空が泣いた夜
あれは忘れもしない、雨音のする夜の出来事だった。
私とマツバさんの関係が大きく代わり、そしてその事によって私が酷く苦悩に苛まれる事になるなんて……その時は思いもしなかったのだった。
◇
「この様子だと明日も雨かな」
降っている雨はあまり激しくは無かったものの、傘を刺さずに歩いていれば濡れてしまうぐらいだった。
外の様子を伺ってそんな事を呟きながら私は寝支度を始めていく。手持ちのポケモン達は既にうとうととしている子もいたので、ボールに戻した。
いつの間にか時刻は日付を跨いで明日が今日になっていた。
そろそろ私も寝ようかとベッドに入ろうとしてその瞬間に、玄関のチャイムが鳴らされた。
ピンポーンと無機質な静かな音が空間に鳴り響く。
「……こんな夜更けに、一体誰だろう?悪戯かな」
少なくとも時間的に考えて絶対に宅配な訳ないし、業者でもないだろう。
じゃあ一体誰が鳴らしているのだろう?野生のゴース達の悪戯だろうか?
ここで無視して寝てしまおうか悩んだものの、何となくポケモン達の悪戯だとは思えなかったので、私は恐る恐る玄関までいき、ゆっくりと来客を映すモニターを見る。
真夜中の来客は、確かに存在していた。
しかもそれは随分と見慣れた人であり……玄関の前に佇むその姿を目にした瞬間、私は反射的にドアを開けてしまったのだった。
「……やぁ、まだ起きていたんだね」
「え、……マツバさん……?」
扉を開けると、真っ先に視界に入ってくるのはこの真夜中を照らす月のような美しい金髪だった。深夜の来客は自分にとって何とも近しい存在であり、先程までどこか緊張していた気持ちはいとも簡単に緩んでしまった。
今、私の家を訪れているその人は……エンジュシティのジムリーダーであり千里眼を持つ修験者としてもこのジョウト地方で名が知れ渡っている人である。
そしてこの人は私とミナキさんの幼馴染でもあり、親友でもある人だった。
「こんな夜更けにどうしたんですか?……って、マツバさん……ずぶ濡れじゃないですか」
「所用を終えての帰り道だったんだけど、生憎傘を持っていなくてね。……もし君が起きていたら少しだけ雨宿りさせて貰おうかなと思っていたんだ」
「とりあえずそのままじゃ風邪を引いてしまいます。中に入って下さい」
「……ありがとう、それじゃあお邪魔させて貰おうかな」
「あ、少しだけ玄関で待ってて下さい。一旦バスタオルで身体を拭いて水気を取りましょう。ちょっと待ってて下さいね」
マツバさんの髪の毛から水が滴るのを見て、私は急いでバスタオルを取りに向かった。その際にマツバさんが少しだけ笑っているように見えたのは、今となっては私の幻覚だったのかも知れない。
◇
「……悪いね、こんな時間にシャワーまで借りちゃって」
「いえいえ。マツバさんが風邪を引いてしまう方が大変なので……こんな事お安い御用ですよ」
とりあえず身体を拭いて貰った後に、マツバさんにはシャワーを浴びてもらった。彼がシャワーを浴びている間に私は急いでマツバさんの着替えを探す。幸いにも男女兼用出来るスウェットがあったのでそちらを着て頂く事にして貰った。
私のスウェットを着るマツバさんは、何だか見慣れない姿であった。彼のトレードマークのバンダナも外しているので、まるで知らない人のように見えてしまう。
目の前の人は確実にマツバさんなのに、いつもと格好が違うだけでそんな風に見えてしまうなんてそれが不思議と新鮮に感じられたのだった。
外の雨の勢いはどんどんと増していく。
土砂降りとまではいかないも、激しく振る雨の音を聞きながらこの後をどうしようかと考えた。
濡れてしまったマツバさんの服を洗濯しなきゃいけないなとか、このまま泊まっていって貰った方がよいよね?とか色々考えていた私に、ふとマツバさんが口を開いた。
「今、僕が着ている服って……君のだよね?」
「えぇ、そうですよ。私のお古で申し訳ないですが……」
「いや、君が謝る事は全然無いよ。ただ、確認したかっただけ」
そう言いながらマツバさんは何処か目を細める。
なんでそんな事が聞いてきたのか疑問を覚えたけど、今はそっちに気を取られている暇ない。
とりあえず急いで洗濯機を回して、マツバさんが眠れるように来客用の布団を用意しなきゃ……。
そんな事を思いながら私はマツバさんに背を向けた。
「マツバさん、少しだけそこで待ってて下さいね。洗濯と寝床の準備をしてきますので」
そう言いながら私がこの部屋から離れようとしたその瞬間……、私の身体は囚われたかのように動けなくなる。
何故そうなったか、原因は直ぐに分かった。
マツバさんが背後から私の事を抱き締めているからだ。
