春告げ鳥と花の唄
Name Change
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「ろーせんせいのばーか」
意図的に彼から逃げ出した私であるが、我ながら短絡的なことをしてしまったと反省している。少し外を歩いて頭を冷やしたら戻るつもりだったのだ。しかし、困ったことが起きた。やみくもに歩いた為に戻れなくなってしまったのである。そう、現在の私は良い年をして迷子なのだ。誰も聞いていないので、ロー先生に暴言を吐いてしまったが馬鹿なのは私の方だ。薄暗い路地裏をぐるぐると歩くが、どこも似たような景色ばかりで気が滅入ってきた。
「きっと怒ってるだろうなぁ」
大きく溜息を吐いた、そのときだ。
「やっと見つけました」
不意に聞こえた男の声に私は立ち止まった。そして、今更ながら私は自分の首に一億という一生遊んで暮らせるような大金がかけられているのを思い出した。五億の男はちょっとやそっとじゃお縄にならないと思うが、私など彼に比べたらバーゲンセールも真っ青な程にお買い得だ。きっとこの前みたいに賞金稼ぎに違いない。振り返ったら負け、と言わんばかりに私は後ろを見ずに走り出した。当然道は分からないので勘で走った。
しかし、その逃亡はすぐに終わる。あっという間に追いつかれて、がしりと強く腕を引かれたのだ。
ビクビクしながら振り返ると、後ろには三十代後半くらいの男が立っていた。金砂の長い髪を後で一つに結って、薄いグレーの瞳は鷹のように鋭い。背もロー先生と同じくらい高く、彼よりも体つきががっしりとしていたので圧が物凄かった。賞金稼ぎというよりは、まるで厳格な騎士のような男だ。装備している防具も外套もそんな感じだった。そんな男の背後には私と同い年くらいの三人の青年が立っている。私の腕を掴む男と同じような服装だったので、同じ組織にでも属しているのだろうか。
とはいえ、見知らぬ威圧感たっぷりの男に腕を掴まれているのは嫌だし怖い。振りほどけやしないかと腕を捻じって抵抗したが、男は相当な力の持ち主のようでびくともしなかった。
「あの、離してください」
この前の賞金稼ぎと違って話はできそうだったので、俯いた私は弱々しく言った。私のなけなしの勇気も空しく男は腕を離すつもりは無いようだ。
「帰りましょう、貴方がいなくなって国は大混乱です。国は莫大な懸賞金までかけて貴方を探しています」
口調は静かだが、厳しさが目立つ男の言葉に私は目を瞬いた。貴方たちは誰、とか国ってどこのこと、とか聞きたいことは山ほどある。しかし。
「……私、殺人未遂でお尋ね者になってたんじゃないの?」
ロー先生から聞いた話とはまるで違う男の話に私は首を傾げるしかなかった。ロー先生の話では、私は誰かを殺そうとして失敗したからこの首に懸賞金をかけられたのだ。ところが、それを聞いた男たちは私と同じように困惑したようだった。男は訝しげに眉を顰め、彼の取り巻きのような三人の青年たちは露骨な程に戸惑っていた。
「貴方が殺人を?誰がそんなことを」
射抜くように鋭い瞳で男がそう問うので、恐怖を感じた私は彼から距離を取ろうと一歩後ずさる。おかげで掴まれた腕が限界まで伸びた。
「……ロー先生」
男の迫力に押されて、ぽつりと消え入りそうな声で呟くと男は「成程」と頷いた。
「あぁ、トラファルガー・ローですか。貴方のことを教えてくれた奴等から貴方と行動を共にしていたことを聞きました」
私のことを教えてくれたやつら、というのはまさかロー先生に真っ二つにされた三人組のことだろうか。すっかり忘れていたのだが、こうして私の情報をこの男たちに売れたということはあれから何とかなったらしい。余計なことしてくれるじゃないか。かなり前に抱いた複雑な気持ちは遥か彼方にすっ飛んでいき、私は彼らの不幸を願った。もっとロー先生に細かく斬って貰えば良かったのだ。
「あいつは海賊です。貴方は騙されていたんですよ」
苦々しい顔をしたこの男は記憶を無くす前の私を知っているのかもしれない。しかし、現時点では私にはどちらが正しいかなんて分からない。
