log:1月31日 愛妻の日
嫌な予感が、した。
仕事帰りの織姫を出迎えた、玄関先。
彼女が手に提げていた、白い小さな箱を見た瞬間から。
「おかあさん…それ、なぁに?」
腕に抱いた一勇が、期待に満ちた声で問いかける。
織姫がにっこりと笑いながら口にしたのは、この辺りではABCookie'sと人気を二分する、洋菓子店のものだった。
「今週から売り出した新作のケーキ、どうしても食べてみたくて…買ってきちゃった!」
「わぁっ…?!」
一勇が俺の耳元で、歓声を上げる。
結構な音量であったはずのそれを、しかしながらその時の俺は、酷く遠くに聞いていた。
【君の隣はいつだって、雨上がりの空の下】
「一護君。ちょっと、こっち来てくれる?」
一勇を寝かしつけてリビングに戻ってきた俺を、織姫がちょいちょいと手招く。
その、壮絶なまでに美しい微笑みに、内心密かに戦慄した。
彼女がこんなふうに笑うときは、実は炭火のように静かに怒っていることが多いのだと、ここ数年の結婚生活で身に染みているからだ。
——俺、何かやらかしたっけ…。
とりあえず、織姫を職場に送り出してから今までの、自分の言動を脳内で振り返ってみる。
完璧とは言えないが、やるべき家事や育児に関するあれこれはひと通りこなした筈だし、そもそも織姫は、俺の不手際に対して助言などを与えてくれることはあれど、いきなり怒りや不満をぶつけるようなことはしない。
記憶を必死に探りつつ、織姫に促されるままソファーに腰掛ける。
目の前には淹れたての珈琲と、ひと口大のチョコレート菓子を盛った小皿が置かれていた。
立ち上る湯気からは、ほのかにブランデーの香り。
いつもなら心安らぐ筈の至れり尽くせりの一揃いに、むしろ緊張が増していく。
「……で、何をそんなに気に病んでるの?」
俺の隣に腰掛けながらの織姫の言葉に、カップを持つ手が一瞬止まった。
内心の動揺を悟られないよう努めて平静を保ちながら、何も——と応える。
「心配性だな、織姫は」
茶化すような口調と表情を向けてみたが、織姫は笑顔になるどころか、いまや微笑みすら消して俺の瞳をじっと見返した。
「……嘘つき」
低く呟かれた言葉に、背筋が凍る。
それでもなお、俺はしらを切り通すべく、一体全体何を言い出すのか…と明るく笑ってみせた。
しかしながら、織姫の表情が晴れることはなく……。
重いため息を一つ吐くと、指を折りつつ、彼女は俺を嘘つきと断じた根拠を挙げ始めた。
「声のトーンが、少し高め。無駄に笑顔も多いし、数年に一度耳にするかどうかの冗談が、今日だけでなんと2度!
これで何も感じなかったら、逆におかしいでしょ」
「………」
色々な意味で、言葉が出ない。
日頃はただ感心するばかりの彼女の観察眼や洞察力、聡明さが、こんな時は恨めしく思える。
「それに、ね…?」
おそらくは、喉に真綿でも詰められたような表情をしているであろう俺に、少し困ったように微笑んで。
織姫はつい…と手を伸ばすと、俺の眉間にそっと触れた。
「随分久しぶりに見たよ、こんなに深い眉間皺」
咄嗟に、身をそらして織姫から距離をとり、片手で眉間を覆ってしまう。
直後に、しまった!——と思ったが、全てはあとの祭りだ。
数瞬の間、呆気に取られた表情で俺を見返していた織姫は、やがて中途半端に宙に浮いたままだった手を膝へと戻すと、寂しさ混じりの苦笑を浮かべた。
つきり…と微かに、胸の奥が痛む。
「たとえ家族でも踏み込まれたくない領域はあると思うから、無理に聞き出すつもりはないよ?
