泡が弾けて華が咲く
二人の大人に挟まれて澄尊は嬉しそうに一緒に歩く。
右側には大柄の、左側には細身の大人がそれぞれ澄尊と手を繋いでいる。
その手はとても懐かしく、暖かくて優しい手だった。
「澄尊…」
「澄尊…」
両側から優しく懐かしい声が澄尊を呼ぶと、澄尊はそっと顔を上げて両側にいる大人たちの顔を見ようとした。
※ ※ ※
じりりりと大きく鳴る目覚まし時計の音に澄尊は唸り声をあげながら身をよじる。
その音を止めるために近くの棚の上にある目覚まし時計を手探りで探ると、目覚まし時計はその探る手にぶつかりそのまま床に落ちガシャンという大きな音を立てた。
澄尊はその音に驚き身体を跳ねさせると、ゆっくりと起き上がって眠そうに目を擦った。
そして、のそりとベッドから出ると落ちた目覚まし時計を拾い上げ、音を止めて棚の上に戻しベッドに座り込む。
同時に大きな欠伸をしながら伸びをして息を吐くと体の力は抜け、澄尊は先ほど見た夢の事をぼんやりと思い出していた。
恐らく夢の中で見た大人たちは亡くなった両親なのだが、二人の声は分かってもその顔は全く見えていなかった。
澄尊は久しぶりに二人の顔を思い出そうと記憶を引っ張り出すが、どの記憶も二人の顔となると霞がかかったように薄ぼんやりとしか思い出せなかった。
「あれ…?」
澄尊はその事実にすっと血の気が引くのを感じ、もう一度顔を思い出そうとする。
しかし何度やっても顔が思い出せず澄尊はため息を吐いた。
「あれから…写真見てないもんな…」
そうぽつりと言うと、澄尊はベッドから立ち上がり部屋を出て洗面所へ移動した。
欠伸をしながら洗面所に着くと、蛇口をひねり水を出して両手ですくって顔を洗う。
何度か洗う度にだんだんと頭も冴えてきて、澄尊は息を吐いてタオルを掴むと顔を拭った。
拭っていると瀏姫も起きて来たようで、洗面所に入ると先に顔を洗っていた兄に気がつき、瀏姫は欠伸をして挨拶をした。
「おはよう」
澄尊はその挨拶で瀏姫が起きたと分かると、タオルをかけて瀏姫の方に顔を向けてにこりと笑った。
「おはよう、瀏姫」
挨拶を交わすと澄尊は洗面所を出る。
入れ違いに瀏姫が入ると蛇口をひねる音が聞こえた。
その音を背に部屋に戻り簡単な部屋着に着替えて台所へと移動した。
「今日の予定は?」
澄尊は朝食を作る用意をしながら瀏姫に声をかけると、瀏姫は顔を洗い終えて洗面所から顔を出して答えた。
「外出」
澄尊はその答えに分かったと頷き、冷蔵庫から食材を出して手際よく調理していく。
瀏姫は洗面所から出て自分の部屋に戻って着替えや出かける準備を済ますと、兄のいる台所へと入って箸やコップなどを出してダイニングテーブルの上に並べ、兄の手伝いをしようと横に並ぶ。
「すぐ出来るから、ソファーに座ってテレビでも見て待ってて」
澄尊がそう言ってにこりと笑うと、瀏姫は少し不満げな様子を見せるも、素直にソファーへ移動して座るとテレビをつけた。
その様子を見ながら澄尊は手元を動かし調理を続けた。
調理を終えて澄尊がおぼんに料理を置いて運ぶと、ソファーに座ってテレビを観ていた瀏姫がそれに気が付き、ダイニングテーブルの椅子に座る。
二人で料理をおぼんからテーブルへ移すと、澄尊も席に座り空のコップに冷やしていた烏龍茶を注ぐ。
そして一緒になって手を合わせ声を揃えた。
「「いただきます。」」
それぞれカチャカチャと食事の音をさせながら食べ進めていると、澄尊はふとテレビの方に顔を向けながら夢のことを思い出した。
「瀏姫…」
「?」
澄尊は不意に瀏姫の名を呼ぶと瀏姫は食べていた手を止めて兄の顔を見る。
「父さんと母さんの顔って…瀏姫はすぐ思い出せる?」
澄尊はそう言って瀏姫の方に顔を向けると、瀏姫は首を傾げてから頷いて言った。
「至極当然」
