log:petits fours
【ハリネズミな彼女】
(初出:2019.3.3. やまやま,pixiv)
井上が、ハリネズミになってしまった。
何故かなんて訊かないでくれ、俺だって詳しいことは何も知らねぇんだから。
ただ、俺にそのことを連絡してきたのが浦原さんで、慌てて俺が店に駆け込んだ時には既に、飼育篭やら手袋やらのお世話道具一式が揃っていたことを考えれば、たとえ聞かずとも、推して知るべし…というものだ。
寧ろ、深く追求しない方が無難とさえ言えるかもしれない。
とにかく「アタシは、井上さんが元の姿に戻るための研究に専念するので、お世話よろしく」と浦原さんに託された飼育篭を抱えて、俺は自宅へと戻った。
たまたま俺以外の家族全員が外出していたのは、まさに不幸中の幸いだ。
ハリネズミを連れ帰ったと知れば、可愛いもの好きで世話焼きな遊子が、俺から奪い取るようにして構いたがったに違いねぇし、雨(ウルル)から井上の衣服一式が入った紙袋も持たされていたから、目聡く頭の回転の早い夏梨や親父がそれを目にすれば、一騒動起きるのは確実だっただろう。
無人とわかっていても、どこかコソコソと忍び足で階段を上って。
自室に入ってドアに鍵をかけたところで、俺は大きく肩が下がるほどに、深く深く息を吐き出した。
エアコンのスイッチを入れ、ある程度部屋が暖まったところで、篭をくるんでいた布をそっと取り外す。
「……大丈夫か、井上?」
俺の言葉がわかっているのかいないのか、ハリネズミと化した井上は、しぱしぱと目を瞬かせながら俺の顔をじっと見上げた。
ハリネズミは夜行性だというから、周囲が急に明るくなったことに、眼がなかなか慣れないのだろう。
やがて瞬きは収まったが、すんすんと鼻を鳴らしながら篭の中をもそもそと動き始める。
その、不安で落ち着かな気な様子に、俺は再び深い溜息を吐きだした。
頻繁とは言えないものの、この部屋に入ったことがある筈の井上の、この反応だ。
恐らく、人であった頃の記憶などは殆ど有しておらず、知能も本物のハリネズミ程度だと思った方が良さそうだ。
「さて……どうしたもんかな…」
呟きながら手袋をはめ、篭の中に手を入れる。
すると井上は、「ふっ、ふっ!」と息荒く鼻を鳴らして、ぶわっ…と針を逆立てた。
ハリネズミは警戒心が強いと聞いたが、なまじ本当は井上であるとわかっているだけに、全身全霊で拒絶反応を示されると、地味に傷付くものがある。
一度手を引き、今度は掌に餌を乗せて、井上の前に差し出してみた。
鼻をひくひくさせながらじりじりと近づいてきた井上は、俺の手の先にあるものが食べ物であると理解すると同時に、前足を俺の手にかけ、ぱくぱくもぐもぐと勢いよく頬張り始めた。
あっという間にペレットの小山が平らになっていくのを、流石は井上…と、妙に感心しながら眺める俺。
やがて餌を全て食べ尽くしてしまうと、井上はそのまま俺の掌の上へと、その短い手足を使って乗り上げてきた。
餌をやったことで、多少は警戒を解いてくれたらしい。
落とさぬようにもう片方の手も添えて、そっと篭から井上を取り出す。
手を動かした瞬間に井上は再び針を逆立てたが、先ほどに比べたら針の上向く角度は格段に浅く、すぐにぺたんこになった。
スマホでの検索画像に良く出てきたように、いがぐりを持つような感じで掌の中にくるみ込めば、素直にすっぽりと収まり、つぶらな瞳で俺を見上げる。
「それにしても…なんだってまぁ、よりにもよってハリネズミなんかに……」
そう呟きかけたところで、はた…と口を噤んだ。
よりにもよって…じゃ、ねぇ。
この姿は寧ろ、井上の本質そのものなんじゃねぇかと思ったからだ。
平素笑顔を絶やさない井上は、周囲の人間から親しみを持たれやすい。
実際、あの微笑みは癒しだ…と公言して憚らない人間は、井上とのつきあいの深浅や老若男女を問わず、大勢存在する。
加えて、普段の井上は喜怒哀楽なども素直に態度に表すものだから、こちらもつい、井上のことを何でも知っているような気になってしまうのだ。
だが、しかし……である。
この数年、比較的彼女の傍近くで過ごした時間が長かった俺は、嫌でも気づかざるを得なかった。
彼女の、本当に本当の心の奥底に踏み込むのは、そう容易いことではないのだ……と。
困ってる奴や苦しんでる奴、痛みや悲しみを抱えた奴が居れば、見過ごすことの出来ない井上。
だけど…その優しさや気遣いが他者から自分へと向けられた途端、彼女はまるでハリネズミのように、酷く臆病な一面を見せるのだ。
針だらけの毛皮の代わりに井上が纏うのは、『笑顔』という名の見えない鎧。
そして針の代わりに振るう無敵の武器は、「あたしなら、大丈夫!」という明るく弾む声だ。
その笑顔、が。
声、が。
言葉、が。
どれほど此方の気持ちを怯ませ、心を突き刺すかも知らないで……。
「……もっと誰かを頼って甘えたって、別に罰は当たらねぇと思うぞ…?」
下ろしてやった床の上、俺の部屋を探検しだした小さな背中に向かって、ぼそり…と呟く。
ハリネズミ化した井上は人語を解さないらしく、俺の声に振り返ることもない。
「あ、おい…っ! そっち行くんじゃねぇ!!」
ベッド下へと向かって進み出したのを見て、慌てて脱いでいた皮手袋をはめ直し、小さな身体をすくいあげた。
当然ながら抗議の悲鳴を上げ、針を逆立てる井上。
「そんなに、怒るなって」
下ろしてやったベッドの上で、井上は暫くの間、針を逆立てたまま「ふしゅっ、ふしゅっ!」と怒ってぴょんびょん飛び跳ねていたが、突然動きを止めたかと思うと、虚空を見上げ、ひくんと一つ鼻を動かした。
そしてくるりと俺に背を向け、何故か枕に向かって突進して行く。
ふんふん、すんすんと枕の臭いを嗅ぎまくる姿に、何がそんなに気になるのだろう、未だ加齢臭なんて年齢じゃねぇし、まめに洗濯してるのに…と一抹どころではない不安がこみ上げてきたころ、井上は枕と布団が作り出す小さなトンネル状の隙間に、いそいそと潜っていった。
「………」
黙って静かに見守っていると、やがて布団の隙間から鳥のさえずりにも似た鳴き声が。
慌ててスマホで検索すれば、どうやらご機嫌な状態であるらしい。
「夜行性なだけあって、暗いところだと落ち着くのかな……でも…」
スクロール中に目に入った「嗅覚が優ている」との記述が、脳裏を過ぎる。
もしも…もしかして、だけど。
俺の匂いで、安心してくれたのだとしたら……?
