王太女と騎士団長の小物語

 月が南の空に高く上がる頃。
 騎士団長のシラスが自室で本を読んでいると、バルコニーの窓を小さく叩く音がした。
「やっぱり、起きてましたわね」
 窓を開けて入ってきたのは、簡素なネグリジェ姿にバスケットを抱えた王太女リゼットだ。
「リゼット様こそ、起きていらしたのですか」
 本を閉じたシラスは、近くの椅子にあったキルトのブランケットをリゼットの華奢な肩に掛けた。成長期の少女は相変わらず無防備だ。
「ありがとう……シラス君、最近眠れてないみたいだから」
 リゼットは伸ばした右手で、シラスの頬をそっと撫でる。この時間はさすがに仮面を外していた。
 もともと眠りの浅いシラスは、ここ数日は特に不眠ぎみだった。やや目立つ隈以外は特に仕事や生活に支障はない為、心配させまいと黙っていたのだが。
「――お気づきでしたか」
「近くにいれば、わかりましてよ」
 そう言ってリゼットは、シラスにバスケットを渡した。
「これは……」
 乾燥した花入りの茶葉とサシェ、そして熊のぬいぐるみが入っていた。

 シラスは二人分のカップに淡黄色の液体を注ぐ。
 アストリア王国では、水の硬度からか珈琲が好まれてきた。城下では紅茶を出す店も増えてきたが、未だに紅茶は野蛮だと珈琲しか飲まない宮廷貴族も多い。実は紅茶や東洋のお茶の方が好みのシラスは、自分で淹れているのだ。
「カモミールティーは初めてですね」
 林檎に似た甘く優しい香りがする。
「いただきます」
 口に含むと、ハーブティー独特の渋みとすっきりとした味が広がる。
「美味しい! やっぱりシラス君に淹れてもらって正解でしたわ」
 侍女たちには申し訳ないが、お茶はこの騎士団長に淹れてもらうのが一番だとリゼットは思う。
「おや、お茶を飲むのが目的でしたか?」
「うふふ。あ、カモミールの花言葉をご存知? 逆境の中で生まれる力、あなたを癒す、だそうですわ」
「……可憐な花なのに、たくましい花言葉ですね」
 教えられた花言葉にシラスは感心する。リゼットみたいだと思ったのは内緒だ。
「ごちそうさま。このまま横になれば少しは眠れるかも……子守歌でも歌いましょうか?」
 天使の歌声と評されるリゼットの提案に、シラスは戸惑う。
「魅力的なお申し出ですが、王太女殿下より先に就寝するというのは如何かと。お部屋までお送りします」
「もう、シラス君は過保護すぎるのですわ。すぐ隣よ?」
 この部屋は、三間続きだったリゼットの部屋の一間が改装されたもので、廊下に出なくてもバルコニーと隠し扉で繋がっている。シラスが騎士団長兼王太女の護衛となった時に、国王レオンから与えられたものだが、リゼットの可愛らしい部屋とは異なる豪奢な調度品からして、将来の王配の為に作られた部屋なのだろう。因みに隣の棟にある騎士団長用の部屋は、シラスの師である前団長がそのまま住んでいる。
「シラス君が眠るまで、わたくしも寝なくてよ」
 寝顔を見られるのも恥ずかしい気がするのだが、この夜更かし姫を早く寝かさなくては。午睡の時間があるが、おとなしく眠ってはいないだろう。
「――では、お願い致します」

 シラスは天蓋付きの寝台に横になった。傍らにはラベンダーのサシェと熊のぬいぐるみ。
「うふふ、おやすみなさい」
 リゼットは、小さい子にするように毛布の上からシラスの肩あたりを一定の間隔で優しくトントンしている。
 適当なところで寝た振りをするかとシラスが目を閉じると、讃美歌にもなっている古い民謡が聴こえ始めた。幼いリゼットに、シラスが故郷の歌を子守歌にしていたのを覚えていたようだ。
 月の光のように優しく穏やかなリゼットの歌声は、亡き母親とどこか似ていた。
 カモミールティーに、治癒の力を持つリゼットの手作りサシェも効いたのだろうか。久々にふわふわと遠くなる意識の中、シラスは懐かしい湖水地方の城と庭園を見た気がした。

(――本当に眠ったみたいね……)
 数曲を歌い終えたリゼットは、シラスの綺麗な寝顔と安らかな寝息に安堵する。
 シラスの見る夢が、どうか優しい記憶でありますように、とリゼットは祈った。
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