あやまち
友人関係というものは個人的に互いを尊重し合える事だと思っている。だけど、その均衡は容易く崩れ去ってしまう程の脆いものだったんだと今更になって理解し、それが私を酷く苦悩させていくものになるとは思いもしなかった。
あれは随分と月が瞬いていた夜の出来事だった。
その日はコガネ百貨店の営業終了後に開催された決起会という名目の飲み会により相当な数の人間達が深酒を決め込んだ。
私もその中の一人であって、自ら進んで飲酒をしたというか、グラスが空いたら無礼講だと言わんばかりに直ぐに注がれる酒を仕方なく摂取しているうちに、不覚にもアルコールが体内のキャパオーバーをしてしまい酔いすぎてしまったのだった。
自分も周囲も「あ、まずいな」と思った頃には時既に遅し。
私は多量の飲酒のツケによる酩酊状態により脳内からは正常な判断能力が失われていた。
立って帰ろうにも千鳥足の身体は言うことを聞いてくれず。
誰かの支え無しには一人で立っている事すら困難だった私を見兼ねた同僚の一人が連れて来てくれたのが、長年の友人の一人でもあるマツバさんだった。
私とマツバさんとミナキさんは古くからの友人であり、その交流関係を同僚の殆どが知っていた為にわざわざ彼を呼んできてくれたのだろう。
「いつもクールなのでそんな人の酔った姿が見たくて、ついつい飲ませすぎました!本当にすみません……!」
「いやいや、大丈夫ですよ。僕が責任をもってちゃんと送り届けますから。ほら、帰るよ」
マツバさんに支えられながら、同僚と彼の会話を何処かぼんやりと他人事のように聞きながら私とマツバさんは居酒屋を後にする。朧気ながらも記憶として覚えているのは、ここまでであり、帰り道の最中にゆっくりと私の意識は薄らと遠のいていくのだった。
やけに印象に残ったのは、瞳に映るのは眩い金色の美しさであり私はそれを月だと認識して思い切り手を伸ばした。
そのまま、唐突に月を抱き締めた瞬間……この夜空すらもが、まるで自分のものになったかのような錯覚を抱いてしまったのを最後に、私の意識は静かの海へと沈んでいくのだった。
己の記憶はそこでプツリと途切れ、次に目覚めた時は天井が視界に真っ先に入ってきた。
白い天井をぽんやり見つめながら「あぁ、自分の家に帰れたんだ」なんて一瞬思ったものの、その天井は我が家にしては広く大きく、そして何よりも見知らぬものであった。
まだ酔いが覚めてないのか、何処かぼやけた意識の中で起き上がろうとするも、それを阻むかのように「何か」が私の身体を抱き締めている事に気付く。
その瞬間に私は二日酔いも覚めるほどの衝撃を受けたのだった。まず、私は衣服を着ておらず生まれた状態の素肌のままであり、私を抱き締めている何か……もとい誰かも同じ状態だろうと察する事が出来た。人肌から伝わる身体への熱い程の温もりとは裏腹に私の脳内はパニックのあまり背筋に冷たい汗が流れていくのを感じ取っていく。
自分が服を着ていない事にも、見知らぬ場所で誰かと寝ていたという事実にも、その両方に混乱している私の動揺に気付いたのか直ぐ隣から眠たげな声が耳に届いた。
「……ん、……起きた?おはよう」
私の動揺とは裏腹に何とも間延びしたその声は随分と聞きなれたものであり、私は恐る恐る声が聞こえた方へ視線を向けてみると真っ先に視界に入ったのは、夜空に輝く月のような眩しさだった。
……聞きなれた声の主の事は、嫌でも誰だか分かってしまう。
自分の中で認めたくない事実に思わず愕然としている私を他所に、未だ大きな眠たげに大きな欠伸をしながら私を見つめるその人は数時間前、私を迎えに来てくれた人……。
「……マ、マツバさん……ですか……?」
確定しているけど、受け入れたくない。
いっそ見知らぬ誰かであって欲しいとすら思っていた。
そんな私の縋るような願いは彼の返答により虚しく散っていくのだった。
「……やだなぁ、君が僕の事を見間違う訳無いだろ?勿論……僕はマツバだよ」
その言葉を聞いた途端に抱いたのはものはまず、果てしない羞恥心だった。だって今私達……裸で抱き合っているというか、抱き締められているのだ。とりあえず離して欲しい、服を着たい、何よりも恥ずかしくて死にそうだ……!
