春告げ鳥と花の唄
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「あ、フレジアで雪が降ってる」
新聞を片手にそう呟いたのはシャチだった。彼は新聞を読むタイプでは無いが、新聞の片隅に載っているパズルを解くのは好きなのだ。気に入ったものだったら最後に回してもらうつもりで、一番乗りで新聞を流し見していたのである。パズルの隣の頁の隅の方に小さくその記事が載っていた。それに興味を持ったペンギンも新聞を覗き込む。
「本当だ。雪なんて降りそうになかったのにな」
新聞には“春の国の止まない大雪”の小見出しで記事がかかれている。一昨日の正午頃から粉雪がぱらぱらとずっと降り続けているらしい。新聞によると、前回の大雪から十数年ぶりだという。前回の大雪は止むのに五日程かかったので、今回もそれくらい降り続く可能性があるのでは、という物凄く簡潔な文章だった。
「じゃあ、あの鳥が歌うのかな」
造幣局の老婆から、フレジアの伝承を聞いていたベポはぽつりと呟いた。
「なんだっけ……あー、春、呼ぶ?」
怪訝な顔をして遠くを見ながら首を傾げるシャチにペンギンがぴしっと指を指す。
「“春告げ鳥”」
「それだ」
「本当にいんのかな」
鳥が春を呼ぶなんて、にわかには信じがたい話だがここはグランドライン。何が起きてもおかしくない。
「どんな鳥なんだろ」
「ピンクじゃね?」
「そのまんまだな」
思い思い想像上の“春告げ鳥”を頭に描きながら三人は遠くのフレジアに思いを馳せてみた。あの綺麗な花々が雪で散ってしまうのは何とも寂しいものがある。もし、本当にそんな鳥が存在するのなら早く春を呼んであげて欲しいものだ。
「雪止むといいね」
「そうだな」
そのとき、三人はふと視線を感じた。その視線を辿ると、そこにはナマエが立っていた。
「ナマエ?」
「どうした」
彼女は小さく「ゆき」と零すと、ゆっくりと首を振った。
「いいえ、何でもないわ」
その笑顔はいつも通り、穏やかなものだった。
フレジアに雪が降ったという話を聞いてから、彼女の様子はどこかおかしくなった。上の空でどこか遠くを見ていることが多くなったのだ。まるで、何かから逃げているように。
◇
静かな水面が穏やかな海、からっとした潮風に彩度の高いスカイブルーの空。素晴らしい青空の下、ポーラータング号は久々に海上に顔を出していた。
クルー達は甲板に出て太陽の光を浴びては思い思いに過ごしている。満足いくまで清々しい空気を肺に取り込むと、やがて彼らはあの時のように洗濯大会を始めたので、ナマエも混ざってショールを洗濯していた。彼女も洗濯物を貯めるタイプではないので、多分皆と同じことをしたかったのだろう。そんなナマエをローは甲板の上から見ていた。元から大して汚れていなかったレースのショールは水を吸って重くなっただけのようだったが、彼女は満足気だった。それだけでは飽き足らず、ナマエはローの帽子も洗おうとした。結果、水を吸って重たくなった帽子は洗濯ばさみで物干し竿代わりのロープに干されて温かな風に煽られている。
その後クルー達は前回と同じように年甲斐もなく泡だらけになって甲板を盛大に濡らしていた。楽しそうで何よりである。ナマエは参加しなかったが、ニコニコと子供のような彼らの様子を見守っていた。水浸しになった甲板は随所随所で水たまりができて太陽の光を反射して輝いている。
一通り遊び倒して満足したクルー達は各々艦内に戻っていったので、ローとナマエの二人が甲板に取り残された。
彼女の薄いレースのショールはいち早く乾いたので、ナマエは背伸びして洗濯物を取り込んだ。そして、太陽の匂いのするショールを風に舞わせながら、彼女は上機嫌でくるりと回った。
