旧サイトでの拍手御礼短文
【もう少し、あと少し】
「一護君…そろそろ起きてくださいな」
耳に届く、柔らかい声。
ぎしっとベッドが鳴って、自分の頭近くの縁に、誰かが腰掛けた気配を感じる。
そっと身体を揺すられ、次第に浮上してくる意識。
重い瞼を持ち上げれば、そこにはいつもと同じ、朝の陽光を結晶させたような笑顔が待っていた。
「おはよう、一護君」
一段と微笑みを深くするヨメさんの顔を、眩しく見上げて。
「はよ…織姫……」
挨拶を返しながら、ゆっくと身を起こした。
ふわぁ…と一つ、大きな欠伸をして。
目を閉じたまま、軽く頭を掻いて。
再び、目を開ける。
変わらず、ふんわりとした微笑みを浮かべて俺を見ているヨメさんの肩をそっと引き寄せ、軽く、その形の良い桜色の唇に自分のそれを重ねた。
………全く…こんな事が、こんなに自然にできるようになるとは、ね。
思わず、心の中だけで苦笑する。
多分…高校生の頃の、未だ彼女とつきあう前の自分が今この瞬間の俺を見たら、全身硬直させて真っ赤になった挙げ句、最悪目を回して卒倒するか、鼻血吹くかするんじゃなかろうか。
そんな事を考えながら目を開ければ、頬をほんのりと朱に染めて、もじもじと照れ始めるヨメさんの姿。
出逢ってから既に10年、いわゆる「そういう仲」になってからだって結構長いこと経つ。
それなのに、まるで初めてくちづけした時のように恥じらう彼女の仕草に、堪らない愛しさを感じる。
くしゃりと頭を撫でれば、目を閉じて肩を竦めてくすぐったそうに笑って。
そして目を開けた彼女、は。
「あのね、起きて早々悪いんだけど、ちょっとお願いがあって……」
眉尻を下げ、少し困ったような顔をして言った。
「何だ? ゴミ出しなら、言われなくても出勤するときにちゃんと」
「そうじゃなくて……ね?」
「…………………どした?」
ますます情けなさそうな顔になっていくヨメさんの顔を、怪訝そうにのぞき込むと。
彼女は俯きながら、ちいさくぽつりと呟いた。
「……靴下、履かせて欲しいの」
「…………は?」
思わず口を吐いて出た、間抜けな声。
ぽかんとして目を見張ってしまった俺の顔を、上目遣いに見て。
「手が、ね? つま先に届かなくなっちゃったの……」
そして彼女は再び視線を落とし、白く小さな手でそっと撫で下ろした。
柔らかく優しい曲線を描いて、大きく膨らんだ、彼女のお腹を。
「ホントに、ごめんねぇ……」
「だから、謝らなくっていいって。仕方ねぇだろ、出来ねぇもんは」
こんなの、何てことねぇからよ……と言いながら、実はちょっと手こずっていたりなんかするのは、彼女の靴下が普通のものではなくて、浮腫防止の為の着圧タイプのものだから。
妊娠中毒の症状は無いけれど、お腹が目立ち始めた頃から、流石に彼女の脚もむくみ易くなっていた。
それを聞いた竜貴が差し入れてくれたのが、今俺がヨメさんに履かせている靴下で。
もともとは立ちっぱなしだの座りっぱなしだのの、ワーキングウーマンの為に開発された商品らしいけれど、妊婦の浮腫にもかなり効果があるようで……確かにそれを着用するようになってから、ヨメさんの脚の状態はかなり良い感じになってきた。
「大分暖かくなってきたから、裸足でも大丈夫かなぁって思ったんだけどね?」
はふっと小さく、彼女はため息を吐いて。
「やっぱりまだ、朝のフローリングは冷たくて……お腹張って痛くなってきちゃったものだから………」
「そりゃ不味いわな。そんなことなら尚更、遠慮せずに頼めよ」
「うん…生まれるまで、よろしくお願いね?」
「おう………と、これでいいか?」
「うん、ありがと」
顔を上げ、ベッドの縁に座るヨメさんを見上げると、彼女はにこりと微笑む。
