王太女と騎士団長の小物語

 ――王太女は野獣を護衛にしているらしい。その素顔は恐ろしく、人並み外れた力を持っているという。
 アステロード大陸にある五大国のひとつ、アストリア王国の宮廷で囁かれている噂だ。

「あの者は没落貴族の出身だそうですが、元々の爵位や家族についても不明な点が多いと聞いております。しかも、常に仮面をつけている……醜いからだと言われていますが、 昔からの宮廷貴族でも彼の素顔を知る者は少ない」
 謁見の間に響く侯爵の声を、アストリア国王ルイ・シャルル・レオン・ド・サンクレールは、内心うんざりしながら聞いていた。
「……トゥルニエ伯爵は王家の縁戚にあたる者だ。昔の事故で両親を亡くし、彼も顔に傷を負った。仮面はそれを隠す為だろう」
 トゥルニエ伯爵とは、二年前の御前試合で優勝し王太女の護衛となった騎士団長のことだ。
「ああ、あの伯爵が宮廷に上がった頃は片目を失明していたと聞いたことがあるのは、事故によるものだったのですね」
 わざとらしく相槌を打った侯爵は、更に話を続けた。
「しかし、不思議なことに伯爵の目は数年後には見えるようになったとか。あの仮面でよくわかりませぬが、今は普通に見えているようですな。現代の医術では、そう簡単に治せるものではないと思うのですが……もしや、妖しい魔力を持つ者と関わりがあるのでは」
 中世のアステロード大陸には、魔力を持つ者が存在していた。その力を恐れた人々により魔女狩りが起き、魔力は滅んだとされているが、このアストリアや隣国のヴェスタには子孫が存在すると云われている。
「魔力にも色々あると聞くぞ。初代のように聖なる治癒の力を持つ者がいるとしたら、失った光を戻せるのではないか?」
 レオンは暢気に返答をした。
 約二百年前に建国されたアストリア王国。初代女王となった亡国の姫エリサベトは、治癒の力を持った聖女と伝承されている。
「陛下! 魔力の話はともかく、今申し上げましたようにトゥルニエ伯爵は正体がわからぬ危険な存在です。あの異様な強さといい……そのような者を王太女殿下の近くに置いて、もしも傀儡にでもされる事態など起きたら……」
 この侯爵は噂の“野獣”を、何とかして宮廷から追放したいらしい。王家を案じる振りをしているが、この侯爵は政敵だ。レオンは最初から話を信じていない。
 さて、どうやって追い返すかとレオンが思案していた時だ。
「――それは杞憂に過ぎませんわ」
 鈴を転がすような声がした。
「リゼット、シラス。何をしに来た?」
 レオンが愛称で呼んだのは、一人娘である王太女エリサベト・ロゼール・ポーリーヌ・ド・サンクレール。
 腰まで届くローズブロンドの髪に、角度によって青灰や菫と様々な色を見せる菫青石アイオライトのような瞳。愛らしくも美しい顔立ちは、妖精や天使を思わせた。
 リゼットに影のように付き従うのは、紅茶色の髪を横で一つに結った長身の青年。顔の上半分を天鵞絨ビロードの仮面で隠しているが、左頬には微かに傷が見えている。
 彼がアストリア王立騎士団団長シルワノ・ローラン・エドゥアール・ド・トゥルニエ伯爵。通称シラスだ。
 リゼットは薄紅のローブの裾を摘み、優雅に挨拶をした。
「陛下と侯爵の大切なお話に割り込んだことはお詫び致します。しかし、わたくしの騎士に対する侮辱が聞こえた気がしますの」
 リゼットの猫のような口元は笑みを作っているが、瞳は怒りを含んでいた。
「殿下、いいえ……決して侮辱などでは」
 取り繕ろうとする侯爵を、遮るようにリゼットは口を開いた。
「忠誠、公正、勇気、武勇、慈愛、寛容、礼節、奉仕。騎士に必要な全てをシルワノは持っております。それに、彼はわたくしが赤子の時から守ってくれているのですよ。わたくしを、アストリアを裏切ることなど有り得ませんわ」
 そう言い切って、自分の騎士を見上げた。先程とは違う信頼の眼差し。
 シラスはそれに応えるように、リゼットの白い花のような手を取ると忠誠の口づけをした。
「私は王太女殿下に全てをお捧げしております」
 普段は仮面の奥で鋭く冷たい印象を与える瞳も、リゼットを見つめる時はその光を和らげているようだ。
 シラスが宮廷に来たのは、ちょうどリゼットが誕生した年だった。以来十二年、リゼットはシラスを慕っており、シラスもリゼットを溺愛している。二十四歳になった今も、多数の縁談を断り独り身のままだ。
「はは、相変わらずだな……そなたも知っているだろうが、王太女は昔から伯爵に懐いている。本人たちもああ言っているし、護衛は今後もトゥルニエ伯爵に任せるつもりだ」
 レオンは、少し困ったように微笑んでみせる。
「……今日は、これにて失礼致します」
 リゼットたちの乱入に毒気を抜かれたらしく、侯爵はおとなしく引き下がった。

