春告げ鳥と花の唄
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うっすらと目を開けると、ぼんやりと霞む視界に一人の男が映り込む。私が目覚めたことに気付いた男は、そっと冷たい指先で額にかかった前髪を払ってくれた。
「ろーせんせ、」
「何だ」
見覚えのある処置室の天井を背に、ロー先生が私の顔を覗き込んでいる。私は彼を呼んだが、起き抜けの声は舌足らずで上手く彼の名前を呼べなかった。その代わりにそっと手を伸ばすと、彼は少し屈んで私の腕が届くところまでその顔を持ってきてくれた。私は指先でぎこちなく彼の頬をなぞる。
「私ね、もしも、もう一度があるのなら」
ロー先生は静かに、私が言葉を紡ぐのを待ってくれる。
「嫌なものは嫌だって言って、笑いたいときだけ笑いたい。できたら貴方の傍で。そう思ったの」
私は今まで生きてきた中で一番の我儘を言ってみた。それでもあの時ばあやに思ったように、この人に嫌われるなんていう不安は無い。
「私、貴方のことが好きよ」
彼にそう言うのは何度目だろうか。でも、今回は諦めの混じった別れの言葉ではない。今、言の葉に乗せて彼に伝えたこの気持ちは、私の純粋な願いと想いだ。それを聞いたロー先生は微笑んだ。成りを顰めた眉間の皺に、凪いだ瞳に、柔く弧を描く唇に、この人はこんなに穏やかな顔ができるのか、と思った。ぎしり、とベッドが軋む。ロー先生の静かな瞳の奥にちりっと燃えるような感情が見えた。そしてその端正な顔が少しずつ近づいてきた。あ、キスされる。そう思った私は反射的に両腕で彼の胸板を押した。私の長年培っていた脅迫観念ともいえるべき本能は、こんなときも遺憾なく発揮したのだ。先程の穏やかな顔から一転、彼の眉間に深い皺が寄せられた。当然だ。私が彼の立場だったら納得がいかなくて暴れている。
「おい」
「……つい」
彼から目を泳がせ、彼の瞳からありありと読み取れる怒りから私は逃亡を決め込んだ。数拍の間は明後日の方向を見ていたのだが、もういいと言わんばかりの大きな溜息が聞こえたので、視線をそっとロー先生に戻した。こっそりと彼の様子を伺うとその瞳から怒りは消えていたが、今度は呆れが顕著に出ていた。それには聊か納得がいかないものを感じる。私だって何も好きでこんな身体になったわけではない。
「“鳥”にならないんだったらいいだろ」
「……それもそうね」
気を取り直してもう一回、となったところでお約束のように勢いよく部屋の扉が開け放たれた。
「キャプテン大変です!」
シャチさんだった。物凄く慌てた様子の彼のサングラスの奥の瞳と、ロー先生に覆いかぶされた私のそれがかち合った。シャチさんはすっと表情を消して真顔になると、ゆっくりと扉を閉めた。
「失礼しました」
再び処置室は静寂に包まれたが、数秒後に先程よりも勢いよく扉が開いた。
「じゃなかった、キャプテン!!」
「どうした」
碌でも無いことだったらどうなるか分かってんだろうなという副音声が聞こえたので、シャチさんは震えあがったが今はそれどころではないことを思い出したようだった。きっと余程の緊急事態に違いない。
「海軍です。軍艦が来てます。あと変な奴らが“鳥を返せ”って」
鳥とは私のことに違いない。目を見開いた私は、さあっと血の気が引いていくのを感じた。私がトラファルガー・ローと一緒に行動をしているのなら、彼の船に私がいると考えるのは当然だ。彼の船は捕まえられるものならやってみろと言わんばかりに港に堂々と泊まっているのだ。億単位の首になると自信が違う。きっと港にロー先生の船が泊っているのをあの男が海軍に通報したに違いない。全てを思い出した私はあの男の人と成りを知っている。彼はフレジアの近衛兵たちを纏めている男だ。腕も立つし知恵も回る。緊急事態にロー先生はベッドから降りると処置室から出ようとした。しかし、入り口の一歩手前でぴたりと立ち止まる。それから、振り返って私を見た。
「来るか」
私は頷いた。この船に隠れて閉じこもっていれば、ロー先生が何とかしてくれるだろうという予感はあった。彼だってそれは重々承知しているだろう。だけれども、彼は私自身に決着をつけさせる為にわざわざ足手纏いになる私を呼んだのだ。この人となら、何があったって大丈夫だ。私がベッドから起き上がると、一瞬だけ、周りが青白く光ったような気がした。
「何があってもおれを信じろ」
自信を持って紡がれた彼の言葉に、間髪入れずに私は返事をしたのだった。
◇
甲板に出ると、正面に二隻の軍艦が見えた。その軍艦とロー先生の船の間で、小船が波に揺れている。そこには先程私を襲った男たちがいた。それから正義を背負った男が後ろに二人。少し遠くにいる二隻の軍艦の大砲は全てこちらを向いている。私の横を歩くロー先生はそれを一瞥すると「二隻か」と呟いた。彼は慌てるでも無く、ただ冷静だった。その様子に数々の修羅場を潜り抜けてきたのだな、と改めて私は思った。
ロー先生はいつぞやのように私を姫抱きにすると船べりを蹴って、軽い音を立てて小船に綺麗に着地した。その衝撃で船が小さく揺れる。それから抱き上げていた私を下ろすと、自然な動きでその背に私を追いやった。
「トラファルガー・ローだな」
「人に名を尋ねるんだったら自分から名乗れ。フレジアの人間は礼儀も知らねェのか」