その笑顔にどきりして、それを悟られまいと視線を落とした先に、軽くまくり上げられたスカートからのぞいた可愛らしい膝小僧。
むくりと沸いた悪戯心に忠実に従って、音を立てて膝頭に口づけてみた。
「うひゃあっ」
と、彼女の口から発せられる可愛い悲鳴。
もう一度彼女の顔を振り仰げば、耳まで真っ赤にして口元をもにょもにょさせて、困ったような怒ったような複雑な表情で、ヨメさんが俺を見下ろしていた。
「………………………えっち」
小さくぼそりと呟かれた抗議の声に、軽く吹き出しながら立ち上がって。
ぐしゃぐしゃと彼女の頭髪をかき回しながら、隣に腰を降ろす。
「ずっとご無沙汰してんだから、こんくらい許せよ」
そう言ってからかったら、ますます顔を赤くして軽く口まで尖らせてしまった。
そんなヨメさんが余計に可笑しくて、可愛くて、愛しさが募る。
髪を手櫛で梳いて、そのまま向こう側の肩に回して。
もう片方の手を、彼女の腹の上に乗せた。
彼女を真似て、そっとゆっくり撫でてみる。
「しっかしホントに、大きくなったなぁ……」
「だよねー」
「まぁ…臨月入ったし、何てったって双子だしなぁ……」
そう……診察の結果、腹の中の胎児は二人。
しかも、どうも男の子と女の子……らしい。
「何時産気づいても不思議じゃねぇって助産師さん言ってたから、何か変だなぁと思ったらすぐに連絡しろよ?」
「うん」
「買い物なら俺が行ってやるし、散歩は近場にしとけな。くれぐれも転けんなよ?」
「うん、大丈夫だよ」
………存外、心配性ですなぁ。私の旦那様は。
そう言って、ヨメさんはくすくす笑うけど……。
仕方ないだろ、それは。
段差も何も無いところで、それはもう見事としか言いようのないほど派手にすっ転ぶのを、これまで何度も目にしてきてるんだから。
暢気そうなヨメさんの顔を軽く横目で睨みながら、もう一度くわっと欠伸をして。
「……さて、俺も支度始めなきゃな。のんびりしてると遅刻しちまう」
うしっ……と軽く気合いを入れながら立ち上がった。
「朝食出来てるよ。今日の鱈子入り卵焼きは、なかなかの自信作でゴザイマス」
得意げに胸を張る、ヨメさん。
「そりゃ楽しみだ」
俺は、軽く笑って。
「毎朝、ありがとさんです」
「いえいえー」
小さく首を横に振る彼女に、ほれ…と差し出す手。
その俺の手に掴まりつつ、彼女もまた「よいしょ…」というかけ声とともにベッドから立ち上がった。
ふう……と小さく、吐き出される息。
そっとその細い肩を引き寄せ、秀でた額に唇を押し当てて。
「もうすぐ、逢えるんだな」
もう一度彼女のお腹を撫でつつ呟いたら、こくりとヨメさんが頷いた。
………と、同時に。
ぽこん、ぽこん……と。
掌に感じる、二度の衝撃。
「あっ………?!」
腕の中、ヨメさんが「ふふっ……」と小さく笑って。
「この子達も、早くお父さんに逢いたい……って」
俺を見上げ、ふわん…と優しく、綺麗な微笑みを向けた。
「そっか………」
もう一度、お腹を撫でて。
そのお腹をつぶさないよう気をつけながら、彼女の肩をぎゅっと抱いて。
「……護るから、な? お前も、この子達も……この先、何があっても…絶対に………」
「うん……。私も、護るよ? 一護君と、この子達を……」
交わす、口づけ。
交わす、微笑み。
どちらともなく手を繋ぎ、指を絡めながら、二人一緒に部屋を出る。
もう少ししたら……この繋いだ手の間に、もう二人分の小さな掌が加わるのだ……。
「楽しみだな……」
「楽しみだね……」
ささやくように、呟いて。
顔を見合わせて、二人、くすりと笑った。
生まれておいで。
待っているから……。
愛して、いるよ………。
愛して、いくよ………。
だから………。
生まれて、おいで………?
ここで、笑顔で。
君たちを、待っているから………。

終
イラスト:框様