「そっか…そうだよね」
妹の回答に、澄尊は小さく笑ってまた静かに食べ始める。
瀏姫はそんな兄の笑顔に何か引っかかるものを感じたが、深く聞かずに自分もまだ残っている朝食を食べ進めた。
朝食を先に終えた澄尊は食器をシンクへと運んで洗い始めると、瀏姫も遅れて食べ終わり食器を運んで兄の隣に立ち、兄が洗い終わった皿を拭いて片付けていった。
二人で並んで片付けていくと、澄尊は有難うと瀏姫に伝えて食後のコーヒーの準備を始める。
コーヒーミルにコーヒー豆を適量入れて蓋をしてハンドルを回す。
ゴリゴリと豆を挽く音と感触を手で感じながら色々と考えていると、ふと気になる事が頭に浮かび、テレビ前のソファーに座る瀏姫に声をかけた。
「買い物は誰かと行くの?」
澄尊の質問に瀏姫はくるりと顔を向けるとこくりと頷いた。
「知己朋友」
「最近、友達になった子達か…それなら、遅刻しないようにしないとね」
「うん」
友達と行くことを理解した澄尊は優しく笑うと、瀏姫も心なしか嬉しそうな雰囲気を出しながらこくりと頷いた。
※ ※ ※
瀏姫は澄尊の淹れたコーヒーをカフェオレにして飲み、のんびりとテレビを見ていると、画面の端に映っている時間を見て席を立った。
「時は金なり」
そう言ってカップに残っているカフェオレを一気に飲むと、空になったカップをシンクに置いて自分の部屋へと入る。
部屋で上着を羽織り、鞄を肩にかけ鏡の前で整えると部屋から出て玄関へと移動した。
「忘れ物ない?」
澄尊はリビングから玄関まで行き靴を履く瀏姫の背中にそう声をかけると、瀏姫は振り向いてピースサインをして頷いた。
「無論」
そう一言言うと玄関に向き直り扉を開いて外に出る。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
見送る兄の声に顔だけ向けて応えると、瀏姫は友達との待ち合わせ場所へと出掛けていった。
玄関がぱたんと音を立てて閉じると、澄尊は小さく息を吐いてリビングへと戻る。
二人分の飲み終わったカップを洗って片付けると、澄尊は自分の部屋へ行き、本棚に一冊だけある小さなフォトアルバムを手に取った。
紙製の両面花柄模様のそのアルバムの最後のページに、一枚だけひっくり返された写真が入っている。
それは葬儀の後、洸朶の家に引っ越すために荷物をまとめている時に本棚で見つけた家族写真だった。
「あれから大分経ったし…きっと…」
澄尊はそう言いながらフォトアルバムを開こうとする。
しかし自分の中の何かがそれを拒否しているようで指が震え、上手く表紙を捲る事が出来ないでいた。
「大丈夫、たかが写真だ…」
自分にそう言い聞かせて大きく息を吐く。
そして深く深呼吸をすると、指にあった緊張がほぐれてそっとアルバムを開いた。
開くと裏面になった写真があり、澄尊は安堵の息を吐いてから首を横に振った。
「いや、見るために開いたのになんで安堵してるんだ。違うだろ」
そう言って自分に喝を入れ、そっと写真に手を伸ばす。
写真を指で摘んでアルバムから引き出すと、摘んでいる指がかすかに震える。
今にも写真を落としてしまいそうなところをなんとか落とさぬようにしてゆっくりと写真を裏返す。
そこにはあの時見た、四人が笑顔で写っている家族の写真があった。
母は幸せそうに、父は優しそうに笑い、その二人の腕に包まれながら嬉しそうに笑う自分と妹の姿に、懐かしさと羨ましさが一気に心に押し寄せ、そっと両親の顔を指で撫でた。
すると、耳元でぶくりと泡が立つ音がし、頭上でパチンという大きな音を響かせた。
その瞬間、両親の顔はどろっと溶け、黒い液体が写真から溢れこぼれ落ちる。
澄尊は思わず写真から手を離すと、耳元でまたぶくりと泡が立つ音が響いた。
その瞬間吐き気が押し寄せてきて、澄尊はばっと口元を抑えた。