「不思議。こんなに綺麗な青空なのに、遠くのフレジアでは雪がずっと降ってる。空って繋がってるはずなのにね」
ナマエは額に手を当てて太陽の光を避けながら、どこまでも抜けるような青空を見た。
「ねえ、ロー先生」
「何だ」
洗いたてのショールを肩にかけたナマエはそっとローの隣に腰を下ろす。
「次の島で私をこの船から下ろして欲しいの」
何となくそんな予感はしていた。
「悪いこと、とやらはもう良いのか。お前、何もやってねェぞ」
「実は、私、もうしているの。悪いこと」
ぽつ、ぽつと独白するナマエにローは溜息を吐いた。
「どんな悪戯だ。どうせ、お前のことだから盗み食い程度だろ。何食った。共犯者は誰だ」
「ちょっと、貴方は私のこと何だと思ってるの。それは流石に怒るわよ」
ナマエはじとっとローを睨みつけたが、やがて彼女は眉根を下げて言った。まるで自分の罪を告白するように、その声は懺悔に満ちていた。
「“今、ここにいる”」
ざあっと一際大きな風が吹いた。ところがナマエの固い声はその爽やかな風に乗ることなく、ただ沈んでいくばかりだ。
「私、本当は外に出てはいけなかったの」
そんなことは知っていた。ナマエを取り巻く人々は薬まで使って彼女をフレジアに縛り付けようとしていたのだから、彼女が自由に出歩ける訳などないのだ。ローに拾われなければ、薬が無くなった彼女はすぐにフレジアに帰っていただろう。
「私は春告げ鳥。常春の国に冬が来たら、死ぬまで歌って春を呼ぶの」
お伽噺を聞かせるように言うナマエにローは目を細めた。意味が分からない。それを察した彼女は続ける。教師が幼い子供に物語を聞かせるような、どこか遠くで一線を引いた口ぶりで。
「あの国は数十年に一度雪が降る。放っておけば、雪はいつまでも、いつまでも振り続けるわ」
「知ってる。あの国の住民から聞いた」
その話はあの造幣局の老婆から聞いていた。
「じゃあ、春告げ鳥の話を知ってるでしょう」
「ただの伝承だろ」
「いいえ、違うわ。あの鉱山の奥にね、歌の好きな冬の神様が眠っているの。そして、神様は数十年に一度目が覚める」
「目覚めた神とやらが雪を降らせるってことか」
無神論者のローにはにわかには信じがたい話だ。
「だから、神様の前で唄うのよ。神様が再び眠るまで」
そもそも、ナマエは錠剤で摂取した毒によって人間睡眠薬になっていたのだ。歌で寝かしつけるのではなく、十中八九“春告げ鳥”に仕込んだ睡眠薬で眠らせるのだ。もし、神が存在するのなら、睡眠薬で眠らせるのは物凄く罰当たりだし、人間に盛られた睡眠薬で眠る神なんて大層な間抜けだ。
「フレジアの人達は知らないけど、春告げ鳥は鳥じゃないわ。人間なの」
ここまで聞けば、それは誰でも分かる。国民には都合の良い話を信じ込ませて、国の上の人間たちが大切なことを隠していることが。その汚い目論見に反吐が出そうだ。
「ロー先生は私が貴族の娘だと思ってるでしょう」
「実際そうだろ」
「違うわ。私、スラム街の出身なの。小さい頃はいつもお腹を空かしてたわ」
彼女は懐かしいと言わんばかりに遠くを見つめた。
「先代の春告げ鳥が役目を果たしたとき、その時点で一番歌が上手いスラム街の女の子が次の春告げ鳥になるの」
ナマエが無駄に掃除が上手い原因が分かったような気がする。彼女は“子供の頃はやっていた”と言っていた。きっと、掃除をして働いていたのだ。子供が働かなければいけない程に貧乏で、いなくなっても後腐れのない少女をわざわざ選んでいるあたりで真っ黒だ。
「そんなの体の良い生贄じゃねェか。お前はそれでいいのか」
