春告げ鳥と花の唄
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雪解けを待つ冬のような男だった。
「いい子ね」
それは私にとって呪いの言葉だった。
今でこそ何不自由なく極上の暮らしをしている私であるが、幼少時代はいつもお腹を空かせていた記憶ばかり。鳥がらのように痩せ細り、あばらの浮いた子供だった。毎日一切れのパンの為に煤だらけになって煙突を掃除し、他人の靴を沢山磨いて、その日その日を懸命に生きていた。
フレジアは“常春の国”と呼ばれている。それは嘘ではない。ただ、国の全てが豊かで楽園ではないだけだ。フレジアの景色は国の中央にある鉱山を境に少しずつ世界が変わっていく。港に近い国の南部は華やかで輝いているが、その逆の北に向かうと少しずつ建物も道路も古びて貧しいものになっていくのだ。そんな掃きだめのような場所が、私の生まれ育ったスラム街だった。
仕事が終わって家に帰ると父と母は喧嘩ばかりしていて、二人の声が聞こえないところに隠れて私はよく歌を歌って過ごした。歌を歌うのは好きだ。スッキリするし、楽しい気分になれるし、お金もかからない。ただ一つ欠点があるとすれば、それはお腹が空くことだ。私は日中に見かけた苺の乗ったショートケーキを思い出して溜息を吐いた。一度でいいからあんな贅沢なものを食べてみたい。それが幼少時代の私の夢だった。
私が10歳の頃だ。前触れもなく、白く冷たい真綿のようなものが空から降って来た。この国に終わりをもたらすそれを、大人たちは“雪”と呼んだ。雪はいつまでも降り続ける。粗末な私たちの家は屋根に積もる雪の重さにいつ潰されてもおかしくはない。私の仕事は掃除から雪かきになった。綺麗なのは見かけだけで、冷たく重いだけの雪が私は何より嫌いだった。この白はまるで、世界でも塗り潰そうとしているようだ。いっそのこと、塗り潰してくれれば良いのに。私は悴む手を吐息で温めて鈍色の空を仰いだ。
しかし、ある日に雪はぴたりと止んだ。フレジアは、今までの灰色が嘘だったように美しい青色の空を取り戻した。大人たちは「春告げ鳥が春を呼んだ」と言って喜んでいた。意味が分からなかったが、母も父も大人たちは皆喜んでいたのでとりあえず私も喜ぶことにした。雪かきから解放されたことは少なくとも喜ばしいことだったし。
全ての雪が解けたころ、スラム街のこどもたちが広場に集められた。どの子も私と同じか少し年上くらいで、皆女の子だった。男の子は誰もいなかった。
身なりの良い服を上品に着こなした大人たちは言う。
「次の“春告げ鳥”を選びにきた」のだと。
今になって考えると、スラム街で後腐れの無い孤児同様の子供たちを体の良い生贄にしたかったに違いない。大人たちは集めた子供達に何故か歌を歌わせた。そして私は、集められた子供たちの中で一番歌が上手いという理由で“春告げ鳥”に選ばれた。
「貴方は自慢の娘よ。春告げ様になれば、何一つ不自由なく暮らせるわ」
“春告げ鳥”となった子供は王宮の離宮で暮らすことになるそうだ。私が親元を離れ、王宮に上がる日に母は私を抱きしめてくれた。「いい子ね」そう囁いた母が、政府から大量の金貨や紙幣を受け取っているのを私は知っていた。だけれども、私は知らないフリをした。親に売られた惨めな子供にはなりたくなかったからだ。
離宮に上がると、今までの暮らしとは世界がまるで違った。ぴったりと閉まって風を通さない窓、隙間の無い壁、お湯の出る蛇口、天蓋付きの柔らかで温かいベッド、お洒落な服が沢山詰め込まれた棚。最初は環境に慣れずに部屋の隅でわざわざ持ち込んだ羽毛布団にくるまって眠った。敷布団は無いのに、私が今まで寝ていた寝床よりも断然心地良い。今頃父や母はどうしているのだろうか、例え売られたとしても幼少期の世界の全ては“親”で埋め尽くされていることが殆どだ。私も少なからずそうであったので、両親のことが気になっていた。
しかし、ぼんやりと両親のことを考えて過ごす時間は私には与えられなかった。日中は国中から集められた先生たちに礼儀作法や音楽を叩きこまれたのだ。もう少し大きくなったら、フレジア王家の前で歌ったりすることもあるそうだ。まるで、見世物みたい。ああ、そうか。私はもう人間では無いのだ。だって、私の周りの大人たちは皆私のことを名前で呼ばない。
「春告げ様」
皆、私のことをそう呼んだ。
「私、そんな名前じゃないわ」
「いいえ、貴方は“春告げ様”です」
勇気を出してみたのだが、大人たちは冷たい目をして相手にしてくれなかった。私は賢くはないが馬鹿でもなかったので、大人たちはスラム街出身の子供である私を内心見下して疎んじているのだということが分かってしまった。形式上は恭しいのだが、そこに温度は無い。その中で唯一優しくしてくれたのは、私のお世話係の老婦人だった。
