きょうのジンさん
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幸せだった。
そっと囲われて、全ての危険なことから遠ざけられて。何もない代わりに、彼だけがそばにいてくれて。まるでここだけ世界から切り取られたかのように、時間の流れが違うこの空間で彼と二人きり。
それだけで、幸せだったはずなのに。
かすかに開いていた扉から差し込む光に、どうしようもなく心が騒いで。
私は、導かれるように手を伸ばしてしまったのだ。
─────────
頭がぼうっとする。水の中をゆっくりと掻くように、意識が浮上していく。未だ霞がかったままの脳を、私は無理矢理に働かせようとした。
――わからない。何も、わからない。ここはどこで、私は誰なのだろう。
はらりと自分の髪が顔にかかる感覚がして、私は頭に何かが乗せられていることに気付いた。それはごつごつしているのに、乗せられた重みは優しい。誰かの手が、私の頭を撫でている。酷く心地のいい動作に、ほうと息をついた。不思議と、怖くはなかった。私はこの手を知っている気がしたから。
「……ぁ……え」
あなたは誰? そう聞こうとしたのに、喉から出てきたのは声ではなく、掠れて今にも消えてしまいそうな音だった。
くつくつと、喉奥から漏れるような笑い声が降ってくる。可笑しくて可笑しくてたまらない、そんなような笑い声だった。頭を撫でられている時点でそこに誰かがいたことはわかっていたはずなのに、少しだけ驚いて身じろいでしまった。その時の感触で、私はようやく自分が〝彼〟の膝に頭を乗せて寝ていたことを知った。
遅れて混乱がやってきて、状況を理解しようと私は静かに目を開けた。そこは、何もなく真っ暗な空間だった。いや違う、とひとかけらの理性が告げる。暗いんじゃない。見えないのだ、何も。私の瞳は今、塵一つ映していない。
もがくように、手に力を入れる。動かない。
足に力を入れる。動かない。全身が鉛のように重い。
全くと言っていいほど思い通りにならない体に、しかし私はパニックになることもなく冷静にこの異常さを受け止めていた。
――ああ、そうだった、私は。徐々に思い出される記憶に、もうとっくに意味を成さなくなった瞼を閉じた。
私は、鳥籠を、開けてしまったんだ、
不満があったわけじゃない。真綿で包まれるように彼に愛される日々は、それはそれは幸せで仕方なかった。名前を呼ばれ、当たり前のように抱きしめられる。求められれば体を重ね、底なしの激情をぶつけられる。何重にも鍵をかけられた周りから見れば牢獄のような家も、彼がいてくれれば私にとっては楽園だったのだ。それが不器用な彼なりの愛情なのだと思えば何の苦でもなかった。
だというのに。あの日、鍵がかかっていなかったその扉から光が差し込んでいるのが見えた時、私は一瞬彼の言いつけを忘れてしまった。もう何年も見ていなかった外の景色を久しぶりに見たい、たったそれだけの思いを胸に、足を踏み出してしまった。
その後私を捕らえた時の彼を、私は一生忘れないだろう。怒りを通り越した温度のない瞳、私の腕を掴む力の異常なほどの強さ、初めて聞くような内臓に響くような低く重い声。
「……ああ、そうか」
しばらくの激昂の後、そうぼそりと呟くと彼はポケットから何か粒のようなものを取り出した。
「初めから、こうしときゃ良かったんだ」
彼はそれを躊躇なく口に含み、恐怖で涙の止まらないままの私に無理矢理口付けた。乱暴なのに、どこか懇願するかのようなキスに私の胸に深い深い後悔が募っていった。
――ごめんなさい、ジンさん、ごめんなさい
伝えたかったその言葉ごと巻き込んでカプセルは喉を通り、私の記憶はそこで途切れた。
あれから私はまた鳥籠に戻された。生活自体は特に前と変わらない。一つだけ変わったのは、私のこの体だけ。目は見えず、声も上手く出せず、体の自由はきかない。調子のいい日は動けることもあるが、少し歩き回るだけで疲れて気付けば眠ってしまう、そんな日々が続いていた。
それでも彼は前よりも何処か楽しげだった。前よりも頻繁に会いに来るようになり、彼がいなければ何も出来ない私を、甲斐甲斐しく世話をしてくれた。
そして今日も私は彼の膝の上で、際限なく与えられる温もりに身を委ねる。今彼が一体どんな表情で私を見ているのか、確かめたくてもこの目では出来ない。こんなことをしなくたってもう私はどこにも行かないと、誓いたくても出来ない。ままならない自分の体に張り裂けそうな痛みが胸を支配していた。
彼が、小さく私の名前を呼んだ。今まで頭を撫ぜていた手が、止まることを知らず頬を伝っていく涙を優しく拭う。そのまま私の目の上に手を被せると、彼はまるで幼子をあやすような声で言った。
「眠れ……もう何処にも行けやしねぇんだからな……」
その言葉に、また意識が薄れていく。だが、いつもなら逆らうことなく手放すそれを、私は必死にたぐり寄せた。私が私でなくなってしまう前にどんな手を使ってでも伝えたかった。選択を間違えた、あの日に戻れないのなら。こうでもしないと、彼が安心できないのなら。
歯を食いしばり、持てる全ての力で何とか起き上がる。気配で彼が息を飲んだのがわかった。それをいいことに彼の胸に飛び込み、とっくに動かし方を忘れていた腕を背中に回した。
「す、き」
「……っ」
「すき、よ、じん、さ」
長い沈黙のあと、ジンさんは私の体を掻き抱いた。
「 」
彼が耳元で囁く、その言葉に滲む歓喜の色が、私の欲が生み出した幻でないのなら。
