Dear Mr.Night Blue 第一章(了)
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ポーラータング号が到着した次の島は、のどかなころだった。
何故このような辺鄙なところに立ち寄ることになったかというと、ひいてはこの島の特産品目当てである。この島の特産品であるワインは北の海一美味しいという。某キャスケットの人が騒ぎ出したのが原因だが、ローも興味がないわけでは無かったし、航路上の島だったので寄り道をすることになったのだった。ちなみにナマエも呑む気満々らしいが、飲酒はお子様にはよろしくないので葡萄ジュースで我慢させようと思っていた。自分たちが未成年のうちから酒を嗜んできているのは完全に棚に上げているが、これはナマエを除いた船員全員の総意である。つまり数の勝利だ。
上陸して見上げた晴々とした青空に流れる雲を隠すような障害物は何も無い。あたりには規則正しく葡萄の木が並ぶ葡萄園が一面に広がっているだけである。遠くにこじんまりとした平屋の家が集まった村が見えるので、きっとあのあたりにこの猫が目指す場所があるに違いない。勝手な行動を取るのは良くないと反省したので、ナマエはローに一声かけてから村に向かおうとした。
「あ、待って!」
ところが、島に上陸するなりぴょんとナマエの腕の中から飛び降りた猫は軽い足取りで走って行く。その足取りに迷いは無いので、もしかしたらこの場所に来たことがあるのかもしれない。みるみる小さくなる猫をナマエは慌てて追いかけた。当然ローにかけようとした言葉は胸にしまいこまれたままだ。走り出したナマエの腕をシャチが捕まえようとしたが一歩遅かった。
「おいナマエ!」
「おれが行く」
猫と一緒に見えなくなっていくナマエに狼狽したペンギンを遮ってローは駆けだした。船を置いて全員追いかけるわけにはいかないし、ナマエが更に何かやらかすのではと不安になったのである。この距離なら十分追いつけるだろうが、何かあれば奥の手で確実に追いつけるローが行くのは適材適所ともいえよう。「がんばってキャプテーン」とベポの緊張感の無い応援が彼を送り出してくれた。
ナマエが猫に追いついたのは、丁度村に入ったところだった。というのも、村の入り口で丁度ナマエと同い年くらいの二人の少年が猫に石を投げており、石に当たった猫が動けずに蹲っていたからである。
「悪魔が帰って来たぞ!」
「今度こそやっつけてやる」
「何するの!」
それを目撃したナマエが少年達に掴みかかると、少年達は何故止めるのか理解できないといった様子でナマエを睨んだ。
「あいつ、目の色が違うじゃん。悪魔の使い魔なんだよ」
「そんなのおかしいよ!」
そう決めつける少年達の主張を真っ向から否定したナマエに少年達はカチンと来たようだった。少年の一人が顔を顰めてナマエの胸倉を掴んだ。
「うるさいな、よそ者のくせに!」
「よそ者だって良い悪いは分かるよ!」
お互いヒートアップして掴みあいの喧嘩が始まりそうになったあたりで、ナマエに追いついたローはこどもの襟首を掴んで少年から引きはがした。首が絞まったナマエは「うぐっ」と間の抜けた呻き声を上げる。突然の乱入者に文句を言おうと表情を鋭くした少年であったが、相手が明らかに堅気ではない長身の男と知り恐れをなしたのか、一目散に逃げて行った。
「お前はすぐに熱くなるな」
「……ごめんなさい」
幸いなことに一応自覚はあるらしい。視線を彷徨わせるナマエにローは嘆息するしかない。しかしローは知っている。断言しよう、それは絶対に直らない。その証拠に遠くから聞こえる負け惜しみの「ばーか!よそものはさっさと出てけー!」という少年達の遠吠えに、ナマエは分かりやすく蟀谷をぴくりと動かした。そしてその小さな拳をぎゅっと握る。
「……」
「……分かってます」
そういうところだ、と言外に含めたローの冷ややかな視線にナマエは喉を詰まらせると渋々といった様子で握りしめた拳を解いた。
「猫、だいぶ遠くまで行ったがいいのか」
「え、駄目!」