ロー先生は最初からアクセル全開で相手を煽った。彼の背後にいる私は、ロー先生が今どんな表情をしているのかは分からない。とはいえ、その声は自信に満ち溢れていたので、相手を小馬鹿にするように口角を吊り上げているのだというのが容易に想像できた。あの顔は私でもイラっとくるので、一回り以上年下の男にそんな態度で接しられたらカチンとくるのではなかろうか。ところが、フレジアの近衛兵の隊長は彼の挑発を一切相手にしなかった。
「ウォーバン・フリードだ」
男は機械のような冷たい声で淡々と名乗った。言外に「名乗ったのだから、お前も名乗れ」という言葉が含まれていたので、ロー先生も自身の名前を口にした。この刹那のやりとりの間に水面下で腹の探り合いが起きているのだと思うと更に気が引き締まる。ロー先生の足を引っ張るのだけは避けたい。
「お前ら、こいつで“何を”眠らせるつもりだった」
数秒の睨み合いの後に、口を開いたのはロー先生だった。逃げるのは許さないといった確信を持った口ぶりに、フリードの後ろに立っている青年たちは目を見開いてあからさまに動揺していたが、彼は一切動じない。海兵たちが不思議そうな顔をしている中、フリードは何を言っているのか分からないとばかりに眉まで顰めてみせのだ。
「何のことだ」
「惚けても無駄だ。こいつが人間には効かない睡眠導入剤を飲まされていたのは知ってる」
一瞬だけ、振り返ったロー先生と目が合った。その彼の琥珀色は、懺悔をするように揺れていたのできっと私には知らせたくなかったことなのだろう。でも、私だって馬鹿ではない。服用していた薬が“なにかいけないもの”だということは薄々気付いていた。だからフレジアの人々に裏切られたとは思わない。寧ろやっぱりそうだったのかと失望した。それよりも、こんなときでも気遣ってくれるこの男のことを思うと胸が熱くなった。
ここに来る前にロー先生は「おれを信じろ」と言った。今まで散々騙された者としては「時と場合による」と返事をして彼に嫌な顔をされたが、今なら私は力強く頷くだろう。船の皆がこの男に惚れ込む理由がよく分かった。
ハッキリ言って私は何も役に立たない。そんな私ができることは彼を信じることしかないのだ。例え、何があっても。私はロー先生と同じ景色を見るべく、顔を上げてただ前だけを見た。
二対の瞳で射抜かれてもフリードは何も言わない。それだけの機密だということだろう。そして、保身とはいえ事情を知らない海軍をここに巻き込んだのが仇になったに違いない。この睨み合いが永遠に続くのではないか、と思われたときだった。ロー先生が“ROOM”と唱えた瞬間この船を青白い光が包み込む。海兵たちが慌てて武器を構えたが、それよりもロー先生が動く方が早かった。
「“メス”」
くるりと身体を反転させると、彼は私に向かってその手を振り被ったのだ。そして、勢いを殺すことなくその手は私の左胸を貫く。何か起きたのか分からなかった。思考が止まった私は目を見開いて、時が止まったような錯覚すら覚えた。しかしそれも刹那のもので、襲ってくる痛みはすぐに私を現実に引き戻す。何よりも辛いのは途方も無い程の喪失感だ。それに耐えられずにどうしようなくなった私はがくりと地に両膝を着いた。震える手で“何か”を失った場所に触れると、そこには何もない。これは比喩ではなく、私の左胸にぽっかりと四角い穴が空いていたのだ。そこにあったはずの人体の一番大切な部分。
私の“心臓”は、ロー先生の右手で、ぽーん、ぽーんとまるでボールを投げるように弄ばれていた。
「何をする気だ!」
生きたまま心臓が抜きとられるという俄かには信じがたい光景に、今まで平静を保っていたフリードも流石に声を荒げた。
「さァな。だが、お前の態度によっては手が滑ったりするかもな」
それに反比例してロー先生の声音は静かで、どこか面白がっているようですらあった。彼は一際高く私の心臓を投げるとそのままぐっと力を込めて握る。“フリ”をした。ロー先生は「何があっても信じろ」と私に言った。では、彼がこんな行動に出たのは何か理由があるはず。だったら私は彼の芝居に付き合うだけだ。私は空虚になった胸に手を当てて爪を立て、喉の奥から絞り出すような呻き声を上げながら倒れこんだ。かりかりと木製の甲板を掻いて、荒い息を吐きながら私は緩慢に顔を上げた。裏切られて絶望した女の顔を浮かべながら。
「ロー先生、なんで……」
無様に転がった“海賊に騙された馬鹿な女”を見下ろす彼の瞳は冷え切っていて、普段の彼に灯っている静かな光は消えていた。冷徹なその雰囲気は“死の外科医”といった彼の異名に相応しいものだった。
「まさかこのおれが、お前みたいな世間知らずで頭の弱い女に本気で入れ込んだとでも思ってるのか」
しかし、この発言については後で問い詰める必要があるだろう。文句を言いたい衝動をぐっと堪えた私は、唇を噛んで屈辱に顔を歪ませた。無理やり笑顔を作るよりも断然こちらの方が簡単だったので、今まで私は相当無理をしていたのだと場違いなことまで思ってしまった。
「全部暇潰しだ、このところ退屈だったんでね」
それ以上でもそれ以下でもない。海賊の気まぐれに動機など一切存在しないのだと彼は哂う。
「どうせだったら、フレジアが国ぐるみで何を隠しているのか暴くのも悪くねェなって。この女の言っていた“冬の神様”とやらの正体はなんだ」
今、この場の支配者は完全に“海賊”トラファルガー・ローだった。