後はもう、眠るだけだ。
彼の作り出す闇の中で、全てを投げ出して。
そっと囲われて、全ての危険なことから遠ざけられて。何もない代わりに、彼だけがそばにいてくれて。まるでここだけ世界から切り取られたかのように、時間の流れが違うこの空間で彼と二人きり。
それだけで、幸せだったはずなのに。
かすかに開いていた扉から差し込む光に、どうしようもなく心が騒いで。
私は、導かれるように手を伸ばしてしまったのだ。
─────────
頭がぼうっとする。水の中をゆっくりと掻くように、意識が浮上していく。未だ霞がかったままの脳を、私は無理矢理に働かせようとした。
――わからない。何も、わからない。ここはどこで、私は誰なのだろう。
はらりと自分の髪が顔にかかる感覚がして、私は頭に何かが乗せられていることに気付いた。それはごつごつしているのに、乗せられた重みは優しい。誰かの手が、私の頭を撫でている。酷く心地のいい動作に、ほうと息をついた。不思議と、怖くはなかった。私はこの手を知っている気がしたから。
「……ぁ……え」
あなたは誰? そう聞こうとしたのに、喉から出てきたのは声ではなく、掠れて今にも消えてしまいそうな音だった。
くつくつと、喉奥から漏れるような笑い声が降ってくる。可笑しくて可笑しくてたまらない、そんなような笑い声だった。頭を撫でられている時点でそこに誰かがいたことはわかっていたはずなのに、少しだけ驚いて身じろいでしまった。その時の感触で、私はようやく自分が〝彼〟の膝に頭を乗せて寝ていたことを知った。
遅れて混乱がやってきて、状況を理解しようと私は静かに目を開けた。そこは、何もなく真っ暗な空間だった。いや違う、とひとかけらの理性が告げる。暗いんじゃない。見えないのだ、何も。私の瞳は今、塵一つ映していない。
もがくように、手に力を入れる。動かない。
足に力を入れる。動かない。全身が鉛のように重い。
全くと言っていいほど思い通りにならない体に、しかし私はパニックになることもなく冷静にこの異常さを受け止めていた。
――ああ、そうだった、私は。徐々に思い出される記憶に、もうとっくに意味を成さなくなった瞼を閉じた。
私は、鳥籠を、開けてしまったんだ、
不満があったわけじゃない。真綿で包まれるように彼に愛される日々は、それはそれは幸せで仕方なかった。名前を呼ばれ、当たり前のように抱きしめられる。求められれば体を重ね、底なしの激情をぶつけられる。何重にも鍵をかけられた周りから見れば牢獄のような家も、彼がいてくれれば私にとっては楽園だったのだ。それが不器用な彼なりの愛情なのだと思えば何の苦でもなかった。
だというのに。あの日、鍵がかかっていなかったその扉から光が差し込んでいるのが見えた時、私は一瞬彼の言いつけを忘れてしまった。もう何年も見ていなかった外の景色を久しぶりに見たい、たったそれだけの思いを胸に、足を踏み出してしまった。
その後私を捕らえた時の彼を、私は一生忘れないだろう。怒りを通り越した温度のない瞳、私の腕を掴む力の異常なほどの強さ、初めて聞くような内臓に響くような低く重い声。
「……ああ、そうか」
しばらくの激昂の後、そうぼそりと呟くと彼はポケットから何か粒のようなものを取り出した。
「初めから、こうしときゃ良かったんだ」
彼はそれを躊躇なく口に含み、恐怖で涙の止まらないままの私に無理矢理口付けた。乱暴なのに、どこか懇願するかのようなキスに私の胸に深い深い後悔が募っていった。
――ごめんなさい、ジンさん、ごめんなさい
伝えたかったその言葉ごと巻き込んでカプセルは喉を通り、私の記憶はそこで途切れた。
あれから私はまた鳥籠に戻された。生活自体は特に前と変わらない。一つだけ変わったのは、私のこの体だけ。目は見えず、声も上手く出せず、体の自由はきかない。調子のいい日は動けることもあるが、少し歩き回るだけで疲れて気付けば眠ってしまう、そんな日々が続いていた。
それでも彼は前よりも何処か楽しげだった。前よりも頻繁に会いに来るようになり、彼がいなければ何も出来ない私を、甲斐甲斐しく世話をしてくれた。
そして今日も私は彼の膝の上で、際限なく与えられる温もりに身を委ねる。今彼が一体どんな表情で私を見ているのか、確かめたくてもこの目では出来ない。こんなことをしなくたってもう私はどこにも行かないと、誓いたくても出来ない。ままならない自分の体に張り裂けそうな痛みが胸を支配していた。
彼が、小さく私の名前を呼んだ。今まで頭を撫ぜていた手が、止まることを知らず頬を伝っていく涙を優しく拭う。そのまま私の目の上に手を被せると、彼はまるで幼子をあやすような声で言った。
「眠れ……もう何処にも行けやしねぇんだからな……」
その言葉に、また意識が薄れていく。だが、いつもなら逆らうことなく手放すそれを、私は必死にたぐり寄せた。私が私でなくなってしまう前にどんな手を使ってでも伝えたかった。選択を間違えた、あの日に戻れないのなら。こうでもしないと、彼が安心できないのなら。
歯を食いしばり、持てる全ての力で何とか起き上がる。気配で彼が息を飲んだのがわかった。それをいいことに彼の胸に飛び込み、とっくに動かし方を忘れていた腕を背中に回した。
「す、き」
「……っ」
「すき、よ、じん、さ」
長い沈黙のあと、ジンさんは私の体を掻き抱いた。
「 」
彼が耳元で囁く、その言葉に滲む歓喜の色が、私の欲が生み出した幻でないのなら。
後はもう、眠るだけだ。
彼の作り出す闇の中で、全てを投げ出して。