log:未来狂詩曲
【「どっちもどっち」と兄は笑った】
(初出:2015.12.26)
「行ってきまーす!」
「はい、いってらっしゃい。気をつけてね!」
「行ってきます、母さん。今日は部活のあとで友達と数学の課題を片付けて来るから、帰りは夕飯前になるよ」
「あら、そうなの。
それなら、帰り道にはくれぐれも気を付けてね? 逢魔が刻って言うだけのことは、あるんだから。
虚と鉢合わせするようなことがあったら、無理せずに担当さんを呼ぶか、お父さんの携帯に電話するのよ?」
「わかってるって!」
階下での、そんなやりとりを耳にしながら、ゆっくりとベッドの上に起きあがる。
24日、25日と連続勤務で、それ以前にも色々とあって、ようやっと休みらしい休みを取れた12月26日の朝だった。
パタン……と玄関の扉が閉まり、軽やかに地を蹴る足音が、次第に遠去かっていく。
子供達二人は、どうやら今日もそれぞれ部活のようだ。
このあたりは、中・高とそんな健全な学生の課外活動とは無縁の生活を送っていた俺ではなく、真面目な女子高生だったヨメさんの遺伝子影響大なのだろう。
「……さて、起きるか」
身体には未だ少し気だるい疲労感が残っていて、もう少し布団に潜っていたい気もしたけれど。
階下に居るのはヨメさん独り…となれば、話は別だ。
このところ、忙しくてろくに会話も交わしていない。
今日が終わればまた、年末ぎりぎりまで連勤だ。
ただ眠って過ごしてしまっては、あまりに勿体ないというものだ。
上着を羽織りながら、ゆっくりと階段を降りて。
リビングの扉を、押し開く。
室内に視線を巡らせばカウンターの向こう側、対面キッチンの流し場で、皿洗い中らしいヨメさんの姿が見えた。
「あら……」
俺に気づいた彼女が、一瞬目を見開いて。
直後に柔らかく表情を笑み崩しながら、「おはよう」と俺に声をかける。
はよ、と挨拶を返しながらダイニングテーブルに向かい、椅子に腰を下ろすと同時に、珈琲で良いかと問いかけられた。
「ああ、頼む」
「玉子は?」
「目玉焼き」
「ベーコンあるよ」
「…じゃ、ベーコンエッグ」
「了解しました!」
じゅっ…と、油の跳ねる音が響いて。
小さく鼻歌を歌いながら、てきぱき、くるくるとキッチンのなかで動きまわり、俺の朝食を用意するヨメさん。
その手際の良さに感心しつつ、彼女の顔を眺めていたら、ふ…と視線が重なった。
「……なぁに?」
苦笑気味に微笑んで、首を軽く傾げるヨメさん。
「穴が開きそうなんですけど」
「別に……単に、見惚れてただけ」
「……随分と口が上手くなったのね」
「本気で言ってますけど?」
「………もう…」
まるで少女のように頬を染めながら、朝食の乗ったトレイを運んでくる彼女、の。
困ったような、怒ったような……そんな、幾分脹れ気味の表情でさえも相変わらず可愛らしくて、ついつい口元が緩んでしまう。
「はい、どうぞ………あ、きゃ!」
キッチンへと踵を返しかけたヨメさんの腰を引き寄せ、そのまま腕に力を籠めて抱き締めれば。
一瞬身体を強張らせたものの、ゆるり…と力を抜きながら、俺と肩と頭にそっとヨメさんが手を乗せた。
「……お疲れさま」
「ん……」
髪を優しく梳かれる感覚に、心の奥底から愛しさと安心感とがこみ上げてくる。
ぎゅぅ…と一層腕に力を籠めて、やわらかな膨らみに頬を摺り寄せてみれば、小さく苦笑をこぼしつつも、彼女は黙って受け入れてくれた。
「落ち着きます?」
「ああ」
とくん…とくん……と規則的に刻まれる鼓動に、涙が出そうになる。
この世で何より尊い、音。
生きていることの、何よりも確かな証。
「……あなたのせいでは、ないのでしょう?」
「ああ…それは、自分でもわかってる……わかってるんだけど、さ…」
たとえどんなに手を尽くしても、指の間から零れ落ちていく命がある。
昨夜もひとり、見送りをしたばかりだった。
何年キャリアを積み重ねても、何度そんな場面に立ち会っても。
決して慣れる事などない、その瞬間……。
「……辛かったね…」
一瞬止まる、呼吸。
そして、優しく背を叩く手に促されるようにして、深く深く息を吐き出した。
「…おりひめ……」
「なぁに…?」
「……ありがと、な…」
「一護くん……」
ゆっくりと顔を上げれば、視線の先に薄茶の瞳。
僅かに細められたそれは、どこまでも優しく俺の視線を受け止めてくれていて……。
堪らず彼女の後頭部に腕を伸ばし、自分の方へと引き寄せた。
「……ん、ふ…」
微かに漏れ聞こえた甘い声、に。
くらり…と脳髄が揺れる……その、直後だった。
まるで雷鳴のような音が廊下から響いた来たかと思うやいなや、ばたーんっ!!…と。
恐ろしく派手な音を立てて開かれた、リビングの扉。
「お母さんっ、お母さんっ! 替えの道着忘れちゃ…、っ?!」
慌ててヨメさんが、俺から距離をとったけど。
……多分、もう遅い。
「…朝っぱら何やってんだ、このエロ医者がぁああっ!!」
ああ、やっぱりな……と。
あまりにも予想通りな娘の反応に、俺は両手で耳を塞ぎながら忌々しげに舌打ちをした。
【終】
「こんな時間から何盛ってんだ、糞親父?!」
「やかましいっ!! 親に説教する前に、中二にもなって『忘れ物に気を付けましょう』と連絡帳に書かれる己自身を顧みろっ!!!」