log:petits fours
【花屋とケーキ屋の深慮遠謀】
(初出:2020.08.29)
その青年が初めて店にやってきたのは、まだ春も浅い三月下旬の頃だった。
最初は、その派手な頭髪の色と険しい表情とに、チンピラが言いがかりをつけにでもやってきたのかと怯えたものだ。
しかしながら、私と目があった瞬間、その青年はぴきり…と一瞬、体を硬直させて。
次に眉尻を下げた心許なそうな表情になると、店先にあった定価500円のプチブーケを購入したいのだと、至極小さな声で告げてきた。
単なる客だとわかったその瞬間、どれほどホッとしたか知れない。
それと同時、に。
180cm近くはあると思われる青年が、まるで迷子の子犬のような空気を纏っている…その落差がどうにも可笑しくて、吹き出しそうになるのを必死で堪えた。
加えて。
小さな手提げ袋にブーケを入れて手渡したときの、口元にほんのりと刻まれた微笑み…その、予想外の柔らかさを目にして、思わずドキリ…と鼓動が跳ねたことを覚えている。
親子ほども歳の離れた相手に、何をときめいているのかしら…と、店を出ていく後ろ姿を見送りながら火照る顔を手でぱたぱた扇いだものだ。
ただ、てっきりそれ一度きりになると思い込んでいたから、翌月、再び彼が店にやってきたときには、心の底から驚いてしまった。
更に翌月も、その翌月も…と来店が続くと、流石に彼の容姿に関する驚きや戸惑いは失せ、代わりに好奇心がむくむくと頭をもたげてくるようになった。
一体何のために、彼はあの小さなブーケを買っていくのだろう。
家族のため?
恋人のため?
それとも…見かけによらず花が大好きで、そんな自分へのご褒美だとか……?
心に浮かぶ疑問を、しかしながら私は直接彼にぶつけたことはなかった。
……当然だ。
客が自主的に話すならともかく、店側があれこれ詮索して良いことではない。
ましてや、私が扱っている商品は「花」だ。
贈る相手が、必ずしも生者であるとは限らない。
故に。
私は表面上は淡々と、月に一度、彼にブーケを売り続けた。
少しずつ…本当に少しずつだけど、入店してくるときの彼の眉間皺が浅くなり、去り際の笑みが深くなる様子を、楽しく観察しながら……。
「あー……それ多分、“黒崎君”だわ」
「え、なに…知り合い?」
商店街の、加盟店の集まる定例会議。
その、休憩中。
隣に据わっていたABCookie’sの店長夫人の口から、私は思いがけず青年の名を知ることとなった。
「知り合いって言うか……織姫ちゃんの、元彼」
「ああ、あの子の……って…えっ?! 元彼?!」
私は瞬時に、青冷めた。
別れた相手に花を贈り続けるだなんて、彼はストーカーなのではあるまかいか……?
その疑問を恐る口にしてみると、店長夫人は苦笑しながら大きく首を横に振った。
「違う違う! そうじゃないのよ。ただ、今はおつき合いをしていないらしいから、元彼としか言いようがなくて……」
「……どういうことなの?」
「んー……私も詳しくは知らないんだけど、年末頃から一度おつき合い始めたのを、就職活動や卒論の邪魔をしたくないって、姫ちゃんの方から一旦保留を申し出たみたいで」
「……あらま」
「ただ、ねぇ…」
店長夫人は再び苦笑を浮かべると、「傍目には、何がどう変わったのかなんて、さっぱりわからないのよ」と言って、軽く肩を竦めた。
「それこそ姫ちゃんがアルバイトだった高校生の頃から、熟年夫婦みたいな雰囲気を醸してたからねぇ。
なんであれで付き合ってないんだろうって、夫や従業員も含めて、店の誰もが陰で首を捻ったものよ。
おつき合いを保留にしてからだって、なんだかんだ黒崎君はお店に来て、織姫ちゃんの仕事終わり待って送って行くことも多いし、姫ちゃんが黒崎君のお家にお呼ばれされる回数なんて、寧ろ増えてるような気がするし」
「……なるほど」
そんな話を聞かされては、私もまた、苦笑を浮かべるより他にリアクションのしようもない。
「それにしても、月に一度、黒崎君が姫ちゃんに持ってくる小さな手提げ袋の中に、あなたのところのブーケが入っているとは気が付かなかったわ。いつもの店名入りの袋じゃなかったし」
「ああ……あれには、既製品の袋を使ってるから」
「姫ちゃん、それはそれは嬉しそうに受け取ってるわよぉ……と、あれ…ちょっと待って…?」
それまで笑顔で話していた店長夫人が、いきなり眉間に深い皺を刻んで黙り込んだ。
私は戸惑って、ただ瞬きを繰り返すばかり。
そのまま、三十秒ほども経った頃だろうか……夫人は片手で顔半分を覆うと、ため息混じりに呟いた。
黒崎君がうちのブーケ入りの手提げ袋を持って現れた日には必ず、織姫ちゃんは薔薇の花を象ったチョコ菓子を購入して、黒崎君に渡しているのだ……と。
「他にも人気のチョコ菓子はあるのに、いつも薔薇のチョコを選ぶの。それって、さぁ……」
その言葉に、私も思わず息を呑む。
……要するに、だ。
あの二人は月に一度のペースで、ブーケ・ブートニアの儀式にも似たやりとりを、繰り返し続けている…ということなのだろうか?
恐らく、は。
お互いへの想いに変わりがないことを、伝え合うために……。
「なんともまぁ、間怠いこと……」
大きく息を吐き出しながら、ぐったりと椅子の背凭れに寄りかかる。
同じく怠そうに椅子の背に身体を預けていた店長夫人だったが、しばらくの沈黙の後、唐突に、来春彼女の本店に併設する予定のレストランと、契約を結ぶ気は無いか…と言い出した。
急な話題の変化についていけない私を余所に、彼女は淡々と、レストランでは貸し切りのウエディングプランも用意するつもりなのだ…と説明を続ける。
そして、店内やテーブルを飾るフラワーアレンジメントや、ウエディングブーケの製作を、私の店に任せたいと言うのだ。
「……そりゃ、うちとしては売り上げ増に繋がるし…願ったり叶ったりだけど……」
「よし、決まった! あなたの店なら多分夫も反対しないだろうから、オープン間近になったら正式に契約書を作るわね!」
店長夫人が、勢いをつけて椅子の背から身を起こす。
そして長机の上に置いていた手帳に何事かを書き込みながら、「ふふふ…」と些か不穏さを含む笑い声を漏らした。
「あの二人のことだもの、黒崎君の就職と卒業が決まったらすぐに交際再開して、おそらくそのまま一息に結婚まで進むわよ!
そのときには、絶対にうちのレストランで披露宴をやってもらうわ!!
みてなさいよ、ウエディングケーキから引き菓子まで、とびっきりのもの用意してみせるんだから!!!」
「………それじゃあ私も、あの二人のイメージにびったりなブーケやアレンジメントのデザインを、今から考えておこうかしらね…」
店長夫人と顔を見合わせ、まるで共謀して悪戯を働こうとしている子供のような、人の悪い微笑みを交わし合う。
それ、は。
とても愉快で幸福な、新たな夢の始まりだった。
終