Dear Mr.Night Blue 第一章(了)
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記憶の中の母は言う。
『どんなときも、誇りを持って気高く足掻きなさい』
それを聞いたとき、彼女は思った。『生きなさい』じゃないんだ。思ったことをそのまま伝えると母は笑った。不敵で強かなその笑顔は、我が母ながらとても魅力的なものだった。
『どんなどん底だろうが負けずに足掻くのよ。それは、ただ生きるよりもよっぽど力が必要で難しいことよ。だから、』
だから彼女は、誇りを持って今日も足掻くのだ。
懐かしい夢を見ていた気がする。うっすらと目を開くと、弱々しい人工的な灯りが差し込む、いつも通りの埃臭い部屋だった。この狭く檻のような部屋、そして粗悪な固い寝床に慣れてからどれくらいが経つだろう。それでも個室があるナマエはマシな方だ。
緩慢に起き上がったナマエは、軽く首を横に振って眠気を祓うと大きく伸びをした。狭い部屋だが、体の小さな彼女が伸びをするくらいの広さは十分にある。
簡素な布団から這い出て、古ぼけた置時計で時間を確認する。目覚ましなんて贅沢な機能はついていないので、体内時計だけが頼りである。今日も無事にいつも通りの時間に起きることができた。寝坊なんてした日にはどんな恐ろしいことが起きるか分からない。
くたびれた寝間着から飾り気の無いシャツとズボンに着替え、ヒビ割れた鏡を覗きこみ寝癖を整えてナマエは自室を後にした。
今日も憂鬱な一日が始まるが、ナマエは決して屈するつもりなど無かった。
『終わらない夜の街』
元は工業都市だったという街の地下にこの巨大なカジノはあった。
薄暗い地下の世界に、煩いくらいに煌々と光る不健全な人工の灯。酒や煙草の香り。人々の下卑た嗤い声や怒声。治安の悪い夜の歓楽街さながらのこの賭場を誰がそう呼び出したのかは分からない。
しかし、そう呼ばれるこの街がナマエの世界で、彼女の『檻』だった。
◇
ナマエがこの檻に閉じ込められる前、物心ついたときから彼女はこの世界を旅していた。いや、正確には色々な所を転々として生きていた。
獣の耳と尻尾を持った美しい母と、儚く可憐な一つ年下の妹と三人で贅沢とは無縁の質素な暮らしだった。父親はいなかったが、彼について聞くと母は悲しそうな顔をするのでいつしか父親の存在は忘れてしまった。それでも、笑い声の絶えない充実した日々だった。しかし、三年前にそれは唐突に終わった。妹が病に倒れたのだ。
妹の健康を慮って、放浪していた母子は景色が綺麗で空気が澄んだ街の外れに住み着いた。
母は朝も夜も働いて薬代を稼ぎ、ナマエは家事や妹の看病をして毎日過ごしていた。
母はミンク族と人間のハーフであり、常人よりも遥かに体力があったが、日に日に疲労が溜まっていっていることにナマエは気付いていた。
何よりも胸が痛いのが、母が必死にそれを隠していることだった。自分がもっと大きければ、頼りになれば母は弱音を吐いてくれたのだろうか。今となっては知る術はない。
何故なら、美しく誇り高い母はもうこの世にはいないからだ。
吐く息が白く、寒さが肌に刺さる様な冬の夜だった。
ナマエは暖炉の前に座って本を読んでいた。それはとある探検家の冒険譚だ。ナマエは好奇心が旺盛だったので、色々なところに行くのが大好きだった。どんな些細なことでも、彼女にとっては冒険に変わる。
そんなナマエの為にせめても空想の中だけは、との思いで少ない貯金を切り崩して母が買ってくれたのがこの本だった。母の想いが嬉しくて、ナマエは何度も何度もそれこそ話を覚えてしまうほど繰り返しこの本の中で冒険に出かけていた。
仕事で疲れた母は先に休んでいて、ナマエも今読んでいる話が終わったら寝るつもりだった。
