Dear Mr.Night Blue 第一章(了)
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「納得がいかねぇ」
ばあん、と談話室兼食堂の机を叩いてシャチは吠えた。その空しい咆哮は食後の穏やかな雰囲気を一変させ、思い思いに寛いでいた面々は只事では無いシャチの様子を伺った。
「おい、新入り。こいつは誰だ?」
新入り、と呼ばれたのはつい先日とあるカジノで彼らのキャプテンが拾ってきたこどもである。ナマエはくりくりとした大きな瞳でシャチが指差した人物の名前を呼んだ。
「ペンギンさん」
シャチは一つ頷くと、今度はふわもこの白くまを指差した。
「ベポくん」
今度もシャチは大仰に頷いてみせた。そして自身に親指を向ける。
「じゃあおれは?」
「シャチ。人のこと指差しちゃダメだと思う」
どこまでも淡々とナマエは答えた。しかもダメ出し付きである。それも悔しいことに正論だった。しかし、シャチは納得いかなかった。
「なんでおれだけ呼び捨てなんだよ」
「みんな私より年上だもん」
「おれだって年上だよ!」
「私の方が強いもん」
非常に遺憾なことだがこればっかりは事実だった。先日ローに連れられたお子様が脱走騒ぎを起こしたときに偶々遭遇したシャチは、出会い頭に華麗に背負い投げられたのだ。更にのびていたところにローのシャンブルズで入れ替えられた本が上から落ちてきて踏んだり蹴ったりだった。
聞けば、このこどもはコロシアムで剣闘士をやっていたという信じがたい経歴の持ち主である。これは真顔のキャプテンジョークではないかと半信半疑だったクルーも、ドンパチをやった際に敵海賊団を制圧する速さに度肝を抜かれたものだった。
悔しい。何が悲しくて自分の腹が目線のちびっこに敬称略で呼ばれなければいけないのか。シャチは憤慨した。こうなったら責任者に問いただす必要がある。
決意に燃えたシャチは我関せずを決め込み、新聞を読んでいるローをちらりと見た。視線を感じたのか、顔を上げた彼と一瞬目が合うと情けなくもシャチは震えあがった。無理。問いただすとかそんな命知らずなことおれにはできない。そんなシャチを他所に、用事は終わったかとばかりにナマエはローの元にぱたぱたと駆けていった。お前、本当にキャプテンが好きだな!おれだって負けないけど。ローの隣にちょこんと座って冒険小説を読みだしたナマエを見守りながらぎりぎりと唇をかむシャチであった。
「くっそ、あのチビなんでおれだけ……」
渋い顔をするシャチに、空気を読んで今まで言葉を発しなかったペンギンはやっと口を開いた。
「このツナギを着たとき、シャチ大爆笑してただろう。それでヘソを曲げたんじゃないか」
「そんな小せぇことで?!」
確かに、今ナマエが着ているツナギはぶかぶかで、随所随所ゴムで留めてはいるが常に引きずるようにして歩いている。造船所の女達から着なくなった子どもの頃の服を何着か貰っていたはずだが、この船のクルーが皆これを着ていると知ると、本人がこれを物凄く着たがったのだ。当然こどもに合うサイズなどあるわけが無い。
試しに着てみたナマエの有様をシャチが笑ったのが、発端であることは確かだった。他にも世間知らずなナマエにろくでも無い嘘を教え込む等色々な原因があったが、ペンギンは賢いので黙ることにした。
◇
この船で一番下っ端であるナマエはとにかくよく働く。料理の下ごしらえの手伝い、洗濯、船内の掃除。
元来真面目で働き者な性質なのか、コマネズミのように動き回っている。そして仕事の合間を見つけてはローの部屋に入り浸っていた。というか、ナマエは寝る場所が無いので現在仮の部屋としてキャプテンの部屋に居候しているのである。なんとも贅沢な。マイペースでこども好きとは到底思えないローだったが、とくに文句は無いようでナマエの好きなようにさせていた。
ペンギン曰く、このこどもは人の感情に敏く、一人になりたいときや嫌がることを上手く察知して絶妙な距離感でローの傍にいるそうだ。
え?おれには嫌なことしかしていませんけど?それって別のこどもの話?それを聞いたシャチは唸った。
そんなナマエであるが、どうやら今はキッチンで水回りの掃除をしているようだった。急ごしらえで作った踏み台に乗って鼻歌を歌っている。何も無ければ、可愛らしいただのこどもなのに。
喉が渇いたのでキッチンに立ち寄ったシャチは、ナマエの後姿を見ながらそう思うしかなかった。すると、ぴかぴかに洗った食器を戻そうとナマエが振り返った。そしてばっちりと二人の視線がかち合う。
「どうしたの」
「いや、水飲みにきただけだけど」
ナマエはとことことシャチの目の前を横切って食器棚にカップを戻そうとした。しかし、カップが納まっていた場所はナマエが戻すには高すぎた。ナマエが背伸びして背伸びして、やっと届くような位置だ。
普段のナマエなら横着せずに踏み台を移動させてそれを使うところだったが、今はシャチがいる。そんなことしたら笑われる。ツナギのサイズが合ってないだけで大爆笑されたのだ。ナマエはムッとしてこれからくるであろう不愉快な展開にそなえた。が。