フレジアの目的は私。海軍の目的はフレジア近衛兵団の警護と私の保護、それから海賊の捕縛。とはいえ、海軍の一番の目的は億越えの賞金首の捕縛に違いない。しかし、海軍にとっての私の扱いはフレジア国の要人でただの民間人。罪人ではないのだから見捨てることはできない。皮肉にも掲げた正義が彼らの取るべき行動の邪魔をする。その結果、双方の目的である私をさっさと保護するのが一番の優先事項だ。しかし、肝心のカードの要の心臓はロー先生の手の中。三者が睨み合う中、さあどうする、と言わんばかりにロー先生は私の心臓に手をかけた。私は襲ってくるであろう激痛に備えて目をぎゅうっと瞑り、恐怖に震えた。勿論演技である。
「……“雪の魔物”だ」
観念したフリードは、視線を下に落として苦々しい口調で答えた。後ろに控えていた青年たちは「隊長!!」と慌てたが、フリードが静かに首を振ったので彼の意図を汲んで口をぎゅっと結ぶ。その様子を面白がるように一瞥したロー先生は目を細めて、視線で先を促す。そんな抽象的なものは答えとは認めない、もっと詳しく聞かせろと彼の瞳は言っていた。
「フレジアの鉱山の奥に、人間を簡単に丸のみできるほどの大蛇が眠っている。竜の鱗や瞳は鉱石じゃない。……そいつの脱皮した皮から作られている」
竜の瞳や鱗は、フレジアの人間なら誰でも知っている自慢の宝物だ。それの正体など考えたことはなかった。というか、普通は宝石や硝子と言われれば無機物としか思わないだろう。私が驚愕で動揺している間もフリードの話は続く。
「そいつは数十年に一度目を覚ます。だが、そいつが起きると何故かずっと雪が降る。しかし死なれては困る。だから、眠らせる」
ロー先生曰く、私が飲んでいた薬には人間の胃液では溶けない催眠導入剤が含まれていたという。漠然と、私は“冬の神様”の為に声が枯れて衰弱死するまで子守唄を歌うのだと思っていた。しかし、蓋を開けてみれば子守唄で寝かしつけるのではなく、睡眠薬で眠らせるという何とも原始的な荒業だ。
「乙女の形をした睡眠薬で」
やはりそうだ。だが、ここで疑問が一つ沸いてくる。何故春告げ鳥の選別基準が“歌が上手い”ことなのだろうか。ただ大蛇に喰われるのに歌が上手い必要がどこにあるのだろう。
「だったら、その辺の罪人にでも睡眠導入剤を詰めれば良い。わざわざ春告げ鳥なんて面倒なものを用意しなくても良いだろう」
私の疑問はロー先生にとっても同じだったらしい。今まで黙って聞いていた彼はそう口を挟んだ。
「あの大蛇は、蛇の癖に歌が好きだ。歌に聞き入っている間は襲ってこないから容易に近づける。まあ、飽きたら丸飲みだがな」
「腐ってるな、お前ら」
ロー先生の声は氷のように冷たかった。彼は心底フレジアを蔑んでいたに違いない。言葉の刃で人を殺せそうな程にその響きは鋭く、もしもその矛先を私が向けられたのなら成す術もなく傷付けられバラバラにされてしまうのだろう。
「海賊風情に言われる筋合いはない。いいから春告げ鳥を返せ!」
焦燥が隠せなくなったフリードにロー先生は何も答えない。いや、返事をしたのだが、それは今までの会話と一切結びつかない独り言のようだった。
「おい、録れたか」
その意味が分からずに私が目を白黒させていると、答え合わせはすぐに行われた。後方から返事が聞こえたのだ。
「はーい、キャプテン!バッチリですよー」
ばっと振り返ると、潜水艇の船べりに身を乗り出したシャチさんが腕をぶんぶんと大きく振っている。そして、彼の後ろに立っているクルー達は両腕を頭の上に持っていって大きな“マル”を作っていた。皆、ニヤリと擬音が聞こえてきそうな悪い笑みを浮かべている。それを確認したロー先生も笑った。彼の笑みは、掲げた海賊旗の船長に相応しい、最高で最凶に不敵なものだった。
ロー先生は私の心臓を持っていない方の手でコートのポケットを探ると、状況が理解できていない我々に“ある物”を見せてきた。彼の掌に乗っているのは小さな蝸牛だ。彼と同じ帽子を被ったそれは、見方によっては憎たらしい程にすました顔をしていた。
「貴様……!」
「ああ、今の会話は全て録音しといた。これをフレジアに送ったらどうなるか楽しみだな。それとも、海軍の化学班にするか。雪を呼ぶ大蛇なんて格好の研究材料だろうよ」
顔を真っ赤にするフリードを鼻で笑ったロー先生は、地面にへたりと座り込んでる私に視線を向けた。その瞳には平静と同じ温かさがあったので、私は安堵した。いくら矛先が私には向かないと理解していても、怖いものは怖いのだ。彼はさっと私から奪った心臓を懐にしまうと、私の右手をぐいっと引っ張った。色々な意味で一人ではすぐに立てそうになかった私は、されるがままに立たされてそのまま抱き寄せられる。
「それから、こいつはもう諦めろ」
さらに、ロー先生は涼しい顔で爆弾を投下してくれたのだ。
「取り戻したところでこいつはもう“鳥”でも“乙女”でもねェ。ただの“女”だ。おれが女に“してやった”」
この爆弾は私も聞き捨てならない。記憶が繋がった今、断言できる。私はロー先生とキスなどはしたことがない。
「ちょっと待って、それっていつ!?」
ロー先生のコートの胸ぐらを掴むと、私を見下ろした彼の表情にはありありと“面倒”の二文字が浮かんでいる。今はそんなことはいいだろうと言いたげな視線が頭に来た私は、尚も食い下がろうとした。ところが、文句を言おうと口を開きかけた私の顎が急にくいっと持ち上げられる。そして、近づいてくるロー先生の整った顔。まさか。そのまさかだった。彼は徐に口付けてきたのである。
