log:バレンタインデー/ホワイトデー











一度、思い切って訊いてみたことがある。
どうして私を誘ってくれるの…って。
黒崎君はちょっと吃驚したような顔をして、「だって井上、こういうの好きだろ?」と言った。
それは、当前すぎることを尋ねられて困惑している…という反応そのもので。
些細なことではあるけれども、私という人間を理解してくれているが故なのだ…という喜びに、胸の奥が熱くなった。

だけど……。

「あとは、まぁ……保険って言うか?」
「……え?」
「時々、錯覚…しそうになるんだよな。高い場所から街を眺めてると……さ」

瞬きを繰り返す私の目の前で、自嘲気味につり上がっていく彼の唇。
思わず、息が止まる。

その、直後だった。



「もしかしたら、飛べるんじゃねーか…って……」





冷水を浴びせられる、なんてものじゃない。
それはまるで、氷河の中央に口を開けたクレパスへと突き落とされたかのような衝撃だった。
落ちていく、落ちていく。
“絶望”という名の、絶対零度の闇底へと。
どこまでも、深く……。





この日以降。
私はそれまで以上に、彼の希望を叶えることを優先するようになっていった。
それが彼にとって、何の益にもならないのだと解っていても……。

側に、居たかった。
それ以外、私に出来ることなどなかったから。










**********










「大分、日が長くなったな」
「そうだね…」

未だ幾分明るさの残る空の下、公園内の小道を進む。
観覧車の元へとたどり着くと、乗り場の前には結構な長さの列が出来ていた。

「…珍しいな。この時間に並ぶことなんて、これまで無かったのに」

そう、独りごちて。
軽く空腹感を感じていた俺は、井上を振り返りつつ「何か飲み食いしたいものはあるか」と尋ねた。

「小腹空いちまったから、売店行ってこようかと思ってさ。井上はこのまま、ここで順番待ちしててくれよ」

すると井上は「ちょっと待って」と慌てたように言いながら、わたわたと自分の鞄の中を探って。
ふっくりと膨らんだ彼女のバイト先の銘が入った紙袋を引っ張り出すと、どうぞ…と俺に差し出した。

「もし良かったら、食べて…?」

軽く眉根を寄せながらも、素直に袋を受け取って。
中をのぞき込んだ俺は、思わず歓声を上げた。

「お…! すっげぇ美味そうじゃん!!
チョココロネに、チョコデニッシュに、スイートチョコに、チョコがけのオールドファッションに、チョコチップメロンパン…って、なんだかチョコ尽く………、っ?!」

息を呑み、大きく目を見張る。
顔から音を立てて血の気が引いていくのが、自分でもよくわかった。

「ごめ……俺、そんなつもりで今日誘ったんじゃ…」

掠れた声を、ようやっとのことで絞り出す。
とてもじゃないけど彼女の顔など見ることが出来ず、俺はのろのろと自分の足先に視線を落とした。


……忘れていたんだ、本当に。


金曜日、井上は誰にもチョコを渡さなかった。
それは他の大多数の女子とて同様で、今年は曜日の巡り合わせがあまりにも悪かった…と、啓吾などはひどく大げさに嘆いていたものだ。

曜日なんて、君には関係ないんじゃない?…と、にっこり笑って突っ込む水色と。
その言葉に更に落ち込む啓吾を呆れ顔で眺めながら、俺は内心、激しく動揺していた。
今年も井上がチョコをくれたなら、どんな顔をして受け取れば良いのだろう……そんなことを、ここ数日、割と真剣に悩んでいたから。
だけどいざ貰えなさそうだと解った途端に、胸の内に広がったのは。
安堵などではなく、なんとも言いがたい寂寥感で……。

そうして思い知らされたのは、自身の自惚れの強さと馬鹿さ加減。
吐き気がするほどの、激しい自己嫌悪。

そんな諸々の負の感情全部を振り払ってしまいたい一心で。
育美さんからの要請に、渡りに船とばかりに飛びついた。

バイトの内容は体力を消耗する上に、常に神経を張りつめていなければならないもので。
特別意識をしなくても、余計なことを考える暇など皆無だった。
半日も経つ頃には、俺の脳内からはバレンタインデーのことなど見事に消し飛んで。
井上のバイト先へ向かう途中、も。
疲弊しきった体を引きずりつつ俯き加減に歩く俺の目に、華やかなディスプレイが映り込む余裕などなかったのだ。


「……………」


この場を、どう収めたら良いものか…と。
つま先に向けた視線を戻すことも出来ず、ただただ狼狽え途方に暮れるばかり俺の耳に、ふ…と井上が静かに微笑む気配が届いた。
恐る恐る顔を上げれば、目の前には柔らかく細められた瞳。