ようやく一つの冒険を読み終えたナマエは、暖炉の火を消そうとした。そのとき、何かが破裂する様な轟音がしたのだ。吃驚したナマエが音のした方向を見ると、五人の人影がドカドカと土足で部屋に押し入ってきたではないか。皆知らない男達だ。数秒遅れてナマエは理解した。ノックの代わりにドアを蹴破られたのだ。ところが、突然の物騒な来客にその隙は命とりだった。
『ガキ、見っけ』
右手を掴まれ、ひょいっと荷物のように持ち上げられたナマエは濁った男の瞳に飲み込まれそうになった。怖くて声も出なかった。
『娘を離せ!』
異常事態に飛び起きた母は音も無く近づき、ナマエを捕まえていた男を後から蹴り飛ばした。態勢を崩した男にナマエは投げ飛ばされたが、運動神経の優れた彼女はしっかりと受け身を取りながら転がった。その瞬く間に母は二人の男を文字通り地に沈めた。
『くそッ』
そこで何を思ったのか、男の一人が銃口を向けた。ところが、その先には母では無く、黒い鉛の塊に狙いを定められて恐怖で固まるナマエがいた。
『ナマエ、逃げて!』
耳をつんざくような一つの銃声。ナマエは目を瞑ったが、焼けつくような痛みが彼女を襲うことは無かった。かわりに、ドサッと何か重いものが倒れるような音がした。ナマエは恐る恐る瞳を開く。視界に“それ”が入ったとき、ナマエはひゅっと息を飲んだ。
こんなのは悪い夢に決まってる。だって、そこには、ナマエの代わりに銃弾を背後から撃ちこまれ、崩れ落ちて動かなくなった母がいたのだから。
『おい、何で殺した!せっかくこのあたりにミンクの女がいるって話を聞いたのに!混血でも若い女だ、それなりに高値で売れる』
『仕方ねぇだろ、弱ってるって聞いたのに全然歯が立たなかったじゃねえか。それに、まだガキがいる』
母が倒れて混乱したナマエは男達が何を言っているのか分からなかった。ただ、じりじりと自分に近づいてくる男達の下卑た視線が恐ろしかった。
『よく見るとなんだ、外見はただの人間じゃねぇか』
ナマエはハーフの母が人間である父と結婚した結果産まれた所謂クオーターだったので、外見“は”人間と遜色無かった。ただ、外見を受け継いでいたのは。
『奥に誰かいるぞ』
『もう一匹いた。こいつは耳が獣だ!』
嘲るように言う男の視線の先には、ベッドの隅で小さく固まって震える妹がいる。男が妹に手を伸ばした瞬間、ナマエは駆けだした。その胸中にはもう怖さなんて無かった。
『妹に触るな!この子は体が弱いんだ!』
今、ナマエを突き動かすのはたった一人になってしまった家族を守ろうという想いだった。瞬時に距離を詰めたナマエは、低い姿勢から男の顎を蹴り飛ばした。続いてもう一人に足払いをかけて転倒させる。あと一人倒せば、敵はいなくなる。ナマエは最後の一人を視線で追った。しかし、それでも少しだけ遅かった。最後の一人は妹の蟀谷に銃口を当て、勝ち誇ったように言う。
『取引をしよう』
妹を楯にしたその提案は取引なんてものではなくただの脅迫でしか無かったが、大好きな妹を守る為にその条件を飲むしかなかった。
それからナマエと妹は荷物のように扱われ、船に乗ってとある島に辿り着いた。
ナマエが最後に見た夜空は、薄暗い曇に覆われた星の輝きが一つもない、ただの暗闇だった。
◇
このカジノは大きく分けて3つの区画がある。
入口に一番近いのは、トランプやルーレットの卓上ゲームのエリアだ。大小の円卓が数多く置かれ、それと同じ数の黒服のディーラーが各々のテーブルを取り仕切っている。ちなみにディーラーどころか客の半数がこの賭場の従業員、つまりサクラである。
そこを奥に進むと、沢山のスロットが規則正しく並んでいる。ひっきりなしにジャラジャラとコインが甲高い音を立て、ひどく喧しいのでナマエはこの区画があまり好きでは無い。
スロットのエリアを抜けて、だんだんと薄暗くなっていく通路を更に奥に進むと急に開けた場所に出る。フェンスで囲まれた円形の闘技場だ。鮮烈なスポットライトに照らされて戦う剣闘士に、ゲスト達はフェンスの外から野次を飛ばす。フェンスの内側には法も理性も無い。
ただ、戦う。それが、ここでのナマエの仕事だった。