「んー!!」
こんな馬鹿な話があって堪るか!口は塞がれているので、離せという気持ちを思いっきり込めて私はロー先生の胸板を叩いた。物理の抗議である。必死に抵抗する私などお構いなしに後方の船からぴゅうぴゅうと冷やかすような口笛が聞こえるが、こちらはそれどころではない。どんどんと力を込めて数回叩いたところで唇はぱっと離された。そしてロー先生はしれっと言ってのけたのだ。
「もう今でいいだろ」
あまりの言い草に反射的に手を上げた私を誰が責められよう。しかし、彼の頬を張るために振り上げた右手は易々と掴まれた。億越えの賞金首がただの女の平手などくらうわけがないのだから当然だ。物理的な報復に失敗した私は今度は言葉での反撃に切り替えた。
「最っ低!!貴方にはムードってものが無いの?!」
「残念だったな、現実はこんなものだ」
一切悪びれないロー先生は、それどころか私が可笑しいかのように眉根を顰めた。悔しさのあまり子供のように暴れ出した私をあろうことか羽交い絞めにして押さえつけたロー先生は、ただの男と女の痴話喧嘩に呆気にとられている面々を一瞥した。
「そうだ、一つだけ礼を言う。“ナマエ”は歌は上手ェし、今はこうだが普段は礼儀作法もしっかりしてる。よく育ててくれたな。お前らフレジアにやるにはもったいねェくらい良い女だ」
“今はこう”なのは貴方のせい!上半身の動きは封じられているので、足を踏みつけようとしたがそれも簡単に躱される。首を捻って彼を睨みつけると、ロー先生は悪い笑みを浮かべていた。その対象は私ではなく、フレジアの人間と海兵だ。
「やめ、」
何かをされる、と直感で悟ったフリードの言葉は最後まで聞こえなかった。
「じゃあな。“雪の魔物”とやらによろしくな」
ロー先生がぱっと指を動かすと、フリードや青年たちや海兵も一瞬にして消えたのだ。その代わりに、どさっと浮き輪やバケツにロープが降って来る。まるで、それらが最初からここにあったかのように。しかし、落ちた衝撃で船が小さく揺れているのでこの超常現象はどうやら現実らしかった。混乱して抵抗するのを忘れた私からぱっと手を離したロー先生は大太刀を構えた。どうやら海軍は、フレジアにとって価値がなくなった私よりも億越えの首を優先することにしたらしい。話の流れとロー先生の行動で、私もただの民間人ではなくなったのだろう。
軍艦から砲弾が浴びせられたのは、ロー先生が大太刀を振るうのと同時だった。理屈は分からないが、浴びせられた砲弾はこちらに届く前に真っ二つになった。それどころか、その直線上にあった軍艦まで真っ二つにされたのである。私はぽかんと口を開けながらその惨状をただ見ていた。ロー先生が人間の身体をバラバラにできるのは知っていた。しかし、こんな規格外のものまでぶった切れるとは誰が思うのだろう。
数拍遅れて「はぁーー?!何それーー!!」と叫んだ私の声は、阿鼻叫喚の地獄絵図となった沈みゆく船の喧騒に掻き消された。そして、二人だけになった小船から瞬時に景色が変わる。
「キャプテン、ナマエ、お帰りー!」
気付いた時にはポーラータング号の甲板に私は立っていた。ベポくんが両手を上げて出迎えてくれたが、私はへなへなとへたり込むしかできなかった。何これ。何だこれ。どういうこと?頭が真っ白になっている私を無視して、ロー先生はベポくんに声をかけた。
「ログは?」
「ピッタリ!さっき貯まったよ!」
「よし、野郎ども、さっさと船を出すぞ」
「アイアイキャプテン!」
船長の声にクルー一同元気よく返事をしたが、私は未だ動くことができずにいた。
「ボサッとしてるな、行くぞ」
彼らはどこからどこまで結託していたのだ?呆気に取られる私の手を引いて立ち上がらせると、ロー先生はハッチから艦内に入っていく。それにクルー達も続き、ハッチが完全に閉じると船が大きく揺れた。きっと海に潜っていったのだろう。テキパキと指示を出すロー先生の隣で、思考が完全に停止した私はただの置物になっていた。
「おい」
船が上手く軌道に乗ったのか、棒立ちになっている私の顔をロー先生が覗き込んできた。
「……どこからどこまで」
「は?」
「いつ、こんな作戦立ててたの?会話を録ってどうするつもり!?」
半ば叫ぶように問い詰めた私にロー先生は小さく溜息を吐いた。私が悪いみたいになっているのには心底納得がいかない。
「お前が倒れてる間。録った会話はフレジアの放送協会にでも送る」
「いや、待ってそんなことしたら」
作戦を立てたタイミングは確かに妥当だが、もう一つは聞き逃せなかった。そんなことしたら、暴動が起きるのでは。
「後はフレジアの奴らが勝手にやれ。自分たちのことは自分たちで蹴りをつけろ。おれは知ったこっちゃねェ」
ロー先生の声はあの時と同様に固く冷たかったので、自分勝手なフレジアの上層部を心底軽蔑しているのだなと感じ取れてしまった。それには私も当事者として思うところがあるので、何も言えない。物凄く複雑な気分だ。
眉根を寄せる私に、そんなことより、と言うようにロー先生はにやりと口角を上げた。
「しかし、お前思ったよりも芝居が上手かったな」
「……無理に笑うよりも簡単だったわ」
思ったことをそのまま答えると、くつくつとロー先生は喉を鳴らしながら笑う。
「悪い女」
そういえば私は“悪いこと”をするために離宮を飛び出してきたのだった。本来の目的を達成したわけだが、しかし、それはそれ。これはこれ。
