春告げ鳥と花の唄
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目が覚めると、白く大きな“なにか”が私の顔を覗き込んでいた。ぼんやりとしていた私の焦点が定まったことによって、ハッキリと形どられた“なにか”はどうやら白くまのようだった。
「ナマエ!目が覚めたんだね!」
ぱちり、と私の瞳と白くまのつぶらなそれがかち合った瞬間、白くまは大げさに叫ぶ。まるで、警報のような大きな声に私の意識は一瞬で覚醒した。
くまって喋れるんだ。目覚めたばかりの素直な私の頭は、すんなりとその現実を受け入れた。だって、この世界は広いのだ。喋れるくまが一匹や二匹いたっておかしくはないだろう。
そんな白くま君は瞳をきらきらとさせて、私が目を覚ましたことを喜んでくれている。彼(?)の背景に花が飛んでいる幻覚が見えそうな程に。どうやら私は彼にとてつもなく心配をかけていたらしい。こんなに心配してくれる人(?)がいるなんて、私はなんて幸せ者なんだろう。
しかし、ここで困ったことが一つ。
白くま君が呼んだ名前らしき単語は一切身に覚えが無いものだったのだ。“ナマエ”って誰。
とはいえ、ここには私と彼しかいない。つまり必然的に私が“ナマエ”ということだろう。さも当然のように呼ばれた名前はあまりにも聞きなれない響きであった。だから結局、私はその疑問を口の中に押しとどめておくことができなくなってしまった。
「……ナマエ?それが、私の名前?」
言葉にしてみても、その音は酷く現実味がなくてぼんやりとしていた。他にもっとしっくりくるようなものがあるかもしれないし、無いかもしれない。いや、そもそも。
「……私の名前って何だっけ?」
頭はハッキリとしているのに、まるで霧に包まれているような不思議な感覚だった。手を伸ばそうとしても、答えはさらさらと指の隙間から零れ落ちていく。急に足元が浮いてしまったような世界に、私はただ困惑していた。白くま君は私の言葉に驚いて絶句しているようだったが、申し訳ないことに私には彼を気に掛ける余裕は無い。もう一つ、確かめなければいけないことがあるからだ。
「ここは、どこ?」
医療器具に囲まれた、この冷たい一室は一体どこなのだろう。どうして私はここに、この部屋のベッドの上にいるのだ。分からない。思い出そうと記憶を巡らせようとしたところで私の後頭部がズキンっと痛む。頭がかち割られるような鋭い痛みに私は目をぎゅっと瞑る。「イタッ」と、反射で苦悶の声も漏れてしまった。
そのときだ。
「ここはポーラータング号の中だ。そして、お前は“ナマエ”だ」
白くま君の他に第三者がいたのだろう。静かな声が私の疑問に答えてくれた。凪いだ海のような男の声は、混乱する私を現実に引っ張り上げる。その声音は私をいたく安心させてくれたので、その声の持ち主がどんな人物なのか知りたくなった。重たい身体を動かそうとしたところで、やんわりと制止の声がかかる。
「無理に動くな、お前は酷く頭を打ったんだ」
彼がわざわざ歩み寄ってくれたので、起き上がらずとも私の視界にその姿がしっかりと収められた。私の顔を覗き込んできたのは、少し冷たい印象のある整った顔の男だ。
言われてみれば、後頭部がズキズキと痛いのはどうやら物理的なものだ。私が記憶を思い出そうとしているのを妨害しようとしている訳でも無く、ただ生理現象として痛む。意識し出したらどんどん痛くなってきた。私は苦々しく声を絞り出した。
「つまり?」
「お前は盛大にスっ転んで頭を打って、記憶をなくしたんだな」
それは最高にダサい。恥ずかしすぎる失態だ。そんなことで、白くま君を心配させて迷惑をかけたのか。私の口角は引き攣ったまま時間を止めた。暫しの沈黙。その間に男は一切喋ろうとしないので、気を取り直した私は彼に名を尋ねた。
「貴方は?」
「トラファルガー・ロー。“医者”だ」
男はそう名乗った。彼は顔の造作は整っているが、雰囲気はどちらかというとアウトローだ。善良な、もしくは厳格な医者のイメージからはかけ離れている。だが、医者だと言われてみれば確かにその琥珀色の瞳は理知的だった。目の下に隈があるのは寝る暇もないくらい仕事をしているからかもしれないし。
しかし、彼が“医者だ”と名乗った瞬間に白くま君が小さく「え?」と困惑の声を上げていたことに目を瞑ってはならないだろう。私は100%この男を信じることを止め、警戒を解くことも止めた。
とはいえ、今はそれを追求している場合ではない。全てを信じたわけでは無いが目の前の男のことが分かったのなら、次は状況の確認をせねば。
「ポーラータング号って、ひょっとしてここは船の中?」
「そうだ。付け加えるなら潜水艇だ」
「潜水艇って……」
「海の上じゃなくて、海の中を航海することができる船だ」
