feel empty
夢が潰えた事で落ち込む友人に、私は一体に何が出来たのだろうか。ただその気持ちに寄り添いたいと思っていたのは変えようのない事実だが、実際に二人の間で行われた事は私の意思が反映されないものであり、それらは未だ癒えない傷となって私を苛む。
ホウオウが舞い降りた事で、憔悴していたマツバさんに少しでも元気を出して欲しかったのは心の底からの本音である。確かに彼は強く憧れを抱いていたが、例えそれが叶わぬ事柄でもマツバさんの未来が全て潰えた訳ではない。今は絶望の淵にいてもあの人は命ある限り這い上がって来れる、そんな人だと私は思っていた。そのお手伝いを微力ながら出来たら良かった……それが自分の考えたマツバさんへの寄り添いだったのだ。
しかし、そんな私の気持ちは……きっと彼には届く事は無いのだ。
ホウオウが舞い降りて以降、閉じこもっていたマツバさん宅に訪れた際の彼の精神状態はとても不安定だったとは思う。目元に隈を作り少しやつれた様子は見ていてとても痛々しいものだった。そんな彼が少しでも立ち直るきっかけを作る事が出来たら良いなと思った。それが私の望みでもあったが、マツバさんにとってそんな私の思いはお節介にしか過ぎなかったのだろう。あの時のマツバさんが求めていたのは、寄り添う心なんかじゃ無かったのだ。
「慰めて」
そう言って彼が私に求めた事は……今思い出すだけでも吐き気を催してしまうような行為だった。簡潔に言うと私はあの日マツバさんに犯されたのだ。長年親友だと思っていた人と肉体関係を持ってしまったという事実を消したくても、それは不可能であり、深い傷となって私に刻まれてしまった。
あの悪夢のような時間が終わっても、癒えぬ傷跡がずっと私を蝕み、苦しみを与えていく。
あの時私はどうすれば良かったんだろうか。少なくともマツバさんの家に訪れ無ければこんな事にはならなかったのだろうか。憔悴しているであろう古い付き合いの友人を放置しておけば良かったのだろうか……。いや、きっとそんな事は出来なかっただろう。
幾ら考えても、越えた一線も犯してしまった過ちも消える事は無い。
どれだけ私が悩み苦しんだとしても……だ。
私にとってマツバさんとは、古くからの友人……もはや親友と呼べるような人であり、彼もまたそう思ってくれていると信じていた。だけど……そう思っていたのは、どうやら私だけだったらしい。親友同士で肉体関係なんて……持たない。
じゃあ私が今まで築き上げて来たマツバさんとの関係って何なんだろう。……確かな絆があると私は信じていたけど、マツバさんにとってはそうじゃなかったのかな。
親友だと思っていた人と強引に関係を持ってしまった事もだが、何よりもマツバさんと私の気持ちや関係性の在り方に大きな差異が感じられた事が……ただひたすらに、悲しかった。
マツバさんが、どうして……あんな事を望んだのかは分からない。情緒不安定だった、ひと時の過ちだったと……そう言って何事も無かったかのように振舞って貰えればまだ、どこかで私も割り切れたのかも知れない。あれ以降……私の方からマツバさんに連絡を取る事はしていなかった。彼を連想する度に思い出してしまうから……まだ、時日を正面から受け止める事が出来る程、私は強くなんて無かったのだ。
このまま彼を避け続けていたら……時間が解決してくれるのかも知れない。それに、マツバさんだって気まずいだろう。連絡を絶つのも顔を会わせないの……今はそれが二人にとっての得策なのかも知れない。私は……随分と酷い事をされたと思っている。
でも、マツバさんの事を心の底から嫌いになる事も憎む事も出来なかった。そんな中途半端な気持ちがあるからこそ……、いつか何年、何十年経った後にまた良き友人としての関係を再構築出来たら……なんて淡い夢を見てしまうのだった。
とりあえずは、今後はマツバさんとは距離を置く形になるだろう。
マツバさんにとってもそれが良い筈だ。それに私も彼ももう大人なのだ。仮に周囲の目が有る所で遭遇したとしても、何事も無かったかのように振る舞う事が出来るだろう。
今は、それで良い。私は彼との関係は墓に持っていくつもりだ。誰にも知られたくないし、話す事は無い。むしろ誰にもバレたくない生涯の秘密にしておきたいとすら強く思う。特に私とマツバさんの共通の友人であるミナキさんには……絶対に知られたくなかった。私とマツバさんの関係が拗れたら、マツバさんとミナキさんの関係にも影響を及ぼしかねないし……ミナキさんが傷付くような事態になる可能性だってある。だから、決して彼にだけはこの事を知られてはいけないのだ。