「良い女なんじゃなかったの?でも、それは誉め言葉として受け取っておくわ。あと心臓返して」
「心臓はついでかよ」
「ろーせんせ、」
「何だ」
見覚えのある処置室の天井を背に、ロー先生が私の顔を覗き込んでいる。私は彼を呼んだが、起き抜けの声は舌足らずで上手く彼の名前を呼べなかった。その代わりにそっと手を伸ばすと、彼は少し屈んで私の腕が届くところまでその顔を持ってきてくれた。私は指先でぎこちなく彼の頬をなぞる。
「私ね、もしも、もう一度があるのなら」
ロー先生は静かに、私が言葉を紡ぐのを待ってくれる。
「嫌なものは嫌だって言って、笑いたいときだけ笑いたい。できたら貴方の傍で。そう思ったの」
私は今まで生きてきた中で一番の我儘を言ってみた。それでもあの時ばあやに思ったように、この人に嫌われるなんていう不安は無い。
「私、貴方のことが好きよ」
彼にそう言うのは何度目だろうか。でも、今回は諦めの混じった別れの言葉ではない。今、言の葉に乗せて彼に伝えたこの気持ちは、私の純粋な願いと想いだ。それを聞いたロー先生は微笑んだ。成りを顰めた眉間の皺に、凪いだ瞳に、柔く弧を描く唇に、この人はこんなに穏やかな顔ができるのか、と思った。ぎしり、とベッドが軋む。ロー先生の静かな瞳の奥にちりっと燃えるような感情が見えた。そしてその端正な顔が少しずつ近づいてきた。あ、キスされる。そう思った私は反射的に両腕で彼の胸板を押した。私の長年培っていた脅迫観念ともいえるべき本能は、こんなときも遺憾なく発揮したのだ。先程の穏やかな顔から一転、彼の眉間に深い皺が寄せられた。当然だ。私が彼の立場だったら納得がいかなくて暴れている。
「おい」
「……つい」
彼から目を泳がせ、彼の瞳からありありと読み取れる怒りから私は逃亡を決め込んだ。数拍の間は明後日の方向を見ていたのだが、もういいと言わんばかりの大きな溜息が聞こえたので、視線をそっとロー先生に戻した。こっそりと彼の様子を伺うとその瞳から怒りは消えていたが、今度は呆れが顕著に出ていた。それには聊か納得がいかないものを感じる。私だって何も好きでこんな身体になったわけではない。
「“鳥”にならないんだったらいいだろ」
「……それもそうね」
気を取り直してもう一回、となったところでお約束のように勢いよく部屋の扉が開け放たれた。
「キャプテン大変です!」
シャチさんだった。物凄く慌てた様子の彼のサングラスの奥の瞳と、ロー先生に覆いかぶされた私のそれがかち合った。シャチさんはすっと表情を消して真顔になると、ゆっくりと扉を閉めた。
「失礼しました」
再び処置室は静寂に包まれたが、数秒後に先程よりも勢いよく扉が開いた。
「じゃなかった、キャプテン!!」
「どうした」
碌でも無いことだったらどうなるか分かってんだろうなという副音声が聞こえたので、シャチさんは震えあがったが今はそれどころではないことを思い出したようだった。きっと余程の緊急事態に違いない。
「海軍です。軍艦が来てます。あと変な奴らが“鳥を返せ”って」
鳥とは私のことに違いない。目を見開いた私は、さあっと血の気が引いていくのを感じた。私がトラファルガー・ローと一緒に行動をしているのなら、彼の船に私がいると考えるのは当然だ。彼の船は捕まえられるものならやってみろと言わんばかりに港に堂々と泊まっているのだ。億単位の首になると自信が違う。きっと港にロー先生の船が泊っているのをあの男が海軍に通報したに違いない。全てを思い出した私はあの男の人と成りを知っている。彼はフレジアの近衛兵たちを纏めている男だ。腕も立つし知恵も回る。緊急事態にロー先生はベッドから降りると処置室から出ようとした。しかし、入り口の一歩手前でぴたりと立ち止まる。それから、振り返って私を見た。
「来るか」
私は頷いた。この船に隠れて閉じこもっていれば、ロー先生が何とかしてくれるだろうという予感はあった。彼だってそれは重々承知しているだろう。だけれども、彼は私自身に決着をつけさせる為にわざわざ足手纏いになる私を呼んだのだ。この人となら、何があったって大丈夫だ。私がベッドから起き上がると、一瞬だけ、周りが青白く光ったような気がした。
「何があってもおれを信じろ」
自信を持って紡がれた彼の言葉に、間髪入れずに私は返事をしたのだった。
◇
甲板に出ると、正面に二隻の軍艦が見えた。その軍艦とロー先生の船の間で、小船が波に揺れている。そこには先程私を襲った男たちがいた。それから正義を背負った男が後ろに二人。少し遠くにいる二隻の軍艦の大砲は全てこちらを向いている。私の横を歩くロー先生はそれを一瞥すると「二隻か」と呟いた。彼は慌てるでも無く、ただ冷静だった。その様子に数々の修羅場を潜り抜けてきたのだな、と改めて私は思った。
ロー先生はいつぞやのように私を姫抱きにすると船べりを蹴って、軽い音を立てて小船に綺麗に着地した。その衝撃で船が小さく揺れる。それから抱き上げていた私を下ろすと、自然な動きでその背に私を追いやった。
「トラファルガー・ローだな」
「人に名を尋ねるんだったら自分から名乗れ。フレジアの人間は礼儀も知らねェのか」
ロー先生は最初からアクセル全開で相手を煽った。彼の背後にいる私は、ロー先生が今どんな表情をしているのかは分からない。とはいえ、その声は自信に満ち溢れていたので、相手を小馬鹿にするように口角を吊り上げているのだというのが容易に想像できた。あの顔は私でもイラっとくるので、一回り以上年下の男にそんな態度で接しられたらカチンとくるのではなかろうか。ところが、フレジアの近衛兵の隊長は彼の挑発を一切相手にしなかった。