彼の言葉を理解するのに暫く時間がかかった。医療設備が整っていることから、きっとここは病院の一室なのだろう。しかし、船である必要がどこにあるのだ。移動する病院など聞いたことがない。しかもこの船は海の中を進むという。結論から言うと、私は自分のおかれている状況を全く理解することができなかった。とすれば、目の前の男に尋ねるしかないだろう。
「……何で私は潜水艇に乗ってるの?」
「お前はおれの“患者”だ。航海をしながら治療をしていた」
彼らは流れの医療集団だそう(そんなものは聞いたことがないのでとても怪しい)で、偶々私が乗っていた船が沈んでいたところを救助してくれたらしい。船ってそんな簡単に沈没するのね、と思ったことをそのまま言うと「物騒な連中もいるからな」と彼はにやりと笑った。目が覚めてからは常に仏頂面だった彼の表情の変化に私は面食らってしまった。少し意地の悪そうに口角を吊り上げるその笑い方はとても彼にしっくりときていた。
「えっと、……トラファルガー先生」
彼を何て呼べば良いのか迷ったのだが、医者だというのならそう呼ぶのが最良に違いない。
「ローでいい」
「じゃあ、ロー先生」
彼は一瞬、ほんの一瞬だけ辛そうな顔をした。それはどうしてだろうか。今の私にはそんなことは分かるわけがないので、そっと流すことにした。きっと彼も私には気付かれたくないだろうと、何故だか分かってしまったからだ。
「私はどこが悪かったの?」
私の疑問にロー先生は小難しく長ったらしい名前の呪文を唱えてくれた。当然のように一発で聞き取ることはできない。首を捻りながらたどたどしく聞き取れた部分のみ羅列すると、彼は小さく溜息を吐いた。失礼な。以前の私なら覚えているかもしれないが、記憶の無い私が初耳でそんな呪文を覚えられる訳ないだろうに。ムッとしているとロー先生は「そうだな、覚えているわけないよな。悪かった」とアッサリ謝罪の言葉を述べてくれたので拍子抜けしてしまった。これは彼の顔を見て数分間に芽生えた私の偏見であるが、彼は絶対に謝りそうにない顔をしているからだ。
「症状は、動悸、偏頭痛、自律神経の亢進、不眠、嘔気、突発的な痙攣。他にも色々だ」
淡々と羅列されるその症状に不安になった私は、自身の身体をまじまじと見下ろした。今は息苦しくもないし、吐き気もしないし、気分も悪くない。頭は物理的に痛いけれども、私の身体は健康そのものだ。この身体が医者の治療が必要だったとは到底思えない。
「安心しろ、もう治っている。間髪入れずに厄介なことになったわけだが」
その“厄介なこと”って、私が頭を打って記憶をどっかに置いてきたことでしょうか。遠回しにチクチクと私を刺そうとする皮肉っぽい物言いはいたく彼に似合っていた。道理で先程の鋭い悪い笑顔が似合うはずだ。じっと彼を見つめていると、ロー先生は少しだけ口角を緩めた。落ち着いたその双眸は「安心しろ」と私に言っている。
「記憶の混濁も一時的なものかもしれない。あまり深く考えるな、もう少し休め。飯時になったら起こしにきてやる」
そして、ロー先生は部屋から出ていった。
「ベポ、お前も行くぞ」
部屋の外からロー先生にそう呼ばれていたのだから、喋る白くま君は“ベポ”という名前に違いない。ベポくんは後ろ髪惹かれる様子でチラチラと私のことを見てくるので、何だか良心が痛んだ私は彼を安心させるべく少し笑顔を作って手をひらひらと軽く振ってみせた。たったそれだけのことで、ベポくんは顔を輝かせてニコニコしてくれたので、胸がきゅんっとした。
◇
現状、私は頭を強打して記憶がすっぽ抜けたこと以外は健康体そのものである。
翌日からは他のクルーと同じ食堂でご飯を食べるようになったし、病室でじっとしていても意味はないので、艦内も自由に歩き回って良いらしい。
それにはいくつかの条件があったが、ロー先生の許しを得た私は艦内を散歩することにした。ずっと病室にいては身体がなまってしまう。私は潜水艇の狭い通路を、カツカツと足音を響かせて歩き回った。複雑な通路だったが、不思議と迷うことは無かった。こういうのって記憶が無くなっても身体が覚えているものなのだろうか。その奇妙な感覚に、少なくともロー先生の言っていた“この船で航海をしていた”は納得できた。しかし、一向に記憶の戻らない私が彼の全てを信じられるわけではない。だから一刻も早く現状を把握する必要がある。そう、私はただ闇雲に艦内を歩き回っているのではなく、これにはちゃんと目的があるのだ。当然、情報収集だ。
「お、ナマエ!昨日はよく眠れたか?」
食堂に顔を出すと、数人の男性が飲み物を片手に一服している。その内の一人であるキャスケット帽を被った男性が、食堂に顔を覗かせた私を目に留めると軽く片手を上げた。