彼女はここでずっと“春告げ鳥”の世話をしているという。当然のように私は彼女に懐いた。ここでは“ばあや”だけが私の味方で心の拠り所だった。十年以上、私の話し相手はばあやだけだった。しかし、子供の十年と老人の十年がもたらす重みは違う。私は礼儀作法や沢山の歌、色々なことを覚えてできるようになったが、悲しいことにばあやはできないことが少しずつ増えていった。その事実に私は、ばあやとの時間はもうそんなに残っていないのだと薄々感じ取っていた。そんな中、ばあやは私の髪を梳きながら言った。
「私は貴方の他に二人、春告げ様のお世話をしました。その中で貴方は一番素直で、優しい子。少しは我儘を言っても良いのですよ」
それを聞いた瞬間、私の唇は開きかけた。私は自分の名前を呼んで欲しかった。私はナマエで、ただの人間だ。それでも私は、この優しい老婦人に我儘を言って嫌われるのが怖かった。
「我儘なんて言わないわ、だって私は幸せだもの」
鏡に映った私は微笑んだ。長年で培った余所行きの上手な作り笑いはこのときも遺憾なく発揮してくれたようで、自分の浮かべた綺麗な笑顔に安心した。しかし、そのとき意図的にまっさらにしていた私の心にぽつっと悪い芽が生えてしまった。ほんのちょっとでいい。悪いことをして、誰かに叱られたい。他愛のない悪戯をして、駄目だって優しく笑われたい。
その日を境にばあやの姿を見なくなった。変わりに寄こされる私の世話係は曜日によってローテーションを組まれていて、皆その役目を押し付け合っているようだった。最低限しか喋らない無口な女性にばあやのことを尋ねると、どうやら彼女は亡くなったという。
そのとき、私の中で張り詰めていた糸がぷつん、っと切れた。頭の中でばあやの最後の言葉が頭に浮かんでは消えた。
そして、私は決めたのだ。
悪いことをしよう。
私の短い人生で、最初で最後の、悪いことを。
今まで模範的な生活を送っていた私の見張りはだいぶ手薄になっていたので、あっさりと離宮から逃げ出すことができた。そもそも、厄介者の春告げ鳥の世話などしたくないのでこの離宮に人は最低限しかいないのだ。
逃げた先で柄の悪い男たちに何故か追いかけられるというアクシデントもあったが、そこで私は不思議な男に出会った。身の丈程の大きな刀を持ったその男からはどことなく海の匂いがして、きっと彼は私と違って自由な旅人なのだろう。私に背を向け、遠くなっていく後姿を見ながら私は彼を羨ましく思った。彼に背を向けられていて良かった。見ず知らずの女に、羨ましそうで未練がましい視線を向けられていたら良い気分はしないだろう。
彼の背を見送った私は、これからのことを考えた。悪いこと、といってもあの離宮を出てきた時点でそれはもう達成されたのも同義なのだ。では、何をするべきか。多分、これが最初で最後の自由だ。今回は初犯だから成功したものの、連れ戻されれば監視の目は増えるだろう。せっかくだから、悔いの残らないようにしたい。
実は、私にはずっと気になっていたことがあった。父や母はどうしているのだろうか。私はこっそりとばあやから両親の住所を聞いていたので、両親がカトラという夏島に引っ越したことを知っていた。
どうせ、鳥として死ぬのだ。誰か一人でも良いから人間だった私のことを覚えていてはくれないだろうか。そうだ、両親に会いに行こう。そうと決まれば船代を稼がねば。手っ取り早く稼ぐために私は空き缶を拾った。
幼いころのように、掃除や靴を磨いてお金を稼ぐのには時間がかかりすぎるからだ。仕事に行く途中に公園で歌が上手い人や手品師が芸を見せてお金を貰っているところを見たことがある。十数年間厳しいレッスンを受けてきた私なので、きっと旅費の足しになるくらいは稼げるだろう。そうでないと、王宮の教師全員が無能ということになる。
数曲歌って人が集まり過ぎる前に逃げた私は、思ったよりもお金を稼げたことに妙な達成感を感じていた。そのお金でカトラ行きの船に無事に乗ることができ、私の悪の逃避行も順調かと思った。
しかし、現実はそんなに甘くなかった。私の乗った船は海賊に攻め込まれ、脱出しようとしている人々を手伝っていたら私は見事に逃げ遅れた。乗込んできた海賊から隠れて過ごしていたら海軍がやってきたので奴らは逃げて行ったが、それに気付くのが遅れた私は出ていくタイミングを見失って一人この船に取り残された。私は途方に暮れた。
今は自由を謳歌している私だが、目的が済んだらフレジアに戻って春を呼んで死ぬつもりだった。こんなところで人生を終えるなど想定外にも程がある。
焦るあまり、私は誰もいなくなった船内を歩き回った。何かここから助かる術はないだろうか。
そして、そこで私は再び彼と出会ったのだ。あの不思議な旅人に。それから、色々あって薬を飲むことをすっかり忘れていた私は発作を起こして気を失い、気付いたときには病室の中にいた。
「お前、名前は」
旅人改めロー先生は私にそう尋ねた。
十年以上呼ばれていなかった名前を尋ねられたとき、私がどんなに嬉しかったのか貴方は知らないでしょう。貴方の唇から紡がれた私の名前が音になったときのこの喜びを。