「もし、私を騙していたのならきっと理由があったのよ」
それならば、私が信じたい方を信じるしかない。ロー先生は意地も性格も悪いが、少なくともその言葉の節々や行動に私に対する温かさのようなものはあった。目の前の男は口調も穏やかだし私のことを思っているように見えるが、その節々からはロー先生と違って冷たいものが感じ取れる。この段階でどちらを信じるかというのは、明白だ。
男をじとりと睨みつけると、彼は溜息を吐いて私の腕を離した。ぱっと数歩距離を取るが、背後には私を逃がさないとばかりに三人の青年が退路を塞いでいる。
「“薬”だってもう無い筈です」
そう言って男が腰につけた小さな鞄からガラス瓶を取り出した。そのガラスの小瓶の中には白い錠剤がみっちりと入っている。私の頭が一瞬ズキリと痛み、視界が真っ白に点滅した。私は本能で悟った。これは良くないモノだ。
「薬ならもう必要ないわ。お医者様が治してくれたの」
現に私は記憶を無くして目覚めてから十日近くこの薬を飲んでいないし、そんな薬など見たことが無かった。しかし、その答えは男の顔色を変えた。冷静だった男が目に見えて焦り出したのだ。とはいえ男はそれを私に悟られたくなかったに違いない。この男はあくまで私を追い詰める強者でいたいのだ。だから、彼はその表情を引き締めた。
「どれくらい飲んでいないのですか」
「多分、一週間は確実に飲んでないわ」
それを聞いた男の雰囲気ががらりと変わった。いや、今まで最低限に包んであった冷徹さが剥き出しにされたのだ。一瞬にしてピンッと張り詰めた空気に私は身体を強張らせた。
「押さえろ」
男の底冷のする声を合図に私は青年達に取り押さえられた。左右の腕をがっちりと押さえ込まれて身動きが取れない。警鐘を鳴らす本能に従って、逃げたいのに逃げられない。それなのに、男はゆっくりと私の方に近付いてくる。迫りくる恐怖から逃げるように私は俯いた。しかし、それも空しく正面に立った男は私の顎を掴んで無理やり顔を上げさせる。私の双眸に飛び込んできたのは、瓶から取り出されて男の無骨な指に摘ままれた真っ白い錠剤だ。私の本能が叫んでいる。これは危険なものだと。絶対に飲んではならないと。歯を食いしばって口を開けまいと必死に抵抗したが、鼻を摘ままれて酸素を奪われた。唇に押し付けられた白い錠剤を拒むべく閉じていた口にすぐに限界が訪れてしまう。かはっと口を開いた瞬間に錠剤を突っ込まれる。それも一粒ではない。口を押さえつけられて無理やり飲み込まされて、呼吸するためにまた口を開けたところで更に錠剤を押し込まれる。何粒飲んだかわからない。おかげで、だんだんと意識が朦朧としてきた。私を押さえつけている青年が戸惑う声も、どこか遠くで聞こえる。
「フリード隊長、急にこんなに飲ませては」
「もう時間が無い、こうなったら多少“壊れても”構わない」
そう言う男の台詞は冗談では無いのだろう。その証拠に身体が燃えるように熱い。ガンガンと頭が割れるように痛む。そして、押し寄せる吐き気。ぐるぐると回る視界に酸素を求めて喘ぐ私の脳裏に、埋もれていた記憶がどんどん引っ張り上げられていく。身体が分解されて壊されるような痛みや感覚と引き換えに、私は全てを思い出したのだ。予想外の私の苦しみ様に驚いた青年の拘束が緩くなるのと、苦しみから私が死に物狂いで暴れたタイミングが見事に重なった。
自分でもこんなに力が出たのかというほどの底力で青年の拘束を振りほどき、私を押さえ込もうとしてきた男の横っ面を殴った。窮鼠猫を噛む、とはこのことだ。男たちが怯んだ隙に、震える足を叱咤して私は立ち上がった。呆気にとられて反応が遅くなった最後の一人の横をすり抜けて私は走り出す。
しかし、万全の状態でもすぐに追いつかれたのだ。あっという間に追いつかれ、男の手が私の襟首に触れたその瞬間だった。
「来い!」
急に現れたロー先生に腕を引かれると、ぱっと視界が変わった。