「そうよ、私はその為に生きてきたの。たった一人の犠牲で春が呼べるのなら、そんなに素晴らしいことは無いわ」
そしてナマエは微笑んだ。慈愛も博愛も、諦めも悲しみも全てをごちゃ混ぜにして。それなのにその微笑みはこの上なくうつくしかった。
「おれは、お前のそういうところが嫌いだ」
ローはあのときナマエが消え入るように言った「全てが終わるもの」を忘れてはいない。彼女の言う“全て”は彼女自身を含んでいたのだ。
幻覚を見るほど雪を恐れているくせに。生きたいと思っているくせに。くっだらない使命感に縛られて、自分を犠牲にする。他人の為に、馬鹿を見る。そのくせに綺麗に笑ってみせる。
この女のそういうところが心底嫌いで、許せなかった。それと同時に、その愚かさがとても愛おしかった。
「私は、貴方のそういうところが好きよ」
きっとローの心境は伝わっていたのだろう。彼が投げた酷い言葉に対するナマエの声音は、ただ穏やかだった。
そして、彼女は自分の肩にかけていたレースのショールをそっとローの頭にかけた。ぼやける視界がうっすらと近づいてくる彼女のシルエットを捉える。それからレース越しに温かく柔らかい感触が唇にあたった。馬鹿みたいに真面目なこの女は、最後までそうだった。
花嫁のベールを上げる花婿のように優しく、ナマエは彼の頭にかけられたショールを上げた。クリアになったローの琥珀に映った彼女は、してやったりと悪戯っぽく笑っている。まるで、無邪気な少女のように。
幼い子供のような理屈でキスを拒んだ女のそれは、完全な不意打ちだった。だから、不覚なことにローは動けなかったのだ。
「今までありがとう、トラファルガー・ロー“船長”。貴方の航路に祝福を」
彼女の病気が治っていないというのは、ローが彼女に与えたこの船に乗るための理由だ。それはお互い暗黙の了解だった。彼女は患者でローは医者。だからナマエはローのことを先生と呼んだのだ。そんな彼女がローのことを“船長”と呼んだ。それは、遠回しの別れの言葉だった。ナマエは立ち上がると、踵を返してローに背を向けた。
心地よい空気を肺一杯に吸い込んで彼女は春を呼ぶために歩き出した。ところが数歩進んだ彼女は、その後に更にやらかしたのである。
濡れた床に足を滑らせて見事にずっこけたのだった。ローの恩人と同等の気持ちの良い転びっぷりだった。しかし、鍛えられたコラソンと比べたら彼女の装甲は紙も同然だ。
盛大に頭を打ったようで、動かなくなったナマエをローは呆然と見ていた。
◇
ローの腕の中で動かなくなった彼女はまるで、死人のようだった。冷たい身体、力が抜けて重くなった四肢。
彼女を抱き上げたローは能力で一瞬にしてポーラータング号の処置室に戻って来た。それから彼女を壊れ物でも扱うように寝台に横たえる。
そして月のように青白い光で彼女を包み、鬼哭を鞘から引き抜いた。
この女に刃物を突き立てるのは二度目だ。
一度目は義務感で。
二度目は、焦燥、恋慕、無力感、苛立ち、憤り。全てが複雑に混ざりこんだこの感情を何と呼べば良いのか、ローには分からない。
記憶を無くしたナマエは気の強いところは元来の彼女と同じで、行動の一つ一つが以前の彼女を思い出させた。
ただ、大きく違っていたのは彼女は自分の気持ちに正直だった。ローが疎ましく思っていた、彼女の嫌いだったところは残っていない。
きっとこれが本来の彼女の姿に違いない。
そう思うと記憶が戻らない方が幸せなのかもしれないとローは思ったし、現にナマエは活き活きとしていた。
だからローは彼女の犯した“悪いこと”を本当の意味で伝えなかった。それを知って、再び自分の命を投げ出す彼女を見たくなかったからだ。