マツバさんだって私との事を口外はしないだろう。どうかそうであって欲しい。
……そんな私の望みは、脆く崩れていく事になるとはこの時の私はまだ知る由もなかった。
◇
暇があればマツバさんとの事を考えてしまう。なら、なるべく暇な時間を作らないようにしよう。そう思った私は仕事に没頭する事に決めた。そして仕事が休みの日には積極的に予定を組んで、お出かけしたり好きな事をしてなるべく余計な事を考えないように努めた。私の日常生活から、マツバさんの面影が少しでも薄らぐように……。そんな日々を過ごしていた最中、望まぬ連絡が届く。
「少しだけでも会えないかな?」
文にしてみればほんの僅かなものだが、この連絡は私の心に暗い影を落としたのは確かだった。連絡主は……今、私が一番会いたくない人……マツバさんからであった。何事も無かった、少し前の時間軸なら私は直ぐさま会える旨の返信していたと思うが、今の私の精神状態的にそれはかなり厳しい。
会えないと一言送ろうとしても、文字を入力するどうしても指先が震えてしまい結局は送信には至らず。結果的に連絡を無視する形になってしまった事に罪悪感はあるものの……これでマツバさんも察してくれるだろう。そんな淡い期待を抱いていたが、彼からの連絡が止まる事は無かった。
メッセージに加えて着信履歴がマツバさんで埋まっていく。私がどれだけ応じなくても一方的に……途切れる事は無かった。
その事態に私の心は掻き乱されていく。少しばかり放っておいて欲しい……今の私では貴方との接触は難しいんです、マツバさん。それをどうにか分かって欲しくても、伝える事すら困難を極めた。そんな心が不安定に揺らぐ中、とうとうその時は訪れた。
◇
「今日も残業させて悪かったね~」
「いえ、帰っても暇なので……」
「いつも助かってるよ~!本当にありがとう!」
時刻は定時をとっくに過ぎていた。今度開催されるコガネ百貨店のセールに向けて色々と準備に励む中で、残業をする事も増えていく。今日は同僚が残れないとの事だったので代わりに私がその分の仕事を済ませておいたので、もうこんな時間になってしまったようだ。そろそろ切り上げて帰ろうかと、共に残っていた支配人に促される形で私は帰り支度をしていく。
「だいぶ遅くなったけど……夜道大丈夫?家の近くのコンビニとかまで送ろうか?」
「お気遣いありがとうございます。でも歩いて帰れますし、それにポケモン達もいるので大丈夫ですよ」
「そう……じゃあ気を付けてね~!お疲れ様!」
「お疲れ様です」
私とは帰り道が逆方向の支配人に軽く一礼をした後、私も帰り道にへと体を向けた。夜道か……、今日はそらをとぶで帰っても良いかもな。そんな事を考えながら手持ちをボールから出そうした私の腕を、不意に誰かが掴んだ。
突然音もなく現れた人の気配と、掴まれた腕の衝撃に私が声も出せずに驚いていると……闇の中から響く声が耳に届く。
「……お疲れ様」
それは、久しく聞いていない……私の親友だった人の声だった。
「残業だったの?最近忙しいみたいだね」
「……わざわざ、待っていたのですか……?」
「勿論。そうでもしないと君と会えないと思ったんだ」
話をしているだけで背筋に寒気が走っていく。悪寒とも呼べるだろうそれに凍える私とは裏腹に彼……マツバさんはいつもの穏やかな声で、話を続けていった。
「君とはちゃんと話をしなくちゃならないと思ってね。仕事終わりに悪いけど、時間を作って貰いたかったんだ」
「……あの……」
「とりあえず立ち話で済むような内容じゃないし……君の家か僕の家に来てもらいたいんだよね」
何事も無かったかのように振る舞う。それが理想だったけど、いざ張本人に対面すると私の方がそれを上手く出来なかったようだった。あの時の恐怖の時間を思い出し、脈拍が早くなっていくと同時に吐き気も込み上げてきた。そんな私の様子を知ってか否か、マツバさんは強引に私の腕を引き歩き始める。
「……コガネシティは相変わらず栄えているね。二人きりになれる場所は双方の家以外でもありそうだけど……君が選んでいいよ」
「え……」
