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【蜂蜜と香辛料】
初出:2022.01.03



正月も丸二日を過ぎる頃には、御節にも雑煮にもなんとなく飽きてくる。
そろそろ、いつもの家庭料理が恋しいな…そんなことを思いながら寝付いた翌朝、目を覚ませば隣には既に織姫の姿はなく、ドアの向こうからトントン…と包丁で何かを切る音と、鍋の蓋がコトコトと鳴る音とが聞こえてきた。

「……はよ、織姫」
「おはよう、一護君!」

目を擦り擦り、欠伸を噛み殺しながら声をかければ、振り返った織姫がふわりと笑う。
朝日を凝縮させたようなその笑顔が眩しくて、思わず目を細めた。

「……もしかして、物音で起こしちゃった?」
「いや」
「それなら、いいけど…」

少し気遣わしげに眉根を寄せ、ことり…と首を傾げる織姫。
肩からさらりと流れ落ちた一房の髪が、窓から差し込む陽射しを受けて、金糸のように輝いた。

こんな何気ない瞬間に途轍もない幸福感に満たされることは、多々ある。
だけど……。
今日は同時に「もし、これが夢の中だったら…?」という不安が、ぞわりと背筋を這い上った。





そう言えば。
夜半に少し、雨が降ったっけ……。






「もしかして、カレー作ってる?」
「当たり! そろそろ御節にも飽きる頃でしょう? 
だから…一勇を迎えに行くついでに、みんなで一緒に食べようと思って、沢山作っちゃった!」

ふふ…と小さく笑い含みながら、織姫が応える。
その間も彼女の手は休みなく動き、食材を切り刻んでいた。
鮮やかな色彩のパプリカや胡瓜は5センチほどの棒状に。
湯気の立つカリフラワーは房を分けて一口大に。
おそらく、付け合わせのピクルスになるのだろう……手際の良さにぼんやり見惚れながら、そんな推測を働かせる。
一方で、タイミングを坦々と狙いながら少しずつ距離を詰めていき、彼女が包丁を置くと同時に、背後から薄い肩を抱きすくめた。

「わきゃ…っ?!」

上がる、小さな悲鳴。
若干バランスを崩してふらつく体を、更に強く抱き込んでしまう。

花の香のする柔らかな髪に頬をすり寄せ、こめかみ辺りに唇を押し当てれば、こら——と。
まるで幼い子供か小動物に対するような、どこか甘い響きを含んだ口調で叱られた。
持ち上がった手が、ペチペチと俺の頬を叩く。
その、至極微かな痛みに、密かに安堵の息を吐き出した。





……大丈夫。
夢の中なんかじゃ、ない。





「何か手伝うこと、ある?」
「今のところは、特に……あ、洗濯がそろそろ終わるかな」
「じゃあ、俺が干しておく」
「ありがと。助かります!」 

笑顔でおたまを振る織姫に片手を挙げつつ、踵を返す。
洗面所兼ランドリールームへと向かう前に、一度寝室に戻り、パジャマから服へと着替えた。
洗顔等を済ませたところで、洗い上がった洗濯物を籠へと移し、リビング方面へと引き返す。
キッチンの脇を通り過ぎながらちらりと視線を向ければ、織姫がちょうど、ルーの買い置きの入っている引き出しを覗き込んでいるところだった。

「甘ぁい蜂蜜、辛ぁいルーさん、仲良く溶けて、美味しくなぁれ!」

おそらくは思いつきであろう鼻歌が、微かに鼓膜へと届く。 
知らず口元を綻ばせながらリビングを突っ切り、掃き出し窓を開いた。
途端に、身を斬るような冷気が全身を包む。
思わず身震いしてしまったけれど、しん…と冷えた冬の空気は、実はそんなに嫌いじゃない。
それに…目の前に広がる空は、雲ひとつなく晴れ上がっていた。この分ならきっと、昼間は穏やかな日和になるに違いない。
河川敷あたりに凧揚げにでも連れて行ってやったら…一勇、喜ぶだろうか。

「あら、黒崎さん! 明けまして、おめでとうございます!!」

同じく洗濯物を干しに出てきたらしい隣家の奥さんが、にこやかに声をかけてきた。
そういえば、年が明けてから会うのは初めてだ。

「明けまして、おめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
「はい、こちらこそ! あら…この匂いは、カレー?」

奥さんの鼻がひくんと動き、僅かに見開かれた瞳に光が踊った。
リビングの空気が少し澱んでいるように感じたから、換気をしようと窓を少しだけ開けておいたのだけど…おそらくそこから、匂いが漏れたのだろう。

「はい、御節料理にも飽きがくるころだろうから…と、妻が」
「それは、いいわね! うちも真似させてもらおうかしら」

浮き立つような口調で言いながら、奥さんがパンっと手にした洗濯物の皺を伸ばす。
それからしばらくは、お互い黙々と自家の洗濯物を干し続けた…の、だが。

「そういえば、おチビさんの声が聞こえないけど…未だ寝てるの?」
「あ、いえ——一勇は実家に泊まってまして」
「あら…確か未だ、三つよねぇ?! うちの孫は、そのくらいの年頃には未だ、一人でお泊まりなんてできなかったわよ?」

凄いわねぇ…と感心しきりの奥さん。
まさか、コンがまるで兄のように一勇に付き添い、面倒看てくれるんで、寂しがらないんですよ——などと説明できるはずもなく、俺はただ曖昧な笑みを浮かべて視線を泳がせた。

幸いだったのは、直後に靴下が見つからないとか何とか訴える旦那さんの声がして、奥さんが盛大に顔を顰めつつ室内へと戻って行ったことだ。
俺は急いで残りの洗濯物を干しきると、逃げ込むようにリビングへと戻った。 

「あ、一護君…! ちょっと味見してくれる?」

後ろ手にサッシを閉めながら顔を上げると、器と匙を手にした織姫が、こちらへと歩み寄ってくるところだった。
年末に職場の同僚がチャツネをおすそわけしてくれたので、早速使ってみたのだと言う。

「なんでも、お姉さんがインド国籍の方と結婚したとかで、そのお相手のお姑さん直伝なのですって」
「へぇ…?」

相槌を打ちながら、器を受け取るべく腕を伸ばす。それが実に中途半端な位置で止まってしまったのは、織姫が満面の笑みを浮かべながら、山盛りにカレーを掬った匙を、俺の口元に差し出したからだ。

「はい、あーん!」
「…っ、?!」

顔を引き攣らせて固まってしまった俺の心のうちなど、知ってか知らずか……にこにこと、無邪気な微笑みを浮かべ続ける織姫。
対する俺はと言えば、幸か不幸か、この笑顔に抗う術を持ち合わせていない。

観念して、目を閉じつつ口を開ける。
程なくして、舌の上にカレーが乗せられた。

辛さと甘さとが複雑に絡み合った、その味は。
昨夜の俺の心情——久々の二人きりの夜に、年末の疲れが出たのが早々に寝入ってしまった織姫の、安らかな寝顔を見下ろしていたときのそれに、何処か似ている気がした。









終
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