「届かないんだろ、貸せよ」
シャチは笑うことなくナマエの後に立つと、ナマエが小さな手で持っていたカップを取ろうとした。しかし、意地をはったナマエはその手を振り払う。当然手から離れたカップは床へ真っ逆さまだ。
「あ」
そうして成す術もなく、ぱりんっと高い音を立ててカップは無残な姿になった。
「なんだ、なんの騒ぎだ」
「あ、キャプテンのカップが割れてる」
ひょこっと顔を出したペンギンとベポは割れて散らばった濃紺の硝子片を見ると『やっちゃったな……』と憐れむ顔をした。
そう、割れてしまったダークブルーのマグカップはローのものだったのだ。
「すまん、おれがドジッた」
「お前、それ多分キャプテン結構気に入ってたやつだぞ」
「やっぱり?あー、おれの体のパーツがバイバイしないといいけど」
「ほとぼりが冷めたら一応ひろっといてやるよ」
「暫く放置かよ。まあ、早めに謝ってくるわ」
シャチは大きなため息を吐くと、ふらっとキッチンを出て行った。その後ろ姿をナマエは茫然として見送るしかできなかった。そうして、勝手に悪い方にシャチを疑って、意地を張った挙句に迷惑をかけてしまった自分を恥じた。
◇
こんこん、と扉を叩く小さな音がした。
「入れ」
入室を許可すると、そっと扉が開く。ノックの音が軽かったので、大方ナマエだと予想していたがその通りだった。しかし、いつもはノックをせずにずかずかと入ってくるこどもが今日はドアの辺りでもじもじしている。というか、こいつはノックの存在を知っていたのか。
「あのね、キャプテン」
ナマエはおずおずと口を開いた。
「話は聞くから入って来い」
その言葉にナマエは静かに扉を閉めると、恐る恐るといった様子でローの元にやってきた。だから、いつもの威勢はどうした。普段は飛びつくようにやってくるのに、いつもの数倍の時間をかけてソファに座るローの前に立ったナマエは俯きながら言った。
「コップ割ったの私なの。だからシャチを切ったりしないで」
「そういうことか」合点がいった様子で小さく頷くと、それからローは「あいつ嘘下手すぎんだよ」とボヤいた。先程、シャチがローの部屋にやってきて「すいません、キャプテンのカップ割っちゃいました!気に入ってたやつ!」と大声で言って頭を下げた。そう言われて、ローは紺色のマグカップを思い出した。気に入ったとは明言していなかったが、しっかり気付かれていたらしい。案外良く見ているなと感心したりもした。しかし、何というかわざとらしい。声が妙に上ずっているし。これは何かあると確信したローは責めるのをやめた。それにカップ一つでゴネる年齢でもない。
「分かった。割れちまったもんは仕方がねェ。怪我は無かったか」
「……無かったですけど」
「じゃあいい。戻れ」
ローが退室を促すと、シャチはあからさまにほっとしたように部屋を出て行った。そんなシャチの共同不審な様子を思い出しながらローは顔を顰めた。
「カップ割ったぐらいで斬るかよ。お前らの中のおれはそんなにガキか」
「でも、シャチが言ってたよ。ペンギンさんも否定しなかったし」
あの二人とは近いうちに話し合う必要がある。ローはそう決めた。そういえば。
「お前、シャチのこと呼び捨てなのか」
「駄目?」
「いや、お前らの問題だから勝手にしろ」
ここでローが「駄目だ」と言えば、ナマエは二つ返事でシャチのことを『さん』付けで呼ぶだろう。ローに助けられたから恩返しをしたいと主張するこのこどもは、多分ローの言うことなら何でも聞く。馬鹿らしいので試したりはしないけれど。
そもそも、ナマエは名実ともにこどもであるがシャチはあろうことかローより年上なのだから、しっかりして欲しい。今後長い付き合いになるのだから、さっさと落ち着いてほしいというのがローの望みだった。まあ、きっとそれも時間の問題だろうが。
◇
ポーラータング号は、ナットラードの次の島に到着した。物資の補給とナマエの身の回りのものを買うためである。じゃんけんによって公平に船番を決めた結果、島に降り立ったローとナマエ、シャチの三人はまず洋裁店に向いナマエに合ったサイズのツナギをオーダーした。幸いこの島に来る途中に同業者から金品を巻き上げたので、今はそれなりに資本がある。特注サイズのツナギは明日にはできるというので、喜びのあまりか鼻歌を歌っているナマエを連れて日用品を買ったりしていると丁度昼時になった。
「キャプテン、何食いたいですか」
「スパゲッティ!」
「お前には聞いてねェ」
わーい!とナマエが両手を上げて言うので、シャチは苦い声で窘めた。んなこと言ったらおれだって肉食いたいし。こいつ、思ったよりふてぶてしいな。だんだん遠慮が無くなってきて、こどもの特権を振りかざすナマエにシャチは心の底から思った。
「それでいい」
いいんだ……。だったらおれも肉とか言っとけば良かった。特に興味無さげに答えるローに、それを聞いたナマエは嬉しそうに飛び跳ねる。そんな姿は可愛らしい無邪気なこどもで、あの鬼のような強さは何なんだとシャチは複雑な気持ちになるのだった。
「でもこの辺にそんなの出してる店ありますかね」
