旧サイトでの拍手御礼短文



【空色の風、春の風】



普段は主に、女性用の服飾雑貨の売り場を担当している私だけれど。
バレンタインデーを目前に控えたその日は、店内の特設会場に赴き、商品棚の整理や会計を手伝っていた。

昼を少し過ぎた頃だったろうか。
二十代半ばくらいの女性が、売り場を訪れた。
腰に届く長さの胡桃色の髪を肩の少し下あたりで緩く束ね、仄かな笑みを口元に刻んだ、可愛らしいひと。
髪と同様に色素の薄い瞳には、活き活きとした光が踊っている。

その人は一通り既製品の棚を流し見ると、手作り用のコーナーへと向かった。
そして、製菓用のチョコは勿論のこと、小麦粉やアラザン、砕いたナッツ、その他もろもろの材料を、躊躇いや迷いをほとんど見せずに、次々とカゴの中へと入れていく。
きっと、日頃から作り慣れているのだろう——と。
手先の不器用さと大雑把な性格が災いしてか、菓子作りなど材料を無駄にするだけで終わる私は、つい羨望の眼差しを送ってしまう。

やがて女性は踵を返し、レジカウンターへと歩き出した。
見るともなしに後ろ姿を目で追っていると、コートのポケットから何かがポトリ…。
けれど持ち主様は気付かぬようで、どんどんその場を離れていってしまう。

私は小走りに駆け寄ると、床から彼女の落とし物を取り上げた。
そして——大きく息を呑んで、目を見張る。

「これって……」

脳裏に、半月前の記憶が鮮やかに蘇った。 










「すみません。そちらは売り物でしょうか」
「はい?」

陳列棚を整理している最中、背後からの声に振り返れば、長身の青年が幾分緊張した面持ちで立っていた。
目にも鮮やかな橙色の頭髪に一瞬ギョッとするも、そこは長年の接客経験から、即座に笑顔へと切り替える。
お客様が指し示す先を確認すれば、そこには淡い空色の手袋を嵌めたハンドマネキンがあった。

「はい、そうです。お手にとって、ご覧になりますか?」
「あ…はい! お願いします」
「かしこまりました」

軽く頭を下げて寄越す様に好ましさを覚え、営業用ではない笑みが無意識に溢れる。
私はできるだけ丁寧にマネキンから手袋を外すと、両手で捧げ持つようにして青年に差し出した。

「こちらは工程の殆どを手作業で行っておりまして、市場にはそれほど多く出回っておりませんの」

故に安価とは言い難く、そろそろ販売シーズンも終わりのこの時期まで、売れ残ってしまったのだ。
それこそ、品質はお値段以上の素晴らしいものなのに……。

青年はもう一度軽く頭を下げると、私の手からそっと手袋を取り上げた。
そして、様々な角度から眺めたり、手触りを確かめたり…と、じっくりと吟味を始める。

「贈り物ですか?」

手の大きさから考えても、青年自身のものを探しているのでないのは明白だったが、一応尋ねてみることにした。
贈り物なら相手の年齢なども確認して、場合によっては他色の取り寄せなども提案すべきと考えたからだ。
青年は一瞬顔を上げて私の顔を見たものの、すぐにまた手袋へと視線を移し、ボソリと呟く。

「その——妻、に」

言い終わる頃には、橙色の髪から覗く耳が少し赤みを帯びていた。

あらあら。
まぁまぁ。

見かけに寄らず…と言ったら失礼だけど。
まるで高校生のような反応に、少しの可笑しさと、より一層の好ましさを抱いてしまう。

「差し支えなければ、おいくつくらいでいらっしゃるのかお伺いしても?」
「えと…同い年です」

それならば、他のものを薦める必要はあるまい。
地の空色は、もちろんだけど。
履き口付近に控えめに施された花模様の刺繍が、地味すぎず派手すぎず適度な甘さを演出していて、妙齢の女性にはぴったりだ。
色味に少々寒さを感じるかもしれないけれど、暦の上での春も間近。今時分から身に付けるには、寧ろちょうど良いだろう。

「着け心地は、保証いたしますよ。
ただ、素材的にあまり伸縮しないので……サイズは大丈夫そうですか?」

唯一と言って良い不安材料を口にすると、青年は顔を上げ、ばちりとひとつ瞬きをした。
そして、さっきまで手袋の嵌っていたハンドマネキンと、手にした手袋へと順に視線を巡らせ、最後に開いた自分の手をじっと見る。