勢いのままロー先生に抱きしめられた私が、彼に支えられて降り立ったのは繁華街の先程入ったバーが入っている建物の屋上だった。下界は煌々と灯る灯りで賑わっているが、屋上は明かりが無いので薄暗い。
「探したぞ、勝手にいなくなるな」
暗闇に慣れていない瞳ではロー先生の表情を読み取ることはできなかったが、その低い声音で彼が十分に怒っているのが分かった。今回の件は完全に私が悪いので、私は俯いて小声で謝った。俯いたのは、頭が重くて顔を上げることができなかったからだ。相変わらず頭はガンガンと痛むが、ロー先生の腕の中は何故か安心できたので、私は意識を保っていられた。
「ねぇ、ロー先生」
それに、意識を失う前にこれだけは確かめなければいけない。顔を上げるのは億劫だったが、ゆっくりと顔を上げるとロー先生の琥珀の瞳と視線がかち合った。彼の瞳は、こんな状況を忘れたくなるほどに綺麗で吸い込まれそうで、目を逸らすことはできなかった。
「私、人を殺そうとしたわ」
ロー先生の静かな瞳が一瞬だけ揺れた。どうして、彼が辛そうなのだろうか。私は幾度となくそう思ったし、それが不思議だった。しかし、もうその答えを私は知っている。この不器用で優しい人が、私の為に吐いた嘘の正体を。
「思い出したのか」
彼が固い声で告げるのは、私が犯した罪状だ。
「お前が殺そうとしたのは“お前自身”だ」
ああ、やっぱり。しかし、彼が真綿で包むようにして、私に教えた罪の全てが嘘ではない。
「お前は死のうとした」
そう、彼はとてつもなく優しいのだ。少なくとも彼にとっては、私があのとき取った行動はそう思えたのだろう。
そして全てが繋がった瞬間、忘れていた寒気が私を襲った。次いで再び息ができない閉塞感。鈍器で叩かれたように鈍く痛む頭に加えてこれだ。かろうじて保っていた私の意識ももう限界だった。
「ローせん、せ、寒い、苦し、い、寒い、さむ」
息も絶え絶えなのに、狂ったように寒いという私にロー先生は息を飲んだ。
「また“あれ”を飲まされたのか」
鋭いロー先生の言葉に、言葉で返す気力はもう私には無かった。私は震えながら頷いた。それに彼が小さく舌打ちしたのと、私の意識が途絶えるのは同時だった。
意図的に彼から逃げ出した私であるが、我ながら短絡的なことをしてしまったと反省している。少し外を歩いて頭を冷やしたら戻るつもりだったのだ。しかし、困ったことが起きた。やみくもに歩いた為に戻れなくなってしまったのである。そう、現在の私は良い年をして迷子なのだ。誰も聞いていないので、ロー先生に暴言を吐いてしまったが馬鹿なのは私の方だ。薄暗い路地裏をぐるぐると歩くが、どこも似たような景色ばかりで気が滅入ってきた。
「きっと怒ってるだろうなぁ」
大きく溜息を吐いた、そのときだ。
「やっと見つけました」
不意に聞こえた男の声に私は立ち止まった。そして、今更ながら私は自分の首に一億という一生遊んで暮らせるような大金がかけられているのを思い出した。五億の男はちょっとやそっとじゃお縄にならないと思うが、私など彼に比べたらバーゲンセールも真っ青な程にお買い得だ。きっとこの前みたいに賞金稼ぎに違いない。振り返ったら負け、と言わんばかりに私は後ろを見ずに走り出した。当然道は分からないので勘で走った。
しかし、その逃亡はすぐに終わる。あっという間に追いつかれて、がしりと強く腕を引かれたのだ。
ビクビクしながら振り返ると、後ろには三十代後半くらいの男が立っていた。金砂の長い髪を後で一つに結って、薄いグレーの瞳は鷹のように鋭い。背もロー先生と同じくらい高く、彼よりも体つきががっしりとしていたので圧が物凄かった。賞金稼ぎというよりは、まるで厳格な騎士のような男だ。装備している防具も外套もそんな感じだった。そんな男の背後には私と同い年くらいの三人の青年が立っている。私の腕を掴む男と同じような服装だったので、同じ組織にでも属しているのだろうか。
とはいえ、見知らぬ威圧感たっぷりの男に腕を掴まれているのは嫌だし怖い。振りほどけやしないかと腕を捻じって抵抗したが、男は相当な力の持ち主のようでびくともしなかった。