「マ、マツバさん!?離して下さい!」
「……なんで?」
「なんでって……は、恥ずかしいから……!」
「……今更?僕達、数時間前までもっと恥ずかしい事してたのに?」
「っ!いやっ!……やだぁ……言わないでください……」
マツバさんの言葉に、かぁっと頬が熱くなっていく。
彼の言葉とこの今の状況から察するに、私達は昨晩……そういう事をしてしまったのだろう。それは愛し合う男女が紡ぐ何処までも美しい愛の営みだと私は認識していたのに、行為に及んだ二人はそんな関係では無い。過ちを犯してしまったんだと狼狽する私を他所に何故かマツバさんの方はとても落ち着いていて、なんなら上機嫌のようにも見えた。
どうしてこの状況下でそんなに余裕があるのだろうか。
まるで、焦っているこちらの方がおかしいとでも言わんばかりなマツバさんに、私は混乱しつつも疑問を覚えた。
「……マツバさんはなんでそんなに冷静でいられるんですか……?」
「……冷静という訳ではないけど」
「と、とにかく離して下さい!」
何とかマツバさんを振り払おうとして、じたばたもがいても男の人の力には敵わない。むしろマツバさんは私を逃さないかのように腕に力を込めていく
「……離したら、君はいなくなっちゃうだろ?だから離したくないよ」
「な、何を……」
「君は覚えてないかも知れないけど、僕にとっては昨晩は夢のような一時だったよ。でも、今この手を離したらそれが終わってしまうだろ?……僕はずっと夢を見ていたいんだよ。例えそれが仮初の幸福であっても」
「マツバさん……何を言……ひゃあ!?」
マツバさんの言葉の意図を理解出来ないでいた私が何か言おうとしたその瞬間、彼は体制を変えて私に覆い被さった。
「……まだまだ時間はあるし……もう一度僕に夢の追体験をさせてよ。今度は君も一緒に……ね?」
「や!やだ……!」
いつの間にか滲んでいた涙のせいで、ぼやけて良く見えなかったけど、マツバさんは確かに笑っていた。そんなマツバさんに対して私が抱いた感情は恐怖と絶望であった。こんな事をしたくない、したくなかった。もうこれ以上私の身も心にも触らないで……!
そんな思いから何度も「やめて」と口にしても、マツバさんの手はそんな言葉達を無視して私に躊躇いもなく触れていく。
怯える私の瞳から溢れた寂しい雫を、彼は舌で舐め取り、爛々とその瞳を恍惚に輝かせながら残酷な宣告をする。
「この夢は、何があっても絶対に終わらせないよ」と。
◇
連絡を貰った時は、別に下心なんて無かった。
ただ、恋焦がれて止まない彼女が後々困るであろう事を避けたかったので、僕は彼女を迎えに行って家まで送り届けるつもりだったのは確かだ。
だけど、普段は何処かクールというか、落ち着いた雰囲気の彼女が多量のアルコールの海に溺れている姿を見た時……不覚にも僕の中に今まで押し殺していた感情がチラリと顔を覗かせてしまった。付き合いの長い僕にだって、彼女は甘えるような仕草や言動を見せる事はあまり無かった。
だけど、今の彼女は目がとろんとしていて、頬も紅く何処かふわふわとしていて……それがとても可愛く見えて仕方がなくて。それに加えて僕の名前を呼ぶ声すらも砂糖菓子のようにとても甘くて、まるで仕草や言動の全てが僕を誘惑しているように思えてしまったのだ。
普段はここまで酔わないであろう彼女が相当飲まされたであろうには、目に見て分かる。だから今の状態も酒のせいなのだ。
僕と手を繋ぎニコニコとしているのも、彼女の意思じゃない。指を絡めてみても、それを拒絶する事なくすんなり受け入れたも酔いのせいだ。
