よもやま
wish 2
2025/10/18 10:081年前に絶対に守ると約束した、井上の誕生祝いイベント。
ドーナツ屋で「全部ください」を叶えてやれたのは、10月も中旬に差し掛かる頃だった。
「本当にごめんな」
「えっ、何で?! 何が?!」
勢いよく俺の顔をふり仰いだ井上が、大きく目を見開きつつ、ことり…と首を傾げる。
とぼけているのではなく、本当に、俺が謝る理由がわからないようだ。
「何で——って…誕生日から大分日が経っちまってるだろ」
「なぁんだ、そんなこと! 全っ然、気にして無いよ!!」
薄茶の目が柔らかく細まり、花びらのような唇が上向きに優しく弧を描く。
「私は、シフト勤務。
黒崎君は学業プラス不定期バイト、しかも死神代行としても、うなぎ屋のバイトとしても売れっ子なんだもの。
予定が合わせられなかったのは、仕方のないことだよ。
それに、今の時期だからこそ、ノベルティ付きのハロウィン限定品が手に入ったんだし、私としてはむしろラッキーだもの!
——あ、でも……限定品分出費が増えちゃったわけだから、黒崎君にとっては災難か」
「いや、数百円程度の違いだし、別段どうってことねぇよ。
それこそ、気にせず素直に喜んでくれたほうがいい」
「うん! すっごくすっごく嬉しいよ!! 本当にありがとうね、黒崎くん!!!」
満面の笑みを浮かべながら力強く頷くと、井上は自分の眼前に、店でもらったノベルティのキーホルダーを掲げた。
お化けかぼちゃのランタンの上に、黒いとんがり帽とマントを身につけたイメージキャラクターが座っている——という、代物である。
「ふふ…可愛い……!」
どの鞄に着けようか、それともエンラクとウタマロの間に並べて飾ろうか——と。
ぷらぷらとキーホルダーを揺らしながら、愉し気に思案する横顔に、井上が心底喜んでいることを確信し、密かに安堵の息を吐いた。
例え芥子粒程度の小さなものであったとしても、俺に対する不安や不満を井上に抱かれるのは、正直たまんねぇなと思う。
だから、こそ。
「——なぁ、本当にいいのか? 全部5等分に切って、俺の家族と分け合うなんて…さ」
我ながらしつこいと思いつつも、何度目かの確認をせずにはいられなかった。
なまじ、井上1人で食べ切ることも可能な量だとわかるだけに(敢えて口には出さないけど)。
「勿論だよ! それも含めて、楽しみにしてたんだから!!」
「——俺や、俺の家族に要らん気遣いしてるわけじゃ…」
「無い無い! 絶対に、無いから!!」
「なら、いいけどよ…」
尚も不安気に言い淀んだ俺の顔を、苦笑混じりに見上げながら、井上は「……あのね」と口を開いた。
「去年は、アイスクリーム屋さんで『全部』って言わせてくれたでしょう?
あの時も、今日と同じで本当に本当に嬉しくて…次の日から毎日、今夜はどれを食べようか——って、朝起きてから仕事終わって帰宅するまで、ずっとわくわくして過ごしたの。
でも、ね。
いざ食べ出すとね、ちょっとだけ……本当に針の先ほどの些細なものなんだけど、淋しいなぁって気持ちにもなったの。
お兄ちゃんがいた頃みたいに、誰かと分け合って食べたなら、もっと何倍も美味しく感じるんだろうなぁ…って」
「井上…」
「だから今年は、絶対に黒崎君の御家族と一緒に——って、決めてたの!