そして慌ててトイレへ駆け込むと、胃の中にある全てを便器の中へと吐き出していた。
「うぇ!げほっ!」
胃の中のものを全て吐いてようやく落ち着くと、澄尊は口元を拭って顔を上げる。
動悸はバクバクと激しく息はまだ荒いが、意識だけはハッキリとしていた。
ふらりと立ち上がりレバーを上げて便器の中のものを流すと、ふらふらと台所へ行き蛇口を捻った。
手で器を作り水を汲み、それを口に含んでゆすいで吐き出す。
そして顔をぱしゃっと洗うと、ようやく動悸も呼吸も落ち着き、澄尊はため息を吐いた。
見たことで両親の顔は思い出せたが、その笑顔を見たことにより起こる反動が大きすぎた。
「やっぱりまだダメかぁ…」
そう言いながら困ったように笑うと、タオルを取って顔を拭いた。
妹や叔父夫婦の写真では起こらないのだが、両親の写真、特に笑顔の写真は1分も持たずに毎回泡の音と共にひどい吐き気に襲われていた。
いつ、どうしたらこの現象が治るのか。
その解決法は頭で分かっていても、心まで付いていかなければ解決出来ないものだった。
※ ※ ※
このトラウマを自覚したのは葬儀から数日後の事だった。
叔父の洸朶夫婦の家に住むことになった澄尊と瀏姫は、諸々の手続きを終え家の中の掃除をし一息ついていた。
「本当は全部持って行ってやりたいんだけど流石にね…ごめんな」
洸朶は申し訳なさそうにそう言うと、澄尊は洸朶の目を見て首を横に振った。
「いえ、大丈夫です…」
まだ何処か遠い目をしたままの澄尊の目に、洸朶は少しだけ悲しそうな顔をしてから笑顔を向けた。
「明日には家に行くから、最終確認しておこう」
そう言って洸朶が席を立つと、澄尊も習って立ち上がり自分の部屋へと足を向けた。
部屋のドアを開くと部屋の中は大きな家具とまとめられた段ボールが壁際に並んでいた。
入れ忘れは無いか再度部屋の中を見渡すと、本棚の隅に何やら紙切れのようなものを見つけた。
澄尊は首を傾げて本棚に近づくと、どうやらそれは裏返された写真のようだった。
澄尊はそれを手に取りぺらりと捲ると、そこには楽しそうに笑っている家族四人の笑顔が写っていた。
その写真を見た瞬間、心の中がズキリと痛み胸元に手を添えた。
その痛みは針でつつくような痛みからズキズキと激しい痛みになり、動悸も激しくなっていく。
恐らくこの痛みの原因は写真だと分かっていても澄尊は何故か目が離せず、そのまま見つめていると写真の中の両親の顔が歪み、自分と妹の顔は黒ずんで表情が分からなくなっていった。
すると耳元でぶくぶくと泡立つ音がしたと思えば、それは大きな音を立てて弾けた。
その音と同時に胃から何かが込みあがってくる感覚がし、ここでやっと写真を手放し動けるようになった。
動けるようになるととてつもない吐き気に襲われ、澄尊は思わず口元を抑えると慌ててトイレへと駆け込んだ。
どたどたと走る音に叔父夫婦と妹は驚き、音がしたトイレの方へと顔を向けた。
「なんだ!?どうした!?」
洸朶は慌ててトイレへ移動するとドアが開け放たれており、中を覗き込こんで驚愕した。
そこには便器に向かって屈み込み吐き続けている澄尊の姿があった。
「!お兄…ちゃ…」
後から来た瀏姫は兄の姿を見て震えて涙を浮かべると、叔母の蕾美(つぼみ)は瀏姫を抱きしめ洸朶に声をかけた。
「洸くん、澄くんの背中擦ってあげて!瀏姫ちゃん、お兄ちゃん助けるから一緒に手伝ってくれる?」
蕾美は瀏姫の目を見て優しくお願いすると、瀏姫はこくりと頷いて蕾美と手を繋いで台所へと移動した。
その間も澄尊は吐き続け呼吸は荒く明らかに異常を来していた。
洸朶は蕾美の言った通り澄尊の背に手を添えて優しく擦ると、澄尊は全て吐き終えたのか小さく咳き込みながらずるずると脱力し完全に座り込んでしまった。