ロー先生は意地が悪かったが、この船のクルーたちは皆良い人ばかりだった。そして、暫くして私はどうやら間違いを犯していたことを知った。ロー先生は医者ではなく海賊だったらしい。それを聞いた当初は驚いたが、言われてみれば色々と納得だった。確かにお医者様はあんな大きな刀を担いで歩かない。
優しい彼らは、私をカトラまで乗せてくれるそうだ。私はこの船で過ごすうちにこう思っていた。もう少し、この船に乗れたら。この船に乗っている意地は悪いが不器用な人の隣にいたかったが、流石にそれは我儘すぎる。
船を降りた私は踏ん切りをつけるため、ばあやから聞いた住所を頼りに両親の家を探すことにした。自分を鼓舞するために小さく歌を口ずさみながら。花の名前が歌詞にふんだんに使われたこの歌は、幼い頃に機嫌のよいときに母が歌ってくれたものだ。曲名はしらないが、私はこの唄のことを“花の唄”と勝手に呼んでいた。
ばあやから聞いていた住所は大雑把なものだったので、一軒一軒それらしき家の表札を見て庭や窓の中を覗き込んでは目的の家を探す。傍から見たら確実に不審者だ。幸い通報される前に、目的の家に辿り着くことができた。
白い壁にかかった表札は、懐かしい私の苗字だ。家の中は見えないだろうか。父はこの時間はいないかもしれないが、母はいるのではなかろうか。少しでも家の中が見えないかと、壁の前でぴょんぴょんバッタのように飛び跳ねていると、私の耳に足音が聞こえてきた。やばい、こんなところ見られたら通報されてしまう。焦った私はぴたりと動くのを止めて、何事もなかったかのように足音のする方を見た。すると、向こうから十歳くらいの子供の手を引いた女性が歩いてくるのが見えた。
ばっちりと目が合ったその人は、紛れもなく私の母だった。年を取った母の姿はだいぶ穏やかで、いつも父と喧嘩ばかりしていたあの剣幕が嘘のようだった。雰囲気もだいぶ丸くなっている。私は一目で母だと分かったのだが、母は違ったようだった。
「どなた?」
その三文字の言の葉は、私をどん底に突き落とすのに十分な威力を持っていた。私は込み上げてくるものをぐっと堪えると、それを押し殺して微笑んでみせた。笑いたくないときに笑顔を作るのは得意な私は、今回もきっと綺麗に笑えているに違いない。
「すみません、知り合いが住んでいると聞いたんですけど、どうやら住所が間違っていたみたいです」
この十年で私はみすぼらしいスラム街の子供からだいぶ変わってしまった。私の変化は母の変わりようの比ではない。鋭いロー先生だって、私のことを貴族の娘だと思い込んでいるのだ。
しかし、実の母なら気付いてくれるのではないかという甘い期待があった。結果は惨憺たるものだ。あのとき、金銭を受け取っている両親を見ないようにした。現実から目を背けるのに必死だった。けれども、フレジアから両親が引っ越した時点で私は薄々気が付いていたのだ。両親は、私のことを忘れて別の世界で楽しく暮らしているのだと。
そして、私はきっと、誰の記憶にも残らずに春を呼んで死ぬのだ。
本当は、春を呼びたくなんかなかった。
でも、投げ出すことはできない。私はその日の為に、鳥籠の中で何一つ不自由なく生活してきたのだ。誰かが犠牲にならなくてはいけない。だけれども、帰りたくない。いっそこのままこの綺麗な夜の海にでも溶けてしまえたらどんなに良いだろう。綺麗な思い出だけ抱いて。私は小さく“花の唄”を歌った。
馬鹿みたいにその歌を繰り返し歌っていると、不意に後ろからロー先生の声がした。ロー先生は本当に不思議な人だった。私が困っているときに必ず現れるのだ。だから、とくに驚かなかった。
それから、ぽつ、ぽつ、と他愛のない話をした。ロー先生は私の目的もその結果も何も聞いてこなかった。ただ、隣にいてくれた。そして彼は過去のことではなくこれからのことを聞いてきた。
でも、私の未来など決まっているのだ。
「まだ万全じゃねェ。治るまで、おれが診てやる」
ロー先生は不器用だけれど優しい人だった。どこまで私のことを理解しているか分からないが、彼は私に逃げ道と理由をくれた。私に優しくしてくれたように、自分にも優しくしてあげればいいのに。冬の残る彼の双眸を見て、私はそう思ったものだった。
彼は私の心も救ってくれたし、私の身体も助けてくれた。
今まで飲んでいた薬は身体に合わなかったのか、ロー先生の薬を飲んだらあの発作は出なくなったのだ。しかし、ロー先生の薬は本当に不味かった。本人は「良薬は口に苦い」なんて言っていたが正にその通りだ。私は下水を流れるヘドロなど食べたことはないが、きっと食べてみたならこの薬と同じ味がするに違いないと思っている。外見はロー先生の船と同じ綺麗な黄色なのに、どうしてここまで明暗が分かれたのか甚だ疑問だ。
私は知っていた。私が飲んでいたものがただの“薬”ではないことを。だって、あの薬を見ると毎回怖いものを見るのだ。真っ白な雪。世界を白く塗りつぶそうと、止むことを知らずにひたすら降り注ぐそれが私はとても恐ろしかった。寒くて、寒くて凍えそうで怖い。でも一番怖い理由は。
「雪が降ったら全てが終わるもの」