だらしなく椅子に座っている彼は“シャチ”さんという。この船の古参メンバーであるシャチさんは色々なことを知っていて、雰囲気も明るく話しやすいので私は彼から情報を集めることが多かった。面倒見がよく私のことを気にかけてくれているこの人を利用するようで、良心が痛む。しかし、ここは不可抗力だと思って見切りをつけるしかないだろう。罪悪感から私はそっと目を逸らした。
「ナマエも何か飲む?」
そう言って席を立とうとしたのはベポくんだ。
「煎餅もあるぞ」
別の乗組員がお煎餅の山盛りになった皿を私に渡してくれたので、ありがたく海苔のついたお煎餅を頂いた。
この船に乗っている乗組員達は皆お揃いの白いツナギを着ていて(ベポくんだけオレンジだったが)、とても親切だ。変わった看護服だなぁと思ったが、ロー先生自体がかなりファンキーなファッションをなさっているのでこれはきっとアリなのだろう。多分。
「キャ、じゃなかった、ロー先生はああ見えて優しいだろ」
「キャ、ロー先生はめっちゃ格好良いだろ?な?な?そうだよな?」
そんな気の良い乗組員たちにロー先生は引くくらい慕われていたし、彼らは隙あらば私にロー先生を売り込もうとしてくるのだが、それには一体どういう意図があるのだろう。そんなにゴリ推しされると、逆に裏がありそうで怖い。それから、毎回枕詞のように付いてくる“キャ”ってなんだ。彼らは何と間違えているのだ。
『全員配置に付け、“海流”だ』
私が疑惑の眼差しで彼らを見ていると、不意に艦内放送が鳴った。ロー先生の声だ。その声を聞いた乗組員たちは、纏った穏やかな雰囲気を一瞬で引き締める。それを合図に彼らは揃って席を立ったので、私も慌てて席を立った。部屋に戻るためだ。
艦内放送でロー先生の声が聞こえたらすぐに部屋に戻って、もう一度艦内放送が聞こえるまで外に出ない。これがロー先生と約束したうちの一つだ。この船は海中を進むが、相手は自然であるので当然のようにトラブルが起こる。荒れ狂う海流やら座礁やらで航路に障害ができたときに対処するため、乗組員たちはそれぞれの持ち場につくことになっているらしい。確かに、そんな緊急事態に私のような知識の無いド素人がフラフラしていたら邪魔だ。だから、ロー先生の声が聞こえたら私は部屋に籠って静かにすることに決めていた。
自室代わりの処置室に戻った私が、部屋の隅っこで縮こまっていると不意に船が大きく揺れた。時折、どこか遠くで音が聞こえる。どおんっと身体の芯がビリビリくるような轟音は、まるで砲撃音のようだ。
私は最近、ここが果たして本当に移動病院なのかと疑いを持ってきている。何だろう、これではまるで。
『ご苦労、全員戻れ』
大きな音と船の揺れが収まって少ししたところで、再びロー先生の声が聞こえた。
この声が聞こえたということは、もう出ても良いということだろう。私は部屋の扉を静かに開けて、その隙間から外を伺った。何故か悪いことをしている気分だった。無機質な潜水艇の廊下は静まり返っている。まるで、先程の喧騒が嘘みたいに。あの放送の後、皆は一体何をしていたのだろうか。何か手がかりが無いか、それを探すべく私はそろりと部屋を抜け出すことにした。しかし、廊下は先程と変わらずにただ冷たく鈍色に光るだけだ。
それでも何か手がかりがないのかと廊下をじっと凝視していると、遠くにぽつりと赤い汚れが見えた。目を細めてよく見ると、それは点々と足跡のように廊下に続いている。まるで、血のようなそれに物凄く嫌な予感がしたが遠目ではそれが本当に血なのかは確認できない。確かめるのが怖かったが、一つでも手がかりが欲しい今はそんな日和ったことを言ってられない。意を決した私が一歩足を踏み出したその瞬間。
「ナマエ」
急に名前が呼ばれたので、吃驚して心臓が口から飛び出そうになった。ぎぎぎ、とぎこちなく振り返ると私のすぐ後ろに立っていたのはロー先生だった。彼がいつ私の背後に立ったのか、全く気付かなかった。私は飛び出そうになった心臓を無理やり飲み込むと、努めて何もなかったような顔を作ってみせた。
「もう大丈夫なの?」
「ああ、問題は無い。それよりどうかしたか」
「貴方の声が聞こえたから外に出ただけよ」
貴方たちが何をしているのか嗅ぎまわっていますとは口が裂けても言えない。しらばっくれる私にロー先生は何も言わない。それが逆に怖い。相槌くらい打ったらどうなの。この重い沈黙はキリキリと私の胃を締め付ける。誰か、助けて。声には出せないエマージェンシーコールを心の底から発信していると、その魂の叫びを受信してくれた人物がいたのだ。救いの声はロー先生の遥か後ろから聞こえた。場違いに呑気な声だった。
「あ!キャプテーン!」
通路の遠くにいたベポくんが大きく手を振ってこう叫んだのだ。積み木のように積み重なっていた私の疑念はこの瞬間、決定打を撃ち込まれて崩れ去った。彼らがいいかけていた“キャ”とは、“キャプテン”の“キャ”か!