洸朶は澄尊の後ろに座るとそっと両肩を掴んで後ろに引き寄せた。
「寄りかかって平気だから、こっちに体重預けて」
そう言うと澄尊は荒い呼吸のまま、素直に後ろに居る洸朶の方へ体重を預けた。
暫くすると蕾美がタオルを、瀏姫がコップに入った水をもって戻って来ると、蕾美は瀏姫からコップを受け取った。
「これで口の中を濯がせてあげて」
そう言って蕾美はコップを洸朶に差し出すと、洸朶はそれを受け取って澄尊に渡した。
澄尊はそれを受け取ると、ゆっくりとコップに口をつけて傾け、水をふくんで軽く濯ぎ便器の中へ吐き出した。
それを何度か繰り返すとコップを洸朶に渡す。
コップは洸朶から蕾美へ返すと、今度はタオルを渡され、それを澄尊に差し出した。
澄尊はタオルを受け取り口元を拭って深く息を吐くと先ほどよりも呼吸は整っており、顔色も多少良くなったようだった。
洸朶はその様子を見て少し安心すると、そっと澄尊の肩に手を添えた。
「立てるか?」
洸朶がそう聞くと澄尊はこくりと頷き、少しふらつきながらもゆっくりと立ち上がった。
洸朶も澄尊を支えながら一緒に立ち上がると、便器の蓋を閉めて流してトイレから出た。
トイレから出ると瀏姫は蕾美の後ろに隠れながら恐る恐る澄尊の様子を伺った。
その様子に洸朶は気が付くとにこりと笑った。
「もう大丈夫。落ち着いたよ」
洸朶がそう言うと、瀏姫はバッと蕾美から離れて澄尊に抱きつくと、澄尊は弱々しく笑いながら片手で妹の頭を優しく撫でた。
四人はそのままリビングへ行きそれぞれ席に着くと、洸朶は澄尊の目を見て口を開いた。
「で、一体何があったんだ?その様子だと食中毒の類ではなさそうだけど…」
洸朶が真剣な顔でそう聞くと、澄尊は少し下を向いてぽつりと応えた。
「自分でも…何が何やら…ただ部屋に残っていた写真を見てたら…段々気持ち悪くなってって…」
「写真?」
「はい…父さんと母さんと…僕と瀏姫が写った…家族写真…」
澄尊がそう言うと、洸朶はふむ、と片手を顎に添えて少し考えこんだ。
恐らく今回の澄尊の不調はストレスによるものではないかと思い、洸朶は眉間に皺を寄せた。
両親の死について澄尊なりに何か思ったことがあったのだろう。
しかしそれは少年の心に多大な負担となり、大きな傷跡をつけていた。
洸朶はそこまで推測すると、顎に添えていた手をおでこに持っていき、とんとんと軽く当てると手を下ろしてそっと顔を上げた。
「とりあえず原因は写真なのは分かった。落ち着くまで写真を飾るのは控えておこう。多分だけど、二人の遺影も見ていて辛いんじゃないか?」
洸朶は澄尊にそう聞くと、澄尊はそっとリビングの棚の上に置かれている二人の遺影の方へと目を向けた。
今座っている場所からは遠くて遺影に写っている表情は見えないが、葬儀の時に目が合い、その瞬間何かが弾けた感覚を思い出し小さく身体を強張らせ下を向いた。
その様子に洸朶は察すると、そっと手を伸ばして澄尊の頭を撫でた。
「分かった。遺影も暫くしまっておこう」
そう言って優しく笑いかけると、澄尊は顔を上げて少し悲しそうなほっとしたような顔をさせて小さく頷いた。
※ ※ ※
あれから家では過去の写真を飾ることは無く、そのまま数年経った。
今では写真を飾ることも平気になってきていたが、どうしても両親が写っている写真だけは拒否反応が出てしまう。
澄尊は自分の部屋に戻り床に落ちたままのアルバムを拾うと、手から離した写真を探す。
写真は裏返ったまま床に落ちており、澄尊は一度深呼吸をしてから写真を拾うとすぐにアルバムの1番最後のページに挟み込んでアルバムを閉じた。
「いつか…平気になるかな…」
そう言ってアルバムの表紙を指先で撫でると、悲しそうな顔をしてアルバムを本棚に戻した。