すっかり猫の存在を忘れていたナマエにローは再び「そういうところだ」と思ったが、今度は顔に出さなかった。分かりやすく慌てだしたナマエに猫が走って行った方向を指差してやると、ナマエは鉄砲玉のように勢いよく駆けだした。瞬時に見えなくなった背中に自分が付いて行って正解だったとローは思った。仲間である三人とも運動神経はかなり良い方で、とくにベポなど純度100%のミンクであるから基礎能力は圧倒的に高い。しかし、小回りが利く上に俊足を誇るナマエに追いつけるかというと微妙なところである。かくいうローも能力が無ければ追いつくことは難しいだろう。こんな馬鹿らしいことに能力を使うのも微妙なところであるが。ローは仕方なく広範囲にサークルを展開して、一瞬で姿を消した。その変わりに変哲もない小石がぽとりと落ちて数回地面を跳ねていく。
それを遠くから見ていた少年達は「あいつ消えたぞ……もしかしてあいつが悪魔なんじゃ……」と顔面蒼白になり、今度こそ脱兎の如く逃げて行った。
猫は弾むような足取りで道を進む。先ほど石を投げられて怪我をした筈なのに、それを感じさせないほど軽快に、風のように走る。
目的地は先程の村だと思っていたがどの家も素通りして村を出ていき、葡萄畑をいくつも越え、草原を駆け抜けて丘を登って川を渡る。数十分程猫を追いかけ走り続けて、やっと目的地に辿り着いたようだった。猫はある一軒の家の前で止まった。
綺麗に整えられた立派な庭には雑草は一本も生えておらず、色取り取りの可愛らしい花が咲き誇る。ナマエは花には詳しくないが、この庭が愛情を込めて整えられたものであることくらい理解できる。綺麗な花々に足を止めたナマエとは対照的に、猫はそんな花々には見向きもせずに玄関に向かった。しかし、扉は固く閉ざされている。
庭の様子を見れば人が住んでいることは分かるが、その住人が家の中にいるかといえば微妙なところだ。こんなに天気の良い日だ。もしかしたら出かけているのかも。
扉の前に座り込み、尻尾をぱたりと振った猫の代わりにナマエは軽く扉を叩いた。
「ごめんください!」
「留守なんじゃねェか」
しかし、扉の内側では返事も物音もしない。もう一回叩こうとしたところで、能力で姿を現したローに開口一番指摘されてナマエはぴたりと手を止めた。
「やっぱり留守か……」
がっくりと肩を落としてしゃがみこんだナマエに同じく落胆したのか猫も小さくにゃあと鳴いた。ナマエはちらりと庭の入り口で腕を組んで立っているローを見た。
「キャプテン、暫く待っててもいい?」
「駄目だと言っても待つんだろ。だったら聞くな」
ローの言葉はわりと鋭いが、その低い声が持つ不器用さがナマエは大好きだった。ナマエは湧き上がってくる幸せを噛みしめて、口角を上げて頷いた。その様子をローは珍妙なものを見たように一瞬顔を顰めたが、本人は分からなくて良いのだ。これはきっとローの仲間である者の特権だ。優しい風がそよそよと庭の花々を揺らす。その穏やかな光景を視界に映したナマエは目を細めた。
「綺麗な庭だね」
「ああ」
それにはローも同意である。丹精込めて整えられた綺麗な庭だ。ローの故郷でもここまで花々に溢れた家は滅多に見なかった。
穏やかな風に包まれて、言葉少なに家主を待っているとどうやら帰ってきたらしい。その足音は軽いので、きっと女性だろうとローは当たりをつけた。予想通り待ち人は若い女性だった。亜麻色の髪の女性は見知らぬ人物が庭に不法侵入しているのに仰天して叫んだ。
「誰?!」
「怪しいものじゃありません!!」
勢いよく立ち上がったナマエは姿勢を正したが、ここにシャチがいたら「いや、めちゃくちゃ怪しいからなお前」と首を横に振られることだろう。生憎彼はここにはいないが。その代わりにいる人相のよろしくない長身の青年の存在に警戒して女性は後ずさった。当然の反応である。
「この子が貴方に届けたいものがあるって!」
今にも逃げだしそうな女性を引き留めるためにも、ナマエは声を荒げた。とにかく気を引いてローから気を逸らそうと必死だ。