「ほら、あのネオンが光ってる方角って大人の休憩場所でしょ?まぁ、ホテルでもあるし宿泊も出来るね」
「そ、そこは……!」
マツバさんが向かっているのは、ネオンがギラギラと妖しく光り輝く一角……所謂大人の宿泊施設が立ち並ぶ場所だった。
そんな所なんて行きたくない……!何とかマツバさんの腕を振り払おうとしても男の強い力で掴まれては振りほどく事は難しい。いっそ強引にでも自分のポケモン達に頼って何とかこの窮地を脱しようかと思い、ボールに手をかけようとした瞬間……見図っていたかのようにマツバさんが口を開いた。
「ただ少し話すだけだよ?それも拒むのなら……あの日の出来事誰かに言っちゃおうかな~?」
「!!そ、それは……駄目です!」
「なら変な真似は考えないでね?ほら、着いたしさっさと入ろうか」
「…………」
マツバさんの言い方は優しいものの、言葉には私の反抗を許さない圧が滲んでいた。彼の言いなりになる形で、私達はネオン街の一角にある建物の中に姿を消すのであった。
◇
「僕、こういう所って初めて来たけど……こんな感じなんだね~」
「…………」
「ほら、立ってないで君も座りなよ」
マツバさんはソファーに腰掛けたものの、彼の隣に座るのは抵抗があった。少しでも距離を取りたくて、行儀が悪いのは承知の上で私は部屋の大部分を占めるベッドの端に座った。
マツバさんの目すらまともに見れない今、彼がどんな表情を浮かべているのかは分からないが、俯く私を見つめる視線だけは感じ取る。
「……ここが空いてるのに、わざわざそんな場所に座るのか。ふーん、そうなんだ」
「…………」
「まぁ、それは良いや。……それにしても久しぶりだね。あの日以来じゃない?」
「…………そうですね」
「僕は未だにあの日の事をハッキリと覚えているよ。今でも夢に見るぐらいにはね」
「……話とはなんですか?」
……駄目だ、彼と話をしているだけで悪寒が止まらないし息が苦しくなっていく。早くこの場を終わらせて帰りたい。一人になりたかった。あの日の出来事を連想させるような物言いのマツバさんに、私は堪らず彼の言葉を遮るかのように何とか声を振り絞った。
「話はあるけど、せっかく久しぶりに会えたんだしもう少しゆっくりしていこうよ」
「明日も仕事なので……」
「そう、じゃあ泊まった方が良いね。ここからならコガネ百貨店も近いでしょ」
「そんな事……無理です。出来ません……」
彼と共に過ごす事に対して抱いた感情は、もはや拒絶に近かった。もう、一刻も早くこの場から立ち去りたい。これ以上マツバさんと顔を合わせる事がだひたすらに辛かった。
「……話が無いなら、私は帰ります」
「釣れないなぁ。ま、そろそろ本題に入っても良いかな。……君は僕との関係を誰かに話したのかな?」
「……話せる訳がないじゃないですか」
「そうだよね、反応的にそうだと思っていたんだけど、確信したよ。君はそんなに僕との関係を誰にも知られたくないの?」
「当然です……こんな事……私は隠し通します」
「なんで?」
「なんでって……、マツバさんは知られても良いんですか?」
「うん、僕は別に構わないけど?むしろ隠しているより皆に知って欲しいなとすら思っているよ」
……有り得ない。私にはマツバさんの話している事の内容がまるで理解出来なかった。そもそもあの行為は両者の合意の上では無い。一方的に行なわれた事なのだ。それなのに……わざわざそれを吹聴するなんて……どう考えてもおかしい。混乱する私に対してマツバさんは嘲笑するかのように言葉を続けた。
「……理解できないって顔してるね。でもさ?考えてもみなよ。親しい異性とそういう関係だったなんて周囲の人が知っても皆そこまで驚かないと思わない?」
「でも……あれは一方的に……」
「もしも僕達の関係が世間にしれたとしら、君はそう言えるのかな?犯されました、なんて言ったら周囲の人は君をどんな目で見ると思う?」
「……だからこそ、二人だけの秘密にしておくのが得策なんじゃないんですか……」
「それは君だけが都合の良い話だよね。さっきも言った通り、僕は周囲にバレても構わない。それに君と僕が仲睦まじいのは皆が知っている。その前提がある中で君の主張を信じてくれる人がどのくらいいるのかなぁ……」
「……マツバさん、貴方の考えが……私には分かりません。……なんでそんな事が言えるんですか……」