フレジアも。私も。
ついに言ってしまった。だから、きっと罰が当たったのだ。ここにきてからご無沙汰だった発作が起こった。
この発作はいつも息が苦しくなって、立てなくなる。それから苦しくて生理的な涙で歪む視界の端をちらちらと白いものが振ってくるのだ。現に今もロー先生の部屋に雪が降り始めた。室内だからそんなことある訳がないのに。この発作が起きたとき、私はいつも小さくなって痛みや寒さに堪えながら薬を飲んでいた。苦しくて、誰かに助けて欲しかった。でもそんなこと言っても誰も助けてくれないし困らせるだけだ。それにしても寒い。降り積もった雪は既に私の膝を包み込んでいた。
そのとき、ぐいっと誰かに身体ごと引っ張られた。誰か、なんてここには私とロー先生しかいない。気付いたら私はロー先生の腕の中にいた。彼はまるで幼子をあやすように、腕を背に回してぽんぽんと優しく私の背を叩いてくれた。ぐっと密着して感じるのは温もりだった。人の肌はこんなにも優しくて、温かいものなのか。背を叩くリズムに合わせて息を整えると、辺りの雪は止んで足元の雪原は解けていた。
ロー先生は海賊だが、きっと医者として生きていたのならとんでもなく名医だったに違いない。朝早くからきっと彼の病院には長蛇の列ができるのだ。だって、彼は薬を使わずとも私の発作を止めて温めてくれた。それをそのまま言葉にすると、彼は複雑な顔をしていた。褒めたのに何故。困惑する私とロー先生の目がふとかち合った。彼の静かな琥珀の瞳には私が映っていて、その姿はどんどん大きくなる。ロー先生が顔を近づけてきたからだ。流石の私も何をされるのか分かった。そして、それはいけないことだと知っているので、慌てて私はそれを阻止した。心のどこかでそれを残念に思う私がいたが、それについては考えないようにした。
きっとロー先生は私にキスをするつもりだったのだ。
離宮にいたころ、私の娯楽は本だけだった。古ぼけたロマンス小説を読んで、ヒロインとヒーローの素敵なキスシーンに夢を膨らませる私にばあやは困ったように微笑んだものだ。
「貴方は神様の前で歌うのですから、綺麗な身体じゃないと駄目ですよ」
キスをしたら綺麗じゃなくなるのかしら。この本の主人公は汚れてしまったの?と幼い私は内心首を傾げたがばあやが言うのならそうなのだろう。だから、私は無邪気に問うた。
「じゃあ、私はいつになったらキスができるの?」
「そうですね、結婚したら」
よくよく考えると、ばあやのこの発言はだいぶ酷い。春を呼ぶために死ぬ私が、結婚なんてできるわけがないのだ。とはいえ、ここまできて資格を失うわけにはいかない。私とて断腸の思いだったのに、私に拒まれたロー先生はめちゃくちゃ怖かった。これには納得がいかない。
それからは楽しいことばかりだった。
憧れだったショートケーキは離宮で一人で食べても大して美味しくなかった。でも、不格好だけどロー先生の優しさが乗っかったこのケーキは凄く美味しかった。
このまま、時が止まればいいのに。
私は心のそこからそう思うようになっていた。
そんな私に“逃げるな”とでもいうように、それはやってきた。フレジアに冬が来たのだ。
雪が降ったのなら私は帰らなければいけない。どうせ言うなら早い方が良い。皆がいなくなった青空の元、私は意を決してロー先生に船を下ろして欲しいと頼んだ。お伽噺のような私の話を聞いたロー先生は、きっと静かに怒っていた。
「おれは、お前のそういうところが嫌いだ」
決して好きとは言わないのに、寧ろ真逆のことを言っているのに、心配してくれているのだと分かってしまう。そんな彼が私は途方も無く好きだった。少しでいい。この人に触れたい。こんこんと湧き出てくるようなこの感情を、もう止めることはできなかった。直接触れなければ良いのだと、私の中の悪魔が囁いた。それは咄嗟に思いついたものだったが、我ながらとても名案だった。
それに、散々いじめられたのだから最後ぐらいやり返してみても良いだろう。
洗いたてのレースのショールをそっとロー先生の頭に被せ、唇を彼に近付けた。軽く、一瞬だけ口付けた彼の唇は思ったよりも柔らかかった。直に触れられたらどんなに幸せなのだろう。私はそう思いながら、優しくショールを上げた。そこから覗いたロー先生の顔は目を丸くして時を止めていた。いつもの落ち着いて大人びた彼とは違って、まるで子供みたいだった。
ああ、愛しいってこういう気持ちなのか。
「今までありがとう、トラファルガー・ロー“船長”。貴方の航路に祝福を」
誰かが、私の死を悼んでくれるのなら。
この不器用な人の心に一瞬でも住めたのなら、私の人生も捨てたものではない。
でも。
もし、次があるのなら。
もっと、自分に正直になりたい。いい子の仮面なんか遠い海に放り投げて、欲しいものは欲しいって言えて、嫌なものは嫌だって言えて、笑いたいときにしか笑わない、そんな人間になりたい。できたら、この不器用で優しい人の隣で。
そんな未来を想像して笑ってしまった。そんなもの、ただの夢物語だ。