「問題ありません」

顔を上げ、そう答えた青年の顔に浮かんだ微笑を目にした瞬間、私は密かに息を呑んだ。
なんて甘く、優しげに微笑うのだろう——と。

「会計と包装をお願いできますか?」
「は、はい! どうぞこちらへ……」

慌てて踵を返し、青年をカウンターへと誘導する。
今、彼に対して背を向けていられるのは、私にとって大変に幸運だった。
赤らんでしまった顔を、晒さなくて済むからだ。

『……何だか、凄いもの見ちゃったな』

どうにか平常心を取り戻し、会計と包装作業を進めながら、心の中でひとりごつ。
自分の手を基準にして、妻のサイズを確認するだなんて——一体全体、世の夫達のどれだけが出来るものかしら。

『少なくとも、うちのダンナには無理そうよねぇ……』

先ほどの笑顔の柔らかさといい、余程奥様を大切に想っていらっしゃるのだろう。
もちろん私だって、夫に蔑ろにされているとは思っていないのだけれど——。

「お待たせいたしました」

ラッピングした手袋を納めたペーパーバッグを手渡し、購入のお礼を述べながら頭を下げる。

「こちらこそ、お世話になりました」

最初に声をかけられた時と比べたら、頭上から降ってきたそれは格段にリラックスした、穏やかな響きを持っていた。
去っていく靴音を聞きながら、ゆっくりと顔を上げる。

「どうぞ、気に入っていただけますように……」

少しの羨望と、心からの祈りを込めて。
エレベータの扉に遮られてしまうまで、私は彼の後ろ姿を見送ったのだった——。










 
「お客様、こちらを落とされませんでしたか?」

会計待ちの列、最後尾に並んだ女性にそっと声をかける。
振り返ったその人は、私の差し出した手袋を目にして、慌てて自分のコートのポケットを探った。
取り出せたのは、片側だけ。

「そうみたいです。全然気がつきませんでした、ありがとうございます」

形の良い眉をハの字型にして、申し訳なさそうに頭を下げながら、手袋を受け取って。
良かった……と、大きなため息を吐きつつ呟く様子に、大切に使ってくれているのであろうことが推測され、心の奥がほわりと暖かくなる。
この女性があの青年の奥様にしろ、そうでないにしろ、纏う春風のような雰囲気は、手袋の空色にぴったりだった。
似合う人の手元にあってこそ、物も幸せ——というのが、私の持論なのである。

「本当に、ありがとうございます」
「いえいえ」

重ねてお礼を言われ、笑顔で首を横にした——その時。

「あ、いたいた! おかあさーん!!」

売り場に響いた幼児特有の声に、春風さんの視線が私の背後へと向けられ、柔らかく細まった。
数瞬後、私の足元を小さな影がすり抜けたと思うと、春風さんの足に3、4歳くらいの男の子が抱き付く。
その頭髪を目にして、男の子の父親があのときの青年に間違いないことを改めて確信した。
明るい明るい……まるで陽光を紡いだような、橙色。
緩くウェーブを描く髪質は、母親譲りのようだ。

「姫姉、こっちの買い物は終わったよー」

立ち去りかけたところで、今度は黒髪の女性とすれ違った。
ちらりと横目に見た顔立ち、特に目元があの青年によく似ていたから、春風さんにとっては義妹にあたるのだろうか。

「ありがとう、夏梨ちゃん。頼んだもの、全部手に入った?」
「バッチリだよ! 一兄用の明太子も、かずい用のたらこも、バターもクリームも全部買えた」
「良かった…! これで無事にチョコを作れるわ」

会話の聞こえるあたりで棚の整理をしていた私は、驚きのあまり手にしていた商品を取り落としそうになった。

チョコレートに、たらこと明太子——?!

あまりに意外すぎる材料の取り合わせに、聞き間違いをしたのかとまずは自分の耳を疑った。
しかしながら、そっと背後を窺えば、男の子がおそらくは自作であろう「好き好き大好きたらこちゃん」ソングを歌いながら、くるくると楽しげに踊っている。

たらこや明太子を材料にしたチョコ菓子が、どのようなものなのか——私には、さっぱり想像がつかないけれど。
はしゃぐ子供に、楽しみだと笑う黒髪の女性の様子を重ね合わせて考えれば、きっと家族誰もが舌鼓を打つ、美味しいものが出来上がるのに違いない。

もし仮に、ドッキリ系の悪戯菓子だったとしても。
それを仕掛けたところで笑って済ませられる、揺るぎない信頼と絆とが、あの若い夫婦の間には築かれているということなのだろうし。

『何にしても、羨ましいこと…!』

微苦笑を、浮かべながら。
私も今年は久々に、夫にチョコをプレゼントしてみようかしら……などと、頭の片隅で思案を始めたのだった。












「そう言えば……」

春風さんが髪を掻き上げたときに目に入ったヘアピンの飾りと、手袋に刺繍された花の形がよく似ていたな——と。
私がようやっと思い至ったのは、売り場を去る三人の後ろ姿を見送った後のことだった。






終
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