「僕の考え?あぁ、そういえばまだ言ってなかったね。とりあえず既成事実が出来た訳だし、責任は取ろうと思ってね。僕達、付き合おうよ」
「……は?」
予想せぬ言葉に思わず顔をあげると、マツバさんは目を細めてこちらを見つめていた。見慣れた筈のその笑顔が、今はただただ……怖かった。先ほどから理解の範疇を越えた彼の発言に、私は情けない事に恐怖心すら覚えてしまっていた。
そんな私の心など知らぬと言った様子で、マツバさんは言葉を続けていく。
「言っただろ?責任は取るって」
「私はそんな事、望んでません……!」
「じゃあ何が望みなの?」
「……正直に申すとマツバさんとは、私の心が落ち着くまで距離を置きたいです……」
「なにそれ?無理なんだけど」
「無理って……私にとってマツバさんの話は受け入れ難いものなんです……。どうか、分かって下さい……!」
「あー、そう。僕の事を拒絶するんだ。ふーん……」
私の懇願に近い頼みを聞いたマツバさんは、先程までの和かな表情を一転させて無表情になる。その目はあの日私を強引に抱いたマツバさんを想起させるものだった。どこまでも暗くて、深淵を連想させるようなあの眼差しに射抜かれて、私の心身は恐怖のあまり冷たく凍り付くのであった。
「……君が大人しく僕の言う事を聞いてくれるのなら良かったんだけどなぁ。……そうしてくれたら僕だってこの事を内緒に出来たんだけど。でも君はそうじゃないみたいだし……さっきから言ってるけど僕は周囲にバレても良いんだよ?」
「……もう、好きにしたら良いじゃないですか……」
「あ、そう。じゃあ好きにさせて貰うよ。それならとりあえず今度のジムリーダー会合で話そうかな。勿論その場にはコガネジムのリーダーでもあるアカネちゃんも出席するから、終わった後が大変だねぇ。きっと僕の話はコガネシティ内で直ぐに広まっちゃうけど、そこら辺も大丈夫なの?」
「…………」
「強がっているのか、やけくそになっているのかは知らないけどさ?もう少し発言は考えた方が良いよ。それに……僕が君と関係を持ったっていう証拠もあるしね」
「え……」
「あの時の録音もあるし、写真もねー、ゲンガー達に撮って貰ってんだよねぇ。バッチリ君の姿も写っているよ。信じないなら今見せようか?」
「嘘…………」
まさかそんなものが残されていたなんて。私はマツバさんの発言に絶句する事しか出来なかった。もしかしてハッタリなのかも知れない……でも、もしも本当に録音も写真も残されていたとしたら?考えるだけで恐ろしくて仕方がない。情けない事にいつの間にか震えていた身体を、自分自身で抱き締める事しか今の私には出来なかった。
「そうだ、とりあえず一番先にミナキ君に見せちゃおうかな」
「!や、止め……止めて下さい!ミナキさんにだけは絶対に見せないで……!」
「……何その反応。君ってミナキ君の事が好きなの?だからそんなに焦ってるの?」
「ミナキさんの事を大事に思っているのは……貴方も一緒なんじゃないんですか?マツバさん……」
「うん、ミナキ君は大切な親友だよ。でも君があくまで態度を変えないなら見せちゃおうかなー?って話なだけ。……ねぇ、これでも君は自分の主張を曲げないつもり?それは随分悪手だと思うけどなー」
もうこの時点で答えは出ていた。いや、答えと言うよりかは私に残された選択肢は一つしか無かったのだ。どうしてマツバさんはここまで私の事を踏みにじる事が出来るのだろうか。二人が紡いで来た心地よい関係の全てが嘘偽りだったとでも言うのだろうか。
「マツバさん……、貴方にとって私は……一体どういう存在なんですか……?私達は、親友では……無かったのですか?」
「親友?はは、面白い事を言うね。……僕は出会った頃から君の事を一度もそんな風に思った事は無いよ」
マツバさんの嘲るような一言に、私のヒビの入っていた心が完全に砕け散った。私だけが、マツバさんの事を……親友だと思っていたんだ。その事実を突きつけられて、ただ苦しくて、砕けた筈の心が痛くて、思いが張り裂けそうになっていく。
それと同時に視界がじんわりとぼやけていく。それが涙であると認識したと同時にいつの間にか立ち上がっていたマツバさんに抱き締められた。
「……君は聡明な子だからさ。僕の言うことが聞けるよね?とりあえずせっかくこういう場所に来たんだし、一回くらいは愉しもうよ?ね、良いだろ?……まぁ、君は従うしかないだろうけどね」