「あの禿げジジィ、雷を落として残りの毛をなくしてやろうか」
「あのおっさん、ピーちゃんたちに頼んで髪の毛を笔らせようかしら」
 侯爵が立ち去った途端、国王父娘が同時に毒を吐いた。
 実は、現王族のサンクレール家が魔力を持つ者の子孫なのだ。公にはされていないが、処女で夭折したとされている初代エリサベトは、騎士団長シルワノと結ばれ子を成している。今ではその血も薄れ、魔力を扱える者は限られてはいるが。
「……お二人が仰ったら、精霊たちが反応してしまいますよ」
 レオンは雷を操り、リゼットは鳥の言葉を解する力がある。因みにピーちゃんはリゼットと仲良しの小鳥だ。
 前髪が後退し始めている侯爵を、少しだけ気の毒に思ったシラスである。
「そういや、何か用があったのか?」
 レオンは疲れたと伸びをしながら、リゼットに訊ねた。
「いいえ。偶然通りかかりましたら、シラス君を悪く言うおっさんのでっかい声が聞こえましたの」
 リゼットは右手で握り拳を作ってみせる。
「それで、殴り込みにきたってわけか」
 レオンは、にやりと笑う。とても国王と王太女とは思えない会話だ。
「お止めする間もなく……申し訳ありません」
「否、シラスが謝る必要はない。おかげで禿げジジィも帰ったし助かった。それより、嫌な思いをさせてしまったな」
 レオンの気遣いに、シラスは首を横に振る。
「いいえ、慣れておりますので」
 形の良い唇が弧を描いた。

「今のところは実害はありませんし、ただの戯言と放っておいてもよろしいのでは?」
 自室に戻ったリゼットに、シラスが言った。
「……わたくしは、何も知らない人が噂を鵜呑みにして、シラス君が悪く思われるのが嫌なのですわ」
 ほんの少しだけ、不機嫌な声色。
 リゼットはお気に入りの熊のぬいぐるみを抱えると、天蓋付きの寝台に寝転がった。足をパタパ夕させているので、膝下丈のドロワーズが見えてしまっている。
「うーん……」
 淑女とは言い難い所作だが、自分の為に怒ってくれているのが解るだけに窘めにくい。
 シラスは、寝台に腰かけた。
「失礼」
「んにゃっ!?」
 軽々とリゼットの腰を抱えあげると、さりげなくローブの裾を直し、自分の膝の上に向かい合うようにして座らせた。
「……あ」
 リゼットの目の前には、いつの間にか仮面を外したシラス。まるで神に造られたかと思わせるほどの美貌。彫刻のように整った顔の右目と左頬には痛々しい傷痕があった。
 久しぶりに見たシラスの素顔に、リゼットは自分の頬が紅潮するのを感じた。
「――リゼット様はお優しい」
 切れ長の翠玉エメラルドに金の散った瞳が、リゼットを優しく見つめている。
「でも、他の者にどう思われても、リゼット様が本当の僕を知ってくださっていれば十分です」
「シラス君」
 やや低めの穏やかで甘い声。普段から寡黙なシラスの言葉は少なめだが、波立っていたリゼットの心は落ち着いていく。
「……そうですわね」
 リゼットは右手で、シラスの傷痕を優しくなぞる。右目は守れなかった傷だと聞いている。左頬はリゼットを魔獣から守り勲章となった傷だ。
「いつ見ても綺麗なお顔。うふふ、天使がいたら、きっとこんな姿なのですわ」
 うっとりとするリゼットに、シラスは困ったように微笑んだ。大人顔負けの聡明さを持つが、やや夢見がちなところがあるお姫様なのだ。
「天使はリゼット様ですよ。リゼット様は昔から変わっておられる」
 怯えるどころか、平気で触れてくる。そのおかげで右目の光を取り戻したのだが。
「そう? だって、シラス君ですもの。怖くありませんわ」
 リゼットも、シラスの過去について詳しくは知らない。それでも、自分をずっと守ってきてくれた、誰よりも強くて優しくて美しい騎士なのは解っている。
 リゼットは、そっと傷痕に口づけた。
「ずっと、傍にいてね」
 この傷痕さえも愛おしい。
1/4ページ
スキ