現在彼らがいるところはこの島の商店街の外れで、殆どの店は閉まっている。ランチタイムといった飲食店の書き入れ時に準備中の看板をかかげているということは、きっとここは夜に賑わう飲み屋街なのだろう。昼間からランチを提供している店は無さそうだ。ここで営業している店を探すか、確実に営業している店がある街の中央まで戻るか。どちらが効率的かどうかローが考えていると、ナマエが不意に腕を引っ張った。
「あそこ、開いてる」
「お前目がいいな」
ナマエが指さしているのは遥か遠くにある一軒の店だ。言われてみれば準備中の札がかかっていない。褐色の煉瓦でできたその店には、落ち着いた深緑の看板が立っていて雰囲気も悪くない。知らない街の飲食店としては次第点だ。とくに行かない理由は無いので、一行はそこに向かうことにした。
「まあ都合良くスパゲッティがあるかどうか分かんねェけど」
「オムライスでもいい」
「……節操無いなお前」
いや、そこはせめて同じ麺類で統一しろよ。意地悪を言ったのは自分であるが、あっさりと鞍替えするナマエにシャチは若干呆れた。なんて気の抜けたやりとりをナマエとシャチがしている間に三人は店に辿り着く。店のショーウィンドウにはメニューのサンプルが飾ってあった。そこに小走りで駆け寄ったナマエはじっとメニューを見渡すと、至極真面目な面持ちでこちらを振り返った。多分今日見た中で一番真剣だ。
「どうしよう、キャプテン」
「何だ」
「スパゲッティもオムライスもある」
めちゃくちゃどうでも良かった。ローはノーコメントを貫いたが、シャチはつい「知らねェよ」と溢してしまった。そんな二人を参考にならないと見切りをつけた勝手なこどもは、彼らに再び背を向けてショーケースに張り付くようにして真剣に悩んでいる。店先で立ち止まるのも迷惑になるので、ローはナマエの襟首を掴んだ。だいぶ雑な扱いである。シャチが『何だかんだ言ってキャプテンが一番ナマエを雑に扱っているのでは』と確信した瞬間だった。
「とりあえず中入って決めろ」
ベルを鳴らして店に入ると出迎えてくれたのは店員では無く、煙草の煙や酒の臭い。いらっしゃいませ、の言葉の代わりに下卑た笑い声。
「臭っ」
煙の所為で咳き込みながらナマエは吐き捨てた。店内を見渡すと、殆どの席は客で埋まっている。それも明らかに全うな客では無い。屈強な男達だ。どの男達も武器を持っていて、しかも小汚い。テーブルに足を乗せ、びしょびしょに酒を零しながら呑んでいるその男達を見て、ローとシャチは店を間違えたことを悟った。そして、店の真ん中にあるテーブル席で一際酔っぱらった赤ら顔の太った男が店員の女性に絡んでいるのを目に入れ、面倒なので関わらない方が良いと判断を下した。
しかし、ナマエだけは違った。つかつかと迷わず一人の男の元に歩いていき、低い声で一言。
「離してあげなよ、嫌がってるじゃん」
なんだこれデジャブ。そういえば、初めて出会った時もこのこどもは酔っ払いに絡まれた女を助けていた。そして今回もだ。あいつは酒に絡まれている人を助けなければ死ぬ病気にかかっているのだろうか。ローは苦々しく思った。
「なんだこのガキ」
急に現れたこどもにそう窘められた男はナマエのことを上から下まで舐めるように見て、それから鼻で笑った。
「お前、その服サイズ合ってねぇじゃねか」
そしてそれは完全にナマエの地雷だった。今、ここでのナマエは“終らない夜の街”と違って自由だ。つい最近まで戦うことが許されずやられたい放題だったが、ここでは反撃が許される。ローやシャチが聞いたら面倒だから止めろと言われるだろうけれども。売られた喧嘩を言い値で買ったナマエは鼻を鳴らした。
「デブに言われたくない。おじさんは逆に着れるサイズが無いんじゃない?」
「このクソガキ!」
“このガキ”から“このクソガキ”に見事降格である。酒で酔った赤ら顔を更に赤くさせた男からブチィっと何かが切れる音がした。ずけずけと相手の弱点をメッタ打ちにするこどもに、顛末を見守っていたシャチは真っ青になって両手で口を覆った。
確かに、急に見知らぬこどもにそう言われたら当然のリアクションだ。しかしこちらとしてはなるべく面倒は避けたいし、こんなダサい男達の相手など馬鹿馬鹿しくてやってられない。
シャチはローに小声で「連れ戻してきます」と囁くと、ナマエの元に急いだ。
「すいませんね、うちのチビが」
「離してシャチ!」
頭を掻きながらへらりと笑ってナマエの後に立ったシャチは、少女の襟首を掴んで引き寄せた。ところが、すっかり頭に血が上ったナマエは暴れて抵抗した。「こら、暴れんな!」「いやだ!」不毛な争いを今度は身内同士で繰り広げだした二人を見ていた男はどうやら別のことに注意が向いたようだった。
「なんだ、兄ちゃん!ぎゃはは、こんなガキに呼び捨てにされてやんの!」
今度はその男がシャチを嗤ったのである。それを聞いたナマエはぴたりと暴れるのを止めて、振り上げていた手を下した。この男がシャチを嗤う原因を作ったのは自分だ。だからといって、こんな男に仲間を馬鹿にされる謂れは無い。この青年と出会ってから十日も満たないが、ナマエは彼が気の良い男であることを知っている。意地を張った自分を許し庇ってくれる優しさがあることを知っている。この男に何が分かる。