ナマエは齢十にも満たないこどもであったが『生まれながらの戦闘種族』と呼ばれるミンク族の血を引いていたことと、とりわけ優秀な戦闘センスを持っていたようだった。最初はボロボロになることも多かったが、気付いたらこの闘技場の主になっていた。
小さなこどもが屈強な男達を倒す、もしくは傷付けられる悪趣味なこの『見世物』は多くの客にウケた。とくに、常識観念の薄い荒くれ者の海賊たちには。耳障りな声の実況がナマエの名前を呼ぶ。戦うことは嫌いでは無い。このときだけは、全てを忘れられるから。
『10歳の負け知らず、ナマエが今日も勝利を納めました!これで198連勝になります!』
カンカン、と戦いの終わりを告げるゴングの音に被せるような観客たちの声。その声に追いやられるようにして、ナマエは闘技場の舞台袖に引っ込んだ。
今日でようやく、198回目。あと少しで約束のときだ。ナマエはぎゅっと拳を握って気合を入れ直した。
「おい、ナマエ。オーナーが呼んでるぞ」
「分かった。すぐ行く」
不意に名前を呼ばれたので振り返ると、黒服の若い男が立っていた。サングラスに遮られた瞳からは一切の感情が見えない。機械のようなこの男がナマエは少し苦手だった。
彼にオーナーと呼ばれているのは、憎たらしいあの男だ。母の命を奪い、妹を人質に取った。ナマエからたくさんのものを奪った男。その男の顔を思い出してナマエは唇を噛みしめた。
ともあれ、オーナーの部屋はこの地下に広がるカジノの最上階にある。
入口からこの地下のカジノに辿り着くまで、優に普通の建物の三十階分ほどの階段を降りる必要がある。カジノのフロア、取り分け闘技場はもの凄く天井が高く、それに加えて上階に従業員用の施設やその他諸々の部屋を作るにはそれぐらいの深さが必要だった。
ナマエは闘技場の舞台袖から繋がっている従業員用の階段を昇り、重く閉ざされたシャッターの前で立ち止まった。シャッター横のスイッチボックスの小さなモニターに自身の右腕を翳す。いや、正確には翳したのは右腕に付けた飾り気の無い銀の腕輪だ。鈍く光るこの腕輪は小さいながら鍵や探知機の役割を担っている。この腕輪を翳せば、従業員エリアはどこでも行けるし、逆にこの腕輪をしていないものが従業員エリアに侵入すると警報が鳴る。
ナマエは階段を昇り、何個ものシャッターを潜り抜けてオーナーの男の部屋までやってきた。
軽く数回ドアを叩くと、しわがれた男の声が「入れ」と答えたので、ナマエはドアを開けて部屋に入り込んだ。高そうな硝子のテーブル、小振りなシャンデリア、ふわふわ毛皮の絨毯、ピカピカに磨かれた金の杯や鉱石が飾られている棚。この節操のない部屋がナマエは大嫌いだった。まあ、基本的にナマエはこの男の全てが嫌いなわけだが。それはそうと、数分としてこの男の部屋で同じ空気を吸っていたくないので、ナマエは隅の方に立ったまま男に用件を話す様に促した。
部屋の中央にはでっぷりと太った男がソファに座って、何が面白いのかニヤニヤとしていた。
男が座る黒い革張りの一人がけのソファはきっとナマエが座ったことが無い程座り心地の良いそれに違いない。
「明日、15時に久々に取引がある。お前も警護に来い」
「だいぶ久々だね」
この男がナマエを直々に呼ぶのは用件が限られている。というか、一つしか無い。男はナマエの底冷えした声に頷いた。
「十分な人数が中々集まらなかったからな」
さて、『終わらない夜の街』と呼ばれるこのカジノの本分は賭け事を行う場所ではない。
有体に言うと、ここは人身売買組織だ。知らないで辿り着いた海賊相手に金品を巻き上げ、尚且つ人権すら奪う。海賊たちは端からお尋ね者で、彼らの薄汚い財産や彼ら“そのもの”がいなくなったとしても誰も気にしないし咎めない。
どのような不正が働かれているのかは分からない。一つだけ分かるのは、闘技場を守っているナマエも一躍買っているということだ。
