log:バレンタインデー/ホワイトデー
哀しまないで。
苦しまないで。
あなたは今、たまたま影の中に居るだけなのだから。
日の光も、月の光も。
いつの日にか再び、あなたを照らすことでしょう。
私は、知っているの。
必ず、その日がくることを。
それまでは、決してあなたの傍を離れないと誓うから………。
**********
ふと、空気が揺れて。
俯いたまま閉じていた瞼を上げれば、こちらへと近付く井上の革靴が視界に入った。
くるり…と、体の向きを反転させる気配。
彼女のつま先が、俺のつま先と同じ方向を向く。
そのまま彼女は、静かに腰を下ろした。
俺の、隣。
肩先が触れそうで触れない…そんな、微妙な距離を空けて。
そっと横目に様子を伺えば、彼女は俺の居る側とは反対側の窓から外を見ているようだった。
「ようだった」と言うのは、俺からは彼女の側頭部から後ろしか見えず、目を開けているのかどうかも、どんな表情をしているのかもわからなかったからだ。
けれど……彼女の纏う気配は、変わらず暖かく穏やかなままだった。
そしてただ穏やかなだけでなく、その芯には強固な「想い」が流れていた。
力を持っていた頃の俺も、力を失ってしまった今の俺も、どちらも「俺」であるのだと。
ただ其処にあるがままを受け入れ、肯定する……そんな慈母のごとき、深く広い彼女の「想い」が。
身体が、心が、温かくなる。
まるで、春の日の縁側に座っているときのように……。
今は未だ、冬だけれど。
空には星が、瞬いている時間だけれど。
それでも……。
彼女の隣は、暖かかった。
とてもとても、暖かかったんだ……。
**********
まるで、鳥籠のようだ……と。
二人で此処に来る度に、そう思う。
ゴンドラの中から外の景色を眺める黒崎君の瞳は、いつも切なげに揺れていて。
死神の力を失ってしまったという現実と、必死で折り合いをつけようとしているように見えた。
それこそ翼を失った鳥が、空へ還ることを諦めようとしているかのように……。
だけど、私は知っている。
いつの日にか再び、彼は力を取り戻すのだ…ということを。
だって…朽木さんが私に約束してくれたのだ。
必ずや、その方法を見つける……と。
あの日から既に十ヶ月以上もの月日が流れて、あと四十日も経てば、再び桜の季節がやってくる。
それでも私は、この待つ時間を「長い」とは思わなかった。
だって…少し考えればわかること。そんなに簡単に済むことならば、私が朽木さんに頼むよりも早く、浦原さんあたりが何かしら手を打っていた筈なのだ。
そうはならなかった…ということは、やはり相当に難しい問題なのだろうと思う。
技術的にも。
そして、あちらの世界の掟的にも。
それでも…いつの日にか、約束はきっと果たされるだろう。
彼が再び空を駆け、彼の愛刀を振るう日が来るだろう。
私を此処に、置き去りにして……。
ゴンドラが鳥籠なら、私はこの観覧車そのものだ。
ほんの一時、彼を空へ連れて行くことができたとしても、またすぐ地上へと引き戻してしまう。
ぐるぐる、ぐるぐる……ただひたすら、同じ場所を巡るだけ。
そこに、未来はない。
でも…朽木さんは違う。
彼女は、連れていけるのだ。
黒崎君の、望む場所へと。
それ以上の、高みにさえも。
私はそこに、着いて行けない。
きっと、着いて行けない……。
**********
まるで鳥籠のようだ……と。
ゴンドラに乗る度に、そう思う。
……仕方のないことだ、俺は翼を失くしたのだから。
今の俺では、虚相手に他人はおろか、自分の身ひとつ護れない。
大人しく囲われている以外、出来ることなど何もない。
それでも此処には、彼女がいる。
そっと寄り添ってくれる、優しい温もり。
暗闇の中の、一条の光。
だけど……。
彼女は今でも、翼を持っている。
……飛べるんだ、本当は。
どこまでも、遠くへと。
彼女がそれを、望みさえすれば。
観覧車は、回るだけ。
ただ、同じ場所をぐるぐると……。
それはまるで、今の俺自身のようだ。
死神の力と生きる目的を失って、先に進めないでいる俺と……。
……なぁ、井上…?
もしも…いつの日にか、お前がこんな情けない俺の隣に居ることに飽いてしまって。
此処から出て行きたいと、願ったなら。
俺ではない他の誰かの手を取って、空へ…未来へ還りたいと望んだなら。
果たして俺は、お前をすんなりと送り出すことが出来るのだろうか。
物わかり良く、手を離して。
笑顔を浮かべ、どうか幸せに……と。
優しくその背を、籠の外へと押し出してやれるのかな。
ちら…とでも、そんな情景を思い浮かべてみただけで。
心臓を握りつぶされるような痛みと苦しみが、この身を襲うというのに……。
……わかってるんだ、頭では。
それが嫌だなんて言う資格すら、今の俺には無いことを。
それでも、な…?
俺で、ありたいんだ。
お前を、空へと連れて行くのは。
他の誰でも、なく。
この俺自身で、ありたいんだ……!