現実に帰るべく私は爽やかな潮風を吸い込むと、春を呼ぶ為に一歩を踏み出した。
「いい子ね」
それは私にとって呪いの言葉だった。
今でこそ何不自由なく極上の暮らしをしている私であるが、幼少時代はいつもお腹を空かせていた記憶ばかり。鳥がらのように痩せ細り、あばらの浮いた子供だった。毎日一切れのパンの為に煤だらけになって煙突を掃除し、他人の靴を沢山磨いて、その日その日を懸命に生きていた。
フレジアは“常春の国”と呼ばれている。それは嘘ではない。ただ、国の全てが豊かで楽園ではないだけだ。フレジアの景色は国の中央にある鉱山を境に少しずつ世界が変わっていく。港に近い国の南部は華やかで輝いているが、その逆の北に向かうと少しずつ建物も道路も古びて貧しいものになっていくのだ。そんな掃きだめのような場所が、私の生まれ育ったスラム街だった。
仕事が終わって家に帰ると父と母は喧嘩ばかりしていて、二人の声が聞こえないところに隠れて私はよく歌を歌って過ごした。歌を歌うのは好きだ。スッキリするし、楽しい気分になれるし、お金もかからない。ただ一つ欠点があるとすれば、それはお腹が空くことだ。私は日中に見かけた苺の乗ったショートケーキを思い出して溜息を吐いた。一度でいいからあんな贅沢なものを食べてみたい。それが幼少時代の私の夢だった。
私が10歳の頃だ。前触れもなく、白く冷たい真綿のようなものが空から降って来た。この国に終わりをもたらすそれを、大人たちは“雪”と呼んだ。雪はいつまでも降り続ける。粗末な私たちの家は屋根に積もる雪の重さにいつ潰されてもおかしくはない。私の仕事は掃除から雪かきになった。綺麗なのは見かけだけで、冷たく重いだけの雪が私は何より嫌いだった。この白はまるで、世界でも塗り潰そうとしているようだ。いっそのこと、塗り潰してくれれば良いのに。私は悴む手を吐息で温めて鈍色の空を仰いだ。
しかし、ある日に雪はぴたりと止んだ。フレジアは、今までの灰色が嘘だったように美しい青色の空を取り戻した。大人たちは「春告げ鳥が春を呼んだ」と言って喜んでいた。意味が分からなかったが、母も父も大人たちは皆喜んでいたのでとりあえず私も喜ぶことにした。雪かきから解放されたことは少なくとも喜ばしいことだったし。
全ての雪が解けたころ、スラム街のこどもたちが広場に集められた。どの子も私と同じか少し年上くらいで、皆女の子だった。男の子は誰もいなかった。
身なりの良い服を上品に着こなした大人たちは言う。
「次の“春告げ鳥”を選びにきた」のだと。
今になって考えると、スラム街で後腐れの無い孤児同様の子供たちを体の良い生贄にしたかったに違いない。大人たちは集めた子供達に何故か歌を歌わせた。そして私は、集められた子供たちの中で一番歌が上手いという理由で“春告げ鳥”に選ばれた。
「貴方は自慢の娘よ。春告げ様になれば、何一つ不自由なく暮らせるわ」
“春告げ鳥”となった子供は王宮の離宮で暮らすことになるそうだ。私が親元を離れ、王宮に上がる日に母は私を抱きしめてくれた。「いい子ね」そう囁いた母が、政府から大量の金貨や紙幣を受け取っているのを私は知っていた。だけれども、私は知らないフリをした。親に売られた惨めな子供にはなりたくなかったからだ。
離宮に上がると、今までの暮らしとは世界がまるで違った。ぴったりと閉まって風を通さない窓、隙間の無い壁、お湯の出る蛇口、天蓋付きの柔らかで温かいベッド、お洒落な服が沢山詰め込まれた棚。最初は環境に慣れずに部屋の隅でわざわざ持ち込んだ羽毛布団にくるまって眠った。敷布団は無いのに、私が今まで寝ていた寝床よりも断然心地良い。今頃父や母はどうしているのだろうか、例え売られたとしても幼少期の世界の全ては“親”で埋め尽くされていることが殆どだ。私も少なからずそうであったので、両親のことが気になっていた。
しかし、ぼんやりと両親のことを考えて過ごす時間は私には与えられなかった。日中は国中から集められた先生たちに礼儀作法や音楽を叩きこまれたのだ。もう少し大きくなったら、フレジア王家の前で歌ったりすることもあるそうだ。まるで、見世物みたい。ああ、そうか。私はもう人間では無いのだ。だって、私の周りの大人たちは皆私のことを名前で呼ばない。
「春告げ様」
皆、私のことをそう呼んだ。
「私、そんな名前じゃないわ」
「いいえ、貴方は“春告げ様”です」
勇気を出してみたのだが、大人たちは冷たい目をして相手にしてくれなかった。私は賢くはないが馬鹿でもなかったので、大人たちはスラム街出身の子供である私を内心見下して疎んじているのだということが分かってしまった。形式上は恭しいのだが、そこに温度は無い。その中で唯一優しくしてくれたのは、私のお世話係の老婦人だった。