いきなり重なった体温に私は酷く驚き、声すらも出せずにいたがそんな事はお構い無しといった様子でマツバさんは口を開いていく。
「……そんな焦らないでも良いよ。僕はもう少し君と居たい」
そう言いながら彼は私を抱き締める腕に力を込めていく。
突然の出来事に私は呆然としていたものの、直ぐにハッと我に返った。
「マ、マツバさん……!?一体どうしたんですか!?」
「いや、君が着ていた服を着ていると思ったら何だか高揚してしまってね……。直に君に触れたくなってしまったんだよ」
「な、何を仰っているんです!?マツバさん……!」
この現状に戸惑いながらも、何とかマツバさんの腕から逃れようとじたばた暴れる。だけどそんな私の事なんて意に介さない様子で彼は平然としていた。
「そんなに暴れないで」
「いや……!離して下さい……!マツバさん!」
「……嫌だと言ったら?」
「っ!なんで……こんな事を……!?」
マツバさんは背後にいるので、どんな表情をしているかは分からない。だからこそ彼の得体のしれなさが顕著に浮かび上がり、それが私の中で激しい動揺と不穏を植え付けていく。
「……寒いね」
彼は私の耳元でポツリと囁いた。その声にいつものマツバさんの穏やかな声色とは違い、どこか冷めていたように感じてしまった。明らかに今のマツバさんは私の知っているマツバさんでは無い、本当に知らない人のようだと思えてしまった。
……これが本当に赤の他人にされているのならば、ここまで動揺はしなかったのかも知れない。身体に触れられているという嫌悪感のみしか湧かなかっただろう。
だが、今、私を抱き締めている人物が誰よりも親しんで来た人だからこそ今の現状に酷く狼狽しているのである。
昔から付き合いのある、親友とも呼べる人だからこそマツバさんの事は他の人よりも知っているつもりだった。だから彼が冗談でこんな事をするような人では無いと認識している訳であり……。
あぁ、もう考えが上手く纏まらない。とりあえず離して欲しい。今はその思考にひたすら取り憑かれていた。
「マツバさん!!早く離して下さい!」
「…………」
「聞いてます?マツバさんたら!」
「……僕はさっきから寒くて仕方がないんだ。……だからさぁ」
「きゃっ!?」
そこまで言ってマツバさんは、私の身体を近くに置いてあったソファーに軽く投げ飛ばす。解放はされたものの、いきなり投げ飛ばされてしまい、直ぐにこの事態に身体と思考が反応が出来なかった。
そんな固まる私に覆い被さるように、マツバさんもソファーに乗っていく。二人を乗せたソファーが軋む音が、何とも耳障りで仕方がなかった。
先程まではとは違い、今はマツバさんの顔がハッキリ見える。しかし、私がマツバさんの瞳を目にした瞬間……あまりの冷たさにこの身を凍えさせてしまうのだった。
私を見下ろすマツバさんの目は、いつもの穏やかな温もりは無かった。例えるなら得物を見つけた狼のように、彼の瞳は冷徹かつギラギラと妖しく爛々としていた。
そんなマツバさんの眼差しに射抜かれた私は、捕食者に出くわした弱々しい生き物が抱くような多大なる恐怖が生じ、震えにこの身を支配されていってしまった。
そんな彼の対して情けない事に歯をカチカチと鳴らしながら怯える私に対して、マツバさん目を細めてゆっくりと告げる。
「だから、君が温めてくれよ」
彼にそう言われてからの事は……正直、思い出したくない。
だが、あの雨の降る夜に……私とマツバさんは一線を超えてしまったのだった。私の素肌に触れるマツバさんに、何度も「やめて」と訴えても彼はそんな頼みを聞いてくれる事は無く……マツバさんの手が、指が、舌が……無遠慮に私の身体を這いずり回った。そしてそのまま……、私が望まぬ形で二人は結合してしまったのだった。
今でも思い返す度に、あの時抱いた恐怖が蘇っていく。
なんで、こんな事になってしまったのか。私は一体どうすれば良かったのか……あの晩ずぶ濡れのマツバさんを招き入れ無ければこんな事にはならなかったのかな……。
幾ら考えても取り返しがつかない事なのは、間違いはない。
どれだけ悔やんでも、泣いたとしても、私の初めては自分の望まぬ形で消失したのは消える事の無い事実である。
自分の身体の価値を決して高く見積もるつもりは無い。
だけど、こんな風に無理やりな経験はしたくなかったし……それも奪った相手がずっと親しんでいたマツバさんだと思うと……私の心は張り裂けてしまいそうになるくらいに辛くなるのだった。
「……どうしてなんですか……マツバさん」
貴方と私は、親友。
そう思っていたのは私の方だけだったのかな?