正直に告白すると、彼女に記憶が戻って欲しくなかった。その癖に、彼女の中にかつての彼女を探していた。
優しくしてやるべきだった。優しくしたかった。
最初は腹の立つ女だった。世間知らずで甘ったれたローが嫌いなタイプの女だ。ところが、不思議と彼女の隣は春のように暖かくて戸惑った。激しく燃えていた激情が無くなった今、ローは自分がこれからどう生きていくべきか模索している最中だった。そんな中で偶然見つけた、気付いたら放っておけなくなって大切にしたいと思えた彼女に、酷いことを言った自覚はある。
だから、せめてもの罪滅ぼしとして記憶を無くした彼女を、毎日船の外に連れ出した。籠の中で生きてきた彼女に、色々なものを見せてやりたかったのだ。その独りよがりの考えは聡い彼女にしっかりと伝わっていたようで、彼女はときおりローのことをその瞳で咎める。今の私を見ろと。そんなのは分かっていた。しかし、今の彼女が笑うたびに、泡沫だった春がちらつく。
彼女と訪れたバーで見知らぬ女に腕を絡められたローは思った。他の女の腕を振りほどくのはこんなに簡単なのに。伸ばされてもいない彼女の腕を振りほどくことはできない。
しかし、それを見ていたナマエの行動を予測できなかったのはローの失態だった。少し目を離した隙に彼女は姿を消し、探し当てたときは全てを思い出していた。
ローが遠回しに糾弾した彼女の罪を認めて。
全てが終わり、そっとローは彼女の首筋をなぞる。
「なぁ、ナマエ」
彼女は何も言わない。
そういえば、愛する男の首を刎ねてその首を抱いて口付けをした娘の話がある。きっと首なら宝箱に簡単にしまっておけるし、この手から逃げることも無い。
けれども、ローはこの女の全てが欲しい。足が無ければ共に歩くことはできないし、腕がなければ抱きしめたときに抱きしめ返してもらうことができない。
「愛してる」
春のような女だと思っていたのに、そっと口付けた唇は雪のように冷たかった。
新聞を片手にそう呟いたのはシャチだった。彼は新聞を読むタイプでは無いが、新聞の片隅に載っているパズルを解くのは好きなのだ。気に入ったものだったら最後に回してもらうつもりで、一番乗りで新聞を流し見していたのである。パズルの隣の頁の隅の方に小さくその記事が載っていた。それに興味を持ったペンギンも新聞を覗き込む。
「本当だ。雪なんて降りそうになかったのにな」
新聞には“春の国の止まない大雪”の小見出しで記事がかかれている。一昨日の正午頃から粉雪がぱらぱらとずっと降り続けているらしい。新聞によると、前回の大雪から十数年ぶりだという。前回の大雪は止むのに五日程かかったので、今回もそれくらい降り続く可能性があるのでは、という物凄く簡潔な文章だった。
「じゃあ、あの鳥が歌うのかな」
造幣局の老婆から、フレジアの伝承を聞いていたベポはぽつりと呟いた。
「なんだっけ……あー、春、呼ぶ?」
怪訝な顔をして遠くを見ながら首を傾げるシャチにペンギンがぴしっと指を指す。
「“春告げ鳥”」
「それだ」
「本当にいんのかな」
鳥が春を呼ぶなんて、にわかには信じがたい話だがここはグランドライン。何が起きてもおかしくない。
「どんな鳥なんだろ」
「ピンクじゃね?」
「そのまんまだな」
思い思い想像上の“春告げ鳥”を頭に描きながら三人は遠くのフレジアに思いを馳せてみた。あの綺麗な花々が雪で散ってしまうのは何とも寂しいものがある。もし、本当にそんな鳥が存在するのなら早く春を呼んであげて欲しいものだ。
「雪止むといいね」
「そうだな」
そのとき、三人はふと視線を感じた。その視線を辿ると、そこにはナマエが立っていた。
「ナマエ?」
「どうした」