そんなナマエを手助けする意図は無いだろうが、今まで丸まっていた猫がすくっと立ちあがるとしっぽを揺らめかせながら女性の元まで歩いていく。その小さな口には今までずっと大切に持ってきた手紙を咥えて。
「え、シアン?」
シアン、というのがこの猫の名前なのだろう。どうやらこの女性と猫は知り合いだったようだ。女性はしゃがみ込んでシアンから手紙を受け取った。そしてその手紙の差出人を確認すると微笑んだ。その微笑みは悲しげで、でもそれを包むような愛しさを孕んだような不思議なものだった。女性は封筒の封を切り、手紙を取り出すと書かれている内容を目で追った。全て読み終えた女性は、もう一度封筒の差出人を確認すると、ぽろぽろと声もなく涙をこぼした。真珠のような、儚く綺麗な涙だ。ぎょっとしてそれに慌てたのはナマエである。ナマエは女性に駆け寄り、ポケットからハンカチを取り出して女性に渡した。
そこでナマエの存在を思い出したのだろう、女性は涙で濡れた声で問うた。
「貴方たちが連れてきてくれたの?」
「この子がここまで頑張って来たの。私はちょっと手伝っただけです」
ナマエは首を振った。ここまでこれたのはシアンの頑張りで、自分は最後の最後に手を貸しただけだ。この小さな猫の功績を自分のものにしようとするほどナマエは落ちぶれてはいない。女性は全て察したようで、小さく微笑んだ。
「そう。でもお礼をしたいわ。せっかくだからお茶でもどう?」
「有難いが別に気遣いはいらない」
「クッキーあるわよ」
「いただきます!」
「……」
渋い顔をするローに女性はくすりと笑った。今度は相手を安心させるための微笑みではなく、心からのもののようだった。
◇
「この村ではね、黒猫は悪魔の使いって言われているの」
こぽこぽと甘い香りのする飴色の液体をティーカップに注ぎながら女性――アリシアは言った。
木製のテーブルの上には、ティーセットの他に沢山のクッキーが入った洒落た小箱と可愛らしい白い花が一輪活けてある華奢なガラス瓶が置いてある。
「よくある話だな」
黒猫は悪魔の使いやら不吉の象徴等と根拠もないのに良くないものと捉えられたことが多い。今はそんなのは迷信だと思っている人の方が多いだろうが、こんなのどかな島だとそういった習わしが深く根付いているのかもしれない。
「この子は加えて目の色が違うでしょう」
「うん。とても綺麗ですね」
クッキーを頬張りながらナマエは頷いた。シアンの右目は名前の通りの青い瞳、左目は金の瞳だ。
「だからその珍しさがその風習に拍車をかけて、この猫はしょっちゅういじめられてたの」
「なにそれ、酷い!」
自分のことのように憤慨するナマエに、アリシアは愛おしいものを見るような温かい視線を送った。その眼差しはナマエを見ているようで、遠い、別の誰かを見ているようだった。
「あの人と同じことを言うのね」
「あの人?」
「この手紙を書いた人よ。ある日突然怪我したこの子を連れてきてね。彼もとても怒っていたわ。それからこの子をうちの子にしたの」
「じゃあ、この子はここで暮らしてたんですか?」
「そう。でもね、あの人に着いていっちゃった。シアンはあの人が大好きだから」
アリシアは寂しそうに眉尻を下げる。それを察したのか、アリシアの足元に寝っ転がっていたシアンは緩く尻尾を彼女の足に絡めた。こんなに想ってくれている人がいるのに、どうして彼は置いていってしまったのだろう。ナマエは不思議に思っておずおずと尋ねた。
「その人は何をしに行ったんですか?」
「彼ね、植物学者だったのよ。君に見せたい花があるって。グランドラインのとある島にある、珍しい花」
もしアリシアが言いたくないのなら直ぐにこの不躾な話題は終わらせるつもりだったが、彼女は気分を害慨することなく答えてくれた。もしかしたら、吐き出したかったのかもしれない。
「珍しい花?」
「真っ白な花びらで、太陽が出てる間は花を閉じていて夜になったら花を咲かせるの。太陽の光を吸収しているのか分からないけど、その花は夜になると青白く輝くんですって」
「素敵な花ですね。私も見てみたいなぁ」
