log:バレンタインデー/ホワイトデー
【16歳 ホワイトデー】
「……井上、ちょっといいか?」
帰りのSHRが、終わって。
学生鞄を手に取った直後、背後から声をかけられた。
慌てて、振り向いて。
先ず最初に視界に飛び込むのは、夕焼け色の綺麗な髪。
そして……前髪の隙間から私の顔を覗き込む、茶水晶のような瞳。
「はい、なんでしょう?」
内心かなりどぎまぎしながら、表面上は必死に平静を装いつつ、声の主…黒崎君の顔を見返すと。
彼はどこか気まり悪そうな顔をして頭をがりがりと掻きながら、この近辺で美味しいマカロンを売っている店を知っているか……と尋ねてきた。
「マカロン?」
「ああ……」
僅かに顎を引いて。
それから益々困ったような顔になった黒崎君は、バレンタインチョコのお返しとして、妹さんたちにマカロンを強請られているのだと説明してくれた。
「俺、そもそもマカロンてどんな菓子だか知らなかったから、ネットで調べてみたんだけど……そしたら、店によって結構当たり外れが激しい…なんて書き込みを読んじまったもんだから、さ」
……折角用意しても、不味いなんて言われちゃ堪らねぇからよ。
そう言いながら溜息を吐く黒崎君の困り顔が、何故だか酷く幼く見えて。
思わず小さく笑いながら「それなら、マンションの近くにお勧めのお店があるよ」と、返事をした。
「あそこのなら、間違い無く美味しいって言って貰えると思うな」
「そっか…良かった……!! あ……っと、そ、それで……さ」
ぱっ……と明るくなった表情が、一瞬の後、再び何かを躊躇うようなものに変わる。
彼が言い淀んだその先の言葉に見当がついた私は、にこりと笑って言った。
「もし良かったら、お付き合いいたしましょうか? 今日は部活も無いし」
「ホントか?! そうしてくれたら、すっげぇ助かる!!」
ありがとな……と。
今度こそ、心底安心したように黒崎君が笑う。
そうして、私たちは。
二人並んで校門を抜け、夕焼けに染まり始めた街へと足を向けた。
「一緒に来てくれて、本当に助かったよ、井上……どうにもこの手の店には、男独りで入り辛くってな」
「いえいえ、お役に立てて光栄っすよ!
見るからに洋菓子店とわかるメルヘンなデザインの建物を見上げながら、苦笑を零す黒崎君と。
少しおどけた調子でそれに応える、私。
ゆっくりと振り返った黒崎君の瞳が、私を映して柔らかく細まった。
その表情に、どきり…と心臓が跳ねる。
思わず息を止めて見返してしまった……その、視線の先。
黒崎君が洋菓子店の紙袋の中から、包みを一つ取り出した。
「これは、井上に」
「え……?」
戸惑って瞬きを繰り返す私に、ほいっ…と放られる包み。
「うわ、わっ?!」
「お、ナイスキャッチ!」
反射的に受け取めてしまった私に、黒崎君が悪戯っぽく笑いながら拍手して寄越す。
「……何、で?」
「何で……って…お前も先月、俺にチョコくれたろ? そのお返しと、今日ここに付き合ってくれた御礼だよ」
「そんな……お返しとか御礼とか、そんな事どうでもいいのに」
「良かねぇよ! 井上からチョコ貰いっぱなしになんてしたら、妹達や竜貴にどんだけ叱られるかわかりゃしねぇ!!
多分妹達からはメシ抜かれて、竜貴からは回し蹴りの一発二発は確実だ!!!」
「あはは!!!」
「笑い事じゃねぇよ……」
憮然とした顔をして、頭を掻く黒崎君。
「勿論、それだけが理由じゃねぇからな? チョコの事も、今日の事も、俺は本当に嬉しかったし、助かったから……だから…」
「うん、わかった。有難く、貰っておくね?」
肯いて、微笑めば。
彼の表情もまた和らいで、安堵したように小さく息を吐きだすのがわかった。
その、直後。
「あ、そうだ………」
何かを思い出したように、黒崎君はもう一度紙袋を探って。
「店で、おまけに貰った。これも井上にやるよ」
そう言って私に向かって差し出されたのは、キャンディーの形をしたキーホルダーだった。
「一個だけ貰ったから……夏梨はこういうの好まないけど、だからって遊子にだけ…ってのは何だか不公平な気がするし。
男の俺が使うような物でもないから、さ」
ほら……と。
促されるままに、手を差し出す。
そっと乗せられたキーホルダーが掌の上をころりと揺れ、夕日を弾いてきらりと光った。
「可愛い……」
「………気に入った?」
「うん」
「そっか。なら、良かった」
ぽふっ……と。
大きな掌が、ごくごく軽く頭を叩く。
「さて、そろそろ日も落ちる。マンションまで送ってやるから、帰ろうぜ?」
「うん」
肯いて顔を上げた私に、にっ…と笑って。
くるりと踵を返す、黒崎君。
半歩遅れた位置を歩きながら、私は彼の背中とキーホルダーとを交互に見つめた。
黒崎くんは、きっと知らない。
ホワイトデーに、キャンディーを贈る意味……なんて。
きっと、知らない。
知る筈が、無い。
でも………。
ふいに、涙が零れそうになった。
嬉しさと、切なさと、哀しさと、苦しさが、ないまぜになって一度に押し寄せてきたから……。
……ねぇ、黒崎君?
私、知ってるよ。
力を失ってからの黒崎君が、私から少し距離を置こうとしている事。
だから。
この、ニセモノのキャンディーは、黒崎君からのメッセージのように思えたの。
私の事を、嫌っているわけじゃない。
でも。
「本当の心」を預ける事は出来ないんだ…って。
そう…それは、まるで。
残酷なまでに優しく甘い、彼からの拒絶の意思表示のようで………。
「………どうした、井上?」
歩みを止めてしまった私を訝しみ、黒崎君が振り返る。
私は慌てて目元を擦りながら、笑った。
「あ…ちょっと、ね。目にゴミが入ったみたいで……でも、もう取れたから大丈夫!」
そして、小走りで遅れた距離を縮める。
「本当に、大丈夫か? 帰宅したら、一応目薬挿しとけよ?」
「うん、そうする」
今度は、彼の隣に並んで。
他愛ない会話を交わしながら、橙色の世界をゆっくりと歩いていく。
少し視線を下に落とせば、長く伸びる二つの影。
その黒崎君の、私の側にある手の影に、こっそりと私の手の影を重ねてみた。
ほんの、一瞬の間だけ………。
体温を伴わない、内緒のふれあいは。
プラスチックの感触に、何処か似ている気がした。
終