「いい。笑わせとけ」
握りしめた拳を上からそっと包み込んでシャチが小声で言う。
「でも」
「なんだ逃げるのか、この腰抜け!そういやお前ら揃いのツナギを着て海賊ごっこか!」
「ごっこじゃない!」
「ナマエ、相手にすんな」
男の挑発に憤慨するナマエを引きずりながら、シャチはローが立っている入口まで戻ってきた。男が嘲笑いながら二人を目で追うと、壁に寄り掛かって心底面倒くさいといった感情を隠そうともしない年下の青年の姿が視界に入ってきた。その涼し気な姿が気に障った男は、今度は“彼”をターゲットに切り替えたようだった。
「そいつがキャプテンか。こんな腰抜けのリーダーなんて大したことねェな」
これはもう限界だった。完全に頭にきたナマエがシャチを振り切って相手に攻撃をしかけようとすると、それよりも早く何かが視界を横切って、シャチを振り切らずともナマエは自由になった。何故なら。
「もういっぺん言ってみろ」
目にも止まらぬ速さで机に乗り上げたシャチが男の顎をめがけて強烈なアッパーカットを決めたのだった。自分のことを馬鹿にされるのは構わないが、ローを侮辱したことは到底許せることでは無い。シャチの会心の一撃によって、綺麗な放物線を描いて男は飛んで行った。机や椅子を巻き込みながら地に落ちた男はぴくりとも動かず、もういっぺんどころか喋ることができない。
「シャチ……」
「よくもお頭を!!」
ナマエがあんぐりと口を開けてその有様を目に焼き付けていると、地に伏せた男の仲間の一人がシャチに殴りかかろうとしているのに気付いた。真後ろからの攻撃にシャチの反応も遅れてしまう。が。ナマエは持ち前の速さで男の懐まで潜り込むとその横っ面に思いっきりの拳をお見舞いした。ぐはっと醜い悲鳴を零し、男は仰向けに倒れた。その倒れた音を合図に、四方八方から男達が襲い掛かってきた。そうして始まる乱闘騒ぎ。ガシャン、パリンと硝子が割れ、吹き飛ばされた男達と一緒に大きな音を立てて机もひっくり返る。事の成り行きを見守っていたローは額に手を当てて大きく溜息を吐いた。
「くそっ、お前ら覚えてろよ!!」
数分後、半数以上をたった二人(内一人はこどもである)にやられたゴロツキの連中は昏倒した仲間を引きずり、お決まりの捨て台詞を吐きながら店を飛び出していった。
「おとといきやがれー!!」
「きやがれー!」
シャチが中指を立ててそう言うので、ナマエも真似して中指を立てた。こうしてこどもは悪いことを覚えていくのである。
「シャチ、ナマエ」
勝利に満足していた二人は、静かなその声に肩を跳ねさせた。
二人揃ってギギッと錆びた音がしそうな程ぎこちない動きで振り返る。その様子は笑ってしまうくらいにぴったりと息が合っていた。この二人が喧嘩ばっかりしていたのは冗談だとしか思えない。
「ハイッ」
二人は姿勢を正して返事をした。そして返事だけは良い。
「あんな馬鹿相手にするな」
「ハイ」
神妙な顔をして二人は頷いた。しかし、口ではそう返事をしておいたが、多分ローが馬鹿にされたらまた怒るだろう。つまり、二人は全く反省はしていなかった。それをしっかりと読み取ったローはその双眸を更に鋭くし、声を低くした。
「それから」
終ったと思ったら、まだ続いていた苦言に二人は再び姿勢を正した。
「ありがとうな」
溜息交じりにぽつっと呟かれた小さな声をしっかりと拾い上げた二人は感極まって叫んだ。
「キャプテン!だいすき!」
「一生着いていきます!」
あ、これ対応を間違ったなと思ったローだったが、二人が嬉しそうだったのでもう何も言わなかった。
◇
船に戻ってくると、いつも通りローはさっさと自分の部屋に引っ込んでしまった。
ナマエも子犬がご主人様の後を尻尾を振って歩くように、さっさとローに着いていっていなくなってしまうと思っていたが、こどもはローの背を一瞥しただけで動こうとしない。
「お前、いいのか。キャプテン行っちゃうぞ」
珍しいものがあるものだと首を傾げていると、ナマエが小さな両拳を握ってシャチの瞳を見つめてきた。その真っ直ぐな瞳にシャチは面食らってしまった。
「シャチ、さん」
「ん?」
「この前は、ごめんなさい。あと、庇ってくれてありがとう」
このこどもは何のことを言っているのだろう?数拍真顔で悩んだシャチは、そういえば数日前にローのカップをナマエが割ったことに思い当たった。すっかり忘れていたが、このこどもはずっとそのことが引っ掛かっていたんだろうか。いや、ちょっと待て。
「……!!お前、今おれのこと」
シャチが反応した瞬間、ナマエは逃げ出した。完全に言い逃げである。この船に乗った当初はそう呼んでいたが、久しぶりにそう呼ぶのは何だかとても照れくさい。脱兎の如く廊下を走り抜けたナマエはその勢いのままローの部屋に転がり込んだ。勿論ノックはしない。
「なにかあったのか、お前顔真っ赤だぞ」
肩で息をしていたナマエは落ち着いたローの声に過剰に反応し、半ば叫ぶように言った。
「なんでもない!!」