どうやらロー先生の影にいた私のことは見えなかったようで、ベポくんは私と目が合うとさあっと青いくまになった。そんな青くま君は、間髪入れずに隣に立っていたシャチさんにべしんと背を叩かれる。そのシャチさんの顔色も良くなかったので、ベポくんが発したそれは私に聞かれてはマズイことに違いない。
キャプテンとは普通に考えて船長のことだ。そして、どう考えてもこの船は普通の船とは言いづらい。これは目が覚めてからの私の偏見だが、確実に堅気の人の船ではないだろう。
ちらり、とロー先生を見ると彼はいつも通り何を考えているか分からないポーカーフェイスだった。ベポくんとシャチさんと違って一切の動揺をしていない。本当に喰えない男だ。二人はこれ以上余計なことを言うのはまずいと判断したのか「では!」とあまりにも雑な挨拶を吐いて脱兎の如く逃げ出していった。
そして廊下には私とロー先生が取り残される。非常に遺憾なことに先程よりも私が感じる空気は重い。こんなことになるのなら、救いの声なんていらなかった!!私はロー先生から目を逸らし、形だけの笑顔を作った。
「私、部屋に戻るわ」
「そうか」
ロー先生はそう相槌を打って、私が部屋に戻って行くのをただ見ていた。弁解も引き留めもしない。ぱたんと静かにドアを閉めると、私はその扉に背を預けてずるずると座り込んだ。
「勘弁してよ……」
生半可の怪談よりも怖いし、どんなミステリー小説よりもスリリングだ。だってこれは現実なのだ。一縷の望みをかけてほっぺをぎゅっつ摘まんでみたのだが、やっぱり痛かった。残念なことに現実だ。
とはいえ、ロー先生に怯んで記憶の欠片を探すのをやめるわけにはいかないのだ。少しの時間をおいてから挙動不審になりつつも部屋の扉を開けると、幸いそこには誰もいなかった。私に恐怖の種を植え付けていったロー先生もいない。大きく安堵の溜息を吐くと、先程赤い汚れが見えたところまで歩いてみた。
しかし、床は綺麗になっている。あれは私の幻覚だったのだろうか。いや、そんな訳は無い。私はこの目でしっかりと見たのだ。もし掃除をしたのならその形跡がどこかにある筈だ。躍起になった私は清掃した証拠を探すことにした。例えば、廊下を拭いた雑巾とかモップとかそれ的なものが置いてあるようなところに行けば、使用したばかりのものがあるかもしれない。そういえば、この角を曲がって少し行った水場の近くに掃除道具を入れておくロッカーがあった筈だ。
記憶を頼りに掃除道具が乱雑に詰め込まれているロッカーを見つけると、意を決してロッカーの扉を開けてみた。ビンゴだ。そこに突っ込まれていたモップの穂先は湿っていたのだ。まるで、ちょっと前に誰かが使ったように。やっぱり、あの赤い汚れは私に見られたくなかったものに違いない。他にも怪しいものはないかとロッカーを物色していた私は、ふと気が付いてしまった。
このロッカー、頑張れば私一人くらい入れそうだ。隠れることのできる隙間があることを確かめた後に、私は固く決心した。この疑念を確信に変えてやるのだ。
次の放送が流れたとき、私は部屋には戻らずに掃除道具の詰め込まれたロッカーの中に入り込んだ。ロッカーの隙間からそっと辺りを伺うと、乗組員たちが爆速で横切っていく。皆も私がロッカーの中に潜んでいるとは思っていないのだろう。私が隠れたロッカーは空気のように存在していて、誰も目をくれない。自分の作戦が成功したことに私は手ごたえを感じていたが、その高揚もあっという間に萎むことになる。
「こういう時に限って続けて出るんだよな」
「幽霊みたいに言うなよ。あんなデカい首、見過ごせねェだろ」
シャチさんとペンギンさんが武器を持って駆け抜けていく。その姿を見て私は思った。その剣、手術道具として使う刃物にしては大きすぎるし殺傷力が高すぎるでしょう。腰に挿したそのピストルは何に使うの?麻酔は注射で打てば良いじゃない。私の疑念が確信に変わったわけだが、それを認められるかというとそれは別の話だ。閉塞したロッカーの中で私は途方に暮れていた。そのとき、どぉんっと大きな轟音がして船が大きく揺れる。
「痛ッ」
お陰で私は冷たい金属に思いっきり額をぶつけてしまった。その痛みとひんやりとした鈍色の感触は私にこの状況が現実であることを有無を言わせずに叩きつけてくれた。
暫くしてようやく船の揺れが収まった。砲撃音もしない。先程の慌ただしさが嘘のようにしんっと静まり返った廊下に、ロッカーから這い出てきた私の顔色はきっとこの海よりも青いに違いない。
ロー先生は自分のことを医者とか宣っていたけれども、そんなの真っ赤な嘘ではないか!彼は医者ではなく“キャプテン”で、ここは移動病院ではなく海賊船に違いない。絶対にそうだ。
