log:petits fours
【ひよこ月夜に、お散歩デート】
(初出:2020.12.05)
俺が夕飯を食べ終わったのを見計らって、織姫が「お月見散歩に行きたい」と言い出した。
こんなふうに彼女が俺に対して我儘や要求を口にすることは、極めて稀だ。
だからこそ、望むことがあるなら出来るだけ叶えてやりたいと常日頃は思っているのだけれど、このときは即答ができなかった。
外気温が、かなり低くなっていたからだ。
「……腹の子に障らねぇか…?」
躊躇いがちに尋ねれば、できるだけ温かくしていくから…と。
僅かに小首を傾げつつ、上目遣いに俺の顔を覗き込む織姫。
………その顔と仕草は、反則だろ。
内心で大いにぼやきつつも、俺は椅子からゆっくりと立ち上がった。
息を詰めるようにして俺を動きを目で追う織姫に、腹と背中にカイロを貼ってはどうかと提案すれば、薄茶の瞳がきらきらと輝きだす。
「わかった!」
声を弾ませて踵を返した織姫の姿が、寝室のドアの向こうに消えるのを見送って。
俺もまた、上着や財布を用意すべく、携帯を片手に玄関へと向かった。
「……今日の月は、なんだかとても可愛らしいねぇ…!」
隣を歩く織姫が、空を見上げて柔らかく目を細める。
彼女の言うとおり、満月から幾日かを過ぎた今宵の月は、檸檬のような、卵のような、なんとも形容し難い緩やかな曲線を描いていた。
それは満月の持つ珠鏡のような完璧さや、三日月の持つ冴え冴えとした剣のような美しさとは違って。
丸くなって眠るひよこを目にしたときの、思わず口元を綻ばせてしまうような…そんな、愛嬌を感じさせる姿だ。
ちなみに織姫は、スプーンの上で溶けかけた、大盛りのバニラアイスのようだ…と評した。
いかにも彼女らしい発想に思わず吹き出せば、むぅ…とむくれる気配がした。
そんなところも可愛くて…なんて俺が考えていることなど、彼女は想像だにしないだろうけれど。
「寒くねぇか?」
「うん! 一護君のアドバイスのおかげで、お腹も背中もポカポカであります!!」
戯けたように笑いながら、織姫が敬礼の真似事をする。
その表情と仕草の愛らしさに、思わず抱きしめたくなる衝動を堪えながら、繋ぐ手に込める力を僅かに強めた。
そのことに気づいたらしき織姫が、一瞬茶の瞳を見開いたのち、ふうわりと優しく笑み崩れつつ甘えるように体を擦り寄せてくる。
腕を組んだり、肩を抱かれたりするのは苦手らしい織姫だが、今みたいに手を繋いで、身体を寄せ合ようにして歩くことは好きらしい。
俺としてもベタベタにイチャつくことには抵抗があるから、このくらいの距離感は嬉しくもあるし、心地よくもある。
半年と少し前までは、ただ隣を歩くだけでも緊張して手に変な汗をかいたものだが、人間案外と簡単に慣れちまうもんだなぁ…と内心で苦笑を零した。
「歩くペース、早くねぇか?」
「大丈夫だよ」
「疲れてきたら、早めに言えよな」
「うん」
こっくりと童女のように首を縦に振った織姫が、ちろりと舌を出しながら、今日の検診で体重を増やしすぎだと注意されたと告白した。
「悪阻明けてから、ちょっと食べ過ぎちゃったみたい。このままのペースで増やし続けると、妊娠中毒症になったり、産道まわりに脂肪がついて、産むときに苦労するって脅されちゃった…」
「そっか…」
「だから、ね?
食事量は自分で気をつけるけど…こんなふうに時々、夜の散歩に付き合ってくれたら嬉しいな。
昼間は私にも仕事があるから、なかなか時間取れないし」
「わかった。なるべく時間を作るようにする」
「ありがと。でも、無理はしないでね…?」
「おう」
にっ…と口の端を釣り上げれてみせれば、俺を見上げる織姫の顔にも微笑が戻る。
その瞬間、不意に雷が落ちたような衝撃に心が震えた。
護りたい…そう願った笑顔が、今、この瞬間、僅か30センチ以内の距離にある。
それがどれほどの奇跡であり、幸福であるのか……そんな気付きが今更のように胸に押し迫り、荒れ狂う波のような感動に溺れてしまいそうだ。
「……一護、くん?」
不安そうに身じろいだ織姫を視線で制すると、あまり得意ではない霊圧探索の力をフル稼働して周囲に人気がないことを確認する。
拳一つ分開いてしまった、織姫との距離。その隙間を、繋ぐ手を引いて一息に縮めると、織姫の秀でた額に唇をそっと押し当てた。
甘く切ない痛みが、胸を貫いていくのを感じながら…….。
終