耳元で囁かれた悪魔のような言葉に対しても、私は静かに涙を流す事しか出来なかった。
ホウオウが舞い降りた事で、憔悴していたマツバさんに少しでも元気を出して欲しかったのは心の底からの本音である。確かに彼は強く憧れを抱いていたが、例えそれが叶わぬ事柄でもマツバさんの未来が全て潰えた訳ではない。今は絶望の淵にいてもあの人は命ある限り這い上がって来れる、そんな人だと私は思っていた。そのお手伝いを微力ながら出来たら良かった……それが自分の考えたマツバさんへの寄り添いだったのだ。
しかし、そんな私の気持ちは……きっと彼には届く事は無いのだ。
ホウオウが舞い降りて以降、閉じこもっていたマツバさん宅に訪れた際の彼の精神状態はとても不安定だったとは思う。目元に隈を作り少しやつれた様子は見ていてとても痛々しいものだった。そんな彼が少しでも立ち直るきっかけを作る事が出来たら良いなと思った。それが私の望みでもあったが、マツバさんにとってそんな私の思いはお節介にしか過ぎなかったのだろう。あの時のマツバさんが求めていたのは、寄り添う心なんかじゃ無かったのだ。
「慰めて」
そう言って彼が私に求めた事は……今思い出すだけでも吐き気を催してしまうような行為だった。簡潔に言うと私はあの日マツバさんに犯されたのだ。長年親友だと思っていた人と肉体関係を持ってしまったという事実を消したくても、それは不可能であり、深い傷となって私に刻まれてしまった。
あの悪夢のような時間が終わっても、癒えぬ傷跡がずっと私を蝕み、苦しみを与えていく。
あの時私はどうすれば良かったんだろうか。少なくともマツバさんの家に訪れ無ければこんな事にはならなかったのだろうか。憔悴しているであろう古い付き合いの友人を放置しておけば良かったのだろうか……。いや、きっとそんな事は出来なかっただろう。
幾ら考えても、越えた一線も犯してしまった過ちも消える事は無い。
どれだけ私が悩み苦しんだとしても……だ。
私にとってマツバさんとは、古くからの友人……もはや親友と呼べるような人であり、彼もまたそう思ってくれていると信じていた。だけど……そう思っていたのは、どうやら私だけだったらしい。親友同士で肉体関係なんて……持たない。
じゃあ私が今まで築き上げて来たマツバさんとの関係って何なんだろう。……確かな絆があると私は信じていたけど、マツバさんにとってはそうじゃなかったのかな。
親友だと思っていた人と強引に関係を持ってしまった事もだが、何よりもマツバさんと私の気持ちや関係性の在り方に大きな差異が感じられた事が……ただひたすらに、悲しかった。
マツバさんが、どうして……あんな事を望んだのかは分からない。情緒不安定だった、ひと時の過ちだったと……そう言って何事も無かったかのように振舞って貰えればまだ、どこかで私も割り切れたのかも知れない。あれ以降……私の方からマツバさんに連絡を取る事はしていなかった。彼を連想する度に思い出してしまうから……まだ、時日を正面から受け止める事が出来る程、私は強くなんて無かったのだ。
このまま彼を避け続けていたら……時間が解決してくれるのかも知れない。それに、マツバさんだって気まずいだろう。連絡を絶つのも顔を会わせないの……今はそれが二人にとっての得策なのかも知れない。私は……随分と酷い事をされたと思っている。
でも、マツバさんの事を心の底から嫌いになる事も憎む事も出来なかった。そんな中途半端な気持ちがあるからこそ……、いつか何年、何十年経った後にまた良き友人としての関係を再構築出来たら……なんて淡い夢を見てしまうのだった。
とりあえずは、今後はマツバさんとは距離を置く形になるだろう。
マツバさんにとってもそれが良い筈だ。それに私も彼ももう大人なのだ。仮に周囲の目が有る所で遭遇したとしても、何事も無かったかのように振る舞う事が出来るだろう。
今は、それで良い。私は彼との関係は墓に持っていくつもりだ。誰にも知られたくないし、話す事は無い。むしろ誰にもバレたくない生涯の秘密にしておきたいとすら強く思う。特に私とマツバさんの共通の友人であるミナキさんには……絶対に知られたくなかった。私とマツバさんの関係が拗れたら、マツバさんとミナキさんの関係にも影響を及ぼしかねないし……ミナキさんが傷付くような事態になる可能性だってある。だから、決して彼にだけはこの事を知られてはいけないのだ。