ナマエだってこどもといえど立派な女である。綺麗なもの、可愛いものは大好きだ。ナマエは夜空の下でキラキラと輝く花を想像して胸をときめかせた。
「そうね。でもね、私は、あの人がいてくれればそれで良かったのにね……」
アリシアはうつくしく笑った。その微笑みには胸を締め付けられるような儚さがあった。
この庭が色とりどりの花に囲まれ、それが今も尚美しく咲き誇っている理由が分かった気がする。きっとこの花はその男性の想いで、それを大切にすることでアリシアもまた想いを確かめていたのだろう。だからこの庭は優しさで溢れているのだ。ナマエが改めて窓の外の風景を眺めていると、それを見守っていたアリシアの瞳の端がきらりと輝いた。そのきらめきに気付いたローは静かに席を立った。
「世話になった。ナマエ、行くぞ」
「え、待ってキャプテン!アリシアさんご馳走様でした!」
ナマエは紅茶を一気に飲み干すと、ぺこりと頭を下げてローの後を追った。後ろ髪引かれるようなナマエとは対照的にローは一切振り返らずにアリシアの家を出て行った。
扉を閉めるときに、淡く消えるようなアリシアの声が聞こえたような気がした。
「ありがとう」
◇
手紙を届けたその夜、ナマエは自室のベッドに寝転んでいた。他の面々は今頃食堂で葡萄酒を呑んで盛り上がっているに違いない。別に拗ねている訳ではない。断じて。葡萄ジュースだって美味しかったし。皆揃って明日は二日酔いになってしまえばいいのだと思わなくもないけれども。むっすりとしたナマエはごろりと寝返りを打った。そしてこのモヤモヤを追い出すために今日のことを思い返してみた。
「手紙かぁ」
あの手紙には何が書いてあったのだろう。きっと、アリシアの為に選ばれた言葉が、伝えたい想いが沢山沢山詰め込まれていたのだろう。その手紙が、直接ではなくても彼女に想いを伝えてくれた。
そう考えると、ナマエも誰かに手紙を書いてみたくなった。しかし、便箋などあるわけも無く、ここにある紙は日記帳しかない。
だからナマエは日記帳を一枚丁寧に破くと、ペンを取った。
誰宛なんて、そんなのは決まっている。不機嫌に歪んでいたナマエの唇は、知らず知らずの内に弧を描いていた。
何故このような辺鄙なところに立ち寄ることになったかというと、ひいてはこの島の特産品目当てである。この島の特産品であるワインは北の海一美味しいという。某キャスケットの人が騒ぎ出したのが原因だが、ローも興味がないわけでは無かったし、航路上の島だったので寄り道をすることになったのだった。ちなみにナマエも呑む気満々らしいが、飲酒はお子様にはよろしくないので葡萄ジュースで我慢させようと思っていた。自分たちが未成年のうちから酒を嗜んできているのは完全に棚に上げているが、これはナマエを除いた船員全員の総意である。つまり数の勝利だ。
上陸して見上げた晴々とした青空に流れる雲を隠すような障害物は何も無い。あたりには規則正しく葡萄の木が並ぶ葡萄園が一面に広がっているだけである。遠くにこじんまりとした平屋の家が集まった村が見えるので、きっとあのあたりにこの猫が目指す場所があるに違いない。勝手な行動を取るのは良くないと反省したので、ナマエはローに一声かけてから村に向かおうとした。
「あ、待って!」
ところが、島に上陸するなりぴょんとナマエの腕の中から飛び降りた猫は軽い足取りで走って行く。その足取りに迷いは無いので、もしかしたらこの場所に来たことがあるのかもしれない。みるみる小さくなる猫をナマエは慌てて追いかけた。当然ローにかけようとした言葉は胸にしまいこまれたままだ。走り出したナマエの腕をシャチが捕まえようとしたが一歩遅かった。
「おいナマエ!」
「おれが行く」
猫と一緒に見えなくなっていくナマエに狼狽したペンギンを遮ってローは駆けだした。船を置いて全員追いかけるわけにはいかないし、ナマエが更に何かやらかすのではと不安になったのである。この距離なら十分追いつけるだろうが、何かあれば奥の手で確実に追いつけるローが行くのは適材適所ともいえよう。「がんばってキャプテーン」とベポの緊張感の無い応援が彼を送り出してくれた。