何故ならナマエが戦う相手は借金を抱え、大逆転を狙う崖っぷちの海賊たちだからだ。ナマエは彼らを夜の底に落とす。落とされた人間は、この街から出ることはできない。だから、夜は『終わらない』
そうして一定の量の『商品』を集めると、専門の場所に引き渡す。このカジノの従業員で物理的に一番強いナマエは、オーナーが『取引』をする際の警護を任されていた。
「分かった。でも、きっとこれが最後だよ。約束は守ってもらう」
ナマエの出した精一杯の低い声に男は怪訝な顔をしたが、言わんとしたことを察したようだ。
「先程で残り2勝か。ああ、約束通りここで200勝したら妹共々お前たちは自由だ」
男は頷いた。そう、それが『取引』の内容だった。ナマエはここで客寄せパンダよろしく戦って勝利を収め続ける。そして200勝すれば、自由になれる。
ナマエがじっと男を睨みつけていると、プルプルプル、と硝子テーブルの上の電伝虫が鳴いた。
「……出たら」
男が電伝虫に出ると、相手は若い女の声だった。
『そっちに新しいカモが行った。目ぼしいのはミンクの白くまが一匹。あとは若い男が三人。こっちはただの人間だけど、力はありそうだから労働力としては十分だと思う』
どうやら、この島の入口で海賊を誘導する女のようだ。馴れ合いを嫌う刺々しい女の声にナマエは同情を覚えた。
彼女もナマエ同様、きっと親しい人が人質にされているのだろう。ここで働く人々の殆どは、元々この工業都市に住んでいた人々だ。それを不当にこの街に連れ込んで無理矢理働かせていることをナマエは知っている。ナマエは、同じ立場のものとしては助け合うべきだと思って、とくに弱者に分類されるであろう女性たちを陰ながら見守っている。幸か不幸か、この街に住むこどもはナマエと、病弱な為どこかに閉じ込められているナマエの妹だけだ。
この街に捕らわれた他の人たちを置いて自分達だけ自由になるのは心苦しかったが、ナマエは一刻も早く自由になり、病弱な妹に穏やかな暮らしをさせてやりたかった。
あと少し。あと少しで私は自由だ。ナマエは自分にそう言い聞かせてオーナーの部屋を出た。
『どんなときも、誇りを持って気高く足掻きなさい』
それを聞いたとき、彼女は思った。『生きなさい』じゃないんだ。思ったことをそのまま伝えると母は笑った。不敵で強かなその笑顔は、我が母ながらとても魅力的なものだった。
『どんなどん底だろうが負けずに足掻くのよ。それは、ただ生きるよりもよっぽど力が必要で難しいことよ。だから、』
だから彼女は、誇りを持って今日も足掻くのだ。
懐かしい夢を見ていた気がする。うっすらと目を開くと、弱々しい人工的な灯りが差し込む、いつも通りの埃臭い部屋だった。この狭く檻のような部屋、そして粗悪な固い寝床に慣れてからどれくらいが経つだろう。それでも個室があるナマエはマシな方だ。
緩慢に起き上がったナマエは、軽く首を横に振って眠気を祓うと大きく伸びをした。狭い部屋だが、体の小さな彼女が伸びをするくらいの広さは十分にある。
簡素な布団から這い出て、古ぼけた置時計で時間を確認する。目覚ましなんて贅沢な機能はついていないので、体内時計だけが頼りである。今日も無事にいつも通りの時間に起きることができた。寝坊なんてした日にはどんな恐ろしいことが起きるか分からない。
くたびれた寝間着から飾り気の無いシャツとズボンに着替え、ヒビ割れた鏡を覗きこみ寝癖を整えてナマエは自室を後にした。
今日も憂鬱な一日が始まるが、ナマエは決して屈するつもりなど無かった。
『終わらない夜の街』
元は工業都市だったという街の地下にこの巨大なカジノはあった。
薄暗い地下の世界に、煩いくらいに煌々と光る不健全な人工の灯。酒や煙草の香り。人々の下卑た嗤い声や怒声。治安の悪い夜の歓楽街さながらのこの賭場を誰がそう呼び出したのかは分からない。
しかし、そう呼ばれるこの街がナマエの世界で、彼女の『檻』だった。
◇