彼女は小さく「ゆき」と零すと、ゆっくりと首を振った。
「いいえ、何でもないわ」
その笑顔はいつも通り、穏やかなものだった。
フレジアに雪が降ったという話を聞いてから、彼女の様子はどこかおかしくなった。上の空でどこか遠くを見ていることが多くなったのだ。まるで、何かから逃げているように。
◇
静かな水面が穏やかな海、からっとした潮風に彩度の高いスカイブルーの空。素晴らしい青空の下、ポーラータング号は久々に海上に顔を出していた。
クルー達は甲板に出て太陽の光を浴びては思い思いに過ごしている。満足いくまで清々しい空気を肺に取り込むと、やがて彼らはあの時のように洗濯大会を始めたので、ナマエも混ざってショールを洗濯していた。彼女も洗濯物を貯めるタイプではないので、多分皆と同じことをしたかったのだろう。そんなナマエをローは甲板の上から見ていた。元から大して汚れていなかったレースのショールは水を吸って重くなっただけのようだったが、彼女は満足気だった。それだけでは飽き足らず、ナマエはローの帽子も洗おうとした。結果、水を吸って重たくなった帽子は洗濯ばさみで物干し竿代わりのロープに干されて温かな風に煽られている。
その後クルー達は前回と同じように年甲斐もなく泡だらけになって甲板を盛大に濡らしていた。楽しそうで何よりである。ナマエは参加しなかったが、ニコニコと子供のような彼らの様子を見守っていた。水浸しになった甲板は随所随所で水たまりができて太陽の光を反射して輝いている。
一通り遊び倒して満足したクルー達は各々艦内に戻っていったので、ローとナマエの二人が甲板に取り残された。
彼女の薄いレースのショールはいち早く乾いたので、ナマエは背伸びして洗濯物を取り込んだ。そして、太陽の匂いのするショールを風に舞わせながら、彼女は上機嫌でくるりと回った。
「不思議。こんなに綺麗な青空なのに、遠くのフレジアでは雪がずっと降ってる。空って繋がってるはずなのにね」
ナマエは額に手を当てて太陽の光を避けながら、どこまでも抜けるような青空を見た。
「ねえ、ロー先生」
「何だ」
洗いたてのショールを肩にかけたナマエはそっとローの隣に腰を下ろす。
「次の島で私をこの船から下ろして欲しいの」
何となくそんな予感はしていた。
「悪いこと、とやらはもう良いのか。お前、何もやってねェぞ」
「実は、私、もうしているの。悪いこと」
ぽつ、ぽつと独白するナマエにローは溜息を吐いた。
「どんな悪戯だ。どうせ、お前のことだから盗み食い程度だろ。何食った。共犯者は誰だ」
「ちょっと、貴方は私のこと何だと思ってるの。それは流石に怒るわよ」
ナマエはじとっとローを睨みつけたが、やがて彼女は眉根を下げて言った。まるで自分の罪を告白するように、その声は懺悔に満ちていた。
「“今、ここにいる”」
ざあっと一際大きな風が吹いた。ところがナマエの固い声はその爽やかな風に乗ることなく、ただ沈んでいくばかりだ。
「私、本当は外に出てはいけなかったの」
そんなことは知っていた。ナマエを取り巻く人々は薬まで使って彼女をフレジアに縛り付けようとしていたのだから、彼女が自由に出歩ける訳などないのだ。ローに拾われなければ、薬が無くなった彼女はすぐにフレジアに帰っていただろう。
「私は春告げ鳥。常春の国に冬が来たら、死ぬまで歌って春を呼ぶの」
お伽噺を聞かせるように言うナマエにローは目を細めた。意味が分からない。それを察した彼女は続ける。教師が幼い子供に物語を聞かせるような、どこか遠くで一線を引いた口ぶりで。
「あの国は数十年に一度雪が降る。放っておけば、雪はいつまでも、いつまでも振り続けるわ」
「知ってる。あの国の住民から聞いた」