ナマエが猫に追いついたのは、丁度村に入ったところだった。というのも、村の入り口で丁度ナマエと同い年くらいの二人の少年が猫に石を投げており、石に当たった猫が動けずに蹲っていたからである。
「悪魔が帰って来たぞ!」
「今度こそやっつけてやる」
「何するの!」
それを目撃したナマエが少年達に掴みかかると、少年達は何故止めるのか理解できないといった様子でナマエを睨んだ。
「あいつ、目の色が違うじゃん。悪魔の使い魔なんだよ」
「そんなのおかしいよ!」
そう決めつける少年達の主張を真っ向から否定したナマエに少年達はカチンと来たようだった。少年の一人が顔を顰めてナマエの胸倉を掴んだ。
「うるさいな、よそ者のくせに!」
「よそ者だって良い悪いは分かるよ!」
お互いヒートアップして掴みあいの喧嘩が始まりそうになったあたりで、ナマエに追いついたローはこどもの襟首を掴んで少年から引きはがした。首が絞まったナマエは「うぐっ」と間の抜けた呻き声を上げる。突然の乱入者に文句を言おうと表情を鋭くした少年であったが、相手が明らかに堅気ではない長身の男と知り恐れをなしたのか、一目散に逃げて行った。
「お前はすぐに熱くなるな」
「……ごめんなさい」
幸いなことに一応自覚はあるらしい。視線を彷徨わせるナマエにローは嘆息するしかない。しかしローは知っている。断言しよう、それは絶対に直らない。その証拠に遠くから聞こえる負け惜しみの「ばーか!よそものはさっさと出てけー!」という少年達の遠吠えに、ナマエは分かりやすく蟀谷をぴくりと動かした。そしてその小さな拳をぎゅっと握る。
「……」
「……分かってます」
そういうところだ、と言外に含めたローの冷ややかな視線にナマエは喉を詰まらせると渋々といった様子で握りしめた拳を解いた。
「猫、だいぶ遠くまで行ったがいいのか」
「え、駄目!」
すっかり猫の存在を忘れていたナマエにローは再び「そういうところだ」と思ったが、今度は顔に出さなかった。分かりやすく慌てだしたナマエに猫が走って行った方向を指差してやると、ナマエは鉄砲玉のように勢いよく駆けだした。瞬時に見えなくなった背中に自分が付いて行って正解だったとローは思った。仲間である三人とも運動神経はかなり良い方で、とくにベポなど純度100%のミンクであるから基礎能力は圧倒的に高い。しかし、小回りが利く上に俊足を誇るナマエに追いつけるかというと微妙なところである。かくいうローも能力が無ければ追いつくことは難しいだろう。こんな馬鹿らしいことに能力を使うのも微妙なところであるが。ローは仕方なく広範囲にサークルを展開して、一瞬で姿を消した。その変わりに変哲もない小石がぽとりと落ちて数回地面を跳ねていく。
それを遠くから見ていた少年達は「あいつ消えたぞ……もしかしてあいつが悪魔なんじゃ……」と顔面蒼白になり、今度こそ脱兎の如く逃げて行った。
猫は弾むような足取りで道を進む。先ほど石を投げられて怪我をした筈なのに、それを感じさせないほど軽快に、風のように走る。
目的地は先程の村だと思っていたがどの家も素通りして村を出ていき、葡萄畑をいくつも越え、草原を駆け抜けて丘を登って川を渡る。数十分程猫を追いかけ走り続けて、やっと目的地に辿り着いたようだった。猫はある一軒の家の前で止まった。
綺麗に整えられた立派な庭には雑草は一本も生えておらず、色取り取りの可愛らしい花が咲き誇る。ナマエは花には詳しくないが、この庭が愛情を込めて整えられたものであることくらい理解できる。綺麗な花々に足を止めたナマエとは対照的に、猫はそんな花々には見向きもせずに玄関に向かった。しかし、扉は固く閉ざされている。
庭の様子を見れば人が住んでいることは分かるが、その住人が家の中にいるかといえば微妙なところだ。こんなに天気の良い日だ。もしかしたら出かけているのかも。
扉の前に座り込み、尻尾をぱたりと振った猫の代わりにナマエは軽く扉を叩いた。
「ごめんください!」
「留守なんじゃねェか」