「ウォーバン・フリードだ」
男は機械のような冷たい声で淡々と名乗った。言外に「名乗ったのだから、お前も名乗れ」という言葉が含まれていたので、ロー先生も自身の名前を口にした。この刹那のやりとりの間に水面下で腹の探り合いが起きているのだと思うと更に気が引き締まる。ロー先生の足を引っ張るのだけは避けたい。
「お前ら、こいつで“何を”眠らせるつもりだった」
数秒の睨み合いの後に、口を開いたのはロー先生だった。逃げるのは許さないといった確信を持った口ぶりに、フリードの後ろに立っている青年たちは目を見開いてあからさまに動揺していたが、彼は一切動じない。海兵たちが不思議そうな顔をしている中、フリードは何を言っているのか分からないとばかりに眉まで顰めてみせのだ。
「何のことだ」
「惚けても無駄だ。こいつが人間には効かない睡眠導入剤を飲まされていたのは知ってる」
一瞬だけ、振り返ったロー先生と目が合った。その彼の琥珀色は、懺悔をするように揺れていたのできっと私には知らせたくなかったことなのだろう。でも、私だって馬鹿ではない。服用していた薬が“なにかいけないもの”だということは薄々気付いていた。だからフレジアの人々に裏切られたとは思わない。寧ろやっぱりそうだったのかと失望した。それよりも、こんなときでも気遣ってくれるこの男のことを思うと胸が熱くなった。
ここに来る前にロー先生は「おれを信じろ」と言った。今まで散々騙された者としては「時と場合による」と返事をして彼に嫌な顔をされたが、今なら私は力強く頷くだろう。船の皆がこの男に惚れ込む理由がよく分かった。
ハッキリ言って私は何も役に立たない。そんな私ができることは彼を信じることしかないのだ。例え、何があっても。私はロー先生と同じ景色を見るべく、顔を上げてただ前だけを見た。
二対の瞳で射抜かれてもフリードは何も言わない。それだけの機密だということだろう。そして、保身とはいえ事情を知らない海軍をここに巻き込んだのが仇になったに違いない。この睨み合いが永遠に続くのではないか、と思われたときだった。ロー先生が“ROOM”と唱えた瞬間この船を青白い光が包み込む。海兵たちが慌てて武器を構えたが、それよりもロー先生が動く方が早かった。
「“メス”」
くるりと身体を反転させると、彼は私に向かってその手を振り被ったのだ。そして、勢いを殺すことなくその手は私の左胸を貫く。何か起きたのか分からなかった。思考が止まった私は目を見開いて、時が止まったような錯覚すら覚えた。しかしそれも刹那のもので、襲ってくる痛みはすぐに私を現実に引き戻す。何よりも辛いのは途方も無い程の喪失感だ。それに耐えられずにどうしようなくなった私はがくりと地に両膝を着いた。震える手で“何か”を失った場所に触れると、そこには何もない。これは比喩ではなく、私の左胸にぽっかりと四角い穴が空いていたのだ。そこにあったはずの人体の一番大切な部分。
私の“心臓”は、ロー先生の右手で、ぽーん、ぽーんとまるでボールを投げるように弄ばれていた。
「何をする気だ!」
生きたまま心臓が抜きとられるという俄かには信じがたい光景に、今まで平静を保っていたフリードも流石に声を荒げた。
「さァな。だが、お前の態度によっては手が滑ったりするかもな」
それに反比例してロー先生の声音は静かで、どこか面白がっているようですらあった。彼は一際高く私の心臓を投げるとそのままぐっと力を込めて握る。“フリ”をした。ロー先生は「何があっても信じろ」と私に言った。では、彼がこんな行動に出たのは何か理由があるはず。だったら私は彼の芝居に付き合うだけだ。私は空虚になった胸に手を当てて爪を立て、喉の奥から絞り出すような呻き声を上げながら倒れこんだ。かりかりと木製の甲板を掻いて、荒い息を吐きながら私は緩慢に顔を上げた。裏切られて絶望した女の顔を浮かべながら。
「ロー先生、なんで……」
無様に転がった“海賊に騙された馬鹿な女”を見下ろす彼の瞳は冷え切っていて、普段の彼に灯っている静かな光は消えていた。冷徹なその雰囲気は“死の外科医”といった彼の異名に相応しいものだった。
「まさかこのおれが、お前みたいな世間知らずで頭の弱い女に本気で入れ込んだとでも思ってるのか」
しかし、この発言については後で問い詰める必要があるだろう。文句を言いたい衝動をぐっと堪えた私は、唇を噛んで屈辱に顔を歪ませた。無理やり笑顔を作るよりも断然こちらの方が簡単だったので、今まで私は相当無理をしていたのだと場違いなことまで思ってしまった。
「全部暇潰しだ、このところ退屈だったんでね」
それ以上でもそれ以下でもない。海賊の気まぐれに動機など一切存在しないのだと彼は哂う。
「どうせだったら、フレジアが国ぐるみで何を隠しているのか暴くのも悪くねェなって。この女の言っていた“冬の神様”とやらの正体はなんだ」
今、この場の支配者は完全に“海賊”トラファルガー・ローだった。