ナマエがこの檻に閉じ込められる前、物心ついたときから彼女はこの世界を旅していた。いや、正確には色々な所を転々として生きていた。
獣の耳と尻尾を持った美しい母と、儚く可憐な一つ年下の妹と三人で贅沢とは無縁の質素な暮らしだった。父親はいなかったが、彼について聞くと母は悲しそうな顔をするのでいつしか父親の存在は忘れてしまった。それでも、笑い声の絶えない充実した日々だった。しかし、三年前にそれは唐突に終わった。妹が病に倒れたのだ。
妹の健康を慮って、放浪していた母子は景色が綺麗で空気が澄んだ街の外れに住み着いた。
母は朝も夜も働いて薬代を稼ぎ、ナマエは家事や妹の看病をして毎日過ごしていた。
母はミンク族と人間のハーフであり、常人よりも遥かに体力があったが、日に日に疲労が溜まっていっていることにナマエは気付いていた。
何よりも胸が痛いのが、母が必死にそれを隠していることだった。自分がもっと大きければ、頼りになれば母は弱音を吐いてくれたのだろうか。今となっては知る術はない。
何故なら、美しく誇り高い母はもうこの世にはいないからだ。
吐く息が白く、寒さが肌に刺さる様な冬の夜だった。
ナマエは暖炉の前に座って本を読んでいた。それはとある探検家の冒険譚だ。ナマエは好奇心が旺盛だったので、色々なところに行くのが大好きだった。どんな些細なことでも、彼女にとっては冒険に変わる。
そんなナマエの為にせめても空想の中だけは、との思いで少ない貯金を切り崩して母が買ってくれたのがこの本だった。母の想いが嬉しくて、ナマエは何度も何度もそれこそ話を覚えてしまうほど繰り返しこの本の中で冒険に出かけていた。
仕事で疲れた母は先に休んでいて、ナマエも今読んでいる話が終わったら寝るつもりだった。
ようやく一つの冒険を読み終えたナマエは、暖炉の火を消そうとした。そのとき、何かが破裂する様な轟音がしたのだ。吃驚したナマエが音のした方向を見ると、五人の人影がドカドカと土足で部屋に押し入ってきたではないか。皆知らない男達だ。数秒遅れてナマエは理解した。ノックの代わりにドアを蹴破られたのだ。ところが、突然の物騒な来客にその隙は命とりだった。
『ガキ、見っけ』
右手を掴まれ、ひょいっと荷物のように持ち上げられたナマエは濁った男の瞳に飲み込まれそうになった。怖くて声も出なかった。
『娘を離せ!』
異常事態に飛び起きた母は音も無く近づき、ナマエを捕まえていた男を後から蹴り飛ばした。態勢を崩した男にナマエは投げ飛ばされたが、運動神経の優れた彼女はしっかりと受け身を取りながら転がった。その瞬く間に母は二人の男を文字通り地に沈めた。
『くそッ』
そこで何を思ったのか、男の一人が銃口を向けた。ところが、その先には母では無く、黒い鉛の塊に狙いを定められて恐怖で固まるナマエがいた。
『ナマエ、逃げて!』
耳をつんざくような一つの銃声。ナマエは目を瞑ったが、焼けつくような痛みが彼女を襲うことは無かった。かわりに、ドサッと何か重いものが倒れるような音がした。ナマエは恐る恐る瞳を開く。視界に“それ”が入ったとき、ナマエはひゅっと息を飲んだ。
こんなのは悪い夢に決まってる。だって、そこには、ナマエの代わりに銃弾を背後から撃ちこまれ、崩れ落ちて動かなくなった母がいたのだから。
『おい、何で殺した!せっかくこのあたりにミンクの女がいるって話を聞いたのに!混血でも若い女だ、それなりに高値で売れる』
『仕方ねぇだろ、弱ってるって聞いたのに全然歯が立たなかったじゃねえか。それに、まだガキがいる』
母が倒れて混乱したナマエは男達が何を言っているのか分からなかった。ただ、じりじりと自分に近づいてくる男達の下卑た視線が恐ろしかった。
『よく見るとなんだ、外見はただの人間じゃねぇか』
ナマエはハーフの母が人間である父と結婚した結果産まれた所謂クオーターだったので、外見“は”人間と遜色無かった。ただ、外見を受け継いでいたのは。
『奥に誰かいるぞ』
『もう一匹いた。こいつは耳が獣だ!』