しかし、扉の内側では返事も物音もしない。もう一回叩こうとしたところで、能力で姿を現したローに開口一番指摘されてナマエはぴたりと手を止めた。
「やっぱり留守か……」
がっくりと肩を落としてしゃがみこんだナマエに同じく落胆したのか猫も小さくにゃあと鳴いた。ナマエはちらりと庭の入り口で腕を組んで立っているローを見た。
「キャプテン、暫く待っててもいい?」
「駄目だと言っても待つんだろ。だったら聞くな」
ローの言葉はわりと鋭いが、その低い声が持つ不器用さがナマエは大好きだった。ナマエは湧き上がってくる幸せを噛みしめて、口角を上げて頷いた。その様子をローは珍妙なものを見たように一瞬顔を顰めたが、本人は分からなくて良いのだ。これはきっとローの仲間である者の特権だ。優しい風がそよそよと庭の花々を揺らす。その穏やかな光景を視界に映したナマエは目を細めた。
「綺麗な庭だね」
「ああ」
それにはローも同意である。丹精込めて整えられた綺麗な庭だ。ローの故郷でもここまで花々に溢れた家は滅多に見なかった。
穏やかな風に包まれて、言葉少なに家主を待っているとどうやら帰ってきたらしい。その足音は軽いので、きっと女性だろうとローは当たりをつけた。予想通り待ち人は若い女性だった。亜麻色の髪の女性は見知らぬ人物が庭に不法侵入しているのに仰天して叫んだ。
「誰?!」
「怪しいものじゃありません!!」
勢いよく立ち上がったナマエは姿勢を正したが、ここにシャチがいたら「いや、めちゃくちゃ怪しいからなお前」と首を横に振られることだろう。生憎彼はここにはいないが。その代わりにいる人相のよろしくない長身の青年の存在に警戒して女性は後ずさった。当然の反応である。
「この子が貴方に届けたいものがあるって!」
今にも逃げだしそうな女性を引き留めるためにも、ナマエは声を荒げた。とにかく気を引いてローから気を逸らそうと必死だ。
そんなナマエを手助けする意図は無いだろうが、今まで丸まっていた猫がすくっと立ちあがるとしっぽを揺らめかせながら女性の元まで歩いていく。その小さな口には今までずっと大切に持ってきた手紙を咥えて。
「え、シアン?」
シアン、というのがこの猫の名前なのだろう。どうやらこの女性と猫は知り合いだったようだ。女性はしゃがみ込んでシアンから手紙を受け取った。そしてその手紙の差出人を確認すると微笑んだ。その微笑みは悲しげで、でもそれを包むような愛しさを孕んだような不思議なものだった。女性は封筒の封を切り、手紙を取り出すと書かれている内容を目で追った。全て読み終えた女性は、もう一度封筒の差出人を確認すると、ぽろぽろと声もなく涙をこぼした。真珠のような、儚く綺麗な涙だ。ぎょっとしてそれに慌てたのはナマエである。ナマエは女性に駆け寄り、ポケットからハンカチを取り出して女性に渡した。
そこでナマエの存在を思い出したのだろう、女性は涙で濡れた声で問うた。
「貴方たちが連れてきてくれたの?」
「この子がここまで頑張って来たの。私はちょっと手伝っただけです」
ナマエは首を振った。ここまでこれたのはシアンの頑張りで、自分は最後の最後に手を貸しただけだ。この小さな猫の功績を自分のものにしようとするほどナマエは落ちぶれてはいない。女性は全て察したようで、小さく微笑んだ。
「そう。でもお礼をしたいわ。せっかくだからお茶でもどう?」
「有難いが別に気遣いはいらない」
「クッキーあるわよ」
「いただきます!」
「……」
渋い顔をするローに女性はくすりと笑った。今度は相手を安心させるための微笑みではなく、心からのもののようだった。
◇
「この村ではね、黒猫は悪魔の使いって言われているの」
こぽこぽと甘い香りのする飴色の液体をティーカップに注ぎながら女性――アリシアは言った。
木製のテーブルの上には、ティーセットの他に沢山のクッキーが入った洒落た小箱と可愛らしい白い花が一輪活けてある華奢なガラス瓶が置いてある。
「よくある話だな」
黒猫は悪魔の使いやら不吉の象徴等と根拠もないのに良くないものと捉えられたことが多い。今はそんなのは迷信だと思っている人の方が多いだろうが、こんなのどかな島だとそういった習わしが深く根付いているのかもしれない。