右側には大柄の、左側には細身の大人がそれぞれ澄尊と手を繋いでいる。
その手はとても懐かしく、暖かくて優しい手だった。
「澄尊…」
「澄尊…」
両側から優しく懐かしい声が澄尊を呼ぶと、澄尊はそっと顔を上げて両側にいる大人たちの顔を見ようとした。
※ ※ ※
じりりりと大きく鳴る目覚まし時計の音に澄尊は唸り声をあげながら身をよじる。
その音を止めるために近くの棚の上にある目覚まし時計を手探りで探ると、目覚まし時計はその探る手にぶつかりそのまま床に落ちガシャンという大きな音を立てた。
澄尊はその音に驚き身体を跳ねさせると、ゆっくりと起き上がって眠そうに目を擦った。
そして、のそりとベッドから出ると落ちた目覚まし時計を拾い上げ、音を止めて棚の上に戻しベッドに座り込む。
同時に大きな欠伸をしながら伸びをして息を吐くと体の力は抜け、澄尊は先ほど見た夢の事をぼんやりと思い出していた。
恐らく夢の中で見た大人たちは亡くなった両親なのだが、二人の声は分かってもその顔は全く見えていなかった。
澄尊は久しぶりに二人の顔を思い出そうと記憶を引っ張り出すが、どの記憶も二人の顔となると霞がかかったように薄ぼんやりとしか思い出せなかった。
「あれ…?」
澄尊はその事実にすっと血の気が引くのを感じ、もう一度顔を思い出そうとする。
しかし何度やっても顔が思い出せず澄尊はため息を吐いた。
「あれから…写真見てないもんな…」
そうぽつりと言うと、澄尊はベッドから立ち上がり部屋を出て洗面所へ移動した。
欠伸をしながら洗面所に着くと、蛇口をひねり水を出して両手ですくって顔を洗う。
何度か洗う度にだんだんと頭も冴えてきて、澄尊は息を吐いてタオルを掴むと顔を拭った。
拭っていると瀏姫も起きて来たようで、洗面所に入ると先に顔を洗っていた兄に気がつき、瀏姫は欠伸をして挨拶をした。
「おはよう」
澄尊はその挨拶で瀏姫が起きたと分かると、タオルをかけて瀏姫の方に顔を向けてにこりと笑った。
「おはよう、瀏姫」
挨拶を交わすと澄尊は洗面所を出る。
入れ違いに瀏姫が入ると蛇口をひねる音が聞こえた。
その音を背に部屋に戻り簡単な部屋着に着替えて台所へと移動した。
「今日の予定は?」
澄尊は朝食を作る用意をしながら瀏姫に声をかけると、瀏姫は顔を洗い終えて洗面所から顔を出して答えた。
「外出」
澄尊はその答えに分かったと頷き、冷蔵庫から食材を出して手際よく調理していく。
瀏姫は洗面所から出て自分の部屋に戻って着替えや出かける準備を済ますと、兄のいる台所へと入って箸やコップなどを出してダイニングテーブルの上に並べ、兄の手伝いをしようと横に並ぶ。
「すぐ出来るから、ソファーに座ってテレビでも見て待ってて」
澄尊がそう言ってにこりと笑うと、瀏姫は少し不満げな様子を見せるも、素直にソファーへ移動して座るとテレビをつけた。
その様子を見ながら澄尊は手元を動かし調理を続けた。
調理を終えて澄尊がおぼんに料理を置いて運ぶと、ソファーに座ってテレビを観ていた瀏姫がそれに気が付き、ダイニングテーブルの椅子に座る。
二人で料理をおぼんからテーブルへ移すと、澄尊も席に座り空のコップに冷やしていた烏龍茶を注ぐ。
そして一緒になって手を合わせ声を揃えた。
「「いただきます。」」
それぞれカチャカチャと食事の音をさせながら食べ進めていると、澄尊はふとテレビの方に顔を向けながら夢のことを思い出した。
「瀏姫…」
「?」
澄尊は不意に瀏姫の名を呼ぶと瀏姫は食べていた手を止めて兄の顔を見る。
「父さんと母さんの顔って…瀏姫はすぐ思い出せる?」
澄尊はそう言って瀏姫の方に顔を向けると、瀏姫は首を傾げてから頷いて言った。
「至極当然」
「そっか…そうだよね」
妹の回答に、澄尊は小さく笑ってまた静かに食べ始める。