フレジアの目的は私。海軍の目的はフレジア近衛兵団の警護と私の保護、それから海賊の捕縛。とはいえ、海軍の一番の目的は億越えの賞金首の捕縛に違いない。しかし、海軍にとっての私の扱いはフレジア国の要人でただの民間人。罪人ではないのだから見捨てることはできない。皮肉にも掲げた正義が彼らの取るべき行動の邪魔をする。その結果、双方の目的である私をさっさと保護するのが一番の優先事項だ。しかし、肝心のカードの要の心臓はロー先生の手の中。三者が睨み合う中、さあどうする、と言わんばかりにロー先生は私の心臓に手をかけた。私は襲ってくるであろう激痛に備えて目をぎゅうっと瞑り、恐怖に震えた。勿論演技である。
「……“雪の魔物”だ」
観念したフリードは、視線を下に落として苦々しい口調で答えた。後ろに控えていた青年たちは「隊長!!」と慌てたが、フリードが静かに首を振ったので彼の意図を汲んで口をぎゅっと結ぶ。その様子を面白がるように一瞥したロー先生は目を細めて、視線で先を促す。そんな抽象的なものは答えとは認めない、もっと詳しく聞かせろと彼の瞳は言っていた。
「フレジアの鉱山の奥に、人間を簡単に丸のみできるほどの大蛇が眠っている。竜の鱗や瞳は鉱石じゃない。……そいつの脱皮した皮から作られている」
竜の瞳や鱗は、フレジアの人間なら誰でも知っている自慢の宝物だ。それの正体など考えたことはなかった。というか、普通は宝石や硝子と言われれば無機物としか思わないだろう。私が驚愕で動揺している間もフリードの話は続く。
「そいつは数十年に一度目を覚ます。だが、そいつが起きると何故かずっと雪が降る。しかし死なれては困る。だから、眠らせる」
ロー先生曰く、私が飲んでいた薬には人間の胃液では溶けない催眠導入剤が含まれていたという。漠然と、私は“冬の神様”の為に声が枯れて衰弱死するまで子守唄を歌うのだと思っていた。しかし、蓋を開けてみれば子守唄で寝かしつけるのではなく、睡眠薬で眠らせるという何とも原始的な荒業だ。
「乙女の形をした睡眠薬で」
やはりそうだ。だが、ここで疑問が一つ沸いてくる。何故春告げ鳥の選別基準が“歌が上手い”ことなのだろうか。ただ大蛇に喰われるのに歌が上手い必要がどこにあるのだろう。
「だったら、その辺の罪人にでも睡眠導入剤を詰めれば良い。わざわざ春告げ鳥なんて面倒なものを用意しなくても良いだろう」
私の疑問はロー先生にとっても同じだったらしい。今まで黙って聞いていた彼はそう口を挟んだ。
「あの大蛇は、蛇の癖に歌が好きだ。歌に聞き入っている間は襲ってこないから容易に近づける。まあ、飽きたら丸飲みだがな」
「腐ってるな、お前ら」
ロー先生の声は氷のように冷たかった。彼は心底フレジアを蔑んでいたに違いない。言葉の刃で人を殺せそうな程にその響きは鋭く、もしもその矛先を私が向けられたのなら成す術もなく傷付けられバラバラにされてしまうのだろう。
「海賊風情に言われる筋合いはない。いいから春告げ鳥を返せ!」
焦燥が隠せなくなったフリードにロー先生は何も答えない。いや、返事をしたのだが、それは今までの会話と一切結びつかない独り言のようだった。
「おい、録れたか」
その意味が分からずに私が目を白黒させていると、答え合わせはすぐに行われた。後方から返事が聞こえたのだ。
「はーい、キャプテン!バッチリですよー」
ばっと振り返ると、潜水艇の船べりに身を乗り出したシャチさんが腕をぶんぶんと大きく振っている。そして、彼の後ろに立っているクルー達は両腕を頭の上に持っていって大きな“マル”を作っていた。皆、ニヤリと擬音が聞こえてきそうな悪い笑みを浮かべている。それを確認したロー先生も笑った。彼の笑みは、掲げた海賊旗の船長に相応しい、最高で最凶に不敵なものだった。
ロー先生は私の心臓を持っていない方の手でコートのポケットを探ると、状況が理解できていない我々に“ある物”を見せてきた。彼の掌に乗っているのは小さな蝸牛だ。彼と同じ帽子を被ったそれは、見方によっては憎たらしい程にすました顔をしていた。
「貴様……!」
「ああ、今の会話は全て録音しといた。これをフレジアに送ったらどうなるか楽しみだな。それとも、海軍の化学班にするか。雪を呼ぶ大蛇なんて格好の研究材料だろうよ」
顔を真っ赤にするフリードを鼻で笑ったロー先生は、地面にへたりと座り込んでる私に視線を向けた。その瞳には平静と同じ温かさがあったので、私は安堵した。いくら矛先が私には向かないと理解していても、怖いものは怖いのだ。彼はさっと私から奪った心臓を懐にしまうと、私の右手をぐいっと引っ張った。色々な意味で一人ではすぐに立てそうになかった私は、されるがままに立たされてそのまま抱き寄せられる。
「それから、こいつはもう諦めろ」
さらに、ロー先生は涼しい顔で爆弾を投下してくれたのだ。
「取り戻したところでこいつはもう“鳥”でも“乙女”でもねェ。ただの“女”だ。おれが女に“してやった”」
この爆弾は私も聞き捨てならない。記憶が繋がった今、断言できる。私はロー先生とキスなどはしたことがない。
「ちょっと待って、それっていつ!?」
ロー先生のコートの胸ぐらを掴むと、私を見下ろした彼の表情にはありありと“面倒”の二文字が浮かんでいる。今はそんなことはいいだろうと言いたげな視線が頭に来た私は、尚も食い下がろうとした。ところが、文句を言おうと口を開きかけた私の顎が急にくいっと持ち上げられる。そして、近づいてくるロー先生の整った顔。まさか。そのまさかだった。彼は徐に口付けてきたのである。
「んー!!」