気付いてしまえば、もう全てが怪しくて信じられなくなってしまった。何故、皆して私を騙していたのだろう。私は考えて、考えて、考えて、一つの結論を出した。
よし、次の島に着いたら逃げよう。
「ナマエ!目が覚めたんだね!」
ぱちり、と私の瞳と白くまのつぶらなそれがかち合った瞬間、白くまは大げさに叫ぶ。まるで、警報のような大きな声に私の意識は一瞬で覚醒した。
くまって喋れるんだ。目覚めたばかりの素直な私の頭は、すんなりとその現実を受け入れた。だって、この世界は広いのだ。喋れるくまが一匹や二匹いたっておかしくはないだろう。
そんな白くま君は瞳をきらきらとさせて、私が目を覚ましたことを喜んでくれている。彼(?)の背景に花が飛んでいる幻覚が見えそうな程に。どうやら私は彼にとてつもなく心配をかけていたらしい。こんなに心配してくれる人(?)がいるなんて、私はなんて幸せ者なんだろう。
しかし、ここで困ったことが一つ。
白くま君が呼んだ名前らしき単語は一切身に覚えが無いものだったのだ。“ナマエ”って誰。
とはいえ、ここには私と彼しかいない。つまり必然的に私が“ナマエ”ということだろう。さも当然のように呼ばれた名前はあまりにも聞きなれない響きであった。だから結局、私はその疑問を口の中に押しとどめておくことができなくなってしまった。
「……ナマエ?それが、私の名前?」
言葉にしてみても、その音は酷く現実味がなくてぼんやりとしていた。他にもっとしっくりくるようなものがあるかもしれないし、無いかもしれない。いや、そもそも。
「……私の名前って何だっけ?」
頭はハッキリとしているのに、まるで霧に包まれているような不思議な感覚だった。手を伸ばそうとしても、答えはさらさらと指の隙間から零れ落ちていく。急に足元が浮いてしまったような世界に、私はただ困惑していた。白くま君は私の言葉に驚いて絶句しているようだったが、申し訳ないことに私には彼を気に掛ける余裕は無い。もう一つ、確かめなければいけないことがあるからだ。
「ここは、どこ?」
医療器具に囲まれた、この冷たい一室は一体どこなのだろう。どうして私はここに、この部屋のベッドの上にいるのだ。分からない。思い出そうと記憶を巡らせようとしたところで私の後頭部がズキンっと痛む。頭がかち割られるような鋭い痛みに私は目をぎゅっと瞑る。「イタッ」と、反射で苦悶の声も漏れてしまった。
そのときだ。
「ここはポーラータング号の中だ。そして、お前は“ナマエ”だ」
白くま君の他に第三者がいたのだろう。静かな声が私の疑問に答えてくれた。凪いだ海のような男の声は、混乱する私を現実に引っ張り上げる。その声音は私をいたく安心させてくれたので、その声の持ち主がどんな人物なのか知りたくなった。重たい身体を動かそうとしたところで、やんわりと制止の声がかかる。
「無理に動くな、お前は酷く頭を打ったんだ」
彼がわざわざ歩み寄ってくれたので、起き上がらずとも私の視界にその姿がしっかりと収められた。私の顔を覗き込んできたのは、少し冷たい印象のある整った顔の男だ。
言われてみれば、後頭部がズキズキと痛いのはどうやら物理的なものだ。私が記憶を思い出そうとしているのを妨害しようとしている訳でも無く、ただ生理現象として痛む。意識し出したらどんどん痛くなってきた。私は苦々しく声を絞り出した。
「つまり?」
「お前は盛大にスっ転んで頭を打って、記憶をなくしたんだな」
それは最高にダサい。恥ずかしすぎる失態だ。そんなことで、白くま君を心配させて迷惑をかけたのか。私の口角は引き攣ったまま時間を止めた。暫しの沈黙。その間に男は一切喋ろうとしないので、気を取り直した私は彼に名を尋ねた。
「貴方は?」
「トラファルガー・ロー。“医者”だ」
男はそう名乗った。彼は顔の造作は整っているが、雰囲気はどちらかというとアウトローだ。善良な、もしくは厳格な医者のイメージからはかけ離れている。だが、医者だと言われてみれば確かにその琥珀色の瞳は理知的だった。目の下に隈があるのは寝る暇もないくらい仕事をしているからかもしれないし。
しかし、彼が“医者だ”と名乗った瞬間に白くま君が小さく「え?」と困惑の声を上げていたことに目を瞑ってはならないだろう。私は100%この男を信じることを止め、警戒を解くことも止めた。
とはいえ、今はそれを追求している場合ではない。全てを信じたわけでは無いが目の前の男のことが分かったのなら、次は状況の確認をせねば。
「ポーラータング号って、ひょっとしてここは船の中?」
「そうだ。付け加えるなら潜水艇だ」
「潜水艇って……」
「海の上じゃなくて、海の中を航海することができる船だ」