その話はあの造幣局の老婆から聞いていた。
「じゃあ、春告げ鳥の話を知ってるでしょう」
「ただの伝承だろ」
「いいえ、違うわ。あの鉱山の奥にね、歌の好きな冬の神様が眠っているの。そして、神様は数十年に一度目が覚める」
「目覚めた神とやらが雪を降らせるってことか」
無神論者のローにはにわかには信じがたい話だ。
「だから、神様の前で唄うのよ。神様が再び眠るまで」
そもそも、ナマエは錠剤で摂取した毒によって人間睡眠薬になっていたのだ。歌で寝かしつけるのではなく、十中八九“春告げ鳥”に仕込んだ睡眠薬で眠らせるのだ。もし、神が存在するのなら、睡眠薬で眠らせるのは物凄く罰当たりだし、人間に盛られた睡眠薬で眠る神なんて大層な間抜けだ。
「フレジアの人達は知らないけど、春告げ鳥は鳥じゃないわ。人間なの」
ここまで聞けば、それは誰でも分かる。国民には都合の良い話を信じ込ませて、国の上の人間たちが大切なことを隠していることが。その汚い目論見に反吐が出そうだ。
「ロー先生は私が貴族の娘だと思ってるでしょう」
「実際そうだろ」
「違うわ。私、スラム街の出身なの。小さい頃はいつもお腹を空かしてたわ」
彼女は懐かしいと言わんばかりに遠くを見つめた。
「先代の春告げ鳥が役目を果たしたとき、その時点で一番歌が上手いスラム街の女の子が次の春告げ鳥になるの」
ナマエが無駄に掃除が上手い原因が分かったような気がする。彼女は“子供の頃はやっていた”と言っていた。きっと、掃除をして働いていたのだ。子供が働かなければいけない程に貧乏で、いなくなっても後腐れのない少女をわざわざ選んでいるあたりで真っ黒だ。
「そんなの体の良い生贄じゃねェか。お前はそれでいいのか」
「そうよ、私はその為に生きてきたの。たった一人の犠牲で春が呼べるのなら、そんなに素晴らしいことは無いわ」
そしてナマエは微笑んだ。慈愛も博愛も、諦めも悲しみも全てをごちゃ混ぜにして。それなのにその微笑みはこの上なくうつくしかった。
「おれは、お前のそういうところが嫌いだ」
ローはあのときナマエが消え入るように言った「全てが終わるもの」を忘れてはいない。彼女の言う“全て”は彼女自身を含んでいたのだ。
幻覚を見るほど雪を恐れているくせに。生きたいと思っているくせに。くっだらない使命感に縛られて、自分を犠牲にする。他人の為に、馬鹿を見る。そのくせに綺麗に笑ってみせる。
この女のそういうところが心底嫌いで、許せなかった。それと同時に、その愚かさがとても愛おしかった。
「私は、貴方のそういうところが好きよ」
きっとローの心境は伝わっていたのだろう。彼が投げた酷い言葉に対するナマエの声音は、ただ穏やかだった。
そして、彼女は自分の肩にかけていたレースのショールをそっとローの頭にかけた。ぼやける視界がうっすらと近づいてくる彼女のシルエットを捉える。それからレース越しに温かく柔らかい感触が唇にあたった。馬鹿みたいに真面目なこの女は、最後までそうだった。
花嫁のベールを上げる花婿のように優しく、ナマエは彼の頭にかけられたショールを上げた。クリアになったローの琥珀に映った彼女は、してやったりと悪戯っぽく笑っている。まるで、無邪気な少女のように。
幼い子供のような理屈でキスを拒んだ女のそれは、完全な不意打ちだった。だから、不覚なことにローは動けなかったのだ。
「今までありがとう、トラファルガー・ロー“船長”。貴方の航路に祝福を」
彼女の病気が治っていないというのは、ローが彼女に与えたこの船に乗るための理由だ。それはお互い暗黙の了解だった。彼女は患者でローは医者。だからナマエはローのことを先生と呼んだのだ。そんな彼女がローのことを“船長”と呼んだ。それは、遠回しの別れの言葉だった。ナマエは立ち上がると、踵を返してローに背を向けた。