「この子は加えて目の色が違うでしょう」
「うん。とても綺麗ですね」
クッキーを頬張りながらナマエは頷いた。シアンの右目は名前の通りの青い瞳、左目は金の瞳だ。
「だからその珍しさがその風習に拍車をかけて、この猫はしょっちゅういじめられてたの」
「なにそれ、酷い!」
自分のことのように憤慨するナマエに、アリシアは愛おしいものを見るような温かい視線を送った。その眼差しはナマエを見ているようで、遠い、別の誰かを見ているようだった。
「あの人と同じことを言うのね」
「あの人?」
「この手紙を書いた人よ。ある日突然怪我したこの子を連れてきてね。彼もとても怒っていたわ。それからこの子をうちの子にしたの」
「じゃあ、この子はここで暮らしてたんですか?」
「そう。でもね、あの人に着いていっちゃった。シアンはあの人が大好きだから」
アリシアは寂しそうに眉尻を下げる。それを察したのか、アリシアの足元に寝っ転がっていたシアンは緩く尻尾を彼女の足に絡めた。こんなに想ってくれている人がいるのに、どうして彼は置いていってしまったのだろう。ナマエは不思議に思っておずおずと尋ねた。
「その人は何をしに行ったんですか?」
「彼ね、植物学者だったのよ。君に見せたい花があるって。グランドラインのとある島にある、珍しい花」
もしアリシアが言いたくないのなら直ぐにこの不躾な話題は終わらせるつもりだったが、彼女は気分を害慨することなく答えてくれた。もしかしたら、吐き出したかったのかもしれない。
「珍しい花?」
「真っ白な花びらで、太陽が出てる間は花を閉じていて夜になったら花を咲かせるの。太陽の光を吸収しているのか分からないけど、その花は夜になると青白く輝くんですって」
「素敵な花ですね。私も見てみたいなぁ」
ナマエだってこどもといえど立派な女である。綺麗なもの、可愛いものは大好きだ。ナマエは夜空の下でキラキラと輝く花を想像して胸をときめかせた。
「そうね。でもね、私は、あの人がいてくれればそれで良かったのにね……」
アリシアはうつくしく笑った。その微笑みには胸を締め付けられるような儚さがあった。
この庭が色とりどりの花に囲まれ、それが今も尚美しく咲き誇っている理由が分かった気がする。きっとこの花はその男性の想いで、それを大切にすることでアリシアもまた想いを確かめていたのだろう。だからこの庭は優しさで溢れているのだ。ナマエが改めて窓の外の風景を眺めていると、それを見守っていたアリシアの瞳の端がきらりと輝いた。そのきらめきに気付いたローは静かに席を立った。
「世話になった。ナマエ、行くぞ」
「え、待ってキャプテン!アリシアさんご馳走様でした!」
ナマエは紅茶を一気に飲み干すと、ぺこりと頭を下げてローの後を追った。後ろ髪引かれるようなナマエとは対照的にローは一切振り返らずにアリシアの家を出て行った。
扉を閉めるときに、淡く消えるようなアリシアの声が聞こえたような気がした。
「ありがとう」
◇
手紙を届けたその夜、ナマエは自室のベッドに寝転んでいた。他の面々は今頃食堂で葡萄酒を呑んで盛り上がっているに違いない。別に拗ねている訳ではない。断じて。葡萄ジュースだって美味しかったし。皆揃って明日は二日酔いになってしまえばいいのだと思わなくもないけれども。むっすりとしたナマエはごろりと寝返りを打った。そしてこのモヤモヤを追い出すために今日のことを思い返してみた。
「手紙かぁ」
あの手紙には何が書いてあったのだろう。きっと、アリシアの為に選ばれた言葉が、伝えたい想いが沢山沢山詰め込まれていたのだろう。その手紙が、直接ではなくても彼女に想いを伝えてくれた。
そう考えると、ナマエも誰かに手紙を書いてみたくなった。しかし、便箋などあるわけも無く、ここにある紙は日記帳しかない。
だからナマエは日記帳を一枚丁寧に破くと、ペンを取った。
誰宛なんて、そんなのは決まっている。不機嫌に歪んでいたナマエの唇は、知らず知らずの内に弧を描いていた。