「……やべ」
誰が見ているわけでもないのだが、ニヤケそうになる口元を咄嗟に手で覆う。
そうこうしている間に、いつの間にか鳴き声がしなくなって。
そろり…と掛け布団の端をめくってみれば、井上ハリネズミはくうくうと寝息を立てていた。
「…ったく、人の気も知らねぇで……」
あまりに呑気で幸せそうな寝姿に、知らず苦笑がこぼれ落ちる。
しばし、そのまま見守って。
俺はおもむろに身を乗り出すと、ちいさな鼻先にそっと唇で触れてみた。
異性からの接吻は、魔法解除の定番中の定番。
駄元で試してみる価値は、十分にある。
たとえハリネズミの姿であろうとも、それが井上だと思うとどうにも意識してしまって、起きてる間には試せなかった…ってのが、我ながら情けねぇんだけども。
顔を離して、10秒。
……30秒。
……1分。
……5分。
「……やっぱ、駄目か」
落胆半分、安堵半分…といった気分で、ひとつ溜息を吐く。
そして、いまのうちに篭の中の飲み水でも取り替えてやるか…と、ベッドに背を向けたときだった。
「………ん…」
至極微かに聞こえた声に、ぎくり…と身体が強ばる。
恐る恐る背後を振り返れば、果たしてそこには、ベッドにうつ伏せて眠る人間の井上の姿があった。
彼女の頭部と指先以外のほぼ全身が掛け布団で隠れていたのは、今日幾度目かの、不幸中の幸いである。
「…っ、?!」
喉元まで出掛かった悲鳴をどうにかこうにか飲み下し、床に置いたままだった通学用の鞄を手元に引き寄せ、中から筆記用具を取り出した。
そして、ノートから破り取った紙にこれまでの経緯を簡単に書き殴る。
極力音を立てないように細心の注意を払って立ち上がり、書いたメモを枕元に、雨から預かった紙袋をベッドの足下に置くと、俺は忍び足で部屋を出た。
階段を降りきったところまできて、ようやく深い呼吸を取り戻す。
ずるずると床に座り込む俺の脳裏には、メモを置くときに目に入ってしまった華奢な肩と、その目映いほどの肌の白さが焼き付いていて。
それを振り払うことの難しさに、ただただ途方に暮れていた。
……二時間後。
親父たちも戻り、遊子の作る夕飯の香りがリビングに漂いはじめた頃、井上は俺たちの前に姿を現した。
勿論『人』の姿で、きちんと服を着込んだ状態で…で、ある。
家族には、廃棄パンを届けてくれた井上が貧血を起こして倒れたのだと説明しており、井上にも口裏を合わせてくれるようメモ書きで頼んでおいたから、心配した遊子が、やれ気分はどうだ、ABCookiesはそんなにブラックなのか…などと矢継ぎ早に質問を浴びせても、井上はにこにこと笑いながら、僅かな戸惑いも見せずに受け答えをしてくれた。
夏梨や親父は井上の言葉に相槌を打ちつつも、時折胡散臭いものを見るような目つきで、ちらちらと俺を見ていたけれど。
その後、当然と言えば当然の流れで、井上は俺たち家族と一緒に食卓を囲んだ。
そして親父に言われるまでもなく、井上をマンションへと無事送り届けるべく、俺は今、彼女の隣を歩いている。
「……ハリネズミだった間のことは、覚えてるのか?」
俺の問いかけに、井上はゆっくりと首を横に振った。
そっか…と、僅かな淋しさを感じつつも、どこか安堵する俺。
やがて、マンションのエントランス前に辿り付いて。
未だどんな影響が身体に残っているか分からねぇから、なるべく早く寝とけよ…と声をかけ、踵を返そうとしたとき、井上がそっと俺の袖口を掴んで引いた。
「……?」
訝しむ俺に、髪に何か付いている…と告げる井上。
取ってあげる…との申し出に素直に腰を屈めれば、不意に鼻先に柔らかな感触が……。
一体全体何が起こったのか、俺の脳味噌が理解するより早く、井上はくるりと身を翻して、エントランスホールへと駆け込んでしまった。
元に戻してくれて、ありがとう……と、俺の耳元に早口で言い残して。
呆然と立ち尽くす、俺の目の前で。
閉じていくエレベータの扉が、手を振る井上の姿をゆっくりと飲み込んでいった。
終