「あの、離してください」
この前の賞金稼ぎと違って話はできそうだったので、俯いた私は弱々しく言った。私のなけなしの勇気も空しく男は腕を離すつもりは無いようだ。
「帰りましょう、貴方がいなくなって国は大混乱です。国は莫大な懸賞金までかけて貴方を探しています」
口調は静かだが、厳しさが目立つ男の言葉に私は目を瞬いた。貴方たちは誰、とか国ってどこのこと、とか聞きたいことは山ほどある。しかし。
「……私、殺人未遂でお尋ね者になってたんじゃないの?」
ロー先生から聞いた話とはまるで違う男の話に私は首を傾げるしかなかった。ロー先生の話では、私は誰かを殺そうとして失敗したからこの首に懸賞金をかけられたのだ。ところが、それを聞いた男たちは私と同じように困惑したようだった。男は訝しげに眉を顰め、彼の取り巻きのような三人の青年たちは露骨な程に戸惑っていた。
「貴方が殺人を?誰がそんなことを」
射抜くように鋭い瞳で男がそう問うので、恐怖を感じた私は彼から距離を取ろうと一歩後ずさる。おかげで掴まれた腕が限界まで伸びた。
「……ロー先生」
男の迫力に押されて、ぽつりと消え入りそうな声で呟くと男は「成程」と頷いた。
「あぁ、トラファルガー・ローですか。貴方のことを教えてくれた奴等から貴方と行動を共にしていたことを聞きました」
私のことを教えてくれたやつら、というのはまさかロー先生に真っ二つにされた三人組のことだろうか。すっかり忘れていたのだが、こうして私の情報をこの男たちに売れたということはあれから何とかなったらしい。余計なことしてくれるじゃないか。かなり前に抱いた複雑な気持ちは遥か彼方にすっ飛んでいき、私は彼らの不幸を願った。もっとロー先生に細かく斬って貰えば良かったのだ。
「あいつは海賊です。貴方は騙されていたんですよ」
苦々しい顔をしたこの男は記憶を無くす前の私を知っているのかもしれない。しかし、現時点では私にはどちらが正しいかなんて分からない。
「もし、私を騙していたのならきっと理由があったのよ」
それならば、私が信じたい方を信じるしかない。ロー先生は意地も性格も悪いが、少なくともその言葉の節々や行動に私に対する温かさのようなものはあった。目の前の男は口調も穏やかだし私のことを思っているように見えるが、その節々からはロー先生と違って冷たいものが感じ取れる。この段階でどちらを信じるかというのは、明白だ。
男をじとりと睨みつけると、彼は溜息を吐いて私の腕を離した。ぱっと数歩距離を取るが、背後には私を逃がさないとばかりに三人の青年が退路を塞いでいる。
「“薬”だってもう無い筈です」
そう言って男が腰につけた小さな鞄からガラス瓶を取り出した。そのガラスの小瓶の中には白い錠剤がみっちりと入っている。私の頭が一瞬ズキリと痛み、視界が真っ白に点滅した。私は本能で悟った。これは良くないモノだ。
「薬ならもう必要ないわ。お医者様が治してくれたの」
現に私は記憶を無くして目覚めてから十日近くこの薬を飲んでいないし、そんな薬など見たことが無かった。しかし、その答えは男の顔色を変えた。冷静だった男が目に見えて焦り出したのだ。とはいえ男はそれを私に悟られたくなかったに違いない。この男はあくまで私を追い詰める強者でいたいのだ。だから、彼はその表情を引き締めた。
「どれくらい飲んでいないのですか」
「多分、一週間は確実に飲んでないわ」
それを聞いた男の雰囲気ががらりと変わった。いや、今まで最低限に包んであった冷徹さが剥き出しにされたのだ。一瞬にしてピンッと張り詰めた空気に私は身体を強張らせた。
「押さえろ」
