのなら、頭を打った私を助けないだろうし船という密室で殺す機会は沢山あっただろう。生かしておいて私を突き出そうとしている可能性も考えたが、彼はそんなにお金への執着は無さそうだ。そもそも賞金首は懸賞金を受け取れるのだろうか。
「嘘じゃねェよ。“死の外科医”って呼ばれている」
しれっと言ってのけたが、私の知識が正しければ医者というのはそれなりの資格が必要なのでは。“海賊”という基礎知識が頭に芽生えてしまった今、彼はどう見ても資格を持っているようには見えない。資格が無いのに医者として振る舞うのはマズいのではなかろうか。というかちょっと待って。死の外科医ってなんだ。殺したいのか、救いたいのか、どっちなのかハッキリして欲しい。
「……この際貴方が無免許だってことは目を瞑るわ」
「お前、それが助けてやった人間に対する態度か」
私の言い草に呆れたとばかりに顔を顰めた彼は珈琲を一口含む。
「いったい私は何をしでかしたの」
「殺人未遂だ」
アッサリと答えてくれた私の罪状は一度聞いただけでは理解できなかった。だから私は、その言葉を脳内で繰り返して咀嚼した。
さつじん、みすい。
殺人、みすい。
殺人未遂。
つまり、誰かを殺そうとしたけど殺せなかったってこと?
「冗談じゃないわ!それで一億も懸賞金をかけられてたまったものですか!殺されなかったんだから良かったじゃない!」
「そういう問題か。お前が殺そうとした奴が賞金を懸けた奴にとってよっぽど大事な人間だったんじゃねェか」
頭を抱えて唸る私の言葉に、彼は物凄く適当な相槌を打った。どうでも良いと言わんばかりの男の顔を私はじっと見つめる。
「貴方は私が誰を殺そうとしたのか知ってるの?」
「さァな」
少し口角を上げて返事をしたこの男を見て、私は確信した。この人は知っている。私が誰を殺そうとしたのかを。そしてもう一つ確信した。彼は絶対にそれを私に教えるつもりがないことを。
「……もしかして、私も海賊だったりした?」
「お前をクルーとして船に乗せるぐらいだったら、その辺の犬猫でも乗せた方がまだマシだ」
せめて少しくらい糸口を貰えやしないかと尋ねてみたのだが、鼻で笑われてしまった。ただの人間をお犬様とお猫様と一緒にするのは間違えている。どう考えても人間の女よりも犬猫の方が老若男女に幅広く需要があるのは明白だ。彼を睨めつけてみたものの、全く効果はないようだ。不毛な睨み合い(ただし一方的な)を切り上げた私はふんっとそっぽを向いて、ガタリっと席を立った。そして彼に背を向ける。
「おい、どこへ行く」
「どこでも良いでしょう!海賊の世話になんかならないわ!あと私の飲み物代は今度返す!現金書留で!」
どこまでも平然とした声が私を追いかけるので、振り返った私は噛みつくように捨て台詞を吐いてやった。
しかし、興奮して叫ぶように言葉を紡ぐ私とは対照的に、彼の表情にもその声音にも一切焦りの色は無い。
「勝手にすればいいが」
「?」
「お前みたいな奴は速攻で捕まって監獄行きだな。たった一人を殺し損ねて一億か。相当恨みを買っているようだから覚悟した方が良いんじゃねェか」
まるで世間話をする体で彼はそう宣ったが、悔しいことにそれは事実だった。現に私は先程賞金稼ぎに捕まりそうになったのだ。彼の言わんとしていることを理解して、私の中の理性がぐるぐると働きだした。
ここは、意地を張って自立するよりは少なくとも五億の首と一緒にいた方が生存確率は高いだろう。幸い、この男が何を考えているかは分からないが私に危害を与えるつもりは無さそうだ。私の治療をしてくれた訳だし。彼の船のクルーは私のことを知っているようでとても親切にしてくれる。余所余所しくない自然な距離感は、心地よい。記憶を失う前の私があの船で暮らしていたのは嘘では無さそうだし。
「……す」
「何か言ったか」
聞こえねェな、という副音声が含まれた言葉に腹が立ったので、彼のところまでズカズカと戻ると机をドンと叩いてやった。ガシャンと食器が高い音を立てたがそんなの知ったことか。
「……お世話になります!」
苦虫をすり潰したような私の低い声音に、彼は満足そうに口角を吊り上げた。
「貴方、絶対に良い死に方できないわよ」
「それは海賊に言う言葉じゃねェな」
私の負け惜しみを不敵に笑い飛ばしたこの男に怖いものはないのだろうか。私は悔しさに唇を噛みしめた。そして、その悔しさを飲み込んで再び彼の前に座り直すことにした。
「で、ロー“先生”」
「おれのことを医者だって認めねェんじゃなかったか」
「でも、私は貴方のクルーにも海賊にも友人にもなった覚えはないもの。かといって呼称がないと不便でしょう。貴方と私の関係はお医者様と患者よ。背に腹は変えられないし、病気を治して貰ったことには感謝しているわ。あとさっき助けて貰ったことも、一応礼を言っておくわ。ありがとうございます」
色々許せないことはあるが、先程彼に助けて貰ったことは事実なので私は頭を深く下げた。まぁ私が病気であったという証拠は一切無いのだが。
