log:バレンタインデー/ホワイトデー
【16歳 ホワイトデー翌日】
(初出:2013年)
「わ、可愛いキーホルダー!!」
「ほんとだ! ねぇ織姫、それどうしたの?」
「あ、うん…ちょっとね。おまけで貰った」
教室の片隅から聞こえた、華やかな女子の声。
さりげなく視線を向ければ、友人に囲まれて談笑している井上の姿が目に入って。
彼女が手にしていた学生鞄、その持ち手の金具には、キャンディー型のキーホルダーがぶら下がっていた。
『使ってくれてるんだ……』
嬉しくて。
同時に、酷く息苦しくなった。
本物そっくりの、綺麗なキャンディー。
でもそれが、彼女の中で甘く融けることはない。
決して………。
自嘲気味に口元を歪めながら、ゆっくりと席を立つ。
井上達が居るのとは逆の出口から、そっと教室を出て行こうとした俺に、しかしながら彼女は気が付いたようで。
「おはよう、黒崎くん!」
明るく弾む、ソプラノの声。
振り向けば、満面の笑顔で手を振る井上が居た。
「……はよ、井上」
ぎこちなく微笑んで、軽く手を挙げる。
すると彼女は、友人達に気づかれないように至極小さな動作でキーホルダーを指し示して。
あ・り・が・と・う………の形に、唇を動かした。
僅かに顎を引いてみせた俺に向かって、軽く肩を竦めながら、もう一度はにかむように笑って。
友人たちへと向き直る、井上。
ふわりと翻った胡桃色の髪が朝日に透けて、金糸のようにきらきらと輝く。
眩しさに、思わず目を細めて。
無意識に強く拳を握りながら、俺もまた踵を返して教室の外へと向かった。
俯いて、自分のつま先だけを見つめながら廊下を進む。
階段を昇りきり、重い鉄扉に手をかければ、隙間から射し込む陽の光に網膜を焼かれた。
白濁する、世界。
手をかざしながら、屋上へと足を踏み出して。
ゆっくりと色を取り戻していく世界の片隅で、空を振り仰ぐ。
晴れ渡る弥生の空は、何処までも澄んで。
髪を弄る風からは、確かに春の気配がした。
「入学から、もう一年経つのか……」
春から冬までは、あっという間に過ぎ去って。
そこからは、苛立つほどにゆっくりとしか進まない時間。
今のところ、力を取り戻す方法は見つかっていない。
輝いていた筈の世界は、薄い紗幕越しに眺めているかのように、何処か色褪せて。
それでも、その世界こそが現実なのだ………と、嫌で
も思い知らされる日々が無情に過ぎていくばかりで。
「………井上」
その手を取る資格を、俺はいつか取り戻せるのかな。
まがい物でない、本当のキャンディーを、その掌に乗せてやれる日は来るのかな。
夢になんか、したくない。
夢で終わらせたくなんか、ない。
だけど………。
今の俺は、あまりに無力で。
「…………くそっ…!」
それでも。
彼女に渡したキーホルダーに、一縷の望みを。
願いを、かける。
いつか、伝えられますように……と。
俺はちゃんと、知っているよ……って。
ホワイデーに、キャンディーを贈る。
……その、意味を。
終