旧サイトでの拍手御礼短文



【1日前の、午後3時】


一度は握った万年筆をテーブルに置き、肩が下がるほどに大きく息を吐き出した。
無意識に、呼吸を止めていたらしい。

「……やっぱり、緊張するな」

たかが、紙一枚。
されど、俺と彼女とを家族にしてくれるそれを、訂正の跡だらけの無惨な姿にするのは嫌で、どうにも余計な力が入ってしまう。

別紙で、試し書きもした。
何なら、今、目の前にある本用紙にも、鉛筆で薄く下書きしてある。
それでも、手汗はかくわ呼吸は浅くなるわ……と、我ながらあまりの情けなさに、ため息を吐きつつ頭髪をガシガシ掻き毟った。

「先に、お茶にしませんか」

柔らかく降ったソプラノの声に、顔を上げれば。
両手にコーヒーカップを持って、苦笑気味に微笑む婚約者殿。

「——有り難く」

バツ悪く視線を逸らせながら、テーブルの端へと用紙を退ける。
空いたスペースにカップを置こうとした井上の、その動きが「ぁ…」という至極小さな呟きと共に、不自然に止まった。
訝しみながら顔を上げ、視線の注ぐ先を辿っていけば、そこには俺の万年筆。
それは去年の夏、誕生日と内定祝いを兼ねて——と、井上から贈られたものだ。

「使ってくれてるんだ」

嬉しそうに笑み崩れ、声を弾ませる様子に、自然と俺の口の端も上がっていく。
ゆるゆると溶けていく、緊張感と自己嫌悪。
少し座る位置を横にずれて、空けたスペースを手で示せば、意図を察した井上が、いそいそとこちらに寄ってきた。

「お邪魔します」

ぺこりと頭を下げて、俺のすぐ隣に腰を下ろす。
そっと細い肩に手を回して引き寄せれば、素直に俺に凭れて、片口にことりと頭が乗った。
微かに鼻腔をくすぐる香りが、自分と同じものであることに、心の奥がじんわりと温かくなる。

ああ、幸せだな——と。
素直に感じられることが、嬉しくて。
無防備に預けられた体重が、殊の外愛しくて。
ほんの少しだけ、肩を抱く手の力を強くした。
同時に少し首をめぐらせ、極上の絹糸のような胡桃色の髪に、唇を押し当てる。
僅かに身じろいだ井上が、声を立てずに笑ったのは、気配でわかった。

「重宝してるよ。すっげぇ書き味良いし」
「ほんと?」
「ああ…でなきゃ、そもそもこんな大事な場面で使わねぇだろ」
「ふふ…」

照れくさそうに、どこか誇らしそうに笑う声が、小さく響く。
実際、受け取った翌日からずっと、その万年筆が俺のペンケースに入っていなかった日はない。
何かと電子化された今日、それでも紙の書類が必要なことや直筆のサインが必要な場面は、ままあって。
そんな時には常に、この万年筆を使ってきた。
使い慣れれば、小さなスペースに難無く文字を書き込めるなど、利点も多かったし。

「……ボールペンじゃないほうが良いのかな」

ふと井上が漏らした不安気な呟きに、軽く眉根を寄せた。
少し体を離して井上の顔を覗き込めば、万年筆で書いた隣にボールペンの字では、なんとなく釣り合いが取れないように思うのだけど——と、躊躇いがちな声で言う。

「そんなこと、ねぇだろ」

宥めるように、肩に置いたままだった手の指先で軽くトントンとやってみた。
しかし井上は、尚も心配そうな視線を婚姻届に向け続けている。

「ボールペンて、あれだろ? 井上がずっと前から使ってる4色の」
「うん」
「なら尚更、それを使えばいい。昊さんの形見なんだし」
「うん…黒崎君が、そう言ってくれるなら。それにしても——」

不思議そうに小首を傾げながら、井上は俺の瞳を覗き込んだ。

「あれがお兄ちゃんの形見だってこと、私、話したことあったっけ?」
「——っ、?!」

頭から冷水を浴びせられたような…とは、今この瞬間の、俺の心境を指すだろう。
表面上は必死に平静を取り繕ってはいたが、背中には冷たい汗がどっと吹き出し、心臓はバクバクと痛いくらいに強く拍動している。


——落ち着け、俺。


敢えて遠い目をして、虚空を見つめて。
記憶を辿って無意識に唸っている体を装いながら、深く息を吐き出し、必死に心拍を整えた。

「確か……そう、高一の中間前あたりかな。竜貴達とそんな話をしてるのを、なんとなしに見てたんだよ。
お前のノート、ボールペンで色分けしてあって、綺麗にまとめてあるからわかり易い——って、席の周りに女子が数人集まってて、さ」
「ああ…そう言えば、そんなこともあったねぇ」

ふむ、と。
得心がいったとばかりに頷く姿に、内心大いに安堵する。
実際,嘘は言っていない。
本当の理由が、別にあるというだけで……。




あの、日。
ボールペンが〝形見〟になってしまった瞬間に、俺は立ち会っていたのだ。

だけど……。

井上自身は、昊さんを運び込んだのが俺の家だということを、覚えていない。
治療の際に親父が裂いて脱がせた背広、その内ポケットから奇跡的に無傷で出てきたボールペンを手渡したのが、俺だったということも。

それを知ったとき、全く落胆しなかったと言えば嘘になる。
けれど、酷く安堵したのも事実だった。
思いがけず井上と親しくなって、俺の家に彼女が出入りするようになってからは、尚のこと。