嘲るように言う男の視線の先には、ベッドの隅で小さく固まって震える妹がいる。男が妹に手を伸ばした瞬間、ナマエは駆けだした。その胸中にはもう怖さなんて無かった。
『妹に触るな!この子は体が弱いんだ!』
今、ナマエを突き動かすのはたった一人になってしまった家族を守ろうという想いだった。瞬時に距離を詰めたナマエは、低い姿勢から男の顎を蹴り飛ばした。続いてもう一人に足払いをかけて転倒させる。あと一人倒せば、敵はいなくなる。ナマエは最後の一人を視線で追った。しかし、それでも少しだけ遅かった。最後の一人は妹の蟀谷に銃口を当て、勝ち誇ったように言う。
『取引をしよう』
妹を楯にしたその提案は取引なんてものではなくただの脅迫でしか無かったが、大好きな妹を守る為にその条件を飲むしかなかった。
それからナマエと妹は荷物のように扱われ、船に乗ってとある島に辿り着いた。
ナマエが最後に見た夜空は、薄暗い曇に覆われた星の輝きが一つもない、ただの暗闇だった。
◇
このカジノは大きく分けて3つの区画がある。
入口に一番近いのは、トランプやルーレットの卓上ゲームのエリアだ。大小の円卓が数多く置かれ、それと同じ数の黒服のディーラーが各々のテーブルを取り仕切っている。ちなみにディーラーどころか客の半数がこの賭場の従業員、つまりサクラである。
そこを奥に進むと、沢山のスロットが規則正しく並んでいる。ひっきりなしにジャラジャラとコインが甲高い音を立て、ひどく喧しいのでナマエはこの区画があまり好きでは無い。
スロットのエリアを抜けて、だんだんと薄暗くなっていく通路を更に奥に進むと急に開けた場所に出る。フェンスで囲まれた円形の闘技場だ。鮮烈なスポットライトに照らされて戦う剣闘士に、ゲスト達はフェンスの外から野次を飛ばす。フェンスの内側には法も理性も無い。
ただ、戦う。それが、ここでのナマエの仕事だった。
ナマエは齢十にも満たないこどもであったが『生まれながらの戦闘種族』と呼ばれるミンク族の血を引いていたことと、とりわけ優秀な戦闘センスを持っていたようだった。最初はボロボロになることも多かったが、気付いたらこの闘技場の主になっていた。
小さなこどもが屈強な男達を倒す、もしくは傷付けられる悪趣味なこの『見世物』は多くの客にウケた。とくに、常識観念の薄い荒くれ者の海賊たちには。耳障りな声の実況がナマエの名前を呼ぶ。戦うことは嫌いでは無い。このときだけは、全てを忘れられるから。
『10歳の負け知らず、ナマエが今日も勝利を納めました!これで198連勝になります!』
カンカン、と戦いの終わりを告げるゴングの音に被せるような観客たちの声。その声に追いやられるようにして、ナマエは闘技場の舞台袖に引っ込んだ。
今日でようやく、198回目。あと少しで約束のときだ。ナマエはぎゅっと拳を握って気合を入れ直した。
「おい、ナマエ。オーナーが呼んでるぞ」
「分かった。すぐ行く」
不意に名前を呼ばれたので振り返ると、黒服の若い男が立っていた。サングラスに遮られた瞳からは一切の感情が見えない。機械のようなこの男がナマエは少し苦手だった。
彼にオーナーと呼ばれているのは、憎たらしいあの男だ。母の命を奪い、妹を人質に取った。ナマエからたくさんのものを奪った男。その男の顔を思い出してナマエは唇を噛みしめた。
ともあれ、オーナーの部屋はこの地下に広がるカジノの最上階にある。
入口からこの地下のカジノに辿り着くまで、優に普通の建物の三十階分ほどの階段を降りる必要がある。カジノのフロア、取り分け闘技場はもの凄く天井が高く、それに加えて上階に従業員用の施設やその他諸々の部屋を作るにはそれぐらいの深さが必要だった。
ナマエは闘技場の舞台袖から繋がっている従業員用の階段を昇り、重く閉ざされたシャッターの前で立ち止まった。シャッター横のスイッチボックスの小さなモニターに自身の右腕を翳す。いや、正確には翳したのは右腕に付けた飾り気の無い銀の腕輪だ。鈍く光るこの腕輪は小さいながら鍵や探知機の役割を担っている。この腕輪を翳せば、従業員エリアはどこでも行けるし、逆にこの腕輪をしていないものが従業員エリアに侵入すると警報が鳴る。