瀏姫はそんな兄の笑顔に何か引っかかるものを感じたが、深く聞かずに自分もまだ残っている朝食を食べ進めた。
朝食を先に終えた澄尊は食器をシンクへと運んで洗い始めると、瀏姫も遅れて食べ終わり食器を運んで兄の隣に立ち、兄が洗い終わった皿を拭いて片付けていった。
二人で並んで片付けていくと、澄尊は有難うと瀏姫に伝えて食後のコーヒーの準備を始める。
コーヒーミルにコーヒー豆を適量入れて蓋をしてハンドルを回す。
ゴリゴリと豆を挽く音と感触を手で感じながら色々と考えていると、ふと気になる事が頭に浮かび、テレビ前のソファーに座る瀏姫に声をかけた。
「買い物は誰かと行くの?」
澄尊の質問に瀏姫はくるりと顔を向けるとこくりと頷いた。
「知己朋友」
「最近、友達になった子達か…それなら、遅刻しないようにしないとね」
「うん」
友達と行くことを理解した澄尊は優しく笑うと、瀏姫も心なしか嬉しそうな雰囲気を出しながらこくりと頷いた。
※ ※ ※
瀏姫は澄尊の淹れたコーヒーをカフェオレにして飲み、のんびりとテレビを見ていると、画面の端に映っている時間を見て席を立った。
「時は金なり」
そう言ってカップに残っているカフェオレを一気に飲むと、空になったカップをシンクに置いて自分の部屋へと入る。
部屋で上着を羽織り、鞄を肩にかけ鏡の前で整えると部屋から出て玄関へと移動した。
「忘れ物ない?」
澄尊はリビングから玄関まで行き靴を履く瀏姫の背中にそう声をかけると、瀏姫は振り向いてピースサインをして頷いた。
「無論」
そう一言言うと玄関に向き直り扉を開いて外に出る。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
見送る兄の声に顔だけ向けて応えると、瀏姫は友達との待ち合わせ場所へと出掛けていった。
玄関がぱたんと音を立てて閉じると、澄尊は小さく息を吐いてリビングへと戻る。
二人分の飲み終わったカップを洗って片付けると、澄尊は自分の部屋へ行き、本棚に一冊だけある小さなフォトアルバムを手に取った。
紙製の両面花柄模様のそのアルバムの最後のページに、一枚だけひっくり返された写真が入っている。
それは葬儀の後、洸朶の家に引っ越すために荷物をまとめている時に本棚で見つけた家族写真だった。
「あれから大分経ったし…きっと…」
澄尊はそう言いながらフォトアルバムを開こうとする。
しかし自分の中の何かがそれを拒否しているようで指が震え、上手く表紙を捲る事が出来ないでいた。
「大丈夫、たかが写真だ…」
自分にそう言い聞かせて大きく息を吐く。
そして深く深呼吸をすると、指にあった緊張がほぐれてそっとアルバムを開いた。
開くと裏面になった写真があり、澄尊は安堵の息を吐いてから首を横に振った。
「いや、見るために開いたのになんで安堵してるんだ。違うだろ」
そう言って自分に喝を入れ、そっと写真に手を伸ばす。
写真を指で摘んでアルバムから引き出すと、摘んでいる指がかすかに震える。
今にも写真を落としてしまいそうなところをなんとか落とさぬようにしてゆっくりと写真を裏返す。
そこにはあの時見た、四人が笑顔で写っている家族の写真があった。
母は幸せそうに、父は優しそうに笑い、その二人の腕に包まれながら嬉しそうに笑う自分と妹の姿に、懐かしさと羨ましさが一気に心に押し寄せ、そっと両親の顔を指で撫でた。
すると、耳元でぶくりと泡が立つ音がし、頭上でパチンという大きな音を響かせた。
その瞬間、両親の顔はどろっと溶け、黒い液体が写真から溢れこぼれ落ちる。
澄尊は思わず写真から手を離すと、耳元でまたぶくりと泡が立つ音が響いた。
その瞬間吐き気が押し寄せてきて、澄尊はばっと口元を抑えた。
そして慌ててトイレへ駆け込むと、胃の中にある全てを便器の中へと吐き出していた。