彼の言葉を理解するのに暫く時間がかかった。医療設備が整っていることから、きっとここは病院の一室なのだろう。しかし、船である必要がどこにあるのだ。移動する病院など聞いたことがない。しかもこの船は海の中を進むという。結論から言うと、私は自分のおかれている状況を全く理解することができなかった。とすれば、目の前の男に尋ねるしかないだろう。
「……何で私は潜水艇に乗ってるの?」
「お前はおれの“患者”だ。航海をしながら治療をしていた」
彼らは流れの医療集団だそう(そんなものは聞いたことがないのでとても怪しい)で、偶々私が乗っていた船が沈んでいたところを救助してくれたらしい。船ってそんな簡単に沈没するのね、と思ったことをそのまま言うと「物騒な連中もいるからな」と彼はにやりと笑った。目が覚めてからは常に仏頂面だった彼の表情の変化に私は面食らってしまった。少し意地の悪そうに口角を吊り上げるその笑い方はとても彼にしっくりときていた。
「えっと、……トラファルガー先生」
彼を何て呼べば良いのか迷ったのだが、医者だというのならそう呼ぶのが最良に違いない。
「ローでいい」
「じゃあ、ロー先生」
彼は一瞬、ほんの一瞬だけ辛そうな顔をした。それはどうしてだろうか。今の私にはそんなことは分かるわけがないので、そっと流すことにした。きっと彼も私には気付かれたくないだろうと、何故だか分かってしまったからだ。
「私はどこが悪かったの?」
私の疑問にロー先生は小難しく長ったらしい名前の呪文を唱えてくれた。当然のように一発で聞き取ることはできない。首を捻りながらたどたどしく聞き取れた部分のみ羅列すると、彼は小さく溜息を吐いた。失礼な。以前の私なら覚えているかもしれないが、記憶の無い私が初耳でそんな呪文を覚えられる訳ないだろうに。ムッとしているとロー先生は「そうだな、覚えているわけないよな。悪かった」とアッサリ謝罪の言葉を述べてくれたので拍子抜けしてしまった。これは彼の顔を見て数分間に芽生えた私の偏見であるが、彼は絶対に謝りそうにない顔をしているからだ。
「症状は、動悸、偏頭痛、自律神経の亢進、不眠、嘔気、突発的な痙攣。他にも色々だ」
淡々と羅列されるその症状に不安になった私は、自身の身体をまじまじと見下ろした。今は息苦しくもないし、吐き気もしないし、気分も悪くない。頭は物理的に痛いけれども、私の身体は健康そのものだ。この身体が医者の治療が必要だったとは到底思えない。
「安心しろ、もう治っている。間髪入れずに厄介なことになったわけだが」
その“厄介なこと”って、私が頭を打って記憶をどっかに置いてきたことでしょうか。遠回しにチクチクと私を刺そうとする皮肉っぽい物言いはいたく彼に似合っていた。道理で先程の鋭い悪い笑顔が似合うはずだ。じっと彼を見つめていると、ロー先生は少しだけ口角を緩めた。落ち着いたその双眸は「安心しろ」と私に言っている。
「記憶の混濁も一時的なものかもしれない。あまり深く考えるな、もう少し休め。飯時になったら起こしにきてやる」
そして、ロー先生は部屋から出ていった。
「ベポ、お前も行くぞ」
部屋の外からロー先生にそう呼ばれていたのだから、喋る白くま君は“ベポ”という名前に違いない。ベポくんは後ろ髪惹かれる様子でチラチラと私のことを見てくるので、何だか良心が痛んだ私は彼を安心させるべく少し笑顔を作って手をひらひらと軽く振ってみせた。たったそれだけのことで、ベポくんは顔を輝かせてニコニコしてくれたので、胸がきゅんっとした。
◇
現状、私は頭を強打して記憶がすっぽ抜けたこと以外は健康体そのものである。
翌日からは他のクルーと同じ食堂でご飯を食べるようになったし、病室でじっとしていても意味はないので、艦内も自由に歩き回って良いらしい。
それにはいくつかの条件があったが、ロー先生の許しを得た私は艦内を散歩することにした。ずっと病室にいては身体がなまってしまう。私は潜水艇の狭い通路を、カツカツと足音を響かせて歩き回った。複雑な通路だったが、不思議と迷うことは無かった。こういうのって記憶が無くなっても身体が覚えているものなのだろうか。その奇妙な感覚に、少なくともロー先生の言っていた“この船で航海をしていた”は納得できた。しかし、一向に記憶の戻らない私が彼の全てを信じられるわけではない。だから一刻も早く現状を把握する必要がある。そう、私はただ闇雲に艦内を歩き回っているのではなく、これにはちゃんと目的があるのだ。当然、情報収集だ。
「お、ナマエ!昨日はよく眠れたか?」
食堂に顔を出すと、数人の男性が飲み物を片手に一服している。その内の一人であるキャスケット帽を被った男性が、食堂に顔を覗かせた私を目に留めると軽く片手を上げた。