ローは「ふぅん」とどうでも良さそうな相槌を打ったが、一瞬どこか意地悪そうに笑ったのは多分ナマエの気の所為ではないだろう。
ばあん、と談話室兼食堂の机を叩いてシャチは吠えた。その空しい咆哮は食後の穏やかな雰囲気を一変させ、思い思いに寛いでいた面々は只事では無いシャチの様子を伺った。
「おい、新入り。こいつは誰だ?」
新入り、と呼ばれたのはつい先日とあるカジノで彼らのキャプテンが拾ってきたこどもである。ナマエはくりくりとした大きな瞳でシャチが指差した人物の名前を呼んだ。
「ペンギンさん」
シャチは一つ頷くと、今度はふわもこの白くまを指差した。
「ベポくん」
今度もシャチは大仰に頷いてみせた。そして自身に親指を向ける。
「じゃあおれは?」
「シャチ。人のこと指差しちゃダメだと思う」
どこまでも淡々とナマエは答えた。しかもダメ出し付きである。それも悔しいことに正論だった。しかし、シャチは納得いかなかった。
「なんでおれだけ呼び捨てなんだよ」
「みんな私より年上だもん」
「おれだって年上だよ!」
「私の方が強いもん」
非常に遺憾なことだがこればっかりは事実だった。先日ローに連れられたお子様が脱走騒ぎを起こしたときに偶々遭遇したシャチは、出会い頭に華麗に背負い投げられたのだ。更にのびていたところにローのシャンブルズで入れ替えられた本が上から落ちてきて踏んだり蹴ったりだった。
聞けば、このこどもはコロシアムで剣闘士をやっていたという信じがたい経歴の持ち主である。これは真顔のキャプテンジョークではないかと半信半疑だったクルーも、ドンパチをやった際に敵海賊団を制圧する速さに度肝を抜かれたものだった。
悔しい。何が悲しくて自分の腹が目線のちびっこに敬称略で呼ばれなければいけないのか。シャチは憤慨した。こうなったら責任者に問いただす必要がある。
決意に燃えたシャチは我関せずを決め込み、新聞を読んでいるローをちらりと見た。視線を感じたのか、顔を上げた彼と一瞬目が合うと情けなくもシャチは震えあがった。無理。問いただすとかそんな命知らずなことおれにはできない。そんなシャチを他所に、用事は終わったかとばかりにナマエはローの元にぱたぱたと駆けていった。お前、本当にキャプテンが好きだな!おれだって負けないけど。ローの隣にちょこんと座って冒険小説を読みだしたナマエを見守りながらぎりぎりと唇をかむシャチであった。
「くっそ、あのチビなんでおれだけ……」
渋い顔をするシャチに、空気を読んで今まで言葉を発しなかったペンギンはやっと口を開いた。
「このツナギを着たとき、シャチ大爆笑してただろう。それでヘソを曲げたんじゃないか」
「そんな小せぇことで?!」
確かに、今ナマエが着ているツナギはぶかぶかで、随所随所ゴムで留めてはいるが常に引きずるようにして歩いている。造船所の女達から着なくなった子どもの頃の服を何着か貰っていたはずだが、この船のクルーが皆これを着ていると知ると、本人がこれを物凄く着たがったのだ。当然こどもに合うサイズなどあるわけが無い。
試しに着てみたナマエの有様をシャチが笑ったのが、発端であることは確かだった。他にも世間知らずなナマエにろくでも無い嘘を教え込む等色々な原因があったが、ペンギンは賢いので黙ることにした。
◇
この船で一番下っ端であるナマエはとにかくよく働く。料理の下ごしらえの手伝い、洗濯、船内の掃除。
元来真面目で働き者な性質なのか、コマネズミのように動き回っている。そして仕事の合間を見つけてはローの部屋に入り浸っていた。というか、ナマエは寝る場所が無いので現在仮の部屋としてキャプテンの部屋に居候しているのである。なんとも贅沢な。マイペースでこども好きとは到底思えないローだったが、とくに文句は無いようでナマエの好きなようにさせていた。
ペンギン曰く、このこどもは人の感情に敏く、一人になりたいときや嫌がることを上手く察知して絶妙な距離感でローの傍にいるそうだ。
え?おれには嫌なことしかしていませんけど?それって別のこどもの話?それを聞いたシャチは唸った。
そんなナマエであるが、どうやら今はキッチンで水回りの掃除をしているようだった。急ごしらえで作った踏み台に乗って鼻歌を歌っている。何も無ければ、可愛らしいただのこどもなのに。
喉が渇いたのでキッチンに立ち寄ったシャチは、ナマエの後姿を見ながらそう思うしかなかった。すると、ぴかぴかに洗った食器を戻そうとナマエが振り返った。そしてばっちりと二人の視線がかち合う。
「どうしたの」
「いや、水飲みにきただけだけど」
ナマエはとことことシャチの目の前を横切って食器棚にカップを戻そうとした。しかし、カップが納まっていた場所はナマエが戻すには高すぎた。ナマエが背伸びして背伸びして、やっと届くような位置だ。
普段のナマエなら横着せずに踏み台を移動させてそれを使うところだったが、今はシャチがいる。そんなことしたら笑われる。ツナギのサイズが合ってないだけで大爆笑されたのだ。ナマエはムッとしてこれからくるであろう不愉快な展開にそなえた。が。
「届かないんだろ、貸せよ」