*********
……『連れて行きたい』……
……『ついて行きたい』……
……『離したくない』……
……『離れたくない』……
……『傍に居て』……
……『傍に居させて』……
……『還りたい』……
……『還りたい』……
……『あなたと』……
……『君と』……
……『『空へ…!』』……
**********
ゴンドラが、地上へと降りていく。
視界が再び、木立の枝に遮られた頃。
俺の隣に来たときと同じように井上は静かに立ち上がり、向かいの席へと座り直した。
視線が合えば、微かに笑う。
声をかけようとして。
でも…何と声をかけたら良いのか、判らなくて。
口を開きかけて、閉じて。
その次の瞬間、扉の外側から掛け金が外される音がした。
「ありがとうございました! 足下にお気をつけて、お降りくださ~い!」
不自然なまでに明るく響く係員の声に、慌てて座席から腰を浮かす俺と井上。
プラットホームに降り立てば、頭上のスピーカーから流れる「Going home」。
そして、閉園案内のアナウンス。
俺達の、背後。
ぎぎ……と耳障りな音を立てて、観覧車が停止した。
***********
乗り込んだ電車はそこそこ混んでいたけれど、運良く座ることが出来て。
昨日からハードなバイトをこなしていたという黒崎君は、揺れる車体に眠気を誘われたらしく「わりぃ、ちょっと寝る…」と言って目を閉じた。
一分と経たずに聞こえ始めた寝息に、ほう…とひとつ溜息を吐く。
実のところ、ゴンドラの中で彼の横に座った後から、ほんの少しだけ気まずさを感じていたのだ。
ああする以外に私に出来ることなどなかったし、それを後悔してもいないけれど。
……朽木さんなら、どうしたかな。
ふ…とそんなことを考えてしまった私は、そっと唇を噛みしめて俯いた。
自分の無力さを、嫌と言うほど痛感しながら……。
**********
「マンションまで、送る」と言ったら、一度目は首を横に振られた。
だけど「もう、暗いから」……と。
夜道の一人歩きの危険を理由に挙げ、心配だからと告げれば、今度は素直に肯いてくれた。
そして、はにかむように肩を軽く竦めながら、ありがとう…と綺麗に笑う。
その笑顔に、心中で密かに安堵の息を吐いた。
ゴンドラの中、井上が俺の隣に座ってくれたあとからずっと、俺と彼女との間の空気は、少しばかりぎくしゃくしていたから……。
そのまま、月末の学年末考査の範囲についてだとか、当たり障りのない話を交わしながら駅ビルを出て。
駅前商店街へと足を踏み出せば、店によっては既にバレンタイン用の装飾を取り外し、ホワイトデーに向けての模様替えをしているまっ最中だった。
なんともまぁ、気の早いことで……と。
半ば呆れて溜息を吐きながら、俺は半歩後ろをついてくる井上を振り返った。
「あの、さ……パン、どれもすげぇ美味かった」
「うん」
「食べきれなかった分は、家で妹たちと分けていいか?」
「勿論!」
俺を見上げた井上が、満面の笑みを浮かべた。
しかしながら、ホワイトデーにはきちんとお礼をするから…と告げた途端、彼女は一度大きく目を見開き、困惑気味に首を横に振った。
「いいよ、お礼なんて……」
「何言ってんだ! こんなに沢山貰っといて、そのままになんて出来るかよ」
「だって…お店のチョコ系のパンを、片端から袋に詰めてきただけだもの。ブランドもののチョコだったり、凝った手作り品ってわけでもないのに」
「そんなの、関係無ぇよ! 今回はいつもみたく廃棄パンじゃねぇ、ちゃんと金出して買ってきてくれたんだろ?」
「そりゃあ、そうだけど……」
「なら、きちんと礼はさせろ」
「…うん……」
躊躇いがちに、ではあったけれど。
彼女は確かに肯いてくれて、その後も何も言わなかったから、納得してくれたのだろう…そう、思っていた。
しかしながらマンションの入り口まで送り届け、じゃあな…と踵を返そうとしたところで、彼女は再び言ったのだ。
お礼なんて、いらない……と。
「井上……」
「いいの…要らないの……お礼、は………」
「いの…、っ?!」
思わず、息を呑んだ。
目の前の彼女の表情が、一瞬、泣き出しそうに歪んだから……。
「じゃあね!」
「ぁ…おい、井上っ…!」
「また明日、学校で……お家まで、気をつけて戻ってね?」
送ってくれて、ありがとう……そう言って、明るく笑って。
身を翻し、エントランスへと駆け込む井上。
その後ろ姿を呆然と見つめながら、俺は脳裏で彼女の言葉を反芻していた。
………お礼なんて、要らない。
「ああ…そうか……」
夜空の、下。
星の瞬きよりも微かな声で、ぽつり…つぶやく。
彼女が欲しいのは、【返事】なんだ。
例えばそれが【結論】ではなく、まだまだ【途中経過】なものであったとしても。
……知りたいんだ、きっと。
俺の中での、彼女の立ち位置というものを……。
「ごめん、井上…いつまでも宙ぶらりんなのは、やっぱ辛ぇよな……」
ごめん…と、もう一度口の中で呟いて。
ゆっくりと頭上に広がる夜空を、仰ぎ見る。
空には名残の、冬の星座。
一ヶ月後のこの時間には、春の星座が天空を埋めているだろう。
季節は、巡っていくんだ。
たとえそのスピードに、俺が着いて行けなくても……。
「……一度…腹括らねぇと、な」
ぐ……と。
掌に爪が食い込むほど強く、力を込めて拳を握った。
終