そうだと分かっていながらも、ここまで彼女に触れられた事なんて今まで無いに等しかったのだ。僕が長年恋して、触れたいと願い続けた彼女の肌に、触れているんだという事実が僕の中の仄暗い劣情を煽っていく。
これ以上は、限界かも知れない。自分が抑えきれなくなる前に早く彼女を家まで送り届けて、少し頭を冷やそう。
そう思っていた矢先に、彼女がふと僕を見つめている事に気付く。どうしたの?そう口にしようとした瞬間に、彼女が思いっきり僕の胸の中にへと飛び込んできて、そっと背中に手を回した。
あぁ、今……僕は彼女に抱き締められている、その事を理解した瞬間に解れかけていた理性という名の糸は、プツリと完全に切れてしまったのだった。密着して押し付けられる女体特有の柔らかさにクラクラと目眩を覚えそうになりながらも、僕は衝動のままに彼女を強く抱き、そのまま唇を貪るように重ねた。
それすらも、彼女はすんなり受け入れてしまったので、もうここで僕は後戻りは出来ないと確信する。しばらく柔らかくてふっくらとした彼女の唇を堪能した後、僕は彼女の手を引いてギラつくネオンが厭らしく光っている方面へと急ぎ足で向かうのだった。
コガネシティは大都市だ。
なのでそこには男女の欲望が犇めく場所も多数存在している訳であり。そこで……僕達は肌を重ねるに至ったのだ。
勿論これは、彼女が酔っていたとは言え同意の元に行われた行為では無い事は自分が一番分かっている。
だけど、僕はそれでも幸せだった。
例え自身の制御できない欲望のままに彼女を喰い、その純潔を奪ったとしてもだ。僕の長年の想いが、歪な形だが実った事で肉体はおろか精神までもが快感の波に飲み込まれてしまったんだ。
……本当に愛しているというならば、彼女に一切手出しせずにちゃんと家まで送り届けるのが正しいのだと、人々は言うだろう。だけど、長年恋しく実らせていた甘い果実が、手の届く距離で色香を放っていてもそう決断できる男がこの世にはどのくらいいるのだろうか等と思ったものだ。
……僕は間違いなく、彼女の事を愛している。誰よりも愛しているからこそ、彼女の事が欲しくて堪らなかった。その夢が……ようやく叶ったんだ。喜んだって別に良いじゃないか。
彼女に対して、罪悪感を抱いてないと言えば嘘になる。
だけど、長年の僕の想いに気付かなかったからこそ、今こんな事態になったのでは?と思う自分もいるのであり。
彼女がもっと早く僕の恋心に気付いてくれていれば、避けられていた未来だったのかもしれない。だけど、それをしなかったのは彼女自身なのだ。
傍から見たら僕は、酔っていて抵抗の出来ない女の子を抱いた最低な男だろう。それは否定しない。だけど、どれだけ罪深くても、愛する彼女を傷付ける事になったとしても……僕の初恋はもはや成就したものだ。
今後、彼女は僕と関係を持った事実をそんな事無かったとでも言うように振る舞うだろう。だけど、そんな事は許さない。
一度でも男と女の関係になったんだ。今さら友情なんて言葉で誤魔化させたりなんか絶対にしてあげない。
むしろ、僕は君の初めてを貰った責任を取っても全然構わない。どちらかと言うとそれを望んでいるしね。責任を取る訳だし……例え命が宿ったとしても当然それを受け入れるし、僕にとっても大変に喜ばしい事だと思っているよ、それはね。
そうなるのが、二人にとっての最良の未来だと……僕は頑なに信じている。
一度でも手に入れたのだ。
二度と離さないように僕は月闇の糸で彼女を呪縛し、決して夢が醒めないように狂おしい程の愛を強制的に注ぎ続けると、この胸に誓うのだった。
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