ナマエは階段を昇り、何個ものシャッターを潜り抜けてオーナーの男の部屋までやってきた。
軽く数回ドアを叩くと、しわがれた男の声が「入れ」と答えたので、ナマエはドアを開けて部屋に入り込んだ。高そうな硝子のテーブル、小振りなシャンデリア、ふわふわ毛皮の絨毯、ピカピカに磨かれた金の杯や鉱石が飾られている棚。この節操のない部屋がナマエは大嫌いだった。まあ、基本的にナマエはこの男の全てが嫌いなわけだが。それはそうと、数分としてこの男の部屋で同じ空気を吸っていたくないので、ナマエは隅の方に立ったまま男に用件を話す様に促した。
部屋の中央にはでっぷりと太った男がソファに座って、何が面白いのかニヤニヤとしていた。
男が座る黒い革張りの一人がけのソファはきっとナマエが座ったことが無い程座り心地の良いそれに違いない。
「明日、15時に久々に取引がある。お前も警護に来い」
「だいぶ久々だね」
この男がナマエを直々に呼ぶのは用件が限られている。というか、一つしか無い。男はナマエの底冷えした声に頷いた。
「十分な人数が中々集まらなかったからな」
さて、『終わらない夜の街』と呼ばれるこのカジノの本分は賭け事を行う場所ではない。
有体に言うと、ここは人身売買組織だ。知らないで辿り着いた海賊相手に金品を巻き上げ、尚且つ人権すら奪う。海賊たちは端からお尋ね者で、彼らの薄汚い財産や彼ら“そのもの”がいなくなったとしても誰も気にしないし咎めない。
どのような不正が働かれているのかは分からない。一つだけ分かるのは、闘技場を守っているナマエも一躍買っているということだ。
何故ならナマエが戦う相手は借金を抱え、大逆転を狙う崖っぷちの海賊たちだからだ。ナマエは彼らを夜の底に落とす。落とされた人間は、この街から出ることはできない。だから、夜は『終わらない』
そうして一定の量の『商品』を集めると、専門の場所に引き渡す。このカジノの従業員で物理的に一番強いナマエは、オーナーが『取引』をする際の警護を任されていた。
「分かった。でも、きっとこれが最後だよ。約束は守ってもらう」
ナマエの出した精一杯の低い声に男は怪訝な顔をしたが、言わんとしたことを察したようだ。
「先程で残り2勝か。ああ、約束通りここで200勝したら妹共々お前たちは自由だ」
男は頷いた。そう、それが『取引』の内容だった。ナマエはここで客寄せパンダよろしく戦って勝利を収め続ける。そして200勝すれば、自由になれる。
ナマエがじっと男を睨みつけていると、プルプルプル、と硝子テーブルの上の電伝虫が鳴いた。
「……出たら」
男が電伝虫に出ると、相手は若い女の声だった。
『そっちに新しいカモが行った。目ぼしいのはミンクの白くまが一匹。あとは若い男が三人。こっちはただの人間だけど、力はありそうだから労働力としては十分だと思う』
どうやら、この島の入口で海賊を誘導する女のようだ。馴れ合いを嫌う刺々しい女の声にナマエは同情を覚えた。
彼女もナマエ同様、きっと親しい人が人質にされているのだろう。ここで働く人々の殆どは、元々この工業都市に住んでいた人々だ。それを不当にこの街に連れ込んで無理矢理働かせていることをナマエは知っている。ナマエは、同じ立場のものとしては助け合うべきだと思って、とくに弱者に分類されるであろう女性たちを陰ながら見守っている。幸か不幸か、この街に住むこどもはナマエと、病弱な為どこかに閉じ込められているナマエの妹だけだ。
この街に捕らわれた他の人たちを置いて自分達だけ自由になるのは心苦しかったが、ナマエは一刻も早く自由になり、病弱な妹に穏やかな暮らしをさせてやりたかった。
あと少し。あと少しで私は自由だ。ナマエは自分にそう言い聞かせてオーナーの部屋を出た。