彼女はここでずっと“春告げ鳥”の世話をしているという。当然のように私は彼女に懐いた。ここでは“ばあや”だけが私の味方で心の拠り所だった。十年以上、私の話し相手はばあやだけだった。しかし、子供の十年と老人の十年がもたらす重みは違う。私は礼儀作法や沢山の歌、色々なことを覚えてできるようになったが、悲しいことにばあやはできないことが少しずつ増えていった。その事実に私は、ばあやとの時間はもうそんなに残っていないのだと薄々感じ取っていた。そんな中、ばあやは私の髪を梳きながら言った。
「私は貴方の他に二人、春告げ様のお世話をしました。その中で貴方は一番素直で、優しい子。少しは我儘を言っても良いのですよ」
それを聞いた瞬間、私の唇は開きかけた。私は自分の名前を呼んで欲しかった。私はナマエで、ただの人間だ。それでも私は、この優しい老婦人に我儘を言って嫌われるのが怖かった。
「我儘なんて言わないわ、だって私は幸せだもの」
鏡に映った私は微笑んだ。長年で培った余所行きの上手な作り笑いはこのときも遺憾なく発揮してくれたようで、自分の浮かべた綺麗な笑顔に安心した。しかし、そのとき意図的にまっさらにしていた私の心にぽつっと悪い芽が生えてしまった。ほんのちょっとでいい。悪いことをして、誰かに叱られたい。他愛のない悪戯をして、駄目だって優しく笑われたい。
その日を境にばあやの姿を見なくなった。変わりに寄こされる私の世話係は曜日によってローテーションを組まれていて、皆その役目を押し付け合っているようだった。最低限しか喋らない無口な女性にばあやのことを尋ねると、どうやら彼女は亡くなったという。
そのとき、私の中で張り詰めていた糸がぷつん、っと切れた。頭の中でばあやの最後の言葉が頭に浮かんでは消えた。
そして、私は決めたのだ。
悪いことをしよう。
私の短い人生で、最初で最後の、悪いことを。
今まで模範的な生活を送っていた私の見張りはだいぶ手薄になっていたので、あっさりと離宮から逃げ出すことができた。そもそも、厄介者の春告げ鳥の世話などしたくないのでこの離宮に人は最低限しかいないのだ。
逃げた先で柄の悪い男たちに何故か追いかけられるというアクシデントもあったが、そこで私は不思議な男に出会った。身の丈程の大きな刀を持ったその男からはどことなく海の匂いがして、きっと彼は私と違って自由な旅人なのだろう。私に背を向け、遠くなっていく後姿を見ながら私は彼を羨ましく思った。彼に背を向けられていて良かった。見ず知らずの女に、羨ましそうで未練がましい視線を向けられていたら良い気分はしないだろう。
彼の背を見送った私は、これからのことを考えた。悪いこと、といってもあの離宮を出てきた時点でそれはもう達成されたのも同義なのだ。では、何をするべきか。多分、これが最初で最後の自由だ。今回は初犯だから成功したものの、連れ戻されれば監視の目は増えるだろう。せっかくだから、悔いの残らないようにしたい。
実は、私にはずっと気になっていたことがあった。父や母はどうしているのだろうか。私はこっそりとばあやから両親の住所を聞いていたので、両親がカトラという夏島に引っ越したことを知っていた。
どうせ、鳥として死ぬのだ。誰か一人でも良いから人間だった私のことを覚えていてはくれないだろうか。そうだ、両親に会いに行こう。そうと決まれば船代を稼がねば。手っ取り早く稼ぐために私は空き缶を拾った。
幼いころのように、掃除や靴を磨いてお金を稼ぐのには時間がかかりすぎるからだ。仕事に行く途中に公園で歌が上手い人や手品師が芸を見せてお金を貰っているところを見たことがある。十数年間厳しいレッスンを受けてきた私なので、きっと旅費の足しになるくらいは稼げるだろう。そうでないと、王宮の教師全員が無能ということになる。
数曲歌って人が集まり過ぎる前に逃げた私は、思ったよりもお金を稼げたことに妙な達成感を感じていた。そのお金でカトラ行きの船に無事に乗ることができ、私の悪の逃避行も順調かと思った。
しかし、現実はそんなに甘くなかった。私の乗った船は海賊に攻め込まれ、脱出しようとしている人々を手伝っていたら私は見事に逃げ遅れた。乗込んできた海賊から隠れて過ごしていたら海軍がやってきたので奴らは逃げて行ったが、それに気付くのが遅れた私は出ていくタイミングを見失って一人この船に取り残された。私は途方に暮れた。
今は自由を謳歌している私だが、目的が済んだらフレジアに戻って春を呼んで死ぬつもりだった。こんなところで人生を終えるなど想定外にも程がある。
焦るあまり、私は誰もいなくなった船内を歩き回った。何かここから助かる術はないだろうか。
そして、そこで私は再び彼と出会ったのだ。あの不思議な旅人に。それから、色々あって薬を飲むことをすっかり忘れていた私は発作を起こして気を失い、気付いたときには病室の中にいた。
「お前、名前は」
旅人改めロー先生は私にそう尋ねた。
十年以上呼ばれていなかった名前を尋ねられたとき、私がどんなに嬉しかったのか貴方は知らないでしょう。貴方の唇から紡がれた私の名前が音になったときのこの喜びを。
ロー先生は意地が悪かったが、この船のクルーたちは皆良い人ばかりだった。そして、暫くして私はどうやら間違いを犯していたことを知った。ロー先生は医者ではなく海賊だったらしい。それを聞いた当初は驚いたが、言われてみれば色々と納得だった。確かにお医者様はあんな大きな刀を担いで歩かない。