マツバさんだって私との事を口外はしないだろう。どうかそうであって欲しい。
……そんな私の望みは、脆く崩れていく事になるとはこの時の私はまだ知る由もなかった。
◇
暇があればマツバさんとの事を考えてしまう。なら、なるべく暇な時間を作らないようにしよう。そう思った私は仕事に没頭する事に決めた。そして仕事が休みの日には積極的に予定を組んで、お出かけしたり好きな事をしてなるべく余計な事を考えないように努めた。私の日常生活から、マツバさんの面影が少しでも薄らぐように……。そんな日々を過ごしていた最中、望まぬ連絡が届く。
「少しだけでも会えないかな?」
文にしてみればほんの僅かなものだが、この連絡は私の心に暗い影を落としたのは確かだった。連絡主は……今、私が一番会いたくない人……マツバさんからであった。何事も無かった、少し前の時間軸なら私は直ぐさま会える旨の返信していたと思うが、今の私の精神状態的にそれはかなり厳しい。
会えないと一言送ろうとしても、文字を入力するどうしても指先が震えてしまい結局は送信には至らず。結果的に連絡を無視する形になってしまった事に罪悪感はあるものの……これでマツバさんも察してくれるだろう。そんな淡い期待を抱いていたが、彼からの連絡が止まる事は無かった。
メッセージに加えて着信履歴がマツバさんで埋まっていく。私がどれだけ応じなくても一方的に……途切れる事は無かった。
その事態に私の心は掻き乱されていく。少しばかり放っておいて欲しい……今の私では貴方との接触は難しいんです、マツバさん。それをどうにか分かって欲しくても、伝える事すら困難を極めた。そんな心が不安定に揺らぐ中、とうとうその時は訪れた。
◇
「今日も残業させて悪かったね~」
「いえ、帰っても暇なので……」
「いつも助かってるよ~!本当にありがとう!」
時刻は定時をとっくに過ぎていた。今度開催されるコガネ百貨店のセールに向けて色々と準備に励む中で、残業をする事も増えていく。今日は同僚が残れないとの事だったので代わりに私がその分の仕事を済ませておいたので、もうこんな時間になってしまったようだ。そろそろ切り上げて帰ろうかと、共に残っていた支配人に促される形で私は帰り支度をしていく。
「だいぶ遅くなったけど……夜道大丈夫?家の近くのコンビニとかまで送ろうか?」
「お気遣いありがとうございます。でも歩いて帰れますし、それにポケモン達もいるので大丈夫ですよ」
「そう……じゃあ気を付けてね~!お疲れ様!」
「お疲れ様です」
私とは帰り道が逆方向の支配人に軽く一礼をした後、私も帰り道にへと体を向けた。夜道か……、今日はそらをとぶで帰っても良いかもな。そんな事を考えながら手持ちをボールから出そうした私の腕を、不意に誰かが掴んだ。
突然音もなく現れた人の気配と、掴まれた腕の衝撃に私が声も出せずに驚いていると……闇の中から響く声が耳に届く。
「……お疲れ様」
それは、久しく聞いていない……私の親友だった人の声だった。
「残業だったの?最近忙しいみたいだね」
「……わざわざ、待っていたのですか……?」
「勿論。そうでもしないと君と会えないと思ったんだ」
話をしているだけで背筋に寒気が走っていく。悪寒とも呼べるだろうそれに凍える私とは裏腹に彼……マツバさんはいつもの穏やかな声で、話を続けていった。
「君とはちゃんと話をしなくちゃならないと思ってね。仕事終わりに悪いけど、時間を作って貰いたかったんだ」
「……あの……」
「とりあえず立ち話で済むような内容じゃないし……君の家か僕の家に来てもらいたいんだよね」
何事も無かったかのように振る舞う。それが理想だったけど、いざ張本人に対面すると私の方がそれを上手く出来なかったようだった。あの時の恐怖の時間を思い出し、脈拍が早くなっていくと同時に吐き気も込み上げてきた。そんな私の様子を知ってか否か、マツバさんは強引に私の腕を引き歩き始める。
「……コガネシティは相変わらず栄えているね。二人きりになれる場所は双方の家以外でもありそうだけど……君が選んでいいよ」
「え……」
「ほら、あのネオンが光ってる方角って大人の休憩場所でしょ?まぁ、ホテルでもあるし宿泊も出来るね」
「そ、そこは……!」
マツバさんが向かっているのは、ネオンがギラギラと妖しく光り輝く一角……所謂大人の宿泊施設が立ち並ぶ場所だった。