こんな馬鹿な話があって堪るか!口は塞がれているので、離せという気持ちを思いっきり込めて私はロー先生の胸板を叩いた。物理の抗議である。必死に抵抗する私などお構いなしに後方の船からぴゅうぴゅうと冷やかすような口笛が聞こえるが、こちらはそれどころではない。どんどんと力を込めて数回叩いたところで唇はぱっと離された。そしてロー先生はしれっと言ってのけたのだ。
「もう今でいいだろ」
あまりの言い草に反射的に手を上げた私を誰が責められよう。しかし、彼の頬を張るために振り上げた右手は易々と掴まれた。億越えの賞金首がただの女の平手などくらうわけがないのだから当然だ。物理的な報復に失敗した私は今度は言葉での反撃に切り替えた。
「最っ低!!貴方にはムードってものが無いの?!」
「残念だったな、現実はこんなものだ」
一切悪びれないロー先生は、それどころか私が可笑しいかのように眉根を顰めた。悔しさのあまり子供のように暴れ出した私をあろうことか羽交い絞めにして押さえつけたロー先生は、ただの男と女の痴話喧嘩に呆気にとられている面々を一瞥した。
「そうだ、一つだけ礼を言う。“ナマエ”は歌は上手ェし、今はこうだが普段は礼儀作法もしっかりしてる。よく育ててくれたな。お前らフレジアにやるにはもったいねェくらい良い女だ」
“今はこう”なのは貴方のせい!上半身の動きは封じられているので、足を踏みつけようとしたがそれも簡単に躱される。首を捻って彼を睨みつけると、ロー先生は悪い笑みを浮かべていた。その対象は私ではなく、フレジアの人間と海兵だ。
「やめ、」
何かをされる、と直感で悟ったフリードの言葉は最後まで聞こえなかった。
「じゃあな。“雪の魔物”とやらによろしくな」
ロー先生がぱっと指を動かすと、フリードや青年たちや海兵も一瞬にして消えたのだ。その代わりに、どさっと浮き輪やバケツにロープが降って来る。まるで、それらが最初からここにあったかのように。しかし、落ちた衝撃で船が小さく揺れているのでこの超常現象はどうやら現実らしかった。混乱して抵抗するのを忘れた私からぱっと手を離したロー先生は大太刀を構えた。どうやら海軍は、フレジアにとって価値がなくなった私よりも億越えの首を優先することにしたらしい。話の流れとロー先生の行動で、私もただの民間人ではなくなったのだろう。
軍艦から砲弾が浴びせられたのは、ロー先生が大太刀を振るうのと同時だった。理屈は分からないが、浴びせられた砲弾はこちらに届く前に真っ二つになった。それどころか、その直線上にあった軍艦まで真っ二つにされたのである。私はぽかんと口を開けながらその惨状をただ見ていた。ロー先生が人間の身体をバラバラにできるのは知っていた。しかし、こんな規格外のものまでぶった切れるとは誰が思うのだろう。
数拍遅れて「はぁーー?!何それーー!!」と叫んだ私の声は、阿鼻叫喚の地獄絵図となった沈みゆく船の喧騒に掻き消された。そして、二人だけになった小船から瞬時に景色が変わる。
「キャプテン、ナマエ、お帰りー!」
気付いた時にはポーラータング号の甲板に私は立っていた。ベポくんが両手を上げて出迎えてくれたが、私はへなへなとへたり込むしかできなかった。何これ。何だこれ。どういうこと?頭が真っ白になっている私を無視して、ロー先生はベポくんに声をかけた。
「ログは?」
「ピッタリ!さっき貯まったよ!」
「よし、野郎ども、さっさと船を出すぞ」
「アイアイキャプテン!」
船長の声にクルー一同元気よく返事をしたが、私は未だ動くことができずにいた。
「ボサッとしてるな、行くぞ」
彼らはどこからどこまで結託していたのだ?呆気に取られる私の手を引いて立ち上がらせると、ロー先生はハッチから艦内に入っていく。それにクルー達も続き、ハッチが完全に閉じると船が大きく揺れた。きっと海に潜っていったのだろう。テキパキと指示を出すロー先生の隣で、思考が完全に停止した私はただの置物になっていた。
「おい」
船が上手く軌道に乗ったのか、棒立ちになっている私の顔をロー先生が覗き込んできた。
「……どこからどこまで」
「は?」
「いつ、こんな作戦立ててたの?会話を録ってどうするつもり!?」
半ば叫ぶように問い詰めた私にロー先生は小さく溜息を吐いた。私が悪いみたいになっているのには心底納得がいかない。
「お前が倒れてる間。録った会話はフレジアの放送協会にでも送る」
「いや、待ってそんなことしたら」
作戦を立てたタイミングは確かに妥当だが、もう一つは聞き逃せなかった。そんなことしたら、暴動が起きるのでは。
「後はフレジアの奴らが勝手にやれ。自分たちのことは自分たちで蹴りをつけろ。おれは知ったこっちゃねェ」
ロー先生の声はあの時と同様に固く冷たかったので、自分勝手なフレジアの上層部を心底軽蔑しているのだなと感じ取れてしまった。それには私も当事者として思うところがあるので、何も言えない。物凄く複雑な気分だ。
眉根を寄せる私に、そんなことより、と言うようにロー先生はにやりと口角を上げた。
「しかし、お前思ったよりも芝居が上手かったな」
「……無理に笑うよりも簡単だったわ」
思ったことをそのまま答えると、くつくつとロー先生は喉を鳴らしながら笑う。
「悪い女」
そういえば私は“悪いこと”をするために離宮を飛び出してきたのだった。本来の目的を達成したわけだが、しかし、それはそれ。これはこれ。
「良い女なんじゃなかったの?でも、それは誉め言葉として受け取っておくわ。あと心臓返して」
「心臓はついでかよ」