シャチは笑うことなくナマエの後に立つと、ナマエが小さな手で持っていたカップを取ろうとした。しかし、意地をはったナマエはその手を振り払う。当然手から離れたカップは床へ真っ逆さまだ。
「あ」
そうして成す術もなく、ぱりんっと高い音を立ててカップは無残な姿になった。
「なんだ、なんの騒ぎだ」
「あ、キャプテンのカップが割れてる」
ひょこっと顔を出したペンギンとベポは割れて散らばった濃紺の硝子片を見ると『やっちゃったな……』と憐れむ顔をした。
そう、割れてしまったダークブルーのマグカップはローのものだったのだ。
「すまん、おれがドジッた」
「お前、それ多分キャプテン結構気に入ってたやつだぞ」
「やっぱり?あー、おれの体のパーツがバイバイしないといいけど」
「ほとぼりが冷めたら一応ひろっといてやるよ」
「暫く放置かよ。まあ、早めに謝ってくるわ」
シャチは大きなため息を吐くと、ふらっとキッチンを出て行った。その後ろ姿をナマエは茫然として見送るしかできなかった。そうして、勝手に悪い方にシャチを疑って、意地を張った挙句に迷惑をかけてしまった自分を恥じた。
◇
こんこん、と扉を叩く小さな音がした。
「入れ」
入室を許可すると、そっと扉が開く。ノックの音が軽かったので、大方ナマエだと予想していたがその通りだった。しかし、いつもはノックをせずにずかずかと入ってくるこどもが今日はドアの辺りでもじもじしている。というか、こいつはノックの存在を知っていたのか。
「あのね、キャプテン」
ナマエはおずおずと口を開いた。
「話は聞くから入って来い」
その言葉にナマエは静かに扉を閉めると、恐る恐るといった様子でローの元にやってきた。だから、いつもの威勢はどうした。普段は飛びつくようにやってくるのに、いつもの数倍の時間をかけてソファに座るローの前に立ったナマエは俯きながら言った。
「コップ割ったの私なの。だからシャチを切ったりしないで」
「そういうことか」合点がいった様子で小さく頷くと、それからローは「あいつ嘘下手すぎんだよ」とボヤいた。先程、シャチがローの部屋にやってきて「すいません、キャプテンのカップ割っちゃいました!気に入ってたやつ!」と大声で言って頭を下げた。そう言われて、ローは紺色のマグカップを思い出した。気に入ったとは明言していなかったが、しっかり気付かれていたらしい。案外良く見ているなと感心したりもした。しかし、何というかわざとらしい。声が妙に上ずっているし。これは何かあると確信したローは責めるのをやめた。それにカップ一つでゴネる年齢でもない。
「分かった。割れちまったもんは仕方がねェ。怪我は無かったか」
「……無かったですけど」
「じゃあいい。戻れ」
ローが退室を促すと、シャチはあからさまにほっとしたように部屋を出て行った。そんなシャチの共同不審な様子を思い出しながらローは顔を顰めた。
「カップ割ったぐらいで斬るかよ。お前らの中のおれはそんなにガキか」
「でも、シャチが言ってたよ。ペンギンさんも否定しなかったし」
あの二人とは近いうちに話し合う必要がある。ローはそう決めた。そういえば。
「お前、シャチのこと呼び捨てなのか」
「駄目?」
「いや、お前らの問題だから勝手にしろ」
ここでローが「駄目だ」と言えば、ナマエは二つ返事でシャチのことを『さん』付けで呼ぶだろう。ローに助けられたから恩返しをしたいと主張するこのこどもは、多分ローの言うことなら何でも聞く。馬鹿らしいので試したりはしないけれど。
そもそも、ナマエは名実ともにこどもであるがシャチはあろうことかローより年上なのだから、しっかりして欲しい。今後長い付き合いになるのだから、さっさと落ち着いてほしいというのがローの望みだった。まあ、きっとそれも時間の問題だろうが。
◇
ポーラータング号は、ナットラードの次の島に到着した。物資の補給とナマエの身の回りのものを買うためである。じゃんけんによって公平に船番を決めた結果、島に降り立ったローとナマエ、シャチの三人はまず洋裁店に向いナマエに合ったサイズのツナギをオーダーした。幸いこの島に来る途中に同業者から金品を巻き上げたので、今はそれなりに資本がある。特注サイズのツナギは明日にはできるというので、喜びのあまりか鼻歌を歌っているナマエを連れて日用品を買ったりしていると丁度昼時になった。
「キャプテン、何食いたいですか」
「スパゲッティ!」
「お前には聞いてねェ」
わーい!とナマエが両手を上げて言うので、シャチは苦い声で窘めた。んなこと言ったらおれだって肉食いたいし。こいつ、思ったよりふてぶてしいな。だんだん遠慮が無くなってきて、こどもの特権を振りかざすナマエにシャチは心の底から思った。
「それでいい」
いいんだ……。だったらおれも肉とか言っとけば良かった。特に興味無さげに答えるローに、それを聞いたナマエは嬉しそうに飛び跳ねる。そんな姿は可愛らしい無邪気なこどもで、あの鬼のような強さは何なんだとシャチは複雑な気持ちになるのだった。
「でもこの辺にそんなの出してる店ありますかね」
