愛重し陰鬱の翳り


「……私達、少し距離を置きませんか?」

静かなカフェの店内で、意を決した私が話を切り出すとマツバさんは無表情のままだ待って私を見つめた。私とマツバさんは所謂幼馴染を経てからの恋仲に至った。私の初めての恋人でもあるマツバさんは恋人関係になる前からとても優しく穏やかな人である。それは今も変わらないけど……私は知らなかったのだ。
……マツバさんはとにかく私しか見えていなくて、彼の世界の中心が私で回っているという事を……。
交際に至ってから、肌を重ねるまでそんなに長い時間は掛からなかったと思う。私としてはもう少しゆっくりでも良いかなと思っていたが、マツバさんは頻りに私を求めたのだった。

あまりそういった感情を表に出さないであろうマツバさんの切望にも似た頼みを断り切れる事が出来ずに、結局は付き合って一ヶ月程で身体の関係を結ぶ事になった。
私も初めてだったし、マツバさんもそういう経験が無かったので本当に初めて同士って事で緊張しながらも、愛を育んだという言葉の美しさに何処か酔いしれていた自分が居た。
しかし、それ以降……マツバさんは少し変わったのだった。

夜が来る度に私を強く求めるようになった。初めてを最愛の人に捧げたのだから何も悔いは無いし、そういった行為自体を気恥ずかしくは思うもののマツバさんに触れられる事は嫌ではない。だけど……まず私が思うに頻度が多すぎるのだ。毎日毎日抱かれるのは、純粋にこちらの体力が持たないのだ。
しかも一晩で複数回、行為に及ぶ日だってある。マツバさんは細身でも男の人だから平気なのかも知れないけど、私は正直に言うとしんどい時もあるのだ。でもそれはただ単にこちらの体力が無いだけの問題なのかもしれないが……それとは別に私は気掛かりな事がある。

それは行為の最中、マツバさんが避妊をしたくないような物言いを始めた事だった。初めてそう言われた時は驚きのあまり固まってしまったぐらいに、私にとっては衝撃的な発現だったのである。幾ら大好きなマツバさんの頼みとはいえ、それを聞いてあげる事は今の段階では無理だ。まだ二人は恋人という関係であって夫婦ではないし、私だって仕事を続けたい。今、子どもが出来たら私は困ってしまうのだ。

そんな訳で私はやんわりと彼のお願いを断るのだが、それでマツバさんは引くものの……何だか完全に納得していないように思えてしまう。

長年の付き合いがあるので、マツバさんが無責任にそんな事を言う人じゃないと分かっている。だからこそ、なんでこんな事を言い出したのかが、不明確なのであった。
……ただ、私が思うにマツバさんの言動や行動がこうなったのは、私への執着心の強さ故なのでは無いかと思い始めた。

付き合う前までは全然知らなかったが、マツバさんはこう見えて嫉妬深くて独占欲が強い人でもあったのだ。
交友関係に煩く口出しはしないものの、私がマツバさんとミナキさん以外の異性との接触を嫌悪しているような一面を覗かせるようになった。
本人から直接「僕以外の男と接して欲しくない」と言われた事もあるが、普通に生活するにあたってそれを叶えてあげる事は出来ない。
勿論、それはマツバさんだって承知の元だろう。
それでも叶わない願いを彼はずっと望み続けるのだった。

ここまで色々述べたが、マツバさんは何処までも優しい人だ。
私に一度も酷い事をしたり、言ったりはした事が無い。
むしろ、これでもかというくらいに愛されているという自覚がある。

……こんな素敵な人に愛されて幸せでしか無い。無いはずなんだ。だけど……私に苛烈なまでの愛を注ぐマツバさんの事が時たま怖くなってしまった自分がいるのも確かであり。
本来ならこんな感情を抱く事なんて許されないのかも知れない。
でも……ごめんなさい、マツバさん。
私は確かに貴方を恐れてしまったんです。

だから、少しでも良いからマツバさんと距離を置いたらまた……いつもの、いや……付き合う前みたいに穏やかな時を過ごせるかなと思い、ちゃんと話をしようと決意してその機会を設けて頂いたのが今の状況であった。

とても言い出しづらかったが何とか最後まで言い切る事が出来た。でも本当の問題はマツバさんがこの私の提案をどう受け取るかだった。マツバさんは私の言葉を聞いても、暫く黙ったままで、何も言おうとしない。そんな彼に見つめられて、私も気まずさのあまりに押し黙る。二人の間を鉛のような重たい空気が流れている中で、ようやくマツバさんがゆっくりと口を開いた。

「……なんで?」

そう言い放ったマツバさんの声は、今までに聞いた事が無いくらいにとても冷めきったものだった。
激昂や憤怒というものでは無いが、それに似た感情を彼は恐らく抱いているのだろう。
それを感じ取った私の背筋に冷たい汗が流れていく。

「なんでって聞いてるよね?答えてよ」

マツバさんの圧に黙りこくっている私に対して、彼は再度、問い掛けを投げる。ここで、黙っていては彼も納得はしてくれないだろう。私は凄まじく重いプレッシャーを感じながらも何とか言葉を振り絞った。