そんな所なんて行きたくない……!何とかマツバさんの腕を振り払おうとしても男の強い力で掴まれては振りほどく事は難しい。いっそ強引にでも自分のポケモン達に頼って何とかこの窮地を脱しようかと思い、ボールに手をかけようとした瞬間……見図っていたかのようにマツバさんが口を開いた。
「ただ少し話すだけだよ?それも拒むのなら……あの日の出来事誰かに言っちゃおうかな~?」
「!!そ、それは……駄目です!」
「なら変な真似は考えないでね?ほら、着いたしさっさと入ろうか」
「…………」
マツバさんの言い方は優しいものの、言葉には私の反抗を許さない圧が滲んでいた。彼の言いなりになる形で、私達はネオン街の一角にある建物の中に姿を消すのであった。
◇
「僕、こういう所って初めて来たけど……こんな感じなんだね~」
「…………」
「ほら、立ってないで君も座りなよ」
マツバさんはソファーに腰掛けたものの、彼の隣に座るのは抵抗があった。少しでも距離を取りたくて、行儀が悪いのは承知の上で私は部屋の大部分を占めるベッドの端に座った。
マツバさんの目すらまともに見れない今、彼がどんな表情を浮かべているのかは分からないが、俯く私を見つめる視線だけは感じ取る。
「……ここが空いてるのに、わざわざそんな場所に座るのか。ふーん、そうなんだ」
「…………」
「まぁ、それは良いや。……それにしても久しぶりだね。あの日以来じゃない?」
「…………そうですね」
「僕は未だにあの日の事をハッキリと覚えているよ。今でも夢に見るぐらいにはね」
「……話とはなんですか?」
……駄目だ、彼と話をしているだけで悪寒が止まらないし息が苦しくなっていく。早くこの場を終わらせて帰りたい。一人になりたかった。あの日の出来事を連想させるような物言いのマツバさんに、私は堪らず彼の言葉を遮るかのように何とか声を振り絞った。
「話はあるけど、せっかく久しぶりに会えたんだしもう少しゆっくりしていこうよ」
「明日も仕事なので……」
「そう、じゃあ泊まった方が良いね。ここからならコガネ百貨店も近いでしょ」
「そんな事……無理です。出来ません……」
彼と共に過ごす事に対して抱いた感情は、もはや拒絶に近かった。もう、一刻も早くこの場から立ち去りたい。これ以上マツバさんと顔を合わせる事がだひたすらに辛かった。
「……話が無いなら、私は帰ります」
「釣れないなぁ。ま、そろそろ本題に入っても良いかな。……君は僕との関係を誰かに話したのかな?」
「……話せる訳がないじゃないですか」
「そうだよね、反応的にそうだと思っていたんだけど、確信したよ。君はそんなに僕との関係を誰にも知られたくないの?」
「当然です……こんな事……私は隠し通します」
「なんで?」
「なんでって……、マツバさんは知られても良いんですか?」
「うん、僕は別に構わないけど?むしろ隠しているより皆に知って欲しいなとすら思っているよ」
……有り得ない。私にはマツバさんの話している事の内容がまるで理解出来なかった。そもそもあの行為は両者の合意の上では無い。一方的に行なわれた事なのだ。それなのに……わざわざそれを吹聴するなんて……どう考えてもおかしい。混乱する私に対してマツバさんは嘲笑するかのように言葉を続けた。
「……理解できないって顔してるね。でもさ?考えてもみなよ。親しい異性とそういう関係だったなんて周囲の人が知っても皆そこまで驚かないと思わない?」
「でも……あれは一方的に……」
「もしも僕達の関係が世間にしれたとしら、君はそう言えるのかな?犯されました、なんて言ったら周囲の人は君をどんな目で見ると思う?」
「……だからこそ、二人だけの秘密にしておくのが得策なんじゃないんですか……」
「それは君だけが都合の良い話だよね。さっきも言った通り、僕は周囲にバレても構わない。それに君と僕が仲睦まじいのは皆が知っている。その前提がある中で君の主張を信じてくれる人がどのくらいいるのかなぁ……」
「……マツバさん、貴方の考えが……私には分かりません。……なんでそんな事が言えるんですか……」
「僕の考え?あぁ、そういえばまだ言ってなかったね。とりあえず既成事実が出来た訳だし、責任は取ろうと思ってね。僕達、付き合おうよ」
「……は?」