現在彼らがいるところはこの島の商店街の外れで、殆どの店は閉まっている。ランチタイムといった飲食店の書き入れ時に準備中の看板をかかげているということは、きっとここは夜に賑わう飲み屋街なのだろう。昼間からランチを提供している店は無さそうだ。ここで営業している店を探すか、確実に営業している店がある街の中央まで戻るか。どちらが効率的かどうかローが考えていると、ナマエが不意に腕を引っ張った。
「あそこ、開いてる」
「お前目がいいな」
ナマエが指さしているのは遥か遠くにある一軒の店だ。言われてみれば準備中の札がかかっていない。褐色の煉瓦でできたその店には、落ち着いた深緑の看板が立っていて雰囲気も悪くない。知らない街の飲食店としては次第点だ。とくに行かない理由は無いので、一行はそこに向かうことにした。
「まあ都合良くスパゲッティがあるかどうか分かんねェけど」
「オムライスでもいい」
「……節操無いなお前」
いや、そこはせめて同じ麺類で統一しろよ。意地悪を言ったのは自分であるが、あっさりと鞍替えするナマエにシャチは若干呆れた。なんて気の抜けたやりとりをナマエとシャチがしている間に三人は店に辿り着く。店のショーウィンドウにはメニューのサンプルが飾ってあった。そこに小走りで駆け寄ったナマエはじっとメニューを見渡すと、至極真面目な面持ちでこちらを振り返った。多分今日見た中で一番真剣だ。
「どうしよう、キャプテン」
「何だ」
「スパゲッティもオムライスもある」
めちゃくちゃどうでも良かった。ローはノーコメントを貫いたが、シャチはつい「知らねェよ」と溢してしまった。そんな二人を参考にならないと見切りをつけた勝手なこどもは、彼らに再び背を向けてショーケースに張り付くようにして真剣に悩んでいる。店先で立ち止まるのも迷惑になるので、ローはナマエの襟首を掴んだ。だいぶ雑な扱いである。シャチが『何だかんだ言ってキャプテンが一番ナマエを雑に扱っているのでは』と確信した瞬間だった。
「とりあえず中入って決めろ」
ベルを鳴らして店に入ると出迎えてくれたのは店員では無く、煙草の煙や酒の臭い。いらっしゃいませ、の言葉の代わりに下卑た笑い声。
「臭っ」
煙の所為で咳き込みながらナマエは吐き捨てた。店内を見渡すと、殆どの席は客で埋まっている。それも明らかに全うな客では無い。屈強な男達だ。どの男達も武器を持っていて、しかも小汚い。テーブルに足を乗せ、びしょびしょに酒を零しながら呑んでいるその男達を見て、ローとシャチは店を間違えたことを悟った。そして、店の真ん中にあるテーブル席で一際酔っぱらった赤ら顔の太った男が店員の女性に絡んでいるのを目に入れ、面倒なので関わらない方が良いと判断を下した。
しかし、ナマエだけは違った。つかつかと迷わず一人の男の元に歩いていき、低い声で一言。
「離してあげなよ、嫌がってるじゃん」
なんだこれデジャブ。そういえば、初めて出会った時もこのこどもは酔っ払いに絡まれた女を助けていた。そして今回もだ。あいつは酒に絡まれている人を助けなければ死ぬ病気にかかっているのだろうか。ローは苦々しく思った。
「なんだこのガキ」
急に現れたこどもにそう窘められた男はナマエのことを上から下まで舐めるように見て、それから鼻で笑った。
「お前、その服サイズ合ってねぇじゃねか」
そしてそれは完全にナマエの地雷だった。今、ここでのナマエは“終らない夜の街”と違って自由だ。つい最近まで戦うことが許されずやられたい放題だったが、ここでは反撃が許される。ローやシャチが聞いたら面倒だから止めろと言われるだろうけれども。売られた喧嘩を言い値で買ったナマエは鼻を鳴らした。
「デブに言われたくない。おじさんは逆に着れるサイズが無いんじゃない?」
「このクソガキ!」
“このガキ”から“このクソガキ”に見事降格である。酒で酔った赤ら顔を更に赤くさせた男からブチィっと何かが切れる音がした。ずけずけと相手の弱点をメッタ打ちにするこどもに、顛末を見守っていたシャチは真っ青になって両手で口を覆った。
確かに、急に見知らぬこどもにそう言われたら当然のリアクションだ。しかしこちらとしてはなるべく面倒は避けたいし、こんなダサい男達の相手など馬鹿馬鹿しくてやってられない。
シャチはローに小声で「連れ戻してきます」と囁くと、ナマエの元に急いだ。
「すいませんね、うちのチビが」
「離してシャチ!」
頭を掻きながらへらりと笑ってナマエの後に立ったシャチは、少女の襟首を掴んで引き寄せた。ところが、すっかり頭に血が上ったナマエは暴れて抵抗した。「こら、暴れんな!」「いやだ!」不毛な争いを今度は身内同士で繰り広げだした二人を見ていた男はどうやら別のことに注意が向いたようだった。
「なんだ、兄ちゃん!ぎゃはは、こんなガキに呼び捨てにされてやんの!」
今度はその男がシャチを嗤ったのである。それを聞いたナマエはぴたりと暴れるのを止めて、振り上げていた手を下した。この男がシャチを嗤う原因を作ったのは自分だ。だからといって、こんな男に仲間を馬鹿にされる謂れは無い。この青年と出会ってから十日も満たないが、ナマエは彼が気の良い男であることを知っている。意地を張った自分を許し庇ってくれる優しさがあることを知っている。この男に何が分かる。