遊子ちゃんや夏梨ちゃんと感想語り合ったら絶対に楽しいだろうし、あわよくばうちの店の商品開発のヒント貰えそうだし、ここ最近の新作や限定品に、おじ様がどんなリアクションなさるかしら——なんて、想像するだけで…ぷぷっ……!」
くすくすと小さな笑い声を立てる井上を、俺は幾分不貞腐れた気分で横目に見ていた。
だって——ドーナツをプレゼントしたのは俺なのに、井上の口から出てくるのは俺の家族のことばかりだったから。
——まあ、かと言って。
井上や遊子や石田のように、食材や調理法を推し量るなんて芸当は逆立ちしたって出来ねぇし、親父のように幼児レベルではしゃぐなんて、もっと無理だし。
無理して食レポっぽい言葉を紡いでみたところで、恋次とどっこいの言動レベルだろうという自覚はあるから、話題に上らなくても仕方ねぇよな——とも思う。
そんなことをつらつらと考えながら歩いていたら、ポケットの中のスマホが震えた。
ほぼ同時に、井上のスマホからもメッセージアプリの着信音が。
無言で顔を見合わせたのち、それぞれスマホを取り出す。
画面を確認すれば、夏梨から井上を夕飯に誘ってほしいこと、まだ行きつけのスーパーの前を通り過ぎていなければで良いので、足りない食材を買い足して貰えないかとのメッセージが表示されていた。
添付の画像は、遊子手書きの買い物メモ。
「井上、その——」
「黒崎君も、遊子ちゃんから?」
「いや、俺は夏梨から。でもまぁ、内容はほぼ同じだろ。——で、どうする?
特に予定無いなら、食べていけよ。帰りはマンションまで送るし」
「じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかな」
「是非、そうしてくれ。妹達も親父も、喜ぶから。
ところで、俺の方には足りない食材の買い出し依頼も書いてあってさ。スーパー通り過ぎてなければで良いって言うんだけど、まだ50メートルと離れてないし、引き返してもいいか?」
「全然オッケーであります!」
キリッとした表情と動作で、敬礼の真似事をして。
一息置いたあと、まるで鳳仙花の実が弾けるように、満面の笑みに変わる井上。
その、鮮やかさ。
華やかさ。
俺の瞳に映る世界、が。
井上だけでなく、見慣れたはずの目の前の景色全てが、彩度を数段上げたように感じられて、思わず息を呑む。
——ああ、本当に。
護れて、良かった。
彼女、を。
この、世界を……。
「ところで、何を買ってくるよう頼まれたの?」
「あ、あぁ——これだ」
慌てて我に返ると、井上に向かってスマホを差し出す。
軽く身を乗り出して画面を覗き込んだ井上は、遊子の書き連ねた食材を小さな声で読み上げると、「わぁ……さすが、遊子ちゃんだ!」と感嘆のため息を吐いた。
「どれもこれも、脂質や糖類の排出を助ける食材ばかり!
たくさんドーナツ食べた後には、ピッタリだよ」
「へぇ…そうなんだ……」
「ふふ、メニューは何かな?
遊子ちゃんの作るお料理は何でも美味しいから、ほんっと楽しみだなぁ…!」
スーパーへと引き返す、道すがら。
隣を歩く井上の声も足取りも、浮き浮きと弾んで……それこそ、一瞬先には宙に舞い上がってしまいそうな錯覚を起こす。
「あんまり浮かれてると、足元危ねぇぞ」
そう俺が言い切らないうちに、小さな悲鳴と共に井上の体が傾いだ。
慌てて腕を掴んで、地面と激突するのを防いでやる。
「ほら、言わんこっちゃねぇ」
「め、面目ござらぬ——」
しおしおと俯く井上の、髪から覗く耳が赤い。
「……デザートに林檎って、どうかな」
「うん、良いと思う——けど」
いったい何から、林檎を連想したのかしら——と。
俺を上目遣いに見る井上の、少し膨らみ気味な頬もまた、耳に負けず劣らずの紅色で。
尖った唇の間から押し出された拗ねた声が、これまた可愛くて。
堪らず、吹き出す。
そのまま喉の奥でくつくつ笑う俺を、井上は軽く睨みつけると、ぶんっと空気が鳴る勢いで踵を返し、大股でずんずん歩き出した。
そのままスーパーに入店していくのを、慌てて追いかける。
自動ドアを抜ける、寸前。
互いを支え合うようにゆっくりと歩き去る老夫婦とすれ違った。
その〝共白髪〟という言葉そのもののような姿に、心の奥底、淡い憧憬の念が仄かに灯る。
——いつか、きっと。
胡桃色の頭髪が揺れる後ろ姿を、追いかけながら。
知らず、拳を握っていた。
終