とはいえ、私とロー先生の関係は医者と患者。それ以上でもそれ以下でもないのだ。顔を上げた私がいっと歯を見せてやるとロー先生は目を瞬かせていた。手酷い皮肉が返ってくると思ったのに、眉間の皺がなりを顰めたその表情はどこか幼く感じたので、私は拍子抜けしてしまった。
「……自分のことを医者だって名乗ったのは貴方の方じゃない」
「そうだな」
彼は頷いた。その琥珀色の瞳は私のことを見ているようで、どこか遠くを見ていた。どこか遠く、なんて決まっている。きっと記憶を無くす前の私のことに違いない。どうして、寂しそうなの。そして、どうして貴方が寂しそうだと私の胸が痛むの。不意に痛んだ胸を、彼に悟られないように抑えた。それから、そんなことは無かったことにして会話を続ける。
「何で自分のことを医者って言ったの」
「お前が海賊を嫌ってたのは知ってたからだ。現にさっきだって海賊“なんか”って言ったろ」
そういうのは本能で覚えているのかしらと内心首を捻ったが、常識的に考えて欲しい。目の前の誰かみたいに大太刀を担いでいたり、剣やピストルを持って廊下を走り回ってたら怖いし嫌にならないのだろうか。しかも、全員揃って「僕たち私たちは医療集団です!」なんて大嘘をついてきたら警戒するのは当然なのでは。とはいえ、自分では気づかなかったことを相手から改めて指摘されると、逆にそれを強く意識してしまうものである。
なんだか海賊という言葉を聞いたらお腹の底がムカムカしてきた。
「何でか分からないけど嫌いよ。きっと私が乗ってた船は海賊に沈められたんだわ」
ロー先生は否定しなかったので、それは間違いではないんだなと私は確信した。
「沈めたのがおれ達だとは思わないのか」
「今の私は貴方との付き合いは物凄く短いけど、それくらい分かるわ。貴方はそんな無駄なことしない」
狙うのはデカい首ですよね、と掃除ロッカーに潜んでいたときに聞いたシャチさんの台詞を思い出しながら私は頷いた。海賊なんて、片っ端らから船を襲っているイメージだったけど、所詮それは個人の偏見だ。主語を大きくするのはよろしくない。彼らは海賊だが、私には良くしてくれた、多分。だからきっと、記憶を無くす前の私は。
「きっと、海賊は嫌いだったけど貴方のことは好きだったのよ」
人がしんみりとしているのに、彼からは言葉が返ってこない。何故だ。不思議に思った私は自分の言葉を反芻してみた。そして、自身の過ちに気付いて愕然とした。
「今のは言葉の綾よ!貴方“たち”のことは!」
「お前、何慌ててるんだよ」
狼狽する私にロー先生は揶揄うように喉を鳴らして笑った。やってしまった。私の顔は羞恥で一気に赤くなった。
意識してしまった私の方が馬鹿みたいじゃない!やっぱりこの男、腹が立つ。何よりも腹が立つのが、それでもこの感情に不快感や嫌悪が無いことだ。
◇
「貴方たち、どうして看護師のフリして私を騙してたの」
ロー先生と私が船に戻ってくるなり、わらわらと集まってきたクルー達をそう問い詰めると、彼らは物凄く気まずそうに視線を逸らした。
「いや、ベポからキャプテンが自分のこと“医者”だって名乗ったって聞いたからおれたちも合わせた方が良いかなって」
「あと、おれ達もキャプテンのこと“ロー先生”って呼んでみたかった」
絶対に後者の方がウェイトを占めてるでしょう。じとっと彼らを睨みつけると、彼らは皆示し合わせたように揃って明後日の方向を向いた。その様子が少し面白くて憎めなかったので、私はこの件をこれ以上追及するのを止めた。なので、この件は首謀者であるロー先生のみを責めることにする。私がロー先生に向き直ると、今度は何故かクルー達が慌てて弁明をし出した。
「ほら、目が覚めたら記憶も無くて海賊船に乗ってるなんて知ったら吃驚しちゃうだろ。キャプテンだってナマエのことを思って!」
「そうそう、キャプテンは実は優しいんだよ!」
この随所随所で開催されるこの“キャプテンは凄いんだぞヨイショ大会”は何なのだ。とりあえず、これだけの人数に慕われるようなある程度の人望とカリスマ性はあるのだろう。少しは見直してやっても良いかもしれない。そう思ったのに。
「いつ気付くかと思ってたのに、お前は中々気付かなかったな。面白かった」
「ホラ!やっぱり最低じゃない!」
脳内で勢いよく前言を撤回した私を誰が責められよう。私は悔しさのあまりスカートの裾をぎゅっと握って歯を食いしばったが、ロー先生はどこ吹く風だった。クルー達は「キャプテン何てこと言うの!!」と可哀想なくらい狼狽していたが、如何せん本人の言動の当たりが強すぎるのだ。私が一体何を、……スっ転んで記憶を無くして大層なご迷惑をかけていますね。私は現実から裸足で逃げ出した。ついでにこの場からも逃げ出すことにした。
「どこに行くんだ」
「部屋に戻るわ!」
これ以上馬鹿にされて堪るものですか。くるりと彼らに背中を向けると、私は足音を荒くして部屋に戻った。