じゃあ私とマツバさんが今まで築き上げて来たものって……一体何だったんだろうか?幾ら考えても答えは出ない。
代わりに出てくるのは悲痛を訴える涙だけだった。
◇
あの雨の夜の一件があってから、私はマツバさんと今後どう向き合うべきかを考えた。身体を重ねた事実はもう消す事は出来ない。だけど、私は例え酷い事をされたとしても心の底からマツバさんの事を憎む事も嫌いになる事も……どちらにもなれなかった。
私の理想としては何もかも無かった事にしたい。
マツバさんと接するのは今直ぐには難しいかも知れないが……いつかまた……以前の関係にまでとは厳しいと思うけど、それでも彼の良き友人には戻りたいと切に願ってしまうのだった。
それにマツバさんは何故……あの夜、あんな事を仕出かしたのだろうか?とも気になるが……考えてしまう事自体が苦悩であり憂鬱でもあるのだった。
彼の女性ファンは数多いる。言葉悪く言うと、相手なんて選り取りみどりだと思うのだが……手頃な所で済ませたかったのかな。
……それで、あの時は魔が差して……私を……。
こんな事を考える度に、胸が苦しい程に締め付けられていく。
私は一体これからどうすれば良いんだろう。
あれからマツバさんからの連絡は無い。
もしかして向こうも気まずいのかも知れないな……。
じゃあ、私からの連絡も控えた方が良いのかも知れない。
でも……そうしたらこのまま、自然消滅しちゃうのかな。
そう思ったら寂しさを抱いてしまうくらいに、やはり私はマツバさんの事も今までの思い出達も簡単に切り捨てる事が出来なかった。
マツバさんには視えているのかな、二人の未来がどうなっているのかが。
……私にも千里眼が使えたら良いのにな。
そんな事出来る訳が無いのに、下らぬ妄言が真実にならぬかを願っては止まないのだった。
◇
静かな昼下がり。
適度に来客のある店内では一人時間を楽しむ人達が穏やかにコーヒーブレイクを満喫している様子が多く見受けられる。
そんな人達の中に私とマツバさんは紛れていた。
「……いやぁ、最近ジムリーダー業で他の地方に行っていてね。昨日ようやくジョウトに帰ってきたんだよ」
「……そうなんですね、お疲れ様です」
そう言いながら対面に座るマツバさんは珈琲に口をつけていく。
その様子を何処か気まずそうに見つめているのが、今の私の現状であった。
彼に連絡しようかどうするべきかを悩んでいた私の元に、ある夜の帰り道に一体のゲンガーが突然姿を現した。
一目見てマツバさんの所のゲンガーだと認識したので、とりあえず彼と向き合ってみるとゲンガーはニコニコしながら私に一通の手紙を差し出してくる。
それをマツバさんから私に宛てた手紙であった。
その内容は簡潔にいうと、話があるのでいつもの場所に来て欲しいとの事だった。いつもの場所とは、私とマツバさんが良く訪れていたカフェの事だろう。そこで指定された日時で待っているとの旨が書かれた手紙を見た時、私はどうするべきかを即座に考えた。今でも毎日……あの夜の事を思い出しては吐き気を催してしまう。そんな精神状態で彼と会ったら私は一体何を思うのだろうかと、強い不安が襲いかかって来る。
しかし私は悩みに悩み抜いて……結局は彼の言う通りにする事にしたのだった。 とりあえず、向き合って話したら……何かが変わるかも知れないと信じていたのかも知れない。
しかし……私の考えは甘かった。
実際にマツバさんと会ってみて今すぐにでもこの場から立ち去りたくなってしまった。そう思ってしまうぐらいに心は未だに安寧を得ておらず、不安と恐れに侵食されているのだなと痛感していく。
まだ、マツバさんに会うのは早かったかも知れない……。
今日は具合が悪くなった事にして帰った方が良さそうかも……そんな感情と湧き上がる吐き気を抑えていたら、いつの間にかマツバさんは珈琲を飲み終えていたようだった。
「……さっきから何も話してくれないね」
「…………」
「まぁ良いや。君が話さないなら僕が話すだけなんだけどね。……とりあえず、僕達付き合わない?」
「……は?……どういうことですか、マツバさん……」
「 言葉の通りだけど」