「うぇ!げほっ!」
胃の中のものを全て吐いてようやく落ち着くと、澄尊は口元を拭って顔を上げる。
動悸はバクバクと激しく息はまだ荒いが、意識だけはハッキリとしていた。
ふらりと立ち上がりレバーを上げて便器の中のものを流すと、ふらふらと台所へ行き蛇口を捻った。
手で器を作り水を汲み、それを口に含んでゆすいで吐き出す。
そして顔をぱしゃっと洗うと、ようやく動悸も呼吸も落ち着き、澄尊はため息を吐いた。
見たことで両親の顔は思い出せたが、その笑顔を見たことにより起こる反動が大きすぎた。
「やっぱりまだダメかぁ…」
そう言いながら困ったように笑うと、タオルを取って顔を拭いた。
妹や叔父夫婦の写真では起こらないのだが、両親の写真、特に笑顔の写真は1分も持たずに毎回泡の音と共にひどい吐き気に襲われていた。
いつ、どうしたらこの現象が治るのか。
その解決法は頭で分かっていても、心まで付いていかなければ解決出来ないものだった。
※ ※ ※
このトラウマを自覚したのは葬儀から数日後の事だった。
叔父の洸朶夫婦の家に住むことになった澄尊と瀏姫は、諸々の手続きを終え家の中の掃除をし一息ついていた。
「本当は全部持って行ってやりたいんだけど流石にね…ごめんな」
洸朶は申し訳なさそうにそう言うと、澄尊は洸朶の目を見て首を横に振った。
「いえ、大丈夫です…」
まだ何処か遠い目をしたままの澄尊の目に、洸朶は少しだけ悲しそうな顔をしてから笑顔を向けた。
「明日には家に行くから、最終確認しておこう」
そう言って洸朶が席を立つと、澄尊も習って立ち上がり自分の部屋へと足を向けた。
部屋のドアを開くと部屋の中は大きな家具とまとめられた段ボールが壁際に並んでいた。
入れ忘れは無いか再度部屋の中を見渡すと、本棚の隅に何やら紙切れのようなものを見つけた。
澄尊は首を傾げて本棚に近づくと、どうやらそれは裏返された写真のようだった。
澄尊はそれを手に取りぺらりと捲ると、そこには楽しそうに笑っている家族四人の笑顔が写っていた。
その写真を見た瞬間、心の中がズキリと痛み胸元に手を添えた。
その痛みは針でつつくような痛みからズキズキと激しい痛みになり、動悸も激しくなっていく。
恐らくこの痛みの原因は写真だと分かっていても澄尊は何故か目が離せず、そのまま見つめていると写真の中の両親の顔が歪み、自分と妹の顔は黒ずんで表情が分からなくなっていった。
すると耳元でぶくぶくと泡立つ音がしたと思えば、それは大きな音を立てて弾けた。
その音と同時に胃から何かが込みあがってくる感覚がし、ここでやっと写真を手放し動けるようになった。
動けるようになるととてつもない吐き気に襲われ、澄尊は思わず口元を抑えると慌ててトイレへと駆け込んだ。
どたどたと走る音に叔父夫婦と妹は驚き、音がしたトイレの方へと顔を向けた。
「なんだ!?どうした!?」
洸朶は慌ててトイレへ移動するとドアが開け放たれており、中を覗き込こんで驚愕した。
そこには便器に向かって屈み込み吐き続けている澄尊の姿があった。
「!お兄…ちゃ…」
後から来た瀏姫は兄の姿を見て震えて涙を浮かべると、叔母の蕾美(つぼみ)は瀏姫を抱きしめ洸朶に声をかけた。
「洸くん、澄くんの背中擦ってあげて!瀏姫ちゃん、お兄ちゃん助けるから一緒に手伝ってくれる?」
蕾美は瀏姫の目を見て優しくお願いすると、瀏姫はこくりと頷いて蕾美と手を繋いで台所へと移動した。
その間も澄尊は吐き続け呼吸は荒く明らかに異常を来していた。
洸朶は蕾美の言った通り澄尊の背に手を添えて優しく擦ると、澄尊は全て吐き終えたのか小さく咳き込みながらずるずると脱力し完全に座り込んでしまった。
洸朶は澄尊の後ろに座るとそっと両肩を掴んで後ろに引き寄せた。