予想せぬ言葉に思わず顔をあげると、マツバさんは目を細めてこちらを見つめていた。見慣れた筈のその笑顔が、今はただただ……怖かった。先ほどから理解の範疇を越えた彼の発言に、私は情けない事に恐怖心すら覚えてしまっていた。
そんな私の心など知らぬと言った様子で、マツバさんは言葉を続けていく。
「言っただろ?責任は取るって」
「私はそんな事、望んでません……!」
「じゃあ何が望みなの?」
「……正直に申すとマツバさんとは、私の心が落ち着くまで距離を置きたいです……」
「なにそれ?無理なんだけど」
「無理って……私にとってマツバさんの話は受け入れ難いものなんです……。どうか、分かって下さい……!」
「あー、そう。僕の事を拒絶するんだ。ふーん……」
私の懇願に近い頼みを聞いたマツバさんは、先程までの和かな表情を一転させて無表情になる。その目はあの日私を強引に抱いたマツバさんを想起させるものだった。どこまでも暗くて、深淵を連想させるようなあの眼差しに射抜かれて、私の心身は恐怖のあまり冷たく凍り付くのであった。
「……君が大人しく僕の言う事を聞いてくれるのなら良かったんだけどなぁ。……そうしてくれたら僕だってこの事を内緒に出来たんだけど。でも君はそうじゃないみたいだし……さっきから言ってるけど僕は周囲にバレても良いんだよ?」
「……もう、好きにしたら良いじゃないですか……」
「あ、そう。じゃあ好きにさせて貰うよ。それならとりあえず今度のジムリーダー会合で話そうかな。勿論その場にはコガネジムのリーダーでもあるアカネちゃんも出席するから、終わった後が大変だねぇ。きっと僕の話はコガネシティ内で直ぐに広まっちゃうけど、そこら辺も大丈夫なの?」
「…………」
「強がっているのか、やけくそになっているのかは知らないけどさ?もう少し発言は考えた方が良いよ。それに……僕が君と関係を持ったっていう証拠もあるしね」
「え……」
「あの時の録音もあるし、写真もねー、ゲンガー達に撮って貰ってんだよねぇ。バッチリ君の姿も写っているよ。信じないなら今見せようか?」
「嘘…………」
まさかそんなものが残されていたなんて。私はマツバさんの発言に絶句する事しか出来なかった。もしかしてハッタリなのかも知れない……でも、もしも本当に録音も写真も残されていたとしたら?考えるだけで恐ろしくて仕方がない。情けない事にいつの間にか震えていた身体を、自分自身で抱き締める事しか今の私には出来なかった。
「そうだ、とりあえず一番先にミナキ君に見せちゃおうかな」
「!や、止め……止めて下さい!ミナキさんにだけは絶対に見せないで……!」
「……何その反応。君ってミナキ君の事が好きなの?だからそんなに焦ってるの?」
「ミナキさんの事を大事に思っているのは……貴方も一緒なんじゃないんですか?マツバさん……」
「うん、ミナキ君は大切な親友だよ。でも君があくまで態度を変えないなら見せちゃおうかなー?って話なだけ。……ねぇ、これでも君は自分の主張を曲げないつもり?それは随分悪手だと思うけどなー」
もうこの時点で答えは出ていた。いや、答えと言うよりかは私に残された選択肢は一つしか無かったのだ。どうしてマツバさんはここまで私の事を踏みにじる事が出来るのだろうか。二人が紡いで来た心地よい関係の全てが嘘偽りだったとでも言うのだろうか。
「マツバさん……、貴方にとって私は……一体どういう存在なんですか……?私達は、親友では……無かったのですか?」
「親友?はは、面白い事を言うね。……僕は出会った頃から君の事を一度もそんな風に思った事は無いよ」
マツバさんの嘲るような一言に、私のヒビの入っていた心が完全に砕け散った。私だけが、マツバさんの事を……親友だと思っていたんだ。その事実を突きつけられて、ただ苦しくて、砕けた筈の心が痛くて、思いが張り裂けそうになっていく。
それと同時に視界がじんわりとぼやけていく。それが涙であると認識したと同時にいつの間にか立ち上がっていたマツバさんに抱き締められた。
「……君は聡明な子だからさ。僕の言うことが聞けるよね?とりあえずせっかくこういう場所に来たんだし、一回くらいは愉しもうよ?ね、良いだろ?……まぁ、君は従うしかないだろうけどね」
耳元で囁かれた悪魔のような言葉に対しても、私は静かに涙を流す事しか出来なかった。
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