マツバさん発した言葉は、全然予測していなかったものであった。彼の発言に目を見開いている私に対して、マツバさんは笑顔で言葉を続けていく。
「いや、だってさ?あんな事しちゃったんだし……その責任は取ろうと思って」
「……私は……そんな事、求めて無いです……」
あまりにも予想外のマツバさんからの言葉に、私は酷く狼狽えた。何とか振り絞った声は実に弱々しいものだったが、マツバさんには届いていたようで彼は笑顔から一転、表情を真顔に変えていく。
「……なんで?」
「なんでって……そんな事を急に言われても……困ります……」
「なんで困るの?婚前交渉した責任は取るってだけの話だろ?」
「……私は、マツバさんとそのような関係になるつもりは、有りません……」
「……ふーん。僕とあんな事しておいて、今更拒むんだ?」
マツバさんの私を咎めるかのような物言いに、思わず黙り込んでしまった。
……そもそも、あんな事だって私は望んでいなかったのに。
どうしてここまで話が拗れてしまうのだろうか。
油断するとじんわりと涙が零れてしまいそうになるのを何とか我慢しながらも、言葉を探す。
そんな私に対してマツバさんは溜息を零した後に、またしても笑顔を浮かべて口開いた。
「まぁ、悪いけど君の意思は汲んであげられないんだ。……エンジュの掟がある限りはね」
「……掟?」
「そう。……エンジュシティは古くから様々な伝承が言い伝えられている町なのは君も知ってるよね?その言い伝えの中にエンジュで生を受けた者は初めて身体を重ねた相手と生涯を共にする……って云うのがあるんだよねー」
「は……?」
「僕はエンジュ出身だから、掟には背けない。だから君の意志よりも僕は掟に従う事を優先させて貰うよ」
「そ、そんな事……!私は知りませんよ!?」
「ほらほら、あまり大声出さないで?皆の注目の的になっちゃうよ?」
周囲の人々は、私が大きめな声を出したからチラリとこちらに視線を向けている。しかし、今の私はそれ所じゃ無かった。
エンジュシティが歴史のある町である事なのは知っていたし、マツバさんからも時たま、古からの伝承の話を聞いたことがあったのは確かだ。だけど……今、マツバさんが話をしたような伝承は初耳だった。激しく動揺する私を宥めるかのように、マツバさんは言葉を続けていく。
「あれ?君には話していなかったかな?でも、掟は掟だからね?従わなきゃいけないんだ」
「わ、私はエンジュシティ生まれじゃないです!」
「うん、そうだね。だから何?」
「……そんな……マツバさん……。そんな話を知っていながら……あんな事をしたんですか……?」
あまりにも残酷な事実に、私は声を震わせながらマツバさんに問い掛けた。
すると彼は、私の問に何処かその瞳を恍惚に輝かせながら返事をする。
「うん。だって……こうでもしなきゃ君は手に入らないだろ?」
彼の返答に自身の身体かれ血の気が引いていくのを感じた私は、ただあまりにも無情な現実に恐れおののきながらも黙り込む事しか出来なかった。
今にも卒倒しそうになる私とは裏腹に、マツバさんは上機嫌で私の事を見つめ続けていく。その瞳が今はただただ、恐ろしい。
「私達は……親友では無かったのですか……」
「はは、君は面白い冗談を言うね。……君が僕の親友な訳……無いだろ」
呆然としながら呟いた言葉に、マツバさんは吐き捨てるように答える。その言葉がただひたすらに胸を突き刺して、痛かった。
「とりあえず、そういう訳だからよろしくね」
マツバさんが何か言っているが、魂の抜かれ人形のようになっている今の私には何も耳に入らない。ただ、私だけが一方的に彼の事を親友だと思っていた事実を突きつけられて、心が苦しくて、ギュッと痛くて……悲痛な思いが張り裂けそうになって行く。
はらりと、美しい過去達が花弁となって、この手から涙と共に零れ落ちていった。
未だに受け止めきれない現実と感情の逃げ場を探して這い回る私を、常闇が飲み込む。
闇の果てから聞こえるのは、マツバさんの楽しそう笑い声だけだった。
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