「いい。笑わせとけ」
握りしめた拳を上からそっと包み込んでシャチが小声で言う。
「でも」
「なんだ逃げるのか、この腰抜け!そういやお前ら揃いのツナギを着て海賊ごっこか!」
「ごっこじゃない!」
「ナマエ、相手にすんな」
男の挑発に憤慨するナマエを引きずりながら、シャチはローが立っている入口まで戻ってきた。男が嘲笑いながら二人を目で追うと、壁に寄り掛かって心底面倒くさいといった感情を隠そうともしない年下の青年の姿が視界に入ってきた。その涼し気な姿が気に障った男は、今度は“彼”をターゲットに切り替えたようだった。
「そいつがキャプテンか。こんな腰抜けのリーダーなんて大したことねェな」
これはもう限界だった。完全に頭にきたナマエがシャチを振り切って相手に攻撃をしかけようとすると、それよりも早く何かが視界を横切って、シャチを振り切らずともナマエは自由になった。何故なら。
「もういっぺん言ってみろ」
目にも止まらぬ速さで机に乗り上げたシャチが男の顎をめがけて強烈なアッパーカットを決めたのだった。自分のことを馬鹿にされるのは構わないが、ローを侮辱したことは到底許せることでは無い。シャチの会心の一撃によって、綺麗な放物線を描いて男は飛んで行った。机や椅子を巻き込みながら地に落ちた男はぴくりとも動かず、もういっぺんどころか喋ることができない。
「シャチ……」
「よくもお頭を!!」
ナマエがあんぐりと口を開けてその有様を目に焼き付けていると、地に伏せた男の仲間の一人がシャチに殴りかかろうとしているのに気付いた。真後ろからの攻撃にシャチの反応も遅れてしまう。が。ナマエは持ち前の速さで男の懐まで潜り込むとその横っ面に思いっきりの拳をお見舞いした。ぐはっと醜い悲鳴を零し、男は仰向けに倒れた。その倒れた音を合図に、四方八方から男達が襲い掛かってきた。そうして始まる乱闘騒ぎ。ガシャン、パリンと硝子が割れ、吹き飛ばされた男達と一緒に大きな音を立てて机もひっくり返る。事の成り行きを見守っていたローは額に手を当てて大きく溜息を吐いた。
「くそっ、お前ら覚えてろよ!!」
数分後、半数以上をたった二人(内一人はこどもである)にやられたゴロツキの連中は昏倒した仲間を引きずり、お決まりの捨て台詞を吐きながら店を飛び出していった。
「おとといきやがれー!!」
「きやがれー!」
シャチが中指を立ててそう言うので、ナマエも真似して中指を立てた。こうしてこどもは悪いことを覚えていくのである。
「シャチ、ナマエ」
勝利に満足していた二人は、静かなその声に肩を跳ねさせた。
二人揃ってギギッと錆びた音がしそうな程ぎこちない動きで振り返る。その様子は笑ってしまうくらいにぴったりと息が合っていた。この二人が喧嘩ばっかりしていたのは冗談だとしか思えない。
「ハイッ」
二人は姿勢を正して返事をした。そして返事だけは良い。
「あんな馬鹿相手にするな」
「ハイ」
神妙な顔をして二人は頷いた。しかし、口ではそう返事をしておいたが、多分ローが馬鹿にされたらまた怒るだろう。つまり、二人は全く反省はしていなかった。それをしっかりと読み取ったローはその双眸を更に鋭くし、声を低くした。
「それから」
終ったと思ったら、まだ続いていた苦言に二人は再び姿勢を正した。
「ありがとうな」
溜息交じりにぽつっと呟かれた小さな声をしっかりと拾い上げた二人は感極まって叫んだ。
「キャプテン!だいすき!」
「一生着いていきます!」
あ、これ対応を間違ったなと思ったローだったが、二人が嬉しそうだったのでもう何も言わなかった。
◇
船に戻ってくると、いつも通りローはさっさと自分の部屋に引っ込んでしまった。
ナマエも子犬がご主人様の後を尻尾を振って歩くように、さっさとローに着いていっていなくなってしまうと思っていたが、こどもはローの背を一瞥しただけで動こうとしない。
「お前、いいのか。キャプテン行っちゃうぞ」
珍しいものがあるものだと首を傾げていると、ナマエが小さな両拳を握ってシャチの瞳を見つめてきた。その真っ直ぐな瞳にシャチは面食らってしまった。
「シャチ、さん」
「ん?」
「この前は、ごめんなさい。あと、庇ってくれてありがとう」
このこどもは何のことを言っているのだろう?数拍真顔で悩んだシャチは、そういえば数日前にローのカップをナマエが割ったことに思い当たった。すっかり忘れていたが、このこどもはずっとそのことが引っ掛かっていたんだろうか。いや、ちょっと待て。
「……!!お前、今おれのこと」
シャチが反応した瞬間、ナマエは逃げ出した。完全に言い逃げである。この船に乗った当初はそう呼んでいたが、久しぶりにそう呼ぶのは何だかとても照れくさい。脱兎の如く廊下を走り抜けたナマエはその勢いのままローの部屋に転がり込んだ。勿論ノックはしない。
「なにかあったのか、お前顔真っ赤だぞ」
肩で息をしていたナマエは落ち着いたローの声に過剰に反応し、半ば叫ぶように言った。
「なんでもない!!」
ローは「ふぅん」とどうでも良さそうな相槌を打ったが、一瞬どこか意地悪そうに笑ったのは多分ナマエの気の所為ではないだろう。