「黒崎君のお家の雰囲気、私、好きだな」

そう言ってくれるときの笑顔を、失いたくなくて。
俺も親父も、何かの拍子で井上が思い出してしまわない限りは、未来永劫黙っていようと誓ったのだ。



『自覚している以上に、浮かれてるみてぇだな——』



井上と、家族になる。
ひとつ屋根の下で、おはようとおやすみを、ただいまとおかえりを互いに言い合える暮らしが、明日から待っている。 
だからこそ、余計に。
この件に関しては、今後いっそう、気を引き締めてあたらなければ——。

心密かに、決意を新たにする俺の隣。
くすり…と小さく、井上が笑った。
その響きに、なんとなく引っかかるものを感じて、そろりと視線を向けてみる。
すると、上目遣いに俺を見た井上の瞳に、ちらりと一瞬、悪戯を思いついた子供のような光が宿ったのが見えた。
咄嗟に視線を逸らせ、さりげなさを装いつつコーヒーカップを手に取る。
そして、縁に唇を当てた——まさに、そのときだった。

「ねぇ、黒崎君……もしかしてその頃から、私のこと好きでいてくれたの?」
「——っ、?!」

コーヒーを吹き出さなかった俺を、誰でもいいから褒めて欲しい。
代わりに気管に流れ込ませてしまい、ゲホゴホと激しく咽こむ俺の背を、慌てた様子で井上が撫でさする。
しかしながら、苦しい息の合間にちら…と表情を窺い見れば、心配してくれているのは間違いないけれど、瞳の奥にはどこか愉快そうな光が踊ってもいた。
してやったり——とでも、言いたげに。






……我ながら、大変に大人気ない——とは、思うのだが。
やられっぱなしは、はっきり言って性に合わない。






咳が収まり、俺の背から離れた井上の手を、チャンスとばかりに掴み取って。
驚きに大きく見開いた目、その薄茶の瞳を、真正面から覗き込んだ。

静かに深く、呼吸を一つ。
そして——。

「井上の、言う通りだよ」
「…………へ?」
「好きだったんだ。あの頃から、ずっと——」
「くろさき、く……」
「ずっとずっと、お前を好きだった」
「——っ、!!」

呆然と俺を見返す井上の顔が、腕が、首筋が。
露出している肌という肌が全て、じわじわと鮮やかな朱色に染まっていく。
やがて、我に返ったように忙しなく瞬きを繰り返した井上は、くしゃりと顔を歪めながら、悲鳴に近い声で叫んだ。

「……は、ははは反則! 黒崎君、反則だよぅっ!」
「何処が? 寧ろこれほどストレートな物言いもないと思うけど」
「だ、だからだよっ! 
きっと、うまいこと躱してくるだろうなぁ…って予想してたのに、まさかこんな…こんな……」

最早、茹蛸のようになって。
頭から蒸気でも噴き出しかねない様子の井上が、まるでイヤイヤ期の子供のように激しく首を横に振る。
それが収まると、今度は俺に掴まれていない方の手で顔を覆って俯いたきり、動かなくなってしまった。
そのまま、数分が経って。

「あの…ほんとに、ほんと? 揶揄ってるわけじゃなくて?」
「ああ」

恐る恐る、前髪の隙間から俺を見上げて確認してくる井上。
今更湧き上がった照れ臭さを必死に押さえつけながら、真摯に頷いてみせれば、一瞬、泣き出しそうに顔を歪めたあと、井上はぎこちなくも幸せそうに、やわらかな微笑みを浮かべた。

「えへ……なんか、嬉しいな。ずっと長いこと、私が一方的に好きだったのだとばかり思っていたから」
「……悪ぃ」

謝罪を口にしながら、そっと手を引き、腕の中へと華奢な肢体を囲い込む。
井上は俺の鎖骨あたりに額を押し付けながら「謝ることなんて何も無いのに」と、くすくすと小さな笑い声を立てた。

何も無い——だ、なんて。
そんなこと、あるかよ。

告白まで、6年もかかって。
そこから更に、明日という日を迎えるまで一年以上も費やしたことを、こんなにもあっさり赦されて。
そんな自分が,ひどく情けなくて。
でも、とてつもなく幸せで……。

鼻の奥が、つん——と痛む。
涙が溢れそうになるのを、唇を噛んで必死に堪えた。





「なんだか、帰りたくねぇな」
「うん……でも、今日はダメ。『必ず〝お兄ちゃん〟を帰すね』って、遊子ちゃんと夏梨ちゃんに約束したんだもの」
「お前も、竜貴たちと独身最後のパジャマパーティだっけ?」
「うん!」
「大丈夫…このあと、ちゃんと竜貴の家まで送るよ」
「はい、よろしくお願いします!」

ぺこりと下がった頭が上がるタイミングを見計らって、秀でた額に軽く唇を押し当てる。
くすぐったそうに肩を竦めて笑いながら、井上はゆっくりと立ち上がった。

「ボールペン、取ってくるね」
「おう」

隣の部屋へと向かう、胡桃色の髪が揺れる背を見送って。
先ほどテーブルの隅に退けた婚姻届と万年筆とを、再び手元へと引き寄せる。

「さて、と——」

万年筆を、握り直して。
そのとき、軸に彫られた「KUROSAKI」の文字がふと目にとまり、思わず苦笑をこぼした。

「流石に明日からは、名前で呼べるようにならねぇとな……」













終
2023.07.15
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