だらしなく椅子に座っている彼は“シャチ”さんという。この船の古参メンバーであるシャチさんは色々なことを知っていて、雰囲気も明るく話しやすいので私は彼から情報を集めることが多かった。面倒見がよく私のことを気にかけてくれているこの人を利用するようで、良心が痛む。しかし、ここは不可抗力だと思って見切りをつけるしかないだろう。罪悪感から私はそっと目を逸らした。
「ナマエも何か飲む?」
そう言って席を立とうとしたのはベポくんだ。
「煎餅もあるぞ」
別の乗組員がお煎餅の山盛りになった皿を私に渡してくれたので、ありがたく海苔のついたお煎餅を頂いた。
この船に乗っている乗組員達は皆お揃いの白いツナギを着ていて(ベポくんだけオレンジだったが)、とても親切だ。変わった看護服だなぁと思ったが、ロー先生自体がかなりファンキーなファッションをなさっているのでこれはきっとアリなのだろう。多分。
「キャ、じゃなかった、ロー先生はああ見えて優しいだろ」
「キャ、ロー先生はめっちゃ格好良いだろ?な?な?そうだよな?」
そんな気の良い乗組員たちにロー先生は引くくらい慕われていたし、彼らは隙あらば私にロー先生を売り込もうとしてくるのだが、それには一体どういう意図があるのだろう。そんなにゴリ推しされると、逆に裏がありそうで怖い。それから、毎回枕詞のように付いてくる“キャ”ってなんだ。彼らは何と間違えているのだ。
『全員配置に付け、“海流”だ』
私が疑惑の眼差しで彼らを見ていると、不意に艦内放送が鳴った。ロー先生の声だ。その声を聞いた乗組員たちは、纏った穏やかな雰囲気を一瞬で引き締める。それを合図に彼らは揃って席を立ったので、私も慌てて席を立った。部屋に戻るためだ。
艦内放送でロー先生の声が聞こえたらすぐに部屋に戻って、もう一度艦内放送が聞こえるまで外に出ない。これがロー先生と約束したうちの一つだ。この船は海中を進むが、相手は自然であるので当然のようにトラブルが起こる。荒れ狂う海流やら座礁やらで航路に障害ができたときに対処するため、乗組員たちはそれぞれの持ち場につくことになっているらしい。確かに、そんな緊急事態に私のような知識の無いド素人がフラフラしていたら邪魔だ。だから、ロー先生の声が聞こえたら私は部屋に籠って静かにすることに決めていた。
自室代わりの処置室に戻った私が、部屋の隅っこで縮こまっていると不意に船が大きく揺れた。時折、どこか遠くで音が聞こえる。どおんっと身体の芯がビリビリくるような轟音は、まるで砲撃音のようだ。
私は最近、ここが果たして本当に移動病院なのかと疑いを持ってきている。何だろう、これではまるで。
『ご苦労、全員戻れ』
大きな音と船の揺れが収まって少ししたところで、再びロー先生の声が聞こえた。
この声が聞こえたということは、もう出ても良いということだろう。私は部屋の扉を静かに開けて、その隙間から外を伺った。何故か悪いことをしている気分だった。無機質な潜水艇の廊下は静まり返っている。まるで、先程の喧騒が嘘みたいに。あの放送の後、皆は一体何をしていたのだろうか。何か手がかりが無いか、それを探すべく私はそろりと部屋を抜け出すことにした。しかし、廊下は先程と変わらずにただ冷たく鈍色に光るだけだ。
それでも何か手がかりがないのかと廊下をじっと凝視していると、遠くにぽつりと赤い汚れが見えた。目を細めてよく見ると、それは点々と足跡のように廊下に続いている。まるで、血のようなそれに物凄く嫌な予感がしたが遠目ではそれが本当に血なのかは確認できない。確かめるのが怖かったが、一つでも手がかりが欲しい今はそんな日和ったことを言ってられない。意を決した私が一歩足を踏み出したその瞬間。
「ナマエ」
急に名前が呼ばれたので、吃驚して心臓が口から飛び出そうになった。ぎぎぎ、とぎこちなく振り返ると私のすぐ後ろに立っていたのはロー先生だった。彼がいつ私の背後に立ったのか、全く気付かなかった。私は飛び出そうになった心臓を無理やり飲み込むと、努めて何もなかったような顔を作ってみせた。
「もう大丈夫なの?」
「ああ、問題は無い。それよりどうかしたか」
「貴方の声が聞こえたから外に出ただけよ」
貴方たちが何をしているのか嗅ぎまわっていますとは口が裂けても言えない。しらばっくれる私にロー先生は何も言わない。それが逆に怖い。相槌くらい打ったらどうなの。この重い沈黙はキリキリと私の胃を締め付ける。誰か、助けて。声には出せないエマージェンシーコールを心の底から発信していると、その魂の叫びを受信してくれた人物がいたのだ。救いの声はロー先生の遥か後ろから聞こえた。場違いに呑気な声だった。
「あ!キャプテーン!」
通路の遠くにいたベポくんが大きく手を振ってこう叫んだのだ。積み木のように積み重なっていた私の疑念はこの瞬間、決定打を撃ち込まれて崩れ去った。彼らがいいかけていた“キャ”とは、“キャプテン”の“キャ”か!