優しい彼らは、私をカトラまで乗せてくれるそうだ。私はこの船で過ごすうちにこう思っていた。もう少し、この船に乗れたら。この船に乗っている意地は悪いが不器用な人の隣にいたかったが、流石にそれは我儘すぎる。
船を降りた私は踏ん切りをつけるため、ばあやから聞いた住所を頼りに両親の家を探すことにした。自分を鼓舞するために小さく歌を口ずさみながら。花の名前が歌詞にふんだんに使われたこの歌は、幼い頃に機嫌のよいときに母が歌ってくれたものだ。曲名はしらないが、私はこの唄のことを“花の唄”と勝手に呼んでいた。
ばあやから聞いていた住所は大雑把なものだったので、一軒一軒それらしき家の表札を見て庭や窓の中を覗き込んでは目的の家を探す。傍から見たら確実に不審者だ。幸い通報される前に、目的の家に辿り着くことができた。
白い壁にかかった表札は、懐かしい私の苗字だ。家の中は見えないだろうか。父はこの時間はいないかもしれないが、母はいるのではなかろうか。少しでも家の中が見えないかと、壁の前でぴょんぴょんバッタのように飛び跳ねていると、私の耳に足音が聞こえてきた。やばい、こんなところ見られたら通報されてしまう。焦った私はぴたりと動くのを止めて、何事もなかったかのように足音のする方を見た。すると、向こうから十歳くらいの子供の手を引いた女性が歩いてくるのが見えた。
ばっちりと目が合ったその人は、紛れもなく私の母だった。年を取った母の姿はだいぶ穏やかで、いつも父と喧嘩ばかりしていたあの剣幕が嘘のようだった。雰囲気もだいぶ丸くなっている。私は一目で母だと分かったのだが、母は違ったようだった。
「どなた?」
その三文字の言の葉は、私をどん底に突き落とすのに十分な威力を持っていた。私は込み上げてくるものをぐっと堪えると、それを押し殺して微笑んでみせた。笑いたくないときに笑顔を作るのは得意な私は、今回もきっと綺麗に笑えているに違いない。
「すみません、知り合いが住んでいると聞いたんですけど、どうやら住所が間違っていたみたいです」
この十年で私はみすぼらしいスラム街の子供からだいぶ変わってしまった。私の変化は母の変わりようの比ではない。鋭いロー先生だって、私のことを貴族の娘だと思い込んでいるのだ。
しかし、実の母なら気付いてくれるのではないかという甘い期待があった。結果は惨憺たるものだ。あのとき、金銭を受け取っている両親を見ないようにした。現実から目を背けるのに必死だった。けれども、フレジアから両親が引っ越した時点で私は薄々気が付いていたのだ。両親は、私のことを忘れて別の世界で楽しく暮らしているのだと。
そして、私はきっと、誰の記憶にも残らずに春を呼んで死ぬのだ。
本当は、春を呼びたくなんかなかった。
でも、投げ出すことはできない。私はその日の為に、鳥籠の中で何一つ不自由なく生活してきたのだ。誰かが犠牲にならなくてはいけない。だけれども、帰りたくない。いっそこのままこの綺麗な夜の海にでも溶けてしまえたらどんなに良いだろう。綺麗な思い出だけ抱いて。私は小さく“花の唄”を歌った。
馬鹿みたいにその歌を繰り返し歌っていると、不意に後ろからロー先生の声がした。ロー先生は本当に不思議な人だった。私が困っているときに必ず現れるのだ。だから、とくに驚かなかった。
それから、ぽつ、ぽつ、と他愛のない話をした。ロー先生は私の目的もその結果も何も聞いてこなかった。ただ、隣にいてくれた。そして彼は過去のことではなくこれからのことを聞いてきた。
でも、私の未来など決まっているのだ。
「まだ万全じゃねェ。治るまで、おれが診てやる」
ロー先生は不器用だけれど優しい人だった。どこまで私のことを理解しているか分からないが、彼は私に逃げ道と理由をくれた。私に優しくしてくれたように、自分にも優しくしてあげればいいのに。冬の残る彼の双眸を見て、私はそう思ったものだった。
彼は私の心も救ってくれたし、私の身体も助けてくれた。
今まで飲んでいた薬は身体に合わなかったのか、ロー先生の薬を飲んだらあの発作は出なくなったのだ。しかし、ロー先生の薬は本当に不味かった。本人は「良薬は口に苦い」なんて言っていたが正にその通りだ。私は下水を流れるヘドロなど食べたことはないが、きっと食べてみたならこの薬と同じ味がするに違いないと思っている。外見はロー先生の船と同じ綺麗な黄色なのに、どうしてここまで明暗が分かれたのか甚だ疑問だ。
私は知っていた。私が飲んでいたものがただの“薬”ではないことを。だって、あの薬を見ると毎回怖いものを見るのだ。真っ白な雪。世界を白く塗りつぶそうと、止むことを知らずにひたすら降り注ぐそれが私はとても恐ろしかった。寒くて、寒くて凍えそうで怖い。でも一番怖い理由は。
「雪が降ったら全てが終わるもの」
フレジアも。私も。