そっとしておいてほしいなら、そうするから……だからお願い、何でも無いって言い張るのだけは、やめて欲しいな」
「織姫……」
今や萎れた花のように俯いて、膝の上に置いた手をぎゅっと握り込んでいる——その小さな拳を俺の手で包み込みながら、悪かったと告げる。
それでも、前髪の隙間から俺を伺い見た薄茶の瞳は、不安気に揺らいだままだった。
この瞳には、見覚えがある。
俺が彼女の意思など置き去りにして、「護り通す」と独り息巻いていた頃に、よく目にしたものと同じだ。
「安心しろ、織姫。しらを切り通したかったのは、お前を信頼してないからじゃない。
あんまりにもくだらなくて情けない理由なんで、できれば知られたくなかっただけだ」
俺の言葉にようやく顔を上げた織姫が、少し考え込むそぶりを見せた後で、わかった——と小さく頷く。
そして、僅かにぎこちなさを残しながらも、ふうわりと優しく笑み崩れると、「冷めないうちに、コーヒーどうぞ?」と言って、そのまま席を立とうとした。
慌てて手を伸ばし、手首を掴んで引き留める。
驚いて瞬きを繰り返す織姫に、もう少し隣に居てくれと請えば、今度はポン!と花の蕾が弾けるような笑顔で、ソファに座り直してくれた。
先程までは微妙に距離が空いていたのが、今度は体温を感じるくらいに近くに、寄り添うようにして。
「この菓子も、美味いな。ケーキと同じ店のものか?」
「そうだよ。最近ショコラティエの採用があったらしくて、専門コーナーも出来てた。
うちのお店も何か新しい企画を考えるべきか、それとも今のスタイルを大事により磨きをかける方向で行くか、店長たち悩んでるみたい」
「そっか…」
相槌を打ちつつ、コーヒーを啜る。
そして、なるべくさらり…と告白をした。
本当は明日、あのケーキを買いに行くつもりだったのだ——と。
「ほら…明日は愛妻の日だから、さ。内緒で買ってきて、びっくりさせようと思って」
大きく目を見開いて固まっていた織姫が、くしゃりと顔を歪める。
ああ、ほら……そんな顔をさせたくなかったし、あの白い箱を見てからずっと気持ちを立て直せない自分が情けなくて…だから、悟られないよう気をつけていたつもりだったのに。
隠しきれなかったのは、俺の弱さと至らなさのせい。
見抜いた彼女に、罪などあろうはずもない。
「謝ったりするなよ?」
口を開けかけた織姫が、ひくりと息を呑む。
強張った顔、その頬を包むように掌を当てると、ふっ…と細い肩から力が抜けた。
「俺は口に出してないし、お前にテレパス能力があるわけでもないんだから」
「でも…それなら一護君だって、そんなに落ち込んだりしないで?」
織姫の手が、俺の手に重なる。
きゅう…と。
微かに力を込められた指先のいじらしさに、まるで握られたのは心臓であったかのように、胸の奥が甘く痛んだ。
「愛妻の日なんて、特に何もしないお家が殆どだろうし。
一護君と家族になれて、当たり前にお互いの誕生日やクリスマスを一緒に祝える今があるのだもの。それだけで、充分すぎるほどなんだよ?」
「それは俺も、同じだ。
でも…それでも、何かしたかったんだよ。
竜貴やルキアあたりは、カッコつけと呆れるかもしれねぇけどさ」
苦笑をこぼした俺に対して、しかし織姫は再びひどく真面目な顔つきで、俺を真っ直ぐに見返した。
自虐に逃げようとした俺を、嗜めるかのように。
今度は俺が、喉の奥を引き攣らせる。
重ねられていた手をも外され、体の芯に絶対零度の冷たさを感じた——その、次の瞬間。
「呆れたりしないよ、少なくとも私は」
織姫の両の手が、俺の顔を挟むように当てられた。
掌から頬へと伝わる体温そのままに、ほわりと穏やかに織姫が微笑む。
「もしも逆の記念日があったとしたら、きっと私だって、何か特別なことをしたくなると思うもの」
「織姫……」
「大好きよ、一護くん。
隣に居てくれて、居させてくれて、ありがとう」
「……何言ってんだ。それこそ、こっちの台詞だ」
いつも、ありがとな——と。
真顔で呟いた直後に、急激に照れ臭さが込み上げて。
こつり…と額を彼女のそれにくっつけ、目を閉じた。
やはりどこか照れ臭そうに、そして何より幸せそうに織姫が微笑む気配が、空から降り注ぐ陽の光のように、俺たちを包んでいく。
かつて望んだ雨上がりの青空は、いつだって俺たちの頭上に広がっているんだ。
俺が、彼女と共に在る限り。
彼女が、俺の隣に在る限り。
きっと——。
「ねぇ、一護君……ケーキの代わりにおねだりしたいことがあるって言ったら、叶えてくれる?」
シンク前に二人で立ち、カップと皿を片付けながら、ちろり…と織姫が俺の顔を上目遣いに見上げた。
結婚してから(というより、恋人同士になる以前からずっと)、一勇に関するものならともかく、彼女自身について何か強請られたことなど皆無だったから、驚いて瞬きを繰り返すと同時に、力一杯頷いてしまう。
「実は明日、急なシフト変更で1日丸っとお休みになりまして」
「……え?」
「もし翻訳のお仕事が立て込んでなければ、デートしませんか?
一勇のお迎えがあるから、街中を散歩する程度のことだけど」
もちろん俺に、否やなどあるはずがない。
喜んで、エスコートさせていただきます——と、少し戯けた調子で返事をすれば、くすぐったそうに織姫が笑った。
「でね、一緒に一勇を迎えに行ったらその足で、もう一度あのお店に行きたいの。
今日は買うのを諦めたショコラティエさんの新作、さっきのチョコ菓子食べたあとから、どうにも気になって仕方がなくて……」
「了解。それも是非、この私めから献上つかまつりたく」
今度は声を立てて、織姫が笑う。
翻訳元の本に影響され過ぎだと指摘するのを、肩をすくめてやり過ごした。
「企画…通りそう?」
「どうだかな。でも、今回ダメだったとしても、ブラッシュアップを重ねて、この先何度でも提案し続けるつもりだよ」
「うん……頑張ってね!」
俺を振り仰いだ織姫が、再びちょいちょい…と俺を手招く。
今度は、どこか悪戯っぽい光を瞳に踊らせながら。
首を傾げつつも、彼女の望み通りに軽く身を屈める。
すると——。
「応援、してるよ!」
ひょいと背伸びをした織姫が、俺の頬に優しく唇を押し当てた。
終