「寄りかかって平気だから、こっちに体重預けて」
そう言うと澄尊は荒い呼吸のまま、素直に後ろに居る洸朶の方へ体重を預けた。
暫くすると蕾美がタオルを、瀏姫がコップに入った水をもって戻って来ると、蕾美は瀏姫からコップを受け取った。
「これで口の中を濯がせてあげて」
そう言って蕾美はコップを洸朶に差し出すと、洸朶はそれを受け取って澄尊に渡した。
澄尊はそれを受け取ると、ゆっくりとコップに口をつけて傾け、水をふくんで軽く濯ぎ便器の中へ吐き出した。
それを何度か繰り返すとコップを洸朶に渡す。
コップは洸朶から蕾美へ返すと、今度はタオルを渡され、それを澄尊に差し出した。
澄尊はタオルを受け取り口元を拭って深く息を吐くと先ほどよりも呼吸は整っており、顔色も多少良くなったようだった。
洸朶はその様子を見て少し安心すると、そっと澄尊の肩に手を添えた。
「立てるか?」
洸朶がそう聞くと澄尊はこくりと頷き、少しふらつきながらもゆっくりと立ち上がった。
洸朶も澄尊を支えながら一緒に立ち上がると、便器の蓋を閉めて流してトイレから出た。
トイレから出ると瀏姫は蕾美の後ろに隠れながら恐る恐る澄尊の様子を伺った。
その様子に洸朶は気が付くとにこりと笑った。
「もう大丈夫。落ち着いたよ」
洸朶がそう言うと、瀏姫はバッと蕾美から離れて澄尊に抱きつくと、澄尊は弱々しく笑いながら片手で妹の頭を優しく撫でた。
四人はそのままリビングへ行きそれぞれ席に着くと、洸朶は澄尊の目を見て口を開いた。
「で、一体何があったんだ?その様子だと食中毒の類ではなさそうだけど…」
洸朶が真剣な顔でそう聞くと、澄尊は少し下を向いてぽつりと応えた。
「自分でも…何が何やら…ただ部屋に残っていた写真を見てたら…段々気持ち悪くなってって…」
「写真?」
「はい…父さんと母さんと…僕と瀏姫が写った…家族写真…」
澄尊がそう言うと、洸朶はふむ、と片手を顎に添えて少し考えこんだ。
恐らく今回の澄尊の不調はストレスによるものではないかと思い、洸朶は眉間に皺を寄せた。
両親の死について澄尊なりに何か思ったことがあったのだろう。
しかしそれは少年の心に多大な負担となり、大きな傷跡をつけていた。
洸朶はそこまで推測すると、顎に添えていた手をおでこに持っていき、とんとんと軽く当てると手を下ろしてそっと顔を上げた。
「とりあえず原因は写真なのは分かった。落ち着くまで写真を飾るのは控えておこう。多分だけど、二人の遺影も見ていて辛いんじゃないか?」
洸朶は澄尊にそう聞くと、澄尊はそっとリビングの棚の上に置かれている二人の遺影の方へと目を向けた。
今座っている場所からは遠くて遺影に写っている表情は見えないが、葬儀の時に目が合い、その瞬間何かが弾けた感覚を思い出し小さく身体を強張らせ下を向いた。
その様子に洸朶は察すると、そっと手を伸ばして澄尊の頭を撫でた。
「分かった。遺影も暫くしまっておこう」
そう言って優しく笑いかけると、澄尊は顔を上げて少し悲しそうなほっとしたような顔をさせて小さく頷いた。
※ ※ ※
あれから家では過去の写真を飾ることは無く、そのまま数年経った。
今では写真を飾ることも平気になってきていたが、どうしても両親が写っている写真だけは拒否反応が出てしまう。
澄尊は自分の部屋に戻り床に落ちたままのアルバムを拾うと、手から離した写真を探す。
写真は裏返ったまま床に落ちており、澄尊は一度深呼吸をしてから写真を拾うとすぐにアルバムの1番最後のページに挟み込んでアルバムを閉じた。
「いつか…平気になるかな…」
そう言ってアルバムの表紙を指先で撫でると、悲しそうな顔をしてアルバムを本棚に戻した。
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