ついに言ってしまった。だから、きっと罰が当たったのだ。ここにきてからご無沙汰だった発作が起こった。
この発作はいつも息が苦しくなって、立てなくなる。それから苦しくて生理的な涙で歪む視界の端をちらちらと白いものが振ってくるのだ。現に今もロー先生の部屋に雪が降り始めた。室内だからそんなことある訳がないのに。この発作が起きたとき、私はいつも小さくなって痛みや寒さに堪えながら薬を飲んでいた。苦しくて、誰かに助けて欲しかった。でもそんなこと言っても誰も助けてくれないし困らせるだけだ。それにしても寒い。降り積もった雪は既に私の膝を包み込んでいた。
そのとき、ぐいっと誰かに身体ごと引っ張られた。誰か、なんてここには私とロー先生しかいない。気付いたら私はロー先生の腕の中にいた。彼はまるで幼子をあやすように、腕を背に回してぽんぽんと優しく私の背を叩いてくれた。ぐっと密着して感じるのは温もりだった。人の肌はこんなにも優しくて、温かいものなのか。背を叩くリズムに合わせて息を整えると、辺りの雪は止んで足元の雪原は解けていた。
ロー先生は海賊だが、きっと医者として生きていたのならとんでもなく名医だったに違いない。朝早くからきっと彼の病院には長蛇の列ができるのだ。だって、彼は薬を使わずとも私の発作を止めて温めてくれた。それをそのまま言葉にすると、彼は複雑な顔をしていた。褒めたのに何故。困惑する私とロー先生の目がふとかち合った。彼の静かな琥珀の瞳には私が映っていて、その姿はどんどん大きくなる。ロー先生が顔を近づけてきたからだ。流石の私も何をされるのか分かった。そして、それはいけないことだと知っているので、慌てて私はそれを阻止した。心のどこかでそれを残念に思う私がいたが、それについては考えないようにした。
きっとロー先生は私にキスをするつもりだったのだ。
離宮にいたころ、私の娯楽は本だけだった。古ぼけたロマンス小説を読んで、ヒロインとヒーローの素敵なキスシーンに夢を膨らませる私にばあやは困ったように微笑んだものだ。
「貴方は神様の前で歌うのですから、綺麗な身体じゃないと駄目ですよ」
キスをしたら綺麗じゃなくなるのかしら。この本の主人公は汚れてしまったの?と幼い私は内心首を傾げたがばあやが言うのならそうなのだろう。だから、私は無邪気に問うた。
「じゃあ、私はいつになったらキスができるの?」
「そうですね、結婚したら」
よくよく考えると、ばあやのこの発言はだいぶ酷い。春を呼ぶために死ぬ私が、結婚なんてできるわけがないのだ。とはいえ、ここまできて資格を失うわけにはいかない。私とて断腸の思いだったのに、私に拒まれたロー先生はめちゃくちゃ怖かった。これには納得がいかない。
それからは楽しいことばかりだった。
憧れだったショートケーキは離宮で一人で食べても大して美味しくなかった。でも、不格好だけどロー先生の優しさが乗っかったこのケーキは凄く美味しかった。
このまま、時が止まればいいのに。
私は心のそこからそう思うようになっていた。
そんな私に“逃げるな”とでもいうように、それはやってきた。フレジアに冬が来たのだ。
雪が降ったのなら私は帰らなければいけない。どうせ言うなら早い方が良い。皆がいなくなった青空の元、私は意を決してロー先生に船を下ろして欲しいと頼んだ。お伽噺のような私の話を聞いたロー先生は、きっと静かに怒っていた。
「おれは、お前のそういうところが嫌いだ」
決して好きとは言わないのに、寧ろ真逆のことを言っているのに、心配してくれているのだと分かってしまう。そんな彼が私は途方も無く好きだった。少しでいい。この人に触れたい。こんこんと湧き出てくるようなこの感情を、もう止めることはできなかった。直接触れなければ良いのだと、私の中の悪魔が囁いた。それは咄嗟に思いついたものだったが、我ながらとても名案だった。
それに、散々いじめられたのだから最後ぐらいやり返してみても良いだろう。
洗いたてのレースのショールをそっとロー先生の頭に被せ、唇を彼に近付けた。軽く、一瞬だけ口付けた彼の唇は思ったよりも柔らかかった。直に触れられたらどんなに幸せなのだろう。私はそう思いながら、優しくショールを上げた。そこから覗いたロー先生の顔は目を丸くして時を止めていた。いつもの落ち着いて大人びた彼とは違って、まるで子供みたいだった。
ああ、愛しいってこういう気持ちなのか。
「今までありがとう、トラファルガー・ロー“船長”。貴方の航路に祝福を」
誰かが、私の死を悼んでくれるのなら。
この不器用な人の心に一瞬でも住めたのなら、私の人生も捨てたものではない。
でも。
もし、次があるのなら。
もっと、自分に正直になりたい。いい子の仮面なんか遠い海に放り投げて、欲しいものは欲しいって言えて、嫌なものは嫌だって言えて、笑いたいときにしか笑わない、そんな人間になりたい。できたら、この不器用で優しい人の隣で。
そんな未来を想像して笑ってしまった。そんなもの、ただの夢物語だ。
現実に帰るべく私は爽やかな潮風を吸い込むと、春を呼ぶ為に一歩を踏み出した。