巣食う怪物


「……なにこれ?どうしたの?」

そう私に問い掛けた彼の声はいつも感じる春の陽射しのような穏やかさは無く、逆に何処か冷淡な印象を受けるものだった。

◇

今日はマツバさんと最近出来たカフェに行く予定であり、二人ともコガネ百貨店の前で待ち合わせをする事になっていた。
私は約束の時間より十五分程早く着いたけど、もう既にマツバさんは待ち合わせ場所にいるだろうな、なんて思っていたがどうやらそれは言葉の通りであり。道を歩いていると実に美しい金髪が視界に入る。
いつも待ち合わせしても、マツバさんは必ず私より早く目的地に着いている。
何分前に着いたんですか?と聞いても必ず「僕も今来た所だよ」と言ってのける。
そんなマツバさんは誰にでも気を遣えるとても優しい人だなと、その言葉を聞く度に私は思うのであった。

だけど、マツバさんをあまり待たせるのも悪いとなと感じ、私も早く来ようと思った日に限って休みを頂いていた職場から電話があって、身支度に時間が掛かってしまった。

今日こそはマツバさんより早く到着する筈だったのに、結局いつも通りの時間になってしまった事が非常に悔やまれる。
今度はもっと早起きしなくてはいけないな、なんて思いながら私は既に待ち合わせ場所に立っているマツバさんの元へと駆け寄っていく。

「お疲れ様です!お待たせしました……!」
「やぁ。全然待ってないよ。僕も今来た所だ」

……ほら、やっぱり。マツバさん絶対待ったと思うのに今日もまたそんな風にこちらを気遣う発言をしてくれる。
この人は本当に穏やかで優しい人なのだ。私はマツバさん並に心の広い人ってミナキさんぐらいでは?なんて思ってしまうのだった。
マツバさんもミナキさんも海のように広いお心をお持ちで……二人の事を私は人として尊敬している。

そんな事を密かに思いながら「じゃあ、カフェに行きましょうか」と私が言い掛けた時……マツバさんがそれを遮るかのように私の手首をいきなり掴んだのだった。

突然の彼の行動に、驚きのあまり声を出せずにいると、マツバさんは私の目と首筋の辺りをじっとりと見つめながら、先の言葉を口にした。

「……いきなりどうしたんですか……?マツバさん……」
「……どうしたもこうも無いよ。僕の質問に答えて」
「質問って……何のことでしょうか……?」

先程までにこやかに微笑んでマツバさんはそこにはいなかった。尊い色である美しい紫の瞳は暗く濁り、私を見つめるその眼差しはこごえるかぜのように冷たい。
今のマツバさんが少なくとも機嫌を損ねていると言う事は流石の私でも分かる。
だが、こんな彼の姿を見るのは……長年の付き合いの中でも初めてに等しかった。だって私の中のマツバさんはいつも優しく微笑んでいるようなイメージだったし、現にその通りであったのだ。こんな風に明らさまに感情を表に出すような人では無かったのだ。

さっきまではいつも通りのマツバさんだったのに……、一体何が彼の機嫌を損ねたのだろうか。
それにマツバさんの質問の意味が、私には理解出来なかった。なにこれって……本当に何の事なのだろうか?
私、今日急いで出て来たから、メイクや服装が変だったとかかな……?そう思いながらとマツバさんの問いの意図を何とか考えようと脳をフル回転させて思考を巡らせていると、再びマツバさんが口を開く。

「……何の事か分かってないみたいだね。じゃあ、はっきりと言うけどこの手首と首筋のそれは何なの?」
「え……」

マツバさんの言葉に戸惑いながらも、掴まれている手首を見つめればそこには赤い痕がポツリと残されていた。
マツバさんは恐らくこれの事を言っているのだろう。
首筋とも口にしていたから、この痕と似たようなものがその箇所にも有るだろうか。
朝、慌ててそんなにじっくりと鏡を見ている余裕が無かったので気付かなかった……。

これは多分、というか……間違いなく虫刺されだと思う。

首筋は自分では見えないものの、手首の痕を見てそう判断した私はマツバさんに返事をしようとするものの、私が言葉を口にする前に彼はほんの僅かに顔を歪ませながら話す。

「……誰に付けられたの?」
「……あ、あの、マツバさん。これは……」
「誰に付けられたのって僕は聞いてるんだけど?答えられない相手なの?……ねぇ、誰?僕の知ってる人?教えてよ」

マツバさんはそう言いながら私の手首を力強く握る。
骨が小さな悲鳴を上げて軋む度に少しだけど痛みを感じた。
だけど、手首の痛みなんかどうでも良いと思えるくらいに……何時もとはまるで様子が違うマツバさんに、恐れにも似た感情を抱いてしまったのだった。

「あの、……これは……虫刺されだと思います……」
「……本当に?……あー、よく見たらそれっぽいね」

怖々口を開いた私の言葉を聞いたマツバさんは、再度手首と首筋をじっくりと見つめた後、ようやく掴んでいた手首を離してくれた。手首が解放された後も、私の心臓は不安定に鼓動を鳴らしては、身体と精神を翻弄していく。