どうやらロー先生の影にいた私のことは見えなかったようで、ベポくんは私と目が合うとさあっと青いくまになった。そんな青くま君は、間髪入れずに隣に立っていたシャチさんにべしんと背を叩かれる。そのシャチさんの顔色も良くなかったので、ベポくんが発したそれは私に聞かれてはマズイことに違いない。
キャプテンとは普通に考えて船長のことだ。そして、どう考えてもこの船は普通の船とは言いづらい。これは目が覚めてからの私の偏見だが、確実に堅気の人の船ではないだろう。
ちらり、とロー先生を見ると彼はいつも通り何を考えているか分からないポーカーフェイスだった。ベポくんとシャチさんと違って一切の動揺をしていない。本当に喰えない男だ。二人はこれ以上余計なことを言うのはまずいと判断したのか「では!」とあまりにも雑な挨拶を吐いて脱兎の如く逃げ出していった。
そして廊下には私とロー先生が取り残される。非常に遺憾なことに先程よりも私が感じる空気は重い。こんなことになるのなら、救いの声なんていらなかった!!私はロー先生から目を逸らし、形だけの笑顔を作った。
「私、部屋に戻るわ」
「そうか」
ロー先生はそう相槌を打って、私が部屋に戻って行くのをただ見ていた。弁解も引き留めもしない。ぱたんと静かにドアを閉めると、私はその扉に背を預けてずるずると座り込んだ。
「勘弁してよ……」
生半可の怪談よりも怖いし、どんなミステリー小説よりもスリリングだ。だってこれは現実なのだ。一縷の望みをかけてほっぺをぎゅっつ摘まんでみたのだが、やっぱり痛かった。残念なことに現実だ。
とはいえ、ロー先生に怯んで記憶の欠片を探すのをやめるわけにはいかないのだ。少しの時間をおいてから挙動不審になりつつも部屋の扉を開けると、幸いそこには誰もいなかった。私に恐怖の種を植え付けていったロー先生もいない。大きく安堵の溜息を吐くと、先程赤い汚れが見えたところまで歩いてみた。
しかし、床は綺麗になっている。あれは私の幻覚だったのだろうか。いや、そんな訳は無い。私はこの目でしっかりと見たのだ。もし掃除をしたのならその形跡がどこかにある筈だ。躍起になった私は清掃した証拠を探すことにした。例えば、廊下を拭いた雑巾とかモップとかそれ的なものが置いてあるようなところに行けば、使用したばかりのものがあるかもしれない。そういえば、この角を曲がって少し行った水場の近くに掃除道具を入れておくロッカーがあった筈だ。
記憶を頼りに掃除道具が乱雑に詰め込まれているロッカーを見つけると、意を決してロッカーの扉を開けてみた。ビンゴだ。そこに突っ込まれていたモップの穂先は湿っていたのだ。まるで、ちょっと前に誰かが使ったように。やっぱり、あの赤い汚れは私に見られたくなかったものに違いない。他にも怪しいものはないかとロッカーを物色していた私は、ふと気が付いてしまった。
このロッカー、頑張れば私一人くらい入れそうだ。隠れることのできる隙間があることを確かめた後に、私は固く決心した。この疑念を確信に変えてやるのだ。
次の放送が流れたとき、私は部屋には戻らずに掃除道具の詰め込まれたロッカーの中に入り込んだ。ロッカーの隙間からそっと辺りを伺うと、乗組員たちが爆速で横切っていく。皆も私がロッカーの中に潜んでいるとは思っていないのだろう。私が隠れたロッカーは空気のように存在していて、誰も目をくれない。自分の作戦が成功したことに私は手ごたえを感じていたが、その高揚もあっという間に萎むことになる。
「こういう時に限って続けて出るんだよな」
「幽霊みたいに言うなよ。あんなデカい首、見過ごせねェだろ」
シャチさんとペンギンさんが武器を持って駆け抜けていく。その姿を見て私は思った。その剣、手術道具として使う刃物にしては大きすぎるし殺傷力が高すぎるでしょう。腰に挿したそのピストルは何に使うの?麻酔は注射で打てば良いじゃない。私の疑念が確信に変わったわけだが、それを認められるかというとそれは別の話だ。閉塞したロッカーの中で私は途方に暮れていた。そのとき、どぉんっと大きな轟音がして船が大きく揺れる。
「痛ッ」
お陰で私は冷たい金属に思いっきり額をぶつけてしまった。その痛みとひんやりとした鈍色の感触は私にこの状況が現実であることを有無を言わせずに叩きつけてくれた。
暫くしてようやく船の揺れが収まった。砲撃音もしない。先程の慌ただしさが嘘のようにしんっと静まり返った廊下に、ロッカーから這い出てきた私の顔色はきっとこの海よりも青いに違いない。
ロー先生は自分のことを医者とか宣っていたけれども、そんなの真っ赤な嘘ではないか!彼は医者ではなく“キャプテン”で、ここは移動病院ではなく海賊船に違いない。絶対にそうだ。
気付いてしまえば、もう全てが怪しくて信じられなくなってしまった。何故、皆して私を騙していたのだろう。私は考えて、考えて、考えて、一つの結論を出した。
よし、次の島に着いたら逃げよう。