「……私と付き合ってからの、マツバさんが……何だか以前とは別人のように思えてしまって……」
「僕は変わったつもりはないけど?」
「そ、それだけじゃなくて……」
「じゃあ他に何かあるの?……まさか僕の事が嫌いになったとでも言うのかい?」
「違います!そんな事はないです!……でも……」
「でも?」
「……だって、マツバさん……あんまり、ひ、避妊とか嫌がってますし……」
「そうは言っても最終的には君の言う通りにしてるだろ?」
「そ、そうなんですけど……でも、今のままの二人が一緒にいる事は各々良くないんじゃないかと思って……だから、少しの間でも距離を置けばまた……」
「……あのさぁ、そんな僕を好きになってくれたのが君でしょ?今更距離を置きたいなんて、無理なんだけど」

マツバさんは吐き捨てるようにそう言い放ち、私の頼みを切り捨てるように却下するのだった。
そして、未だ冷たい瞳で私を射抜くように見つめながら、彼は口を開く。

「僕はね……本当なら今すぐにでも君と結婚したいし、子どもだって欲しいんだよ。それを我慢している僕の身にもなってくれないか?」
「でも……、私達まだ付き合ったばかりだし……、流石に結婚とか子どもの話は早いんじゃないかと……」
「君はそう言うけどさ。この関係に至るまでにも僕達の付き合いは長いでしょ?そんな二人なんだし今すぐに籍を入れたって誰も文句なんか言いやしないよ」
「だけど、私にも仕事がありますし……そう簡単には……」
「うん、確かに君はお仕事しているからね。でも育休だって使えるんでしょ?」
「それはそうですけど……まだ私の心の準備が……出来ていません」
「……君の心の準備が出来るまで、僕は我慢を強いられているんだよ?それなのに距離を置きたいだなんて、流石に僕もそれは聞いてあげられない」

マツバさんは徹頭徹尾、私の頼みを断った。
終いには「僕の事愛してないの?僕はこんなに愛してるのに」と切なげな顔で言われてしまい、私は為す術もなくただマツバさんの重たすぎる愛を享受する事しか……出来なかったのだった。

◇

「やれやれ、距離を置きたいとはね……。どう考えても僕がそんな事を聞き入れる訳がないだろ」

長年恋焦がれていた存在と恋人同士になれた。
それだけでも幸せな筈なのに、僕の中の欲望は留まる事を知らなかったようだ。確かに愛し合っている自覚はある。
だが、恋人なんて所詮は口約束のような関係なのだ。
「別れよう」と切り出されればそこで終わりが来るような、危うさがあると僕は思う。
勿論、彼女にそんな事を言われても別れるつもりなんてまるで無いけどね。

でも、そんな脆い関係をより強く固い繋がりにへと変える手段を僕は知っている。それは彼女が僕のお嫁さんになってくれる事、いわば夫婦という婚姻関係を結んでしまえば良いんだと己の心は強く望むようになった。
そうすれば、彼女は名実共に僕のものになるし、僕だって彼女を正式に手に入れる事が出来る訳だ。
だから、僕は一刻も早く彼女と夫婦の契りを結びたい。
だけど、彼女の方はそれにはまだ抵抗があるようで中々事はスムーズに進まない。

彼女は僕のものだ、だから焦る必要なんて無い事も頭では理解している。だけど、本能が彼女の事を欲しい欲しいと煩く泣き喚いているのだ。

彼女からの愛を少しでも疑っている訳じゃない。
だけど、君は僕のものだという自覚がまだまだ薄いように感じるんだよね。僕という存在がありながら、他の男に笑顔なんて向ける必要が無いよ。笑顔だって他の表情だって……全ては僕のものなんだ。他の人間に少しでも見せる事なんて許されないんだよ。

それに、君はとても美しくて可愛いらしい子だ。
僕という存在がいても君に言い寄る輩だっているだろう。
僕はそれが許せない。だからこそ、早く結婚して夫婦になってしまいたいんだ。流石に既婚者になったらそんな男だって減るだろう。だけど、完全に排除出来るとは限らないから、結局の所僕はずっと君の事を想って心配している訳だよ。

それだけ愛しているんだ。だから君との愛の証に子どもが欲しいって望んだって別に構わないだろ?
正直に言うと……今すぐにでも僕との子を彼女には孕んで貰ってそのまま結婚したい願望がとても強い。君と僕の子はきっと男でも女でもとても可愛いと思うんだよね。あ、でも君によく似ててくれたら嬉しいなぁ。

……僕がそう強く願っていても、君はまだこの願望を受け入れてはくれないだろう。あぁ、悲しいな。こんなに愛し合ってるのに、何だかすれ違っているみたいだ。

だけど、僕は君への愛が枯渇しないように、例え穴だらけの器で直ぐに流れてしまっても、乾いてしまわないように、この身を焦がす程の狂おしい愛を君に注ぎ続けるよ。

一度でも君は僕を愛したんだ。それなら死ぬまで……いや、死んでもその愛を継続し続けて欲しい。二人が離れる事なんて、世界が許したとしても僕だけは絶対に許しはしない。
絶対に逃れられない愛が、今確かにここに存在しているのだ。

僕の愛って重いんだろうなぁ。それは自分でも自覚しているけど、相手が君だからこうなったんだよ。そうさせた君は責任を取るべきなんだ。

だから。

「骨の髄まで」

僕の事を、愛せ。











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