「いの、う…」
「黒崎くんは、食べてて? 飲み物なら、私が買ってくるから!」
「え? ……あ、ちょっと待…っ!!」

呼び止める間すら、なく。
くりると踵を返して、軽やかに走り出す井上。

ひとりその場に、残された俺は。
胡桃色の髪が揺れる後ろ姿を、ただ呆然と見送ることしか出来なかった。










**********










カープした小道を、駆けて。
彼の視界から外れた場所まできたところで、足を止めた。

道沿いに植えられた樹の幹に手をつき、乱れた呼吸を整える…その私の脳裏に浮かぶのは、苦しげに歪む黒崎君の顔。


「………また、失敗しちゃった…」


黒崎君の言葉に、嘘はない筈。
それはもう、絶対に。
だって……演技で、あんな表情をつくれるような人ではないのだもの。

きっと彼は、忘れたかったのだ。
今日がバレンタインデーだってこと。
忘れたくて、忘れたくて…きっと本当に、忘れてしまったのに違いない。

それなのに。
今年もまた、私は彼に想い出させてしまった。
思い知らせてしまった。

朽木さんが、彼の側に居ないということを………。


「コーヒー…ブラックでいいかな…」


行き止まり、ちいさな四阿近くの自動販売機。
ボタンを押し、落ちてきた缶を取り出すために身を屈める。
その、途端。
地面にぱたり…と、落ちた滴。

慌てて目元を擦り、缶を掴んでいないほうの手でぺちぺちと頬を叩いて。
一度深呼吸をしてから、来た道を駆け戻る。

右手には、黒い缶。
苦い、苦い、ブラックコーヒー。
……どうぞ、お願い。
彼の口に残るチョコの味を、跡形もなく消し去って。



だからといって。
私の罪や彼の心の傷が、消えるわけではないのだけれど……。










**********










ゴンドラがゆっくりと、天頂を目指す。
その高さが立木の梢を越えたころ、唐突に視界が開けた。

眼下には、群青色に沈む町並み。
それらが少しずつ遠くちいさくなっていく様を、無言のまま眺める俺と井上。

……初めて彼女と乗ったときも、そうだった。
きっと幼子のようにはしゃぐに違いない…との俺の予想に反し、井上はただ静かに、ゴンドラの外へと目を向けていて。
驚くというか、拍子抜けするというか……。
とにかく、まじまじと彼女の横顔を見つめてしまった俺。
視線に気づいた彼女が怪訝そうに首を傾げたものだから、自分の胸の内を正直に告げてみれば、「もう、子供じゃないもの」と苦笑じみた表情を浮かべてみせたっけ。

だけど次の瞬間、はっ…としたように息を呑んで。
みるみるうちに表情が歪んだかと思えば「がっかりさせて、ごめんなさい」などと言い出すものだから、俺は慌てて首を横に振った。

確かに予想は大きく外れたけれど、それは決して落胆に繋がるようなものではなく。
寧ろ、慈しみの籠もった眼差しで街を見下ろし、微かな笑みを口元に刻むその横顔に、俺は言葉もなく見惚れてしまっていたのだから。

……それに。
井上のくれる沈黙は、とても心地よかった。

一人になりたい。
でも、独りになりたくない。

そんな矛盾する気持ちを読んだかのように、彼女はいつだって必要以上に俺に干渉せず、穏やかな気配だけを俺に差し出してくれるのだ。

まるで、眠る幼子を見守る母親のように。
傍に居るよ……と。










**********










「もっと、はしゃぐかと思ってた」

黒崎君の言葉に、脳裏に甦った記憶がある。
それは、朽木さんが白哉さんや恋次君に尸魂界に連れ戻される少し前。
比較的仲の良いクラスメイトとして、会話が増えていった頃のこと。
彼女が、興奮気味に話して聞かせてくれたのだ。
初めて乗ったという、観覧車の感想を……。

またしても、失敗を犯してしまったのだ…と悟り、このときも私は絶望的な気持ちになった。
「もう子供じゃない」なんて言い方をしてしまった以上、慌ててはしゃいでみせたところで、余計に空気が白けてしまうだけだもの。

どう振る舞ったら良いものやら、皆目見当がつかなくなってしまって。
途方に暮れながらも俯いていた顔をおそるおそる上げてみれば、視線の先には切なそうな表情で空を見つめる彼が居た。

朽木さんのことを、想っていたのか。
或いは、失ってしまった死神の力に対する未練か……。

あのとき彼の胸中に渦巻くものが何であったのか、正確なところは今も私には判らない。
ただ……。


一人になりたい。
ても、独りになりたくない。


そんな彼の複雑な気持ちもまた何となく察していた私は、そのまま静かにその場に居ることを選んだ。
相手に一切の干渉をせず、消しすぎない程度に気配を消す……それは狭いアパートでのお兄ちゃんとの二人暮らしのなかで、自然に身についてしまった私の特技。
人間、いつどこで、何が役に立つかなんて、わからないものだ。

……だけど。

ほんの、ちょっぴり。
針の先ほどとは言え、其処に確かに紛れ込んでいたのは、私の本音と意地。
そして、絶望。



私は、朽木さんじゃない。










**********










ゴンドラが天頂近くまで昇るのとほぼ同時に、完全に日が落ちた。
これまでこんな時間帯に乗ったことは無かったから、見慣れていた筈の景色も酷く新鮮に映る。

「夜景もなかなか、良いもんだな……」

そう言いながら、井上を振り返れば。
彼女もまた俺をかえりみて、ふわり…と笑って肯いてくれた。

「なんかさ…ホッとしねぇ? 家の灯りみてると、さ。こう…あったけぇ感じがして…」
「うん」

こっくり…と、首を縦に振って。
それから再び視線をゴンドラの外へと向けた井上は、静かな口調で…でもきっぱりと言った。

黒崎君が護った、世界だよ……と。

「井上……」
「あの灯りの、ひとつひとつ。その下で暮らす沢山の人たちも……全部全部、黒崎君が護ったんだよ…」


………ありがとう。


その言葉、に。
喉の奥からせり上がってくる、熱い塊。

苦しくて、苦しくて。
呼吸も満足に、出来なくなって。
醜く歪んでいく、表情…それを井上に見られたくなくて、その場に深く俯く。

食いしばった奥歯が、ぎりり…と音を立てて軋んだ。









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