心地よい空気を肺一杯に吸い込んで彼女は春を呼ぶために歩き出した。ところが数歩進んだ彼女は、その後に更にやらかしたのである。
濡れた床に足を滑らせて見事にずっこけたのだった。ローの恩人と同等の気持ちの良い転びっぷりだった。しかし、鍛えられたコラソンと比べたら彼女の装甲は紙も同然だ。
盛大に頭を打ったようで、動かなくなったナマエをローは呆然と見ていた。
◇
ローの腕の中で動かなくなった彼女はまるで、死人のようだった。冷たい身体、力が抜けて重くなった四肢。
彼女を抱き上げたローは能力で一瞬にしてポーラータング号の処置室に戻って来た。それから彼女を壊れ物でも扱うように寝台に横たえる。
そして月のように青白い光で彼女を包み、鬼哭を鞘から引き抜いた。
この女に刃物を突き立てるのは二度目だ。
一度目は義務感で。
二度目は、焦燥、恋慕、無力感、苛立ち、憤り。全てが複雑に混ざりこんだこの感情を何と呼べば良いのか、ローには分からない。
記憶を無くしたナマエは気の強いところは元来の彼女と同じで、行動の一つ一つが以前の彼女を思い出させた。
ただ、大きく違っていたのは彼女は自分の気持ちに正直だった。ローが疎ましく思っていた、彼女の嫌いだったところは残っていない。
きっとこれが本来の彼女の姿に違いない。
そう思うと記憶が戻らない方が幸せなのかもしれないとローは思ったし、現にナマエは活き活きとしていた。
だからローは彼女の犯した“悪いこと”を本当の意味で伝えなかった。それを知って、再び自分の命を投げ出す彼女を見たくなかったからだ。
正直に告白すると、彼女に記憶が戻って欲しくなかった。その癖に、彼女の中にかつての彼女を探していた。
優しくしてやるべきだった。優しくしたかった。
最初は腹の立つ女だった。世間知らずで甘ったれたローが嫌いなタイプの女だ。ところが、不思議と彼女の隣は春のように暖かくて戸惑った。激しく燃えていた激情が無くなった今、ローは自分がこれからどう生きていくべきか模索している最中だった。そんな中で偶然見つけた、気付いたら放っておけなくなって大切にしたいと思えた彼女に、酷いことを言った自覚はある。
だから、せめてもの罪滅ぼしとして記憶を無くした彼女を、毎日船の外に連れ出した。籠の中で生きてきた彼女に、色々なものを見せてやりたかったのだ。その独りよがりの考えは聡い彼女にしっかりと伝わっていたようで、彼女はときおりローのことをその瞳で咎める。今の私を見ろと。そんなのは分かっていた。しかし、今の彼女が笑うたびに、泡沫だった春がちらつく。
彼女と訪れたバーで見知らぬ女に腕を絡められたローは思った。他の女の腕を振りほどくのはこんなに簡単なのに。伸ばされてもいない彼女の腕を振りほどくことはできない。
しかし、それを見ていたナマエの行動を予測できなかったのはローの失態だった。少し目を離した隙に彼女は姿を消し、探し当てたときは全てを思い出していた。
ローが遠回しに糾弾した彼女の罪を認めて。
全てが終わり、そっとローは彼女の首筋をなぞる。
「なぁ、ナマエ」
彼女は何も言わない。
そういえば、愛する男の首を刎ねてその首を抱いて口付けをした娘の話がある。きっと首なら宝箱に簡単にしまっておけるし、この手から逃げることも無い。
けれども、ローはこの女の全てが欲しい。足が無ければ共に歩くことはできないし、腕がなければ抱きしめたときに抱きしめ返してもらうことができない。
「愛してる」
春のような女だと思っていたのに、そっと口付けた唇は雪のように冷たかった。