男の底冷のする声を合図に私は青年達に取り押さえられた。左右の腕をがっちりと押さえ込まれて身動きが取れない。警鐘を鳴らす本能に従って、逃げたいのに逃げられない。それなのに、男はゆっくりと私の方に近付いてくる。迫りくる恐怖から逃げるように私は俯いた。しかし、それも空しく正面に立った男は私の顎を掴んで無理やり顔を上げさせる。私の双眸に飛び込んできたのは、瓶から取り出されて男の無骨な指に摘ままれた真っ白い錠剤だ。私の本能が叫んでいる。これは危険なものだと。絶対に飲んではならないと。歯を食いしばって口を開けまいと必死に抵抗したが、鼻を摘ままれて酸素を奪われた。唇に押し付けられた白い錠剤を拒むべく閉じていた口にすぐに限界が訪れてしまう。かはっと口を開いた瞬間に錠剤を突っ込まれる。それも一粒ではない。口を押さえつけられて無理やり飲み込まされて、呼吸するためにまた口を開けたところで更に錠剤を押し込まれる。何粒飲んだかわからない。おかげで、だんだんと意識が朦朧としてきた。私を押さえつけている青年が戸惑う声も、どこか遠くで聞こえる。
「フリード隊長、急にこんなに飲ませては」
「もう時間が無い、こうなったら多少“壊れても”構わない」
そう言う男の台詞は冗談では無いのだろう。その証拠に身体が燃えるように熱い。ガンガンと頭が割れるように痛む。そして、押し寄せる吐き気。ぐるぐると回る視界に酸素を求めて喘ぐ私の脳裏に、埋もれていた記憶がどんどん引っ張り上げられていく。身体が分解されて壊されるような痛みや感覚と引き換えに、私は全てを思い出したのだ。予想外の私の苦しみ様に驚いた青年の拘束が緩くなるのと、苦しみから私が死に物狂いで暴れたタイミングが見事に重なった。
自分でもこんなに力が出たのかというほどの底力で青年の拘束を振りほどき、私を押さえ込もうとしてきた男の横っ面を殴った。窮鼠猫を噛む、とはこのことだ。男たちが怯んだ隙に、震える足を叱咤して私は立ち上がった。呆気にとられて反応が遅くなった最後の一人の横をすり抜けて私は走り出す。
しかし、万全の状態でもすぐに追いつかれたのだ。あっという間に追いつかれ、男の手が私の襟首に触れたその瞬間だった。
「来い!」
急に現れたロー先生に腕を引かれると、ぱっと視界が変わった。
勢いのままロー先生に抱きしめられた私が、彼に支えられて降り立ったのは繁華街の先程入ったバーが入っている建物の屋上だった。下界は煌々と灯る灯りで賑わっているが、屋上は明かりが無いので薄暗い。
「探したぞ、勝手にいなくなるな」
暗闇に慣れていない瞳ではロー先生の表情を読み取ることはできなかったが、その低い声音で彼が十分に怒っているのが分かった。今回の件は完全に私が悪いので、私は俯いて小声で謝った。俯いたのは、頭が重くて顔を上げることができなかったからだ。相変わらず頭はガンガンと痛むが、ロー先生の腕の中は何故か安心できたので、私は意識を保っていられた。
「ねぇ、ロー先生」
それに、意識を失う前にこれだけは確かめなければいけない。顔を上げるのは億劫だったが、ゆっくりと顔を上げるとロー先生の琥珀の瞳と視線がかち合った。彼の瞳は、こんな状況を忘れたくなるほどに綺麗で吸い込まれそうで、目を逸らすことはできなかった。
「私、人を殺そうとしたわ」
ロー先生の静かな瞳が一瞬だけ揺れた。どうして、彼が辛そうなのだろうか。私は幾度となくそう思ったし、それが不思議だった。しかし、もうその答えを私は知っている。この不器用で優しい人が、私の為に吐いた嘘の正体を。
「思い出したのか」
彼が固い声で告げるのは、私が犯した罪状だ。
「お前が殺そうとしたのは“お前自身”だ」
ああ、やっぱり。しかし、彼が真綿で包むようにして、私に教えた罪の全てが嘘ではない。
「お前は死のうとした」
そう、彼はとてつもなく優しいのだ。少なくとも彼にとっては、私があのとき取った行動はそう思えたのだろう。
そして全てが繋がった瞬間、忘れていた寒気が私を襲った。次いで再び息ができない閉塞感。鈍器で叩かれたように鈍く痛む頭に加えてこれだ。かろうじて保っていた私の意識ももう限界だった。
「ローせん、せ、寒い、苦し、い、寒い、さむ」
息も絶え絶えなのに、狂ったように寒いという私にロー先生は息を飲んだ。
「また“あれ”を飲まされたのか」
鋭いロー先生の言葉に、言葉で返す気力はもう私には無かった。私は震えながら頷いた。それに彼が小さく舌打ちしたのと、私の意識が途絶えるのは同時だった。