「……驚かせちゃって、ごめんね」
「いえ、あの……大丈夫です……私も朝ちゃんと鏡を見ていなかったので気付きませんでした」
「……とりあえず場所的にそれ、目立つから絆創膏でも貼って隠しておいた方が良いよ」
「……そうします」
「君の肌に痕を残すなんて……悪い虫もいたものだ」

虫刺されだと判明したあとのマツバさんは、少し眉を下げて苦笑しながら謝罪の言葉を口にする。
勿論私は素直にそれを受け止めたけど……、普段優しい人程怒らせてはいけないと感じたし、何故……マツバさんはこの件でこんなに激しく感情を吐露したのかまでかは私には分からなかった。

……マツバさんはどこまでも優しい人。
その認識は今でも変わる事は無い。
だけど、今まで普通に仲の良かった私達の友人関係に歪みが入る可能性があるのでは無いかと、今日の件でそんな不安が生じてしまった。

だって、あの時のマツバさんの瞳は、まるで獲物を見つけた狼のように鋭く私を射抜いていたから。

こんな感情を幼馴染でもある彼に抱くのは大変失礼な事だろう。
だけど、確かに……私はマツバさんの事怖いと感じてしまったのは誤魔化しようの無い事実であった。

「さぁ、行こうか」
「……はい 」

心に抱いた不安の種がどうか発芽しませんように。何とか気持ちを切り替えて私は彼に導かれるまま、目的地のカフェにへと共に足を運ぶのだった。

◇

彼女の肌の赤い痕に気付いてしまった瞬間、己を抑えつけている理性よりも早く芽生えている本能の方が先に顔を出してしまった。

僕は常日頃から彼女に対して何処までも優しくありたいと思っている。

それは……彼女の事を愛しているからだ。
でも、まだ僕達は残念ながら恋人同士では無い。
君にとって僕は幼馴染という存在だろう。
だけど、今はその関係でもいずれ彼女と結ばれるのはこの世界でたった一人、僕だけなのだ。
……本当ならもっと彼女に触れたいし、愛を紡ぎ合いたい。
だけど、彼女の気持ちを無視して暗い情動のままに突き動かされる程、理性はまだ欠けてはいないのだ。
彼女がいつか僕と同じ気持ちになってくれるまで、待とうと思っている。
これも全ては愛のなせる技なのだ。

……本当に心の底から愛しているからこそ、僕以外の存在が彼女の肌に痕を残すという行為を見過ごす事も、許す事も出来なかったのだ。
彼女の首筋の痕を目にした瞬間、僕は思わず目を見開いて驚き、そして普段は押し留めている彼女への愛情やら嫉妬心やら独占欲やらが、あの瞬間に混ざりあって大爆発を起こしてしまった。

僕がこれだけ君を愛しているのに、君は僕以外の男にその清らかな素肌を晒したとでもいうのか……?!この激情に名を付けるとしたら憤怒とでも呼べるだろうか。
そんな思いに支配されてしまうぐらいに、あの時の僕は我を忘れてしまっていた。

怖がらせるつもりは無かった。
だけど、僕以外が彼女に触れたかも知れないという事柄と、それを受け入れた彼女の事を許す事が出来なかったのだ。

僕の長年注ぎ続けた愛に彼女が背いたかも知れないなんて、考えるだけで吐き気がしてしまった。
まぁ、実際の所は僕の早とちりだったのだが、それでも彼女を短い時間とはいえ怯えさせたのもまた事実なのである。
だからといって彼女は僕の事を避けたりはしないだろう。
これまで通り、接してくれるに違いない。

だけど、正直……僕の方は限界が近いのかもしれないと自ら悟ってしまった。
どうやら僕は、自分が思っていたよりも嫉妬深くて独占欲とやらが強かったようなのだ。
彼女の肌に痕を残したのが、例え小さな虫一匹だとしても怒りを覚えてしまったからね。

その肌に触れても良いのは、この僕……マツバという男だけなんだ。勿論その身体に愛を刻んで良いのも……僕だけで十分である。

君の清らかな美しさに僕は心酔して、身を深遠にへと沈めていくばかり。だけど、君と二人ならこの闇しか見えない空間だって大きな幸福を生み出す場所へと変わるんだ。

… …僕はね、君という存在が手に入るなら倫理観だってドロドロに溶けてしまいそうなんだよ。欠けゆく月のような理性を、心を侵食する怪物的感情が「欲しい欲しい」と泣き叫びながら腐食していくのだ。

本当に愛しているからこそ大事にしたいという思いに嘘偽りは無い。だけど、半ば強引に迫ってでも彼女を自分だけのものにしたいとも思う自分が確かに居るのもまた事実であり。
相反する二つの感情に蝕まれながら、僕は二人の未来が定まりかねない岐路へと立たされているのだった。

本当なら今すぐにでも抱き締めて、耳元で愛を囁きたい。
そして彼女と愛を育んで、正式に娶って……名実共に僕だけの存在にしてしまいたいんだ。

……もう散々我慢したんだ。
そろそろ行動に移したって良いだろう?

心の中の怪物がそう囁くも、彼女と共に過ごして来た美しい想い出達が何とかそれを必死に抑えつけている。

あぁ、いつになったら僕の安寧は訪れるのだろうか。
今日も答えの出ない問いを己に問いかけては、彼女への愛が枯れないように溢れても尚、穴だらけの器に注ぎ続けるのだった。


























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