log:petits fours



【彼女の香水】
2022.04.1504/15の日記






お先に失礼します——と。
笑顔で私の横を通り過ぎた彼女から、ふわり…と甘い香りがした。
思わず振り返り、胡桃色の髪が緩やかに揺れる後ろ姿を、まじまじと見つめる。

食品を扱う店だから、基本、勤務中の香水や派手すぎるメイクなどはご法度だ。
だからこそ、というか。
退勤時…特に早番で、街中での食事や買い物を楽しむ余裕があるときなどには、化粧を華やかに直し、仄かな香りを足して出て行く子は少なくない。

そんな若い子たちのなかにあって、井上さんはこれまでずっと例外だった。
勤務中も出退勤時も、メイクは至極薄いまま。
何か香ることがあったとしても、シャンプーや衣類洗剤などの残り香が、至近距離でどうにか感じられる程度のもので……。
その彼女が、明確な意思のもとに香りを纏っていたものだから、酷く驚き、狼狽てしまったのだ。
井上さんだって年頃の女性だもの、化粧や香水を嗜んだって、何の不思議もない筈なのだけれど……。

『それにしても——』

従業員専用の出入り口の扉を、今まさに開かんとする彼女の後ろ姿をぼんやりと眺めながら、はて?…と首を傾げる。
甘さと爽やかさが絶妙に入り混じったその香りには、確かに覚えがあったのだ。
だけど、必死に記憶の糸を手繰るものの、なかなかこれというものに辿り着かない。

「……まぁ、いいか。どのみち、私に似合う香りではないのだし」

苦笑混じりに呟きながら肩をすくめ、踵を返そうとした——その時、だった。
彼女の肩越しにちらりと見えたのは、目にも鮮やかなオレンジ色の頭髪。
瞬間、堰を切ったように脳内に溢れ出た記憶は、3月頭に開かれた商工会の、定例会議の場でのこと。
親しくしているドラッグストアの店主から、「オレンジデー向けの商品として、売り出す予定なの」と渡されたムエット…そこに沁み込んでいた蜜柑の花からつくられたという香水と、同じ香りだったのだ。

「お待たせ、黒崎君……!」

鈴入りの鞠が弾むような声を残して、扉が閉まる。
小走りに去る足音が、耳の奥でデクレッシェンドしながら、宵の空気に溶けていく。

「——なるほど、ね」

スタッフルームへと向かいながら、ふふ…と小さく笑みを零す。
折しも今日は、金曜日だ。
おそらくは昨日、彼が井上さんに贈ったのであろう香りの如く、甘やかな時が、今宵、二人の間に流れんことを……!


 



終
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